私は神の御前に引き上げられた

2022年4月5日

インドネシア 张岳

20歳の時、私は洗礼を受けて主イエスを求めました。主イエスの愛と教えについての牧師の説教に心が温まり、教会の兄弟姉妹は皆、互いに助け合っていました。私は楽しく教会に通っていました。牧師はよくこう言ってました。「主イエスは人の罪を贖うため、十字架にかけられました。彼は復活し、私たちの場所を用意しに天に昇られました。準備を終えたら、私たちを天に迎えるため戻ってこられます。主イエスはこう約束されました:『あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである(ヨハネによる福音書 14:2-3)。テサロニケ人への第一の手紙4章17節にも:『それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう』」。牧師はよくこう言われました。「主を信頼している限り、主が来られた時、私たちを天に連れていき、私たちは主と永遠に共にいるでしょう。天では悲しみも病気も涙もありません。喜びと平和しかない……」私はこれらの聖句に希望と心の支えを見い出しました。最後まで主に従い、耐え抜く限り、私は天に引き上げられ、主の祝福を味わえると信じました。私は主が早く天に引き上げてくださることを常に望んでいました。

2017年9月のある日、フェイスブックを通してウァン兄弟と知り合いました。彼は言いました。「主イエスはすでに全能神として戻っておられます。終わりの日に真理を表し、裁きと清めの働きを行うために」と。これを聞いて、私は本当にびっくりしました。主イエスがすでに戻ってきている? どうしてそんなことが? 主の約束はまだ実現していないのに、なぜ戻っていると言えるのか? ウァン兄弟の話を遮り、私はこう言いました。「主イエスが戻られる時、私たちは主に会うために雲に包まれ引き上げられます。でも私たちはまだ地上にいるし、誰も引き上げられていません。どうして主イエスが戻ってきたと?」彼は、終わりの日における全能神の働きを追求し、調べてみるよう助言しました。質問があれば交わりを持てるとも言ってくれました。でも彼の話は私の理解と違っていたし、仕事が結構忙しかったので、ウァン兄弟には連絡しませんでした。

その後、11月に会社の改築工事で、仕事が1ヶ月中断しました。突然自由な時間ができたのです。私はよくフェイスブックで友達とチャットしていました。友達の多くが、全能神の教会の動画やビデオ、証しの記事、音楽ビデオ、賛美歌を投稿していることに気づきました。私は主イエスがすでに戻っているというウァン兄弟の話を思い出しました。そこで興味がわきました:「全能神の教会」とはどんな教会なのか? なぜそんなにも早く広がっているのか? ある有名な言葉が頭に浮かびました:「神から来たものは栄えなくてはならない!」全能神は本当に再臨した主イエスなのでしょうか? でも思いました。「私たちはまだ携挙されていないし、神の約束は実現されていない。実際何が起きているのだろうか?」とても混乱しました。そんなある日、友達のリ姉妹とフェイスブックでチャットしている時、彼女にこう聞きました。「全能神の教会って聞いたことある?」返事は「はい」でした。主イエスはすでに戻ってこられたと公に証言している唯一の教会で、いとこも全能神を受け入れたばかり。2度一緒に説教を聞きに行ったとのことでした。その説教はとても新鮮で勉強になり、信仰についての不明点がたくさん解消されたため、全能神の教会について調べてみることにしたそうです。

リ姉妹が教会について調べると聞いて、少し気になり、すぐに返事をしました。「テサロニケ人への第一の手紙4章17節にあります:『それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い』。でも私たちは皆まだ地上にいて、天に引き上げられていません。どうして主はすでに戻ってきたと言えるのでしょう? 偏よった考えに惑わされないでください」こう言いました。「偏よった考えではありません。まず詳しく調べないで盲目的に拒むのも間違っています。主の御旨ではありません! もし全能神が本当に再臨した主イエスなら、詳しく調べずに見過ごしたことを心から後悔するでしょう主イエスは言われます。『すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである(マタイによる福音書 7:8)。心を開いて求める限り、私たちは必ず報われます」リ姉妹の言葉は理にかなっていると思いました。主を喜んで受け入れることは、天国に入ることに直接関係しています。軽んじてはいけない。

というわけで、私はリ姉妹と共にさらに詳しく調べるため、全能神の教会のウェブサイトを見ました。そして映画「危うく引き上げられる」を観て、映画の中の3人の会話に深く感動しました。グゥオ兄弟が黙示録の預言をいくつか読む場面です:「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、……人の子のような者がいた(ヨハネの黙示録 1:12-13)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(ヨハネの黙示録 2,3章)。彼はこう言いました。「これらの聖句は終わりの日に戻られる時、教会に語る人の子として主は受肉することを示しています。主イエスは言われています。『わたしの羊はわたしの声に聞き従う(ヨハネによる福音書 10:27)。私たちは賢い乙女となって、神の御声を求めるべきです。聖霊が教会に語るところでは、神の御声も存在します。また神の現れと働きもです。神の御声を聞き、神の働きを受け入れ、神の御座に戻った後のみ、私たちは携挙されます! 『携挙』には神の御声を聞き、受肉した人の子を受け入れ、神の御前に行くことを伴うのは理解できます。それが携挙の真の意味です。主の再臨を受け入れなければ携挙されません。神に棄てられるでしょう。」次にヂォウ兄弟が言いました。「主は終わりの日に地上での働きをするために、人の子として受肉されます。受肉した人の子を受け入れる時、私たちは携挙されます。私たちは賢い乙女になり、神の御声を求めなくてはなりません。聖霊の御言葉を探し、神を受け入れることで私たちは真に携挙されます!」ツェン兄弟はこう言いました。「今、私たちは真の携挙の意味を知っています。携挙とは、私たちを探すために主が地上に来られる時、主の御声を聞き、ついに主の御前に戻る時です。低い場所から高い場所へと移ることとは関係ありません。天におられる主が天に引き上げてくださると、私たちは信じていました。でもそれは私たちの想像の産物です。成立しません!」

このシーンまで映画を見て、少し混乱しました。だからリ姉妹に尋ねました:「これは私が考えていた携挙とは違います。私はずっと誤解していたということですか? 牧師はいつもこのように説明していました。携挙とは、主イエスが戻られた時、空中で一緒になるため引き上げられることだと。これは間違った解釈なのでしょうか?」

リ姉妹はこう答えました:「映画の彼らの言葉には得られるものが多いです。聖書には、聖い人だけが主を見ると書かれているのです。罪と懺悔を繰り返す私たちは、主に会うにふさわしいでしょうか? 主に会うために空中に引き上げられるという考えは少し曖昧ではありませんか? 全能神の教会の兄弟姉妹はこう言っています。主イエスは人類の罪をゆるすという贖いの働きだけをされました。けれども人の堕落した性質と罪深い本性はなくなっていません。人はまだ罪を犯し、神を拒むので神の国に入ることができません。人類を救うために、神は終わりの日に肉となりました。主イエスの働きを土台に、神は真理を表し、罪の原因を根絶するために人を裁き、清めています。人が罪から解放され、救われ、神の国に入れるようにするためです。だから、携挙は私たちが想像しているような単純なものではないと思います」。

リ姉妹の言葉を聞いて、携挙には奥義があるように思えたので、私も知りたいと思いました。そこで私たちは全能神の教会のウァン兄弟に連絡し、私たちの混乱について話しました。「テサロニケ人への第一の手紙4章17節にはこうあります:『それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い』。私たちは映画『危うく引き上げられる』を観ました。携挙とは、ここ地上で主の御声を聞き、主が戻られる時に主の御言葉と働きを受け入れることだとありました。聖書に書かれているような、主に会うために空中に引き上げられることではありません。これは聖書の言葉と矛盾しませんか?」

彼はこう言いました:「携挙の奥義については、誰も完全に理解していません。神だけがご存じです。主の御言葉と黙示録の預言に基づいて真理を求めるべきです。それだけが正しいのです。主の祈りは何と語られていますか? 『天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように(マタイによる福音書 6:9-10)。主イエスははっきりと語られています。神の国は終わりの日に地上に降りてきます。天にあるのではありません。天と同じく地上でも御旨は行われます。黙示録にはこうあります:『また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして(ヨハネの黙示録 21:2-3)。『この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう(ヨハネの黙示録 11:15)。預言はこう述べています。『神の幕屋が人と共にあり』『この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった』『新しいエルサレムが……神のもとを出て天から下って来る』これらの言葉が証言しています。つまり神は終わりの日に地上での国を築かれ、人と共に住まれるのです。そして、世界の国すべてがキリストの国になります。これを信じるなら、神の国は天にあり、主が戻られる時、私たちを天に引き上げられるという考えはこれらの預言と矛盾しませんか?」

この時、私はこう思いました:「クリスチャンとして、私はずっと主の祈りを祈ってきました。神の国が来て、御旨が天に行われるように地にも行われるようにと。黙示録にははっきりと書かれています。『神の幕屋が人と共にあり』『この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった』『新しいエルサレムが……神のもとを出て天から下って来る』一目瞭然です。私はどうして気づかなかったのでしょうか? なぜ牧師や説教師はこれらの聖句について語らなかったのでしょうか? 全能神の教会の人たちの説教は非常に勉強になりました。一語一句単純明快に話してくれたので、聞けば聞くほど興味を持ちました」でもまだ抱いていた疑問をウァン兄弟に尋ねてみました:「神が地上に国を築くという話は新鮮で素晴らしく、聖書に沿っています。けれども主イエスはこう約束されています:『あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである(ヨハネによる福音書 14:2-3)。主イエスが復活し、天に昇られた時、私たちの場所を用意されました。だから、その場所は天にあるべきです。この聖句は他にどう解釈できますか?」

ウァン兄弟はこのように説明してくれました:「すべての主の御言葉には奥義があります。自分たちの観念や想像によって、神の働きの範囲を定められません。神の働きは計り知れないのですから。神がすべての働きを終えられ、それを私たちに現わされた後のみはっきりと見ることができるでしょう。終わりの日における全能神の働きを受け入れ、神の働きの実りを見た後でのみ、主が私たちの場所を用意するということの意味がわかるのです。それは、神の働きを地上で行うため、終わりの日に受肉されるということ。また、神の働きを受け入れるため、私たちが終わりの日に生まれるよう運命づけたということです。これは主イエスのこの御言葉を成就しています:『わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである(ヨハネによる福音書 14:3)。だから、主イエスが私たちのために用意される場所は地上であり、天国ではありません」。私は自分がどんなに無知だったかに気づきました。主は終わりの日に語り、主の働きをするために地上に来られました。それなのに私は空を見上げて、主が引き上げてくださるのを待っていたのです。私は完全に誤解していました! そんな私が、どうやって主を歓迎し、携挙されるでしょうか?

それからウァン兄弟は全能神の御言葉を読みました全能神は言われます。「神と人が共に安息に入るというのは、人類が救われたこと、サタンが滅ぼされたこと、人における神の働きが全部終わったことを意味する。神はもはや人の中で働き続けず、人ももうサタンの支配下で生きることがなくなる。このように、神はもう忙しく働かず、人はもう絶えず動き回らない。神と人は同時に安息の中に入る。神は本来の場所に戻り、各人もそれぞれの場所に帰る。これは、ひとたび神の経営全体が終わった後に、神と人が身を置く終着点である。神には神の終着点があり、人には人の終着点がある。神は安息の中にあっても、地上における全人類の生活を導き、その間、神の光の中にあって、人は天にいる唯一の真の神を崇める。神はもはや人のあいだで生きず、人も神と一緒に神の終着点で生きることはできない。神と人は同じ領域の中で生きることができず、むしろ、それぞれの生き方がある。神は全人類を導く存在であり、全人類は神の経営の働きの結晶である。人間は導かれる存在であり、神と同じ実質を有していない。『安息』とは、自分自身の本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神が本来の場所に戻ったことを意味する。神が地上で生きること、あるいは人のあいだにあって苦楽を共にすることはもはやない。人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を崇め、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背くことも逆らうこともなく、原初のアダムとエバの生活に戻る。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と終着点である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いにおける必然的な傾向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと、人が完全に救われ安息に入ることは、同様に避けられない傾向となった。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を崇め、地上で生きる。一方、神は安息の中で残りの人類を導くが、地上からではなく天から導く(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)

それからウァン兄弟はこう言いました:「はじめに神が人をちりから造られたのは地上でした。人がサタンによって堕落させられたのも、神がその働きによって人類を導き贖われたのも地上でした。終わりの日の今、神は再び受肉され、人を裁き清めるため真理を表されています。人の罪深さをなくし、勝利者の群れを作るためですこれらの勝利者は神の御言葉を聞き、服従し、神の道に従うことができます。御旨が行われ、キリストの国は神の栄光をもたらすために、ここ地上でも築かれるでしょう。人を救う神の経営の働きが完了した時、神はサタンを打ち負かします。サタンの勢力はもはや世界を混乱させられません。残るものはすべて、神が救われた人になります。人はもはや神を拒んだり、反抗したりしません。人類は平和に暮らし、戦争はもう起こりません。そして神と人は共に休息に入るのです。神の休息の場は天にありますが、人の究極の休息の場は地上にあります。神は天のご自分の場所から人類を導かれます。そして人は地上で神を崇拝し、天のような暮らしを楽しむのです。これが、神が人類に用意された調和のとれた素晴らしい生活です。これこそ神が最終的に達成されることです」。

ウァン兄弟の言葉は非常に現実的でした。サタンが滅ぼされる時、この世は闇と悪の勢力から解放され、神が計画されている生活は最も素晴らしいものになります! 携挙に対する私の概念は非常に曖昧でした。神は地上に住むように人を造られたのに、どうしてそんなに簡単に人が天に昇れるのでしょう? 本当に神が人を空中に引き上げるとしたら、食物や住処なしにどうやって生きられるのでしょうか? 空中で主に会うという考えは、まさに人の観念と想像の産物です子供じみた考え方です。私はよく、神の国が天にあると牧師が語るのを聞きました。私はそれを心から信じ、天に引き上げられることを熱望しました。牧師や説教師は聖書を理解していないのだと思います! 自分の観念によって神の御言葉を誤解したのです。彼らは人々を誤って導いています!

ウァン兄弟は話を続けてこう言いました:「本当の携挙については、全能神の御言葉を見てみましょう全能神は言われます。『「引き上げられる」とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることを意味しない。これは大きな誤解である。「引き上げられる」とは、わたしの予定、そして選択を指しているのだ。それは、わたしが予め定め、選んだすべての人々に向けられている。引き上げられた者たちはみな、長子または子らの身分を得た者、あるいは神の民たる人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者はみな、わたしの前に引き上げられる者たちである。これは絶対に真実であり、決して変わらず、反論することもできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百四章」〔『言葉』第1巻〕)」。ウァン兄弟は続けました:「携挙は私たちが想像したものとは異なります。地上から引き上げられ、雲に包まれて主に会うのではない。天に昇ることでもない。これは、それらの聖句に対する人々の考えと文字通りの解釈によるものです。携挙は実際、主を歓迎し、神の御前に来ることを指しています。神の御声を聞き、神の新しい働きを受け入れ服従し、神の子羊の足跡に従うことを意味します神が語られ、その働きを行うため地上に来られる時に。全能神は真理を表し、裁きと清めの働きを行うため肉になられます神の御声を聞き、終わりの日に神の新しい働きに従う者は皆、神の御座の前に携挙されますこのような人々は賢い乙女であり、主が神の家に持ち帰る金銀宝石です。このような人々は非常に素質があり、真理を受け入れ把握し、神の御声を理解します。彼らはまさに携挙されるのです。彼らは神の御言葉の裁きと清めを受け入れ、神を真に理解し、その堕落した性質は清められます。これらの人々は、大いなる災難の前に神によって造られた勝利者です。神は素晴らしい最終目的地へと最後まで彼らを導くでしょう。これこそ天に引き上げられる本当の意味です。自分たちの観念に捕らわれ、主が引き上げてくださるのを待ち、終わりの日における神の裁きの働きを拒む人は愚かな乙女です。彼らは神によって棄てられます。災難の中に投げ込まれ、泣きながら歯ぎしりすることでしょう。全能神の御言葉にこうあります:『終わりの日における神の裁きと刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中で揺るぎなく立てる者たちが、神と共に最後の安息に入る者たちである。このように、安息に入る者はみな、神による最後の清めの働きを経たあと、サタンの支配から解放され、神によって得られている。最終的に神によって得られたこのような人々が、最後の安息へと入るのである。神による刑罰と裁きの働きの目的は、本質的に、最後の安息のために人類を清めることである。こうした清めがなければ、人類の誰も、種類に応じて異なる種類に選り分けられることができず、安息に入ることもできない。この働きは、人類が安息に入るための唯一の道なのである。神による清めの働きだけが人類の不義を清め、神による刑罰と裁きの働きだけが人類の不従順な要素を明るみに出す。それによって、救われる人と救われない人、留まれる人と留まれない人が選り分けられる。この働きが終わるとき、留まることを許された人はみな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第二の人生を享受する。言い換えると、彼らは人類の安息の日を開始し、神と共存するのである。留まることを許されない者たちは罰せられ、裁かれたあと、正体が完全に暴かれる。その後はみな滅ぼされ、サタンと同じように、地上で生き残ることをそれ以上許されない。未来の人類に、この種類の人々はもはや含まれない。このような人々は最後の安息の地に入る資格がなく、神と人類が共有する安息の日に加わる資格もない。なぜなら、彼らは懲罰の対象であり、邪悪で、不義なる人だからである(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)」。ウァン兄弟は言いました:「神を心から信じ、神が現れることを熱望する人は皆、全能神の御言葉を読み、神の御声を聞くことで全能神を受け入れ、神の御座に引き上げられます。彼らは神の御言葉の供給を受け、その霊が渇くことはありません。もはや弱くも否定的でもなく、歩く道のない罪に縛られて生きていません。彼らは神の光の中に生きているのです。神の御言葉の裁きを受け入れることで、彼らの堕落した性質は次第に改善されますそして時と共に彼らは罪の束縛を投げ捨て、拘束のない自由の中で暮らすようになりますこれこそ携挙された人の人生ですよね?」

ウァン兄弟の話は私の混乱を消し去りました。携挙されるとは、神の御声を聞き、神の御座の前に戻ることです私はついに携挙の本当の意味を知りました。今までの年月、私は聖句の文字通りの意味しか知りませんでした。自分の観念に基づき、主に会うために私たちを引き上げてくださると信じていました。神の御声を聞くことに集中せず、携挙される機会を逃すところでした。なんて無知だったのでしょう! 今では気づいています。神の御座の前に引き上げられ、神の御言葉の裁きを受け入れ、清められ変えられた者だけが神の国に入り、神の約束を受けるにふさわしいのです。神の働きはまさに思慮深く、意義深いものです。全能神の御言葉を求め、調べ、読んで、全能神こそ再臨した主イエスだと確信し、終わりの日における全能神の働きを受け入れました! 私は神の御座の前に引き上げられ、神の子羊の宴に参加しました。神の救いを感謝します!

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

この声はどこから聞こえてくるのか

シーイン 私は信心深い家に生まれ、親戚には伝道師も多くいます。私は幼い頃から両親にならって主を信じており、大人になってからも主に祈り、こう語りかけました。もし主を信じる夫に巡り合えるなら、夫とともにこの身を捧げて神に仕えましょう。そして私は結婚し、夫は本当に主を信じていたので、実…

私は帰ってきました

チュー・キンポウ(マレーシア) 私は十年以上前から主を信じており、二年間教会の仕事をしましたが、その後海外での仕事のためにその教会を辞めました。シンガポールなどさまざまな場所に行き、まずまずの収入を得ましたが、私が生きていた弱肉強食の現代社会では力が正義で、誰もが互いを陥れようと…

どのように悔い改めて再び罪を犯さないかについて、私は実践の道を見つけた

蒙(モン)愛(アイ)は三世代にわたるクリスチャンで、ずっと教会で奉仕してきましたが、ここ数年、固い信仰と主への奉仕にもかかわらず、自分の夫に対してさえ寛容でも寛大でもいられないほど、自分がいまだ罪の束縛に捕らわれていることに気づきました。そして「わたしは聖なる者であるから、あなた…

天国は実は地上にある

私たち信者がもっとも強く切望しているのは、天国に入って主が人に賜わる永遠の幸福を享受できるようになることです。牧師は説教の中で、主が将来私たちに用意してくださる場所は天のうえで、そこには黄金の野や翡翠の壁があり、宝石がいたるところで光り輝いているとか、私たちはいのちの木の実を食べ…