見た目で判断するのはまったく馬鹿げている
私は以前、人をよく見た目で判断し、魅力的で、博識で、雄弁な人を特に尊敬していました。このような人は思慮深く、他人の理解に優れ、一般的に善良で親切だと信じていたのです。しかし最近ある現実に直面し、この馬鹿げた考え方を改めるようになりました。
ある夜の夕暮れ前、滞在先のホストファミリー宅に戻ると、スーツと革靴を身にまとい、上品な話し方と振る舞いを見せている若い男性がいました。彼は精巧な眼鏡をかけていて、それが教養豊かな学者のような姿をさらに際立たせていました。私のホストマザーが私たち二人を紹介し、この男性は自分の息子で、現在大都市の地方政府で官僚として働いていると教えてくれました。貧しい環境で育ち、小さいときに学校を中退してしまった私は、有名校を卒業した高学歴と、社会的地位の高い職業に就いていることに対してはもちろんのこと、彼の上品な服装と、洗練された魅力ある姿に極度の嫉妬を感じました。このような魅力と学識を兼ね備えた人に会ったのは本当に生まれて初めてのことでした。これほど教養があり、高い地位と上品さに恵まれた人だから、感じがよくて、思いやりがあって、理性的な人に違いないと、心の中で思いました。そう思いながら、私はこの若い男性と信仰について話し合おうとしたのですが、それに対する彼の反応は私の期待と正反対でした。彼は声を上げながら立ちあがり、拳をテーブルに叩きつけ、「今すぐここから出て行け!出て行かなかったら警察を呼ぶぞ!」と叫びだしました。そしてすぐに携帯電話を取り出し、110番に電話をかけ始めました。私は慌てながら、「ちょっと、警察に電話だなんて冗談ですよね」と言って彼を落ち着かせようとしました。しかし、彼は私に今すぐ出て行けと頑固にしつこく要求し続けました。完全にあっけに取られた私は、どうすればいいのかわからなくなりました。時計を見るともうすぐ夜の十時です。今ここを追い出されたらどこで寝ればいいのでしょう。そう思ったとき、ホストマザーが、「もう遅いから、明日出て行けばいいわ」と言いました。すると息子は、私がこの家でもう一晩過ごそうと考えているのを見てとり、さらに興奮して私を戸外に押し出しながらこう声を上げました。「政府の役人を務め、公的資金を受け取っている私が、伝道者を家に入れられる訳がないだろう。今すぐ出て行け!」そう言って怒りも露わに私の自転車を掴み、それを私に向って投げつけ、私と自転車を戸外に押し出しました。ホストマザーは、私を他のホストファミリー宅に連れていこうと私の後を追ってきましたが、息子がそうはさせまいと彼女を家の中に連れ戻し、扉の鍵をかけようとしました。去りゆく中、ホストマザーの大声が聞こえました。「こんな遅くに女の子一人でどこに行けと言うの」これに対して息子は、「どこへでも行かせればいい。神の加護があれば何も怖くないだろう」と叫び返し、ホストマザーを家の中に引きずり込みました。
夜空に瞬く星と、高速道路を疾走する車のヘッドライトをぼんやりと見つめながら、私は悲しくなり、心が沈みました。その時、胸の奥からこのような怒りが湧いてきました。「私があなたの家で暮らすのが嫌なのは構わない。でも、ホストマザーが私を他のホストファミリー宅まで連れて行こうとするのを止める必要なんてないじゃないか。なんと無慈悲で意地悪な人だろう。ホームレスだってこんな扱いは受けない。他のホストファミリーがどこにいるのかもわからないし、こんな夜中に行くところがなくて取り残されてしまった。一体どうしたらいいんだろう……」このような考えが頭の中を駆け巡り、目に涙が溢れてきました。その瞬間、ホストマザーの息子が見せた魅力、知識、地位、そして上品さに対する好印象が完全に消えて無くなりました。すると、ある説教の言葉が頭に浮かびました。「神に反抗し、神を虐げる者を真に善良な人と呼べますか。人はサタンに堕落させられて以来、人生哲学を利用して自分を偽り、覆い隠すことに熟練するようになりました。一見すると人のようですが、誰かが神の証しを始めたとたん、悪魔のような本性が姿を現します。多くの人がこれに気づきません。そのため、他人が発する陳腐な言葉や優雅な物腰によく目がくらみ、騙されてしまいます。神の御言葉と働きは人の本性を最もよく明らかにします。真理をもたない者は偽善者に過ぎません。真理を理解する者はこれを明確に捉えることができます。真理を理解しない者は明確に捉えることができず、その結果、彼らの馬鹿げた観点が誰の目にも明らかになります。」(『説教集――いのちの糧』収録の「観点の根本的な変化は、真理を真に理解した印である」より)これらの言葉を深く考えていると、すぐあることに気がつきました。確かに、まさにこの説教が述べているとおりです。堕落した人はみな自分を偽ることに長けており、外面的に洗練されて物腰が丁寧なように見えたからといって、その本質が善良だというわけではありません。真理を愛して受け入れられる人だけが善良で親切な人なのです。外面的にはよく見えても、神様を認めることも、神様が表わされた真理を受け入れることもなく、神様に反抗し、苛立ち、憎むことさえできるなら、その人が善良な人と呼ばれることはあり得ません。しかし私は、自分の想像と世俗的な世界観によって他人を判断していました。知識と地位と上品さを持ち合わせた人は必ず思いやりがあり、理性的で、他人に対する理解力を兼ね備えていると常に考えていました。私の観点はこれ以上ないほど馬鹿げていました。神様を信じない人は神様に反抗する悪魔だということを知らなかったのです。外見は教養があり魅力的に見えても、内面では真理を嫌悪し憎んでいます。信仰と信者に対するあの役人の態度はその完璧な実例です。外見は魅力的で、雄弁で、教養があるように見えた彼も、私が信仰に関する事柄を持ち出したとたん、すっかり理性を失いました。私を非難し、追い払い、脅したその姿はサタンの本性を完全に露呈していました。この事実を見た私は、外見に現われるものだけで人を評価してはならないことに気づきました。重要なのは神様に対する態度、真理に対する態度を見ることなのです。その人が真理を愛さず受け入れもしないなら、知識や地位がどれほど優れていようと、外面がどれほど印象的に見えようと、どれほど洗練されていようと、真に善良ではないのです。
私はこの経験を通じ、自分は人をその本質から見ておらず、むしろ外見で判断していたことに気づきました。なんと哀れで無知だったことでしょう。神様に何年も従ってきたのに、依然として真理を理解しておらず、明らかにそれを自分のものにしていなかったのです。真理をもつ人だけが人を識別し、おかれた状況の真の本質を見極められるのであって、真理を理解していない人は、何においても真の本質を見極めることができません。私は将来、真理を理解すること、真理を自分のものにすること、神様の御言葉によって人や状況を見分けられるようになること、自分の馬鹿げた観点をすべて正すこと、そして神様と相容れる人になるべく追求することを誓います。
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