『言葉は肉において現れる』で全能神が表された言葉は神自身の口から出た発言であるとあなたがたは証を立てていますが、私たちはその言葉は聖霊により啓かれた人の言葉であると信じます。そのため、私が知りたいのは、受肉した神により表された言葉と聖霊によって啓かれた人が発した言葉の違いは正確には何かということです。
回答:全能神が表されるのは全て真理であり、『言葉は肉において現れる』は実際には主イエスの再臨である全能神の御発言です。心と霊を持つ者は皆、神の御言葉を見れば心から受け入れ、それが神の御声であると認め、神の御前にひれ伏します。しかし、「全能神が終わりの日に表された言葉は単に聖霊の霊感を受けた人が書いた言葉であり、神の実際の御言葉ではない」と信じている人たちがいまだにいます。このことが示すのは、私たちは神を信じていても神を知っているとは限らないし、神の御言葉を人の言葉と区別できず、更には真理と一致する言葉を真理自体からはっきり区別できないということです。実際には、真理と一致する言葉と真理のあいだには非常に明確な違いがあります。神の御言葉は真理であり、そのことは誰にも否定できませんが、人の言葉はせいぜい真理と一致するものに過ぎません。真理と一致する人の言葉を神の御言葉と比べると、本当に違いはないでしょうか。本当に違いが分からないでしょうか。誰かが神の御言葉を経験し御言葉の認識があれば、その人は真理を自分のものにしていると言うことができるでしょうか。誰かが真理と一致する言葉を語れば、その人は真理を表していることになるのでしょうか。過去の聖徒たちは真理と一致する言葉を多く語りましたが、そうした言葉は神が表された真理と同列に論じていいのでしょうか。真理を本当に理解し、真理を認識する者なら、真理と一致する言葉と真理そのもののあいだに非常に意義深い違いがあることが分かります。この二つを混同するのは、真理を理解していない者か認識できない者だけです。真理と一致する言葉を真理と区別するには、真理が何であるかを正確に理解しなくてはなりません。主を信じる私たちは主の御言葉を多く読んで御言葉の権威と力を認めており、主の御言葉だけが真理だと感じることができます。真理を完全に経験することは決してなく、真理をどれほど経験し理解しても、真理を完全に自分のものにした、神を本当に理解しているなどと厚かましくも言えないのです。宗教界には、ずうずうしくも聖書を解釈する牧師や長老が多くいますが、彼らさえも神の御言葉を意のままに解釈しようとは敢えてしません。人類の中に自分は神の御言葉を理解していると厚かましくも言える者はいませんし、真理を理解していると言いきれる者もいません。このことは真理の本質がとてつもなく深遠で、神にしか表せないことを示しています。人が神の働きを経験することで実現できるのは、真理をある程理解し、その現実の一部に入り、真理と一致することを少し語ることだけであり、それが期待できる限界なのです。それでも決して真理を自分のものにしたり、表したりすることはできません。これが事実なのです。かつての聖徒たちは真理と一致することを多く語りましたが、誰もそうした言葉が真理だとは敢えて言いませんでした。では真理とは正確には何なのでしょうか。真理は神が表されるものであり、キリストだけが真理、道、いのちなのです。神が語られることは全て真理であり、神が語られることは全て神の性質、神が所有するものと神の存在そのものの全てを表しており、神の御言葉は神の全能性と知恵に満ちています。神は御言葉を用いて天地万物を創造し、御言葉を用いて人類の救いのための働きを行われます。神の御言葉によって、全てのことが実現します。神の働きを経験した者は皆、神の御言葉の力と全能性を見ることができ、このことは、神だけが真理を表せることを証明しています。真理の力とその永遠性は人類には不可思議であり、真理だけが永遠で、神と共にあります。それは永遠不変なのです。人類が真理をいのちとして手にすれば、永遠のいのちを得たことになります。神が人に真理を授けて人がそれをいのちとして得られるようにされることの意義はとても深遠です。それは全能神が仰せられる通りです。「人間の言語に置き換えられた真理は人間の格言です。人間は決して真理を完全には経験しませんが、それに頼って生きるべきです。真理の一欠片により、全人類が何千年にもわたって生き残ることができるのです。真理は神自身のいのちであり、神の性質、神の本質、および神の中にあるすべてのものを表わしています」(「真理とは一体何か、あなたは知っているか」『キリストの言葉の記録』)
「真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した働きである。だから、人生の格言と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、至高の人生の格言と呼ばれるのだ」(『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」〔『言葉』第1巻〕)
「真理とは、人の世から出るが、人の世の真理は、キリストによって伝えられるのである。真理とはキリスト、すなわち神自身から来るものであって、それは人には不可能なことである」(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)
なぜ人の話す真理と一致する言葉は真理であるとは言えないでしょうか。それは人の話す真理と一致する言葉は、単に人が真理について経験し知ったことを表すもので、聖霊の働きの結果に過ぎないからです。聖霊はその時の人々の実際の霊的背丈に合わせて、人々が真理を徐々に理解してその現実に入るように啓き導く働きをします。聖霊は人々を啓くたびに、真理の光についての部分的な理解と、真理の現実についてのわずかな認識だけを与えます。決して真理の本質をまるごと人に与えることはありません。そうしたところで人には真理の本質を体得することも経験することもできないからです。人が語る内容で真理と一致するものとは、真理に関する非常に浅く限られた理解と経験であり、真理の本質にはほど遠く、真理の基準には到底及ばないため、真理とは言えないのです。たとえ聖霊の啓きと照らしから生まれ、真理と完全に一致しても、人が語ることは単に人の啓発と益のためであっても、人のいのちになることはできません。一方、真理は人の永遠のいのちとなることができます。なぜなら、人には真理の本質を完全に経験することも、完全に真理の形象をあますところなく生きることも絶対にできないからです。人は真理の形象のほんの一部分に適う生き方しかできませんし、それだけでも既にかなり好ましいことなのです。真理は永遠に人のいのちであり、人に永遠のいのちを与えることができますが、人類が真理と一致する言葉を語っても、それは人の啓発を助けるための一時的な手段に過ぎず、その効果はある期間しか続きません。そのため、そうした言葉は人の永遠のいのちにはなれないのです。これが真理と一致する言葉と真理との本質的な違いです。このことから、たとえ人の話が聖霊に啓らかれたもので、たとえ真理と一致したとしても、やはり真理とは言えないことが分かります。これは事実であり、いのちの経験のある者ならそれを学んで感じることができます。
「脚本に関する質問への回答」より引用
真理と一致する人の発言と神が肉となって表される真理と御言葉を区別するには、まず神には神としての神聖な本質があり、人には人間的本質があることを明確にしなくてはなりません。神の御言葉は神のいのちの発現であり、神の性質の表れです。一方、人の言葉は人間的本質を表します。聖霊の直接的な表現だけが真理であり、そうした表現だけが神の御言葉なのです。なぜなら、神のいのちの本質は唯一無二であり、いかなる人のものでもないからです。しかし、神が用いられる人々と聖霊の働きを持つ人々は、真理と一致し、他人を啓発することのできる言葉を語ることができます。これは聖霊の啓きと照らしから来る言葉であり、神の御言葉における真理を人が経験、理解して生まれるものでもあります。しかし、聖霊の直接的な表現ではないため、これは神の御言葉ではないのです。
全能神は言われます。「真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した働きである。だから、人生の格言と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、至高の人生の格言と呼ばれるのだ」(『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」〔『言葉』第1巻〕)
「真理の言葉から自分の経験にもとづいて何らかの識見を得たり、何らかの理解を獲得したりすれば、それを真理と見なせますか。それはせいぜい真理についていくらか理解しているとしか言えません。聖霊の啓きの言葉はすべて神の言葉を表わしているわけでも、真理を表わしているわけでもなく、真理に関連しているわけでもありません。真理についていくらか理解しており、聖霊の啓きをいくらか有している、としか言えません。……誰もが真理を経験できますが、各人の経験の状況は違っていて、同じ真理から得るものは一人ひとり異なります。しかし全員の理解を統合しても、この真理はやはり完全には説明できません。真理はかくも深いのです。あなたが得たすべての物事や、あなたが有するすべての理解をもってしても真理の代わりにはなり得ないと、なぜわたしは言うのでしょうか。自分の理解を他人と分かち合えば、二、三日間はそれについて深く考え、それを経験し終えますが、人は一生かけても真理を完全には経験できません。たとえすべての人が集まっても余すところなく経験することはできません。それゆえ、真理は非常に深遠だということがわかるのです。言葉を用いて真理を完全にはっきりと表現することはできず、人間の言語に置き換えられた真理は人間の格言です。人間は決して真理を完全には経験しませんが、それに頼って生きるべきです。真理の一欠片により、全人類が何千年にもわたって生き残ることができるのです。
真理は神自身のいのちであり、神の性質、神の本質、および神の中にあるすべてのものを表わしています。少しばかり経験があれば、それが真理を有しているということだと言うならば、あなたに神の性質を表わすことができますか。真理のある側面や方面について何らかの経験か光を有していても、それを他人に永遠に施すことはできません。ですから、あなたが得たその光は真理でなく、人々が到達可能なある地点に過ぎません。それは単に人間が有するべき正しい経験、正しい認識であり、つまりは真理に関する実際の経験と認識なのです。そうした光、啓き、そして経験による理解は、決して真理の代わりとはなり得ません。すべての人がこの真理を完全に経験し、彼らの経験による理解をすべて持ち寄ったとしても、その一つの真理に取って代わることは依然としてできないでしょう。……これでわたしは何を言わんとしているのでしょうか。わたしが意味しているのは、人間のいのちはいつまでも人間のいのちであり、あなたの理解がどれほど真理や神の意図や神の要求と一致していようとも、真理の代わりには決してなれないということです。人が真理を得たというのは、何らかの現実を有している、真理について何らかの理解を得た、神の言葉に実際ある程度入った、それらに関する何らかの実際的な経験がある、神への信仰において正しい道にいる、ということを意味しています。神からの言葉一つだけで、人間が生涯にわたって経験するのに十分です。人間が数度の生涯、あるいは数千年にわたってそれを経験したとしても、それでもなお、ひとつの真理を完全に、かつ徹底的に経験することはできないでしょう」(「真理とは一体何か、あなたは知っているか」『キリストの言葉の記録』)
人の話す真理と一致する言葉と神の御言葉との違いに関する限り、全能神の御言葉は非常に明確な説明を与えてくださいます。つまり、真理は神から来るもの、キリストを通して表されるもので、聖霊の直接的な表現でもあり、神が語られることは全て真理です。真理は神ご自身のいのちそのもの、神の義なる性質の表れであり、神が所有するものと神の存在そのもの全ての発現、肯定的な事物の現実であり、神の御自身のいのちの本質を表すのです。しかし、神が用いられる人々や聖霊の働きを持つ人々は、真理と一致する言葉を語ることができます。これは聖霊の啓きと照らしから来る言葉であり、神の御言葉における真理を人が経験し理解して生まれるものでもあります。真理と一致するこうした言葉は、人の経験と理解を表しています。それは人が入ることを達成した真理の現実であり、神の働きの結果です。人による真理の理解がどれほど深かろうが浅かろうが、あるいは神をどれほどよく知っていようが、人類が語ることは全て人のいのちの本質を明らかにしています。人が語る真理と一致する言葉は真理の本質の深みとあまりにも程遠いため、人が語ることは真理とは言えないのです。真理と一致する言葉と真理とのあいだには、内在的かつ本質的な違いがあります。神の御言葉が真理であり、神のいのちの本質です。それゆえに神の御言葉は永遠不変なのです。それは主イエスが、「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」(ルカ21:33)と仰せられた通りです。全能神も「わたしの言葉は永久不変の真理である」(『神の出現と働き』「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」〔『言葉』第1巻〕)。と仰せられます。これは、神が律法の時代に発布された十戒と同じです。十戒は何千年も経った現在も人類に遵守されています。なぜなら神の御言葉は真理であり、正の事物の現実であり、どれほど歳月が過ぎても廃れず、未来永劫続くものだからです。しかし、人の言葉は真理ではないため、永久に続くことはありません。これは人類の歴史を辿れば分かることですが、科学の研究や法の分野においても、社会学理論においても、人の言葉とは時間の経過と共に覆され捨てられることもあれば、瞬く間に時代遅れになることさえあります。人が語る言葉はたとえ真理と一致しても、私たちにとって単に一時的な助けや糧や支えにしかなりません。私たちのいのちにはなりえないのです。なぜ人の言葉は人のいのちになりえないと言うのでしょうか。なぜなら人の言葉は真理と一致することはあっても、単に人が神の御言葉を経験と理解に過ぎないからです。人の言葉は真理の本質とは程遠く、決して真理を表すことはできませんし、真理のように人のいのちとなるという効果もありえません。私たちにとって一時的な助けや啓発と支えにしかならないのです。そのため、人の話す真理と一致する言葉は真理ではなく、人のいのちになりえないのです。では、なぜ神の御言葉だけが人のいのちになりえるのでしょうか。それは、神の御言葉が真理であり、正の事物の現実であるため、私たち人はそれを完全に体験することはできませんし、いかなる真理も人類にはつかみきれものだからです。私たちはたとえ永遠を経験しても、真理を手に入れた、真理を完全に体得したなどと自信を持って言うことはできません。これが事実です。更に、真理は人類を清め、人類を救い、人類を完全にすることができます。私たちは真理に頼って生きることによって、真の人らしく生き、真理の形象を生きることができ、そのようにして神を知り、神に従い、神を崇拝し、神と相容れるようになることができます。それが聖書で「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう」(創世記 1:26)とあるように、神が最初に人類を創造された時の御旨なのです。神が人類を創造された御旨は、ただ人類に肉体を提供することではなく、何よりも人類に新しいいのちを授けることでした。この新しいいのちとは神の御言葉であり、御言葉は真理です。真理が私たちのいのちとなるとき、私たちのいのちの現実となるとき、即ち私たちが真理の形象通りに生きて真の人らしく生きるとき、私たちは神が人類を創造された御旨を成就しています。それゆえに私たちは、神の御言葉と真理だけが人の永遠のいのちになりえると言うのです。神が用いられる人々は、神の御言葉の経験と理解がある程度あり、真理と一致する言葉を語れるかもしれませんが、これは聖霊の働きの結果であり、神が人を救い、完全にされているのです。神が用いられる人々が真理と一致した言葉を語り、神を本当に理解しているとしても、彼らが真理の本質を持っているわけでも、神のいのちを自分のものにしたわけでもありません。むしろそれは単に彼らが真理を得ており、真理が彼らのいのちの現実となったことを示しているに過ぎません。なぜなら人は真理ではなく、真理を本当に自分のものにしたなどと厚かましくも言わないからです。そのため、どれだけ人の言葉が真理と一致しても、どれだけ私たちを啓発することができても、それは真理だとは言えませんし、神の御言葉でもないのです。
『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用
神に用いられる人が語る、真理と合致する言葉がなぜ真理ではないかを知りたければ、まず「真理」とは何かをとてもはっきりさせなくてはなりません。歴史を通して、真理とは何であるかを本当に知った者はいません。主イエスは恵みの時代にこの世に来られたとき、「わたしは道であり、真理であり、命である」と仰せられました(ヨハネによる福音書 14:6)が、それでも「真理」の実際の意味を誰も理解しませんでした。終わりの日のキリスト、つまり全能神が到来して初めて、「真理」の奥義が人類に完全に明かされるのです。
それでは全能神の御言葉を見てみましょう。「真理とは、人の世から出るが、人の世の真理は、キリストによって伝えられるのである。真理とはキリスト、すなわち神自身から来るものであって、それは人には不可能なことである」(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)
「真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した働きである。だから、人生の格言と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、至高の人生の格言と呼ばれるのだ」(『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」〔『言葉』第1巻〕)
「人間の言語に置き換えられた真理は人間の格言です。人間は決して真理を完全には経験しませんが、それに頼って生きるべきです。真理の一欠片により、全人類が何千年にもわたって生き残ることができるのです。真理は神自身のいのちであり、神の性質、神の本質、および神の中にあるすべてのものを表わしています」(「真理とは一体何か、あなたは知っているか」『キリストの言葉の記録』)
全能神の御言葉から、次のことがわかります。真理は神に由来し、キリストの発言に由来します。すなわち、神が語られた御言葉はすべて真理です。なぜなら真理が神のいのちの本質、神の性質、神が所有されるものと神であるもの、あらゆる正の事物の現実だからです。真理は永遠であり、変わることがありません。神の御言葉には権威と力があり、人を清めて救い、完全にし、人の永遠のいのちになることができます。そのため、神がお表しなる御言葉はすべて真理です。神の働き、神が明らかにすること、神が定められることはすべて真理です。神が人に守れ、従えと発令し、規定されることも、このように生きよと神が求め、命じられることもすべて真理であり、あらゆる正の事物の現実です。そのため、神が語られる言葉一つ一つに真理が見出されます。ご自身の働きの各段階において、神は多くの真理を表されました。神が私たち人にお授けになる尊いいのちはこれらの真理の中にあります。
神が二度の受肉の働きの際に表されることはすべて真理です。それは恵みの時代の主イエスの御言葉と同じです。主の御言葉によって、人類は神の性質、愛、聖なる本質を目にすることができました。これらはすべて、人類が神を知ることを助ける尊い真理です。主イエスの人類への愛、憐れみ、寛容、赦しもさることながら、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして神を愛せよ」「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」「世の光、地の塩となれ」という主の人への要求もすべて正のものです。これらは真理です。また、人が自分のものとするべきいのちの現実でもあります。終わりの日のキリスト、全能神が来られ、人類を裁いて清め、完全にする真理をすべて表されています。これらの真理は、神の国の時代に人がやがて自分のものとしなければならないいのちの現実です。終わりの日のキリストは、神の義と威厳、怒りと背きへの不寛容からなる性質を人に明かされます。また、人類を救うための神の経営計画の奥義、神の三段階の働きの奥義、神の御働きの各段階の本質と内幕、さらに神の受肉の奥義、神がいかに終わりの日に裁きの働きを行われるか、キリストの国とは何かを明かされます。いかに神が各種類の人の終末を明かされるか、いかに善に報いて悪を罰するかも開示されます。神の義の意味、聖さの意味、神の性質と神の喜怒哀楽の象徴的な意味を明かされます。終わりの日のキリストはまた義なることと悪しきこと、正のものと負のもの、サタンによる人の堕落の本質と事実を明らかになさいます。いかに神を畏れて悪を避けるべきか、真の人生とは何か、いかに有意義に生きるべきかなどを全能神は人に示してくださいます。全能神がこれらの真理と奥義をすべて人に明かされたのは、人が知り認識し、神を畏れて悪を避け、神に従い、神を崇拝するようになるためです。全能神の真理は、人類がもつべき永遠のいのちの道です。神の真理をすべて受け入れそれにより生きる人は、永遠のいのちを得ます。一方、真理をまったく受け入れようとしない者は確実に滅びます。そのため、全能神が終わりの日に表される真理はすべて、終わりの日に時代を終わらせ、新しい時代を開くという神の働きです。神に用いられる人は、神が救い完全になさる人です。神の働きにおけるその人の本分は、神の働きと協調し神の選民を導くことです。そのため、その人が語る言葉で、真理と合致するものはどれも聖霊の働きの成果です。これらの言葉は人に有益ですが、真理とは言えず、神の御言葉とみなすことはできません。なぜなら人の言葉は単にその人の真理についての認識と経験に由来し、人の視点や思想や理解を表すことしかできず、必然的に人間的な不純物で希釈されているからです。しかも人による真理の認識と経験は限られています。どれほど真理の現実に入っても、人は真理の本質を自分のものにしたとは言えず、真理を完全に生きているとも言えません。そのため、たとえ真理の限られた現実を生きてそれを表したとしても、その言葉は単に真理と合致しているに過ぎません。真理そのものと同列に並べることできないのです。受肉された神の御言葉だけが真理です。つまり、神のみが真理の本質を所有し、神のみが真理です。私たちはたとえ何年神を信じていても、神の御前では常に幼子です。神の形象を体現することは決してできません。そのため、神が用いられる人の言葉や、聖霊の働きのある人の言葉は、真理と合致する言葉とみなすことしかできません。それを真理そのものとすることはできません。これは否定できない事実です。人の言葉を真理と言うとき、私たちは神に敵対し、神を冒涜しています。
『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用
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