わたしはもう責任を恐れない

中国 程诺

2020年11月のある日、ある指導者がわたしたちのチームの集会に出席したのですが、その集会が終わったあと、編集の仕事を担当するチームリーダーを選んでほしいと言いました。驚いたことに、一番多くの票を集めたのはわたしでした。本当にショックでした。わたしがチームリーダーに選ばれたの? いのちの入りはほとんどないし、真理の現実にも欠けている。チームを率いる本分なんて、本当に引き受けられるかしら? 働きの中で問題が持ち上がったら、当然チームリーダーが責任を負うんじゃない? 問題を解決できず、結果として働きに害が及んだらどうしよう? わたしは、以前にチームリーダーを務めたときの経験について考えました。真理を実践することなく、ただ我が身を守るばかり。教会の働きを邪魔したり妨げたりしている人を見ても、気分を害するのではないかと恐れ、すぐにやめさせることはしませんでした。結果として教会の働きに害が及び、わたしは解任されました。今回、自分の本分をきちんと尽くさず、それどころか神の家の働きや、兄弟姉妹のいのちの入りを妨げてしまったら、悪事を犯すも同然でしょう。解任されることだけが不安なのではありません――淘汰される可能性すらあり得ます。そのようなことは考えるのも嫌で、自分はそれを引き受けられないと思いました。そこで指導者に対し、自分には十分ないのちの入りがなく、他の人たちの問題も解決できないので、その本分にふさわしくないと言って、ありとあらゆる言い訳を並べました。すると指導者から、その本分を受け入れてそれに従うべきだと言われましたが、どうしても心が落ち着きません。心が激しく動揺していました。まさにそのとき、神の御言葉のこの一節が突然頭に浮かんだのです。「……あなたは服従し、積極的に協力すべきです。それがあなたの本分、あなたの責任なのです。前途がどういったものであれ、服従する心を持たねばなりません。怯え、恐怖、不安、猜疑――これらはどれも、本分に取り組む際にとるべき態度ではありません(『終わりの日のキリスト講話集』)。これをじっくり考えるうちに心が落ち着くのを感じ、自分に突きつけられたこの本分は、神の支配と采配に由来しているのだと気づきました。そのときは神の旨こそ理解していませんでしたが、自分を神の導きに委ね、服従しなければならないことがわかったのです。

その後、本分を尽くす中でありとあらゆる問題や困難に見舞われ、チームの働きにも特に進展は見られませんでした。再び不安が生じ、わたしたちの働きぶりが改善しなければ、チームリーダーとして責任は逃れられないと思いました。そのことを考えると、心が動揺して仕方ありません。ある日の夜、わたしと一番近いところで一緒に働いている姉妹と、自分たちの状態について会話していたところ、以前のチームリーダーの話を聞きながら、心底不安になりました。真理の追求も努力もせず、優れた結果を出そうと努力することもなかったので、解任されてしまったのです。仕事の技能も向上せず、実際の働きが何もできなかったのです。わたしは心底不安を感じました。自分もチームリーダーとして奉仕し、そのチームは多くの困難や問題に見舞われているのだから、それらに取り組んで何らかの実際の働きができなければ、同じように解任されてしまうのではないか? そこまで責任が重くない、普通のチームメンバーに戻りたい。わたしは次のように考えていました。選ばれたからにはこの本分をしばらく尽くすけれど、自分の能力が足りないとわかれば、教会の働きを妨げ、それに害を及ぼすような悪事を犯して解任されるのを避けるために、できるだけすぐに潔く引き下がるべきだ。悪事を犯して解任されれば、最後の終着点を失ってしまうことになりかねない。わたしはそうした状態に陥り、自分の本分をきちんと尽くせないことや、問題に対して責任を負わなければならないことを恐れていました。働きの中で困難に遭遇すると、それに対処できないのではないかと心底不安になりました――苦痛と苦悩の中、絶えずびくびくしていたのです。

そのとき、反キリストの性質の本質を暴き出す、以前に読んだ神の御言葉のこの一節が、わたし自身の状態に対する洞察をもたらしてくれました。「あなたの本分に簡単な調整が行なわれたときは、言われたとおりにし、自分にできることを行ない、また何をするのであっても、心と力を残らず捧げてできるだけしっかりそれを行ないなさい。神がなしたことに間違いはありませんが、反キリストの心の中にはこれほど簡単な真理さえもありません。彼らの心の中にあるのは何ですか。疑念、疑惑、反抗、そして誘惑です。……これほど単純なことであっても、反キリストはそれについて大騒ぎし、何度もじっくり考え、一睡もできなくなってしまいます。彼らがそのように考えるのはなぜですか。単純な物事をそこまで複雑に考えるのはなぜですか。理由は簡単で、一つしかありません。神の家において自分たちに関係する一つひとつの出来事や采配について、彼らはそうした物事を、自分の終着点と、祝福を得る願望に固く結びつけます。そうしたわけで、彼らはこのように考えます。『注意しなければ。一歩でも間違うとすべての歩みが間違ってしまい、祝福を得る願望に別れを告げることになる――そうなればわたしは終わりだ。不注意ではいられない! 神の家、兄弟姉妹、上層部、そして神さえも、みんな信頼できない。わたしは彼らの誰も信用しない。一番信頼でき、信用できるのは自分自身だ。自分のために計画を立てなければ、他の誰が面倒を見てくれるのか。他の誰が自分の前途と、祝福を得られるかどうかを考えてくれるのか。だから、懸命に頑張って自分のために計画を立て、入念に準備と計算をする必要がある。抜かりがあってはいけないし、軽率であっては絶対にいけない――さもないと、たやすく人に惑わされ、利用されてしまう』(『反キリストを暴く』)。神によるこれらの御言葉を読んで初めて、本分が変わるのを経験するのはまったく普通のことで、自分は正しい態度でそれに取り組むべきだということがわかりました。自分の働きを改善させ、責任を果たすために全力を尽くさなければならず、最善の努力をしても合格できなければ、解任されるのを喜んで受け入れなければならないのです。神の家で必要とされること、そして特定の本分を担う各人の能力に応じて、本分は変更されます。人の結末や終着点とは無関係なのです。しかし、わたしには神への真の信仰がなく、神の家における各人の本分がまったく適切に変更されていることを、正しく理解できずにいました。わたしの視点はねじ曲がっていて、自分の本分は終着点や結末、あるいは最後に祝福されるかどうかと固く結びついて切り離すことができない、と思っていたのです。どんなことでも疑念を抱き、神に対して警戒し、本分をしっかり尽くせなければ暴かれ淘汰され、いかなる地位も将来も自分には残されないと恐れていました。とにかくそれを考えすぎて、悪に囚われていたのです! わたしは自分の利益を守るため、悪知恵を働かせて神をもてあそび、本分で優れた仕事をできなければ身を引こうと企んでいました。本分をしっかり尽くすには実際どうすればよいかなど、これっぽっちも考えることがなく、それどころか自分の将来の見込みに執着していました。神がわたしを引き上げてチームリーダーを務めさせたのは、働きといのちの入りにおいていくらかでも進化を遂げられるよう、自分を鍛えるチャンスを与えてくださっていたのです。それはわたしに対する神の愛でした。けれどもわたしは神の愛を思い違いしていて、自分は実際に暴かれ淘汰されようとしている、と考えていました。これは神への冒涜ではないでしょうか。わたしはまさに、反キリストの悪しき性質を表わしていたのではないでしょうか。

そこで、この期間中に自分が表わしたことを振り返りました。神のことをこれっぽっちも理解せず、憶測や警戒心で一杯だった。信じられないほど動揺して、自分がこのような状態にいるのはなぜか、問題の根源はいったいどこにあるのかと、不思議に思わずにはいられなかった。その後、反キリストの性質を暴く別の神の御言葉を読んだのですが、わたしはそれに心から共感しました。「反キリストは神の言葉の中に真理があることを信じず、神の性質、身分、または実質を信じていません。そのすべてを人間の思考と観念で捉え、周りで起きるすべてのことを分析および検証し、また神が人を扱う方法、神が人の中で行なう様々な働きを捉えるときも、人間の観点、思考、そして陰険さでもって行ないます。それ以上に、このような人は人間の思考と手段を用い、サタンの論理と考えを駆使して神の性質、身分、そして実質を捉えます。明らかに、反キリストは神の性質、身分、実質を受け入れることも認めることもないばかりか、観念で一杯であり、また神の性質、身分、実質に関する空虚で漠然とした考えで一杯です。彼らの中に満ちあふれているのは人間の理解であって、真の認識はひとかけらもありません。そうであれば、反キリストは結局、神の性質、身分、実質をどう定義するのでしょうか。神が義であること、人にとって神が愛であることを立証できるでしょうか。絶対にできません。反キリストによる神の義と愛の定義には疑問符がつき、疑わしさがつきまといます。神の性質は神の身分を決定しますが、彼らは神の性質を馬鹿にして鼻で笑い、それに対する疑い、否定、中傷で一杯です。そうであれば、神の身分についてはどうでしょうか。神の性質は神の身分を表わします。彼らのような見方を基にすると、神の身分に関する彼らの見方は自ずと明らかになります――直接的な否定です。これが反キリストの実質なのです(『反キリストを暴く』)。反キリストは、神の御言葉が真理であるとは信じず、まして神の義なる性質など認めないということを、神の御言葉は示しています。物事に対する彼らの意見が神の御言葉を土台にしていることは絶対になく、何事も人間の認識やサタンの論理を基に取り組みます。わたしもそうした反キリストの性質を抱えており、教会が各人の地位を調整したり、誰かを解任または淘汰したりすることに関する神の義なる性質を一切理解していませんでした。それどころか、「高く登るほど落ち方はひどい」、「出る杭は打たれる」、あるいは「高き所は寒さに耐えず」といったサタンの論理のレンズを通じてそれらの問題を見ていたのです。地位が高く責任が重ければ、自分はさらに早く暴かれ、やがて淘汰されることになると、わたしは考えていました。表向きはチームリーダーの地位を受け入れていても、ひたすら神に対して警戒し、つまづいてしまえば暴かれ淘汰され、結局は最後の終着点を失ってしまうと恐れていたのです。わたしは神の御言葉を読む信者なのに、物事の見方はまったく変わらず、問題に直面した際に真理を求めることも、神の御言葉に照らして物事を見ることも一切ありませんでした。それどころか、サタンの観念を基に神の働きを評価して、神はほんの些細な失敗でもわたしを暴いて淘汰する一種の独裁者だと想像していました。そんなわたしは、神の義なる性質を拒んでいたのではないでしょうか? 神を冒涜していたのではないでしょうか? 真実を言えば、教会が誰かを解任または淘汰するとき、それは原則に基づいています。個人の素質、人間性の善悪、真理を追い求めているかどうか、どのような道を歩んでいるかを総合的に考慮して決定するのです。たまたま犯した過ちや一時的な現われ、あるいはその人が高い地位に就いているかどうかを基に、解任と淘汰が決まるわけではありません。どのような過ちにもかかわらず、神のために心から自分を費やし、真理を追い求めている指導者に対して、神の家は別のチャンスを与えます。そうした指導者は刈り込みと取り扱い、注意と警告を受けますが、自己認識できる人、悔い改めて変わる人は誰であっても、引き続き活用され、育成されます。中には、実際の働きをせず、快楽に貪欲で、本分において怠慢で、指導者が果たすべき義務を果たすことなく指導者の地位にしがみつく、偽の指導者もいます。このような人は例外なく、その地位から解任されますが、ありとあらゆる悪事を行なう邪悪な人でない限り、軽々しく淘汰され、教会から追放されることはありません。神の家はそうした人に別のふさわしい本分を用意し、悔い改めて自己反省する機会を与えます。一切の真理を受け入れようとせず、自分の地位と権力のためだけに働き、権力を握って教会をひたすら支配したがる反キリストもいます――徹底的に暴かれ、淘汰され、教会から永久に追放されるのは、このような者たちだけなのです。神の家がまったく公平かつ公正な形で人々を扱っていること、そして神の家では真理が実権を握っていることを、わたしは目の当たりにしました。善人が不当に断罪されることは一切なく、悪人がたやすく野放しにされることも一切ありません。暴かれ淘汰されるかどうかは、その人の地位とは無関係だとやっとわかりました。本当に大事なのは、真理を受け入れ追い求められるかどうか。真理を追い求める人は、重要な本分を任されたり、さらに重い責任を担ったりすると、自分を育成するさらなる機会を得て、ますます神によって完全にされることができます。しかし真理を追い求めない人、自分の本分の原則を求めず、裁き、刑罰、刈り込み、取り扱いを受け入れようとしない人、堕落した性質がほんの少しも変わらない人は、その地位が何であれ、最終的に淘汰されます。それをさらに考えたところ、自分が以前にチームリーダーの地位から下ろされたとき、それは自分の本性が利己的かつ卑劣で、真理をまったく実践していなかったからだと気づきました。わたしは教会の働きを妨害していたのです。解任されたのは神の義なる性質がわたしに下されたのであり、悔い改めて変わる機会を神が授けられたのでした。しかしわたしは不信者のように振る舞い、神による救いを一切信じず、神を誤解していました。そのときようやく、「高く登るほど落ち方はひどい」というサタンの哲学が、どれほどひどくわたしを傷つけたかに気づきました。神への誤解と警戒心に食い尽くされただけでなく、ますます狡猾で邪悪になったのです。そうしたサタンの論理や法則にしたがって生き続けるわけにはいきません。神の御言葉を基に物事を見て、それに取り組む必要があります。チームリーダーというこの本分を受け取ったのは、神によって高められているのであり、神がわたしに学習の機会をくださったのです。わたしはこの機会を大切にしなければなりません。過去、わたしは自分の本分における躓きの石でしたが、今回こそは本分を尽くす中で代価を支払い、過去の失敗の埋め合わせをして、真理の原則をさらに求め、そこに自分のすべてを注いできちんと本分を尽くすべきなのです。

そうしたことを理解すると、実に解放された気分にもなりました。自分がいかに神を誤解し、警戒していたかを今振り返ると、神のことを一切わかっていなかったわたしは何と理知がなく、愚かで盲目だったかと思います。そこで、心の中で静かに神に祈るのです。「ああ、神よ。あなたの導きに感謝します。そしてわたし自身の醜さを目の当たりにさせ、これらサタンの観念が、あなたとわたしのあいだにどれほど大きな障壁を築いたかを示してくださり感謝します。わたしには感情も自覚もなく、物事を誤解して警戒し、あなたがどう思われているかなどまったく無関心でした。わたしはあまりに反抗的です。心からあなたに悔い改めます」。

ある日、私はある記事を読んだのですが、筆者はその中で自分の個人的な状態を完全に表わしており、また神の御言葉をいくつか引用したのですが、それらはわたしに実践の道を授けてくれました。「人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、つまり、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。そうすると、その人の本分は尽くされる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと、裁きを受ける過程を通して少しずつ減少する。それらは人間の本分を妨げることも、それに影響を与えることもない。自分の奉仕に欠点があるかもしれないと恐れて、奉仕をやめたり、妥協して退いたりする者たちは、すべての人の中で最も臆病である。……人の本分と、その人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかのあいだには、何の相互関係もない。本分とは人間が全うすべきことであり、それはその人の天命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、その人は本分を尽くしていることになる。祝福されるとは、裁きを経験した後、その人が完全にされ、神の祝福を享受するということである。厄災に見舞われるとは、刑罰と裁きの後もその人の性質が変わらないこと、完全にされることを経験せずに罰せられることである。しかし、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、被造物は自身の本分を尽くし、自分が行なうべきことを行ない、できることをしなければならない。これが、人がすべきこと、つまり神を追い求める人がすべき最低限のことである。あなたは祝福されるためだけに本分を尽くそうとしてはならない。また、厄災に見舞われることへの恐れから、行動することを拒んではならない。一つだけ言っておこう。自分の本分を尽くすことこそ、その人のなすべきことであり、本分を尽くすことができないとすれば、それはその人の反抗心である(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」〔『言葉』第1巻〕)。これを考えるうちに、神の御旨が理解できるようになりました。神は人類にそれほど多くのことを期待されてはいません。わたしたちが真理を追い求め、自分が把握できること、自分が成し遂げられることを全力で実行に移し、のらりくらりせず、不正直だったり人を騙したりするのをやめ、自分のすべてを捧げて、神がお求めになることをするよう、神は望まれているのです。その過程で何らかの失敗や躓きを経験したとしても、真理を受け入れ、刈り込みと取り扱いを受け入れられる限り、これらの問題は解決できます。進歩と変化を目の当たりにできるのです。あの委託を受け取って以来、わたしには受け入れて従うという態度がまったくありませんでした。ほんの小さな躓きでも、ほんの小さな過ちでも、自分は淘汰され、結末と最後の終着点を失ってしまうのではと恐れていました。自分は真理を何ら理解しておらず、神の働きを本当に認識していないのだとわかったのです。特に、長年にわたって神を信じ、本分を尽くしてきたものの、それは神に満足いただくためでなく、自分の将来と終着点のために努力していただけということがわかりました。わたしはあまりに利己的で狡猾でした! 本分とは神からの委託であり、すべての被造物が果たさなければならない責任です。最後に祝福されるか、あるいは呪われるかは関係ありません――私たちはみな、自分の本分を尽くす必要があるのです。悪事を犯すのが怖いからといって、本分を尽くすのを拒むことはできません。わたしはいのちへの入りがごくわずかで、真理の現実もありませんが、神はわたしを高め、チームリーダーとして仕えさせました。それは、わたしが今その地位にふさわしいからではなく、わたしがその本分を尽くす過程で、真理を追い求め、裁き、刑罰、刈り込み、そして取り扱いを受け入れ、自分の個人的な欠点を基に引き続き向上できるようになることを、神が望まれているからなのです。そして願わくば、最後にこの本分を十分尽くせるようになることを。ひとたび神の御旨がわかると、本分を尽くす中で生じた問題や困難に向き合うにあたり、いっそう強く自信を持てるようになり、その本分を尽くすことで神に満足いただこうという決意が生まれました。

その後、わたしは次の御言葉を読みました。「正直な人とはどんな人でしょうか。最も重要なことは、あらゆる面で真理を実践しているということです。自分で自分のことを正直だと言ってはいても、神の言葉を常に心の片隅にしまい込み、自分勝手な行動をしているなら、それは正直な人と言えるでしょうか。『わたしの素質は劣っているが、心は正直だ』とあなたは言います。しかし本分を任されたとき、自分が苦しむことを恐れたり、それを立派に尽くせなければ責任を負わなければならないと不安になったりして、言い訳をしてそれを避け、他者にそれをするよう勧めます。これは正直な人の表れですか。明らかに違います。では、正直な人はどのように振る舞うべきですか。受け入れて従い、本分を尽くすことにひたすら最善を尽くし、神の旨を満たすように努めるべきです。これはいくつかの方法で表されます。その一つは、正直さをもって自分の本分を受け入れるべきであり、他のことを考えたり、本分に対して熱心でなかったりしてはならないということです。自分の利益のために企んではなりません。これが正直さの表れです。もう一つは、自分の力と心を残らずそこに込めるということです。あなたは『これがわたしにできるすべてのことだ。わたしはすべてを用い、完全に神に捧げる』と言いなさい。それが正直さの表れではありませんか。自分がもつすべて、自分にできるすべてを神に捧げなさい。それが正直さの表れです。自分がもつすべてのものを捧げる気がないなら、あるいはそれを隠してしまい込み、いい加減に行動するなら、うまくやっていないことの責任を負わされるのを恐れて自分の本分から逃れ、誰か他の人にやってもらうなら、それは正直と言えるでしょうか。いいえ、そうは言えません。それゆえ正直な人になるというのは、単に願望を持つという問題ではないのです。物事が起きた時にそれを実践しないなら、あなたは正直な人ではありません。問題に出くわしたら真理を実践し、現実的な言動を示さなければなりません。それが正直な人になる唯一の方法であり、そしてそれだけが正直な心の表現なのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「正直になることでのみ、人は真に幸福になれる」)。神は誠実な人を好まれ、誠実な人は祝福のことで頭がいっぱいになることはありません。そのような人たちは責任を負うことを恐れず、神に満足いただくべく、全力で本分を尽くそうとします。自分にできることが何であれ、それに自分のすべてを捧げるのです。このことを考えると本当に恥ずかしくなりました。わたしはいつも、どれほど神に満足していただきたいかを話していましたが、委託を受け入れるべき時、自分の心を真に捧げるべき時が来ると、率直さを失い、そこから抜け出したいと思いました。そのとき、自分は耳に心地よいことを言うばかりで、実際には神を騙そうとしており、心の中はまったく不誠実だと気づいたのです。そのことを認識すると、そのようにし続けることはできないのだとわかりました。自分に数多くの問題や欠点があったとしても、神のお求めに沿って誠実な人になることを実践する必要があるのです。神に心を捧げ、両足をしっかり地に着けて、能力の限りを尽くして自分の本分を尽くさなければなりません。そして結果がどうなろうとも、進んで神の指揮と采配に従おうと思いました。その後はかなり心が落ち着きました。本分で困難に遭遇したときは神に祈り、それを探求して解決し、また混乱したときは、兄弟姉妹と一緒に物事を考察し、真理の原則を求めたのです。時間が経つにつれ、多くの問題や困難を解決できるようになりました。

この経験から、神の裁きと刑罰はまさしく、人類に対する神の愛と救いであることがわかりました。責任を担う恐怖もなくなり、もはや警戒することもなく、誤解しがちになることもありません。堕落した性質は今なお数多くありますが、神による裁き、刑罰、刈り込み、そして取り扱いを進んで受け入れ、清めと変化を追い求めるつもりです。神に感謝いたします!

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