失敗に直面して立ち上がる

2021年1月30日

韓国 奮起

神を信じる前、私は共産党の教育を受けていました。どうすれば自分がのし上がり、家族に名誉をもたらせるかばかり考えていました。その後、私は大学院に進み、やがて弁護士になりました。自分は一歩抜きん出た存在だといつも思っていました。だからどこに行っても、絶えず自分を誇示しようとし、何においても他人が私を見習い、私の言うとおりにするよう期待していたのです。そのときは、それが一種の傲慢な性質であることに気づいていませんでした。自分は本当に立派な人間だと思い込んでいたのです。神を信じ始めたあと、全能神の御言葉を読むことで、ようやく自分の傲慢な性質に気づき、自分には野心や欲望があるだけでなく、とても自惚れが強く独善的だとわかりました。話したり何かをしたりするとき、他の誰とも話し合わず、自分のやり方を押し通すこともありました。自分について多少の自己認識を得ても、それは大した問題ではないと思っていました。次の神の御言葉を読んだことがあります。「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」。私は「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」という一文について考えました。それなら、よい人間性をもつ人はどうでしょうか。神に従順な人たちは? 彼らの性質も変わる必要があるのでしょうか。変化した性質とはいったい何でしょうか。私たちはキリストを信じ、キリストは実際の神でいらっしゃるのだから、キリストを信じることは、キリストに従うことではないかと思っていました。だから、キリストに従うことはキリストと相容れることを意味するのだと、とりわけ自分の仕事を捨てて、家族のもとを去ったこと、つまり神のために自分を費やす選択をしたことを考えるとき、これは私がキリストを信じ、キリストと相容れたしるしではないかと思いました。しかしそのとき、自分のいのちの性質を変えて、キリストと相容れなければならないことは理解しておらず、そのため、純粋に自分の熱心さから本分を尽くしていたのです。それに、いのちへの入りとは何か、性質の変化とは何かも知りませんでした。私にはいのちの経験がまったくなかったと言えるでしょう。ようやく本当の認識を多少得たのはいつのことでしょうか。それは苛酷な刈り込みと取り扱いを経験し、自分を反省して、自分の本性がとても傲慢なのを知ったあとでした。自分に何かが起きたとき、私は真理を求めることを知らず、神の御言葉を実践することに集中しませんでした。私には神への従順さがまったくなかったのです。基本的に、私はキリストと相容れる人間ではなかったと言えるでしょう。この刈り込みと裁きを経験したあと、私はようやく「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」とおっしゃった神の真意を本当に理解できました。

2014年私は神を信じていたために、共産党政府から迫害を受け、海外への逃亡を呼びなくされました。外国に到着したあと、私が熱心に自分を費やし、優れた素質の持ち主であることを知った兄弟姉妹が、私を教会の指導者に選んでくれました。そしてイベントに参加したり、インタビューに答えたりするようたびたび勧めてくれました。でもそうしたことは自分の資本となり、すでに傲慢だった私はその資本によって、あり得ないほど傲慢になったのです。教会は私がいなければ機能しない。私は重要な働きをしていると思いました。私にとってあまりに些細な件を、兄弟姉妹が話し合いに来たときも、私はそれに関わるのが嫌で、この人たちは何でもないことに大騒ぎしていると思いました。それについてしつこく訊かれると、「どうしてこんな小さなことを質問するの? 私の時間を何だと思ってるのよ。自分たちで何とかしなさい」とうんざりしました。さらに質問が続けば、すぐさま相手を批判する詰問口調になり、まるで上司のように説教することもありました。実を言うと、兄弟姉妹をこのように扱ったとき、これはよくないことだし、何らかの形で彼らを傷つけていると、私でさえ感じていました。でもそうした傲慢な性質の中で暮らしている人は、すべての人間性を失ったことに気づく必要があります。そのわずかな自責の念さえ消えてしまいました。私はそのように振る舞いながら働き、生活していました。本分を尽くす過程で行なうすべてのことについて、私は決定権をもちたいと思いました。兄弟姉妹と話し合いをしていて、自分の気に入らない意見や提案を聞くと、すぐさま何も考えずに反論し、何の価値もないかのようにその意見を見くびりました。万事が自分の望み通りに進むことを望んでいたのです。それに、働きで生じた問題を同労者に伝えて話し合ったり、探求したりすることもめったにありませんでした。なぜならしばらく本分を尽くした私には十分な経験があり、分析と研究によって、それらを解決できるとか、同労者たちはその働きに慣れておらず、よく理解していないなどと考えていたからです。私が話せば、彼らは何も付け加えられず、私以上によく理解することもできないと考えました。話し合いを続けても単に時間の無駄遣いで、まったく無意味だと思ったのです。それで段々彼らと働きたくなくなりました。上位者が私の働きを確かめに来たときも、私はとても煩わしく思い、他人の監督や警告を受け入れるのが嫌でした。実はそのとき、自分の状態が正しくないとは感じていました。兄弟姉妹もこう言って私に警告してくれました。「あなたはあまりに傲慢で独善的です。誰とも一緒に働きたがらない。本分や働きを行なうときも、他人の監督と警告を受け入れず、自分の働きに誰かが干渉するのを望まない」。同労者によるこうした警告や手助けは、実際には一種の刈り込みと取り扱いでしたが、私はそれらを無視しました。自分は傲慢で、いのちへの入りをさほど成し遂げていないし、変化もまったくしていないけれど、それでも本分を尽くしているんだから、大した問題ではないと思っていたのです。兄弟姉妹の手助けと警告を真剣に受け止めず、大事にすることもありませんでした。自分の堕落した性質やサタン的本性は、一夜で変えられるものではないと思い、長い時間がかかることだから、今のところは自分の働きに取り組み、立派に本分を尽くすべきだと考えました。

しかし、傲慢な性質の中で暮らすと言っても、何も感じないということではありません。そのとき、私の心は空虚でした。時には作業を終えたあと、自分を反省して、「これをしているあいだ、あるいは終わったあと、自分はどんな真理を得ただろうか。どの原則に入れただろうか」と自問したものです。何らかの形でいのちの性質が変わっただろうか。しかし私は何も成し遂げていませんでした。なぜでしょう。働きを完了させようと、日々駆けずり回って疲れ果て、すべきことがあまりに多くあるたび、いつもストレスと怒りで一杯でした。自分の中で一つのことに火が点くと、自分を抑えられなくなるかのようでした。神に祈るときも動作を繰り返すだけでした。心から神に言うべきことが一つもなかったのです。神の御言葉を飲み食いして、そこから照らしや啓きを得ることもありませんでした。当時、私はとても空虚で不安でした。本分を尽くせば尽くすほど、神から離れるように思い、心の中に神を感じることができませんでした。神に見捨てられたのではないかと不安でした。そこで、すぐさま神の御前に出て祈りました。「神よ! 私は自分を救うことができません。自分を抑えることもできません。どうか私をお救いください」。程なくして、刈り込みと取り扱いが突如私に降りかかりました。

上層部の兄弟が私の働きを調べ、教会の資金の出費に関する私の処理に問題があることを見つけました。その資金をどう支出するか決めたとき、同労者や決定グループと話し合わなかったことを突き止めたのです。彼は私に言いました。「これは教会の出費に関する問題だ。どうして同労者や決定グループと話し合わなかったんだ。これは君が独断で決められることなのか」。その質問に対し、私は答えに窮しました。その兄弟にどう答えるべきか、まったくわからなかったのです。なぜでしょう。自分でもまったくわかりませんでした。そのようなことなど考えたこともなかったからです。それから私は振り返り始めました。そのころ、私は傲慢な本性の中で生きており、正常な理知がまったくなかったので、自分の本分が神から託された使命であること、原則に従ってその本分を尽くし、真理を求めるべきだったことを知らずにいました。同労者や決定グループと話し合って、物事を決めるべきだったことを理解せずにいたのです。私は堕落した性質の中で生きていたので、理知がありませんでした。しかも、それに気づきさえしませんでした。そんなことはわかっているから、探求したり、調べたりする必要なんかないとまで考えていたのです。その兄弟はこう言うことで私を取り扱いました。「君は傲慢かつ独善的で、まったく理知がない。選民から神に捧げられた献金なのだから、原則に従って、合理的に出費されるべきだった。その献金が浪費されたいま、原則に従って責任を問わなければならない」。私は何も言い返しませんでしたが、心の中では、いまだに自分が正しいと思っていました。自分は献金を盗んでいないし、教会の働きを行なう過程で出費しただけ、どうして私が責任をとらなければならないの。

その後、上位の指導者たちが、私たちに会いに教会を訪れました。そして神の御言葉を使って、私の問題について語り合い、それを分析しました。そのとき私も神の御言葉を使って、自分についての認識を説明しました。でも心の中では、自分は神の御言葉に関するこの交わりを利用して、心の中に築き上げられた反抗と不満、そして理解のなさをさらけ出しているだけだとわかっていました。自分は何ひとつ認めてもらえないのに、苦労して働いていると思っていたのです。私が自分の本性を本当に認識していないことを見てとった指導者たちは、兄弟姉妹の同意を求めたあと、ただちに私を教会の指導者の地位から下ろしました。その瞬間、私はさほど後悔を感じていませんでした。でもその後、指導者たちが一つひとつの出費を詳しく調べ始め、その過程で、ようやく私はそこに問題があったことを認識しました。損失が積み上がって、額が増えるにつれ、それは自分で支払える額を超えてしまい、私は不安になりだしました。その資金を出費した自分の決断と冷淡かつ無関心な態度を振り返り、心から後悔を感じて、自分を憎み始めました。本分を尽くす中で自分のサタン的本性に頼ることが、教会にこれほどの損害を与えるとは、想像もしていなかったのです。事実を突きつけられた私は、それまで高々と上げていた頭を下げるしかありませんでした。ただ自分の顔を平手打ちしたかったです。自分が実はこんなことをしていたなんて、とても信じられませんでした。

その後、私は兄弟の交わりに耳を傾けました。そのときとったノートをお読みします。「現在、10年から20年にわたって、神を信じてきた指導者や働き手がいます。しかし彼らがほんのわずかな真理も実践せず、それどころか自分の意志に従って、物事を行なうのはなぜでしょうか。自分の観念や想像が真理でないことに気づいていないのでしょうか。なぜ真理を求められないのでしょうか。彼らはたゆまず自分を費やし、苦労や疲れを恐れず、朝から晩まで本分を尽くしています。なのに、長年神を信じながら、いまだに原則がないのはなぜでしょうか。彼らは自分の考えに従って本分を尽くし、自分の好きなことをしています。彼らがしていることを見て、ショックを受けることもあります。普段、彼らは非常によく見えます。悪人ではなく、立派に話します。このような馬鹿げたことをするなど、とても想像できません。こうした重要な問題について、彼らはなぜ助言を求めないのでしょう。自分のやり方に固執し、決定権をもつことにこだわるのはなぜでしょう。これがサタン的性質でなければ何でしょう。私は重要な事柄を扱うとき、たびたび神に語りかけ、神の助けを求めます。私の想像に合わないことを神がおっしゃることもあります。でも私はそれに従い、神のおっしゃる通りにしなければなりません。重要な事柄について、私は自分の考えに基づいて、振る舞おうとはしません。間違いを犯したらどうなるでしょう。神に決めていただくのが一番いいのです。神を畏れることについて、指導者や働き手はみな、この基本的な段階に達しているべきです。しかし、指導者や働き手の中に、とても生意気な人がいるのを、私は見てきました。そのような人は万事において、自分のやり方を貫こうとします。その問題は何でしょうか。性質が変わっていなければ、それは本当に危険なことです。……神の家が決定グループを組織しているのはなぜですか。決定グループは数名から構成され、大きな間違いや損失を防ぐため、問題を一緒に話し合い、調べ、決定しています。しかし、決定グループを避けて、自分のやり方で物事を行なう人もいます。そのような人は悪魔サタンではないでしょうか。決定グループを避けて、自分のやり方で物事を行なう人はみな悪魔サタンです。どの階層の指導者であろうと、決定グループを避けて計画の承認を求めず、自分のやり方で行動すれば、その人は悪魔サタンであり、淘汰、追放されなければなりません」(『いのちに入ることに関する交わりと説教』)。兄弟による交わりの一言一句が私の心を刺し通しました。中にはこうした問題の背景を知らない兄弟姉妹もいるでしょうが、彼の言った一言一句が私についての言葉であり、私の状況を完全に暴いたことがわかりました。このような人は悪魔サタンで淘汰、追放されなければならないと、その兄弟が言うのを聞いたとき、私は出し抜けに驚きました。自分が死刑を宣告されたかのように感じたのです。「私は終わりだ。もう完全に救われることはない。神を信じる生涯がこれで終わった。神への信仰が終わったんだ」と思いました。そのとき、私はひどい恐怖に襲われました。それまでずっと、神は私のことをとても気遣ってくださると思っていました。私はよい教育を受けて、立派な仕事に就き、神の家で尽くしていた本分も極めて重要なものでした。それに、兄弟姉妹は私のことを尊敬していたので、自分は神にとって特別な存在だと常に思っていました。自分は神の家で訓練されている重要な人物だと考え、神の性質に背いたせいで、神に嫌われ、淘汰されるとは想像もしていませんでした。その瞬間から神の性質は義であり、背きを許さず、神の家は真理と義によって支配されており、誰一人非行に関わることを許さないと感じ始めました。教会では原則に従って、自分の本分を尽くし、真理を求めなければならず、自分の好きなことをしたり、思い通りに振る舞ったりすることは決して許されません。自分は災難を招き教会の献金を軽率に出費して、神の性質に背いたのだから、誰も私を救えないと思いました。神の家に淘汰されるのを待つだけだったのです。

それからの日々毎朝目を開くたびに恐怖の瞬間を感じ、ベッドから起き上がる力もないほど意気消沈するようになりました。次に自分がどこへ向かうのかわからず、自分の犯した過ちは大きすぎ、誰も私を救えないと感じていました。私にできたのは神の御前に出て祈り、心のうちを伝えることだけでした。私は神にこう言いました。「神様、私は間違っていました。このような結末を迎えるとは思いもしなかったのです。それまで、私はあなたを知らず、心の中であなたを畏れていませんでした。あなたの前でも傲慢かつ独善的で、非行を犯し、完全に理知を失っていました。そのため今日、この刈り込み、取り扱い、刑罰、そして裁きを受けています。私はあなたの義なる性質を見ました。従順になって、この状況から教訓を得たいと思います。神様、どうか私からお離れにならないでください。私はあなたなしではいられません」。それから数日間、私はこのように祈り続けました。ある朝、神の御言葉の讃美歌が耳に入りました。「何かが起きるたび、理解しなければいけません。『何が起きようと、それはすべて目標達成の一部であり、神の業だ。私には弱さがあるけれど、決して消極的になるまい。私に愛を授け、このような環境を整えてくださった神に感謝します。自分の願望と決意を捨ててはいけない。諦めることはサタンと妥協すること、自滅すること、神を裏切ることと同じだ』これがあなたのもつべき心構えです。他人が何と言おうと、どのように振る舞おうと、神があなたをどう扱おうと、決意が揺らいではなりません(「真理の追求に必要な決意」『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。神の御言葉のこの讃美歌を聴いたとき、救われる希望を見つけたと感じました。私は何度もそれを歌い歌えば歌うほど、心の中に力が湧き上がりました。私がこのように暴かれ、刈り込みと取り扱いを受けたのは、自分を知ることで悔い改め、変化するよう、神が私に望んでいらっしゃるからだと気づきました。私を追放、淘汰することを望んでいらっしゃるからではないのです。しかし私は神を知らず、神を誤解し、神に対して警戒していました。そのため、自暴自棄になりながら、消極的な状態の中で暮らしていました。神は私を望んでいらっしゃらないと思ったからです。しかしその日、私は神の言葉を目にし、神の御心が私の想像とまったく違うことに気づきました。私の霊的背丈があまりに未熟で、このような状況になると消極的かつ弱くなり、真理を求める決意さえ捨てるということを、神はご存じだったのです。そのため神は御言葉を使って私を慰め励まし、どんな状況でも、人は常に真理を求めなければならないのだと気づかせてくださいました。失敗して転落したり、刈り込みと取り扱いを受けたりするとき、それはどれも完全に救われる過程の中で、必要とされる一歩なのです。自分を反省して、自己認識するようになり、悔い改めて変われる限り、私たちはそうした段階を経て、いのちの成長を経験します。いったんそれがわかると神を誤解することもなくなり、神に対して警戒していないと感じました。神がどんな計画や采配をなさろうと、それはどれも私にとって間違いなく有益であり、神は私のいのちに責任を負ってくださっていると思いました。そこで私は勇気を振り絞り、次に起きることと向き合う覚悟を固めました。

もちろん、自分を落ち着かせて再び反省もしました。なぜ自分はこれほどひどい失敗をして転落したのか。私の失敗の根源は何か。神の御言葉を読んで、それがようやくわかりました。神の御言葉にはこうあります。「自分の中に真理が本当にあれば、自然と正しい道を歩むようになります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、自分の中に傲慢さや自惚れがあれば、神に反抗しないようにするのは不可能であり、どうしても神に反抗せずにはいられません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、最後は自分を神の立場に置いて自分の証しをするようになります。最終的に、自分の発想や思考や観念を、崇拝すべき真理に変えてしまうのです。傲慢で自惚れた本性に支配された人がいかに多くの悪事を働くかをご覧なさい!自分の邪悪な行ないを解消するには、まず本性の問題を解決しなければなりません。性質の変化なくして、この問題の根本的解決は不可能でしょう(「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」『キリストの言葉の記録』)。それまで、私は自分の傲慢さを道理の上では認めていましたが、自分の本性を真に認識していたわけではなく、そのため依然として自分を称賛し、自分の観念と想像の中で暮らしていました。自分が傲慢なのはそうなるのにふさわしいからで、そのため兄弟姉妹が刈り込みと取り扱いを行なって助けようとしても、私はそれを無視したのだと思いました。完全に無視していたのです。でも神の御言葉を読んで、自分の傲慢で自惚れた本性が、神に対する反抗と抵抗の根源なのだとようやく理解できました。それは典型的なサタンの性質でした。このような傲慢で自惚れた本性の中で生きるとき、悪事を犯して神に抵抗するのは避けられません。教会指導者の本分を尽くし始めて以来、いつも自分を讃美していたことを振り返りました。自分は何でもできて誰よりも優れていると思い込み、万事において自分のやり方を貫こうとしました。それだけでなく、グループ全体の働きを引き受けて導き、兄弟姉妹を私の思い通りにさせたいと思っていました。自分の考えや決定が正しいかどうか、そこに偏見があるかどうか、教会の働きに損害を与えるかどうかなど考えもしなかったのです。あの兄弟が自分は間違ったことをするのが怖いから、何かあったら神に尋ね、神からはっきりした答えを得るまで、何もしないと言うのを聞くまでは、上層部のその兄弟は真理を自分のものにしており、神を畏れる心をもち、原則に従って物事を行なう人でした。それなのに、自分のことを完全に信じようとはしないのです。何かあったら神に尋ね、決定を委ねます。教会指導者は他の誰にもまして、万事において真理を求める必要があります。しかし私は神を求めず、神を畏れる心もまったくありませんでした。何かが起きるたび、自分の観念と想像に頼って道しるべとし、自分の考えを真理にしていました。自分は立派で重要だと思い込んでいたのです。それは典型的なサタンの性質ではないでしょうか。私は神と同格になることを望んだ大天使と一緒です。そしてそれは、神の性質に真っ向から背くことなのです。そうしたことをようやく理解して、自分の傲慢で自惚れた本性が恐ろしいものだと感じました。私はそのせいで、理知をもたずに生き、人を傷つけ、神に背くことを数多くしてしまいました。そのため怪物のように生きていたのです。しかし神は義でいらっしゃいます。サタンの本性に満ちた私のような人が暴れ狂い、神の家の働きを乱すのを、神がどうしてお許しになるでしょう。なので、私が指導者の本分から追われたのも無理はないのです。それは私のせい、自分は長年神を信じながら、自分の才能、そして観念と想像に頼って働きを行ない、真理を求めることがほとんどなかったことに気づきました。そのため、いまや真理の現実がほとんどなく、実際には霊的に貧しく憐れになってしまったのです。どうして自分は真理を求められないのか。自分の考えや判断が正しいといつも考えるのはなぜなのか。そのことは、私の心に神の居場所が少しもなく、ましてや神を畏れる心などないことを実際に証明していました。今日、私が本分の中で神に暴かれたことは、実際には神から私への注意、警告だったのです。もし改めなければ私は最後に淘汰され、地獄に送られるでしょう。それらを理解して神の裁き、刑罰、刈り込み、そして取り扱いは、実際には人々に対する神の愛と加護であり、そのすべてに神の善意があると感じました。神が人を裁いて刑罰なさるのは、その人を憎まれているからではなく、サタンの勢力とその人のサタン的性質からお救いになるためです。いったんそれを理解すると神への誤解が減り、神に対して警戒することも少なくなりました。また今後の日々、神が私にどのような状況を采配なさろうと、そのすべてには神の支配と采配があるのだから、私はそれに従おうと思いました。

私の本分には事後作業があって、私はそれを済ませる必要がありました。そしてそれは、神が私に悔い改めの機会を与えてくださっているのだと思いました。だから自分はこの最後の本分を立派に尽くさなければならない。その後、本分を尽くす過程で、自分の働きについて兄弟姉妹と話し合ったとき、自分が正しいと考えて、他の人に自分の言うことを聞かせるという傲慢な性質に頼ろうとはしませんでした。その代わり、兄弟姉妹に自分の意見を述べてもらい、最後は全員の考えを検討して決定を下しました。もちろん、見解に相違があるとき、傲慢かつ独善的になり、自分の見解にこだわって、他人の意見や助言を進んで受け入れないこともいまだにありました。しかし自分が失敗して転落し、刈り込みと取り扱いを受けたことを思い出すと不安を覚え、そこで神の御前に出て祈るのです。意識的に自分を捨て、その後は神を畏れる心でもって、兄弟姉妹と一緒に真理と原則を求めました。そのように本分を尽くしているととても安心できて、私の決定も吟味に耐えられました。そして兄弟姉妹とパートナーを組んだとき、自分の考えのいくつかが、実は一方的だったことに気づきました。兄弟姉妹と交わりを行ない、物事を掘り下げることは少なくとも私にとって真理の上、原則の上、見識の上で極めて有益でした。特に、兄弟姉妹に何かが起きたとき、彼らが神に祈り、求め、交わりを行ない、自分を軽々しく信頼しないのを見て、自分が真理を求めず、いとも簡単に自分を信頼するのはなぜかと考えました。すると、自分の傲慢と自惚れのせいで、自分は何でもしてしまえるのだとわかりました。私はサタンに極めて深く堕落させられており、兄弟姉妹に比べて決して優れた存在ではなかったのです。その後初めて、自分は兄弟姉妹より多少知識があるかもしれないけれど、霊の奥底では比較にすらならないことに気づきました。彼らに比べて神を畏れる心が少なかったのです。その点、兄弟姉妹は私をはるかに超えていました。そしてそれを知ったとき、一人ひとりの兄弟姉妹に長所があり、彼らに対する以前の自分の見方と違っていることに気づきました。実際のところ、兄弟姉妹は私よりも優れており、私には傲慢になる点などないと思いました。そこで私は頭を下げ始め、兄弟姉妹と仲良くなり、一緒によい働きを行なうことができました。事後作業が終わったとき、自分の取り扱いに関する教会の決定を静かに待ちました。ところが想像もしないことに、上層部のあの兄弟が、あなたは刈り込みと取り扱いを受けたあとも、依然として本分を尽くすことができ、多少の自己認識を得たようだと言って、本分を続けてよろしいと言ってくれたのです。彼はまた、私が本分を尽くす際の問題点をいくつか指摘してくれました。本分を続けてよろしいと聞いた瞬間、私は何も言えず、神に感謝するしかありませんでした。これを経験して、自分が暴かれ、骨身にしみる刈り込みと取り扱いを経て、ようやく自分のサタン的本性をいくらか認識したように感じました。しかし、その代価はとても高くつきました。本分を尽くす中で自分の堕落したサタン的性質に頼ったせいで、私は教会に損害を与えてしまい、原則に従えば懲罰を受けるべきでした。しかし神は、私をその逸脱に応じて扱う、代わりに本分を続ける機会を与えてくださいました。神のとてつもない慈悲と寛容を私は自ら経験したのです。

この経験を振り返るたび、本分を尽くす中で自分のサタン的本性に頼ったせいで、教会に損害を与えてしまったことを後悔します。また、「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」という神の御言葉は、まさにそのとおりだと思います。でもそれ以上に神の刑罰、裁き、刈り込み、そして取り扱いは、堕落した人類に対する神の最大の加護、最も誠実な愛だと感じています。

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