主イエスは私達のために十字架の上で亡くなったのだと思っていました。罪を贖い赦してくださったのだと。再び罪を犯しても、まだ清められていなくても、主に全ての罪を赦してもらい、信仰すれば良いのだと。主のために犠牲を払って奉仕し辛酸を舐め代価を払えば、天国に招かれると思っていました。それが主の約束であると。ただその信念に疑いを持つ兄弟姉妹もいるのです。主のために奉仕してもしばしば罪を犯して懺悔しますので、清められていません。主は聖なるものですから、汚れた人間は主に会うことはできません。お聞きしたいのは主のために犠牲を払ってきても、本当に天国に招かれるのですか? 本当にわからないのです。教えていただけますか。
回答:主が十字架の上で亡くなったとき私達を贖われたので、罪は全部赦されていると信者は考えています。私達はもう罪人ではないと信仰を通して義になり、最後まで耐えていれば、救われ主が戻られた時直に天国に招かれると信じていますが、それは真実ですか? 神様はその主張の根拠になる発言をされていますか? もしこれが真理にそぐわない見方だとしたらどうなります? 主を信じる者として何事も主の御言葉をもとに判断すべきで、特に主の再来をどう受け止めるかは何があろうと自分の思い込みや想像で判断してはいけません。さもないとどうなるか考えただけでも恐ろしいです。パリサイ人が救い主を待っていると言いながら主イエスを磔にしたのと同じで、どのような結果になることか主イエスが人類の贖いの働きを完了されたのは事実ですが、救いの働きは完了したのでしょうか? 主イエスの信者は誰でも天国へ招かれる資格があるのでしょうか? 答えは誰にもわかりません。神様は言われました「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記 11:45)。神様の言葉によると、天国に入る者は罪とは無縁で、清められており神様の御心に沿って従い、神様を愛し崇敬する者で、神様は聖なるもので天国に入る者は神様と共にいますから、清められないままでは天国へ入る資格はないでしょう? 罪が赦されたので天国へ招かれるという考えは神様の御心を完全に誤解していて、人間の想像と思い込みからきています。主イエスが私達の罪を赦してくださったのは本当です。でも主イエスは一言も罪を赦されたことで完全に清められ天国に入る資格があるとおっしゃっていないのは事実です。どうして誰もが罪を赦されたら天国に入ることができると信じているのでしょう? 何を証拠にそう主張できるのでしょう? 多くの人が聖書に書いてあるパウロや他の弟子達の言葉にそうあるからと言いますが、パウロや弟子達の言葉は主イエスの言葉を代弁できますか? 聖霊の言葉に取って代われますか? 聖書の中の人の言葉は神様の言葉ですか? 聖書から明確にわかることは神様に称えられた者は御言葉を聞いて御働きに従うことができ、神様の道を歩み、神様の約束を授かる権利がある者で、これは誰にも否定できない事実です。信仰することで罪は赦されているとしても清められていないので、まだ罪を犯し神様に逆らってしまいます。神様もはっきり言われました。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記 11:45)。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)。この言葉から罪を赦されても、天国に入れるわけではないという事がわかります。人には清めが必要で、天国に入る前に神様の御心を実行する者にならなければどうしようも無い事なのです。神様の御心を理解する事は思うほど簡単ではないですが、罪を赦されたからと言って清められてはいませんので、まず真理を知って神様に褒めていただければ天国に入る権利を得るでしょう。真理を愛さないどころか飽き飽きして憎みさえして報酬や称賛だけを目当てに神様の御心を考慮したり実行もしなければ、悪質な行為をしていることになりませんか? そのような者を主がお褒めになりますか? まるであの偽善的なパリサイ人のように罪は赦されていても天国には入れないのです。これは明白な事実です。
話しを続けましょう。主イエスは私達の罪を赦してくださいましたが、どのような「罪」を赦し、主の信者となって懺悔する罪とはどのようなものでしょう? 神様の法則や戒律や御言葉を犯すことがほとんどの罪です。神様の法則や戒律を犯した人間は神様の法律によって裁かれ罰せられます。主イエスが来て贖いの働きをされたのはそのためで、主イエスに祈り罪を告白して懺悔すれば赦してくださり、律法により責めたてられ罰せられることもなく罪人として扱われません。神様にお祈りお願いすれば、豊かなお恵みを受け真理を知ることができますので、これが恵みの時代によく語られた「救い」でしょう。救われても清められ天国に入れるわけではないので、全く別の話しなのです。主イエスは救われ罪を赦された者は天国に入るとは言われていません。御言葉を少し読んでみましょう。「当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった。救いとは、人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人がもう罪の中におらず、罪を赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないのである」(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン〔2〕」〔『言葉』第1巻〕)。「人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。……人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである」(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。全能神は言葉で明確に答えを示し、それを聴いた瞬間理解できます。主イエスは恵みの時代に贖いの働きだけをされて人類の罪を赦し、人は信仰によって義となり救われるのです。主イエスは罪を赦された者が天国に入れるとは言われていません。主イエスは私達の罪を赦しましたが、悪の本質は消えていません。傲慢でわがままでずるく悪質な堕落した性質はそのままで罪よりたちが悪いのです。消し去ることは非常に難しい神様に反抗する悪の本質と堕落した性質が消えてなくならないと何度でも罪を犯してしまい、律法に違反するよりもっと大きな罪を犯してしまいます。パリサイ人はなぜ主イエスを非難し逆らったのです? ましてや十字架に付けるなど? 悪の本質があるから、罪を犯し神様に逆らい裏切るという証拠です。
私達は罪を赦され何年も、主を信仰していても日常的に罪を犯してしまうことには抵抗できずにいます。名声と地位のためにうそをつき、騙しこじつけを言い責任を回避し、人に問題を押し付けて自然災害や人災を初め試練や苦難に陥ると神様を責めて裏切り、神様の働きが自分の思い通りでないと神様を拒み断罪し逆らうのです。神様の御名により信仰していても、人間を崇拝し従います。社会的地位があると、祭司長や律法学者やパリサイ人のように自分の出世にいとまがなく、まるで神であるかのように人から崇敬や称賛を受けたがるのです。神様への捧げ物を盗み自分の物にして、嫉妬を覚え自分勝手になり、肉欲と気の向くままに振る舞います。自分の旗を立て人を集め国を作ろうとするのは言われもない事実です。悪魔の本質や性質が消えないと何度罪が赦されても天国に入る権利は無く、罪を犯して神様に逆らうのは神様の敵であるサタンに属しているからであり、間違いなく神様に非難され罰せられるでしょう。聖書にも書かれています。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなおことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある」(ヘブル人への手紙 10:26-27)。全能神の言葉を少し読みましょう。「あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである」(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)。主イエスに罪を赦されても、悪魔の性質があるため罪を犯し続け、神様に逆らうのです。終わりの日に神様の裁きと清めを受ければ、罪から解放されて神様の御心に叶う者になり、天国に入る権利を得るでしょう。主イエスも言われています。「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネによる福音書 14:2-3)。主はお帰りになり私達の場所を用意され、またお見えになりますが、「迎える」とは終わりの日に私達が生まれ変わるという計画を指し、主が働きをされるために現われたら、私達を王座の前に連れて行き、神様の言葉で裁き清め完全な者にして災害の前に私達を勝利者にします。私達を清め完全な者にする過程がお迎えであり、終わりの日に裁きの働きをするため主が地上に現われ王座の前に私達を引き上げ一緒に住まれます。これは主が見えて私達を迎えるという預言を完全に成就しませんか? 大災害の後にキリストの御国が地に造られ大災害の精錬を生き残った者は天国に住む場所があるのです。
パウロのように主のために辛酸をなめ犠牲を払った弟子は天国に入る資格があると思う人はいるでしょう。パウロが言ったように「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)。パウロは主に奉仕し義の冠を授かったのだから、パウロのように奉仕をすれば義の冠を授かり天国に入れると思うでしょうが、本当にそうでしょうか? パウロの言葉は神様の言葉がもとになっていますか? 主イエスはパウロは報われて冠を授かったと言われましたか? 聖霊はパウロは天国に入ったと証しをしましたか? そのようなことは聖書に書いてありません。パウロの言葉を援護する証拠はありませんので、天国にどうやって入るかというパウロの言葉はあてになりません。永遠の命を得て天国に入ることについて主イエスがはっきりとおっしゃっています。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイによる福音書 7:21-23)。天国に入るためには罪から解放され清められ、神様の御心に従わなければなりません。情熱的に奉仕し犠牲を払っても罪を犯し神様に逆らい神様に従わないなら、悪人ですので、天国には入れません。パウロは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおしたので、天国に入り報われると言っていますが、主イエスの御言葉に矛盾していませんか? パウロの見方は主のために働く限り報われて天国に入れるということですが、ユダヤのパリサイ人は海を渡り福音を伝えながらも主イエスを非難して逆らっていました。天国に入れますか? 神様には従わず主の御名で説教し悪魔を追い払った者達でも天国に入る権利があるということになりますか? そのようなばかな話しはないでしょう? パリサイ人が何をやっても主イエスに褒めていただけなかったのはなぜですか? それは私利私欲のためだけに福音を伝え苦難に耐えていたからです。神様は義ですので、人の心の中はお見通しです。主イエスが働きをされた時に正体が曝露され、地位と生計を守るため主イエスを激しく非難し逆らったパリサイ人は主の敵でしたので、主を十字架に付けました。結局神様に呪われ罰っせられましたが、これはみなさんご存知ですね。
終わりの日に信仰する者はどうなりましたか? 多くはユダヤのパリサイ人のように主のために働いていますが、全ては祝福と報酬が目的で主の御言葉を実行したり主に従わないで冠と報酬を得ようとしています。働くのも犠牲も私利私欲のためなのです。自分を高め証明し地位と評判を我が物にしようとして派閥を作り、自分の国を作ります。長年働き苦難に耐えて来たため自分の経験をひけらかし、神聖ぶって神様に天国での地位を要求するのです。このような牧師や長老が神様に褒めていただけますか? 終わりの日の神様の裁きの働きを受け入れようとしないばかりか、地位と生計を守るため全能神を激しく非難し逆らい再び神様を十字架につけました。ずっと昔に神様を怒らせたのは事実ではないですか? まだわかりませんか? 主のために働き犠牲を払う者が天国に入れる訳ではないという証拠で信仰していても、神様を愛さないで従う気もなく御言葉と戒律に従うこともなく、祝福され天国に入ることだけを考えているのなら、神様を騙し利用していることになるのです。どれほど働き犠牲を払っても神様からは褒めていただけません。全能神のおっしゃる通りです。「表面的には、人々は神のために自分を費やして働くなど、常に忙しく動き回っているように見えたが、実際には、祝福を手にするため、あるいは王として君臨するため、次に講じるべき手段を心の隠れた奥底で計算していたのである。人の心は神を享受しつつ、神に対して計算していたと言うことができるだろう。このような状態の人類は、神の強烈なる嫌悪と憎悪にあう。神の性質は人間が神を騙したり利用したりすることを許さない」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、序論」〔『言葉』第1巻〕)。「あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神のために奔り回ることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。またあなたはこう言う。『とにかくわたしは神が義であると信じている。わたしは神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたのだ。――神は必ずわたしのことを覚えているはずだ』。神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう」(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行なってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。……もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である」(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)。神様の御言葉から神様は聖なる義なるもので、汚れて堕落した人間を天国に入れないことは明らかです。神様の義なる性質はそうさせません! 終わりの日の神様の裁きと清めを受け入れ、真理を知り堕落から解放し、神様のものになると救われて天国に入れます。これはまぎれもない事実です。
映画『夢からの目覚め』より引用
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