質問2.もう何年も主を信じてきましたが、謙虚に、人に寛容で、兄弟姉妹を愛し、主のために奉仕して働いてパウロの例に従う限り、主に服従していることになり、主が戻られたときに天の国に引き上げられると誰もが思っています。パウロは言った「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)しかし、主を信じるには終わりの日における全能神の裁きを受けなければならず、清められてはじめて、神の賞賛を得て天国へと入ることができると証されました。疑問です、これまで何年も主を信仰してきた私たちでも、終わりの日における全能神の裁きの働きを受けずには、天国へ行けないのでしょうか?

2019年4月2日

解答: 多くの信者が、パウロのように働くことは主の道に従うのと同じで、主が戻られたときに、天の国へ入る資格を得るのだと考えています。多くの人にとって、これが観念になっているのです。しかし、これは主の御言葉に基づいたものですか?こうした信仰で主がお喜びになるでしょうか?パウロのように主のために働けば、本当に主の道を歩んでいることになるのでしょうか?天国へ行く資格があるでしょうか?主イエスはこのようにおっしゃっています。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:21-23)神の御心に従う者だけが天国に入れる、主イエスはそうはっきりとおっしゃっています。主のために、犠牲を捧げ仕え働く者が天国に入るとは言われませんでした。主の名によって説教したり、悪魔を追い出したり、奇跡を行う者の多くは、みなよく働く者たちです。彼らは主に称賛されるどころか、不法を働く者と見なされるのです。パウロは「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)この言葉は主イエスの言葉に矛盾し、主の御心とは相容れない、天国へ入る確実な方法はたった1つだけ、それだけです。主イエスが聖書の中ではっきりとおっしゃっています。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)「主と共に食事をすること」これは終わりの日の神の裁きを受けるという意味です。神の裁きと刑罰を受けることによって真理を全て理解し、清められ完全にされるのです、主と食事を共にする効果です。つまり、そうすることによってのみ間違いなく天国へ入ることができると確信が持てるのです。

 主イエスキリストのみが真理であり、道であり、命であることは皆さんがご存じのとおりです。なので天国に入るには最終的には主イエスの言葉に基づいた方法になるのです。パウロは福音を伝えるただの使徒でした、主を代弁することはできません。主イエスはそのようには証されなかったので、パウロが歩んでいた道は必ずしも正しい天国への道ではありません。そればかりか「パウロの例に倣うように」など主は一言もおっしゃっていません。もし私たちがパウロの言葉のみに従って天国への道を選ぶのなら、すぐに迷いはぐれるでしょう。「ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである」この聖句は、主の言葉を信じよと言っています、天国に行く唯一の方法は神の御心に従うことです。神の家から始まる裁きの働きをするため、主イエスが終わりの日にお戻りになったとき、私たちが神の声を聞き、終わりの日の神の働きを受け、裁きと刑罰を受けて清められ、完全にされれば神の御心に従い、天の国に入る資格を持てる者になるでしょう。これは絶対に確かなことなのです。主の名によって説教したり、悪魔を追い出したり、奇跡を行う熱意のみに頼る者は、主の御言葉を実行することには注意を払わず、神の現在の働きを受けようともしません。彼らが主を知っていると言えますか?神の御心に従っていると思いますか?なぜ主イエスはこう言ったのでしょう。「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。」(マタイによる福音書 7:23)ここはとても考えさせられる箇所です。皆さんご存じのように、ユダヤ教のパリサイ人はその当時陸や海を旅し、多くの苦難に耐え、大きな代償を払いながらも福音を宣べ伝えました。見た目では彼らは神に忠実に見えたでしょう。でも実際には、彼らは神の言葉を実行する代わりに宗教的儀式に従事し規則に従う事を重視していました、神の戒めに従わなかったのです。それどころか、神の戒めを廃止してしまいました。彼らは完全に神の御心に矛盾し、神の道から外れてしまったのです。だから主イエスは彼らを非難し呪ったのです。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」(マタイによる福音書 23:15)つまり私たちは思い込んでいるのです。「主のために懸命に働きさえすれば、主が来られたときに天国へ連れて行かれるであろう」と、この見解は純粋に主の言葉にそぐわない、人間の観念と想像に過ぎません。私たちが救いを求め、天国に入りたいと思うのは正しいことですが、最終的には主の御言葉に基づいて行わなければなりません。主の言葉を無視し、パウロの言葉に則り、その方法に従事するとなれば、主の称賛を得ることなど絶対にないでしょう。

 実は、終わりの日の全能神の働きを受ける前には、主の御名を守り奉仕し説教し働くことで、主の御言葉を実践し、主の道に従っていると思っていました。主が来たときには天の国へ連れて行かれると、誰もがそのような観念を持ち想像していました。そして、しばらくして終わりの日の全能神の働きを受け、その言葉を知りました、読みましょう。「働きと言うと、それは神のために奔走し、随所で説教を行い、神のために心血を注ぐことだと人間は考える。その考えは正しいものの、偏りすぎている。神が人間に求めているのは、神のために奔走することだけではない。むしろ霊の中において務め、与えることである。……働きとは、神のために奔走することを指すものではなく、人間のいのちと人間が生きながら示すことが神を楽しませることであるかどうかを指す。働きとは、人間がもつ神への信心、人間がもつ神に関する認識を用いて神の証しに立ち、人間を牧することを指す。これが人間の責任であり、全ての人間が気付くべきことである。換言すると、あなたがたがいのちに入ることが、あなたがたの働きである。あなたがたは神のための働きの過程においていのちに入ることを求めているのである。神を経験することとは、神の言葉を食べ飲み出来ることだけでなく、それよりも重要なこととして、神の証しに立ち、神に仕え、人間を牧し、人間に供給することが出来なければならない。これが働きであり、いのちに入ることでもある。これは、あらゆる者が実現すべきことである。神のために奔走して回り、方々で説教をすることだけに重点を置く一方で、自分の経験を軽視し、自分の霊的生活に入ることを無視する者が多数いる。神に仕える者が神に反抗するようになるのは、これが原因である。」(『神の出現と働き』「働きと入ること(2)」〔『言葉』第1巻〕)全能神の御言葉を読むことで神が私たち人間に、神のために苦しみ労力とお金を費やすことだけを求めているのではないことがわかりました。どちらかといえば、神の御言葉を実行し体験すること、働き、説教する時には神の言葉に関する認識を話すこと、御言葉の実際へと兄弟姉妹を導くこと、これらこそ神の御心を喜びで満たす働きです。長い信仰の歩みを振り返り、 嵐や雨の中でさえ、主の御名によってどこへでも行き説教に務め、若干の苦難に耐え、それなりの代価も払いましたが、主の御言葉を実行し経験することに注意を払わず、私はそれについて証しすることもできませんでした。聖書の意味のない言葉や教義をならべて、宗教儀式と規則を守るように教えていただけです。そんなことで、兄弟姉妹たちを神様の御言葉が持つ真理に導くことなどできるはずがありません。それだけでなく、説教する時は人の尊敬を気にし、主のお求めになることに反して、自分の思うままに行動したこともありました。主のために何かを犠牲にし、苦難に耐え代償を払うことによって、私こそが主を最も愛する者であり、主に最も忠実な者だと思っていました。私は神からの天国の祝福を要求し、とんでもない恥知らずでした。自分よりも消極的で弱い兄弟姉妹たちを軽蔑して、高慢に振舞っていました。主のために働くという熱意だけに寄りかかり、主の御言葉を実行し体験することには疎かにしていたので、何年も主を信じてきたにもかかわらず、主への認識や畏れはかけらもありませんでした、性質の変化など言うに及ばずでしょう。私は何年も主を信仰し、 相当な苦労にも耐えて来たので、ますます傲慢になり誰に対しても、背を向けていました、ごまかして欺こうとし、あらゆる面でサタンの性質を示していました。実際に私の働き方は、主の御言葉を実行し主に従う、それとは違うものでした、それでは主の理解に繋がるはずがありません。私のように真理どころか主の理解もない者が、何をしても主を辱め、拒んでいたのではないか?そんなことでは主を褒めたたえ、証しするなどできない。全能神の働きを経験してわかったのは、どれだけ長く主を信じていようが、どんなに苦労しようが、終わりの日の神の裁きと刑罰を受けなければ、神の御心に従う者、偽りなく神に従い崇める者にはなれないということです。これは確かなことです。

 では、宗教界の牧師や長老たちについて見てみましょう。主のためにすべてを捨て去り、働いているのですが、どんな事をしていますか?その本質は、一体どうでしょうか?長く主を信じてきたにもかかわらず、真理を求めたことは一度もなく、聖霊の働きを受けていない、いのちに入ることや信仰上に起こる問題を、どうやって解決するのか助言もしてくれません。彼らはよく聖書の無意味な教説を取り上げて話します、信者を惑わし自分たちがどれだけ主のために説教してきたか。いかに努力し、どれほど苦しみ、いくつ教会を建て上げたかなど機を逃さず証しをします。こうして人が自分に従い 崇拝するように仕向けます。その結果、何年も働いているのに兄弟姉妹たちが、真理を理解して神を知ることはなく、自分たちを崇拝させ従わせ知らないうちに、人間崇拝という神を裏切る道に足を踏み入れてしまうのです。では、そういう牧師や長老たちがそのような働きで、主の道に従っていると言えますか?主に対して悪事を行っていませんか?特に終わりの日における全能神の働きについては、多くの牧師や長老たちは全能神の御言葉が真理であり、その働きが聖霊の働きであることに気づいていながらもそれを学ぼうとせず、己の地位と生計を守るため、熱心に噂を流し、ありとあらゆる噓偽りを並べ立て全能神を非難します。全能神を拒み遠ざけ宗教界を閉ざしてしまうのです。彼らは真の道を求め学ぶことを誰にも許さず、神の働きを証しする人々を教会から追い出します。さらには邪悪な中国共産党と共謀し、全能神の証をする人たちを捕まえ迫害するんです。これは大胆にも神に対抗した行動ではないですか?神に反する彼らの罪は、主イエスに反したパリサイ人のそれよりも遥かに重いのです。この事実から、主の御名によって労力を費やすことが、神の御心に叶うことだなどとまだ言えますか?主の御名にしがみつき、主の道を守り、主のために労力を惜しまなければ、私たちには天国に召される資格があると言えますか?全能神の御言葉をもう少し読めば理解できるでしょう。

 全能神は言われる。「あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神の後を追いかけることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。とにかく神は義であると信じている、とあなたは言う。あなたは神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたが、神は確かにあなたのことを覚えている。神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。」(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)

「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを追い求めるべきである。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、自分の性質の変化を追い求める人であり、そして喜んで神を証しし、被造物の本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが神によって完全にされるのである。もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である。」(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)全能神の御言葉にはっきりと示されているように、神は聖なるもので義なのです。汚れて腐敗した者が神の国に入ることは、絶対に赦されません。

 

『私の天国の夢』の映画台本から

次へ: 私達は長年主を信仰してきました。私達は説教して主のために働き苦労も多いのですが、相も変わらず嘘をつき欺きだまそうとします。毎日自己弁護に追われているし、よく横柄になり我を通し見栄を張り、人に恩着せがましくしたりします。私達は罪を犯し懺悔を繰り、返し肉の束縛から逃れることができません。主の言葉を経験するとか実行することはありません。私達は主の言葉にある現実に生きていません。こんな私達が天の国に招かれますか? どんなに罪を犯し肉に束縛されても主は私達を罪のない者と見てくださると言う人もいます。パウロの言葉にそうあるからです。「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)。主が見えたとき瞬時に私達の姿を変え天の国に連れて行ってくださると思ってます。信仰があり救われていてもしょっちゅう罪を犯す者は天の国に入る資格はないと信じています。これは主イエスの言葉にあるからです。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)。「……わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記 11:45)。

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