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神の国の福音に関する代表的な質問と解答

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質問9.聖書こそが主の証しであり、信仰の土台なんです。この2千年信者たちはみな、聖書を基に信仰してきました、つまるところ聖書は主の代弁です。主を信じることはすなわち、聖書を信じることなんです。何があろうとも聖書から逸れてはいけません、聖書なしにどう信仰を実践するんですか?信仰と言えますか?教えてもらいましょうか?これのどこが間違っているんですか?

解答: 聖書は神様や主を代弁する多くの信者が、そう信じているかもしれません、主を信じることはすなわち、聖書を信じることだと思っています。聖書をまるで神様であるかのように、崇め奉ってさえいます、神様を認めずして聖書を認める人すらいます。聖書を至高のものと位置づけるだけでなく、神様に取って代わらせようとさえしています。宗教指導者たちの中には、キリストを認めずに、聖書を認める人もいる。主の再臨を説く者を彼らは異端者と、見なしています、一体何が、問題なんでしょうか?宗教界は、もはや主の再臨を信じず、聖書しか認めないというところまで廃退してしまい、救いようがないということです。宗教界は、神様に逆らって敵対する、反キリストのグループになり下がってしまいました。宗教指導者の多くが、偽善的なパリサイ人なことは否定できません、特に「主の再臨を説く者は異端者である」と主張するのは反キリストであり不信心者です。どうやら、多くの人は、主を信じるとはどういうことかを知らないようです。漠然とした神への信仰を正統な信仰と考え、神様の代わりに聖書を信じる有り様。終わりの日に受肉されたキリストを拒み非難さえします、キリストが表される真理にも全く目を向けようとせず、疎かにしています。どうしたことでしょう?考えさせられる問題です。昔、主イエスが働きをされた時代、ユダヤ教徒は同じことをしませんでしたか?キリストが現れて働かれる前は、神様への信仰はすべて、聖書が基本となっていました。誰の信仰が本物か偽物か、誰にも分からず、誰が真に神に従い誰が反しているかなど、知るすべもありませんでした。主イエス・キリストが受肉され働きをされた時に、人間が暴かれたのは一体なぜですか?そこに神の全能と知恵があるんです。終わりの日のキリスト・全能神が現れ働く時、賢い乙女たちには神様の声が聞こえ、足跡が見えるため、当然、御前に引き上げられます。愚かな乙女は聖書に固執し、終わりの日のキリスト・全能神が神様であることを認識しないため、暴かれて見捨てられます。今はまだ、信仰とは名ばかりのものに、彼らもしがみついていますが、大災害に襲われた日には、むせび泣き、歯ぎしりして苦しむほかありません。皆さんもうお分かりでしょう、聖書のみに固執して、真理を拒む人や天の神様だけで、受肉したキリストを受け入れないのは不信心者であり、神様から見捨てられます。これが事実です。ここで全能神の御言葉を読みましょう。

 全能神は言われます。「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)

 「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、聖書の言葉に厳密に従った人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。聖書の影響力を擁護するため、聖書の権威を維持するため、聖書の評判を守るため、彼らは慈悲深いイエスを十字架につけることまでした。彼らは、ただ単に聖書を守るため、人々の心の中にある聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのである。だから、彼らは未来と罪のための捧げ物を見捨て、聖書の教義に従わなかったイエスを罪に定めて殺したのである。彼らは聖書の一字一句に隷属していたのではないか。

 では、今日の人々はどうだろう。キリストは真理を解き放つために来た。しかし、人々は天に入って恵みを受けるために、キリストを人間の間から追い出したいくらいなのである。彼らは聖書の権益を守るために真理の訪れを完全に否定し、聖書の永続を確実にするため、再び肉となったキリストをもう一度十字架に釘付けにしたいくらいなのである。あれほど悪意に満ちた心をもち、わたしに対してあれほど敵意のある本性をもつ人間が、どうしてわたしの救済を受けられるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より)

 全能神の御言葉を一緒に考えてみましょう。主を信じるとはどういうことですか?聖書を信じるとは?聖書と主とは、どんな関係でしょう?聖書と主と、どちらが先だったでしょう?では誰が、救いの働きをするんでしょうか?では聖書が、主に代わってできますか?聖書は主を代弁できますか?聖書を盲信して崇めることは、神様を礼拝することになりますか?聖書にしがみついて、御言葉の実践や体験ができるんですか?聖書にこだわるのが、主の道に従うことでしょうか?聖書を何よりも上に置くことは、主に従順で敬虔で、主を崇拝することですか?問題の真理を見透かせる人はいません。何千年も、人々はやみくもに聖書を崇め、主と同じ地位を与えてきました、聖書を主とその働きの代わりにする人さえいます。しかし、誰も本当の意味で主を知らず、従順でもない。パリサイ人たちは聖書にこだわり、主イエスを十字架にかけました。どういうわけでしょう?聖書を知ることが、神様を知ることでしょうか?聖書にこだわれば、主の道にかなうんでしょうか?パリサイ人は聖書の専門家でも、神様を知らなかった、そればかりか、真理を表し贖いをされた主イエスを磔にしました。私たちはそれを忘れたんですか?神様を知るとはどういうことです?聖書を解釈し理解するのが、神様を知ることですか?もしそうなら、聖書を解釈したパリサイ人が、なぜ主イエスを非難し、敵対したんでしょう?真に神様を知り従えるかどうかは、受肉したキリストを、知っていて従えるかどうか、そこで決まるんです。神様の受肉ですべての人が暴かれる、これを理解する人はほとんどいません。主がパリサイ人を呪ったことは、神様が万人を義をもって、扱われるという証しです。いいですか?もし主を崇め奉らず、聖書だけを信じているとすれば、決して神様に認められません。もし信仰が、聖書に従うことだけであり、主を全く顧みないなら、もし主を崇拝せず、御言葉を実践せず、神様の働きと導きを受け入れないなら──そんな人はパリサイ人のような偽善者ではないでしょうか?それはキリストを敵に回した反キリストでしょう。ですから、聖書に固執したからといって、真理や命を得られたとは言えません。やみくもに聖書を崇めるのは間違いです、主の称賛を受けることはありません。受肉して真理を説かれたのは、人々を清め救済し、サタンの支配から救うため、最後には神様に従い、神様に得られるようにです。これぞ神様が受肉して働かれる意義です。ですから、私たちの信仰の鍵は、真理を求め──御言葉を実践、体験すること、そうしてのみ、聖霊の働きを受け主を知れるんです。これで信者は主を畏れ、心から主を称賛できます。主への真の信仰と服従が生まれます、これこそ主を信じることです。こうした信仰のみ主に認められます。このことから、皆さんはっきり分かりましたね?聖書を信じるのが神への信仰ではありません。

 神様と聖書はどんな関係ですか?この質問に、主イエスがお答えになっています。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(ヨハネによる福音書 5:39-40)主イエスの御言葉から、はっきり分かりますね、聖書は神様の証しをするもの、過去の働きを記したものに過ぎないということです。神様の御言葉と働きの、一部を記しただけですから、神様を代弁するものではありません。御言葉と働きの一部を記しただけで、代弁とは言えません。神様は創造主で、すべてを満たされる万物の主です。そのいのちは、尽きることがなく、無限なんです。神様の豊かさや偉大さは、計り知ることができません。聖書に見られる神様の御言葉と働きの記録は、神様のいのちという大海の一滴に過ぎない。なのになぜ神様の代弁だと?なぜ聖書が神様と同等だと言えるんですか?神様に成り代わって、聖書が人を救えるでしょうか?真理を示すことが、聖書にできますか?神様のように人を啓き照らし導くことが、聖書にできますか?できませんね。つまり、聖書は神様を代弁できないんです。人は聖書が神様と同等で、神様を代弁できると思っています、これは神様への冒涜ではありませんか?聖書を神様の働きの代わりにするなんて、神様を否定して、裏切ることです。神様は神様、聖書は聖書に過ぎません。聖書が神様を代弁したり、働きを代わることはできません。聖書は神様の働きの記録であり、聖書にある御言葉は真理です、神様のいのちの性質と、ご意志を示しています。とはいえそれは、働きの各段階で当時の人に求めるものを示しただけです、ほかの時代での御言葉や働きは、表されていません。

 それでは聖書の内部事情について、全能神の御言葉を読みましょう。全能神は言われます。「聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より)

 「彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての能力の程度に従っていたと言える。彼らが記録したものは人間の経験であった。人々にはそれぞれ自分なりの記録の手段と認識があり、それぞれの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。なぜ今日の神の働きを求めないのか。神の働きだけが人間を救うことができるのである。聖書は人間を救えない。聖書は数千年の間、まったく変わっていない。そして聖書を崇めるのなら、けっして聖霊の働きを得ることはないであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3)」より)

 「人々の聖書への態度は偏執と信仰で、聖書の内部事情や本質について、完全に理解している人は誰もいない。その結果、現在でも人々は聖書に関して説明しようのない不思議さを感じる。それ以上に、聖書に執着し、聖書を信じている。……そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼によって、その人たちは聖霊の働きを探そうという欲求をもたない。人々の観念では、聖書だけが聖霊の働きをもたらすのである。聖書の中だけに神の足跡を見いだせる。聖書の中だけに神の働きの奥義が隠されている。他の書物や人々ではなく、聖書だけが、神に関するすべてとその働きの全体を明らかにできる。聖書は天の働きを地にもたらす。そして、聖書は時代の始まりと終わりをもたらすことができる。こうした観念があるので、人々は聖霊の働きを探そうという意向をもたない。そこで、聖書が過去にどれほど人々の役に立ったかはともかく、神の現在の働きの妨げになっている。聖書がなければ、人々は別の場所に神の足跡を探せる。しかし、今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは、二重に困難な、苦しいことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、聖書のさまざまな預言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は神が聖書とは別に働けることをどうしても信じられず、聖書の外でも神を見つけることができることが信じられなくなっている。まして、神が最後の働きのあいだに聖書を離れて新しく始められるなどとは信じられない。これは人々にとって考えられないことである。人々には信じられないし、想像することもできない。聖書は神の新たな働きを受け入れるための大きな障害になり、この新たな働きを広めることを困難にしている。」「どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)

 聖書が神様を代弁できるかについて、また聖書と神様との関係について、真理を探り求めることは、非常に重要なことです。第一に、認識すべきは、神様はどのような神様なのかです。神様のみが人類を救い、導けます。神だけが人類の運命を決められます、これは常識です。思い返しましょう、聖書は、どうやって作られましたか?神様が働きをされたあと、神様に用いられた人が証しと経験を書き記しました、それがのちに編纂されて、聖書ができました。ですから聖書はただ単に、神様の過去の働きを記録したものということです、神様の働きの証しに過ぎません。聖書は神様の代弁も、人間を救う働きもできません。もし信者が、神様の働きではなく、聖書だけに頼れば、聖霊の働きを受けて救われることはないでしょう。なぜそう言えるのか?神様の人を救う働きは、前進しているからです、ですから神様の働きの1、2段階だけに、固執してはいけない。神様が人類救済の働きを終えるまで、私たちはその足跡をたどっていくべきでしょう。そうすることでのみ完全な救いを受け、すばらしい終着点にたどり着けるんです。救いの経営計画には、3つの段階があります。律法の時代恵みの時代、そして神の国の時代における働きです。律法の時代は、神様が人の生活を導くために律法を利用した時代です。恵みの時代は贖いの働きをされました、人類をサタンの支配から贖い、罪を赦し、神様の前で神様に祈り、語れるようになるように、主イエスが十字架にかけられました。神の国の時代の裁きの働きは、人類を清め、救い、完全にする働きです。もし人類が律法の時代と恵みの時代のみを経過し、終わりの日に神様の裁きを受けなかったら、完全に救われ、神に得られることはないでしょう。それはなぜでしょうか?恵みの時代に、主イエスの働きは人類を贖うことのみだったのは確かです。その時代は主を信じることで、私たちの罪が赦され、神様に祈る資格を得て、恵みを享受できました、だが清らかにはなれなかった、私たちの本性は罪深く、しばしば罪を犯し、神様に逆らうからです。それゆえ、主イエスは再臨を約束され、終わりの日に人類を救うすべての真理を示し、神様の声を聞いて御前に導かれる人々を清めてくださるんです。主イエスはこう預言されました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)全能神の御言葉と働きは、これを成就します。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」つまり、全能神は、主イエスの再来なんです。今は終わりの日の裁きをされています、御前に来た者を清め完全になさっています。すなわち、神様の御声を聞き、おそばに戻った賢い乙女たちを勝利者として完成し──神の国にお連れくださいます。救いの働きが3段階に分かれていることからも分かるように、神様は人類を導き、救う働きを常にしておられるんです。神様の働きは段階ごとに奥深くなっています。聖書とは、神様に従う人が持つべき書でしかありません、聖書は、神様に代わって人を導き救うことはできません。

 聖書は、神様の働きの記録、働きが完成したのち、人が神様の御言葉と働きを記録したものです。聖書は信仰に欠かせないものですが、聖霊の働きを受けることでのみ、本当に聖書と真理を理解できる。そういうことです。ですから、子羊の足跡を忠実にたどり、終わりの日の神様の裁きの働きを受け入れる、そうしてのみ、聖霊の働きに預かり、救われて完全になれる。聖書を読むだけで、終わりの日に神様の御言葉と働きを受け入れなければ、清められ救われることはありません。かりに神様の御言葉がすべて聖書に記されていても、聖霊の働きがなければ、御言葉を理解し知ることはできないでしょう。真理を理解するには、御言葉を経験して実践し、聖霊の啓示と光を受け取らねばなりません、そして御言葉と真理を理解し、真理の実際性に入り、完全となるんです。これについては、事実を理解しましょう。信者として、救いの鍵となるのは、何でしょうか?聖霊の働き、聖霊による完成が鍵です。では聖霊は誰でしょう?聖霊は神様ご自身です。聖書は、神様の過去の働きの記録に過ぎません、それが、神様の代わりになれますか?言ったように、神様だけが人を救えます、聖書には人は救えません。私たちが聖書に固執するだけで、終わりの日の御言葉と働きを否定し、その足跡をたどらなければ、見放され切り捨てられるでしょう。律法の時代には、多くの人が主イエスの働きを拒み、切り捨てられました。今終わりの日の全能神の働きを受け入れなければ、主イエスを信じても、やはり見捨てられます。そんな人は盲目で神様を知らない人です、大災害に直面して泣きを見るでしょう。

 終わりの日に、全能神が真理を示される裁きの働きは、全人類を救う神様の経営計画の中核です。人類を清めて救い完全にすることは働きの最終段階なんです。信者が聖書にある、神様の働きの最初の2段階だけに従い、終わりの日のキリストによる清めと救済の働きを受け入れなければ、救われませんし、神の国にも入れない、その人たちが何年主を信仰していようとも、何の役にも立ちません。全能神による終わりの日の救いを拒否する者は、すべて神に反する者であり、偽善者パリサイ人と同じなんです.それは間違いありません。かつてパリサイ人は聖書に従って、主イエスを拒みました、終わりの日には、長老や牧師が聖書に基づいて全能神の働きを、拒んでいます。ですが彼らの議論は成り立ちません、神様の御言葉を土台とせず、聖書の文字に依存しているからです。神様にとっては、人にどのような理由があろうとも、全能神の終わりの日の働きを拒めば、それは反逆者であり裏切り者です。神様の目から見れば、それは邪悪な者であり、決して彼らをお認めにはなりません。終わりの日に神様に暴かれた反キリストや不信者は、災害の罰を受けて、泣き叫び苦しむことになるでしょう。彼らは神様から、永遠に見放され切り捨てられ、再び神様にまみえ認められる機会を、得ることはないでしょう。これでやっと、事実が分かりましたね。聖書には、神様の代弁はできません、お働きの代わりにもなりません、神様は神様、聖書は聖書に過ぎません。私たち信者は神様の働きを経験し、その歩みに合わせなければなりません、終わりの日に神様が表す御言葉を読み──神様が表す真理を受け入れ従わねばなりません、それが真の信仰です。神様は受肉され働かれるたびに、聖書に固執するだけで、神様を知り、従おうとしない者を切り捨てるんです。ですから、確信を持って言えます、「聖書に従い聖書に則ることが神様への真の信仰で、聖書は神様を代弁する」この主張は大間違いです。こんなことを言う人は物事が見えず、神様を知りません。人々が、ほかの何よりも聖書に重きを置き、神様の代わりに用いるならば、パリサイ人と同じ道を歩むことではないですか?パリサイ人は神様に反しながら聖書に固執し、神様の呪いを受けました、これは事実ですね。

『私の主は誰か』の映画台本から

前へ:質問8.この2千年間、宗教界は聖書は神様の御言葉、神様の霊感を受けて書かれたと言ってきました。つまり、聖書は主を代弁すると、聖書が神様からの霊感で書かれ、御言葉であることを、否定する者は間違いなく宗教界から、異端視されるでしょう。ですから、聖書に忠実なことは決して間違いはないんです。

次へ:質問1.あなたは主イエスが再臨され裁きの働きをし、そして真理を示していると証しをされていますけれど、それは可能なんですか?主は実際に私たちを天の国にへと連れて行かれるのです。私たちを置いたまま、裁きの働きはなさいません。私たちは主を信じ聖霊の働きを受けていれば、既に神の裁きの働きを体験していると思います。主イエスの言葉が何よりの証拠です。「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」(ヨハネによる福音書 16:7-8)私たちは主イエスが復活し、天国に昇られた後、聖霊が降りたと考えます。それにより、人はすでに自分の罪や義、裁きについて自分を責めています。私たちは主の前で告白し悔い改めたとき、実際に主の裁きを受けているのです。つまり、主イエスの働きは贖いの働きであっても、天に昇られたあと、ペンテコステでの聖霊の働きが終わりの日の神の裁きの働きであると信じます。これこそ、裁きの働きではないですか?「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」とありますよね?私たちは主の信者として聖霊に触れられ、戒められ、訓練されています。泣いて悔い改めてるんです。良い行いでどう変化したか表しています。そうじゃないんですか?これこそが神の裁きを受けた結果ではないですか?あなたがたがおっしゃる全能神による終わりの日の裁きの働きは、主イエスの働きとどう違うのでしょうか?

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