神は真に義である
2012年9月、教会の仕事の責任者をしていて、指導者のヤン・ズオに会った。彼女は兄弟姉妹に、戸別訪問して福音を説かせていた。原則に大きく反する行為だ。だから同労者とこう言った。「福音を説く際は、神の家の原則に従わなければならない。あなたの行為は原則に反しているし、不信者や悪人が教会に来たら神の家の働きを乱す。とにかく、そんな福音の説き方は危険だ。もし警察を呼ばれたら、兄弟姉妹が犠牲になる」。彼女は気にとめず、僕らを融通が利かないと非難した。しかもその後の集会で、僕と同労者が神の家の福音の働きを邪魔しているとたびたび叱った。本当に威圧的だった。その年の12月、地域の信者が、ヤン・ズオの指示で福音を説きに行って、百人以上が逮捕された。神の家の働きには大きな痛手だったが、ヤンは少しも反省しなかった。自分の傲慢や無謀を分析したり反省したりしないんだ。2013年の11月、僕は教会の動画制作をしてたけど、ヤンは相変わらず傲慢に好き勝手していたよ。意見が異なれば、誰でも叱って非難した。兄弟姉妹が提出した動画を何度も却下したので、神の家から助言や援助をタイムリーに得られなかった。ヤンの本分での欠点を指摘し、助言もしたが、馬耳東風だ。むしろ僕が傲慢だと言われたよ。2014年の5月、ヤンは僕を解任して家に帰した。家に戻ってから、反キリストや偽指導者を判別する原則についてたまたま読んだ。それをヤンの一貫した行動と照らしてみて、彼女がいかに傲慢で悪質か、ついに気づいた。本分ではいつも勝手で横暴だった。真理も、兄弟姉妹からの提案も受け入れず、みんなを押さえつけて非難した。これは真理を嫌う反キリストの行為じゃないか? わかってみるとショックだった。二年も一緒に働いて、ヤンの行動とやり方はすべて堕落の顕れだと思っていた。神の御言葉で、彼女の本性、本質、辿っている道を判断しなかった。一緒にいても、ただ我慢して耐え、おかげで神の家の働きに遅れや影響が出た。僕は思った。「ヤン・ズオが教会の指導者のままだと、神の家の働きをさらに乱す」。神の家に報告しようと決めた。神に祈りを捧げ、報告の手紙を書いて、最後にひとつ書き加えた。当時、問題のある動画があったので、神の家に調査してほしいと。
でも手紙を送ろうとして、ふと考えなおした。「以前ヤンに提案をして、本分の問題を指摘したら、裏目に出て家に帰されてしまった。おかげで本分すら尽くせない。手紙でヤンの問題を報告して、本人に読まれでもしたら、指導者や働き手を攻撃していると責められ、一体どうなるだろう? やめた方がいい。もう関係ないのだから、ことを荒立てないほうがいい」。でもまた思った。「今日、神のお導きで、ヤンが反キリストの道を歩んでいるとわかった。報告しなかったら神の家の働きに影響して、兄弟姉妹が迷惑する、サタンを助ける悪人になってしまうぞ?」僕は葛藤した。神の家や兄弟姉妹の利益と、自分の前途の板挟みで、途方に暮れたんだ。数日間、何度も神の前に出て祈り、正しい道にお導きくださいと願った。その後、神の御言葉の一節を読んだ。「あなたは完全にされることへの熱意と勇気を持たなければならず、自分は無能だと常に思っていてはならない。真理は人を選り好みするだろうか。真理は故意に人間に反対できるだろうか。あなたが真理を追求するなら、真理はあなたを圧倒できるだろうか。あなたが正義のために固く立つなら、正義はあなたを打ち倒すだろうか。いのちを追求することが本当にあなたの願望であれば、いのちはあなたから逃れることができるだろうか。あなたに真理がないのであれば、それは真理があなたを無視するからではなく、あなたが真理と距離を置くからである。あなたが正義のために揺るぎなく立つことができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたが正義は事実に一致しないと思っているからである。あなたが長年いのちを追求しても、いのちを得られずにいるのであれば、それはいのちがあなたに対して良心を持っていないからではなく、あなたがいのちに対して良心を持っておらず、いのちを追い払ったからである。あなたが光の中で生きつつも、光を得られないでいるのなら、それは光があなたを照らせないからではなく、あなたが光の存在に注意を払わなかったので、光が静かにあなたのもとを去ったからである。あなたが追求しないのであれば、あなたは価値の無い屑であり、自分の人生においてまったく勇気がなく、闇の勢力に対抗する霊がないとしか言えない。あなたは弱過ぎるのだ。あなたは、自分を包囲するサタンの勢力から逃れられず、このような安全で平穏な生活を送り、無知のまま死ぬことだけを望んでいる。あなたが成し遂げるべきなのは、征服されることの追求であり、それがあなたに課された本分である。征服されたことに満足しているなら、あなたは光の存在を追い払う。あなたは真理のために苦難を受け、真理に自分を捧げ、真理のために恥辱を忍ばねばならず、またより多くの真理を得るために、さらに多くの苦難を受けなければならない。これこそがあなたの為すべきことである」(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。この一節を読んで、信仰と力をもらった。「この闇の力に負けるものか」と思ったよ。以前はヤンを判断できなかったが、今は神のおかげでその本性、本質、辿っている道がわかった。注意を促すべきだったのに、自分の前途のために、「己に関わりのないことは見過ごせ」というサタンの哲学を受け入れた。良心も理知もなく身勝手だった。長年神を信じ神の御言葉に潤され糧を施されたのに、この大事な時に、良心より利益を優先し、神の家に対し見て見ぬふりをした。恩知らずで、卑劣で、見下げ果てた人間だ! そう気づいて思った。「良心と正義感で行動し、真理を実践して神の家の働きを守らなくては」。何度も神の前に出て祈り、ついに決心した。「この手紙の結果がどうなろうと、利益のためにサタンの手下になるものか。ヤンの問題を見てきたのだから、その悪行を暴いて、神の家の働きを守るべきだ」。神の家に報告を送ったよ。その後は安心して、心が平穏になった。その後は毎日、神の家がヤンの件を調査して、反キリストの正体がばれて兄弟姉妹に拒まれるのを、心待ちにした。残念ながら、手紙のせいで僕の状況は悪化した。
2014年8月、教会から本分の再開を許された。でも10月半ば、リーという指導者が僕の下宿先に来て、険しい顔でこう尋ねた。「報告の手紙を書いたの?」はいと答えたら、不機嫌そうに彼女は言った。「ヤン・ズオは教会の仕事の責任者で、よく会うわ。偽指導者や反キリストを思わせる行動は、見たことも聞いたこともない。あなたは指導者と働き手を無闇に攻撃した」。耳を疑ったよ。四か月も待ったあげく、こんな結果になるなんて。でも僕は慌てなかった。手紙は事実と原則に沿って書いたんだ。誤った非難はしていない。リー指導者は言った。「手紙に動画を調べるよう書いてあったので、神の家は二ヶ月もかけて調べたの。神の家の働きを大いに乱し、神の性質に背いたわ」上の指導者も同じことを言ったそうだ。ショックで動揺したよ。まさか僕の手紙が、神の家の働きを大きく乱して、神の性質に背いたなんて。その通りなら、本当に大変な悪行だ。急に体中の力が抜けて、涙が止まらなかった。リー指導者は言った。「荷物をまとめて家に帰り、行ないを反省しなさい。それが済んだら、また本分を尽くしていい」。帰宅するバスの中で、頭は混乱し心は重く沈んだ。長年神を信じてきたのに、神の家の働きをひどく乱す悪人になってしまった。ひたすら自分を責めて後悔した。今後が不安で仕方なくて、神を呼び求め、心をお守りくださいと願った。何であろうと神の采配に従う。神に不平は言わない。祈ったら、徐々に落ち着いた。家に戻って三日間、リーの言葉を考え、いくつか疑問がわいた。神の家はキリストと真理が支配し、行ないのすべてに原則がある。人の扱いもそうだ。一時の行動で人を裁いたりしない。では、リーたちはどんな原則に沿って僕を扱ったのか? リー指導者の言葉は真実なのか? 答えはわからなかったが、真実がどうあれ、すべては神の思し召しだから、その采配に従うだけだ。まもなく教会の指導者が僕をあるグループの集会に行かせた。それから一か月あまりして、家で母との集会を命じられ、二人とも本分が尽くせなくなった。村八分にされていたんだ。ずっと神を信じていたが、今や家に隔離され、もはや本分すら尽くせない。本当に孤独だった。その頃は、ほぼ毎晩、みんなと集会をして本分を尽くす夢を見た。目が覚めるともう眠れなかった。毎晩がとても長く耐えがたかった。当時は母も一緒に苦しんでいた。特に夜、神に祈る母の泣き声を聞いた時は、自責の念で落ち込んだ。母を巻き添えにした気がした。あの頃は神を信仰して以来、最も辛く苦しい時期だった。絶えず神に祈るほか、心の痛みを癒すすべはなかった。後で教会の指導者に復帰して本分を尽くしていいか尋ねたら、こう言われた。「まだ本分を尽くしたいの? ちゃんと反省しないと、しまいには除名するわよ!」そう聞いて、絶望に打ちひしがれた。本分を尽くすのは幻想にすぎないとわかった。毎週、指導者が家に来たが、僕が否定的な考えを広めたり徒党を組んだりしていないか、確認するためだった。彼らが来るたび、心底落ち込んだ。時々聞きたかったよ。「なぜこんな目に合わせるんです? 原則に沿ってヤンを報告したのに、調査もせず、自宅に閉じ込めるなんて。真理を実践してはいけないのですか?」本当に苦しくて、時々考えた。「なぜ真理を実践したらこんなことに? 神は義だと信じていたが、この状況には神の義が見えない」とても混乱したよ。悪態をついたり神を責めたりしないのが精いっぱいだった。たびたび神の前に出て祈り、御旨を理解し、神を誤解しないようお導きくださいと願った。
そんな最も辛く苦しい時に、神の御言葉を読んだ。「神の義なる性質を、人はどのように知り、把握すべきなのでしょうか。義なる人が神の祝福を受け、悪しき人が神に呪われる――それが神の義の実例です。これは正しいですか。神は善に報いて悪を罰し、各人の行ないに応じて報いを与えると言われていますが、その通りです。違いますか。しかし最近では、神を崇める人たちが殺されたり呪われたりしており、または神に祝福されなかったり、認められなかったりしています。どれほど神を崇めようと、神はそうした人たちを無視しているのです。神は悪人を祝福することも罰することもしませんが、このような人は多数いて、子孫も数多く、彼らにとっては何もかもが順調に進んでいます。万事において成功しているのです。これは神の義ですか。結果として、このように言う人がいます。『神は義でない。わたしたちは神を崇めているが、神はわたしたちを祝福したことがない。それなのに、神に抵抗して崇めない悪人たちのほうが、何事においてもわたしたちより順調で、高い地位についている。神は義でないのだ!』これはあなたがたに何を示していますか。わたしは二つの例を挙げました。神の義を論じているのはどちらですか。中には『どちらも神の義の表われだ!』と言う人がいます。なぜそう言うのでしょうか。神の性質に関する人の認識は間違っていて、自分の考えや視点の中、取引的な観点の中、あるいは善悪の観点、正誤の観点、または論理的観点の中に存在しています。神への認識にこれらの観点を持ち込むことで、彼らは神と相容れないようになり、必ずや神に逆らい、神について文句を言うことになります」(『終わりの日のキリスト講話集』)。
「神はすべきことを行ない、神の性質は義です。義とは決して公平であるとか理知的であるといったことではなく、平等主義でもありません。または、どれほどの働きを成し遂げたかに応じてそれにふさわしいものを割り当てることでも、あなたの行ないに応じて報いることでも、あなたの捧げた努力に応じてしかるべきものを与えることでもありません。それは義ではありません。ヨブが神の証しをしたあと、神がヨブを淘汰したとしましょう。神はそれでも義だったはずです。それがなぜ義と呼ばれるのでしょうか。人間の観点から言えば、何かが人の観念に合致していれば、その人はいともたやすく、神は義だと言います。しかし、物事が自分の観念に合致していないと見れば――それが自分には理解できないものであれば――神は義だと言うのが難しくなるでしょう。……神の本質は義です。神が行なうことを理解するのは簡単なことではありませんが、神が行なうことはすべて義であり、単に人々が理解していないだけなのです。神がペテロをサタンに与えたとき、ペテロはどのように反応しましたか。『あなたが行なうことを人は推し量れませんが、あなたが行なうすべてのことにはあなたの善意が含まれています。そのすべてに義があるのです。あなたの賢い御業をどうして称えずにいられましょうか』。今日、サタンが人間をどのように堕落させたか、そして神が人間をどのように救うかを人に示すために、神はサタンを滅ぼしているのではないということを、あなたは知る必要があります。最終的に、人々はサタンによってあまりに深く堕落させられたために、サタンによる人の堕落というとてつもない罪を目の当たりにし、また神がサタンを滅ぼすとき、神の義を見て、そこに神の性質と知恵が含まれていることを理解します。神が行なうことはどれも義なのです。あなたがこれを推し量ることはできないかもしれませんが、自分勝手に判断してはいけません。神の行なうことが自分にとって理知的でないと思われたり、それについて何らかの観念を抱いたりするなら、神は義でないとあなたは言うことになり、理知をまったく失ってしまいます。あなたも知っての通り、ペテロにも理解できないことがありましたが、そこには神の知恵があり、それらの物事には神の善意があるのだと、ペテロは確信していました。人間はすべてを理解できるわけではありません。把握できないことが数多くあります。したがって、神の性質を知るというのは簡単なことではないのです」(『終わりの日のキリスト講話集』)。神の御言葉が闇を光で照らし、突然理解できた。神の義がわからなかったのは、自分の観念と想像で理解しようとしていたからだ。反キリストと偽指導者が神の家の働きを乱すのを見て、正直に報告するのは義なる善行なのだから、神の恩寵と保護を受けられると思った。問題がすぐに対応されてこそ神の義だと思った。だが問題を報告した後も、彼らは地位にとどまり好き勝手をして、僕が抑え込まれて謹慎を受けた。神の義を疑い始めたよ。神の御言葉を読んで、ついに神の本質は義だとわかった。僕らの観念に関係なく、神の御業は常に義を表している。ヨブの試練もそうだ。神にとって完璧だった彼を、神はサタンに渡して、財産も子供も奪った。これが神の義だ。ヨブは神を畏れ、悪を避け、信仰に頼って強い断固とした証しをした。その後神はヨブを祝福し、長寿とさらなる財産とより良き子供を与えた。これも神の義だ。仮に、ヨブが証しをした後も、神が祝福せず彼を滅ぼしたとしても、それも神の義だ。神の本質と性質は根本的に義だから、すべての御業が義なんだ。また、ペテロは数百の試練と精錬を経ても神の義を礼賛した。理解できない出来事にも、神の義と知恵が隠れていると信じた。だが僕は、神の義を完全に理解せず、表面的な結果が自分の観念に合うかどうかで評価していた。神の御業が自分の観念と合って利益になれば、神の義を信じた。でも利益にならなかった時は、神の義を疑い始め、神の采配は不公平だと思った。公然と非難はしないが、心ではいつも神に反論していた。理知がまったくない。神が不義ではなく、僕が神を理解していなかった。あまりに勝手でずるかった。真理の探求も、神が設けた状況から学ぶこともせず、自分の将来と利益に執着していた。みじめな気分で苦しむのは当然じゃないか? ようやく神の旨を理解した。神がこの状況で誤った見方を正してくださったので、もう自分の観念で神の義を理解するのはやめた。ついに状況が理解できた気がした。僕は神の前に出て祈り、神の采配に従い、この状況を理解したいと願った。
そしてこの御言葉を読んだ。「大半の人は神の働きを認識しておらず、ゆえに彼らの信仰はあまりに不足しています。神の働きは簡単なことではありません。まずは、神の働きにはすべて計画があり、それはどれも神の望む時になされるということを知らなければなりません。神がどのような働きをいつ行なうか、人間が推測できることは永遠にありません。神は特定の働きを特定の時に行ない、決して遅らせません。神の働きを滅ぼせる者は誰一人いないのです。自身の計画に沿って、自身の意図に沿って働きを行なうというのが、神が働きを行なう原則であって、これを変えられる人はいません。あなたはその中に、神の性質を見るはずです」(『終わりの日のキリスト講話集』の「神の全能性を知ることでのみ、真の信仰を持つことができる」)。「神が行なうことはどれも必要であり、そこには並外れた意義があります。なぜなら、神が人において行なうすべてのことは、神の経営と人類の救いに関連するからです。神の目から見て、ヨブは完全で正しい人でしたが、当然、神がヨブにおいて行なった働きも同じです。言い換えれば、神が何を行なうか、その手段がどのようなものか、代価がどれほどのものか、および神の目標がどのようなものかにかかわらず、神の業の目的は変わらないのです。神の目的は自身の言葉を人の中に働かせること、そして人間に対する自身の要求と旨を人の中に働かせることです。つまり、肯定的だと信じるすべてのものを、自身の歩みに応じて人間に対して働かせ、人間が神の心を理解できるようにし、神の本質を把握できるようにするとともに、神の支配と采配に従えるようにすることで、神を畏れて悪を避けるようにするためです。これらが、神が行なう一切のことにおける、神の目的の一つの側面です。もう一つの側面は、サタンが引き立て役で神の働きに役立つものなので、人間がしばしばサタンに与えられるということです。これは、サタンによる試みと攻撃の中、人々がサタンの邪悪さ、醜さ、そして卑劣さを見るために神が用いる手段であり、それによって人々はサタンを憎み、否定的なものを知って理解するようになります。この過程により、人々はサタンの支配、断罪、妨害、攻撃から徐々に解放され、やがては神の言葉のおかげで、そして神に関する認識と神への従順、神に対する信仰と畏れのおかげで、サタンの攻撃と断罪に勝利します。そうして初めて、人々はサタンの支配から完全に解放されるのです」(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」〔『言葉』第2巻〕)。神の御言葉でわかった。神は原則に沿って時宜にかなった行動をし、そのすべてに神の義と知恵がある。以前、神の義は即刻の報いを意味し、悪人はすぐ懲罰を受けると思っていた。それなら神はなぜ、あらゆる類の人を暴いて神の選民に示さないのか? 実は、神が反キリストと偽指導者の出現を許したのは、それによって僕らがいのちにおいて成長し、真理を求めて判断力を養えるからだ。原則の真理でこれらの人たちを判断できれば、真理を理解してそこに入れる。そうなれば、反キリストや偽指導者も役目を果たしたということだ。当時は反キリストや偽指導者が教会で実権を握っていて、人々を支配し騙せるように見えたが、それでもキリストと真理が教会を支配してるから、いずれは暴かれ追放される。
それに、反キリストの本性は陰湿で悪意に満ち、人間性などまったくない。名声と地位だけが大事で、神の選民はどうでもいい。自分の利益が侵されれば誰でも目の上のこぶと見なす。攻撃して報復し、死ぬまで痛めつける。悪魔サタンの行ないと同じだ。反キリストの追放まで、神の選民は、教会での生活や本分中に少しも安らげない。彼らが周りを騙して害を与える方法が、神のおかげでわかった。その本性と本質がわかり、異端の考えを見抜き、支配とごまかしから逃れた。神はまた、僕が彼らの間違いから学び、同じ道を辿らないようにさせた。神がこの状況で僕を救い完全にしようとしたのがわかった。神の御言葉にもある。「神は数多くの逆境や否定的な物事を役立たせ、ありとあらゆるサタンの表われ、つまりサタンの行動、非難、妨害、そして欺瞞を用いることで、あなたにサタンの忌まわしい顔をはっきり見せ、それによってサタンを識別するあなたの能力を完全にする。そうすることで、あなたはサタンを憎んで捨てることができるのである」(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)。ご自身の綿密な努力を僕に理解させ、暗闇から抜け出させてくれた神に感謝する。
2015年1月、ヤン・ズオを報告する別の手紙を書いた。また毎日気をもんで神の家による調査を待った。だが二ヶ月が過ぎても、まだ待ちぼうけだった。教会の指導者が何度も問いただしに来た。「神や神の家に不満でもあるの?」ってね。これを聞いて心配になった。「この手紙のせいで、今度はどうなるんだろう。すでに謹慎の身だから、あとは教会からの除名だろう」。そこで突然気づいた。また神の義を疑い始めていたんだ。急いで神の前へ出て、こう祈った。「神よ、あなたの義を認め、キリストと真理による神の家の支配を信じると言ったものの、時間と事実に試された時、自分の信仰が足りなく、まだ真にあなたの義を理解していないとわかりました。今は利益を捨てあなたの采配に従いたい。御旨を理解できるようお導きください」。それから神の御言葉の一節を読んだ。「神を愛することを目指すすべての者にとって、獲得することのできない真理はなく、揺るぎなく立つことができない正義はない。あなたは、どのようにして自分の人生を生きるべきだろうか。どのように神を愛し、その愛を用いて神の願いを満足させるべきだろうか。あなたの人生において、これより重要なことはない。あなたは何にも増して、そうした大志と根気を持っていなければならず、気骨のない者、意志の弱い者のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験しなければならず、自分自身をそのようにいいかげんに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆく。その後、あなたに神を愛する機会がもう一度あるだろうか。人は、死後に神を愛することができるだろうか。あなたは、ペテロと同様の熱意と良心を持っていなければならない。あなたの人生は有意義であるべきで、自分を弄んではならない」(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉でわかった。神が完全にするのは、真理と義への切望と、神を愛する決心だ。どんな困難や挫折や攻撃に遭おうと退かず、神と真理のために生きなくては。サタンの力に屈してはならない。それでこそ真理を得て完全にしていただける。僕にはその決心と意志の力がなかった。神に祈り、神の家の働きを守って真理を実践すると決心したのに、悪の力が現れたとたん、怖くて縮み上がってしまった。まだ神の義を真に理解せず、何かあると自分のことしか考えなかった。神の御言葉を思い出したよ。「悪人は必ず罰を受ける」。神の御言葉は成就し、永遠となる。すべての悪人は、神の義の刑罰を受けて苦しむ。かかった時間や過程に関わらず、最後は常に神の御言葉通りになる。僕は思った。「観念と不実なサタン的性質を捨て、神の御言葉を信じ、神が義であると信じよう。サタンの力に屈するものか!」これに気づくと次第に落ち着いて、不安がなくなった。
2015年4月になり、リー指導者はじめ指導者と働き手から手紙が届いた。ヤン・ズオに騙されて、僕に大変な迷惑をかけたと。みんな謝っていて、リー指導者はこう認めた。「あなたが教会の働きを乱していると責めたのは、上の指導者ではなく、ヤン・ズオだった」。それでわかった。ヤンは両方の手紙を読んでいたんだ。保身のために僕を除名する証拠を用意していたが、その後指導者と働き手がヤンの問題を見つけ、皆で神の家に手紙を送ったんだ。手紙を全て読みながら、ほっとしてため息をつき、神の前に跪いて泣いた。その瞬間、神に大きな恩義を感じた。長年神を信じてきたのに、常に想像のレンズ越しに神の義を見ていたんだ。問題があると、それを想像に合わせようとし、合わなければ神を誤解して責めた。だが神は弱く堕落した僕を、最も辛く苦しい時に導いてくださった。この経験でわかった。神は、偽指導者を見分けて報告する霊の争いで、僕の誤った観念を正し、神の義を正しく理解させた。他にも気づいたのは、神の御業をすべて、観念のレンズ越しに見ていたことだ。神を冒瀆して狭め、神の性質に背いていた。この経験で、神の本質は義だとわかった。神のすべての言動は、人間の観念と合う合わないに関わらず、神の義なる性質の表れだ。全能神は言われます。「神の義なる性質は、神自身の真の本質です。それは人間が書き綴ったり形作ったりしたものではありません。神の義なる性質は、神の義なる性質であり、被造物とは何の関係もつながりもありません。神自身は、神自身です。神が被造物の一部となることは決してなく、神が被造物の一員となったとしても、神が本来持っている性質と本質は不変です。したがって、神を知ることは、物を知ることではないのです。神を知ることは何かを分解することでも、人を理解することでもありません。神を知るために、物や人を知る概念や方法を用いるならば、神に関する認識を得ることは不可能です。神を知ることは、経験や想像に依存することではなく、したがって神に自分の経験や想像を押し付けてはなりません。どれほど豊かな経験や想像があったとしても、それには限界があります。さらに、想像は事実に対応するものではなく、ましてや真理に対応するものではなく、神の真の性質と本質とは相容れないものです。神の本質を理解するために想像に依存したなら、成功することはありません。唯一の方法は、神から来るものすべてを受け容れ、徐々に経験し、理解することです。あなたが協力し、真理への飢えや渇きがあれば、ある日、あなたが真に神を理解し、知ることができるように、神があなたを啓きます」(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」〔『言葉』第2巻〕)。
2015年5月、反キリストのヤン・ズオは、悪事をなしたかどで教会から除名され、仲間や加担者も処分を受けた。除名の知らせを読んだ時、心の底から神は義だと感じた。神の家は真理とキリストが支配する。神に感謝!