嘘をつく苦しみ

2023年10月6日

2019年10月、終わりの日の全能神の働きを受け入れた。集会で、兄弟姉妹は自分の経験や理解について交わり、自分の堕落や欠点を、何の不安もなくすべて打ち明けることができた。羨ましかった。僕も誠実な人になり、みんなのように心を開きたかったけど、いざそうしようとすると正直に話せなかった。あるとき、兄弟姉妹に訊かれた。「若いけど、まだ学生なの?」と。実は学校に行ってなくて、レストランで調理と清掃をしていた。でもそれがばれたら見下されると思い、そうだと答えたんだ。そのときはさほど気にしなかったけど、ある日、証しの動画で御言葉を見て、自分のことを省みた。「あなたがたは神が誠実な人を好むことを知らなければならない。実質的に神は誠実であり、神の言葉は常に信頼できる。それだけでなく、神の行動は完璧で疑う余地がない。だからこそ神は、神に対して絶対的に誠実な人を好むのである。誠実であるということは、自らの心を神に捧げること、万事において神に真実であること、万事において神に隠し立てしないこと、事実を隠さないこと、立場の上および下の人を欺こうとしないこと、神にこびへつらうためだけに行動しないことを意味する。要するに、言動において純粋であり、神も人も欺かないということである(『神の出現と働き』「三つの訓戒」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読んでわかった。神は誠実な人を好み、誠実な人は神に心を開き、言動がはっきりしていて、神も人も騙さない。でも僕は「まだ学生?」と訊かれても、見下されるのが怖くて本当のことさえ言えなかったし、まして神の前で誠実な人じゃない。誠実じゃないんだ。だからみんなに打ち明けようとしたけど、笑われるのが怖かった。でも打ち明けないのはつらいから、神に祈り、本当のことを言って誠実になる助けを求めた。その後集会で自分の堕落を打ち明け、嘘や不誠実さを明かすと、みんな見下さないだけでなく、いい経験ですねとメッセージを送ってくれた。誠実な人になる自信がついたよ。そのときは誠実さを実践し、本当のことを言ったけど、自分のサタン的本性にはまだ気づいてなくて、体面や利益に関わることがあると、自分を偽る不実な性質を見せてしまった。

その後僕は伝道師に選ばれ、三つの教会を担当することになった。同労者の集会で、指導者が各教会の新人の潤しについて尋ね、ちゃんと支えられていない新人がいる理由を訊いた。それを聞いて動揺した。僕が状況を知ってるのは一つの教会だけで、他の二つは知らなかったから。何を言えばいいんだろう?本当のことを言ったら、みんなにどう思われる?状況さえわからず、それでも伝道師か?この人は実際の働きをせず、この本分は無理だ、とか?異動や解任になったらそれこそ恥だ。その場から逃げたくなったけど、急にいなくなったら、実際の働きをしてないのがばれるのを恐れてると、みんなに気づかれる。だから、他の説教師が担当している働きについて話すのを、じっと聞くしかなかった。頭が真っ白になって、どうしていいかわからなかった。指導者に名前を呼ばれたが緊張して、聞こえないふりをした。「なんです?」って。指導者は言った。「新人の潤しを話してたんだ。君のところの新人はどうだ?」心臓が破裂しそうになった。まず状況を知ってる教会について話さざるを得ないけど、他の二つは嫌だ。でも、ちゃんと確認してないのをみんなに知られるのも怖い。だから歯ぎしりして嘘をついた。「第二の教会には、ちゃんと支えられていない新人が大勢いますが、コロナのせいで連絡できません。第三の教会の状況はよくわかりません。他の二つの教会の確認に忙しかったからです」。そう言ったけど落ち着かなかった。みんなに嘘がばれたらどうしよう。さらに恥をかく。集会中はずっと不安で、終わってやっとほっとしたよ。でも思いがけず、指導者から電話があった。「コロナのせいでちゃんと支えられていない新人だが、電話で確かめるよう潤し役に言ったのか?」と。どう答えればいいかわからなかった。具体的な状況は知らなかったから。本当のことを言ったら、指導者は僕の嘘に気づくだろうか?知らないとは言えず、ここでも嘘をついた。「そう言ったんですが、電話に出ない新人がいたんです」。すると指導者は「どの新人?」と訊いた。思ったよ。「指導者が問い詰めるのは、嘘がばれたからなのか?」慌てて答えた。「神の働きを受け入れたばかりの人だと思います」と。はっきり説明できない僕に、指導者は「わかったら知らせてほしい」と言った。電話を切って強い罪悪感を覚えた。また嘘をついて騙した。一つ嘘をついたら、次々つかなきゃならなくなる。それだと切りがない。思い返すと、三つの教会を担当するある伝道師が、そのうち一つはよく知らないと言っていた。彼が本当のことを言えるのに、僕が言えないのはなぜなんだ?こうした嘘、偽り、偽の見せかけで、本当のことは隠せない。神はすべてを吟味し、僕は遅かれ早かれ暴かれる。だから神に祈った。「神よ、今日の集会で、指導者から働きについて訊かれた私は、本当のことを言えず嘘をつきました。実際の働きをしていないのが知られ、見下されるのが怖かった。神よ、自分を知って堕落した性質を捨てられるよう、どうかお導きを」。

その後、この御言葉の一節を読んだ。全能神は言われます。「人は日々の暮らしの中で、無意味なこと、誤ったこと、無知なこと、愚かなこと、言い訳がましいことを数多く言います。根本的には、自分の自尊心のために、また自分の虚栄心を満たすためにそうしたことを言います。人がこのような偽りを口にするのは、堕落した性質が溢れ出しているのです。この堕落を解決することで、あなたの心は清められ、かくしてますます純粋に、ますます正直になります。実のところ、人はみな、なぜ自分が嘘を言うのか知っています。それは自分の利益や面子、虚栄心、地位のためです。また自分と他者を比べる中で、虚勢を張りすぎます。結果として、その人の嘘は暴かれ、他人から見透かされ、逆に面子を失い、人格を失い、尊厳を失ってしまうのです。これが嘘をつきすぎることの結果です。嘘をつきすぎると、口から出る言葉はどれも汚れてしまいます。それはどれも偽りであり、本当のことや事実に基づくことは一切あり得ません。嘘をついても面子を失うことはないかもしれませんが、すでに内面で面目が潰れたと感じています。良心の呵責を感じ、自分を軽蔑して見下します。『わたしはなぜ、ここまで惨めに生きているのか。正直なことを一つでも言うのは、本当にそれほど難しいことなのか。ただ面子のために、このように嘘をつく必要があるのか。このように生きるのはなぜこれほど疲れるのか』。疲れない生き方は可能です。正直な人であることを実践すれば、気楽に、かつ自由に生きることができますが、面子や虚栄心を守ろうと嘘をつくことを選ぶなら、あなたの人生はとても疲れるつらいものになります。つまり、それは自ら引き起こした苦痛です。嘘をつくことで得られる面子とは何ですか。それは空虚なもの、価値がまったくないものです。嘘をつくとき、あなたは自分の人格と尊厳を裏切っています。嘘によって人は尊厳を失い、人格を失います。そして神はそれを喜ばず、憎みます。それだけの価値はありますか。まったくありません。それは正しい道ですか。違います。頻繁に嘘をつく人は自分のサタン的性質に囚われ、サタンの支配下で生きているのであり、光の中や神の前では生きてはいません。あなたはどのように嘘をつくかをしょっちゅう考えなければならず、嘘をついた後はどのようにそれを覆い隠すかを考えなければなりません。上手に覆い隠さないと嘘が明るみに出てしまうので、隠すために知恵を絞らなければなりません。これは疲れる生き方ではありませんか。非常に疲れます。それだけの価値はありますか。まったくありません。ただ虚栄心と地位を守るために頭を絞って嘘をつき、隠蔽することにどんな意味がありますか。結局はそのことを考え、内心こう思うのです。『なぜ自分をこんな目に遭わせるのか。嘘をついて隠すのはあまりに疲れる。このようにしてもうまくいかない。誠実な人でいるほうが簡単だ』。あなたは誠実な人でいたいのですが、面子や虚栄心や利益を手放すことができません。嘘をつき、嘘を使ってそうしたものを守ることしかできないのです。……嘘を使えば自分が望む評判や地位や虚栄心を守れると考えているかもしれませんが、それは大きな間違いです。嘘はあなたの虚栄心や個人としての人格を守れないだけでなく、もっと深刻なことに、真理を実践して正直な人になる機会を失う原因にもなります。そのときは評判と虚栄心を守っても、あなたが失うのは真理であり、あなたは神を裏切っています。つまり、神の救いを得て完全にされる機会をすっかり失ったのです。これは最大の損失であり、永遠に後悔することになります。不正直な人には、このことが決してはっきりとわかりません(『終わりの日のキリスト講話集』「誠実になることでのみ、真の人間として生きられる」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉は僕の状態を暴いた。各教会の潤しの状況を指導者が訊いたのは、実に単純なことで、本当のことを言って問題ないのに、僕にとっては困難そのもの。不安に襲われ、指導者や他の伝道師が本当のことを知ったら僕を見下し、実際の働きをせず、こんな些細なことも掴めないのかと言うのが怖かった。解任されたら、恥をかく。名誉と地位、みんなからの好印象を守ろうと、1つの教会しかわからないのに、他の2つも調べたと嘘をついて、2番目の教会について詳しく話し、コロナのせいで新人が支えられていないと言ったほど。あからさまな嘘じゃないか。潤し役は新人に電話をかけたのかと指導者に訊かれると、さっきの嘘がばれるのではと思い、また嘘をついて最初の嘘を隠し、言い訳をして指導者から逃げた。体面と地位を守るため、嘘に嘘を重ねるなんて、本当に詐欺師だ!聖書にある神とサタンの対話を思い出した。どこから来たのかと神に訊かれたサタンは、こう答えた。「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」(ヨブ記 1:7)。サタンは狡猾だ。神の質問に直接答えず、回りくどい話し方をする。サタンがどこから来たのかわからない。口から出るのは嘘だけで、決して正直に話さず、曖昧なことを言うばかり。嘘をついて騙した僕は、悪魔サタンと同じじゃないか?指導者に訊かれて働きのことを答えたけれど、それはすべて嘘。答えを聞いた指導者は、僕が担う潤し業務の状況がわからず、ちゃんとフォローしているか判断できなかった。実際、こんな嘘と欺瞞じゃ自分の面子や地位は一時的にしか守れないし、実際には人格、尊厳、みんなの信頼を失った。このままだと遅かれ早かれ、僕は誠実で信頼に足る人じゃないとみんなに見抜かれる。誰も信用してくれないし、神にも信用されない。それだと、人格と尊厳を完全に失ってるんじゃないか?僕の愚かさじゃないか?

その後、この御言葉を読んだ。「神が人に誠実になるよう求めているのは、神が不実な人を心から憎み、嫌っていることを証明しています。神が不実な人を嫌うのは、彼らの物事のやり方、性質、意図、騙す手段を嫌悪しているということです。これらのすべてを嫌っているのです。不実な人が真理を受け入れ、自分の不実な性質に気づくことができ、神の救いを進んで受け入れるなら、そうした人にも救われる望みがあります。神はすべての人を平等に扱い、真理もまたそうだからです。それゆえ、神を喜ばせる人になりたいのであれば、最初にするべきは振る舞いに関する自分の原則を変えることです。つまり、これ以上サタンの哲学に従って生きることも、嘘や欺瞞でうまく切り抜けることもできず、嘘を残らず捨て去り、誠実な人にならなければなりません。すると、わたしたちに対する神の見方が変わります。人はこれまで、他者のあいだで暮らしつつ、絶えず嘘や見せかけや欺瞞に頼り、サタンの哲学を生存の基礎、いのち、および人間としての振る舞いの土台として用いていました。これは神が忌み嫌うことです。非信者のあいだでは、率直に語り、本当のことを告げ、誠実な人でいると、中傷され、批判され、見捨てられます。そのため、あなたは世俗の潮流に従い、サタンの哲学で生き、ますます嘘をつくのが上手になり、さらに不実になります。また、目標を成し遂げて自分を守るために、陰険な手段を用いるようになります。あなたはサタンの世界でますます栄え、結果として罪の中にますます深く沈み込み、ついには脱出できなくなります。神の家では、まさにこれと正反対です。嘘をついて不実な策略を働かせるほど、神の選民はあなたにうんざりし、あなたを見捨てます。悔い改めるのを拒み、なおもサタンの哲学と論理にしがみつき、駆け引きや巧妙な策略を用いて自分を偽装し、正体を隠すなら、暴かれ淘汰されるのは間違いありません。これは、神が不実な人を憎むからです。神の家では誠実な人しか栄えることができず、不実な人はいずれ見捨てられ、淘汰されます。これはすべて神によってあらかじめ定められたことです。天国では誠実な人にしか分け前がないのです。誠実な人になろうとせず、真理の追求に向かって経験や実践をせず、自分の醜さをさらけ出さず、真の顔を見せないなら、聖霊の働きを受けることも神の承認を得ることも決してできません(『終わりの日のキリスト講話集』「正直であることの最も基本的な実践」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を考えるうちに気づいた。神は誠実でない人を好まず、救わない。サタンに属しているからだ。誠実でない人は何をするにも欺瞞や策略を使い、正直に話さないが、それはすべて体面、地位、利益を守るため。こうした人が抱える意図や用いる手段を、神は憎み、嫌悪する。僕は神を信じているが、何の真理も得ることなく、こんなサタンの性質で生きていた。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」、「樹皮があることで木が生きられるように、人は体面を保つことによって生きている」。こんなサタンの哲学が心に根ざし、僕を惑わし堕落させ、名誉と地位を追い求める道を歩ませた。人は自分のために生き、傑出して名声と利益を得るべきで、それでようやく他人に見下されない人になると考えていた。本当のことだけを言って嘘をつかないなら、その人は馬鹿で役立たずだと。そのせいで僕は自分の利益のためにいつも騙し、嘘を重ね、ますます正直でなくなって、人間らしさを欠くようになった。名誉と地位を真理よりも重要視して、体面や地位を守ろうと、進んで嘘をついて真理に背いた。サタンは嘘つきだけど、こんな風に人を騙す僕も同じじゃないか?この悪しき世で、誠実で率直な人は苦労する。でも神の家では真逆だ。そこでは義と真理が実権を握り、騙せば騙すほど立っていられず転落し、人を騙す者はみな神に暴かれ、淘汰される。神は言われます。「人が救われたいなら、まず正直になることから始めなければなりません(『終わりの日のキリスト講話集』「いのちの成長を表す六つの指標」〔『言葉』第3巻〕)。「天国では誠実な人にしか分け前がないのです……」。神は聖く、汚れた人は天国に入ることを許されない。それに気づいて、神の聖く義なる性質は背きを許さないと感じ、兄弟姉妹に嘘をついたことを後悔した。心から自分を憎み、もう嘘をついて人を騙すまい、真理を実践して誠実な人になり、正直に物を言おうと思った。口から嘘を、心から欺瞞を取り除き、神に認められて天国に入るのにふさわしくなろう。

ある日のデボーションで、この御言葉を読んだ。「誠実さの実践は、多くの側面に及びます。言い換えると、誠実であることの基準は、一つの側面だけにおいて満たすものではなく、誠実になるには多くの側面で基準を満たさなければならないのです。誠実になるには嘘をつきさえしなければいいといつも考えている人がいます。この見方は正しいですか。誠実であるとは、ただ嘘をつかないということですか。違います。それ以外にもいくつかの側面が関わっています。第一に、自分の目で見たことであれ、他の誰かから聞いたことであれ、または人とのやり取りであれ、問題を整理することであれ、あるいは自分が尽くすべき本分であれ、神からあなたに託されたことであれ、何に直面しようとも、常に誠実な心でそれに取り組まなければなりません。誠実な心で物事に取り組むには、どのように実践すべきですか。考えていることを言葉にし、誠実に話しなさい。空虚な言葉や官庁の用語、あるいは聞き心地のよい言葉を語ったり、お世辞や偽善的な偽り事を言ったりしてはいけません。そうではなく、心の中にある言葉を語りなさい。これが誠実な人であるということです。心の中にある真実の思いと観点を表現する――これが、誠実な人がすべきことです。考えていることを決して口にしないので、心の中でその言葉がわだかまりとなり、口で言うことと考えていることが決して一致しないというのは、誠実な人がすることではありません(『終わりの日のキリスト講話集』「正直であることの最も基本的な実践」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉は実践の道を与えてくれた。人との交流であれ本分の扱いであれ、誠実な心で取り組まないと。僕はしっかり確認せず、本当のことを言わなかった。体面が傷つくかどうかを考えちゃ駄目で、誠実な人になるのが大事なんだ。

次の同労者の集まりで、率先して自分の堕落を明かそうと思ったけど、みんなにどう思われるか不安だった。また体面と地位を守ろうとしていると気づき、心の中で神に祈った。導いて力を与え、堕落を明かす勇気を授けてほしいと。前に読んだこの御言葉を思い出した。「神の言葉どおりに実践せず、自分の秘密や課題を検討せず、交わりで人に自分の心を開くことも、自分の堕落や致命的な欠点を伝えたり、分析したり、明るみに出したりすることもないなら、あなたが救われることはあり得ません(『終わりの日のキリスト講話集』「正直であることの最も基本的な実践」〔『言葉』第3巻〕)。誠実な人になろうとせず、堕落や欠点を隠し続け、心を開いて自分を明かさず、分析もしなければ、堕落した性質はなくならないし、救われることもない。再び神に祈った。「神よ!心を開いて誠実な人になれるよう、力をお授けください」と。祈った後、率先してみんなに打ち明けた。「前の集会で指導者から新人の潤しについて訊かれたとき、僕は嘘をついた。実は1つの教会のことしか知らず、他の2つは知らなかったんだ。本当のことを言えばみんなに見下されると思い、2つの教会のことも知ってると嘘をついた。みんなを騙したんだ」。こう言うと、みんなは責めも見下しもせず、逆に、心を開いて誠実な人になれたのはいいことだと言ってくれた。こう実践すると、心がずっと落ち着いた。自分を隠し続けていたら、こうした気づきも収穫もなかったはずだ。

それから、上級指導者に訊かれた。「教会指導者の状況を把握しているか」と。そう訊かれて自信がなかった。僕が状況を知ってるのは1つの教会の指導者だけ。他の2つのことは知らない。「本当のことを言えば、実際の働きをしてないと言われるだろうか?」知ってると答えようとしたけれど、また嘘をつこうとしてると気づき、神に祈って本当のことを言った。「1つの教会の指導者についてはわかりますが、他の2つについてはわかりません」。それを聞いた指導者は批判せず、代わりに提案してくれた。教会指導者の状況を電話で定期的に尋ね、すぐに問題解決するようにと。そして歩むべき道を教えてくれた。真実を語って誠実な人になり、堕落や欠点をあえて明かせば、兄弟姉妹の助けを得てより多くの収穫を得られる。以前の僕は、体面と地位を守ろうと嘘をついて騙したけど、嘘をつくたび心が重くなって良心の咎めを感じ、何より人格と尊厳を失った。この経験でわかったよ。誠実な人は神にも人にも好まれ、誠実であればあるほどみんなとの関係も良好になり、心が穏やかになる。見下されることなんかないし、むしろ兄弟姉妹に助けてもらえる。誠実な人になるのは素晴らしい。誠実な人になって初めて、神の祝福を得て天国に入れるんだ!

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

モアブの子孫の試練

全能神は言われます。「今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は…

神の証しをする方法をどのように学んだか

去年の六月、潤し役の執事に選ばれ、終わりの日の神の働きを受け入れた人を潤すことになった。「本分をしっかり尽くして神の愛に報いなきゃ」って思ったわ。最初は多くの困難に見舞われた。仕事が忙しくてちゃんと集会に出てこない兄弟姉妹もいれば、宗教界や共産党の中傷に騙され、集会に出たがらない…

信仰:力の源

去年の夏だ。インターネットで調べていたら、兄弟姉妹がたくさんの真理を交わってくれた。例えば、主が再来する方法、神の御声を聞いて主を迎える方法、真のキリストと偽キリストの見分け方、神の6千年計画、真理のさまざまな側面など。全能神の御言葉もたくさん読んだ。2か月ほど調べてみて、全能神…

本分を尽くす意義がやっとわかった

韓国 寻求 全能神は言われます。「人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、つまり、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。そうすると、その人の本分は尽くされる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと、裁きを受ける過程を通して少し…