あなた方は主イエスが既に再臨され、全能神が主イエスであると証ししています。そして、多くの真理を表し、終わりの日の裁きの働きをしていると。それはあり得ないと思います。神様の御言葉と働きは全て聖書に記されているというのが定説です。神様の御言葉と働きは聖書の外には存在しません。神様の救いは完全に聖書の中にあり、聖書は神様を表すものだ。聖書に従う限り天国に入れるのです。私達の主への信仰は聖書が基本で、それから逸脱することは主を否定し裏切ることになります。違いますか?

2019年4月2日

回答:神様の御言葉と御働き全てが聖書に書かれていると言ったね。聖書には神様の救いが全て記されていて、神様の御言葉と御働きは聖書の外にはないと。宗教界全体もそう信じているようです。しかし、誰もこの観点の妥当性を確証できていないようです。私たちは過去に、全ての問題解決を聖書に頼ってきたでは聞こう。この考え方は聖書に従ったものか? 神様の御言葉に沿ったものか? 聖書の中で、主イエスはそのようなことは仰っていない。聖霊もだ。では、この考えはどこから来たのでしょうか。これはそう難しい質問ではない。宗教界のこの観点は完全に人の観念と想像が作り出した物であると言い切れるのです。なぜこう言うかといえば新約聖書と旧約聖書は神様の働きの2つの段階の記録にすぎない、律法の時代と恵みの時代の神様の御言葉と御働きが聖書に全て記されていると言い切れる者は? 律法の時代に預言者を通じて語られた御言葉全てと恵の時代の主イエスの御言葉が全て聖書に記録されるなどと言えますか? もうお気づきだとは思うが、律法の時代の預言者の書の多くも聖書には含まれていません。これはよく知られたことです。主イエスの御言葉の多くは聖書に記録されていない、聖書に記されている主イエスの御言葉は氷山の一角にすぎないのです。ヨハネによる福音書の一節を思い出した。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」(ヨハネによる福音書 21:25)。明らかに聖書は主イエスの御言葉と働きを全て記録してはいないと言っている。聖書はかなり限られた記録だということです。御言葉と働きが全て聖書に記されているとは言えないのではありませんか? 事実と明らかに矛盾していませんか? そういう意味では、あなた方が嘘つきであるということにはなりませんか? 主イエスは御自身が再臨されることを何度も預言された。再臨の主イエスの御言葉が前もって聖書に記録されるなどいうことがあり得ますか? 不可能なのだ。はっきりさせておくべきなのは聖書は、過去の神様の御働きの記録です。旧約聖書を記した後主イエスが現れ、罪の贖いの御働きを恵の時代に行われた。主イエスの御言葉は自動的に聖書に記されるのですか? それは無理だろう! 神様の御言葉と御働きは、聖書にしるされる前に編集されている必要がありました。終わりの日、全能神は来られ、裁きの御働きを、神の家から始められ、人々を清め救うための真理を表されました。これらの真理は自動的に聖書に出現するのでしょうか? できません。全能神教会は、全能神によって表された真理を『言葉は肉において現れる』という神の国の時代の聖書に記録するのです。この神の国の時代の聖書には神様の表現だけを記し、その中に人の言葉はありません。こうも言えるだろう。『言葉は肉において現れる』は、終わりの日に神様が人に与える永遠の命の道なのだ。神様の御言葉と働きが聖書に全て記されて、神様の御言葉と働きが聖書以外には現れないという観点は不合理であり、間違いであり、人の観念と想像の産物なのだ。

全能神の御言葉を数節読むとこの件について更によく見えてきます。全能神は言われます。「聖書に記録されていることは限られており、神の働き全体を表わすことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちの前に現われたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。しかし、人々はそれらと現在の働きとを比べることさえして、それらを宝として大切にする。そのような人は、神にはこの程度のことしかできないとでも言うように、イエスが生涯に行なった働きはその程度にしかならないとさえ信じている。それは馬鹿げたことではないか(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)

当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。……各時代の神の働きには明確な境界がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、神の各時代の代表的な働きは前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に捜し求めるのは誤った考えに基づく行為ではないだろうか。手に聖書を携えているだけでなにを見分けることができるのか。聖書の解釈者であれ説教者であれ、誰が今日の働きを予知することができようか(『神の出現と働き』「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」〔『言葉』第1巻〕)

律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たければ、旧約聖書を読まなければならない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約聖書を読まなければならない。しかし、終わりの日の働きはどうすればわかるのか。それには今日の神の導きを受け入れ、今日の働きに入らなければならない。なぜなら、それが新たな働きであり、過去に誰も聖書に記録していないからである。……今日の働きは人間がかつて歩んだことのない道であり、誰も見たことのないものである。それはかつて行なわれたことがない働きであり、地上における神の最新の働きである。……今日の働きを細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することが誰にできよう。一切の慣習を拒む、より大きく賢いこの働きを、あのカビ臭い古い本に誰が記録できようか。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければならない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる(『神の出現と働き』「聖書について〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)

あなたは聖書の教えによってのみ天国に入れるとおっしゃいます。では訊ねますが。そのような考え方の証明は聖書の中にあるのですか? このようなことを主イエスはおっしゃいましたか? 聖霊は? それでは、この考えはどこから来るのでしょう? この考え方には深刻な問題があります! 聖書は神ではなく人が編集しました。必然的に書き漏れや間違いが生じました。人は神の救いの働きと成就を受けておらず、真理を得なかったからです。人には神様によることと人によることの区別ができませんでした。彼らには特に人の経験に関する逸脱を知りませんでした。さらに人間には真理と見識をもたない自らの想像と思い込みで物事を選んでしまい、神様によることであっても、自分の考えに沿わないものを削除抹消してしまいました。そのように、人は更に間違いを犯しやすくなったのです。よって、聖書を編集する際、人は必然的に間違いを犯しました。もし私たちの信仰が聖書だけに基づくものであるならば、私たちは救済されて天国に入ることができるとは確信できないのではありませんか? 主イエスは聖書に基づいて行動するだけで、天国に入れるとは仰いませんでした。天国に入ることに関して主は単純にこう仰いました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである(マタイによる福音書 7:21)。主イエスははっきりと天の父の意思を行うものだけが天国に入ると言われた。聖書に基づいて行動することだけが天国に至るという人にお聞きしますが、聖書にのみ従うことは本当に天にいます父の意思を行うことと同じなのか? 聖書は聖霊の働きの代わりになり得るか? 聖霊の働きなしで聖書だけに従い行動して救済は得られるのか? 聖書を読み解くことのみで人の堕落した性質は浄化されるのか? 人の命の性質は変えられるのか? 聖書の知識を理解するだけで神様を知ることができるか? パリサイ人は聖書の知識をとてもよく理解していた。それなのになぜ主イエスを十字架に架けたのでしょう? 主イエスが現れた時なぜ神様は素晴らしい聖書の解釈者パリサイ人を呪ったのか? 聖書にしがみつくことは神様の声を認識することになるのでしょうか? 神様の玉座の御前に至るということになるのでしょうか? 子羊の婚礼の宴に参加したということになるのでしょうか? これらの質問に対する答えを持っているのか? 主イエスは「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない(ヨハネによる福音書 5:39-40)と仰いました。あなたは聖書を、主と、主の御言葉、そして主の再臨のお働きの代りだと思っている、それは主への裏切りではないか? 主のしもべなのかそれとも聖書のしもべなのか? 主に仕えているのか? それとも聖書に仕えているのか? 聖書と主との関係すら理解できないならどうやって神様を理解するというのでしょうか? 主イエスははっきりと聖書を盲信しあがめて、永遠の命が聖書から得られると信じているが、主に従いあがめることはできていない。これはまさにパリサイ人が歩んだ道ではないか? パリサイ人は聖書を主の代わりにあがめなかったか? 彼らは主イエスを十字架につけ主から呪われませんでしたか? これは否定する余地のない事実です。それなのに聖書だけに従えば天国へ入れるというのは不合理では? 長年主を信仰してきて、長老や牧師として仕えてきたのにも関わらず、まだそのような考え方をするのか。偽善者のパリサイ人どもとどこが違うのだ? 何年も主を信じてきて、まだ問題の本質に気づかない? 長年の信仰でもう主の御心を理解しているはずです。主は終わりの日に全ての聖徒を天国に連れて行くために再来された。どのように聖徒を天国に連れ行くのかはわからない。しかし主イエスは言われた。花婿の声を聞きし賢いおとめは主の婚宴に行くがよい。これらのことが示すのは、終わりの日に主が再来されるときに、神様の御声を聴き神様と共に行ったものが天国に連れていかれるということだ。主の御声を聞きしものは最も幸いである。そらで聖書を読むことは主の御声を聞き分けられるということでしょうか? そらで聖書を読むことは主の御声を知っていることになるか? パリサイ人は聖書に精通し、聖書の一節を他の者のために解釈していた。なのに主イエスを十字架に架けた。どこで間違えたのでしょう? つまり真理を愛し神様の御声が聞こえる者のみ、主を歓迎し主から命を頂いたということですね。彼らだけが天国に連れていかれるのです。

映画『私の主は誰か』より引用

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

聖書はキリスト教の正典であり、信者の主への信仰は二千年の間、聖書に基づいてきました。さらに、聖書は主を表し、主への信仰は聖書への信仰と同じであり、聖書への信仰は主への信仰であり、もし聖書から外れれば、信者と呼ばれることはできないと宗教界のほとんどの人々は信じています。このように主を信じることが主の心に合致するのか知りたいです。

回答:聖書は神様や主を代弁する、多くの信者がそう信じているかもしれません。主を信じることはすなわち、聖書を信じることだと思っています。聖書をまるで神様であるかのように、崇め奉ってさえいます。神様を認めずして聖書を認める人すらいます。聖書を至高のものと位置づけるだけでなく、神様に取…

聖書の中で、パウロは「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた」(テモテへの第二の手紙 3:16)と言っています。ではどうして、聖書のすべての言葉が神の御言葉だというわけではないと、あなたがたはおっしゃるのですか。

関連する神の言葉 聖書にあることがみな、神が自ら語った言葉の記録というわけではない。聖書はただ、神の働きのうち以前の二段階を記載しているに過ぎない。その一部は預言者たちによる預言の記録で、別の一部は各時代で神に用いられた人々の経験と認識である。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ…

聖書はどのように生まれましたか。聖書とはいったい何ですか。

関連する神の言葉 神が律法の時代の働きを行なった後に旧約聖書は作られたのだが、人々が聖書を読み始めたのはそのときだった。イエスは到来後に恵みの時代の働きを行ない、彼の使徒たちが新約聖書を記した。このようにして旧約聖書と新約聖書は作られ、今日に至るまで、神を信じるすべての人が聖書を…

コメントを残す