宗教を捨てて神に立ち返るため、信者は偽の羊飼いや反キリストを識別できなければならない

2017年11月22日

参考聖書箇所:

「主なるヤーウェはこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない」(エゼキエル書 34:2-6)

「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである」(マタイによる福音書 7:15)

「彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」(マタイによる福音書 15:14)

「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」(ヨハネの第二の手紙 1:7)

「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている」(ヨハネの第一の手紙 4:2-3)

関連する神の言葉

各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、彼らによる聖書の解釈には背景がなく、自分自身の想像に導かれています。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らがまったく説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはり多少知識があるので、何らかの教義を説くことができたり、人を勝ち取る方法や、策略の活用法を知っていたりします。彼らはそれを用い、人々を自分たちの前に連れてきて惑わします。名目上、それらの人たちは神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、「私たちの信仰について、指導者に相談しなければならない」と言う人がいます。神に対する彼らの信仰は人間が媒介になっているわけですが、それは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか。この人たちはパウロの同類です。……

以前、神の信者は人に付き従い、あるいは神の旨を満足させてきませんでしたが、この最後の段階において神の前に出なければなりません。働きのこの段階を経たことが基礎となっていながら、それでも人に従い続けるなら、あなたは決して赦されず、最後はパウロのようになります。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することだけが、神を真に信じることである」より引用

荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは「健全な体質」をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。神の臨在において自分を高く評価する人は人間の中でも最も卑しいが、謙遜する人は最高の栄誉に浴する。そして、自分は神の働きを知っていると思っており、さらに、神を目の前に見ながらも神の働きを人々に大げさに宣言することができる人は、人間の中でも最も無知な人である。そのような人には神の証しがなく、傲慢でうぬぼれに満ちている。神について実際の経験と実際の認識があるにもかかわらず、自分は神についてほとんど知らないと信じている人が、神に最も愛されるのである。そのような人だけに真の証しがあり、真に神によって完全にされることができる。神の心意を理解していない人は、神の反対者である。神の心意を理解しているが、真理を実践していない人は神の反対者である。神の言葉を飲み食いしても神の言葉の本質に反する人は神の反対者である。肉となった神についての観念を持ち、さらに反乱に関与する心を持つ人は神の反対者である。神を批判する人は神の反対者である。そして、神を知ることができない人、神に証しをすることができない人は誰であろうと神の反対者である。

『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」(『言葉』第1巻)

資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理へのさらなる入りを与える。このような人の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、その働きは一人ずつ異なることがあり、規則にとらわれず、人に解放と自由、いのちにおいて徐々に成長する能力を与え、真理へさらに深く入って行くことを可能にする。資格のない働き手の働きははるかに不十分である。その働きはばかげている。そのような働き手は人を規則にはめ込むだけで、人に要求することは個別に変化しない。その働きは人の実際の必要性に沿わない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人を現実性に連れて行くことも、いのちにおける成長の正常な実践に至らせることもできない。人にわずかな価値のない規則を守らせることができるだけである。この種の指導は人を迷わせるだけである。このような働き手はあなたが自分に似たものになるように導く。その人が持っているものや彼そのものの中にあなたを引き込むこともある。指導者に資格があるかどうかを追随者が見定める秘訣は、導く道と指導者の働きの結果に目を向けること、および追随者が真理に従った原則を受け取るかどうか、変化をとげるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたはさまざまな人によるさまざまな働きを識別しなければならない。愚かな追随者になってはならない。これは人の入りに関係することである。どの人の指導には道があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、簡単に惑わされることになる。このことはすべてあなた自身のいのちに直接関連している。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

人の頭脳内の働きは人にはあまりにも容易に達成できる。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場に依存して働く。長い間彼らに従う人は、その才能に感化され、その存在の一部に影響を受ける。彼らは人の才能、能力、知識に重点を置き、超自然的なものや多くの深遠で非現実的な教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人の性質の変化に注目せず、むしろ人が説教し働くようになるような訓練に注目し、人の知識を向上させ豊富な宗教的教義を充実させようとする。人の性質がどのくらい変化するかや、人がどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人の本質には関心を持たず、ましてや人の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人の観念に反論せず、観念を明らかにもしないし、ましてや人の欠点や堕落を刈り込んだりはしない。彼らに従う人のほとんどは自分の才能をもって奉仕し、彼らが放つのは宗教的な観念と神学的な理論だけであり、それは現実とは離れており、人にいのちを与えることはまったくできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人を、後に働いて他者を導くことになる有能な神学校卒業生に育てることである。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

多くの人がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の出口がないことをいつも恐れている。彼らは教会で正しい役割を果たさず、教会に居候しているか、あるいはわたしの言葉で兄弟姉妹を訓戒し、権威ある立場から他人に対して威張っている。これらの人々は神の旨を行なっていると言い張って、自分は神の知己だといつも言う。これはばかばかしくないであろうか。あなたに正しい意図があっても、神の旨に沿って仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし意図が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く人であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人にはまったく同情しない。彼らは神の家に居候し、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものを求め、神の心には何の注意も払わない。何をする際にも神の霊による吟味を受け入れない。彼らはいつも兄弟姉妹を操り欺いている。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神の知己でありえるであろうか。神の祝福を受けるにふさわしいであろうか。あなたは自分のいのちのためにも教会のためにも負担を負わないのに、神の任務を受けるのにふさわしいであろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するというのか。あなたがこのように仕えるなら、神はあえて大きな任務をあなたに託すだろうか。そうすれば、働きに遅れが生じるのではないか。

『神の出現と働き』「神の心にかなうように仕えるには」(『言葉』第1巻)

あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行いたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。それらが人間の経験と教訓であり、この世における人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まして悔い改めないならば、必ずや終わりの日に人々を騙す偽キリストおよび反キリストとなる。話に出てくる偽キリストと反キリストは、このような人々の中から現れる。もし神に仕える人々が自分たちの性格に従い、自分たちの意思のままに行動したならば、彼らはいつでも追放される危険にある。他人の心を獲得し、見下すような態度で他人に訓戒し人々を制限するために自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位からくる恩恵を諦めない人は、神の前に倒れるであろう。このような人はパウロと同類の人間であり、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きのじゃまをする。

『神の出現と働き』「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」(『言葉』第1巻)

緊急事態に備えて、あるいは自分の問題を解決するためでなく、自分を捨てて他人を助けるためだけに、ある種の真理で武装する人がいます。私たちはそのような人を「無私な人々」と呼んでいます。そのような人は他人を真理の操り人形とみなし、また自分自身をその主人とみなしつつ、他者に対して真理を堅く保ち、受け身になることがないよう教えますが、一方の自分自身は土俵の外にいる傍観者のままです。これらはどのような人ですか。このような人は真理の言葉をいくらか身につけていますが、ただ他人に説教するために使うだけで、自分の破滅を防ぐことは何もしていません。なんと哀れなことでしょうか。そのような人の言葉が他人を助けられるなら、どうして自分を助けられないのでしょうか。私たちはそのような人に、現実をもたない偽善者というラベルを貼るべきです。こうした人たちは他人に真理の言葉を与え、それを実践するよう求めつつ、自分自身は実践する努力を一切しません。彼らは忌み嫌うべき者ではないでしょうか。こうした人たちは、自分は明らかに真理を実践できないにもかかわらず、他人にそれを強要します。何と残忍なやり方でしょうか。彼らは現実を用いずに他人を助けようとし、愛を使って他人に施しているのでもありません。単に人を惑わし傷つけているだけです。それが続き、各人が真理の言葉を次の人に伝えるとすれば、最後は誰もが真理の言葉を語るだけで、自分で実践することができないのではないでしょうか。そのような人がどうして変われるでしょうか。彼らは自分の問題をまったく認識していません。このような人に進むべき道がどうしてあり得るでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理を愛する者には進むべき道がある」より引用

神が肉になり、人の間で働くようになると、すべての人が神を見、神の言葉を聞き、神がその肉体の内側から為す業を見る。そのとき、人の観念はすべて泡となる。神が肉に現われるのを見た人は、喜んで神に従うならば断罪されることはないが、意図的に神に敵対する人は神の反対者とみなされる。そのような人は反キリストであり、故意に神に対抗する敵である。神についての観念を抱いていながらも神に従うことをいとわない人は断罪されない。神は人の意図や行動に基づいて人を断罪するのであり、決して人の思いや考えのためではない。もし神が人の思いや考えに基づいて断罪するなら、一人として神の怒りの手から逃れることはできない。受肉した神に故意に対抗する人は、その不従順ゆえに罰せられる。神に故意に対抗するそのような人が神に反対するのは、神についての観念を抱いていることに由来し、それが神の働きを妨害する行動をその人にとらせるのである。この人は意図的に神の働きに抵抗し、破壊する。単に神についての観念があるだけでなく、神の働きを妨害する活動にも携わり、この理由ゆえにこのような人は断罪されるのである。

『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」(『言葉』第1巻)

もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことがないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。そのような者は常に神の新しい働きに対して敵対する態度をとり、従う意志など微塵も示さず、喜んで服従を示すことや謙虚になることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で得意になり、誰に対しても従うことをしない。神の前では、自分が説教者として最も長けており、他の人に働きかけることに自分が一番熟練していると考える。自分が獲得した宝を決して手放そうとせず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。このような人が、教会内に確かに数名存在する。このような人々は、「不屈の英雄」と呼ぶことができ、世代を超えて神の家に留まるのである。彼らは神の言葉(教義)を語ることを自分の最高位の本分と解釈する。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの「神聖で犯すべからざる」本分を続ける。彼らに触れる者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりもいない。神の家で「王」となり、何代にも亘ってはびこり、他の者を圧制する。このような悪魔の一団は、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔をわたしの目の前に生かしておけるだろうか。

『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」(『言葉』第1巻)

あなたがたが神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなたがた自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなたがたが元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。

『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)

多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、無知で物事をよく知らない偏狭な人々で、単に自分たちがいかに立派かを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で六千年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせていない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちは浅はかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。

『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)

救いを得るために満たさなければならない条件とはどんなものでしょうか。まず、サタン的な反キリスト者を見極める能力を持っていなければなりません。真理のその側面を備えていなければならないのです。真理のその側面を身に備えることで初めて、本当に神を信じられるようになり、人を崇拝し人に従うことを避けられるのです。反キリスト者を見極められる者だけが、真に神を信じ、神を証しする能力を持っているのです。反キリスト者を見極めるには、まず完全な明確さと理解をもって人や物事を見る方法を学ばねばならず、反キリスト者の本質を見抜けなければならず、彼らの陰謀、策略、内なる動機、目的をすべて見抜かなければなりません。それができれば、揺るぎなく自分の立場を守ることができます。救いを得たいなら、まず最初に合格しなければならない課題は、サタンを倒す方法を知り、敵対する力や外界からの妨害に打ち克って勝利する方法を知るということです。サタンの勢力との闘いに最後まで耐え抜けるだけの霊的背丈と十分な真理を身に備え、サタンの勢力を打ち倒すことができたとき、そのとき初めてあなたは、着実に真理を追求できるようになり、そして初めて、真理を求め救いを受けられる道を決然とつつがなく歩めるようになるのです。この課題に合格できなければ、あなたは大きな危険に直面していることになり、反キリスト者に捕われてサタンの影響下で生きることになってしまう恐れがあります。……ですから救いを受けられる場所に行きたければ、合格しなければならない最初の課題は、サタンを見抜けるようになることであり、また同時に、立ち上がってサタンを暴き見放す勇気も持たねばなりません。では、サタンはどこにいるのでしょうか。サタンはあなたの隣に、そして周り中にいます。場合によっては、あなたの心の中にも住んでいるかもしれません。あなたがサタンの性質の中で生きているなら、あなたはサタンに属していると言えます。霊的領域のサタンは見ることも触れることもできませんが、現実生活の中に存在するサタンはどこにでもいます。真理を憎む人はみな邪悪であり、真理を受け入れない指導者も働き手も、反キリストの悪人です。そのような人は生きるサタンではないでしょうか。その人はあなたがまさに崇拝し尊敬している人かもしれません。またあなたを指導している人だったり、あなたが長年心の中で待ち望み、憧れ、信頼し、頼ってきた人かもしれません。しかし実際のところ、彼らはあなたの行く手を阻み、救いを得ることを邪魔する障害物であり、反キリスト者なのです。彼らはあなたのいのちとあなたが歩む道を支配することができ、さらに救いを受けられる機会も台無しにしてしまうことができます。彼らを見極めて見抜くことができなければ、あなたはいつでも彼らの罠にはまったり、捕われて連れ去られてしまう恐れがあります。ですから、あなたは大きな危険に直面しているのです。

『キリストの言葉の記録』の「指導者と働き手にとって道を選ぶことが最重要である(1)」より引用

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