取り消せない決断
15歳の時に父が病死して、家族は大黒柱を失った。わたしはそれを受け入れられず、空が落ちたように感じた。母も打撃を受けて病気になり、五日間高熱に苦しんだ。関わり合いになるのを恐れて、親戚も誰一人来ない。わたしが母を病院に連れてくと、ベンチに倒れ込んだ。誰も助けに来てくれなくて、絶望してこう思ったわ。「パパが死んだばかりなのに、ママに何かあったら、妹とわたしはどうなるだろう?」その後、ある人から主イエスの福音を伝えられたけど、2度集会に出たあと、主の恵みのおかげで母はよくなった。そんなわけで主を信じるようになったの。主が人類を贖おうと十字架にかけられたことを知って、神の大きな愛に感動したわ。主は弟子にこう言われた。「わたしについてきなさい」(マタイによる福音書 4:19)。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネによる福音書 16:33)。この御言葉にずいぶん慰められた。特に、主のために命を捧げた西洋の伝道師の話を聞いて刺激を受け、主(しゅ)に決意したわ。あなたのために自分を捧げ、福音を宣べ伝えますって! そのころ、人生には何の意味もないと思ってた。主に従い、主のために働き、人を主の前に導くことだけが、有意義で価値があるんだって。家を出て福音を伝え、主のために働く日を心待ちにしたわ。ある日の祈祷会で、主に祈って自分の願いを伝えたとき、母もいたんだけど、帰宅後、こう叱られたの。「どうしてあんな馬鹿なことを言ったの? 主を信じるのはいいけど、勉強を諦めちゃ駄目。高校受験に集中しなさい。成功しなきゃ、親戚から尊敬されないわよ」それを聞いてためらった。「ママの言うとおり。家族の希望はわたしの肩にかかってる。福音を伝えるために勉強をあきらめたら、ママはきっと傷つく。大変な思いをしてきたのに、これ以上苦しめるわけにはいかない」それで学校に行きながら、集会への出席と伝道を続けて、主のために外で伝道し、働くという夢はしまい込んだ。
2001年7月、大学入試の直後、天国の福音を伝える人に会ったんだけど、妹と一緒に全能神の御言葉を読んで、主の再来だってわかった。真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをなさり、人を徹底的に清めて救うの。興奮したわ。待ち望んでた主がついに戻られたんだもの。そのお声を聞き、直接導かれて救われるのは、主の大きな恵み! それまでは聖書を読んで、主の弟子が羨ましかった。いつでも教えを聞けたから。自分もそうなれるなんて、夢にも思わなかったわ。主の出現を待ち望みながら、再来されたのを知らない人が大勢いるのに、自分は先にこの大ニュースを聞いたんだから、天国の福音を伝えなきゃって思ったわ。そして思った。「大学なんか落ちればいいのに。伝道して神に仕える口実ができるから」。
一週間後、合格発表を見に行った。すると先生から、いい大学に合格だと言われたわ。クラスメートからも褒められた。「この省から選ばれたのは数千人中たった10人。あの大学に合格なんて、本当にすごい」って。先生やクラスメートがそう言うのを聞いて、本当につらかった。試験に落ちれば福音を伝えに行けると思ってたから。でも母は合格を知ったら、ますます反対するはず。家に帰ると、母は笑みを浮かべっぱなし。でもわたしは怖かった。主が来られ、わたしたちを天国へ導くのをずっと待ってた。そして今、主が来られ、真理を表わし自ら救おうとなさってる。こんなチャンスを逃すなんて嫌。わたしの合格を知った親戚が祝いに訪れ、お世辞を言った。でも思った。「これはみんな嘘。パパが死んだとき、誰も来てくれなかったじゃない。それが今、全員来てる。いつかわたしが成功したら、分け前にあずかるつもりなんだわ」わたしへの「気遣い」を見れば見るほど、何て勝手な人なのって思った。でも母は嬉しそうにしゃべってる。合格したわたしを誇りに思い、みんなも母を尊敬してる。進学をやめたら、母はきっと失望し、親戚もまたわたしたちを見下すはず。親戚の扱いのせいで母が苦しんできたことを思って、こう考えた。「ママは苦労してわたしたちを育てた。その願いを叶えなければ、がっかりさせてしまう。神を満足させたいけど、ママを傷つけるわけにはいかない」そんなわけで、もう選択肢はなかった。大学に進まなきゃ。大学に入ると、学生の貧富の差が大きいことに気づいた。家が裕福な人は貧乏人を見下し、あれこれ命令するの。2週間の軍事教練後、2人の教官は美人の学生と付き合い始めたし、クラスメートの誕生日になると、みんなプレゼントを競い合った。食事だって豪華だし、わたしから見れば、みんな互いに騙し合い、利用しているよう。本当の友情なんかない。わたしはすっかり嫌になった。4年間ここで勉強してたら、どんな風になってしまうだろう? そのとき、故郷の教会生活や兄弟姉妹のことがますます恋しくなった。大学なんかやめてみんなのところに戻りたい。
3ヵ月葛藤して、冬休みを迎えたころ、わたしは決意した。家に帰ったら母に面と向かって、大学をやめるって言おう。帰宅当日、御言葉の賛美歌に耳を澄ませた。「汚れなき純粋な愛」「『愛』は、純粋で汚れのない感情を指し、心をもって愛し、感じ、思いやりをもつということである。愛においては条件、障壁、距離がない。愛においては疑念、偽り、悪賢さもない。愛においては取引も不純なものもない。愛するならば、偽ったり、不平を言ったり、裏切ったり、反抗したり、強要したり、何かを得ようとしたり、一定の量を得ようとしたりすることはない。もし愛するならば、喜んで自分の身を捧げ、苦難に耐え、わたしと融和するようになる。あなたは自分の持つすべてのものをわたしのために捨てるだろう。家族、将来、青春、結婚をあきらめるだろう。そうでなければ、あなたの愛は愛などではなく、偽りと裏切りである!」(「小羊に従って新しい歌を歌おう」)。御言葉はわたしの心を揺さぶった。感激したけど、後悔もした。一生神に従い、神を知って愛することを追求しようって決意してたのに。愛に欺瞞や裏切りはない。心から神を愛してたら、自分を神に捧げ、すべてを捨ててたはず。でも全部ただの言葉だった。わたしは家族のことと、その気持ちしか考えず、神を愛してなかった。神を騙して裏切ったの。
そして、御言葉の一節を読んだ。「神を愛することを目指すすべての者にとって、獲得することのできない真理はなく、揺るぎなく立つことができない正義はない。あなたは、どのようにして自分の人生を生きるべきだろうか。どのように神を愛し、その愛を用いて神の願いを満足させるべきだろうか。あなたの人生において、これより重要なことはない。あなたは何にも増して、そうした大志と根気を持っていなければならず、気骨のない者、意志の弱い者のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験しなければならず、自分自身をそのようにいいかげんに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆく。その後、あなたに神を愛する機会がもう一度あるだろうか。人は、死後に神を愛することができるだろうか。あなたは、ペテロと同様の熱意と良心を持っていなければならない。あなたの人生は有意義であるべきで、自分を弄んではならない。人間として、また神を追い求める者として、あなたは自分の人生をどのように扱うのか、どのようにして自分自身を神に捧げるべきなのか、どのようにしてもっと有意義な神への信仰を持つべきなのか、そして、神を愛している以上、どのようにしていっそう清く、いっそう美しく、いっそう好ましく神を愛するべきなのかを慎重に考慮することができなければならない」(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉の中に、人に対する神の願いを感じたわ。生きてるうちに神に会えるなんて希なこと。2,000年前、主の弟子たちは神に会い、そして今、神に従い、神を知って愛する希な機会を、神はわたしに下さってる。母を傷つけることを恐れて家族の絆を振り切れず、世俗のサタンの道を歩んでたら、時間を無駄にしてない? 神の働きは人を待たず、地上で短時間しか働かない。それを逃せば、二度と見つからない。ペテロのことを考えた。役人になってほしいと両親は願ったけど、彼は家族の絆に縛られず、神に従うことを選び、神を愛することを求め、主によって完全にされた。自分はペテロと比べものにならないけど、彼のように神を知り、愛さなければならない。それが何より有意義な人生。その後は家族の絆に縛られず、今度こそ神を満足させようって決意したわ!
冬休みの最終日、わたしは真剣な口調で母に言った。大学には戻らないって。母はこう言って叱ったわ。「神のために退学したいのは知ってるけど、そんなことは許さないから!」わたしは答えた。「わたしたちを造ったのは神。だから神を崇めなきゃ。それが正しいことなの。聖書もこう教えてる。『世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない』(ヨハネの第1の手紙 2:15)。神の信者は、前途を求めて世俗の道を歩んではいけない。それは神の御旨じゃないの。わたしは神に従い、本分を尽くすわ」すると母は言った。「他の家族はわたしたちよりお金持ち。主に仕えたければずっと仕えていられる。パパが早死にしたとき、わたしたちにはお金がなく、親戚にも見下された。わたしは何のために苦しんできたの? あなたを大学に行かせて成功させ、いい暮らしを送らせるためよ! 本当につらかったわ。もう少しでゴールなのに、あなたは棄権しようとしてる。どうしてママのことを傷つけるの?」それを聞いて弱気になった。「ママの言うとおり。大学に行けば、いい仕事に就いてお金を稼げる。ママも見下されない」でもこう思った。「物に恵まれた暮らしを送り、他人に仰ぎ見られても、神の働きが終われば、このサタンの世は滅ぼされ、キリストの国だけが残り、享楽や虚栄は煙と消える」そこで母に言った。「わたしたちは地上の客に過ぎない。どんな暮らしを送ろうと、神の救いの働きが終われば大災害が来て、そんな生活は滅ぼされる。お金があっても関係ないわ。主イエスは言われました。『たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか』(マタイによる福音書 16:26)」。でも母はそれを遮った。「神を信じることには反対してない。そんな真剣にならないで。神を信じるのはいいけど、世俗の暮らしを捨てちゃ駄目。さもないと、いい人生を送れないわ。2人を育てたのは、お金を稼ぐためなのよ」これを聞いてわかった。母の信仰は口先だけ。形勢を気にして、神からも世俗からも祝福を欲しがってる。そこでわたしは言った。「神の祝福がなければ、どんなに頑張ってもお金は得られない。人生でいくら稼ぐかを決めるのは神。真理がなければ、すべては無意味なの」でも母は耳を貸さず、あくまでわたしの願いに反対した。そしていとこと叔母に電話をかけ、わたしの説得を頼んだの。母がひるまないのを見て、わたしはつらかった。「どうしてわかってくれないの?」って。どうすべきかわからず、心の中で神に祈り、何があっても揺るぎなく立たせてくださいと願った。
やがて母は手当たり次第親戚を家に呼んだ。叔父は家に着くとすぐ怒鳴ったわ。「何が神だ! お前は若いから迷信を信じているんだ!」って。叔母は「お母さんは、あなたのためを思ってるのよ」と言った。みんなそんなことをわたしに言ったわ。全員無神論者で、わたしの話を聞こうとしない。何か言ったところで、ますます神を冒瀆するだけ。だから何も言わなかった。すると叔父が突然振り向き、母にこう言ったの。「こいつが神を信じてるのは、災害で死ぬのを恐れてるからだ。その前に死なせてやろう。通報して電気棒で殴ってもらうんだ。それでも信者でいられるかな?」叔父にこんなことを言われるなんて、思いもしなかった。「わたしの親戚? それとも悪魔?」驚いたことに、母はそれに加勢したの。「こんな反抗的な子、懲らしめが必要ね!」母が敵に回り、わたしの信仰を捨てさせようとしてるのを見て、心が痛んだ。するといとこがこう言ったの。「信仰をやめて学業に専念すれば、俺たちみんなで助けるし、母親の面倒を見て、妹の職探しも手伝う。しかし信仰を続けるなら、お前とは絶縁だ。今後何があっても、お前たちを助けないし、もう親戚じゃない。よく考えろ!」わたしを誘惑してキリストから離そうとしてる。それに高校で勉強してたとき、誰も助けてくれなかったじゃない! 神を信じて正しい道を歩もうとすると、寄ってたかってわたしを止め、甘い言葉で誘う。これはサタンの企み。はまるわけにはいかない。でもこう思ったの。「大学に戻らなければ、母が傷つく。もう十分苦しんだママをさらに苦しめたらどう生きていける?」そこで、心の中で神に祈った。「神よ、あなたから離れたくありません。あなたに従い真理を求めるのは正しい道だとわかっていますが、母を想うと葛藤します。どうすればいいかわかりません。どうかお導きを」その後、この全能神の御言葉が頭に浮かんだの。「個人がどれほど苦しなければならないのか、自身の道でどれほどの距離を歩まなければならないのかは、神によって定められており、誰も他者を実際に助けることなどできないと」(『神の出現と働き』「道……(6)」〔『言葉』第1巻〕)。突然わかった。「そう、人がどれほど苦しむかを決めるのは神。わたしたちじゃない。大金を稼いで渡しても、母の苦しみがなくなるわけじゃない。苦しみの根源はサタンの堕落。サタンの毒と野望がわたしたちに染みついてるの。今すぐ神を崇めず、裁きを受け入れ清められないと、いつまでも苦しむ。でも神を信じて真理を求めれば、たとえ生活が苦しくても、神の祝福で最高に幸せな人生を送れる」それまではこう思ってた。懸命に勉強して大金を稼ぎ、みんなに尊敬されれば、母の苦しみは軽くなると。でもそれは馬鹿げたこと。サタンの罠にはまるところだった。そう考えると、決意がさらに強まった。みんなが神を冒瀆し、誹謗しても、神の前で心を静め、ずっと神を呼び求めた。わたしが何も言わないから母はすっかり腹を立て、ベッドに押し倒したの。そんなことをされたショックで動揺し、泣きだした。だけどひたすら神に祈り続け、証しに立って屈しないよう、心を守ってくださいと願ったわ。すると主イエスが言われたことを思い出したの。「また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」(マタイによる福音書 10:38)。全能神も言われてる。「人生のすべてをわたしのために費やしたいという願いを実現させるべく、自らが選んだ真理の道を進み続ける忍耐力を持つべきである。真理を持たないでいることなく、偽善や不義を隠し持つことなく、ふさわしい姿勢に硬く立つべきである。ただ流れに身をまかせるのではなく、正義と真理のために身を捧げ戦う強い精神を持つべきである。若者は暗闇の力の圧迫に屈服することなく、自らの存在の意味を変える勇気を持つべきである」(『神の出現と働き』「若者と老人に向けた言葉」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉は信仰と力、そして選んだ道への自信を与えてくれた。
母は市場で働くのをやめ、わたしと妹を見張りだしたの。そしてわたしの持ち物から御言葉の本と賛美歌のカセットを見つけると、こう怒鳴った。「今後は二人とも集会に行っちゃだめ。外出のときはわたしがついて行くから。集会場所を見つけてやるわ」こうなったらもう自宅軟禁。自分の家でも自由がない。御言葉を読めないし、妹と信仰の話もできない。まして教会生活なんて無理。本当につらかった。そこで神に祈り、道を開いてくださいと願った。数日後、母がトイレに行ったのを見計らって、妹の力を借り、御言葉の本と賛美歌のカセットを持って、教会指導者のタン姉妹の家に駆け込んだ。そして今までの経緯とわたしの思いを話したの。「全能神の御言葉でわかりました。神を信じるのは救いへ至る光の道。神の家で本分を尽くしたいですが、母に止められてます。妹もわたしも集会に出られません。どうしてこんなことになったのでしょう?」するとタン姉妹は辛抱強く交わってくれた。「家族の圧力は、実際には霊の戦いです。わたしたちは神のために費やしたいのに、サタンが家族を使って邪魔し、弱さを使って攻撃してる。わたしたちが救われないように。神にすがってその企みを見抜かなければ」そして御言葉の一節を読んでくれた。「神が人において行う働きのあらゆる段階において、それはあたかも人の手配により、あるいは人の干渉から生まれたかのように、外面的には人々の間の相互作用のように見える。しかし舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人は神への証しにおいてしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなたがたにおいて行う働きの各段階の背後にはサタンと神との賭けがある。その背後にはすべて戦いがある。……神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたはどのように神を満足させるべきか、どのように固く証しに立つべきであろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである」(『神の出現と働き』「神を愛することだけが本当に神を信じることである」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉でわかった。この暗く悪しき世では、キリストに従いたくても簡単じゃない。霊の戦いとつらい選択に満ちてる。今、全能神は裁きの働きをなさってる。これは人を清めて救う一番大事な最後の段階。誰もが神の真理といのちを得て、救われ生き延びることを願われてる。でも神は人に無理強いせず、私たちの選択に任せてる。わたしが大学に行って勉強し、成功することを母は望んだ。でも真理をわかってないから、サタンの毒に騙され、そうした追求の空しさがわからなかった。母の言うことを聞いて間違った道を選ぶわけにはいかない。タン姉妹は続けて言った。「知識の追求の空しさがわかったあなたは、神のために費やす決意をし、真理を求める正しい道を選んだ。これは神に認めていただける。でも人生の道で何を選ぶかは、すべてあなた次第。だからもっと祈って求めなきゃ」私は思った。「そう、わたしはキリストに従う決意をしてるけど、ママはわたしをしっかり見張り、集会場所を見つけ出すと言ってる。大学に戻らないと、ママのせいで兄弟姉妹に迷惑がかかるわ」そこで母に、大学に戻ると言ったけど。
大学に着いたらすぐ休学届を出して、認められた。しなかった。泣きながら、つらい思いをしたことや、わたしと妹を育てる大変さを口にした。そんな様子を見るうちにつらくなって、こう思った。「ママは苦労してわたしたちを育てたのに、その恩返しをまだしていない。言うとおりにしないと、親不孝な娘にならない?」そこですぐ神に祈った。「神よ、わたしはどうすべきでしょう? どうかお助けを」って。すると、御言葉の一節が頭に浮かんだの。「暖かい春になり、花々が開花し、天の下のすべてが緑に覆われ、地上のすべてのものがあるべき場所に納まると、すべての人と物事は次第に神の刑罰へと入り、そのとき、地上における神のすべての働きは終わりを迎える。神はもはや地上で働きを行なうことも、生活することもない。神の偉大な働きが達成されたからである。この短い期間、人々は自分の肉を脇にのけることができないのではないか。神と人との愛を裂き得るものは何だろうか。誰が神と人との愛を引き裂き得るだろうか。それは両親か、夫か、姉妹か、妻か、それとも苦痛に満ちた精練か。良心という感情は、人間の中にある神の姿を消し去ることができるのか。人々同士の恩義と行動は、自ら出た行為なのか。それらを人間が矯正することはできるのか。誰が自分自身を守れるのか。人々は自らに糧を施すことができるのか。人生で強いのは誰なのか。わたしから離れて独り立ちできるのは誰なのか」(『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第二十四章と第二十五章」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉のおかげでわかった。神はあらゆる人の人生を支配し、予定されてる。表向きは母がわたしを育てたけど、わたしたちのいのちは神から来たもの。わたしたちに施し、育てるのは神なの。子どもを育てるのは親の義務に過ぎないし、別に借りがあるわけじゃない。神はわたしが必要とするものをすべて授け、あらゆる人や物事を整えることで、わたしを御前に導き、救いを受け入れさせてくれた。神の愛はかくも偉大なの! わたしは神から多くのものを享受したのに、全然報いていない。これまでの経緯のせいで、わたしが神にした約束は嘘偽りになった。わたしは神、創造主に借りがあるの。主イエスの働きのように、地上における神の現在の働きは短いのだから、この希な機会を大事にして、被造物として本分を尽くし、神の愛に報いなきゃ。そうしてキリストに従う決意をすると、物事が変わりだしたの。欠席が増えたら退学になると聞いた母は、わたしが大学に行けなくなることを恐れて、帰宅するのを許してくれた。家に戻ると、こう注意された。「もう神を信じちゃ駄目。ここで仕事を見つけて1年働き、それから大学に戻りなさい」って。そうすると約束したけど、心の中でこう考えた。「わたしがキリストに従うことを、神は予定された。これはわたしの選択。簡単に諦めないわ」。
そこで仕事を見つけ、職場と集会の両方に通い、時間が空いたときに福音を伝えた。神の御言葉を実践してると、真理が多少わかるようになって、真理の追求だけが有意義な人生だと理解できた。神に従う自信が強まったわ。神に感謝! いつの間にか、学校に戻る時期になってた。最後の決断を下すべき時。わたしは神を選んだわ。そして神に祈ったの。「神よ、どうか信仰を授け、この試練で証しに立たせてください」その日の集会後、家に戻ると母が荷造りをしてるの。聞けば、隣の人が母に男性を紹介して、結婚することになったって。わたしは驚き、傷ついた。「ママが家を出るの? 誰が面倒見てくれるの?」わたしたちが嫌になったのって訊いたら、「別にあなたたちが嫌になったわけじゃない。でも神を信じると決意してるし、もう頼れない。最後にチャンスをあげる。これは婚約者の電話番号。学校に戻るなら、帰宅するとき電話してちょうだい。迎えに行くから。でもあくまで信仰を続けるなら、もうあなたを助けるつもりはないわ」それを聞いて心底つらかった。信仰の道を歩もうと決意してるのに、母はわたしたちを受け入れようとしない。まだ若いし、妹もいる。どこで暮らせばいいの? じっくり考える間もなく、母に学校行きのバスに乗せられ、バスの中でこれまでのことを振り返った。たった1日で、妹とわたしは家のない浮浪児。本当に耐えられない。妹は力なく言った。「ママはわたしたちが嫌になったのね。姉さんが学校に戻らなければ、わたしたちどうなるの?」妹の言葉に胸が張り裂けそうだった。「そう、ママはこれまでずっと、わたしたちを支えてくれた。友だちも家族もいない今、ママは別の誰かと結婚する。神への信仰を続けたら、人生はどうなるだろう? どこに行けばいい? いったいどうすべきなの?」つらくて弱気になったまさにそのとき、神に祈った。「神よ、もうこれ以上は耐えられません。あなたを満足させたいですが、信仰も前進する力もありません。あなたがわたしのために骨折られたことは知っていますが、あまりに弱く、救いに値しません」。
そのとき、御言葉の一節が頭にひらめいたの。「この働きが広まる日が来て、あなたがその全体を目にするとき、あなたは後悔し、唖然とするだろう。祝福はあるが、あなたはそれを享受することを知らない。また真理はあるが、あなたはそれを追い求めない。あなたは、自分自身を侮辱しているのではないか。……救いをその目で見ておきながら、それを得ようと追求しない者以上に愚かな者はいない。そのような者は、肉を貪り食い、サタンを堪能する人々である」『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)より編集こう思った。「そう、神の働きはすぐに終わる。わたしは真の道を見た。肉の苦しみに耐えられないからって快楽を選べば、神の働きが終わるとき、真理を得る希な機会を失い、後悔してもしきれない」去年、教会で本分を尽くしてたときのことを振り返った。兄弟姉妹の出身は様々だけど、みんな愛し合い、誠実に接してた。愛をもって相手の堕落した性質を指摘し、真理を交わり、家族のように支え合ってた。御言葉の潤しと糧のおかげで多少の真理を理解して、この世に関することがたくさんわかるようになった。全能神の御言葉だけが、人を清めて救うことができ、キリストに従うことが救いに至る光の道だとわかったの。選択しなきゃならない。わたしのいのちは神に由来し、神からすべてを授かった。被造物の本分を尽くすのは完全に正しいことなの! 母はわたしの信仰を支えず、知識を求めて成功することを望んでる。その通りにして間違った道を選べば、ますますサタンに堕落させられ、最後に懲罰され、滅ぼされる。知識は堕落した性質から解放することも、清めることもない。神だけがわたしたちを救える。家族に嫌われても、わたしには神がいる。今までのことを振り返ると、弱ることが何度もあったけど、御言葉に支えられ、助けられ、力を与えられた。弱さのあまり神を去ろうと思ったときも、神の御言葉がわたしの心を感動させてくれた。神は決してわたしから離れない。わたしに対する神の愛は、この世で一番真実なの! そう考えると、神に借りがあることに気づいて自信が蘇り、涙を拭って妹にこう言った。「わたしたちが頼れるのは神だけだし、きっと導いてくださる。教会に戻りましょう」次の日、バスで故郷に戻り、教会で本分を尽くし始めた。神に感謝! 御言葉の導きで肉の弱さを乗り越え、一番明るい道を選んだの。ある御言葉の讃美歌が心に浮かびました。「神への愛を追い求める人として、神の国に入って神の民の一人になることは、あなたがたの真の未来であり、それはこの上ない価値と意義をもつ人生であって、あなたがた以上に祝福されている人はいない。今日神のために生き、神の旨を行なうために生きているからである。あなたがたの人生にはこの上ない意義があるとわたしが言うのはそのためである。あなたがたの人生にはこの上ない意義があるとわたしが言うのはそのためである。神によって選ばれたこの人々の集団だけが、この上なく有意義な人生を生きることができる。地上の誰もそのような価値と意義のある人生を生きることはできない」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神の御心を行うために生きることは最も意義あること」)。
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