質問 2:テモテへの第二の手紙の中でパウロが「聖書は、すべて神の霊感を受け」(テモテヘの第二の手紙 3:16)、聖書の言葉は全て神の言葉だと言っている。聖書は神様を代弁し、パウロがそう言っているのに間違っているわけがないでしょう?

回答:宗教界では多くの人がパウロが言ったように、聖書は神様に霊感を受けたものだと信じていますが、その土台になっているものを誰も調べようとしません。パウロを崇拝し盲目的に信仰するがために生じた見解なのです。誰かパウロの発言が神様の言葉に沿っているかどうか考えたことがありますか? 主イエスの御言葉で裏付けされていますか? 聖霊がそれを認めましたか? パウロを信じ聖書は神様に霊感を受けたと物と思い込んでおられるようだが、主の言葉や真理に沿っていますか? 主イエスや聖霊の言葉に裏付けされているのなら、主の意図に完全に沿っているということですから、受け入れて従うべきです。しかし、パウロは神様に逆らい主イエスに逆らい反対し、主イエスの働きに対抗する首謀者だったことは事実です。主イエスはパウロを福音を伝える使徒として選びましたが、パウロはただの被造物たる人間です。ですから彼の言葉は間違いなく人間の言葉であり、主イエスは神様ですが、十二使徒や弟子は人間なので、十二使徒や弟子は主イエスと比較できません。主イエスや聖霊の言葉に裏付けされていないのなら、それが誰であろうと盲目的に受け入れてはいけません。そうしないととんでもない事になりますよ。パリサイ人が主イエスに逆らい非難したとき、多くの者がそれに従い主イエスを拒みました。主イエスに逆らったために神様から滅ぼされ非難されましたが、そこから学んだのではないのですか? 聖書ではヤーウェ神の言葉主イエスの言葉聖霊の言葉預言者が伝える神の言葉、ヨハネの黙示録の預言が神様の言葉で他は人間の記録や手紙です。神様の働きの証しとしてこのような物が聖書に記録されていますが、その人間の言葉を神様の言葉と混同してはいけません人間の言葉は人間の言葉でしかなく、神様の言葉だけが本物の神様の言葉です。聖書にある人間やサタンの言葉も神様の言葉とみなすと、神様を中傷し冒涜することになります。「聖書は全て神様の霊感を受けて書かれたもので神様の御言葉である」というのは事実に反するのです。

全能神の御言葉を少し読みましょう。「実際、預言書を別にして、旧約の大半は歴史的記録である。新約の書簡の中には、人々の経験に由来するものもあれば、聖霊の啓きに由来するものもある。たとえば、パウロの手紙は一人の人間の働きから生まれたもので、どれも聖霊による啓きの結果だった。また、それらの手紙は諸教会のために書かれたもので、諸教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語る言葉ではなかったのであり、パウロが聖霊の代わりに語ることはできなかったのである。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが目の当たりにした幻を見てもいない。パウロの手紙はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、およびその他の教会に向けて書かれた。したがって、新約のパウロの手紙は彼が諸教会に向けて書いた手紙であって、聖霊からの霊感ではないし、聖霊が直接発した言葉でもない。……彼は当時の諸教会の使徒の働きを行ない、主イエスに用いられる働き手だった。したがって、教会の責任を背負い、教会の働きを引き受け、兄弟姉妹の状況を知らなければならなかった。そのため、主における兄弟姉妹全員に手紙を書いたのである。彼が述べたことはどれも人々にとって啓発的であり、肯定的であって、いずれも正しかったが、それは聖霊の発する言葉を代弁していたのではないし、神を表わすこともできなかった。一人の人間による経験の記録や手紙を、聖霊が諸教会に向けて語った言葉として扱うのは、言語道断な解釈であり、ひどい冒瀆である。……もし人々が、パウロが書いたような手紙や言葉を見て、それらを聖霊の発した言葉と見なし、神として崇めるなら、それはあまりにも分別がないとしか言えない。もっと厳しい言い方をすれば、それは単に冒瀆ではないのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、人間の手紙や語った言葉の記録がまるで聖なる書か天の書であるかのように、どうしてその前に額ずけるというのか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか」(「聖書について(3)」『言葉は肉において現れる』)

全能神の言葉ははっきりしています聖書には神様だけではなくさまざまな人間の言葉もありそれは事実なので尊重して見分けて正しく聖書を扱うべきですでも信者の多くが聖書を盲目的に信じて崇拝し「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものである」と言うパウロの言葉を信じて、聖書に記録があるものは神様の御言葉であると思い込み、人間やサタンの言葉まで神様の言葉だとみなしています。そこからどんな問題が生じるでしょう? 神様に逆らい冒涜していることになりませんか? 人間が語った言葉は聖書にそうだと明確に記してあるのに、なぜそれを神様の言葉だと? もし人間の言葉が聖書に編纂されたら神様の言葉になるのですか? そんな理屈が通りますか? 聖書には古代の蛇、すなわちサタンの言葉もあるのにこれも神様の言葉だと誰が言いますか? 聖書の言葉が全部神様の言葉であると考える人は完全に間違っています! たとえ真理を理解していなくても、少なくとも事実を尊重し事実を倒錯して捕らえるべきではありません。

神様の言葉だけが真理であり道であり命であることはご存知の通りで、人間が語る言葉も真理に見合っていれば、神様の言葉を経験して得た知識から来ていますが、聖霊の啓示と光を受けていても、それは人間の言葉でしかないし、神様の言葉とは比較になりません。神様の言葉は神様の性情の表現であり、それが神様のものであり、それが神様の存在そのものなのです。それは前向きで人間のいのちになるものです。真理に見合う人間の言葉は人間の経験と神様の言葉と真理を理解することから発していて、その時の人間の霊的背丈を示します。しかし、神様の言葉が表す真理は決して人間が完全に体験しえるものではないことははっきりとしておくべきです。神様の言葉や真理についていかに深い認識があっても真理の本質には及びません。人間の言葉は真理に見合っていても真理とはみなされません。真理に合致する言葉を語る人間でもその人間を真理とみなすことはできないし、真理を代弁するなどもっての他です。聖霊は人間の霊的背丈を考慮した神様の御働きを基としており、人間が徐々に理解し現実を悟るように啓発して導きます。神様に使われている人間の言葉は真理に合致はするものの、人が体験し理解した真理に限られており、真理の本質とは非常に異なります。真理に合致する言葉は少しだけ人を助け恩恵を授けますが、それが人のいのちになったりしませんし、神様の言葉と比較うるものになるわけではありません。全能神は言われます。「聖霊の啓きの言葉はすべて神の言葉を表わしているわけでも、真理を表わしているわけでもなく、真理に関連しているわけでもありません。真理についていくらか理解しており、聖霊の啓きをいくらか有している、としか言えません。……真理は神自身のいのちであり、神の性質、神の本質、および神の中にあるすべてのものを表わしています」(「真理とは一体何か、あなたは知っているか」『キリストの言葉の記録』)。従って聖書の中の神様の言葉と人間の言葉は混同してはいけません。教会の牧師の説教の多くは神様の言葉ではなく、聖書の中の人間の言葉に基づいており、聖書の人間の言葉を真理とみなして、人に実行させ遵守させていますが、そのため混乱が生じています。人間の言葉は人間の命にはならないし、神様の言葉だけが人間の命になります。牧師は常に聖書の中の人間の言葉を真理として扱い、人に実行させ遵守させていますが、これは本末転倒では? 神様を崇拝し証しをすることになりますか? 「聖書は全て神様の霊感を受けて書かれたもの」とはパウロが言ったことで、神様が聖書をこのように認めたことはなく、聖霊もそんなことは言っていません。預言者も使徒も何も言っていませんよ。パウロが言った「聖書は全て神様の霊感を受けて書かれたもの」とはパウロ個人の見解であり、神様の言葉では証明されていません。聖書は神様の霊感で書かれており、全部が神様の言葉なので、聖書が神様を代弁すると考えるのは間違いです。この事実をはっきり確認し正しく聖書を扱えば神様の御心に叶うでしょう。

映画『足枷を解いて走れ』より引用

前へ: 質問 1:聖書でパウロは言っています。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」(テモテヘの第二の手紙 3:16)。パウロの言葉は聖書に書かれている言葉です。ということは、それは神様の霊感を受けて書かれたものであり、神様の御言葉です。主を信じるということは、聖書を信じるということです。宗派は関係なく、聖書から逸れているのであればそれは異端です! 私たちは主を信じているのですから、常に聖書の通りに従わなければなりません。要するに、聖書の言葉を守らなければいけない、ということです。聖書はキリスト教の正典であり、私たちの信仰の礎です。聖書を離れるということは、主を信じていないということです。聖書から離れて、どうやって主を信じるのですか? 主の御言葉は聖書に書かれています。他に主の言葉が見つけられる場所がありますか? もし私たちの信仰が聖書に基づいたものでなければ、何に基づいたものなのですか?

次へ: 質問 3:神様の言葉も働きも全て聖書に記録され、聖書の外にそれは存在しないのです。信仰は聖書があるからこそ成り立つのでありがそれ間違いとでも?

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

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質問 1:聖書は神様の業の証しであり、人類に驚くべき利益をもたらしました。聖書を読むと、神様は全ての創造主であり神様の驚異的で偉大な行い、そしてその全能性が理解できます。聖書は神様の言葉の記録であり、神様についての人の証言ではあるものの、ではなぜ人は聖書を読むことによって永遠の命を得ることができないのだろうか? なぜ永遠の命の道については書かれていないのでしょう?

回答:聖書を読むと、神様は全ての創造主であり、私達は神様の驚くべき行いに気づき始めます。これは聖書が神様の最初の2段階の御働きを証しするものだからです。律法の時代と恵みの時代の神様の御言葉と御働き、そして人の証しの記録だからです。ですから、聖書は私達の信仰にはとても重要なのです。…

質問 1:あなたは、主イエスが中国に再臨され、その働きをなされている、と証しをされていますが、これは主イエスが聖書の中で預言していますので、私は本当だと思います。「いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書 24:27)。でも私たちは、主が終わりの日に再臨され、私たちを天の国に連れて行ってくださるか、少なくとも、雲まで引き上げられて空中で神様に会えるものと思っています。パウロも聖書の中で言っています。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙 4:17)。しかしなぜ主は、聖書に記されているように来られないのですか? 終わりの日の全能神の裁きの働きは私たちが天国に連れて行かれることと何の関係があるのですか?

回答:沢山の人が、主が再臨されたときに、信者を大空に持ち上げてお会いになると信じています。でもそれは主ではなく、パウロの言葉によるものです。私たちには、パウロの言葉が人間の考えなのか、聖霊の啓きから来たものなのか知るすべはありません。これは主イエスが再臨について言われたことです。…

質問 2:全能神教会では、主イエスの再来について、すでに証をされている、と常々伺っています。そして主イエスの再来こそが全能神だと! 全能神は真理を表し、終末にその裁きの働きをなさいます。しかし宗教界の大半の人々は、主が雲に乗って再臨されると信じています。これは、主イエスが明白に言われたからです。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書 24:30)。ヨハネの黙示録にも預言されています。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録 1:7)。私も主が雲に乗って再臨され、我々を天国へ直ちに連れて行って下さると信じています。雲に乗って来られない主イエスを受け入れることはできません。あなた方は、主の再臨は肉の人として、ひそかになされると言います。でも、誰もそのことを知らないと。しかし、主が雲に乗り、公に降臨されるということは絶対的です! ですので、主が雲に乗って公に現れ、直ちに天国にお連れ下さることを、我々は待っています。我々の理解は正しいですか、正しくないですか?

回答:雲に乗って来られる主を待ち望むことにおいて、我々は人間の考えや想像に頼ってはなりません! パリサイ人は、メシアの到来を待つにあたり、大きな間違いを犯しました。まさに人間の考えや想像をもって、すでに来られていた主イエスを測ろうとしたのです。最後には、主イエスを十字架に磔にして…

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