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宗教において神を信じ、パリサイ人と反キリストの誤魔化しと支配に苦しむ人の帰結は何か。このように神を信じても神によって救われることができるのか

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参考聖書箇所

彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう。」(マタイによる福音書 15:14)

この民を導く者は、これを迷わせ、彼らに導かれる者は、のみ尽される。」(イザヤ書 9:16)

わたしの民は知識がないために滅ぼされる。…彼らは大きくなるにしたがって、ますますわたしに罪を犯したゆえ、わたしは彼らの栄えを恥に変える。彼らはわが民の罪を食いものにし、その罪を犯すことをせつに願っている。それゆえ祭司も民と同じようになる。わたしはそのわざのために彼らを罰し、そのおこないのために彼らに報いる。」(ホセア書 4:6-9)

関連する神の言葉

人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

裁きを受けなかった人々は、人間の肉と考えしか表現せず、それらは人間的知力と生まれながらの才能がかなり混じりあっており、人が神の働きを正確に表現したものではない。彼らに従う人々は、生まれながらの力量によって彼らの前に連れてこられる。彼らは人の見識や経験をあまりにも出しすぎ、しかもそれらはほとんど神の本来の意味とは切り離されており、あまりにも逸脱しているので、この種の人の働きでは人々を神の前に連れてくることはできず、自分たちの前に連れてきてしまう。そこで、裁きや罰を受けなかった人々は神の働きを実行する資格はない。資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理にさらに深く入ることを許す。彼の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、彼の行う働きは個々の人によって変わることができ、規則にとらわれず、人々に解放と自由を認める。さらに、人々は徐々にそのいのちにおいて成長し、真理に向けて深く着実に進むことができる。資格のない働き手の働きははるかに不十分で、ばかげている。彼は人々を規則にはめ込むだけで、人々に要求することは個々の人によって変化しない。彼の働きは人々の実際のニーズに従っていない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人々をいのちにおける現実や正常な成長の実践に至らせることができない。人々はわずかな価値のない規則を守ることができるようになるだけであり、この種の指導は人々を迷わせるだけである。彼はあなたを自分に似たものになるよう導く。あなたを彼が持っているものや彼そのものの中に引き込むことができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

教会には識見の無い者が多数居て、何かしら偽りの出来事があると、そうした者はサタンに味方をする。こうした者は、自分がサタンの僕と呼ばれると、不当な扱いを受けたと感じる。こうした者は全く識見が無いと言う者もいるが、こうした者は常に真理の無い側に味方する。重要な時期に、こうした者が真理の味方をしたことや、真理のために立ち上がって議論をしたことは一度も無いが、こうした者は本当に識見が無いのであろうか。こうした者が常にサタンの味方をするのは、何故だろうか。何故、こうした者は真理について正当な言葉も合理的な言葉も決して述べないのだろうか。こうした状況は、本当に一時的な混乱から生まれるのだろうか。ある者の識見が少なければ少ないほど、その者が真理の味方をする能力も低くなる。それは何を示すであろうか。それは、識見の無い者が邪悪を愛していることを示して居るのではなかろうか。それは、識見の無い者がサタンの忠実な子孫であることを示して居るのではなかろうか。こうした者が常にサタンの味方をし、サタンと同じ言葉を述べることが出来るのは何故だろうか。こうした者のあらゆる行動、言動、表現は、こうした者が決して真理を愛する者ではなく、むしろ真理を忌み嫌う者であることを十分に示している。こうした者がサタンの味方をすることが出来ることは、こうしたサタンのために一生涯を通して戦う小悪魔をサタンが真に愛していることを十分に示している。こうした事実は、全て十分に明白ではなかろうか。あなたが本当に真理を愛する者であるならば、真理を実践する者を全く認めることが出来ず、真理を実践しない者が僅かに表情を変えた時、その者に直ちに従うのは、何故だろうか。これはどのような問題であろうか。わたしは、あなたに識見があるかどうかや、あなたがどれほど甚大な代償を払ったか、あなたの勢力がどれほど強いか、あなたが地域の卑劣なへびであるか、旗を掲げる主導者であるかを問題とはしない。あなたの勢力が強いのであれば、それは単にサタンの支援を得ているということであり、あなたが高位にあるのであれば、それは単にあなたの周囲に真理を実践しない者が多すぎるということであり、あなたがまだ排除されていないのであれば、それは今が追放の業の時ではなく、むしろ排除の業の時期だからである。今あなたを追放する喫緊性は無い。わたしは、単にあなたが排除された後の罰を与える日の到来を待つのみである。真理を実践しない者は、全て排除されるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、聖書を背景から切り離し、自分自身の想像によって解釈します。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らが何も説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはりいくらか知識があるにはあるので、何らかの教義を説くことができたり、人を味方に引き入れたり策略を用いたりする方法を知っていします。彼らは人々を自分たちの前に連れてきて騙すためにそれらを利用します。名目上、人々は神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、「私たちの信仰について、指導者に相談しなければならない」と言う人がいます。彼らの信仰は人間を通さなければならないのです。これは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか。…

神への信仰において、かつて他人に従っていたか、あるいは神の心を満足させなかったかにかかわらず、終わりの日の働きにおけるこの段階のあいだに、人は最終的には神の前へ赴かなければなりません。働きのこの段階を経たという基礎がありながら、それでも他人に従い続けるなら、あなたは赦されることは決してなく、しまいにはパウロのようになります。

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求だけが神への真の信仰である」より

教会に、地域の下劣なへびのような者と、そのへびに従う、分別の無い小ばえのような者が居て、教会に居る者が、真理を理解してなお、そうしたへびのような者の呪縛と操作を駆逐できなかった場合、そうした愚か者は最終的に排除されるであろう。そうした小ばえのような者は、何ら劣悪な事をしていないかもしれないが、ことさら狡猾でずる賢く、そうした者も全て排除されるであろう。そうした者はひとり残らず消し去られるのだ。サタンに属す者はサタンへと戻されるが、神に従う者は間違い無く真理を探し求めるであろう。これは、そうした者の本性により決められる。サタンに従う者を全て滅ぼすことである。こうした者は決して憐れまれることが無いであろう。真理を探し求める者に糧を得させ、心ゆくまで神の言葉を堪能させることである。神は義であり、人間を不公平に扱うことは無い。あなたは、自分が悪魔であれば、真理を実践出来ないであろう。あなたが真理を探し求める者であれば、あなたがサタンの虜にならないことは確実であり、それについて全く疑う余地は無い。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

見識の無い者は、賢明さに劣っているがために、邪悪な者の手により滅ぼされ、惑わされて、戻ることが出来ない。こうした者を、そのように扱う必要があるのは、こうした者が真理を愛さず、真理の味方になることが出来ず、邪悪な者に付き従い、邪悪な者の味方となり、結託して神に反抗するからである。こうした人々は、邪悪な人々が邪悪さを放っていることを完全に知っているが、決心を固めてそうした邪悪な者に付き従い、真理と反対方向へと進む。こうした、真理を実行せず、しかし破壊的で忌まわしい行動を行う人々は、すべて邪悪ではなかろうか。そうした者の中には、自らを「王」のように装う者と、それに追随する者が居るが、両者の神に反逆する性質は全く同じではなかろうか。こうした者は、神は自分達を救わないと言うが、どうして弁解できようか。また、こうした者は、神は義ではないと言うが、どうして弁解できようか。こうした者を滅ぼすのは、自らの邪悪ではなかろうか。こうした者を地獄へ落とすのは、自らの反逆心ではなかろうか。真理を実践する者は、最終的に救われ、真理により完全にされるであろう。真理を実践しない者は、最終的に真理により滅びを得る。これらが、真理を実践するものと、実践しない者を待ち受ける最後である。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

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