全能神は現在終わりの日に裁きの働きを行なっておられる受肉した神であるとあなたがたは証を立てています。しかし宗教界の牧師や長老たちは全能神の働きは実際は人間の働きであると言い、さらに主イエスを信じない多くの人々はキリスト教そのものがひとりの人への信仰であると言います。私たちには神の働きと人の働きの違いが正確には何なのかまだ分かりませんので、これについて話してください。

2021年3月19日

回答:神の働きと人の働きは確かに異なっています。それは注意深く探求すればわかります。例えば、主イエスの御発言と働きを見てから使徒の発言と働きを見ると、その違いはあまりにも明白だと言えます。主イエスがお語りになられた御言葉はすべて真理であり、権威があり、多くの奥義を明かすことができます。これらは人類には決してできないことです。主イエスに追随する人がとても多いのはそのためです。しかし使徒は福音を広めて神を証し、教会に施すことしかできません。そうした成果はすべてとても限られています。神の働きと人の働きの違いはそれほど明白です。それでは、なぜわたしたちはそれを見極められないのでしょうか。理由は何ですか。それは堕落した人類が神を知らず、真理をまったく自分のものにしていないからです。そのため私たちは神の働きと人の働きの違いを知らず、たやすく神の働きを人の働きとして扱い、自分が尊敬する人の働きと悪霊の働き、偽キリストと偽預言者の働きを、受け入れて従うべき神の働きとしてたやすく扱ってしまうのです。これは真の道から外れて神に抵抗することであり、人を崇めてサタンに追随し、サタンを拝しているとみなされます。神の性質への重大な背きであり、神によって呪われる行いです。このような人は救われる機会を失います。それゆえにこの問いは、私たちが真の道を調べて終わりの日の神の働きを知るためにとても重要です。表向きは受肉された神の働きも、神に用いられる人の働きも、人が働いて語っているように見えます。しかし両者は本質にも働きの特質にも天と地の差があります。現在、全能神が来られてすべての真理と奥義を明かし、神の働きと人の働きの違いを明かしてくださいました。今初めて私たちは、神の働きと人の働きを認識し、識別しています。全能神の御言葉を見てみましょう。

全能神は言われます。「神自身の働きは全人類の働きを含み、時代全体の働きも表す。すなわち、神自身の働きは聖霊の働きにおけるあらゆる動態と傾向を表す一方で、使徒の働きは神自身の働きの後に来てそれに続き、時代を導くことも一つの時代全体における聖霊の働きの傾向を表すこともない。彼らは人がなすべき働きをするだけで、それは経営の働きとは何の関係もない。神自身の働きは、経営の働き内の事業である。人の働きは用いられている人たちの本分でしかなく、経営の働きとは何の関係もない(『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」〔『言葉』第1巻〕)

受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、なすべき働きを完了しに来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである(『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」〔『言葉』第1巻〕)

受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。……

……人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)

受肉した神は、神によって用いられる人々とは本質的に異なる。受肉した神は神性の働きを行えるが、神によって用いられる人々にはできない。それぞれの時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語り、新しい時代を始め、人間を新しい始まりへと導く。神が語り終えたとき、それは神性における神の働きが完了したことを意味する。その後、人々はみな神によって用いられる人々の導きに従い、いのちの経験に入る(『神の出現と働き』「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」〔『言葉』第1巻〕)

神が表すものはすべて神自身そのものであり、これは人には達成できない。つまり、人の考えの及ばないものである。神は全人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人が表現することは人の経験であり、神が表現することは神の存在そのものである。それは神に固有の性質であり、人には届かないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した人の見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。人の表現の基盤は人に本来備わっている性質や素質である。そのため、それも人の存在と呼ばれるのである。……神の受肉にした肉が語る言葉は霊の直接的表現であり、それらは霊によってなされた働きを表す。肉はそれを経験しても見てもいないが、それでも神はその存在を表す。その肉の本質は霊であり、神は霊の働きを示すからである(『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」〔『言葉』第1巻〕)

神が行う働きは、神の肉の経験を表すのではない。人が行う働きは人の経験を表す。誰もが自分の個人的経験について話す。神は直接真理を表すことができる一方、人は真理を経験したことに対応する経験を表せるだけである。神の働きに規則はなく、時間や地理的制約に支配されない。神はいつでも、どこでも自分の存在そのものを表すことができる。神は好きなように働く。人の働きには条件と状況がある。これなしには人は働くことはできず、神に関する認識や真理の経験を表すことができない。何かが神自身の働きであるか、人の働きであるかを見極めるためには、両方の違いを比較するしかない(『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」〔『言葉』第1巻〕)

もし人がこの働きをしようものなら、それはあまりにも制限されたものになるだろう。人はある所までは行くことができても、永遠の終着点まで行くことはできないであろう。人は自分の運命を決めることはできないし、自分の前途や未来の終着点を保証することなど、尚更できない。しかし神によってなされる働きは異なる。彼は人を造ったからには、人を導く。彼は人を救ったからには、完全に救い、完全に人を獲得する。彼は人を導くからには、人を適切な終着点に連れて行く。そして、神は人を創造し、経営するからには、人の運命と前途のために責任を負わなければならない。これこそが造り主によってなされる働きである(『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の御言葉は、神の働きと人の働きの違いをとても明確にしています。受肉された神と神に用いられる人は本質が異なるので、行う働きもとても異なります。受肉された神は表向きは一般的な普通の人のように見えますが、実際には神の霊が肉において実現された姿です。したがって、神的本質をもち、神の権威、力、全能性、知恵をもっておられます。そのため受肉された神は働きにおいて真理を直接表し、神の義なる性質と神が所有されるものと神であるものをすべて表し、新たな時代を始めて古い時代を終わらせること、神の経営(救いの)計画の奥義をすべて明かし、神の御旨と人類への要求を表すことがおできになります。受肉された神によって表された御言葉はすべて真理であり、人のいのちとなり、人のいのちの性質を変えることができます。受肉された神の働きは人を征服して清め、人をサタンの影響から救い、人類を美しい終着点に連れて行くことができます。そのような働きの成果はいかなる人にも遂げられないことです。受肉された神の働きは神ご自身の働きであり、誰にも代替することはできません。一方、神に用いられる人の本質は人です。その人は人性しかもたず、キリストの神的本質をもたないので、真理も神の性質、神が所有されているものと神であるものすべても表すことができません。神の発言と働きを基盤として神の御言葉について自分が知っていることを伝えたり、自分の経験や証しを語ったりすることしかできません。その人の認識と証しはすべて神の御言葉をその人が個人的にどう理解しているかを表しています。その人の認識がどれほど優れていても、言葉がどれほど正確であっても、その人の言うことは真理とは言えず、ましてや神の御言葉とは言えません。そのため人のいのちではありえず、人に手助けや施し、支えや啓発を与えることしかできず、人を清め、人を救い、人を完全にするという成果を遂げることはできません。したがって、神に用いられる人は神ご自身の働きを行うことはできず、人の本分を果たすために神と協力することしかできません。

神の働きと人の働きの違いは、実際の例を挙げれば誰にでも遥かにわかりやすくなります。恵みの時代、主イエスは「悔い改めよ、天国は近づいた」と悔い改めの道を説かれ、天国の奥義を明かされました。主は自ら罪の捧げ物として十字架につけられ、人に罪を告白し悔い改めさせ、そして人の罪を赦し人が律法による断罪と呪いを免れるようになさいました。これにより、人が神の御前に出て神に祈って神と交わり、神の豊かな恵みと真理を享受する資格が得られるようにです。また神の愛と憐れみ深い性質を人にお見せくださったのです。主イエスの働きは恵みの時代を始め、律法の時代を終わらせました。これは神の働きの恵みの時代における部分です。主イエスが働きを終えられた後、主の使徒たちは神の選民が主の発言と働きを土台として主イエスの言葉を体験し、実践するように導き、世界中に主の救いの証しを広め、人類を贖うという主の福音を広めました。これは恵みの時代における使徒の働きであり、神に用いられた人々による働きでもあります。このことから、主イエスの働きと使徒の働きには本質の違いがあることがわかります。終わりの日に受肉された全能神は、人類を清めて救うための真理をすべて表され、神の六千年の経営(救いの)計画の奥義をすべて明かされ、神の家から始まる裁きの働きを行われ、人類をサタンによる堕落と影響から徹底的に救われます。こうして人は神の義にして威厳ある、怒りに満ちた不可侵の性質を見て、堕落した人類は罪から解放されて浄化を遂げ、神のものとなることができます。全能神の働きは神の国の時代を始め、恵みの時代を終わらせました。これは神の国の時代の神の働きです。神に用いられている人が全能神の働きと御言葉を土台として行なう働きは、神の選民に水をやって牧養し、彼らが神の御言葉の現実に入り、神を信じる正しい道に入るように導くことであり、神の国の降臨という全能神の福音を広めて証しすることです。これが神の国の時代において神に用いられている人の働きです。このことから、神が肉となられたときの働きは二度とも一つの時代を始めて一つの時代を終わらせる働きであることがわかります。神の働きは全人類に向けられており、それはすべて神の経営(救いの)計画を完成させるための働きの一段階です。それはまさに人類を贖って救う働きです。神が肉となられた働きは二度とも、神のみが働きにおいて真理を表し、人類を清めて救うことができることを完全に裏づけています。いかなる人にも神の働きを行うことはできません。受肉された神のみが神の働きを行うことができるのです。そのため神が受肉されたときは二度とも、キリストのみが真理であり、道であり、いのちであると神は証しされています。受肉された神の他に、誰も神ご自身の働きを行うことはできません。誰も新たな時代を始めて古い時代を終わらせることはできず、ましてや人類を救うことなどできません。神によって用いられる人の働きは、ただ神の働きと協調して神の選民を導き、牧養し、人の本分を果たすことしかできません。人が何年働いても、いくら言葉を話しても、その働きが表向きはどれほど素晴らしく見えても、その本質はすべて人の働きです。それが事実なのです。それが肉における神の働きと、神によって用いられる人の働きとのおもな違いです。

全能神の御言葉は、私たちに神の働きと人の働きの本質的な違いを悟らせてくださいました。受肉された神はお働きになりつつ、真理と神の性質と神が所有されるものと神であるもののすべてを表すことができることを私たちは今初めて知っています。神の働きを受け入れて経験すれば、私たちは真理を理解し、神の聖く義なる性質、神の本質、神の人類を救おうという御旨、神が人類を救われる方法、神の人類への愛を一層理解することができます。また、自分がサタンによって堕落していることの実質、本性、真実の認識も得るのです。そうして私たちは堕落した性質の清めと変化を遂げ、神への真の従順と畏れを生み出し、神の救いを得ることができます。しかし人の働きと神の働きはまったく異なります。人は真理を表せず、ただ神の御言葉についての自分の経験と認識を語ることしかできないため、それはたとえ真理と合致しても、ただ神の選民を導いて牧養し、支えて手助けすることしかできません。このことからわかるのは、神に承認された人であれば、その人が行う働きはただ神の働きと協調して人の本分を果たすことに過ぎないということです。神に用いられていない人で、聖霊の働きのない人ならば、その人は人の賜り物、才能、名声を賞揚する人です。聖書を解説するときでさえ、その人は聖書にある人間の言葉を賞揚し、神の御言葉をないがしろにし、人間の言葉で代替しています。そのような人の働きは、パリサイ人の働きであり、神に抵抗する働きです。人の働きはおもにこの二つの異なる状態に分類されます。いずれにせよ、人の働きと神の働きの最大の違いはこれです。すなわち、もし単に人の働きでしかないのであれば、人を清めて救うという成果は遂げられないということです。神のみが働きにおいて真理を表すことができ、神の働きのみが人を清めて救うという成果を遂げることができます。それが事実です。私たちがここでおもに論じていることは、神の働きと神に用いられる人々の働きの違いです。神に用いられていない宗教指導者の働きはまた別の問題です。

神の働きと人の働きにこのような明白な違いがありますが、それではなぜ私たちは神を信じながら人を崇拝し、人に追随することができますか。有名な霊的人物や宗教指導者などを崇拝し、そうした人の働きを神の働きとして扱う人がなぜ依然として大勢いるのでしょうか。偽キリストや悪霊の惑わしさえも神の働きとして扱う人がいるのはなぜですか。私たちに真理がなく、神の働きと人の働きを区別できないからです。受肉された神の本質と人の本質を知らず、真理とは何か、何が真理と合致するかを見極める術も知りません。神の御声と人の発言を区別できない上に、サタンに堕落させられ、知識と賜り物を崇拝しているため、人に由来する聖書の知識や宗教的教義や神学的理論をいともたやすく真理と扱ってしまうのです。このように真理ではない、人に由来するものを受け入れれば私たちの知識を高めるのに役立つかもしれませんが、それは私たちのいのちへの糧を一切ほどこさず、ましてや神を知って神を畏れるという成果も遂げられません。これは否定できない事実です。したがって、人がどれだけ働きをしても、どれだけ言葉を語っても、どれだけ長く働いても、その働きがどれほど偉大であっても、人を清めて救うという成果を遂げることはできません。人のいのちは変わらないのです。このことは、人の働きが決して神の働きに取って代わることができないことを明らかにしています。神の働きだけが人を救うことができます。神の働きの期間がどれほど短くても、神が発せられる御言葉がどれほど限られていても、その働きは時代を始め、時代を終わらせ、人類を贖って救うという成果を遂げることができます。これが神の働きと人の働きの明らかな違いです。神の働きと人の働きの違いを理解して初めて、もはや私たちが盲目的に人を崇拝して人に追随することはなく、偽キリストや反キリストの惑わしや支配を見極めて拒むことができます。こうして私たちは終わりの日の全能神の働きを受け入れてそれに従い、神の裁きと清めを受けて神の救いを得ることができます。神の働きと人の働きを区別できなければ、偽キリストと反キリストの惑わしと支配から自由になることはできません。そのような人は名目上は神を信じますが、実際には人を信じ、人に追随し、人を崇拝します。偶像を崇拝しているのです。これは神に抵抗し、神を裏切ることです。それでも自分の道の誤りに気づくことを拒むならば、最後には神に呪われ、神の性質を侮辱したことで神によって排除されます。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

神の働きと人の働きを区別できず、また神が用いられている人と偽善のパリサイ人を区別できなければ、私たちは人を崇拝して追随しかねず、真の道からたやすく外れてしまいます。これはちょうど主イエスが働きに来られ、ユダヤ教の神の選民がみな偽善のパリサイ人に追随し、主を捨てたときと同じです。終わりの日に、全能神は裁きの働きをなさいます。宗教界では牧師と指導者、現代のパリサイ人が実に多くの人を惑わし、制止し、閉じ込め、終わりの日のキリストを捨てるように導きます。これは私たちが学ばなくてはならない重大な教訓です。神に追随するには、宗教指導者と偽善のパリサイ人の本質を見極められなくてはなりません。彼らは自分たちの賜り物と才能を通して働き、自分の観念や想像や論理的推論に従って聖書を解釈します。彼らが実際に説くのは、神学と聖書研究の理論です。聖書にある神の御言葉を褒め称え証しするのではなく、聖書にある人間の言葉を解釈して説くことにしか関心がありません。主イエスの御言葉を人間の言葉で代替し、主を単なる名目上の指導者に変えます。この働きは完全に神の御心に反します。パリサイ人の神への反抗の核心はここにあります。宗教者はみなパリサイ人の指導と牧養にだまされ盲従します。神に長年追随しますが、真理やいのちの養いを受けることがありません。せいぜい聖書と神学理論の知識を得ることしか望めません。性質がますます傲慢で、独善的で、卑劣になり、神への畏敬が皆無になります。やがて心の中には神の居場所がなくなり、知らず知らずのうちに、神に反抗するパリサイ人の道を歩みます。特に、聖書を文脈から離して曲解し、人の観念や想像と合致し、自分たちの野望や欲求を満たす異説や邪説を広めて人を惑わし、捕らえ、操ろうとする宗教指導者やその他の人物が大勢います。そして、こうした異端と邪説を神の御言葉、真理であるかのように扱う者が大勢いるのです。彼らは誤った道に導かれています。こうした宗教指導者やいわゆる有名人たちはまさに神が終わりの日の裁きの働きを通して暴露なさった反キリストです。こうした事実は、このいわゆる宗教指導者や霊的人物たちの働きが聖霊の働きに由来しないことを十分証明しています。それは聖霊の働きではなく、単にパリサイ人と反キリストが私たちを惑わして害しているに過ぎません。彼らはみな神に反抗し、神を裏切っています。神を再び十字架につけるのは彼らであり、神は彼らを呪われたのです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

神様の働きと人間の働きにはおもに三つの違いがあります。一つ目の違いは、神様の働きには時代を始め、時代を終わらせることが含まれるということです。このため、神様の働きは全人類に向けられています。ひとつの国、ひとつの民族、あるいは特定の人々の集まりだけに向けられているのではありません。全人類のためなのです。神様の働き全てが、全人類に必ず影響を与えます。神様の働きと人間の働きの最大の違いはここにあります。恵みの時代、神様は主イエス様として受肉され、人類を贖うという一段階の働きを実行されました。主イエス様が十字架にかけられ、贖いの働きを全うされた後、聖霊が神様の選民を導き始め、主イエス様への証しを立て、最終的に主イエス様の働きが全人類に広まるようにされました。こうして主イエス様の贖いの福音は地の果てまで広まったのです。これは、それが神様の働きであったことの証明です。これがもし人間の働きであったならば、地の果てまで広がることはまずなかったのです。恵みの時代から神の国の時代まで二千年の隔たりがあります。この二千年の間、新たな時代を始める働きを行なうことのできる人を見ることはありませんでした。そればかりか、世界中の国々に広がるような特別な働きをすることができる人もいませんでした。裁きと刑罰の働きを行うために、終わりの日に神様が肉となられるまで、そのようなことは一切起こりませんでした。中国における神様の働きの試験的な段階は既に成功しました。つまり、神様の偉大なプロジェクトは既に完了し、神様の働きは地球のいたる所に広がり始めているのです。それにより、私たちは神様の働きの全てが全人類に向けられていることを更に確信することができます。神様はひとつの国においてご自身の試験的な働きを開始され、それが成功裏に終わったならば、その働きは広がり始め、全人類に届くのです。これが神様の働きと人間の働きの最大の違いです。……

神様の働きと人間の働きの二つ目の違いは、神様の働きは神様であるものを表すという点です。それは神様のご性質を完全に表すものです。神様が表されるもの全てが、すなわち正に真理であり、道であり、いのちなのです。神様の働きを経験する誰もが、神様の義、聖さ、全能性、知恵、素晴らしさ、人間の理解を超えたものを認識するのです。人間の働きが表すものは人間の経験であり理解です。それは人の人間性の表れなのです。人がどれほど働いてもどれほど偉大でも、そこに真理はひとつもないのです。あくまでも人間による真理の理解や経験でしかなく、それが全て真理であるとか、真理を表しているとか言うことなど決してできないのです。……

神様の働きと人間の働きの三つ目の違いは、神様の働きには人々を征服し人々を変え、その性質を変えてサタンの影響から解放する力があるということです。神様の御言葉をどれほど経験し理解していようとも、人の働きが人を救うことはありません。それだけでなく、人が誰かの性質を変えることもできないのです。神様の御言葉は真理であり、真理のみが人のいのちとなることができるからです。人間の言葉はせいぜい真理に沿った理解でしかありません。一時的に人を助け、啓発することができ得るだけで、人のいのちとなることはできません。神様の働きは人を救うことができても、人の働きは誰にも救いを与えることができないのはそのためです。神様の働きは人々の性質を変える一方、人の働きは誰の性質をも変えることはできません。経験のある人ならば誰でも、このことが明確に分かります。どれほど聖霊の働きが伴っていても、長年人々の間で働いていたとしても、その人の働きが人々の性質を変えることは基本的にできません。人の働きが人々を完全で真正な救いへと到達させることは不可能なのです。これは絶対です。それができるのは神様の働きの他にはありません。経験や真理の追究をしっかりとしたならば、その人は聖霊の働きを受けることができ、自分のいのちの性質に変化を遂げることができます。自分の堕落した本質を本当に理解することができるようになります。そして最後には、サタンの影響から自由になり、神様の救いを得ることができます。これが、人の働きと神様の働きの最大の違いです。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

神様の働きと人間の働きの最大の違いは、神様は時代を始めたり終わらせたりすることがおできになるという事実にあります。神様ご自身だけがその働きをおできになるのであって、人間にはできません。それはなぜですか。それは人間には真理がなく、また人間は真理ではないからです。神様だけがそうなのです。人の言葉が真理とどれほどぴったりと一致していようと、人の説教がどれほど高尚であろうと、人がどれほど理解していようと、それは神様の御言葉と真理に関するわずかな経験、わずかな認識に過ぎず、神様の働きを経験することで得た限定的なものに過ぎません。それは正確な真理ではありません。ゆえに、どれほど真理を理解していようとも、人には時代を始めたり終わらせたりする働きができないのです。それは人間の本質によって決まっていることです。……

人間が所有するものと人間そのもの、そしてその人間性のすべては、それがどれほど高尚であろうと善であろうと、正常な人間性において有するべき限られたものです。それは神様が所有するものと神様そのものや、神様が表現なさる真理の現実とまったく比べものになりません。それは天と地の違いです。したがって、人間には神様の働きを行なうことができません。……あなたの行なう働きがどれほど立派だろうと、何年働こうと、受肉なさった神様よりも何年多く働いていようと、あるいは神様よりどれほど多くの言葉を発していようと、あなたが表現することは人が所有するものと人そのものに過ぎません。それは神様の御言葉と真理に関する人間の経験と認識のかけらでしかなく、人のいのちそのものになることはできないのです。ゆえに人がどれほど多くの説教をしようと、他人がその説教をどれほど深遠だと思おうと、どれほど多く働こうと、その人が表現することに真理はなく、真理の最も正確な表現でもなく、ましてや全人類を前に導くことなどできません。人の言葉が聖霊の啓きや光を含んでいたとしても、わずかな教化と糧を人々にもたらすことしかできません。その言葉はわずかな支えを人々に一定期間もたらせるだけで、それ以上のことはできません。これが人間の働きによって成し遂げられることです。では、人間の働きが神様の働きと同じ結果を成し遂げられないのはなぜですか。それは人間の本質が真理ではないからです。人間の本質には、正常な人間性が所有するものと正常な人間性そのものしかありません。それは神様が所有するものと神様そのもの、そして神様が表現なさる真理からあまりに遠くかけ離れています。言い換えると、人間が神様の働きから離れて聖霊が働きをお止めになると、人間の働きは他の人にとっての有益性をますます失い、人には道がなくなってゆきます。神様の働きだけが成し遂げられ、人間の働きには決して成し遂げられない明らかな結果がいくつかあります。人間が何をしようと、人のいのちの性質を変えることはできません。人間が何をしようと、人が真に神様を知り清められるようにすることはできません。これは絶対的なことです。中には「それは働きを行なう時間がそれほど長くないからだ」と言う人がいます。それはまったく正しくありません。長い時間をかけても無理なのです。人間の働きによって、人間が神様についての認識を得られますか。何年にわたって他の人を導こうと、あなたには他の人が神様を知るように導くことはできません。いくつかの例を考えてみましょう。パウロの働きによって、人は神様を知ることができますか。新約聖書に収められた使徒による書簡のすべてを通じて、人は神様を知ることができますか。旧約聖書に記された多くの預言者や神のしもべによる働きを通じて、人は神様を知ることができますか。そのどれもできません。人間の働きによって成し遂げられる結果は極めて限られており、神様の働きの一期間を維持することしかできません。……人間の働きは人が神様を知る助けとはなれず、人間の働きは人間の性質を変えることもできず、人間の働きは人が清めを獲得する助けにもなれません。その証拠がここにあります。終わりの日における神様の働きはどうですか。神様の働きを経た神様の選民による証しがますます増えています。数多くの人が征服され、神様に従うために全てを捨ててきました。数多くの人が鳴り響くような証しをし、自分の個人的な体験を証しする記事を綴ってきました。かくして、ありとあらゆる証しがあるのです。神様の働きを八年ないし十年経験した人は、かくも素晴らしい証しをします。また三年ないし五年しか経っていない人でも素晴らしい証しをする人がいます。何らかの証しを有する人がさらに十年ないし十二年の経験を重ねれば、それはどのような証しになるでしょうか。さらに鳴り響くような輝かしい証しになるでしょうか。それは神様の働きを通じて成し遂げられるものですか。それは一世紀または一千年にわたる人間の働きの結果をも超える、わずか十年間の神様の働きの結果ですか。それは何を示していますか。神様の働きだけが人間の救いと変化と完全を成し遂げられるのであり、人間の働きはどれほど多くの時間をかけてもそうした結果を成し遂げられないことを示しています。人間の働きは最終的にどのような結果を成し遂げられますか。他人から褒められ、支持され、真似られるようになることしかできません。せいぜい人の振る舞いがわずかによくなるだけで、それ以上は何もありません。いのちの性質の変化も、神様への服従と神様についての認識も、神様を畏れて悪を避けることも、真の清めを通じて神様を見ることも達成できません。これら主要な側面のどれについても、結果は何一つ成し遂げられないのです。

神様の働きの一側面には、それを通じて神様が所有するものと神様そのものを人が見つけ、神様の性質を目にし、神様のお知恵と全能性を知ることができる、というものがあります。これは神様の御言葉を通じて直接成し遂げることができます。また別の側面として、神様の御言葉は人間のいのちになれるというものがあります。私たちが神様の御言葉を真に経験して認識するとき、神様を畏れる心が私たちの中で育ち、神様の御言葉から生ける水の供給を絶えず吸収できるようになります。そして神様の御言葉が私たちの中に根を下ろすにつれて、神様が私たちにお求めになる証しをいつでも生きられるようになります。つまり、神様の御言葉が私たちのいのちそのものになるのです。神様の御言葉は私たちの尽きることなき無限のいのちの泉です。では人間の働きはどうですか。ある人の言葉がどれほど正しかろうと、どれほど真理と一致していようと、他の人々のいのちそのものとなることはできません。一時的な手助けと教化をもたらせるだけです。さて、これがわかりますか。それこそが人間の働きと神様の働きの違いではないですか。つまり、人間が表現することは人であるものに過ぎませんが、神様が表現なさることは神様であるもののすべてなのです。人間にできるのは他人にわずかな益や教化をもたらすことだけである一方、神様が人間にもたらすのは永遠のいのちの糧です。違いはかくもはっきりしています。人から離れても、私たちはそのまま歩み続けることができます。しかし神様の御言葉がなければ、私たちはいのちの源泉を失います。ゆえに神様はこうおっしゃいました。「キリストは真理であり、道であり、いのちである」神様の御言葉は私たちの宝物、私たちのいのちの源であり、誰にとっても不可欠なものです。神様の御言葉があれば、私たちには人生における方向性、人生の目標があり、そしていのちの糧と生きるための原則があるのです。

兄弟の交わりより引用

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

『言葉は肉において現れる』で全能神が表された言葉は神自身の口から出た発言であるとあなたがたは証を立てていますが、私たちはその言葉は聖霊により啓かれた人の言葉であると信じます。そのため、私が知りたいのは、受肉した神により表された言葉と聖霊によって啓かれた人が発した言葉の違いは正確には何かということです。

回答:全能神が表されるのは全て真理であり、『言葉は肉において現れる』は実際には主イエスの再臨である全能神の御発言です。心と霊を持つ者は皆、神の御言葉を見れば心から受け入れ、それが神の御声であると認め、神の御前にひれ伏します。しかし、「全能神が終わりの日に表された言葉は単に聖霊の霊…