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3.受肉したキリストと偽キリストたちと偽預言者たちの違いを認識しなければならない。

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3.受肉したキリストと偽キリストたちと偽預言者たちの違いを認識しなければならない。

参照聖書箇所

「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書 24:24)

「わたしは道であり、真理であり、命である。...」(ヨハネによる福音書 14:6)

関連する神の言葉

「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人に命を与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真理の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

「受肉した神をキリストと呼ぶ。キリストは神の霊をまとった肉である。この肉はどのような肉の人間とも異なっている。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が肉となったものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を持っている。キリストの神性はどのような人も持っていないものである。キリストの普通の人間性は肉的な活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性であれ、神性であれ、どちらも父なる神の心に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、その本質は神自身のものである。この本質は神自身の働きを妨げることはなく、キリストが神自身の働きを破壊するようなことは決してありえず、神の心に逆らう言葉を語ることも決してない。

…………

キリストは肉において神自身を現わし、神自身のするべき働きを直接遂行するけれども、父なる神の存在を否定したり、自身の働きを誇示したりしない。むしろ、謙虚に肉のうちに自身を隠したままにする。キリスト自身以外でキリストを名乗る者はみな、キリストの性質を持ってはいない。そのような偽キリストたちの高慢で己を称えるような性質をキリストの性質と比べたならば、キリストの肉がどのようなものであるかは明白である。偽りの多い偽キリストであればあるほど自己を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の性質を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。...

キリストの働きと現れはキリストの本質を決定する。キリストは託された働きを真心を持って完成することができる。キリストは天にいる神を心から崇拝し、真心を持って父なる神の心を求めることができる。これはすべてキリストの本質によって決定されている。そしてキリストの自然な現れもキリストの本質によって決定されている。キリストの「自然な現れ」と呼ばれるのは、キリストの表現が模倣でも、人による教育の結果でも、長年に亘る人による育成の結果でもないからである。キリストはそれを学んだのでも、それでわが身を飾ったのでもない。むしろ、それはキリストのうちに本来的に備わっているものである。」

『言葉は肉において現れる』の「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」より

「もし終わりの日に病人を癒やし、悪霊を祓い、人間のために十字架につけられたイエスと同じ『神』が現れたなら、その『神』は聖書の神の記述と同じで、人間には受け入れ易いであろうが、本質的に、それは神の霊が人間の肉をまとったものではなく、悪霊によるものであろう。すでに成就した働きは二度と繰り返さないのが神の原則だからである。...」

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪魔を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。神の働きは人間の観念とは相容れない。たとえば、旧約はメシアの到来を予言した。それでイエスが来たのだ。だから、別のメシアがまた来るというのは、間違っている。イエスはすでに一度来た。だから、イエスがこの時代に再び来るというのは、間違いだ。すべての時代は一つの名をもち、その名は各時代を表している。人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、今の神はまったくの別物である。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知るということ」より

「悪霊に取りつかれ『私が神だ!』としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後には彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは悪者を代表しているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。あなたが自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、わたしは神である、わたしは神のひとり子である、と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人が神に地位や敬称を与える必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。バプテスマの前、イエスは神そのものではなかったのか。イエスは受肉した神ではなかったのか。イエスは証をされて初めて神のひとり子となったのだ、などと言うことは到底できない。イエスという名の人がイエスが働きを開始する前には存在しなかったのだろうか。あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたがどれほど繰り返し神であると主張しても意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神を認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神の視点からは、その人は神の霊の受肉である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。あなたは新しい時代のために道を切り開くことはできないし、古い時代を終わらせて新しい時代へと導いたり、新しい働きをすることはできない。だからあなたは神と呼ばれることはできない。」

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

「人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を代表することができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。」

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

「イエスや預言者の名を語る者、あるいは人を騙す者の中にも神と呼ばれる人が居るのではないか。ではなぜ彼らは神ではないのか。それは、彼らが神の働きをすることができないからだ。彼らは、根本的に人であり、人々を騙す者たちであり、神ではなく、よって神の身分は持ちえない。」

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より