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神の働きと人の働きの本質的な違いは何か。

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1.神の働きと人の働きの本質的な違いは何か。

関連する神の言葉

「神自身の働きは全人類に対する働きを含み、時代全体に対する働きも表す。すなわち、神自身の働きは聖霊の働きすべての活動と動向を表し、一方使徒の働きは神自身の働きに従うことであり、時代を導くことはないし、時代全体において聖霊が働く動向を表すこともない。彼らは人がなすべき働きをするだけで、経営の働きは全く含まれない。神自身の働きは、経営する働きの範囲内の計画である。人の働きは用いられる人々の本分だけであり、経営の働きとは何の関係もない。働きのアイデンティティや表すものが異なるため、どちらも聖霊の働きであるという事実にもかかわらず、神自身の働きと人の働きの間には明確で、実質的な違いがある...」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

「人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。」

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

「受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、するべき働きを完了するべく来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである。」

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

「肉となった神は、神によって用いられる人々とは実質的に異なる。肉となった神は神性の働きを行えるが、神によって用いられる人々にはそれができない。各時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語りかけ、新しい時代を始め、人を新しい始まりへ導く。神が自らの語りを完遂するとき、神性における神の働きが達成されたことを意味する。その後人々はみな、神によって用いられる者たちの導きに従っていのちの経験に入ることになる。」

『言葉は肉において現れる』の「肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い」より

「預言者たちや、聖霊に用いられる者たちの言葉と働きはみな、人間としての本分を尽くすことであり、被造物として自分の役割を果たし、人間がやるべきことを為すことであった。しかしながら、受肉の神の言葉と働きとは、神の職分を実行することだ。受肉の神の外形は被造物と同じだが、その働きは、その役割を果たすことではなく、神の職分を遂行することだ。『本分』とは、被造物において用いられ、一方「職分」とは受肉の神の『肉』に関して用いられる。両者には本質的な違いがあり、この二つを置き換えることはできない。人間の働きはその本分を尽くすことだけであるが、神の働きとは、経営(救いの業)と、その神の職分を行うことである。だから、多くの使徒が聖霊に用いられ、多くの預言者たちが聖霊に満たされたが、その働きと言葉は単に被造物としての本分を尽くすものであった。彼らの預言は受肉した神の語ったいのちの道よりも偉大であったかもしれないが、また、彼らの人間性は受肉した神よりも非凡なものであったが、彼らは本分を尽くしていたのであって、職分を果たしたのではない。人間の本分とは、人間の役割のことをいい、人間が達成できるものである。しかしながら、受肉した神の行われた職分は、神の経営に関連しており、これは人間には達成できないことだ。語ることであれ、業を為すことであれ、奇跡を現すことであれ、それは受肉の神が救いの業の中で偉大な働きを行っているのであり、このような働きは、人間が受肉の神に代わってすることはできない。人間の働きは、神の救いの働きの段階に応じて被造物としてただその本分を尽くすことである。そうした経営なしに、つまり、受肉の神の職分がなければ、被造物の本分もまたなくなる。自分の職分を遂行する受肉の神の働きは人間を救うことであり、他方、本分を尽くしている人間は、創造主の要求に応えるために自分の義務を実行しているのであって、神のように職分を果たしているとはいわれないのだ。神の本質、つまり、神の霊にとって、神の働きとは、経営のことであるが、創られたものと同じ外形を持った受肉の神にとって、その働きとは、職分を果たすことである。どんな業であれ、受肉の神の業は自分の職分を果たすことであり、人間は神の経営の範囲内で神に導かれて最善を尽くすだけである。」

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

「イエスは神の霊を現し、神の霊が直接働いていたのである。イエスは、新しい時代の働き、それまで誰もしたことのない働きをしたのである。イエスは新しい道を切り開き、ヤーウェを現し、神自身を現したのである。一方で、ペテロやパウロやダビデは、彼らが何と呼ばれていたかに関係なく、被造物としての身分を現しただけか、イエスかヤーウェに遣わされただけであった。それだから、彼らがいかに多くの働きをしようとも、どれほど素晴らしい奇跡を行おうとも、やはり神の被造物にすぎず、神の霊を現すことはできなかったのである。彼らは神の名によって、または神に遣わされて働いたのである。更に、彼らはイエスあるいはヤーウェによって始められた時代の中で働いたのであり、彼らの働きはその時代と切り離されたものではなかった。結局のところ、彼らは単なる被造物にすぎなかった。」

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

「ヨハネが行なったのは、最初の働きだけだった。それより多くの新たな働きは、イエスによって成された。ヨハネも新たな働きを成したが、新たな時代へと案内した者ではなかった。…ヨハネはまた『悔い改めよ、天国は近づいた』とと言って、天の国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きはさらに展開されず、導入部分だけであった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を切り開き古い時代を終わらせたが、イエスはまた旧約聖書の律法を成就した。イエスの働きはヨハネの働きより偉大で、さらにイエスは全人類を贖うために来たのであり、その段階の働きを達成した。ヨハネはただ道を整えただけであった。彼の働きは偉大で、言葉もたくさん語り、彼に従った弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新しい始まりをもたらす以上のことは何もなかった。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受けておらず、彼を通して神の旨の理解を得ることもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新境地を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)であった。ヨハネは恵みの時代の先駆者であった。そのような事柄はただ彼らの普通の人間の外観を見ていても分からない。特にヨハネは、極めて偉大で、その上聖霊に約束され、聖霊によって支えられた働きをしていたので余計にそうである。だから彼らのそれぞれの身分はその働きを通してでなければ区別することはできない。というのは人の外観からその人の本質を知ることはできないし、人は聖霊の真の証を確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。」

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

「人の働きには範囲と限界がある。一人では一定の段階の働きしかできず、時代全体の働きをすることはできない―さもなければ、その人は人々を規則に導くだろう。人の働きは特定の時間または段階にしか適用できない。人の経験には範囲があるからである。人の働きを神の働きと比較することはできない。人の実践方法と真理の認識はすべて特定の範囲に適用される。人が歩む道は完全に聖霊の意志であると言うことはできない。人は聖霊によって啓発されるだけで、聖霊で完全に満たされることはできないからである。人が経験できることはすべて通常の人間の範囲内のもので、通常の人間の心の中の考えの範囲を越えることはできない。実践的表現をする人々はすべてこの範囲内で経験する。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

「一期間の間に、神はいくつかの異なる種類の働き、異なる導き方を示すことがあり、人々がいつも新たな成長や新たな変化を持てるようにする。神の働きの規範を見つけ出すことができないのは、神がいつも新しい方法で働いているからである。このようにしてのみ、神の信奉者は規則に陥らないで済む。神自身の働きはいつも人々の見解を避け、彼らの見解に反論する。本当の心で神に従い、神を追い求める人々だけが自分の性質を変えることができ、いかなる規則にも支配されず、いかなる宗教的見解にも拘束されず、自由に生きることができる。人の働きが人々に要求することはその人自身の経験および自分自身が達成できることに基づいている。これらの要求の基準は一定の範囲内に限られており、実践方法も非常に限られている。したがって信奉者は無意識のうちにこの限られた範囲内で生きることになる。時が経つにつれてそれらは規則と儀式になる。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

「聖霊の流れの中での働きは、それが神自身の働きであろうと、用いられている人々の働きであろうと、聖霊の働きである。...神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

「神が表すものは神自身であり、これは人の力が及ばないもの、つまり、人の考えの及ばないものである。神はすべての人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人は自分の経験を表し、神は自身の存在を表す―この存在は神に固有の性質であり、人の力の及ばないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。それらは人の本来備わっている性質、および人の実際の力量を基礎に表される。そこで、それらも人の存在と呼ばれる。...人が言うことは彼らが経験してきたことであり、見てきたもの、彼らの精神が到達できるもの、彼らの判断力で感じることができるものである。それなら彼らは語ることができる。人間の姿をした神の肉が語る言葉は聖霊の直接的表現であり、聖霊によってなされた働きを表している。肉はそれを経験しても、見てもいないが、それでも神の存在を表しているのは、肉の本質は聖霊であり、神は聖霊の働きを示しているからである。肉では到達することができなくても、それは聖霊によってすでになされた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人々に神の存在を知らしめ、人々が神の性質、ならびに神がした働きを見ることを許す。人の働きによって、人々は何において成長するべきか、何を理解するべきかについてもっと明確にすることができる。人の働きには、真理を理解し、経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道を開拓し、新しい時代を開拓し、人々に、死ぬ運命にある人間には知られていないことを明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは人類すべてを導くことである。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

「あなた方は神の働きと人の働きの区別の仕方を知らなければならない。あなたは人の働きから何を見ることができるか。人の働きの中には人の経験による要素がたくさんある。人が表すものは現在のその人そのものである。神自身の働きも現在の神そのものを表すが、現在の神は現在の人とは異なる。現在の人は人の経験や人生を表し(人生やその人が持つ人生哲学において人が経験したり、遭遇したりするもの)、異なる環境に住む人々は異なる存在を表す。あなたに社会的経験があるか否か、あなたが家族の中で実際どのように生活し、経験しているかはあなたが表すものの中に見ることができるが、あなたは肉となった神の働きから神に社会的経験があるか否か見ることはできない。神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神の存在を表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。神の働きに関し、人は神がどのような存在か言うことはできない。神を神の働きに基づいて創造された人として分類することも不可能である。神そのものも神を創造された人として分類できないようにしている。人は神を人間以外のものと考えるしかなく、どの範疇に神を入れるかはわからない。そこで、人は神を神の範疇に入れざるをえない。こうすることは、人にとって不合理なことではない。なぜなら、神は人が行うことのできないたくさんの働きをしてきたからである。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

「神の働きは、神の肉の経験を表すのではない。人が行う働きは人の経験を表す。誰もが自分の個人的経験について話す。神は直接真理を表し、一方人は真理を経験したあと、付随する経験を表せるだけである。神の働きに規則はなく、時間や地理的制約に支配されない。神はいつでも、どこでも自分が何かを表すことができる。神は好きなように働く。人の働きには条件と事情がある。そうでなければ、人は働くことはできず、神に関する認識や真理の経験を表すことができない。あなたは、神自身の働きか、人の働きか伝えるためには両方の違いを比較するしかない。神自身のする働きはなく、あるのは人の働きのみであれば、あなたは人の教えは高度で、ほかの誰の能力も及ばないと知るだろう。彼らの話す調子、事を扱う際の原則、働く際の経験豊かで、落ち着いた態度は他の人々の力の及ぶところではないと知るだろう。あなた方はみな高い人間性を持つこれらの人々を称賛するが、神の働きと言葉から神の人間性がどれほど高いか知ることはできない。それどころか、神は普通であり、働くときは通常で現実的だが、人間には計り知れないものでもあり、そのため、人々は一種の畏敬の念を神に感じる。おそらく、働きにおける人の経験は特に高い、あるいは想像力や論理的思考は特に高く、人間性は特に良い。これらのことは人々の称賛は得られても、畏敬の念や畏れを喚起することはできない。働く能力を持ち、特に深い経験を持ち、真理を実践できる人々は誰もが称賛するが、彼らは畏敬の念を呼び起こすことは決してできず、称賛と羨望がせいぜいである。しかし神の働きを経験した人々は神を称賛するのではなく、その代わり、神の働きは人間の力の及ばないもので、人には計り知れず、新鮮で素晴らしいと感じる。人々が神の働きを経験する時、神に対して最初に持つ認識は、神は計り知れず、賢明で素晴らしいということであり、彼らは無意識のうちに神を敬い、神の働きの神秘性を感じ、人の考えの及ばないものだと思う。人々はひとえに神の要求に応じられること、神の希望を満たせることを望み、神を超えようとは思わない。なぜなら、神の働きは人の考えや想像のおよばないものであり、人が神に代わって行うことはできないからである。人自身が自分の力不足を知らないのに、神は新しい道を開拓して、人をより新しく、より美しい世界へ至らせるようにしたので、人類は新たに進歩し、新しいスタートを切った。神に対して人が感じるのは称賛ではない、というより、称賛だけではない。彼らのもっとも深い経験は畏敬の念と愛であり、彼らの抱く感情は、神は実に素晴らしいということである。神は人ができない働きをし、人が言えないことを言う。神の働きを経験した人々はいつも言葉では言い表せない感情を経験する。より深い経験を持つ人々は特に神を愛する。彼らはいつも神の素晴しさを感じ、神の働きは非常に賢く、非常にみごとだと感じ、そう感じることによって彼らの中には限りない力が生み出される。それは恐れ、あるいは時折生じる愛と尊敬ではなく、人に対する神の慈悲と寛容を深く感じる気持ちである。しかし、神の刑罰と裁きを経験した人々は、神を威厳で、犯しがたいものと感じる。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

「もし人がこの働きをしようとするなら、あまりにも多くの制約がある。人はある時点までは行くことができても、永遠の終着点までは行くことができない。人が人の運命を決めることはできないし、人の将来や未来の終着点を確かにすることなど、尚更できない。しかし神による働きは異なる。神は人を創ったので、人を導く。神は人を救うので、完全に人を救い、完璧に人を自らのものにする。神は人を導くので、人を適切な終着点に連れて行く。神は人を創造し、統治するので、人の運命と将来に責任を持たなければならない。これこそ造り主によってなされる働きである。」

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より