災の前の携挙とは何か。災の前に完全にされる勝利者とは何か。

2017年11月25日

関連する神の言葉

「引き上げられる」とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。「引き上げられる」とは、わたしの予定、そして選択を指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百四章」(『言葉』第1巻)

フィラデルフィアの教会が形を整えたが、これはひとえに神の恵みと憐れみによる。神への愛が無数の聖徒たちの心に生じ、聖徒たちは霊の旅路においてよろめくことがない。聖徒たちは、唯一の真の神が肉となり、その神はすべてを司る宇宙の頭であるという信仰を固守する。それは聖霊によって確証され、山のように揺るぎない! そしてそれが変わることはない!

(中略)

今日、あなたはあらゆる教会、フィラデルフィアの教会を完全なものとし、それにより六千年にわたる経営(救いの)計画を実現した。聖徒たちはあなたの前で謙虚に従うことができ、霊において互いに繋がり、愛の中で互いに伴い、泉の源に繋がっている。いのちの生ける水は絶え間なく流れ、教会の汚れた泥水をすべて洗い流し、あなたの神殿を再び清くする。わたしたちは実際の真なる神を知るに至り、神の言葉の中を歩み、自らの役割と本分をわきまえ、教会のために自分を費やすべく、あらゆることを行なってきた。あなたの旨がわたしたちの中で妨げられることのないように、わたしたちはあなたの前で静まるたび、聖霊の働きに留意しなければならない。聖徒たちのあいだには互いへの愛があり、力ある聖徒が他の聖徒の弱みを補う。聖霊による啓きと照らしを受け、聖徒たちは常に霊の中を歩くことができる。真理を理解するとすぐに実践し、新たな光に歩調を合わせ、神の足跡に従う。

(中略)

積極的に神に協力し、協調して奉仕を行ない一つになり、全能神の旨を満たし、急いで聖い霊の体となり、サタンを蹂躙し、サタンの運命を終わらせなさい。フィラデルフィアの教会は神の前に携挙され、神の栄光の中に現われる。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二章」(『言葉』第1巻)

神が来るとき、人は神の威厳と怒りを享受することになる。しかし、神の言葉がいかに厳格だとしても、神は人類を救い、完全にするために来る。被造物として、人は尽くすべき本分を尽くし、精錬のさなかに神の証しに立たねばならない。あらゆる試練において、人はなすべき証しを固く守り、神のために鳴り響くような証しを行なう必要がある。そうする人が勝利者である。神があなたをいかに精錬しようと、あなたは確信に満ちたままでいなければならず、神への確信を決して失ってはならない。人間が行なうべきことをしなさい。それが、神が人間に求めることであり、人の心はいかなるときも完全に神へと立ち返り、神のほうへ向かわねばならない。それが勝利者である。神が「勝利者」と呼ぶ者は、サタンの支配下に置かれ、サタンに包囲されたときでさえ、つまり闇の軍勢のただ中にいるときでさえ、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があろうと依然として神の前で純真な心を保ち、神に対する真の愛を維持できるのであれば、あなたは神の前で証しに立っており、それが神の言うところの「勝利者」になることである。

『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」(『言葉』第1巻)

終わりの日における神の働きと、神が今日あなたの中で行なっている、神の計画の働きとを受けることで、自分がいかに究極の称揚と救いを得てきたかを、神を信じる一人ひとりが正しく認識すべきである。神は人々のこの集団を、宇宙全体におよぶ神の働きの唯一の焦点に据えた。神はあなたがたのために、心血を残らず注いだのである。神は宇宙全体の霊の働きをことごとく取り戻し、あなたがたに与えてきた。だからわたしは、あなたがたは幸運な人たちだと言うのである。そのうえ、神はイスラエルから、すなわち自身の選民からあなたがたへと自らの栄光を移し、この集団を通じて自身の計画の目的が完全に現れるようにする。ゆえに、あなたがたが神の遺産を受け取る者である。それ以上に、あなたがたは神の栄光の相続人である。あなたがたはみな、この言葉を覚えているだろう。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」。あなたがたはみな、この言葉を以前耳にはしたが、その本当の意味は誰も理解していなかった。今日、あなたがたはこの言葉の真の意義を深く認識している。この言葉は、神によって終わりの日に実現され、また、赤い大きな竜がとぐろを巻く地で、その竜から熾烈な迫害を受けている人たちにおいて成就する。赤い大きな竜は神を迫害し、神の敵であるから、この地において、神を信じる者は辱めと迫害を受け、またその結果として、神の言葉があなたがた、つまりこの人々の集団において成就する。神の働きは、神に敵対する地で始まるので、その働きはことごとく熾烈な妨害にあい、神の言葉の多くが成就するまで時間がかかる。したがって、人々は神の言葉の結果として精錬されるのだが、それはまた苦難の一部でもある。赤い大きな竜の地で、神が自身の働きを成し遂げるのは非常に困難である。しかし、神はこの困難を通じて働きの一段階を行い、自身の知恵と不思議な業を明らかにし、これを機にこの人々の集団を完全にする。また、人々の苦しみ、人々の素質、そしてこの不浄の地にいる人々のあらゆるサタン的性質を通じて、神は清めと征服の働きを行うが、それは、このことを通じて栄光を勝ち取るため、自身の業を証しする人々を得るためである。これが、この集団のために神が払ったあらゆる犠牲の全体的な意義である。

『神の出現と働き』「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」(『言葉』第1巻)

神の国の時代において、人間は完全に全き者とされる。征服の働きの後、人間は精錬と患難を受ける。この患難の期間に勝利し、証に立つことができる者たちは、最終的に完全にされる者である。彼らは勝利者である。この患難の間、人間はこの精錬を受け入れる必要があり、その精錬は神の働きの最後の実例である。それは、神の経営の働きが全て完結する前に人間が精錬される最後の時である。そして神に従う者は皆、この最後の試練を受け入れなければならず、この最後の精錬を受け入れなければならない。患難に煩わされる者には、聖霊の働きと神の導きがないが、真に征服され、神を真に追い求める者たちは、最終的に揺るぎなく立つであろう。彼らは、人間性を備え、神を真に愛する者たちである。神がどのように働こうが、これらの勝利者はビジョンを失うことがなく、証しを怠ることなく、なおも真理を実践するであろう。彼らは大いなる患難から最終的に脱け出す者たちである。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉は何を意味しているのか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順であったということを意味する。そのような人の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。

『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)

説教と交わりの参考箇所

神がお救いになる人は群ぐんに分かれて連れ戻されます。第一の群は中国本土からの人々で、第二の群は海外にいる人々です。海外の人々は今や神に立ち返り始めています。第三の群は、大災害が起きてから、災害の最中に正気に戻り神の御前に立ち返る人々です。災害の前に携挙されて神の御前に立ち返る人は大勢います。今や、大災害の前に人が携挙される働きは早くも終わりつつあります。「早くも終わりつつある」とは何を指しますか。なぜ私はそう言うのでしょうか。大災害が間もなく到来するからです。もし大災害が二年後に到来するならば、この二年間に神に立ち返る人々も、災害の前に携挙される群に属すと見なされます。この二年間に神に立ち返らない人々はどうかと言うと、他の人々が彼らに福音を広め、終わりの日の全能神の働きを証ししますが、彼らは「これは間違っている。私は自分で見ていないものなど信じない」ときっぱり否定します。他人が何と言おうと、彼らはやはり受け入れるのを拒むのです。神はこの人々を災害の真っ只中に置かれます。神は災害を用いて彼らを精錬して罰せられ、彼らが暗闇の中、災害の真ん中で泣いて歯ぎしりするようになさいます。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

「なぜあなたは全能神を信じるのですか。全能神を信じることの意義は何ですか」。これを理解することは非常に重要です。一部の人々はこう考えます。「私はもともと主イエスを信じていました。今、全能神教会の福音を伝える人たちから聖書の真理について非常に明瞭な証しを聞きました。特に、全能神の発言を聞きましたし、それらはすべて真理であり、私には神の御声だと聞き分けられます。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(ヨハネの黙示録2:7)という黙示録に書かれていることを正確に成就しています。全能神の発言をすべて聞いた後、私は一つのことを確認しました。主イエスが再臨しておられ、それは全能神であるということです」私たち全能神を信じる者は、主によって携挙される人々の群に属します。これは、聖書の中の主イエスの預言を正確に成就しました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書25:6)『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう』(ヨハネの黙示録3:20)「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである」(ヨハネの黙示録16:15)主の預言が成就したため、私たちは今や主と宴を共にしています。聖書では、主イエスはそれを「小羊の婚宴」と呼んでいます。「小羊の婚宴」とは何のことでしょうか。なぜ「小羊の婚宴」と呼ばれるのですか。「小羊」とはキリストであり、小羊の結婚は、キリストが人々の一群を完全にするために来られることを意味します。主はご自身の羊たち、主が予定された人々を災害の前に勝利者にされるのです。そのためこれは「宴にあずかる」と呼ばれます。「婚」とは獲得することであり、その後私たちは家族になるのです。したがって、この聖句の解釈の中には、キリストを花婿、教会を花嫁と称すものもあります。これが婚礼と呼ばれ、それは獲得することです。獲得と言えば、これは終わりの日の神の裁きと刑罰の働きに関連しています。それは神の家から始まる裁きの働きです。この働きを受けることは、まず神によって征服され、その後清められ、完全にされ、獲得され、完成することを意味します。神の家から始まる裁きの働きとはそのような働きです。人々が終わりの日の神の働きを受け、キリストと相容れるようになった後、神の家から始まる裁きの働きがこうして終わります。ひとたびそれが成し遂げられれば、完全にされた人々の群は、災害の前に作られた勝利者の群です。神の国において勝利者たちはどのような立場にありますか。彼らはキリストの国の柱です。災害の前に神によって作られたこの勝利者たちは、キリストの国の柱となるのです。それはとてつもない祝福だと思いませんか。とてつもない祝福です。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

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主の再来は信者が天国に直接引き上げられることを意味すると信じる。それは聖書に次のように書いてあるからである。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙4:17)。主イエスが再来したとあなたがたは証ししているが、それではなぜ今私たちは地上にいて携挙されていないのか。

回答: 主の再来に関しては、主イエスの預言に従うべきで、それが主を待つ妥当な方法だと思います。今の聖句は誰の言葉ですか?主ですか?人間の言葉ですか?「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、」とは誰が言ったのです?主イエスの御言葉で…

あなたは、主イエスが中国に再臨され、その働きをなされている、と証しをされていますが、これは主イエスが聖書の中で預言していますので、私は本当だと思います。「いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書 24:27)。でも私たちは、主が終わりの日に再臨され、私たちを天の国に連れて行ってくださるか、少なくとも、雲まで引き上げられて空中で神様に会えるものと思っています。パウロも聖書の中で言っています。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙 4:17)。しかしなぜ主は、聖書に記されているように来られないのですか? 終わりの日の全能神の裁きの働きは私たちが天国に連れて行かれることと何の関係があるのですか?

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神様の御国は地上にあるのか、天にあるのかわかりません。主イエスは何度も「天の王国は近づいた!」「天の王国は来る」と言われました。この「天の王国」とは天にある国のことで地上に有り得ないでしょう?

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