自らを明かす怖さに潜むもの

2022年12月9日

2002年3月に全能神の終わりの日の働きを受け入れて、すぐ本分を尽くすようになり、ほどなくして福音執事に選ばれたの。とても興奮して、こう思った。「私より長く本分を尽くす兄弟姉妹を差し置いて選ばれた。みんなにとって私は、真理を追求する、素質のある人物なんだわ。正しい人選だったと思われるよう、しっかり本分を尽くさなきゃ」。それからは、積極的に仕事をフォローしたわ。悪い状態の兄弟姉妹がいたら、直ちに神の御言葉を求めて彼らと交わり、良い伝道体験を得られたら、すぐに伝えた。しばらくすると、本分に対して受け身だった兄弟姉妹が積極的になったの。「私にはこの仕事に向いた能力があるみたい。指導者が知ったら、優秀だと思って育ててくれるに違いない」。そう思うと、更に心が躍って、本分へのやる気が高まった。その後も、伝道の成果が上がると、朗報としてグループに送り、みんなに私の本分の手柄を見てもらおうとした。兄弟姉妹に自分をひけらかすこともあったわ。仕事について尋ねる時は、問題や困り事がないか聞いてから、わざとこう言うの。「私は、問題や困り事の解決以外に、多くの仕事をフォローしてる。毎日忙しくて、遅くまで寝れない」。それを聞いた兄弟姉妹は、こう言ったわ。「最近は何も困ってないよ。君はよく頑張ってるね」。その言葉にうれしくなった。本分で重責に耐え、自ら代償を払い、責任感のある人物だと思われてる。そう感じたからよ。

ある日、1人の兄弟が、自分の状態を明かそうと交わりに来て、こう言ったの。「いつも、本分で尊敬されようとしてしまう。仕事をフォローする時も、グループリーダーの立場で発言し、自分をひけらかしてばかり……」それを聞いて動揺したわ。私も同じでは? 仕事をフォローする時は、私はもう普通の信者ではない、執事なのだと、いつも知ってもらいたがった。「たくさん仕事がある」、「忙しくて遅くまで寝られない」と、わざと口にすることも。本分で重責に耐え、責任感のある人物と思ってもらいたかった。尊敬してもらいたくて、ひけらかしてたの。この状態を彼に明かして交わり、解決策を一緒に模索したいと思った。でも、こう思った。「私は今、福音執事。自分の堕落を明かしたら、堕落がひどく、地位を重視する人物だと思われるのでは? 悪い印象を持たれるのでは? そうなると、築いてきた良いイメージが崩れてしまう」。それで打ち明けるのをやめたの。彼にはこう慰めたわ。「私にも堕落はあるから大丈夫」。それから少し交わって、おしまいにした。

担当するグループからグループリーダーが選ばれた時には、こう思った。「仕事を担当するグループリーダーがいるなら、フォローは必要ないわね」。それからは、そのグループが仕事の話をしていても、よく聞かず、彼らの集会も聞き流してた。そんな調子で1か月が過ぎると、グループの仕事の成果はひどく落ちてしまったわ。ある集会のこと。どの兄弟姉妹も、神の御言葉に基づいて、本分への態度を反省し、自らの堕落を明らかにしてた。私も、無責任にも仕事を監督するふりだけして、成果を下げてしまった。でもそれを明かす勇気がなかった。私は、本分に熱心で責任感があるイメージの人物。誰からも高く評価されてる。だけど打ち明けたら、いろいろ思われるかもしれない。無責任に本分をぞんざいにしたと思われるかも。指導者に知られたら、悪く評価され、任務を外されるかも。そうなったら面目丸潰れよ。そんな時に指導者から「交わらないか」と言われ、すごく悩んだわ。交わりたいけど、打ち明けて地位やイメージが傷つくのが怖い。でも明かさないと、自分を隠してごまかしてることになる。どうすればいいのだろう。不安で仕方なかった。最終的には、「やめやめ。今回は交わらずにやり過ごそう」と思い、集会が終わると、とても悲しくて後ろめたくなった。大きな重しがのしかかってるかのよう。そこで、神に祈って求めたの。なぜ、堕落を明かすのが怖いのか。なぜ、いつも自分を偽り、地位やイメージを優先させるのか。

その後、神の御言葉を2節読むと、少し自分を理解できた。神の御言葉にこうあります。「他者に尊敬され、自分の欠陥や欠点を見られないよう、いつもうわべを装い、自分を取り繕い、偽っているなら、また自分の最も良いところだけをいつも人に見せようとしているなら、それはどういった性質ですか。それは傲慢、ごまかし、偽善であり、サタンの性質であって邪悪なことです。サタンの政権に属する人を考えてみなさい。陰で彼らがどれほど戦い、争い、殺しても、誰一人それを通報したり、暴いたりすることは許されません。彼らは自分の悪魔的な顔を人に見られることを恐れ、できる限りのあらゆることをしてそれを隠そうとします。公の場では全力で自分を取り繕い、自分が人民をどれほど愛しているか、自分がいかに偉大で、栄光に満ち、正しいかを語ります。これはサタンの本性です。サタンの本性が持つ顕著な特徴は策略と欺瞞です。では、この策略と欺瞞の目的は何ですか。人の目をくらませ、自分たちの本質と正体を見えないようにし、そうすることで自分たちの支配を引き延ばすという目的を達成することです。普通の人にこのような権力や地位はありませんが、彼らもまた、他人からよく思われ、高く評価され、高い地位を与えられることを心の中で願っています。これが堕落した性質というものです(『終わりの日のキリスト講話集』の「人の行動を導くべき原則」)。「正直な人となるには、まず自分の心をさらけ出し、誰もがそれを見て、あなたが考えている全てのことを理解し、あなたの本当の顔を見られるようにしなければなりません。自分を偽ろうとしたり、よく見せようと装ったりしてはいけません。そのとき初めて、人はあなたを信頼し、あなたのことを正直だと思います。これが正直な人になるための最も基本的な実践であり、前提条件でもあるのです。あなたはいつも見せかけていて、聖さや高潔さ、偉大さに加え、高尚な道徳的特質を常に装っています。自分の堕落や欠点を人に見せません。あなたは高潔で、偉大で、自己犠牲をいとわず、公平で、無私だと思われようと、人に偽りの姿を見せます。それは不正直と偽りではないですか。自分を偽装したり、装ったりしてはなりません。代わりに自分と自分の心を人にさらけ出し、見えるようにしなさい。人に見えるように心をさらけ出し、それが肯定的なものでも否定的なものでも、自分の考えやもくろみをすべてさらけ出すことができれば、あなたは正直ではありませんか。人に見えるように自分をさらけ出すことができれば、神もあなたを見て『あなたは人に見えるように自分をさらけ出したので、わたしの前でもたしかに正直だ』と言います。あなたが他の人に見えないところで神にだけ自分をさらけ出し、人前では立派で高潔、あるいは公平で無私であるかのようなふりをいつもしているなら、神はどう考え何と言いますか。神はこう言います。『あなたは本当に不正直だ。まったく偽善的で狭量で、正直な人ではない』。そうしてあなたを断罪します(『終わりの日のキリスト講話集』の「正直であることの最も基本的な実践」)。これを読んで落ち込んだわ。御言葉は、私の状態を的確に暴いてた。福音執事に選ばれてからというもの、自分は普通の兄弟姉妹よりも素質と背丈が高いと感じ、自分の良い面をみんなに見てもらいたがってた。堕落や欠点は隠して、知られないようにしてたの。本分で成果を上げると、自慢したがった。自分の良いニュースをグループに伝えたがったのは、兄弟姉妹や指導者、同労者に知ってほしかったから。「たくさんの仕事をフォローして忙殺されてる」と周りにわざと話し、本分で責任を果たしてるのを示そうともした。うわべを飾って偽ることで、前向きで責任感があり、真理を追求するイメージを確立しようとしたわ。兄弟姉妹に尊敬されることが目的だった。でも、実際の私は全く違った。堕落がひどく、本分で自分をひけらかし、お茶を濁して実務をこなさない。なのに決して堕落や欠点を明かさず、交わらない。地位を渇望する無責任な人物だと知られ、良いイメージを失うのが怖かったからよ。振り返ってみて、自分が嫌になったわ。尊敬されたくて、兄弟姉妹との関わりで自分をごまかし偽ってた。これは神が嫌う、傲慢で不実なサタン的性質。思えば、福音執事になる前、兄弟姉妹が集会でよく言ってた。「誰もが、堕落したサタン的性質を持ち、地位を大切する。地位を得て維持するためなら、何でもする」と。その当時は、「私は地位を得ても、維持しようと試みたりしない」と思ってた。でも事実と神の御言葉が私を暴いたわ。イメージや地位を維持するために、自分を偽り、うわべを飾る私は、とりわけ傲慢で不実だった。その時、気づいたの。「地位を求めない」と思えたのは、まだ自分が暴かれてなかったから。私もサタンに堕落させられ、サタン的性質に満ちてたの。そこで思い出した。真理を実践し、自分を明かす正直な人を神は好まれる。自分を偽り、真理を実践してないことに思うと、どうしようもなく不安だったわ。こう思った。「正直な人間になって、堕落をみんなに打ち明けなければ」。

数日後、同労者の集会があった。いかに自らを偽り、周りを欺き、実務をこなさなかったかを打ち明けて交わり、正直でオープンな人間になりたいと思った。でもいざ交わるとなると、またためらってしまったの。「自分を分析して明かしたら、兄弟姉妹はどう思うだろう。せっかく築いた良いイメージがなくなってしまうのでは? こんなことで見下されたら、恥ずかしすぎる。少し待って、兄弟姉妹に先に交わってもらおう」。そう思っても、なんだか落ち着かなった。堕落を明かしたくないというのも、自分を偽り、地位を維持しようとしてるのではないか。葛藤が激しくなったわ。話せば、見下されるかもしれない。でも話さなければ、後ろめたい。神に祈り、真理を実践できるようお導きを願った。その時、ある御言葉を目にしたの。「パリサイ人とは実際に誰のことか、あなたがたは知っていますか。あなたがたの周りにパリサイ人はいますか。その人たちが『パリサイ人』と呼ばれるのはなぜですか。パリサイ人をどのように説明しますか。彼らは偽善的で、まったくの偽りで、あらゆる行いにおいて芝居を打ちます。彼らはどのような振る舞いを偽装していますか。自分は善人で親切で前向きであるという振りをしています。パリサイ人は本当にそのようなものですか。絶対に違います。彼らは偽善的なので、彼らのうちに表わされ露わにされるものはすべて偽物であり、どれも見せかけです。それは彼らの本当の顔ではありません。彼らの本当の顔はどこに隠れていますか。それは彼らの心の奥深くに隠されており、他人には決して見えません。外側にあるものはすべて見せかけで、すべて偽りですが、騙せるのは人だけです。神は騙せないのです。真理を追い求めず、神の言葉を実践して経験しなければ、その人は真理を真に理解することはできず、ゆえにその人の言葉がどれほど心地よく聞こえても、それは真理の現実ではなく、教義の言葉です。教義の言葉をおうむ返しに繰り返すことにひたすら専念する人がいます。このような人は誰であれ最高の説教をする人をまね、その結果、わずか数年で教義の語りをますます上達させ、多くの人に尊敬され、崇められます。その後は自己を偽装するようになり、自分の言動に特別な注意を払い、ひときわ敬虔で霊的であるかのように見せかけます。彼らはいわゆる霊的理論を用いて、自己をごまかします。どこに行こうとも、話すのは人々の観念に合致するもっともらしいことだけで、そこには真理の現実は一切ありません。そしてこのような説教、つまり人々の観念と好みに合致する事柄を説くことで、大勢の人を騙します。他の人たちには、こうした人は極めて敬虔で謙虚に見えますが、実は偽りです。寛容で忍耐強く、愛情に満ちているように見えても、実は見せかけです。そのような人は、自分は神を愛していると言いますが、実は演技です。他の人たちはこのような人のことを聖いと思いますが、それも実は偽りです。真に聖い人はどこで見つけることができますか。人間の聖さはすべて偽りです。すべて演技で、見せかけです。表向きは神に忠実なように見えますが、実際には他人に見てもらうための演技です。誰も見ていなければほんの少しも忠実でなく、彼らが行なうことはどれもいい加減です。表面上は神のために自分自身を費やし、家族や職業を捨てたように見えます。しかし、彼らは密かに何をしていますか。彼らは教会で自分の活動を行ない、独自の事業を営み、神のために働いているように装いながら密かに教会から利益を得たり、捧げ物を盗んだりしているのです。……このような人は現代の偽善的なパリサイ人です。パリサイ人というこれらの人々はどこから来ますか。未信者のあいだに現われますか。いいえ、彼らはみな信者のあいだに現われます。このような人がパリサイ人になるのはなぜですか。誰かが彼らをそのようにしたのですか。明らかにそうではありません。理由は何ですか。それは、彼らの本質と本性がそのようなものだからであり、彼らが選んだ道のせいです。彼らは神の言葉を、説教して教会から利益を得るための道具としてしか使いません。神の言葉で頭脳と口先を武装し、偽りの霊的理論を説き、自分を聖い者として覆い包み、それを元手にして教会から利益を得るという目的を達成しようとします。彼らは教義を説くだけで、真理を実践したことがありません。神の道に従ったことがないにもかかわらず、言葉や教義を説き続けるのはいったいどのような人ですか。そのような人は偽善的なパリサイ人です。彼らの良き振る舞いや良き行ないとされているもの、彼らが捨てたり費やしたりした小さなかけらはどれも完全に作り物であり、いずれも彼らの打つ芝居なのです。彼らはまったく偽物で、すべての行ないは見せかけです。このような人の心に神への畏れはこれっぽっちもなく、神に対する本物の信仰もありません。それどころか不信者です。真理を追い求めなければ、そうした道を歩いてパリサイ人になります。それは恐ろしいことではないですか。パリサイ人が集まる霊的な場所は市場になります。神の目から見ると、それは宗教であり、神の教会ではなく、神が礼拝される場所でもありません。そのため、真理を追求しないなら、神の言葉についてどれほど多くの字句や表面的な教義を身につけようと、何の役にも立たないのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「いのちの成長を表す六つの指標」)。御言葉を読んで、怖くて震え上がったわ。私は評価されるために、何事でも自分を偽って、良いところを見せようとしてた。自分の欠点は絶対に言わないし、明かさない。いつも誤った印象を与え、みんなを惑わせてた。私はパリサイ人と同じでは? パリサイ人は毎日礼拝堂で人々に聖書を説き、十字路に立って祈った。「神を愛する敬けんな人々だ」と、みんなから尊敬され、崇拝されてた。でも実際は、神を全くおそれることも第一に考えることもなく、神の戒めにも従わなかったわ。特に主イエスが現れて働かれた時には、主イエスの御言葉に権威と力があると知りながら、自分の地位と収入を保つために、神の働きを必死に冒涜し、抵抗して非難した。パリサイ人の表向きの善行は偽物で、自らを偽り隠すためのもの。敬けんに見えても、本当は陰湿で、真理を嫌ってた。主イエスが彼らをどうののしったか、思い出したわ。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである(マタイによる福音書 23:27-28)。そして思ったの。「私も同じでは?」福音執事になってから、表向きは早朝から深夜まで積極的に本分を尽くしてたけど、全て見せかけのパフォーマンスだった。積極的に本分を尽くしてたのは、正しい人選だったと思ってもらうためよ。成果を上げ、兄弟姉妹の状態を解決した時に、すぐにグループにメッセージを送ったり、兄弟姉妹に伝えたりしたのは、本分で責任を果たす有能な人物だと、指導者や兄弟姉妹に知ってほしかったから。自分の動機と目的のために本分を尽くしてたの。高く評価されたいだけだった。自分が実務をこなさず、頻繁にひけらかし、地位を追い求めてることは自覚してたわ。それでも自分の堕落について全く触れず、語らなかった。神は、打ち明ける機会を何度も与えてくださったのに、私はその度に真理を実践せず、みんなを欺き、自分を偽って隠し、切り抜けたの。結果、兄弟姉妹は私を、真理を追求し、責任を持って本分を尽くす人物だと誤解して賞賛した。私は、偽善的なパリサイ人と同じように、自分のところに人を集めようとしたんだわ。これは、人々を欺き、囲い込む行為。私は神に逆らう道を歩んでた。神はパリサイ人をののしった。悔い改めなければ、私も神に嫌われ、淘汰される。

その後、別の御言葉を読んだの。「問題が生じたら、それが何であれ、真理を求めて解決しなければならず、自分自身を偽装したり、他人に偽りの顔を見せたりしては絶対になりません。自分の短所、欠点、過ち、堕落した性質をすべて完全に明るみに出し、それらについて交わりなさい。内側に留めてはなりません。どのように自己を開示するかを学ぶことは、いのちに入る第一歩であり、乗り越えるのが最も難しい最初のハードルです。ひとたびそれを乗り越えると、真理に入るのは簡単です。この一歩を踏み出すことは何を意味しますか。それは、あなたが心を開き、よいものであれ悪いものであれ、自分が持つものをすべて見せているということ、他の人たちと神に見えるように自分をさらけ出しているということ、神から何も隠さず、何一つ秘匿せず、何も偽装せず、偽りや策略がないということ、他の人たちにも同様に心を開いて誠実であることを意味します。このように、あなたは光の中で生きており、神だけがあなたを細かく調べるのではなく、他の人たちにもあなたが原則に沿って、いくらかの透明度をもって行動することがわかるようになります。自分の評判、イメージ、地位を守るために何らかの方法を用いる必要も、間違いを隠したり偽装したりする必要もありません。そうした無駄な努力をする必要はないのです。このようなことを捨て去れるなら、とてもゆったりとした気持ちになり、束縛や苦痛がない状態で、完全に光の中で生きることになります。交わりの際に心を開くようになることは、いのちに入る第一歩です。次に、自分の思考や行動を分析し、どれが間違いで、どれが神に好まれないのかをわかるようになり、それらをすぐに逆転させ、改める必要があります。改める目的は何でしょうか。それは真理を受け入れて理解するとともに、あなたの内にあるサタンに属するものを拒絶し、それを真理と置き換えることです。以前のあなたは、何をするにも偽りと不実さに満ちた自分自身の狡猾な性質に従い、嘘をつかなければ何も成し遂げられないと思っていました。真理を理解し、サタンのやり方を嫌悪するようになった今、そのように行動することはもはやなく、誠実で、純粋で、従順な心性で行動します。何も隠さず、仮面を被ったり、装ったり、見せかけたりせず、兄弟姉妹に自分をさらけ出し、心の奥底にある思いや考えを隠さず、逆に自分の正直な態度を他の人たちに見せるなら、真理が徐々にあなたの中で根ざし、花開いて実をつけ、少しずつ成果を生み出します。心がますます正直になってどんどん神のほうを向き、本分を尽くす際に神の家の利益を守れるようになり、神の家の利益を守れないときに良心が痛むようであれば、それはあなたの中で真理が作用し、あなたのいのちになった証拠です(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を実践する者だけが神を畏れる」)。御言葉から分かったわ。自分を偽らず、誤った印象を人に与えないこと、自分の堕落や欠点を明らかにできること、本当の自分を見せること、兄弟姉妹に心の内を見せることが、正直な人間になるのに必要なのね。思い返すと私は、高く評価されようとしていつも自分を偽って隠し、集会でも自分の堕落をあえて打ち明けなかった。神が忌み嫌われる不実な人間だったの。疲れる、苦しい生き方だった。そう気づいて、神に祈ったわ。「神よ! 尊敬され、賞賛されたくて、いつも自分を偽ってしまいます。神が嫌悪される行為です。こんな自分が嫌です。神よ。真理を実践し、正直な人間になれるよう、どうかお導きください!」祈った後、いかに自分が実際の仕事をしてなかったか、いかに自らを偽って欺いてたかを明かして交わった。交わりを終えると、心の重しが消え、とても楽になったの。誰も私を見下さなかったわ。指導者も叱ったり、取り扱ったりせず、辛抱強く交わり、実務のやり方を教えてくれた。真理を実践し、正直な人間になると、安らぎと安心を得られるのね。私の問題や欠点は露呈したけど、兄弟姉妹の交わりや助けのおかげで、やがてやり方を変え、より良く本分を尽くせるようになった。私にとって有益だったわ。

その後は意識的に腹を割って兄弟姉妹と交わり、自分の堕落した性質を明かした。偽ることはやめたわ。ある時、兄弟がこんなメッセージを送ってきたの。「君は福音執事。僕らが伝道する時に君も来て、伝道対象者と交わらないか? そうすべきだと思う」。そのメッセージに、とても腹が立った。こう思った。「ただのグループリーダーが私に指図するの? これじゃ、まるで尋問よ。忙しいか、時間があるか、聞きもしないで」。そして、こう答えたの。「伝道を私1人に頼るのは駄目よ。みんなで協力しなくちゃ」。その後、傲慢な性質を見せたと感じ、少し後ろめたくなった。彼は仕事のことを考え、事実を言っただけ。それを受け入れるべきだった。なのに拒むどころか、怒りにまかせて反論した。これは理不尽では? 彼を傷つけ、抑圧する行為だわ。彼に腹を割って、この問題を認めたかった。だけど自分のイメージを捨てられない。彼は以前から好印象を持ってくれてたのに、打ち明けたら、見下げられるのでは? でも気づいた。地位やイメージを保つために、また自分を偽ろうとしてることに。そこで神に祈り、真理を実践し、自分を捨てられるようお導きを願った。その後、彼に自分の堕落を打ち明けたの。すると彼は、彼にも傲慢な性質があり、私の気持ちを考えずに話してた、変わりたいと言ってくれた。神の御言葉のお導きのおかげで、私たちは自省できる。正直な人間を実践すると、特に心が楽になるわ。

この体験を通して、神が終わりの日に発された御言葉は、本当に人を清め、救うのだと実感した。神の御言葉の裁きがなければ、ずっと自分を偽って隠したまま、堕落や欠点を心から理解できず、変われなかったわ。神のお導きと救いに感謝し、真理を実践し、正直な人間であることの安心感と解放感に気づけたことに感謝したい。

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