真理の実践こそが協調の鍵

米国 东峰

2018年8月、私は王兄弟と映画の小道具を作る本分に就いていました。最初は知らないことが多かったので、王兄弟に手伝ってもらってばかり。少しすると仕事がわかってきました。それに、自分は内装を勉強して建築の仕事をしたことがあり、その方面の経験がいくらかあったので、小道具もすぐに自分で作れるようになりました。そのとき、王兄弟は屋内セットのデザインは得意だけど、実際に小道具を作るのは苦手だと気づきました。そのため、その点で意見の違いがあると、私は話を聞こうとしなかった。小道具作りは自分のほうが得意だし、自分の案が優れていると考えていたのです。やがて私たちはますますぶつかるようになり、小さな板の使い方で長時間争うこともあった。関係を壊さないために折れることがあっても、正しいのはこっちだといつも思っていました。しばらくするとみじめで仕方なくなり、一緒に働くのが嫌になった。

あるとき、ビデオ撮影で藁葺き屋根の家が必要になったのですが、柱に使える丈夫な木材がなかったので自分たちで作ることになり、そのためのアイデアを出し合いました。私は言いました。まずは柱の型を作ってそこにコンクリートを流し込もう。そうすればより頑丈になる。しかし王兄弟は言うのです。それだと滑らかすぎて本物らしく見えない。ぼろきれを使えば木の表面と形を真似できる。私は思いました。「自分は建築業界にいたが、セメントの柱に布を使うなんて見たことがない。見た目はともかく、太さをコントロールするのが難しい。それに丈夫でなくなる」そこで彼のアイデアを否定しましたが、それでも試したいと言うのです。自分の提案が受け入れられず、私は反発を覚えてこう考えました。「どうして俺の言うことを聞かないんだ。そんなのはどうでもいい――正しいのはこっちなんだ。結果でそれがわかるだろう。たとえ失敗しても、俺のせいにしないでくれよ」結局意見は一致せず、二人とも自分のアイデアで進めることになりました。午後一杯かけて柱を作ったものの、王兄弟の柱はどんなものだろう、やり方が違うから、合わせたらどうなるかと思いました。そう考えるといささか不安になって、見に行きました。すると彼の柱はひどい出来映えで、私はこう思いました。「それじゃあだめだと言ったのに、君は話を聞かなかった。今、こっちのアイデアのほうがよかったとはっきりしたな」そこで私は言いました。「王兄弟、この柱は太すぎる。藁葺きの家は大きくないし、これで合うだろうか? ひび割れもたくさんあって丈夫には見えない。僕たちが作った柱はまったく違う。どうやって撮影に使うんだ? こんなことを続けるのはもうやめよう。僕のアイデアで進めるべきじゃないか?」すると相手はこう言ったのです。「こっちの柱は少し太いが、それは大した問題じゃない。君のセメントの柱は木の幹に見えないし、もっと加工する必要がある」私の話を受け入れず、そっちだってよくないと言うのを聞いて私は本当に腹が立ち、こう思いました。「どうしてそんなに頑固なんだ? 一緒に働くのはもう無理だ!」昼食後、私はパソコンの前に座り、その日を振り返っていささか動揺しました。王兄弟は明らかに間違っているのに、いつも突っかかってくる。あいつと働くのはもう嫌だ。しかしそのとき、自分は問題を避けていると思いました。素直ではなかった。私はますます葛藤と動揺を覚え、神の御前に出て祈り、自己認識して王兄弟と協調できるよう導きを求めました。

それから教会のウェブサイトを開き、調和した奉仕に関する御言葉を読みました。神は言われます。「今日、多くの人は、他の人々と協調していくにあたり学ぶべき教訓は何であるかということに注意を払っていない。わたしはあなたがたの多くが、他の人々と協調していく上で何の教訓も学ぶことができず、大半の人は自分の意見に固執していることに気づいた。教会で働くとき、あなたは自分の意見を言い、他の人はその人の意見を言い、それぞれが他人と何の関わりも持たず、実際には何の協力も行われていない。あなたがたは皆、ただ自分の見識を伝えたり、自分の内に抱えている『負担』を解消したりすることにあまりにも夢中で、いのちを追求することは少しも行っていない。ただおざなりに仕事をし、他の誰が何を言おうと何をしようと、自分は自分の道を歩まねばならないと常に信じているようだ。他の人々の状況がどうであろうと、自分はただ聖霊の導かれるままに人と交わるべきだと考えている。他の人々の長所を見つけることはできず、自分自身をよく観察することもできない。あなたがたは物事を受け容れるということにおいて、実に常軌を逸しており、誤っている。あなたがたはいまだに多くの独善性を示していると言える。まるで、あの昔の病に逆戻りしたかのように(『神の出現と働き』「イスラエルの民のように神に仕える」〔『言葉』第1巻〕)。「兄弟姉妹同士の協力それ自体が、ある人の弱点を他の人の強みで打ち消すという過程なのです。あなたは自分の強みを用いて他の人たちの欠点を穴埋めし、他の人たちは自分の強みを用いてあなたの欠点を埋め合わせます。これが、ある人の弱点を他の人たちの強みで打ち消すこと、円満に協力することの意味なのです。円満に協力して初めて、人は神の前で祝福され、これを経験すればするほど、その人はさらに多くの実際性を自分のものにし、道がますます明るくなり、より一層気分が楽になります。いつも他の人たちと角突き合わせ、あなたに耳を傾けたがらない他の人たちにいつも納得しない、他の人たちの尊厳を守ろうとしながら、彼らがあなたに同じことをせず、それを耐えがたいことだと感じる、相手が言ったことを巡ってあなたがその人を追い詰め、相手がそのことを覚えていて、次に問題が生じたとき、あなたに同じことをする。こういった状態であれば、あなたがしていることは、互いの弱点をあなたの強みで打ち消し、円満に協力していると言えますか。これは対立と呼ばれるものであり、自分の激情と堕落した性質によって生きることです。それでは神の祝福を得られず、神を喜ばせることもありません(『終わりの日のキリスト講話集』の「調和のとれた協働について」)。この御言葉でわかりました。王兄弟との仲が悪いのは、傲慢かつ利己的な性質の中で生きているからだと。本分でも常に決定権を望んでいた。自分は小道具作りがひときわ得意で、王兄弟よりも優れているといつも考え、絶えず偉そうに話して相手に言うことを聞かせようとした。彼が柱の提案をしても、私はそれに見向きもせず、理不尽に拒否した。彼を見下し、軽蔑さえした。技能がないのだから、彼の提案など参考にする価値はないと考えた。柱の出来映えがよくないのを見ると、自分のほうが正しいと思い、彼の作品を遠回しにけなした。そして私に従うことを望んだ。その彼に自分のアイデアの欠点を指摘されると、私はそれを受け入れず、一緒に解決策を見つけようともしなかった。反発を覚え、一緒に働くのはもう嫌だと思いさえした。私の言動はただ自分自身を証明し、彼に言うことを聞かせるためだったのです。それは傲慢と利己的という、サタンの性質に他なりません。この御言葉がまさにそうです。「こういった状態であれば、あなたがしていることは、互いの弱点をあなたの強みで打ち消し、円満に協力していると言えますか。これは対立と呼ばれるものであり、自分の激情と堕落した性質によって生きることです。それでは神の祝福を得られず、神を喜ばせることもありません(『終わりの日のキリスト講話集』の「調和のとれた協働について」)。神はそのような人を嫌悪なさるのだと、御言葉を読んで感じました。私が王兄弟と働くのは神の采配。互いの欠点を補ってしっかり本分を尽くすことを望まれた。しかし私の言動は傲慢で、自分は正しく決定権があると思っていた。他の人のアイデアを受け入れず、まるで真理のように自分のアイデアに従うことを望んだ。神はそうした性質を憎まれます。考えるほど後悔と自責の念で一杯になり、神の御前に出てこう祈りました。「神よ、傲慢さのせいで他の人たちと協調できず、本分も影響を受けました。神よ、悔い改めたいです。自分を捨てて兄弟と協調し、きちんと本分を尽くしたいのです」。

その後、御言葉の別の一節を読みました。「ふたりの人が協力して本分を尽くすとき、原則の事柄を巡って口論になることがあります。見方が違い、異なる意見を持つようになったのです。この場合はどうすればよいですか。これは頻繁に起きる問題ですか。これは正常な現象であり、人の頭脳、素質、識見、年齢、そして経験の違いから生じます。ふたりの人が頭の中でまったく同じことを考えているというのはあり得ず、ゆえにふたりの人の意見や見方が異なるのはごく当たり前の現象であって、極めて頻繁に起こります。それについて混乱してはいけません。大事なのは、こうした問題が生じたとき、協力して神の前で結束し、意見の統一を図るにはどうすればよいかを問うことです。意見を統一させることの目標は何ですか。それは、この方面の真理の原則を探し求め、自分や他人の意図に沿って行動せず、一緒になって神の意図を求めることです。これが円満な協力を成し遂げる道なのです。神の意図と神が求める原則を探求して初めて、結束することができるようになります(『終わりの日のキリスト講話集』の「調和のとれた協働について」)。これを読んでわかりました。協力する中で合意に達するには片方のアイデアに従うのでなく、真理の原則を懸命に求める必要がある。真理を求め、原則に沿って働くことが真の協調なんです。王兄弟と私には異なる経験、知識、そして技能があるのだから、働く中で見方が違うのは当然のこと。私は自分を捨てて一緒に原則を求めなければならなかった。本分で聖霊の導きを得られるよう、真理に従い神の家の働きを守らなければ。これに気づいた私は一緒に小道具を考えるべく、翌日の交わりで王兄弟に打ち明けようと思いました。すると王兄弟がやって来て、自分は頑固すぎ、案もよくなかったと言うのです。作った柱も壊し、私のアイデアに従うと。それを聞いて私は恥ずかしくなりました。そして自分の状態と認識を打ち明けたのですが、二人とも自我を捨てたことで私たちの間の壁は消えました。その後は本分で自分に欠けているものがわかりました。私の柱は確かに滑らかすぎ、本物の木には見えません。もっと工夫する必要がある。そこで王兄弟と話し合ったところ、すぐに解決策が見つかりました。互いの短所を補うことで、三本の柱が一日でできました。一日かけて二本の柱を作ったときは、どちらも問題があった。今のほうがずっと効率的です。真理を実践し、本分の中で兄弟姉妹と協力することの重要さがわかりました。けれど私は傲慢かつ利己的で、しばらくするとまた別の問題が起きました。

あるとき、私は李兄弟と協力し、風雨をしのぐテントを現場で立てることになりました。話し合いで方法を提案したところ、彼は賛成してくれました。そのときこう思った。「自分は建築業界にいたことがある。間違いなく君よりも理解しているんだよ」しかしその直後、李兄弟は不安を口にしました。「鉄パイプが16本しかありません。あなたのやり方だと、その本数で足りますか? 大丈夫ですか? 安全ですか?」私は思いました。「これは三角形の構造だ。三角形の安定性について習わなかったのか? しっかりしていて問題ない」そこで見下すように答えました。「100%大丈夫なんてあり得ない。けれど台風でも来ない限りは大丈夫だ」すると設計図を書いて詳しく説明してほしいと言うので、堪忍袋の緒が切れました。「必要ない。設計図は頭の中にあるし、大丈夫なのは保証する」すると相手は黙りました。翌日の午後、テントを立て始めたところで別の兄弟が提案しました。まずは鉄パイプ2本で屋根を支え、それから側面を立ててはどうかと。それを聞いて私は思いました。「それだと時間がかかる。俺は何度も考えたのだから、これが最善の方法だ。君は来たばかりで話し合いにも参加していない。俺のやり方のほうがいいんだ」そこで彼に言いました。「それじゃあ間に合わない。その2本はあとで下ろさなければならないし、背面から立てるほうが早い」自分のアイデアが受け入れられないとわかり、その兄弟は黙り込んだので、私は自分のやり方でテントを立て始めました。それではしごのてっぺんに登ったところ、鉄パイプのつなぎ目が突然緩んで柱が倒れました。幸い人や物でなく草の上に落ちたけれど、心臓が激しく鼓動しました。「いったい何があったんだ? きちんと締めたのに崩れ落ちたのはなぜだ? 誰かがまっすぐ立てなかったから、きちんと締まっていなかったんだろう」私は単純にそう考えて、気に留めませんでした。そして自分のやり方で作業を続けたのですが、立てた柱が私の立っているはしごめがけて倒れたのです。私は2メートル下の地面に転落しましたが、幸運にも無事でした。そのとき、この2件が偶然の結果でないことに気づいたのです。神のお気遣いと加護がなければ、この柱のせいでひどい怪我を負ったに違いない。そう考えるとますます自責の念と不安にかられ、すぐに神の御前に出て祈りました。「神よ、今日事故が起きました。その裏にあなたの善意と、学ぶべき教訓があるのはわかっています。しかし何を求めるべきかわかりません。私を啓いて導き、御旨をお知らせください」祈りのあと、この御言葉を思い浮かべました。「何をしてもうまく行かなかったり、壁にぶち当たったりすることがある。これは神の鍛錬である。時として、神に従順でなく反抗的なことをしても、誰にも知られないことがある。しかし、神はそれを知っている。神はあなたを立ち去らせず、あなたを懲らしめる(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)。頭がこの言葉で一杯でした。「誰にも知られないことがある。しかし、神はそれを知っている。神はあなたを立ち去らせず、あなたを懲らしめる」。そしてテントを立てることについて、兄弟にどれほど素っ気なく接したかに気づきました。彼らの提案に耳を貸さず、即座に否定した。自分が正しく、自分のやり方で進めるべきだと考えた。これは傲慢なことではないか? 立てる時点ですでに危なかったのだから、演者が中にいて突然倒れたら、信じられない結果になったはず。私はそう考え、自分を正そうと神に祈りました。すると、主イエスの御言葉が頭に浮かびました。「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう(マタイによる福音書18:19)。私は神の御言葉にすぐさま目覚めました。物事をあのように行ってはならず、兄弟との話し合いと協力が必要だと。そのとき別の考えが浮かびました。安全第一。大事なのは、手元の資材でテントをきちんと立てること。すると兄弟から、私の元々の案では鉄パイプが足りないけれど、中央に2本立てれば屋根の中心線が安定すると言われました。私はそれに賛成でした。私の元々の案には、安全面の問題が多数あった。そこで私たちは話し合い、すぐに完全な案ができました。鉄パイプも十分あったので、暗くなる前に完成したのです。

夜、その日のことを振り返りました。自分の傲慢さが惨事を起こしかけた。私は平静でいられず、神のもとへ急ぎ、自己認識できるよう導いてくださいと祈りました。それからスマホで教会のウェブサイトを開き、次の御言葉を読みました。全能神は言われます。「一部の人は本分を尽くしていても、まったく真理を求めようとしません。ただ自分のしたいようにし、かたくなに自分の想像に従って行動するだけで、いつも自分勝手で軽率です。『自分勝手で軽率』とはどういうことですか。それは問題に出くわしたとき、ただ自分がいいと思うように行動し、思考を巡らせることがなく、誰が何を言おうと顧みないということです。誰もあなたに言い聞かせることができず、誰もあなたの心を変えられないので、ほんの少しも動揺させることができません。あなたはただ自分の立場を固守し、他の人の言うことに筋が通っていても耳を貸さず、自分のやり方が正しいのだと信じています。実際にそれが正しかったとしても、人の意見に一切耳を貸さなくてよいものでしょうか。それでもあなたは人の意見を聞かず、他の人から頑固者と呼ばれます。どのくらい頑固かと言えば、十頭の雄牛にも引き戻されないほどで、その頭の固さは手がつけられず、極度に傲慢かつ強情で、真実を突きつけられない限り、それを目にすることができないのです。そのような頑固さは、もはや強情と言えるのではないでしょうか。あなたは自分のしたいこと、しようと思うことを何でもして、誰にも耳を貸そうとしません。あなたがしていることは真理に沿っていないと誰かに言われたとしたら、あなたはこう言うでしょう。『真理に沿っていようといまいと、こうするんだ。真理に沿っていないとすれば、それはこれこれこういう理由で、これこれこういう原因がある。聞かせてやろう、何が何でも』。他の人たちは、あなたのしていることが混乱のもとで、重大な結果につながり、神の家の益に害をもたらすと言うかもしれませんが、あなたはそれを意に介さず、さらに言い訳を続けます。『あなたの気に入ろうが入るまいが、これがわたしのしていることだ。わたしはこのようにしたいんだ。あなたは完全に間違っている。わたしの言うことが完全に正当なのだ』。実際、あなたの言うことは正当かもしれず、していることも重大な結果にはつながらないかもしれません。しかし、あなたが露わにしているのはどのような性質ですか。(傲慢さです。)あなたは傲慢な本性のせいでわがままになります。こうしたわがままな性質があるとき、その人は自分勝手で向こう見ずになりがちではないでしょうか(神の交わり)。「傲慢さは人間の堕落した性質の根源です傲慢になればなるほど、その人は神に抵抗しがちになりますこの問題はどれほど深刻でしょうか傲慢な性質の持ち主は他のあらゆる人を見下すだけでなく、最悪なことに、神に対して威張りさえします表面上は神を信じて神に従っているように見えるものの、まったく神を神として扱っていない人がいますそのような人は真理を自分のものにしていると絶えず感じ、自分を高く評価していますこれが傲慢な性質の本質と根源であり、それはサタンに由来しますゆえに、傲慢さの問題は解決されなければなりません誰も眼中にないと思うのは些細な問題で傲慢な性質のせいで神、神の支配、神の采配に従わないことが重要な問題なのですこのような人は他人の支配を巡って絶えず神と競い合いますこの種の人は神を少しも畏れず神を愛することや神に従うことについては言うまでもありません(神の交わり)。御言葉のおかげで自分の醜さが見えました。御言葉が示すように、私は自分勝手で理知がなかった。テントを立てるときも自分の経験に固執し、またも頑固に振る舞った。兄弟たちの提案に耳を貸さず、即座に否定した。テントと屋根の安全を確かめるよう求められても、私はそれを無視した。決定権を持ちたがり、自分の言うことを聞かせようとした。傲慢な本性が否定的な態度と自分勝手さの根源だったのです。傲慢になって自分勝手に物事を行ったせいで、前にも本分が影響を受けた。しかし今回は合理的な提案を聞こうとせず、自分のアイデアにしがみついたせいで、危うく事故を起こすところだった。傲慢さにとりつかれ、独裁的かつ自分勝手だった。他の人たちと協調せず、心に神の居場所はなかった。神の家の働きやみんなの安全も考慮せず、自分のやり方にこだわるばかり。傲慢さの中で理知を失っていた。神のお気遣いと加護がなければ、想像を絶する結果になっていたでしょう。そのようなやり方がいかに危険か、ようやく気づきました。本分を遅らせるだけでなく、いつか大事故になっていた。そうなっては後悔しても手遅れです! そう思うと心から怖くなりました。また自分の傲慢な本性を理解し、そのように本分を尽くすのはもうやめようと思いました。

その後、御言葉の中に実践の道を見つけました。「高ぶってはいけません。あなたがここにいる人たちの中で最も専門的なスキルを備えていても、自分の質が最高だと感じていても、あるいはあなたの地位が最も高くても、あなた一人でその働きができるでしょうか。いいえ、皆の助けがなければできません。ですから誰も傲慢になってはならないし、一方的に行動しようとしてはなりません。プライドを抑え、自分の考えや意見を捨て、仲間と協調して働かなければなりません。この人たちは真理を実践し、人間性を備えている人たちです。そのような人は神に愛されており、そういう人だけが献身的に本分を尽くすことができます。それだけが献身の現れというものなのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「本分を正しく果たすには調和的協力が必要である」)。御言葉から協力の原則がわかりました。素質や才能にかかわらず、みんな欠点と短所がある。一人で全部行うなど不可能。自分を脇にのけてみんなと協調する必要があるんです。そうすれば、誰もが神から賜わったものを活用し、同じ目標に向かって本分を尽くせる。自分の本分を振り返ると、自分にはない強みを持った兄弟姉妹がいる。そんな人たちの指摘と手助けがあれば、二度目はよりよくできるはず。時には自分が考えもしなかったアイデアを持っていて、彼らの提案を受け入れることで問題を避けられる。そう考えると恥ずかしくなりました。以前は自己を認識しておらず、目がくらんで傲慢でしたが、今ではわかります。自分には他の人たちの協力と手助けが必要で、それがなければしっかり本分を尽くせない。この経験でわかりました。傲慢さに駆られてみんなと協力しなければ、いつも壁に突き当たると。悔い改めて自分を捨て、みんなと協調しようとしたところ、神の導きと祝福を得たのです。そしてわかりました。神は真理を実践する人間らしい人を好まれると。おかげで私は本当に啓かれ、実践の道を見つけました。

3日目の朝、テントを少し補強するようある兄弟から言われたのですが、私は思いました。「午後の撮影後に片付けるんだ。そんなことが必要か?」しかしそのとき、この御言葉が脳裏に浮かんだのです。「誰も傲慢になってはならないし、一方的に行動しようとしてはなりません。プライドを抑え、自分の考えや意見を捨て、仲間と協調して働かなければなりません。この人たちは真理を実践する人たちです」。御言葉が実践の道をもたらしてくれました。自分の見方を捨てて李兄弟と協力し、彼が正しいかどうかに関係なく、まずは言うことを聞いて探求しなければ。そのとき気づきました。撮影が終わるまであと5、6時間。天気がどう変わるかわからない。補強したほうが安全だ。そこで兄弟と一緒にテントを補強したのですが、午後2時か3時ごろ、突然風雨が激しくなり、嵐が40分ほど続いたのです。けれど私たちはテントの中でそれをやり過ごしました。私は言い知れぬ感動を覚えました。神の全能と知恵がわかったのです。みんなの提案のおかげで自分の堕落した性質に気づけただけでなく、神はこうした不思議な形で私に注意し、私たちを嵐から守ったのです。私は心の底から神に感謝しました。

この経験のおかげで自分の傲慢なサタン的本性を認識し、協調というものにいくぶん入ることができました。真理を実践し、本分で頑固さを捨てることが、他人と協調する上で大事なんです。私が認識して得たものは、ひとえに御言葉を通じた神の裁き、暴き、懲らしめのおかげです。全能神に感謝!

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