真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

宗教を放棄して神に帰依するべく、神を信じる者はにせ羊飼いたちと反キリスト者たちを見分けられねばならない。

2

4.宗教を放棄して神に帰依するべく、神を信じる者はにせ羊飼いたちと反キリスト者たちを見分けられねばならない。

参照聖書箇所

「主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。」(エゼキエル書 34:2-4)

「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。」(マタイによる福音 7:15)

「彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう。」(マタイによる福音書 15:14)

関連する神の言葉

「資格のない働き手の働きははるかに不十分で、ばかげている。彼は人々を規則にはめ込むだけで、人々に要求することは個々の人によって変化しない。彼の働きは人々の実際のニーズに従っていない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人々をいのちにおける現実や正常な成長の実践に至らせることができない。人々はわずかな価値のない規則を守ることができるようになるだけであり、この種の指導は人々を迷わせるだけである。彼はあなたを自分に似たものになるよう導く。あなたを彼が持っているものや彼そのものの中に引き込むことができる。導き手に資格があるかどうかを信奉者が見定める秘訣は、彼らが導く道と彼らの働きの結果を見ること、および信奉者が真理に従った原則を受け取るかどうか、自分たちが変わるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたは異なる種類の人々の異なる働きの違いを識別しなければならない。愚かな信奉者になってはならない。これはあなたの成長の問題に影響を及ぼす。どの人の指導には道筋があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、あなたは簡単にだまされるだろう。これらすべてはあなた自身のいのちに直接関連している。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

「人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

「多くの人々がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の快楽から離れることをいつも恐れている。彼らは教会で通常の役割を果たさず、無料で食べ、あるいは、兄弟姉妹をわたしの言葉で訓戒し、自分を高くして、他人に対して威張る。これらの人々は神の心を実行していると言い張って、自分は神と心を一つにする者だといつも言う――これはばかばかしくないだろうか。あなたが正しい動機を持っていても、神の心に仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし動機が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く者であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人々にはまったく同情しない。神の家で、彼らは無料で食べ、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものばかりを求め、神の心には何の注意も払わない。彼らのすることは神の霊に見られることはない。彼らはいつも状況を操り、兄弟姉妹に対して陰謀を企んでいる。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神と心を一つにする者になれるだろうか。あなたは神の祝福を受けるにふさわしいだろうか。あなたは自分のいのちにも教会にも責任を持っていないのに、神の任務を受けるのにふさわしいだろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するだろうか。あなたがこのような形で仕えるなら、神はあなたにあえて大きな任務を託すだろうか。あなたは物事を先延ばしにしているのではないか。」

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

「あなたは本来持っている性質と自分の好みによって、神に仕えているのである。またそれ以上に、あなたが好きなものは何でも神は愛され、あなたが嫌いなものは何でも神は憎まれると思い込み、そうしてあなたの働きはひたすら自分の好みによってなされていく。これで神に仕えていると言えるだろうか。結局のところ、あなたのいのちの性質はみじんも変えられていない。実際、あなたは神に仕えてきたことで更に頑固になり、あなたの堕落した性質が深く根差すことになる。あなたは神に仕える規定を持つようになる。それは正にあなたがた自身の性質から出たもので、あなたの性質に従って神に仕えた経験を基盤としている。これが人間の経験であり学び方である。それは人の人生哲学である。このような人々はパリサイ人や宗教家である。もし彼らが目を覚まし、悔い改めなければ、究極的には彼らは終わりの日に現れる偽キリストになってしまうだろう。彼らは惑わすものたちである。偽キリストや惑わす者たちとはこのような人たちから生まれるであろう。神に仕えようとする人たちが自身の性質のまま、自分たちの意思通りに行動するなら、神に見捨てられる危険が絶えず付いて回る。長年神に仕えた経験を利用して人々の心を誘惑し、人々に説教し支配し、自らを高める人々―決して悔い改めることもなく、罪を告白することもなく、自分の立場を利用し続ける人たち―そのような人たちは神の前で倒れるだろう。彼らはパウロと同じ種類の人々で、うぬぼれていて、自分たちの地位や経歴を自慢している。神はこのような人々を完全にすることはないだろう。この種の奉仕は神の働きを妨げる。」

『言葉は肉において現れる』の「宗教奉仕を取り締まるべきである」より

「リーダーであるあなたがたについて一般の人達が意見を言おうものなら、『フン、あなたが私にものを言う資格などあるだろうか。いったいあなたに何回説教ができると言うのだ。どれだけ話しができる?どれ程の人を導ける?あなたに何ができるというのだ。』と言うでしょう。まるで自分にはその資格があると言わんばかりに。そのようなことを続けているならば、あなたは困ったことになるでしょう。暫くの間奉仕してうるうちに、上手くいかなくなります。あなたがた全員に関する限り、地域の諸教会もしくはある地域があなたがたに委ねられて6ヶ月間誰も監督する者がいなかったならば、あなたがたは道から外れるでしょう。1年間監督する者がいなければ、あなたは自分に任された人達を間違った方向に導き、迷わせることになるでしょう。2年経っても監督する者がいなければ、あなたは任された人達を自分の前に連れて来るでしょう。何故でしょうか。このような質問を考えたことがあるでしょうか。教えてください。あなたがたにはそんなことがあり得るでしょうか。あなたがたの認識は人々に一時的に施すだけです。時間が経てば、あなたが同じ事ばかり言っていると気づくでしょう。あなたの言うことはあまりに表面的で全く深みがないと言うでしょう。そうなれば、あなたは教義を話し続けて人々を欺こうとするしかなくなるのです。ずっとこのようなことを続けるのであれば、あなたがたの下にある人達が、あなたがたのやり方、進め方や型を、神を信じ経験する上で倣うようになり、あなたがたの言葉と教義を実践し、ついにはそのように語るあなたがたを手本とするようになるでしょう。あなたがたは人々を教義を語る方向へ導き、導かれた人々はあなたがたの教義を学び、物事が進むにつれてあなたがたは誤った方向へ進んでしまうことになるのです。あなたの下にいる人達はみなあなたに従うので、あなたはこう思うでしょう。『私は力を得た。多くの人達が私の言うことに耳を傾けるし、世界は私の意のままだ。』人の心のこのような裏切りにより無意識にあなたは神を単なるお飾りにし、自分の教団や教派を作り上げるようになります。新しい教団や教派は、このようにして興るのです。どの教団、教派の指導者を見ても、みな独善的で聖書を勝手に解釈しています。彼らは賜物と学識に頼って働いています。彼らが説教をすることが出来なければ、人々はそれでも付いて来るでしょうか。指導者たちはそれなりの知識を得、教義を少しは語ることができ、他の人々を勝ち取ったり策略を用いたりして自分達のところへ人を集め、欺いてきました。欺かれた人々は、名目上神を信じてはいますが、実際には神ではなく指導者に付き従っているのです。真の道を語る人に彼らが出会ったならば、『信仰について、私たちの指導者に相談する必要がありますね。』と言う者もいるでしょう。彼らには神に対する信仰に関して、誰かの承認が必要だということが分かるでしょう。それは問題ではないでしょうか。指導者達はどのような存在になったのでしょう。真理の道を受け入れようとする人々にとってのパリサイ人、偽羊飼い、反キリスト、躓きではないでしょうか。そのような指導者達はパウロと同じ類に属するのではないでしょうか。」

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求のみが真の神への信仰」より

「神が肉となり、人々の間で働くようになると、すべての人がその目で神を見、神の言葉を聞き、すべての人が肉にある神の業を見るのだ。その時、人のすべての観念は溶けて泡となる。神が肉として現れるのを見る人々についていえば、従順さを心に持つ者は皆罪に定められることがないが、意図的に神に敵対する者たちは神の敵とみなされる。このような人間は反キリストで、故意に神に対立する敵である。…肉となった神に意図的に敵対する者たちは不従順を理由に罰せられる。彼らの神に対する意図的な反抗は神に関する彼らの観念が原因であり、それは神の働きを混乱させる結果を生む。そのような人々は承知の上で神の働きに抵抗し、それを破壊する。彼らは単に神に関する観念を持っているだけでなく、神の働きを阻害する行動をとる。それ故このような人々は罪に定められることになる。」

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

「最も従順でない者は、意図的に神に刃向かい、抵抗する者だ。彼は神の敵であり、反キリスト者だ。そのような者は常に神の新しい働きに敵意を保持して、従順になる意図は示さず、自ら喜んで従うことは決してなく、謙虚になることはなかった。彼は他の人の前で自画自賛し、決して他の人に従属しない者である。神の前で、彼は、自分自身がかの言葉を説教する能力が最も高く、他の人に働きを及ぼす技能が最も高いと思っている。彼は、彼がすでに所有する宝を決して破棄せず、それらを崇拝されるべき、他の人に説教すべき、そして彼を称賛するような愚か者へ講義するのに用いられるべき、家宝とみなしている。実際、教会にもそのような者がいる。彼らは『不屈の英雄』であり、何世代にも渡って神の家にとどまっていると言われている。彼らは、かの言葉(教義)を説教することが、彼らの最高の義務だと思っている。何年にも亘り、何代にも亘って、彼らは彼らの聖なる、神聖な義務を果たす。誰も敢えて彼らに触れようとせず、誰も敢えて公に彼らをとがめようとしない。彼らは、神の家で『王』となり、時代を経て独裁者のように振る舞った。これら悪魔たちは、手を取り、わたしの働きを壊そうとする。わたしの前でこのような生きた悪魔が存在することがどうして許せようか。」

『言葉は肉において現れる』の「真に従順な者は必ず神のものとされる」より

「あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう『資本』であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。」

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

「あらゆる教会には、教会を混乱させ、神の御業を阻害する者が居る。こうした人々は、すべて神の家族に身を隠したサタンである。こうした者は特に演技力に優れ、自らの目的を果たすため、敬意を持って私の前に来て頭を下げ、みすぼらしい犬のように振る舞い、『すべて』を献じているが、兄弟姉妹の前では醜悪な素性を露わにする。こうした者が真理を実践しているのを見ると、攻撃して排除し、自分自身よりも惨めな者を見ると、その者にお世辞を言って機嫌を取り、教会の中では暴君のように振る舞う。この種の『地域の下劣なへび』、あるいは『愛玩犬』は、殆どの教会の中に居ると言えるであろう。この種の者は集まってこそこそと歩き回り、ウインクや秘密の合図を送り合い、この種の者の中に真理を実践する者は皆無である。最も強い毒を持つ者が『悪魔の頭』であり、最も威信ある者が他の者を従え、一味の旗を高く掲げる。この種の人々は教会内を荒らし回り、否定性を広め、死をもたらし、したい放題、言いたい放題に振る舞い、誰もそれを止める者は居らず、サタンの性情に満ちあふれている。この種の者が妨害し始めるとすぐに、教会内に死の空気が入る。教会内で真理を実践する者は見捨てられ、その者は潜在性を実現できない一方、教会を妨害し、死を広める者は、教会内で放縦に行動する。さらに、殆どの人々が教会を妨害し、死を広める者に従う。こうした教会は、明らかにサタンの支配下にあり、そこでは悪魔が教会の王である。教会の人々が立ち上がってこうした悪魔の頭を追放しなかった場合、教会の人々もまた、遅かれ早かれ破滅するであろう。今後は、こうした教会への対策を実施する必要がある。多少の真理を実践できる者が追求していない場合、その教会は追放されるであろう。真理を実践することを望む者や、神の証しに立つことが出来る者が教会内に不在の場合、その教会は完全に追放される必要があり、その教会と他の教会との関係は断絶される必要がある。これは、死を葬り、サタンを追い払う、と呼ばれる。」

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

「教会に、地域の下劣なへびのような者と、そのへびに従う、分別の無い小ばえのような者が居て、教会に居る者が、真理を理解してなお、そうしたへびのような者の呪縛と支配を駆逐できなかった場合、そうした愚か者は最終的に排除されるであろう。そうした小ばえのような者は、何ら劣悪な事をしていないが、狡猾でずる賢く、そうした者も全て排除されるであろう。そうした者はひとり残らず消し去られるのだ。サタンに従う者はサタンへと戻されるが、神に従う者は間違い無く真理を探し求めるであろう。これは、そうした者の本性により決められる。サタンに従う者を全て滅ぼすことである。こうした者は決して憐れまれることが無いであろう。真理を探し求める者に糧を得させ、心ゆくまで神の御言葉を堪能させることである。神は義であられ、人間を不公平に扱われることは無い。あなたがたは、自分が悪魔であれば、真理を実践出来ないであろう。あなたがたが真理を探し求める者であれば、あなたがたがサタンの虜にならないことは確実であり、それについて全く疑う余地は無い。」

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より