自分を誇示することで生じた害
数年前、私は同年代の兄弟姉妹を潤していました。みんな熱心で責任感があり、いつも称賛されて私はうらやましく思いました。自分もいつか、彼らのように仰ぎ見られたい。その後、別の教会に移ってすぐ、そこの指導者が偽指導者とされて解任されました。実際の働きをしてなかったから。そこで私が後任に選ばれました。知り合いの兄弟姉妹は、「神の引き立てだから大事にしないと」と言って励ましてくれました。この本分は責任重大なので、自分を証明するチャンスだと思ったわ。しっかりこなせば、兄弟姉妹に仰ぎ見てもらえる。私は静かに決意した。全力でこの本分を尽くそうと。
その後は集会のたび、前の指導者がいかに実際の働きをせず、消極的に語りっていたかを分析したのですが、みんな腹を立てていました。これを見て、私は自分に言い聞かせた。ここの兄弟姉妹は偽指導者を識別できるし、私が実際の働きをするよう期待している。認めてもらえるよう頑張らなきゃ。教会指導者は教会で誰よりも積極的になり、喜んで苦しみ、それに犠牲を払う必要がある。試練が来たら誰よりも信仰を持ち、消極的になってはいけない。みんなが絶えず私を賛美するよう、あらゆる点で他人に勝る必要がある。こんな考えに支配された私はグループの集会に全部出て、寝るのは毎日夜遅く。他の人とおしゃべりしても、自分は教会の働きで忙しく、寝るのも深夜だとわざと口を滑らせた。それを聞いたみんなは、私が責任感に溢れ、苦しみも厭わないと思い込み、身体には気をつけてといつも言ってくれた。それにごちそうや飲み物なんかをくれたりもした。ある人の状態が悪いと、私はどんな天気でも助けに駆けつけた。集会では兄弟姉妹に、誰それはずっと否定的だったけど、私と交わって積極的になったと言った。するとみんなは、この人は若いのに愛と忍耐に満ちていると思ってくれた。教会の働きを把握しようと、福音の対象者が現われた瞬間、私は福音執事にその人と交わらせてほしいと頼んで、その人に自ら証しをすることもあったわ。福音の働きが前進し始めて、私はある集会でこう言ったの。「いい、福音の働きはこれまで滞っていたけど、今では毎月誰かが神の働きを受け入れている。もっと頑張らなきゃ」。すると兄弟姉妹も、私の着任以来、福音の働きも順調だと感じ、ますます私を見上げて崇拝したわ。集会で自分の経験を交わるとき、私は積極的な入りの実例を大げさに語った。自分の堕落を話しすぎるのが不安で、そうしたらみんなに、問題が起きたらこの人は弱り、背丈も小さいと思われ、仰ぎ見てもらえなくなる。だから自分の消極性と弱さ、それに自分が表わしている堕落はほとんど話さなかった。自分がどう真理を求めて御言葉を実践し、信仰で本分を尽くし、神の導きを見ているかは残らず話し、どんな細かいことも省かなかった。しばらくこんな調子で交わりをしていると、私は真理の追求に優れ、いつも実践の道を見つけてるとみんなに思われた。問題があると私との交わりを求めてきたわ。
やがて、教会のあらゆる働きが前進し始めた。みんなの信仰も膨らみ、より多くの人が本分を尽くす気になったの。私はこの成果を見て、自分は教会の柱だとさらに感じた。胸を張って歩き、どこでもますます大胆に話した。自分は優れた教会指導者で、この地位にふさわしいと思ってた。みんなと働くときも、リードするのはいつも私。みんなが私を崇めて言うことを聞くよう、自分が際立っていることを誇示した。あるとき、集会のための部屋を借りることになって、パートナーの執事と兄弟がその部屋を見に行ったの。そのとき思った。「こんな大事なことは私が決めないと。たとえ見ていなくても、私抜きで決めるなんて許さない」。実際にはわかってた。この兄弟のほうが年上で経験も豊富だし、部屋の善し悪しも私よりよく知っているって。でも私は、自分の優秀さを見せつけようと知恵を振り絞ったわ。「部屋を借りるとき、他に検討すべき情報や問題は?」って考えたの。そこでいくつか質問して、さらにその部屋を調べさせた。結局、その部屋にはいくつか問題があって、それを知った同労者はこう言った。「とても恥ずかしいです。こっちの方が年上なのに、あなたほどじっくり問題を考えていませんでした」。それを聞いて喜んだわ。それからは、答えや話し合いを求めてみんな私のもとに来た。時が経つにつれ、一緒に働いてた人たちは受け身になり、何事も私の意見を待つようになった。ますます私を頼りだしたの。
だんだん気づいたわ。私の威厳は同労者のあいだでますます揺るぎなく、教会の問題は大小問わずすべて自分に決定権があると。兄弟姉妹も困難に見舞われるたび、私との交わりを求めた。自分は教会に不可欠だって思ったわ。だからよく自己満足してた。仰ぎ見られる人には不幸が訪れると不安になって「みんな私を見上げてる――自分は道に迷ったの?」と自問することもあったけど、すぐにこう考えた。「私は指導者。兄弟姉妹も問題があれば私のところに来る。それに彼らの問題の中には、私が解決できるものもある。私を頼るのは当然よ! 助けてくれる人に近づくのは自然でしょう?」それで聖霊の戒めと警告を無視して、自分の状態も進んでいる道も検証しなかった。それどころか同じ間違った道をひたすら進んでたの。神に懲らしめられて初めて、私の麻痺した心が目覚めだしたんです。
ある日目覚めると、左目に激痛が走った。涙が止まらなくて、鏡を見ると顔の左半分がこわばってる。目を閉じることも口を動かすこともできない。まったくわけがわからなかった。午後の集会で私を見た姉妹は驚いて、顔面麻痺だと言ったわ。すぐに治療しなきゃだめだって。それが遅れると、顔は二度と元に戻らない。私は本当にショックで、頭が真っ白になった。まだ若いのに、こんな病気になるなんて。彼女の言うことが本当なら、私の顔はこのまま歪む。本分も尽くせないし、どうしてみんなと顔を合わせられるだろう? 頭がくらくらして、心も弱り始めた。みんなも私の病気のことを話してたけど、私の頭は完全に混乱してた。エネルギーもすっかり失いました。
どうやって家に帰ったのかも憶えてない。神に祈ろうとしたけれど、何て言っていいかわからない。心を静めて御旨を求められるよう、どうかお導きくださいと神に求めることしかできなかった。すると突然、神の御言葉の賛美歌が頭に浮かんだの。「病気が発症したとき、それをどのように経験すべきですか。神の前に出て祈り、探求して神の旨を把握し、自分がどのような間違ったことを行なったのか、いまだ解消されていないどのような堕落が自分の中にあるのかを検証すべきです。苦痛を伴わずに自分の堕落した性質を解決することはできません。人は痛みによって鍛えられる必要があり、そうして初めて、自堕落でいることをやめ、いつ何時でも神の前で生きるのです。苦しみに直面したとき、人はいつも祈ります。食べ物や衣服や享楽のことなど考えず、心の中で祈り、自分がこの間何か間違ったことをしたのかどうか検証します。たいていの場合、人が重い病気や珍しい病気に苦しんでいるとき、それはその人に大きな苦痛をもたらしますが、そうしたことは偶然に起きるのではありません……」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「病のときは神の意志を求めなければならない」)。神の言葉にこうある。「たいていの場合、人が重い病気や珍しい病気に苦しんでいるとき、それはその人に大きな苦痛をもたらしますが、そうしたことは偶然に起きるのではありません」。御言葉のおかげで気づいたわ。この病気は偶然じゃないって。その裏には間違いなく神の善意があって、私を懲らしめてたの。自分が神にどう背いたのか、真剣に探求して反省しなければ。そこで神の御前に出て祈ったわ。「全能神よ。私は病気に襲われましたが、これはあなたの懲らしめだと心の中でわかっています。この病気を使って私に警告なさり、自己反省させています。でも、今の私は麻痺しています。自分の問題を突き止めていません。この病気から教訓を得られるよう、どうか私を啓いてください」。祈りの後、私はひたすらこのことを考えたけど、神にどう背いたのかわからなかった。そこで再び真剣に祈り、神のお導きを求めた。それから数日、こんな風に祈って探求したところ、ありがたいことに神が私の祈りを聞いてくださったの。程なく、私が問題を認識できるよう、神は状況を整えてくださった。
ある日、針を打ってもらいに趙姉妹の自宅へ行くと、気落ちしてる私を見て、家族のみんなから大丈夫かと訊かれたわ。針治療の途中、彼女は「病気の扱い方に関する原則」を読んでくれた。そして心配する代わりに、もっと神に祈ってすがり、信仰を持つようアドバイスした上で、この治療ですぐによくなると言ってくれた。でもその前に、すぐに治療しなければ顔が永久に歪むと言われたから、私は本当に不安だった。だけど、私のことを心配している彼女を見て、思ったわ。「みんなが私の本当の気持ちを知ったら、背丈が小さいと思うかしら? 誰かが試練に遭ったり病気に襲われるたび私はその人と信仰に関する真理を交わった。自分の信仰はとても強いと思いながら。だけど今、私は突然病気になり、信仰のなさを見せて不安と恐怖を表わしている。単に教義を説教していたのだと、みんなは思うかしら?」そこで、笑顔で趙姉妹にこう言ったの。「病気のせいで少し弱くなったわ。でも、すべては神の御手の中にあると信じてる。肉体の苦しみなんて何でもない。一番つらいのは、神の御旨を見つけられないこと。または自分の問題を突き止められないこと。だから動揺して麻痺しちゃったの」。彼女は尊敬のまなざしでこう言ったわ。「病気の今こそ自分を反省すべきね。自分を検証して認識しながら、治療も受けないと。病気になったのは働き過ぎのせいかもしれない。日の出から夜更けまで本分を尽くしてるあなたを、みんな尊敬してる。それに今でも本分を尽くそうとしてる。だけど焦らないで。本気を出してないって、一緒に働いてる姉妹を叱ったの。もっと熱心に教会の働きをしなさいって注意したわ」。それを聞いて少し不安になったので、私は彼女に注意した。「教会の働きに参加してるのは私だけじゃない。そんなに持ち上げないで」って。家に帰る途中、私は考えたわ。「私を引き合いに出してあの姉妹を批判したのはどうして? 彼女には、私が誰より重い責任を負っているように見えているの? 私はいつも自分を称え、他人を見くびっていたのね」。そして自分の弱さを趙姉妹から隠し、あれほど強い信仰を持っている振りをしたことを考えた――私は彼女を騙していたのでは? そう考えていると、趙姉妹がこちらに近づいてきたの。私のことを心配して、こう言ってくれた。「身体に気をつけなくちゃだめよ。この状態で倒れたら、私たちはどうすればいいの?」この率直な言葉を聞いて、とても怖くなった。道すがら、彼女に言われたことが頭から離れず、不安を感じ始めてこう思った。「私はしがない教会指導者。私がいなくたって、教会には何の影響もない。私がいなくなったらどうすればいいなんて、どうして言ったの? そう言うってことは、私はみんなの心に居場所を占めている。心は神の神殿なんだから、そこに居場所があるのは神に逆らうことじゃない?」人に認められ、尊敬されるにはどうすればいいかばかり考えていたけれど、姉妹の言葉を聞いて、不安と恐怖を感じた。他の兄弟姉妹も、私に騙されていたのかしら? みんなも趙姉妹と同じように思っていたら、人を自分の前に連れ出したってことじゃない? 私は反キリストの道を歩んでる! 以前に追放された反キリストたちのことを考えると、背筋に冷たいものが走った。まるで大きな災いに見舞われたよう。
家に帰ると御言葉の本を手にとって、この一節を読んだわ。「傲慢な本性を持つ人は、神に逆らい、神に抵抗し、神を批判して裏切るという行為に走り、自分を高め、自分の王国を築こうと試みるようなことを行なえます。ある国に、神の働きを受け入れた数万人の人がいて、神の家があなたをそこへ派遣し、神の選民を率いて牧養させたとしましょう。また、神の家があなたに権限を渡し、監督されることなく独りで働くことを許したとしましょう。数ヵ月も経つと、あなたは君主のようになり、すべての権力があなたの手中にあり、あなたが支配し、すべての選民があなたを神のごとく崇め、礼拝し、服従するでしょう。そして大多数の人が、あなたの前にひざまずき、頭を垂れ、言葉を尽くしてあなたを称える歌を歌い、あなたの説教は洞察に満ちていると言った上で、あなたの発する言葉こそ、自分たちが必要としているものだとか、あなたは自分たちの要求を満たすことができるなどと、しつこく主張するまでになるでしょう――誰一人、『神』という単語を口にすることはありません。あなたはどのようにして、その働きを成し遂げたのでしょう。これらの人たちがこのような反応をできるということは、あなたの行なっていた働きに神を証しすることがまったく含まれていなかったことの証明となるでしょう。むしろ、あなた自身の証しをし、自分を誇示していただけなのです。あなたはどのようにして、そうした成果を挙げることができたのでしょう。中には、『わたしが交わることは真理だ。自分自身の証しをしたことなど決してない!』と言う人がいます。あなたのそうした態度――そうした物腰――は、神の立場から人々に交わりをしようとするものであり、堕落した人間の立場に立つものではありません。あなたが述べることはどれも仰々しい話や他人への要求であって、自分自身とはまったく関係ありません。したがって、あなたが挙げるであろう成果は、人々にあなたを崇拝させ、羨望させ、称えさせて、最後に全員があなたのことを知り、あなたの証しをし、あなたを高め、あなたにお世辞を言って有頂天にさせることです。そうなると、あなたは終わっています。あなたは失敗したのです。これが、あなたがた全員が現在歩んでいる道ではないですか。数千名、また数万名の人を導くよう求められると、あなたは高揚することでしょう。そうして傲慢さが生じ、神の地位を占めようと試み、身振り手振りを交えて語り始め、何を着るべきか、何を食べるべきか、どう歩くべきかはわからずにいるはずです。安楽にふけって自分を高く掲げ、一般の兄弟姉妹にわざわざ会おうとしないでしょう。あなたは徐々に堕落し、大天使のように打ち倒されるに違いありません。あなたがたはみな、こうしたことができます。違いますか。では、あなたがたは何をすべきですか。ある日、出かけて働きを行なうという采配が本当になされ、あなたがたにそのようなことが可能ならば、どうしてその働きを拡大できるでしょうか。これは面倒なことではないでしょうか。そうであれば、誰があえてあなたがたをそこに行かせるでしょうか。そこへ送られたあと、あなたは決して戻ろうとせず、神が述べることに一切注意を払わず、あたかもあなたが人々に救いをもたらし、神の働きを行ない、神が現われここで働きを行なっていると人々に感じさせているかのごとく、ひたすら自分を誇示して自身の証しを行なうでしょう――そして、人々があなたを崇める中、あなたは大喜びするでしょうし、人々に神のように扱われたなら、それを受け入れさえするはずです。ひとたびその段階に至ると、あなたは終わりです。くずにされてしまいます。それに気づくことがなければ、こうした傲慢な本性が最後にあなたを滅ぼします。これは反キリストの道を歩んでいる人の例です。この段階に達した人は意識を失っており、その知覚は機能を停止しています」(『終わりの日のキリスト講話集』の「傲慢な本性は、神に対する人の抵抗の根源である」)。「自分の地位を利用して繰り返し自分に有利な証言をし、自分の立場を強化し、人々や地位を神と争うような者もいます。彼らはあらゆる手段を用いて人々に自分を崇拝させ、常に人々を魅了し、支配しようとしています。場合によっては、意図的に人々を欺いて自分自身が神であるかのように思わせ、神のように扱われようとする者さえいます。彼らは自分が堕落しているとは決して言いません。自分も堕落した高慢な存在であり、崇拝の対象にはなりえず、どれだけ立派にやっていても、すべては神に高められたためであり、ただすべきことをしているだけだ、とは決して言いません。なぜそう言わないかといえば、人々が自分に見向きもしなくなることを深く恐れているからです。だからそのような者は決して神を称賛せず、神に証しすることもありません」(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)。「下り坂を行く者はみな自分自身を高く掲げ、自分の証しをします。あちこちで自分のことを自慢したり増長したりして、神を心に留めたことなどまったくありません。わたしが話していることをあなたがたは経験したことがありますか。多くの人は絶えず自分の証しをしています。『わたしはあれやこれに苦しみ、あれやこれの働きを行なってきたが、神はわたしをあれやこれの方法で取り扱い、あれこれするように求めた。神はわたしのことを特に高く評価しており、今やわたしはかくかくしかじかである』という具合です。このような人たちは故意にある特定の調子で語り、特定の態度をとります。最終的に、一部の人々は、そのような人が神だと思うようになります。いったんその段階に達すると、聖霊はそれよりずっと以前に彼らを見捨てています。今のところは無視されているだけで、追い出されたわけではないものの、彼らの運命は定まっており、彼らにできるのは懲罰を待つことだけです」(『終わりの日のキリスト講話集』の「人はあまりに多くを神に要求する」)。神の御言葉が私の心を貫いた。私は御言葉で言われているように、本分でいつも自分を高め、誇示していた。指導者になってからというもの、指導者でいるには他人よりも立派で、背丈も優れ、みんなに認められ、尊敬されなきゃと思っていた。自分の経験を交わるときも仮面を被り、自分の弱さや堕落はほとんど話さなかった。私もみんなのように堕落しているのがわかると、見上げてもらえなくなると恐れたから。病気になったときでさえ、消極的になって文句を言い始め、大きな恐怖を感じたけれど、自分のイメージを守るため、本当の気持ちを隠して肯定的なことしか話さなかった。みんなにもっと崇めてもらい、私がどれだけ肯定的で、みんなより多くの信仰があるかを考えてほしかったから。指導者たるもの、夜遅くまで起きてたくさん苦しむ必要がある。でも、私はわざと兄弟姉妹に、自分がどれほど忙しいか、遅くまで起きて懸命に働いているかを漏らした。責任感が強く、努力家だと思われるように。本分で成果を挙げたのは、明らかに聖霊のおかげ。でも私は神を高めず、自分の苦しみと犠牲を見せつけるばかり。この人がいなければ何もできない、教会の柱だとみんなに思われたくて。私はいつもこんな風に交わって、みんなを騙してた。だからこの病気で懲らしめられた。でもみんなは、私の病気は過労のせいだと信じ込み、一緒に働いていた姉妹は、本気を出してないと非難された。まるで私が教会で一番重い責任を負ってるみたいに。私はこのように自分を高め、誇示し、みんなを騙して虜にし、自分の前に連れ出した。公然と神に敵対してたのよ。そう考えると、怖くて仕方なかった。他の人に仰ぎ見られ、崇められるよう、私はあの手この手で自分を誇示し、みんなを騙した。それでみんな私を頼るようになり、心に神の居場所がなくなった。どんなことでも私の意見と承認を求めた――私は女王のように教会を支配してたのでは? 教会は神を崇める場所。なのに私は自分を高め、みんなを自分の前に連れ出すことで、神に成り代わり、神をお飾りにしようとしてたのでは? 私は反キリストのように神に逆らい、裏切ってた――神の性質に背くという恐ろしい罪を犯したの! そのとき本当に怖くなった。病気になったのは神を怒らせたからで、神は今、ご自身の義を示されてる。ここまで麻痺して反抗的な自分を私は憎んだ。そして神の義なる性質が一切の背きを許さないことがわかったの。私は神の御前にひれ伏して祈り、懺悔した。「全能神よ! 去年、私はあなたに仕えず、悪事をしていました。みんなを自分の前に連れ出し、あなたと支配を巡って争った。反キリストのように振る舞い、卑劣で恥知らずでした。神よ、私の行ないは間違っていました」。後悔に襲われた私は、恥ずかしくて神に顔向けできなかった。
そしてこう思ったの。「どうして私はこんな間違った道を歩きだしたんだろう? この原因はいったい何かしら?」そこで御言葉を読んだわ。「パウロを特に偶像化する人がいます。出かけて行って演説をし、働きを行うのが好きで、集会に参加して説教することを好みます。人が自分の話を聞いてくれ、自分を崇拝してくれ、自分を取り囲んでくれるのが好きです。人の心の中に地位を持つのが好きで、自分が示すイメージを他の人に高く評価されると喜びます。このような振る舞いから、この人の本性を分析してみましょう。こうした人の本性はどのようなものですか。本当にこのように振る舞うなら、傲慢で思い上がっていることはそれで十分にわかります。神をまったく崇拝していないのです。高い地位を求め、人に対し権威を持ちたい、人を占有したい、人の心の中の地位が欲しいと願います。これは典型的なサタンの姿です。彼らの本性の際立った側面は、傲慢さと思い上がり、神を崇拝する気のなさ、そして人から崇拝されたいという願望です。このような振る舞いにより、その本性をはっきりと見極めることができます」(『終わりの日のキリスト講話集』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」)。「サタンによる人類の堕落以来、人の本性は劣化し始め、人は徐々に、正常な人が持つ理知を失いました。現在、人はもはや人間の立場で人間として行動しておらず、野心に満ち溢れ、人間の地位を超えようと望みながら、より高みに登ろうとさえしています。この『高み』とは何を指しますか。彼らは神を超え、天を超え、他のすべてのものを超えたいと願っています。人がこのようになってしまったことの根本には何があるのでしょうか。つまるところ、人間の本性は過度に傲慢なのです。……傲慢さの表われは神への反逆と抵抗です。傲慢で、尊大で、独善的な人は自身の独立王国を築き、自分のしたいことを何でも行なう傾向にあります。そうした人はまた、他人を自分の手中に連れてきて取り込みます。そうしたことをできるというのは、その人の傲慢な本性の本質がサタンのそれと同じであることを意味します。大天使のそれと同じなのです。傲慢さと尊大さがある程度まで達すると、その人は大天使になり、神は必ずや脇へのけられてしまいます。あなたがこのような傲慢な本性を有しているなら、神はあなたの心に居場所を持ちません」(『終わりの日のキリスト講話集』の「傲慢な本性は、神に対する人の抵抗の根源である」)。御言葉のおかげで、自分の問題の本質がはっきりわかった。本分でいつも自分を高め、誇示していた理由も。それは傲慢でうぬぼれた私の本性のせい。最初から間違った道を歩んでたの。自分を高めて誇示したせいで、私はパウロのようになった。パウロは働く中で、いつも自分を高めて証しをした。そして主イエスが受肉した神であることなんか、一度も証ししなかった。彼の証しは、自分がどれほど苦しみ、犠牲を払ったかばかりで、こんなことまで言ったわ。「わたしにとっては、生きることはキリストであり」(ピリピ人への手紙1:21)、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(テモテへの第二の手紙4:7-8)。この人は冠と報酬を受けるにふさわしいと、パウロはみんなに信じさせた。私の本性はパウロのそれとまったく同じ。仰ぎ見られ、崇められ、人が私の周りに集まり、どこに行っても私を褒めるのを楽しんだ。人の心に居場所を占めてたの。神の御言葉が言うように、自分の本性がこんなもので一杯だとわかった。「傲慢さと思い上がり、神を崇拝する気のなさ、そして人から崇拝されたいという願望です」。傲慢すぎて理知を一切失い、被造物の立場に甘んじ、神を崇めることができなかった。神を神として扱わず、それどころか自分を称えた。本分で背伸びしたのも、仰ぎ見られ、崇められるようにするため。それで兄弟姉妹を騙してた。問題があると、みんな私を頼り、働きの決定を私に任せた。私はみんなを自分の前に連れ出し、自分の王国を築いたの。こんな振る舞いが神の怒りを招かず、私を憎まないなんて、どうしてあり得るでしょう? 私の病気は神の義。悪事を犯して神に逆らった報い。私を懲らしめ、悪事を途中で止めてくださった神に私は感謝したわ。
それに気づいて、こう祈ったの。「明日からは意識して真理を実践し、自分の肉に背きます。みんなに私の醜さと正体を見てもらい、これ以上私を崇めないよう、自分の堕落を晒します」。翌朝のデボーションで、正直に心を開くこと、そして神を崇めて証しする方法についての御言葉をいくつか読んだの。神の御言葉にこうあります。「神の証しをするときは、神が人々をどのように裁き罰するか、どのような試練を用いて人々を精錬し、あなたがたの性質を変えるかを主に語るべきです。また、自分の経験においてどれだけ多くの堕落が表わされたか、自分がどれだけ耐えてきたか、最後はどのようにして神に征服されたか、神の働きに関する真の認識が自分にどれだけあるか、どのようにして神の証しをし、神の愛に報いるべきかも語るべきです。こうした言葉に中身を持たせつつ、簡潔に語りなさい。空虚な理論について話してはいけません。もっと地に足のついた話をしなさい。心から語りなさい。あなたがたはそのように経験しなければなりません。自分自身を誇示しようと、深遠に見えながらも空虚な理論で着飾ってはいけません。そうすることはかなり傲慢で理知に欠けるように見えます。本当の物事を、自分の実際かつ本物の経験から、そして心からもっと語るべきです。それが他人にとって最も有益であるとともに、彼らが目にするのに最適なのです。あなたがたはかつて、神に最も強く反対し、神に服従しようという気持ちが一番ない人々でしたが、今は征服されています。それを忘れてはいけません。これらのことについてもっと熟慮し、考えなさい。いったんそれをはっきり理解すれば、どのように証しをすべきかがわかります。さもないと理知に欠ける恥ずかしい行為をしがちになります」(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」)。「『経験を共有して伝える』とは、心の中のあらゆる考え、自分の有様、神の言葉に関する経験と認識、自分の中の堕落した性質を声に出し、その後、他の人たちに対して、それらを識別し、肯定的な部分を受け入れ、否定的なことを認識させることを意味します。共有するとはひとえにそうした意味であり、それだけが真に伝えることなのです」(『終わりの日のキリスト講話集』の「正直であることの最も基本的な実践」)。神の御言葉でわかった。本当に神を高めて証しするには、自分の堕落と反抗心についてもっと話し、本当の状態と考えをさらけ出し、自分の卑しい動機、自分がしたこと、その結末、そして御言葉の裁きをどう経験し、自己認識するようになったかを話す必要がある。それから自分の正体をみんなに見てもらえるよう、堕落した本質を暴いて分析し、神が自分をどう懲らしめ、環境を整えてどう導いたかを話さなければ。人に対する神の愛を誰もが見られるように。自分の心も打ち明けて、自慢したり誇示したりしてはいけない。実践の道を得た私は、交わりでみんなに心を開き、反キリストの道を歩んでいたときのことを残らず話した。この道を歩んでみんなを騙すことの恐ろしい結末を分析したの。これを交われば交わるほど、自分のことがはっきり見えたわ。すると、自分たちは全然これに気づいてなくて、私の見事な話しぶりや善行に騙されてたと言われた。ある姉妹はこう言ったの。「あなたは真理の実践に優れてると思ってました。神の御言葉を読んで、いつも積極的でいられるって。でも今は、あなたも堕落していて、消極的で弱いこともあり、堕落した人類はみんな同じだってわかったわ。誰かを崇めたり、持ち上げたりしてはいけないのね」。別の姉妹はこう言った。「あなたは本当に強いと思ってたから、あなたの前で心を開きたくありませんでした。あなたよりずっと堕落してると思ってたんです! でも心を開いてくれた今、みんな一緒なんだとわかりました」。姉妹たちがそういうのを聞いて、私は恥ずかしさと後悔で一杯になった。それで言ったの。「私を仰ぎ見るのはもうやめてね。反キリストの道を歩んで、みんなを惑わしてしまったんだから」。するとパートナーと同労者が神の言葉で、私が自己認識するのを助けてくれて、突然みんなと近づいたように感じたの。その日家に帰ると、ずっと気が楽だった。夜になると病気のこともすっかり忘れ、赤ん坊みたいに眠ったわ。翌日目が覚めると、顔が元通りになっていてとても嬉しかった。一晩で治ったの!
その後の集会で、神の御言葉からこの一節を読んだわ。「意図や目的が正しくない者、周りに注目されたい者、何かしたくてたまらない者、混乱を起こしやすい者、宗教的教義の説教を得意とする者、サタンのしもべなどといった者が、何かしようと立ち上がると、教会にとって通常やっかいな存在となり、それによって兄弟姉妹たちによる神の言葉の飲み食いが無駄になってしまう。そのような人々が芝居気に振舞うのを見たなら、即刻止めなくてはならない。度重なる忠告にもかかわらず変わらなければ、彼らは損害を被ることとなる。頑なに自分達のやり方を通す者たちが、自らを弁護してその罪を覆い隠そうとするなら、教会はすぐにそのような者たちを排除し、立ち回る余地を一切与えてはならない。わずかなものを惜しんで多くを失ってはならない。常に全体像を注視しなさい」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十七章」〔『言葉』第1巻〕)。私の過去一年の最も顕著な特徴を、御言葉は暴いてた。指導者になって以来、あらゆることでリードするのを喜んでいた。誰より立派だと言わんばかりに、自分を誇示した。パートナーと話し合うときは、相手にアイデアがあっても、いつも自分が主導権を握り、自分の「優れた」意見をまくし立てた。表向きは積極的だったけれど、実際にはみんなに尊敬され、事あるごとに自分を誇示したがっていた。そう考えていると、こんなに恥知らずだったのは自分の傲慢な本性のせいだと気づいたの。みんなは私の意見を尊重して、私と一緒に物事を話し合った。真理現実を生きていて、独裁的でも傲慢でもなかった。でも私は、自分のほうが優れているという意味に受け取り、いつも偉そうにし、自分のほうが優れていることを示したかった。本当に笑ってしまうわ。裸の王様のように自分のことがわかっていなかった。どれだけ恥ずかしい振る舞いをしてたかに気づかず、事あるごとに自分を誇示するばかり。自分の振る舞いを考えると、恥ずかしさで真っ赤になった。自分のことを立派だと思ってたのは、自分を本当に知らなかったせい。自分の歩んでいる道を考えると、恐ろしくなった。特に神の御言葉を読んで、自分を誇示することを愛する間違った動機の持ち主を見つけたら、「即刻止めなくてはならない」、その人が反省せずに言い訳するなら、「頑なに自分達のやり方を通す者たちが、自らを弁護してその罪を覆い隠そうとするなら、教会はすぐにそのような者たちを排除し、立ち回る余地を一切与えてはならない」。これは神の義と威厳を示してる。私は事あるごとに自分を誇示し、しまいに兄弟姉妹を騙してますます私を崇めさせた。そのせいで、心に神の居場所がなくなった。私は一緒に働く人たちを密かにお飾りにして、責任感を持って働かなくさせた。私は教会を荒らし回り、気づかぬうちに害だけをもたらしながら、その間ずっと自分は輝ける星だと思ってた。神が私を厳しく裁かれなかったら、私は自分のことも、間違った道を歩んでいることも、引き返せない道に踏み出したこともわからなかったはず。これに気づいて、見方が変わりだしたの。それまでは、自分はみんなに仰ぎ見られる有能な人で、自分を誇示しても問題なく、立派なことだとさえ思ってた。でも今は、そうした卑劣な形で自分を誇示し、みんなに仰ぎ見られるなんて恥ずかしいことだとわかったわ。自己認識せず、性質の変化も求めず、自分の傲慢な性質に従い、事あるごとに自分を誇示するなんて、本当にみっともないこと。人間性がある人は、自分の傲慢さを捨て去り、神を畏れ、自分を正しく律し、着実に本分を尽くし、言葉でも行動でも神の証しができる。こういった人は理知的で立派な人生を送っているの。
その後はいつの間にか自分を誇示するたび、嫌悪と憎悪を感じた。そして意識的に、誰といても現実的になり、自慢してはいけないと自分に言い聞かせた。特に交わりでは実際的な話をして、自分を誇示するなんてもってのほか。自分の経験を交わる前に意識して神に祈り、心をご覧くださいと求めた上で、もっと神の証しをできるよう、自分の動機を正したわ。交わりの後は自分にこう問いかけるの。発言の中で自分を誇示しただろうか、って。時には自分を誇示していたことに気づいて、次に同じグループと会うとき、自分をさらけ出して以前の振る舞いを分析するの。みんなが私の言葉を判断して、無闇に私を崇めないように。このように交わりをすると、兄弟姉妹は私の本当の背丈を見て、私を仰ぎ見なくなったわ。
この出来事を振り返ると、神は本分を尽くす機会を与えてくださったのに、私は反キリストの道を歩き、自分のことばかりして神の敵になった。神に大きな借りができたわ。神があの病気で私を懲らしめず、御言葉の裁きがなかったら、自分をまったく知らなかったでしょう。昔はいつも「神の刑罰と裁きは愛であることを知りなさい」っていう賛美歌を歌っていたけれど、本当に経験も理解もしてなかったのね。でも今は心からこう感じる。神の裁き、刑罰、そして懲らしめは、神の最大の愛と救いなんだって! 神の愛を思いながら、とても感動した。そして真理を求めなかったことを後悔した。正直な人にならなければと、自分に言い聞かせたわ。集会では、神の証しをする形で御言葉を交わるにはどうすればよいかに集中した。同労者と一緒のときは、真理にかなう意見があればそれを尊重し、肯定するように意識したし、以前のように否定し、自分を誇示することをやめた。パートナーと私の立場は同じで、どちらかがリードすることもなくなった。問題があればみんなで原則を求め、それを実践する。神の義なる性質を認識させ、神を畏れるようにしてくれた神の裁きと刑罰に感謝したわ。神に仕えて本分をきちんと尽くしながら、被造物の立場を求めたの。私を救ってくださった全能神に感謝します。