神の働きと言葉がすべて聖書にあるというのは真実か
救い主全能神が終わりの日に現れ、働き、数百万の言葉を表し、神の家から始まる裁きの働きで人類を完全に清め、救っています。その言葉を集めた「言葉は肉において現れる」はネット上で公開されており、宗教界ばかりか全世界を震かんさせました。国や宗派を問わず、真理を愛し神の出現を待ち焦がれる人が、全能神の言葉を読み、それが真理であり、聖霊の言葉だと認めています。神の声を聞き、全能神こそ主イエスの再来だと気づいて、神の玉座の前に出ていますが、それは主イエスの預言のとおりです。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)。しかし、宗教界の多くの人が、全能神の言葉は真理であり、権威と力があると認めながら、その言葉が聖書に書かれていないという理由で受け入れようとしません。彼らは、神の働きと言葉はすべて聖書にあり、聖書以外にはないと信じています。全能神の言葉は真理だが、聖書に書かれていないものが、神の働きや言葉のはずがない、と。中には、全能神教会の信者が聖書ではなく「言葉は肉において現れる」を読んでいるのをみて、聖書から離れることは、主への裏切りであり、異端だと断罪する人もいます。そこで思い出すのが、ユダヤ教のパリサイ人たちです。主イエスの働きと言葉が聖書になく、メシアと呼ばれていないからというだけで主イエスを批判し、断罪し、抵抗し、ついには十字架にかけるに至り、神による懲罰と呪いを受け、イスラエルは滅亡しました。これは非常に考えさせられる教訓です!宗教界の多くの人がこう主張します。神の働きと言葉はすべて聖書にあり、それ以外にはありえないと。誤った考えにしがみつき、全能神の働きと言葉を否定し、断罪し、全能神の言葉を真理と認めながら、調べようとしない人もいます。それにより、災難の前に主を迎える機会を逃し、災難に陥るという悲しい結果を迎えています。「神の働きと言葉はすべて聖書にあり、それ以外にはありえない」この考えのせいで多くの人が主を迎える機会を逃し、甚大な被害を被っています。ではこの考えのどこが問題なのでしょうか。私の個人的な認識をお話ししますが、
でもその前に、聖書の由来を明らかにしましょう。聖書には、旧約聖書と新約聖書の2つがあります。ヤーウェを信じるユダヤ教は旧約聖書を用い、主イエスを信じるクリスチャンは新約聖書です。旧約聖書も新約聖書も、神がその働きを終えた数百年後に人の手で編纂されました。聖書は天から降ってきたものではなく、神が自ら書き著し、人に与えたものでもありません。当時の宗教指導者たちが協力してまとめたものです。そこに聖霊の啓きと導きがあるのは確かで、疑いの余地はありません。聖書は人によって編纂されたため、旧約聖書に新約聖書の内容が含まれることはありえず、新約聖書が終わりの日の神の働きを含むこともあり得ません。人には予知能力がないからです。聖書に収められた聖句や書は選び抜かれており、預言者や弟子が書き残したものがすべて含まれたわけではなく、削除または割愛されたものも多くあります。しかしそれは問題ではありません。人が編纂したものなので、選別や削除、割愛されるのは普通のことです。ここでの過ちは、神の働きと言葉はすべて聖書にあり、その時代の神の言動がすべて記録されていると言い張ることです。では、何が問題なのでしょう?預言者の書の中には旧約聖書にないものもあります。私たちが知るいくつかの書、エノク書やエズラ書などは聖書に含まれていません。ですから新約聖書に含まれていない使徒の書も必ずあるはずです。主イエスは3年も教えを宣べ、多くの言葉を発したはずなのに聖書にはわずかしか記録がありません。使徒ヨハネはこう言っています。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」(ヨハネによる福音書 21:25)。聖書には、神の働きと言葉の一部しか記録されていないのです!なので、確信をもってこう言えます。旧約聖書も新約聖書も、各時代の神の働きと言葉を、ひとつも残さず記録したものではないと。これはすべての人が認める事実です。宗教界の多くの人が、聖書を理解せず、まとめられた経緯も知らず、神の働きと言葉はすべて聖書にあると信じています。そして聖書以外のものを否定し断罪するのです。これは歴史的事実と一致しますか?神の働きを批判しているのでは?神への抵抗では?聖書は後から人の手によって編纂されたもの。人が神の働きの次の段階をあらかじめ聖書に織り込めるでしょうか?それは不可能です。人に予知能力はありません。旧約聖書の編纂者は、主イエスの時代には生きておらず、主イエスの働きは経験していません。そんな彼らが主イエスの働きや言葉、そして使徒の書をあらかじめ旧約聖書に入れられるでしょうか?旧約聖書を編纂した人が、2000年後の終わりの日の神の働きと言葉をあらかじめ聖書に織り込めるでしょうか?宗教界全体が全能神の働きと言葉を目にしました。全能神の言葉について調べ、すべて真理で、権威があると認める人もいますが、聖書には全能神の言葉もその名も書かれておらず、聖書にないので、全能神が神の顕現だということを否定しています。これは主イエスに抵抗し、主イエスを断罪したパリサイ人と同じ過ちではないでしょうか?パリサイ人は、主イエスの名がメシヤでなく、その働きや言葉が聖書と一致しないので、メシヤではないと考えました。現在の宗教界の人々は、全能神の名前が聖書で預言されておらず、そこに記されてもいないので、全能神の働きと言葉を否定し、断罪し、神を再び十字架にかけるという罪を犯しています。終わりの日の神の働きと言葉は聖書に記載されていませんが、終わりの日の神の新たな名前については、イザヤ書などに預言されています。「もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたはヤーウェの口が定められる新しい名をもってとなえられる」(イザヤ書 62:2)。黙示録にはこうあります。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう」(ヨハネの黙示録 3:12)。「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者……が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』」(ヨハネの黙示録 1:8)。「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる」(ヨハネの黙示録 19:6)。また聖書では、神が終わりの日にさらなる言葉を発し、働きを行うとも預言されています。主イエスのこの預言のとおりです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。黙示録ではこのような警告が7度現れます。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2章、3章)。さらに黙示録では、神が終わりの日に巻物を開くと預言されています。このように、神は終わりの日に諸教会に語り掛け、人をすべての真理に導くと預言されています。この終わりの日の神の働きと言葉をあらかじめ聖書に記すことは可能でしょうか?不可能です!多くの預言と、明らかな事実があるのに、なぜこれほど多くの人が節穴のような目をもち、神の働きと言葉はすべて聖書にあり、それ以外にはないと決めつけ主張するのでしょうか?明らかに、神が現れ働きをしている今、神を批判し抵抗している人々は神の働きはおろか、真理を全く理解していません。神に断罪され、淘汰され、すでに災難に陥っています。この聖句のとおりです。「愚かな者は知恵がなくて死ぬ」(箴言 10:21)。「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」(ホセア書 4:6)。
全能神の言葉を見てみましょう。全能神は言われます。「聖書に記録されていることは限られており、神の働き全体を表わすことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちの前に現われたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。しかし、人々はそれらと現在の働きとを比べることさえして、それらを宝として大切にする。そのような人は、神にはこの程度のことしかできず、それ以上は無理だとでも言うように、イエスが生涯に行なった働きはその程度にしかならないとさえ信じている。それは馬鹿げたことではないか」(『神の出現と働き』「受肉の奥義(1)」〔『言葉』第1巻〕)。
「結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を踏まえ、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を遵守していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ。彼は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか」(『神の出現と働き』「聖書について(1)」〔『言葉』第1巻〕)。
「聖書の実情を知る人はいない。つまり、聖書が神の働きに関する歴史的記録、神による以前の二段階の働きについての証しに過ぎないこと、また聖書は神の働きの目的について何も教えていないことを、誰も知らないのである。聖書を読んだことがある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代における二段階の神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と、創造から律法の時代の終わりに至るヤーウェの働きを記録している。また新約では、地上におけるイエスの働きが四福音書に記されており、それとともにパウロの働きも記録されている。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、いかに真実かつ現実であろうとも、やはり歴史である。そして、歴史は現在に当てはめることができない。神は歴史を振り返らないからである。ゆえに、聖書を理解するだけで、神が今日行なおうとしている働きについて何も理解しないのなら、また、神を信じていながら聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めることが何を意味しているのかわかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし今日、あなたは神を信じていのちを追い求めているのだから、また神の認識を追い求め、死んだ文字や教義、あるいは歴史の理解を追い求めているのではないのだから、今日の神の旨を求め、聖霊の働きの方向を探さなければならない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいだろう。しかし、あなたは考古学者ではなく、神を信じる者の一人なのだから、今日の神の旨を探し求めるのが最善である」(『神の出現と働き』「聖書について(4)」〔『言葉』第1巻〕)。
「律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たければ、旧約聖書を読まなければならない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約聖書を読まなければならない。しかし、終わりの日の働きはどうすればわかるのか。それには今日の神の導きを受け入れ、今日の働きに入らなければならない。なぜなら、それが新たな働きであり、過去に誰も聖書に記録していないからである。今日、神は肉となり、中国で別の選民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、地上における働きから、また恵みの時代の働きから継続して働きを行なう。今日の働きは人間がかつて歩んだことのない道であり、誰も見たことのないものである。それはかつて行なわれたことがない働きであり、地上における神の最新の働きである。したがって、かつて行なわれたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は、神が地上で、そしてイスラエルの外で、より偉大で新しい働きを行なってきたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超えたこと、それが預言を超えた驚異的な新しい働きであり、イスラエルの外で行なわれる新たな働きであり、人々には認識することも想像することもできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が含まれ得るだろう。今日の働きを細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することが誰にできよう。一切の慣習を拒む、より大きく賢いこの働きを、あのカビ臭い古い本に誰が記録できようか。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければならない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。……より高い道があるのに、なぜ低く時代遅れな道を学ぶのか。より新しい発言、より新しい働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな発言はあなたに施すことができる。そのことは、それが新しい働きであることを証明している。古い記録は十分な満足を与えることも、現在の必要を満たすこともできない。そのことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを証明している。最も高い道は最も新しい働きである。そして新しい働きがあれば、過去の道がいかに高くとも、それは単に、人々が回顧している歴史に過ぎず、参考としての価値がどれほどであっても、依然として古い道である。たとえそれが『聖なる書』に記されていても、古い道は歴史である。たとえ『聖なる書』に記録されていなくても、新たな道が今現在のものである。この道はあなたを救い、あなたを変える。それが聖霊の働きだからである」(『神の出現と働き』「聖書について(1)」〔『言葉』第1巻〕)。
「ここでわたしが説明しようと思う事実は、以下の通りである。神が所有するものと神そのものは永遠に無尽蔵であり、無限である。神は生命と万物の源であり、どの被造物にも推し量ることはできない。最後に、すべての人に引き続き思い出させなければならないことがある。すなわち、神を二度と書籍や言葉、あるいは過去の発言に制限してはならない、ということである。神の働きの特徴を表わす単語は一つしかない。つまり『新しい』である。神は旧来の道を辿ったり、働きを繰り返したりするのを好まない。さらに、人間が神を一定の範囲に制限し、その上で礼拝することを、神は望まない。これが神の性質である」(『神の出現と働き』「あとがき」〔『言葉』第1巻〕)。
全能神の言葉はとても明快だと思いませんか?聖書とは律法と恵みの両時代における、神の2段階の働きを記録した歴史書に過ぎず、神の働きと言葉をすべて表したものではありません。神は創造主であり、人間のいのちの源です。数千年にわたって言葉を発し、働き、絶えず人に糧を与え続け、人の発展を導きます。神の言葉は湧き出る泉のように流れ続けています。神の働きと言葉は誰にも何にも制約されず、ましてや聖書の制約など受けず、経営計画と人類の需要に応じてさらなる言葉を発し新しい働きを行います。律法の時代、ヤーウェ神が地上の人類の生活を導くために律法を発した時、聖書などありませんでした。恵みの時代、主イエスが悔い改める道を説き、贖いの働きをしたことは旧約聖書に書かれていませんでした。終わりの日、全能神が来て、神の家から始まる裁きの働きをしています。7つの封印と巻物を開き、人類を完全に清め救うためにすべての真理を表し、恵みの時代の贖いの働きをもとに、より高い次元の新たな働きをしています。この新しく、より実際的な働きがすでに聖書に記載されているなどありえません。ここからわかるのは、神の働きは常に新しく、決して廃れず、常に前進し、決して重複せず、その新たな働きは聖書を超えて、人に新たな道と、より高い次元の真理を与えます。ですから、信仰の根拠を聖書に求めることはできず、神の働きと言葉は聖書にしかないとも言えません。聖霊の働きを求め、神の働きに歩調を合わせなければ、神の現在の言葉による糧と牧養は受けられません。黙示録のとおりです。「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」(ヨハネの黙示録 14:4)。彼らは子羊の婚宴に出席できる賢い乙女であり、終わりの日に神の救いを得ます。
全能神は、30年にわたり終わりの日の裁きの働きを行い、数百万の言葉を表しています。その言葉は豊かで、欠けているものはなく、聖書の奥義とともに、6千年にわたる神の経営計画の奥義をすべて明らかにしています。その内容は、人を経営する神の狙い、サタンによる人の堕落神が人をサタンの勢力から一歩ずつ救う方法、試練と精錬を通して人を清め聖くする方法、終わりの日の裁きの働きの意義、受肉の奥義、神の名の奥義、聖書の内幕、全人類の行く末、人類の終着点、そしてキリストの国がどのように地上で実現されるかなどです。全能神はまた、人の堕落と神に抵抗するサタン的本質の真相を裁いて暴き、罪を逃れ神によって完全に救われる方法を示します。例えば、真に悔い改める方法、肉に背き、真理を実践し、誠実な人になる方法、神の旨を行う方法、神を畏れ悪を避ける方法、神を知り、神に服従し、神を愛する方法などです。全能神の御言葉は、律法と恵み両時代の神の言葉よりも多く、より高い次元にあり、そのすべてが、神の救いを得るために人が備えるべき真理です。驚きにあふれ、心を満たし、すべてにおいて実践の道を示してくれます。信仰におけるどんな疑問や悩みも全能神の言葉を読めばその答えと解決策が見つかります。全能神による「言葉は肉において現れる」は神の国の時代の聖書であり、終わりの日に神が人に与えた永遠のいのちの道です。全能神の言葉を飲み食いし、実践し、御言葉による裁きと刑罰をうけ、いくらかの真理を理解することで、神の選民は神に対する真の理解を得て、その堕落した性質が様々な程度で清められ、変化し、罪の束縛を逃れ、サタンに打ち勝った証しをします。彼らは災害の前に神が完成させた勝利者なのです。全能神の名と働きと言葉は、聖書には記録されていませんが、全能神の働きと言葉によって実現された果実と真の成果は、聖書の預言を完全に満たしています。神の選民による証しを収めた動画や映画がオンライン上で公開されており、全能神の出現と働きを世界に証ししています。全能神の言葉は、明るい光のごとく、東から西へと、全世界を照らします。真理を愛する世界各国のますます多くの人が真の道を調べ、全能神に立ち返っています。その勢いは激しさを増し、留まることをしりません。全能神の言葉のとおりです。「いつか全宇宙が神に立ち返るとき、全宇宙における神の働きの中心は神の発する言葉に従うだろう。他の場所では、ある人は電話で、ある人は飛行機に乗って、ある人は船で海を渡って、またある人はレーザーを使って、神の発する言葉を受け取るだろう。誰もがあこがれ、渇望し、みな神に近づき、神の前に集い、そして神を礼拝する。そのすべてが神の業なのである。覚えておきなさい。神がどこか別の場所で新しく始めることは決してない。神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人を自身の前に出させ、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなる。それはヨセフのようだ。誰もが食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼が食べ物を持っていたからである。飢饉を避けるために、人々は真の道を求めることを余儀なくされる。宗教界全体が深刻な飢餓に苦しみ、今日の神のみが、人が享受するために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼る。その時、神の業が明らかにされ、神は栄光を得る。宇宙の至るところにいるすべての人が、この目立つ訳でもない『人間』を礼拝する。これは神の栄光の日ではないだろうか。……神の国全体が喜ぶ時は、神の栄光の日であり、あなたがたのもとに来て神のよき知らせを受け取る者はみな、神によって祝福され、そうした国々と民は神によって祝福され、神の気遣いを受ける。将来の方向性は次のようになる。神の口から発せられた言葉を得る者には、地上において歩むべき道があり、ビジネスマンや科学者であれ、あるいは教育者や実業家であれ、神の言葉のない人は、一歩進むことさえ難しく、彼らは真の道を求めることを余儀なくされる。『真理とともに世界中を歩む。真理がなければ、どこへも至ることができない』とはこのことを言うのである」(『神の出現と働き』「千年神の国が到来した」〔『言葉』第1巻〕)。神の国の時代は言葉の時代です。神は言葉を使って人を征服し、清め、救い、勝利者の一団を完成させました。これは神の言葉の権威と力を示しています。しかし聖書にしがみつく宗教界は、全能神の裁きと清めを受け入れようとせず、罪を犯しては告白し、また罪を犯すという悪循環にはまり、すでに神の働きによって淘汰され、災難の中で泣きわめき、歯ぎしりしています。雲に乗って現れた主に連れられ、天国で永遠のいのちを得る日を待ち続けていますが、都合のいい願いではありませんか?主イエスも言っています。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネによる福音書 5:39-40)。聖書にしがみつく人は真理もいのちも得られず、キリストを信じ、付き従い、服従する人だけが真理といのちを得ます。終わりの日のキリスト、全能神は、人を完全に救い清める真理を表しています。真理といのちを得たければ、聖書から離れ、神と歩調を合わせ、全能神の裁きと清めを受け入れ、従うことです。これが罪から逃れ神に完全に救われ、災難の中で神の加護を得て、神の国に入る唯一の道です。聖書にしがみついて、神の過去の働きと言葉だけを信じ、終わりの日に神が授ける真理の道を拒む人は、人を完全に救う神の働きを逃し、災難に陥り、懲罰を受けます。全能神の言葉のとおりです。「神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。
最後に、全能神の言葉の別の一節を見てみましょう。「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる哲学の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない」(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。
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