「好印象」の裏にあるもの

2022年4月12日

韓国 魏尘

2019年12月、わたしは教会で福音執事を務めていましたが、しばらくして、兄弟姉妹の本分の尽くし方に問題があると指導者たちが気づいて、時には厳しい口調でそれを直接指摘しました。指摘自体は正しいことだけど、そのやり方では面子が傷つき、腹を立てるだろうと思いました。そんな人にはなりたくないし、そうした話はもっとそつなくして、人に好印象を残すべきだと。そうすれば支持してもらえるし、仕事も順調に進められ、次の選挙で指導者になれるはず。そんな思いを胸に、兄弟姉妹との接し方に特別気を遣いました。そつなく振る舞い、人の気持ちを傷つけず、万事すんなり行くように、って。

あるとき、チェン姉妹が簡単な仕事ばかり選び、難しい仕事を避けていることに気づきました。福音を伝える相手が観念で一杯だったり、態度が悪かったりすると、尻込みしてしまうんです。その後も関係する真理を備えてそうした観念を解決することはありませんでした。正しい態度で本分を尽くしておらず、このままなら本分を尽くすのは無理。それを伝えて交わろうとしましたが、メッセージを送る段になって思い浮かんだんです。彼女は困難に遭うと引き下がるけど、普段は本分で成果を挙げている。もし彼女の問題に触れれば、あなたは厳しすぎると反感を持たれるかもしれない。今後働きの采配をしても彼女が従わなかったら? 本分をきちんと尽くさなければ、能力不足だと指導者たちに言われない? それで彼女の気分を害さないよう、その件には一言も触れず、励ましのメッセージだけを送りました。「福音対象者の中には観念で一杯の人もいますが、真の信者です。愛と忍耐を持ち、もっと神に祈って頼る必要があります。困難が多ければ多いほど、信仰は完全になります。絶対に退いてはなりません」。彼女は賛成してくれましたが、自分の問題を認識していなくて、困難があると退くばかり。何も変わってませんでした。でもわたしは問題に気づかず、立派なことをしたと思ってた。似たことが起きるたび、このように処理したんです。人を取り扱うことも、堕落や欠点を暴くこともないので、兄弟姉妹はわたしと働くのを喜び、自分の状態をわたしに打ち明けてきた。それでますます自分のやり方に自信を持ち、自分は兄弟姉妹によく思われている、みんなに支持されていると思ったんです。

その後、シア姉妹がとても傲慢で独善的なことに気づきました。頑なで、みんなと協調せず、福音の働きに影響が及んだんです。シア姉妹は本当に傲慢で、みんなの意見を受け入れず、本分に影響が及んでる。事態を好転させるべく、この件を話し合おうと思いました。でも考えたんです。問題を指摘しても受け入れずに機嫌を損ねたらどうしようって。ある日の集会で、彼女がわたしを高く評価したのを聞いて、もし彼女を怒らせたら、わたしへの好印象が台無しだと不安になりました。わたしへの印象が変われば、指導者になるチャンスも影響を受ける。そう考えた結果、シア姉妹の堕落と欠点には触れないことにして、代わりにこう言いました。「本分で成果を挙げられなかったり、困難に見舞われたりしてることはわかってます。でも自己反省して理由を考えなければなりません。それに、兄弟姉妹と協調する必要もあります」。わたしは大事な問題を避け、アドバイスと励ましの言葉をかけるだけでした。数日後、指導者の一人がわたしたちの働きを調べに来たので、シア姉妹が傲慢かつ独善的で、みんなと協調しないことを話したんです。その後、シア姉妹がわたしを見て言いました。「数日前、指導者から働きについて訊かれましたね。そのときたまたま通りかかって、わたしが傲慢で独善的だとか、みんなと協調してないというのを聞いたんです。わたしに深刻な問題があるのを知っていたのに、話してくれなかった。あなたは人がいいだけ。腹を立てたり人を叱ったりせず、いつも慰めてた。本当にいい人だと思ってました。でも実は、あなたは『やり手』で、戦術を駆使してるんです。はっきり言って偽善者なのよ」。こんなにはっきり言われて、一瞬顔が真っ赤になりました。「偽善者」「戦術」という言葉が頭から離れません。すっかり動揺したわたしは神の御前に出て、自分の堕落した性質を理解できるようお導きくださいと祈りました。

翌日のデボーションで、この節の御言葉を読みました。「多くの場合、不実さは外面から見ることができます。言葉がずる賢くて抜け目ないと言われているなら、それは不実さです。では、邪悪さの主な特徴は何ですか。邪悪さとは、人の言うことがとりわけ耳に心地よく、そのどれもが正しくて申し分なく、どう見ても優れているように思われながら、その人の行ないがひときわ邪悪で、極めてこそこそしており、容易に見抜けないことを言います。そのような人は自分の密かな目標を達成すべく、まっとうな言葉や聞き心地のよい言葉をしばしば用い、人の感情と合致する特定の道理、論法、技法を使って、相手の目をくらませます。彼らはある方向に向かう振りをしながら、実際には別の方向へ進みます。これが邪悪さです。人は通常、これを不実さだと思い込んでいます。邪悪さに関する知識が少なく、分析することも多くないからです。実際のところ、邪悪さは不実さ以上に識別するのが困難です。そちらのほうが隠されていて、手段や技法もより『巧み』だからです。誰かが不実な性質を抱えている場合、それらが不実である、あるいは言動に不実な性質が表われていると他の人が気づくまで、普通は二、三日かかります。しかし、この人は邪悪だと誰かが言われているなら、それを一日ないし二日で識別するのは不可能です。と言うのも、短期間では明確なことや具体的なことが何も起こらず、彼らの言葉に耳を傾けるだけでは、その正体を見抜くことが難しいからです。彼らは正しいことを言い、正しいことを行ない、次から次へと道理をまくし立てます。このような人と二、三日一緒にいると、この人は善人で、物事を諦めて自分を費やすことができる人、霊的な事柄を理解している人、神を愛する心を持っている人、両親と理知をもって振る舞う人だと思います。しかし、その人に仕事を任せるようになると、実は誠実でなく、不実な人よりも陰険で、邪悪な何かだとすぐに気づきます。彼らは人と会話する際、しばしば正しい言葉、真理に合致する言葉、人の感情や人間性に合致する言葉、聞き心地のよい言葉、そして人を引きつける言葉を選び、一面では自分を確立させ、別の面では他者を騙し、人のあいだでの地位と威信を獲得しますが、それはどれも無知な人、真理の理解が浅い人、霊的な事柄を理解していない人、神への信仰において基礎がない人を容易に惑わします。これが、邪悪な性質の持ち主が行なうことです(『反キリストを暴く』)。自分の振る舞いを神の御言葉に照らし合わせることで気づきました。わたしの行動は邪悪な性質によるものだった。兄弟姉妹が本分で問題に見舞われ、働きに影響が出ていても、わたしはみんなを暴かず、問題を持ち出すこともしなかった。みんなからいい人だと言われ、よく思われるために。チェン姉妹の本分に対する態度が正しくなく、簡単なことばかりして難しいことを避けてるのはわかってた。シア姉妹が傲慢かつ独善的で、教会の福音の働きに悪影響を及ぼしてるのもわかってた。それをきちんと指摘して、交わりによって助けるべきだったのに、わたしは自分がどう思われるか、働きを支えてくれないのではと心配し、成果が乏しければ指導者に悪く思われると不安になった。それで当たり障りのないことを言って彼女たちを励ました。そうすれば二人との関係と自分のイメージを守れるし、わたしの働きを応援してくれるはず――一石二鳥だと。わたしは狡猾で悪賢く、みんなの目をくらましていました。みんなを騙し、本当に気遣いと理解がある人だと思い込ませていたんです。みんなわたしを仰ぎ見て、崇拝していました。そのとき初めて、自分の性質が狡猾で邪悪なことに気づきました。シア姉妹の一言と、御言葉による暴露がなければ、自分の邪悪な性質を理解せず、どれほど深刻かもわかっていなかったでしょう。自分の行ないが邪悪で卑劣だったこと、それが神に憎まれ、みんなに嫌われることがわかりました。

その後、この御言葉を読んだんです。「教会指導者の中には、兄弟姉妹が軽率かつおざなりに本分を尽くしているのを見て、叱責すべきなのにそうしない人たちがいます。彼らは神の家の益にとって明らかに有害なことを見ても、他の人たちをほんの少しでも怒らせまいと、見て見ぬ振りをし、何の調査もしません。彼らの本当の目的と目標は、他の人たちの弱さに配慮することではありません――このような人は、自分の意図を知り尽くしています。『このまま誰も怒らせなければ、人はわたしのことを優れた指導者だと思い、立派な人だと高く評価する。わたしを認め、好んでくれる』。神の家の益にどれだけ害がもたらされようと、神の選民がどれだけいのちの入りを妨げられようと、あるいは彼らの教会生活がどれだけ乱されようと、このような人たちはサタンの哲学に固執し、誰も怒らせないようにします。これは、彼らの心に自責の念があるということでは決してありません。せいぜい何かのついでに、何らかの問題に軽く触れ、それでおしまいなのです。彼らは真理を交わらず、他の人たちが抱える問題の実質を指摘せず、まして人の状態を分析することなどありません。人々を導いて真理の現実に入らせることはなく、神の旨は何か、人はしばしばどのような過ちを犯すのか、あるいはどのような種類の堕落を示すのかを話し合うこともしません。彼らはそうした実際の問題を解決せず、それどころか、他人の弱さや消極性、さらには軽率さやいい加減ささえも大目に見ます。そうした人たちの行ないや振る舞いの正体を見極めることなく、ひたすらそれらを成り行きに任せますが、まさに彼らがそのようにするせいで、ほとんどの人はこう考えるようになります。『わたしたちの指導者は、私たちにとって母親のようだ。わたしたちの弱さを神よりもよく理解している。わたしたちの霊的背丈はあまりに小さく、神のお求め通りに生きることができないけど、指導者の要求通りに生きられればそれで十分だ。あの人たちはわたしたちの優れた指導者だ。上のほうが指導者を交代させる日が来たら、わたしたちは声を上げ、自分たちの意見と希望を伝えなければならない。上のほうと交渉を試みるべきだ』。人々がこのような考えを抱いていたら――つまり、指導者とこのような関係を持ち、彼らに対してそうした印象を抱いていて、指導者に対する依存、崇敬、尊敬、そして憧れといった感情を育んでいれば――指導者はどのように感じるでしょうか。この問題の中で、彼らが何らかの自責の念、不安、そして神への借りを感じていたら、他人の心における自分たちの地位やイメージに固執すべきではありません。神の証しを行ない、神を称揚することで、神が人々の心に居場所を持ち、人々が神を偉大な存在として崇めるようにしなければなりません。このような形でのみ、彼らの心は真に安らぐのであって、そうする人こそ真理を追い求める人なのです。しかし、反キリストの行ないの裏にある目標はこうしたことではなく、それどころか、彼らはそういった手段やテクニックを使って人々を誘惑し、真の道から逸れて真理を裏切るように仕向け、人々が本分を軽率に、なおざりに、無責任に尽くすのをいつも大目に見るまでになります。その裏には、人々の心の中である種の居場所を占め、彼らの善意を勝ち取るという目的があるのです。それは人々を勝ち取ろうと試みているのではないですか。嫌悪すべき邪悪なことではないですか。実に忌まわしいことです!(『反キリストを暴く』)。御言葉が暴くものを見て、邪悪な性質による振る舞いは、本質的にみんなを騙し、心を勝ち取ることなんだとわかりました。自分のものにして、支配しようとしてたんです。それは神に逆らうことで、まさに反キリストの振る舞いです! そう考えると恐ろしくてたまりませんでした。みんなの心の中での地位と、指導者に選ばれるチャンスを守るために、兄弟姉妹の本分に問題があっても、それを直接指摘せず、真理の交わりで解決することもなかった。その代わり、みんなに好かれ、気遣いと愛のある人だと思われるよう、当たり障りのないことを言った。気づかぬうちに信者を集め、結局わたしに騙された人たちは、問題を認識して正せなかっただけでなく、いのちの入りも害を受け、わたしを仰いで崇拝するまでになった。わたしは本当に邪悪で卑劣です! 兄弟姉妹のいのちを一切顧みず、堕落した性質によって本分を尽くすのに任せたことで、働きに悪影響が出た。わたしはサタンの子分として振る舞い、神の家の働きを妨げ損なっていたんです。それに気づいたわたしは、自分の堕落を心の底から憎むようになり、神の御前に出て祈り、悔い改めました。「神よ、御言葉のおかげでわかりました。わたしの邪悪な性質は深刻で、反キリストの道を歩んでいます。悔い改めて自分の動機を捨て、邪悪な性質で行動するのをやめたいのです」。

祈りのあと、この御言葉のことを考えました。「『ヤーウェ神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」』。……神が述べたこの短い言葉に、神の性質を何か認識できますか。この神の言葉は真実ですか。何か欺瞞がありますか。何か虚偽がありますか。何か脅しがありますか。(いいえ。)神は人間に対し、正直に、誠実に、そして真摯に、食べてもよいものと食べてはならないものを伝えました。明瞭に分かりやすく語ったのです。この言葉の中に、隠された意味がありますか。この言葉は率直ではないですか。推測する必要がありますか。(いいえ。)推測する必要はありません。言葉の意味は一目見れば明瞭であり、読むとすぐに、その意味を完全にはっきり理解できます。つまり、神が述べたいこと、神が表現したいことは、その心から出るのです。神が表現することには混じりけがなく、率直で明瞭です。隠れた動機や意味などありません。神は人間に直接語り、食べてもよいものと、食べてはならないものを伝えるのです(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IV.」〔『言葉』第2巻〕)。これを読んで、神は本当にわたしたちのことを思ってくださるのだと実感しました。神はアダムに命じられたとき、人が何をすべきかはっきりわかるように、食べていいものと駄目なものを明確に述べられました。神の御言葉に、不明瞭なことや誤解を招くこと、策略や欺瞞は一切ありません。神はひたすら人類のことを思われ、わたしたちのことを考えられていたんです。神は人に対し、まったく正直に語られます。神の実質は誠実で聖く、慈悲と愛に溢れていることがわかりました。本当に信頼と称賛にふさわしい方です。でもわたしは、兄弟姉妹にまったく誠実ではありませんでした。どの言動にも個人的な動機が混じっていたんです。嘘や欺瞞で一杯で、人を騙して利用し、最後は兄弟姉妹を傷つけました。なんて邪悪なんでしょう! そう思うと、とてつもない罪の意識を感じ、心から後悔しました。その後、シア姉妹とチェン姉妹に会って、自分の堕落した性質を打ち明けました。二人の本分でわたしが見た問題についても話しました。二人ともわたしのことを悪く思うどころか、問題をはっきり指摘したおかげで、心に留めることができる、さもなければ、自分の問題がいかに深刻か気づかなかったと言ってくれました。さらに、今後問題があったら遠慮なく言ってほしいとも。その後は二人ともいくぶん変わり、よりよく本分を尽くすようになりました。本当に嬉しかったです。

その後のデボーションでは、神の御言葉から自分の堕落した性質の解決法を見つけることに集中しました。神の御言葉にこうあります。「現在本分を尽くしているのであれ、あるいは性質の変化の初歩を追い求めているのであれ、どのような堕落した性質を表わしていようとも、真理を求めてそれを解決しなければなりません。……例えば、調子のいいことを言っていつも自分を偽装しようとしているなら、他者の心の中で地位を得て、仰ぎ見られることをいつも望むなら、そしてそれらの意図が自分にあるなら、そのことは、あなたが自分の性質に支配されていることを意味します。あなたはそうした調子のいいことを口にすべきですか。(口にすべきではありません。)そうしたことを言わないのであれば、単に我慢しているだけですか。より巧みな言葉遣い、他の人たちがあなたの意図を見抜けないような別の言葉遣いを見つけたとすれば、それはやはりあなたの性質にまつわる問題です。どういった性質ですか。邪悪な性質です。堕落した性質は容易に解決できますか。そこには人の本性実質が関わってきます。人にはこの実質、この根源があり、少しずつ掘り起こさなければなりません。あらゆる状態から、自分が口にする一言一句の裏にある意図から、それを掘り起こす必要があるのです。そして自分が口にする言葉から、それを分析して理解しなければなりません。そうした意識がさらにはっきりすると、あなたの霊はより鋭敏になり、変化を遂げることができます(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分を知って初めて真理を追い求めることができる」)。「あなたが行なうすべてのこと、一つひとつの行ない、一つひとつの意図、一つひとつの反応を神の前に示さなければならない。あなたの日々の霊的生活、つまり、あなたの祈り、神との親密さ、神の言葉を飲み食いする仕方、兄弟姉妹との交わり、教会における生活、そしてあなたが共同で行なう奉仕さえも、神の前に示して吟味され得る。あなたがいのちの成長を遂げるにあたり、それを助けるのはこのような実践である。神の吟味を受け入れる過程は、清めの過程である。あなたが神の吟味を受け入れられればられるほど、あなたはいっそう清められ、神の旨と一致するので、放蕩に引き込まれることがなくなり、あなたの心は神の前で生きる。あなたが神の吟味を受け入れれば受け入れるほど、サタンの屈辱はますます大きくなり、あなたはさらに肉を捨てることができる。したがって、神の吟味を受け入れることは、人が従うべき実践の道である。あなたが何をしようとも、たとえ兄弟姉妹と交わっているときでさえも、あなたは自分の行ないを神の前に示し、神による吟味を求め、神自身に従うことを目標にすることができる。それにより、あなたが実践することははるかに正しいものとなる。自分が行なうすべてのことを神の前に示し、神の吟味を受け入れなければ、あなたは神の前で生きる人とはなれない(『神の出現と働き』「神は自身の心にかなう者を完全にする」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を考えるうちに、問題が生じたときは自分の思考を吟味し、言動の裏にある動機を反省して、その言動を神の前に持ち出して吟味してもらい、また邪悪な性質を表わしたときは、自分を分析して認識し、すぐに祈って自分を捨てる必要があるとわかりました。そうすれば堕落のその側面も徐々に清められます。

その後、弱気になって困難を避けようとする姉妹の存在に気づきました。福音の働きで問題に遭うたびに背を向けるのです。わたしは思った。彼女は本分に責任を負っておらず、すぐに交わって改善しなければ。でも再び、問題が持ち上がりました。彼女の問題を指摘したら、わたしのことを厳しすぎだと感じ、抵抗心と反感を抱くかもしれない。彼女がそれを受け入れ、わたしに偏見を抱かないようにするにはどう話せばいいかと考えました。そのとき気づいたのです。また兄弟姉妹の中での地位とイメージを守ろうとしている。そこでこう心の中で祈りました。「神よ、あなたの吟味を受け入れ、自分の動機を捨てようと思います。真理を交わってこの姉妹を助け、本分を尽くしたいのです」。その後、この姉妹と交わりをして問題を分析すると、わたしは真理を実践して、内なる安らぎを覚えたのです。今のわたしは自分の邪悪な性質を多少は識別でき、問題に遭遇すると意識的に真理を求め、利己的な動機を捨てています。御言葉を基に行動できるようになったのです。これはひとえに神の御言葉による裁きのおかげです。神の救いに感謝します!

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