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天と地と万物を創造した真の神は唯一なのか、三位あるのか

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参考聖書箇所

「ピリポはイエスに言った、『主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します』。イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。』」(ヨハネによる福音書 14:8-10)

わたしと父とは一つである。」(ヨハネによる福音書 10:30)

関連する神の言葉

万物を支配し、管理しているのは、神である。神は、存在するあらゆる物事を造り、管理し、また支配し、施す。これが神の地位であり、身分である。万物すなわち存在する全ての物事について、神の真の身分は創造主であり、支配者である。それが、神が所有する身分であり、神は万物にあって唯一の存在である。神の被造物のうちひとつとして、人間の世界にあるか、霊的世界にあるかを問わず、何らかの方法や申し開きにより、神の身分や地位を装ったり、神の代理となったりすることの出来るものはいない。なぜなら、万物を支配する身分と力、権威、そして能力を持つ者は、ただひとりしか存在せず、それが唯一の神自身であるからである。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 10」より

神は唯一で、この神の中には唯一の位格しかなく、神の霊は唯一である。聖書に「唯一の聖霊、唯一の神のみがいる」と書かれている通りである。あなたの言う父と子が存在するかどうかにかかわらず、結局は唯一の神のみがあり、あなたたちが信じる父、子、聖霊の本質は聖霊の本質である。言い換えれば、神は一つの霊であるが、すべての上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、宇宙中に存在することができる。すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である。

『言葉は肉において現れる』の「三位一体は存在するのか」より

それでも、「イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったか。」と言う人たちがいる。イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である――これは確かに神自身によって語られた。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。「わたしが父におり、父がわたしにおられる」というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。時代の変化、働きの必須要件、神の経営(救いの)計画のさまざまな段階のために、人が神を呼ぶ名前も違ってくる。第一段階の働きを実行するために来た時、神はヤーウェ、イスラエル人の羊飼いとしか呼ばれなかった。第二段階では、受肉した神は主およびキリストとしか呼ばれなかった。しかし、その時、天の霊は、イエスは神の愛する子であるとだけ述べ、彼が神のひとり子だとは言及しなかった。そのようなことは断じて起こらなかった。どうして神がひとり子を持つことができようか。それでは神は人にならなかったのか。神は受肉したので愛する神の子と呼ばれ、このことから父と子の関係が生じた。それは単に天と地に別れていたためであった。イエスは肉体の観点から祈った。イエスは普通の人間の肉体の姿をしていたので、肉体の観点から「わたしの外観は被造物のものである。わたしは肉体となってこの世に来たので、今や天からは遠く、遠く離れている。」と言ったのである。このため、イエスは肉体の観点からしか父なる神に祈ることができなかった。これがイエスの本分であり、受肉した神の霊が備えていなければならないものであった。イエスが肉体の観点から父に祈るということだけで彼が神でないと言うことはできない。イエスは神の愛する子と呼ばれるが、それでも神自身である。霊が受肉しただけで、本質はやはり霊だからである。

『言葉は肉において現れる』の「三位一体は存在するのか」より

これでほとんどの人は「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り……」という創世記の神の言葉を思い起こすであろう。神が「われわれの」形に合わせて……と言うことから考えると、「われわれ」は二人以上を示す。神が「われわれ」と述べたので、神は一つだけではない。このようにして人は理論上はっきりと異なる位格について考え始め、これらの言葉から父、子、聖霊という考えが生じた。では、父とはどういうものか。子とはどういうものか。そして聖霊とはどういうものか。ひょっとして今日の人類は三つを合わせて一つの姿に造られたのだろうか。それでは人の姿は父、子、あるいは聖霊の姿に似ているのだろうか。人は神のどの位格の姿をしているのだろうか。人の抱くこの考えはまったく間違っており、ばかげている。これは一つの神をいくつかの神に分けることしかできない。モーセが創世記を記述した時は、世界の創造に続いて人類が造られた後のことであった。そもそも最初、世界が始まった時、モーセは存在していなかった。モーセが聖書を記述したのはそれからずいぶん後のことだったので、天の神が語ったのは何であったのかをモーセはどうして知ることができただろうか。彼は神がどのように世界を創造したかについて少しも知らなかった。旧約聖書には、父、子、聖霊についての言及はなく、唯一の真の神、ヤーウェがイスラエルで働きを実行することにしか触れていない。神は時代が変わるにつれて異なった名前で呼ばれているが、これは名前ごとに異なる神格を指していることを証明できない。もしそうなら、神には無数の位格がいるのではないだろうか。旧約聖書に書かれていることは、ヤーウェの働き、つまり、律法の時代に開始するための神そのものの働きの段階である。それは、神が語るとそのようになり、神が命じると従うといった神の働きであった。ヤーウェは自分が働きを実行するために来た父であるとは決して言わなかったし、子が人類を贖うために来ると予言もしなかった。イエスの時代になった時、神はすべての人類を贖うために受肉したと言われただけで、来たのは子であるとは言われなかった。各時代は同様ではないし、神自身がする働きも異なるので、神は異なる領域内で働きを実行する必要がある。このようにして神の表す身分も異なる。ヤーウェはイエスの父であると人は信じているが、このことは実はイエスによって認められておらず、イエスは次のように語った。「わたしたちは決して父と子として区別されなかった。わたしと天の父は一つである。父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある。人が子を見るとき、天の父を見ているのである。」すべてが語られた時、父であろうと子であろうと、彼らは一つの霊であり、別々の位格には分けられない。ひとたび人が説明しようとすると、はっきりと異なる位格や、父、子、霊の関係で問題は複雑になる。人が別々の位格について話す時、これは神を物質化することではないだろうか。人は位格を第一、第二、第三とランク付けさえしている。これらはすべて人の概念にすぎず、言及する価値はなく、まったく非現実的である。あなたが誰かに「神は幾つあるのか」と尋ねたら、神は父、子、聖霊の三位一体で、唯一の真の神であると言うだろう。「父とは誰か」と尋ねると、「父は天の神の霊である。父はすべてを司り、天の主である」と言うだろう。「では、ヤーウェは霊なのか」と尋ねれば、「そうだ」と言うだろう。次に「子とは誰なのか」と尋ねたら、もちろんイエスが子であると言うだろう。「ではイエスの経歴はどうなっているのか。どこからイエスは来たのか」と尋ねれば、「イエスは聖霊による受胎を通してマリアの子として生まれた」と言うだろう。では、イエスの本質も霊ではないのか。イエスの働きも聖霊を表しているのではないのか。ヤーウェは霊でイエスの本質も霊である。終わりの日の今、言うまでもなく、やはり働いているのは[a]霊なのである。どうして彼らが異なる位格でありえようか。神の霊が異なる観点から霊の働きを実行しているだけなのではないか。それ自体として、位格の間に区別はない。イエスは聖霊によって宿り、間違いなく彼の働きはまさしく聖霊の働きであった。ヤーウェによって実行された第一段階の働きにおいて、神は肉体にならなかったし、人の前に現れもしなかった。そこで、人は彼の姿を決して見なかった。彼がいかに大きくとも、いかに背が高くとも、やはり霊であり、初めて人を造った神自身であった。すなわち、それは神の霊であった。彼が雲の合間から人に話しかけた時、彼は単に霊にすぎなかった。誰も彼の姿を目撃しなかった。神の霊が受肉し、ユダヤで人となった恵みの時代になった時だけ、人は初めてユダヤ人として受肉した姿を見た。ヤーウェの感触は感知できなかった。しかし、彼は聖霊によって、すなわち、ヤーウェ自身の霊によって受胎されたので、イエスはやはり神の霊の具現化として生まれた。人が初めて見たものは、イエスの上に鳩のように降りてくる聖霊であった。それはイエスだけに限定された霊ではなく、むしろ聖霊であった。ではイエスの霊は聖霊と区別することができるのか。イエスが神の子イエスであり、聖霊は聖霊であるなら、どうしてこの二つは一つになることができようか。もしそうなら、働きは実行できなかったであろう。イエスの中の霊、天にある霊、ヤーウェの霊はすべて一つである。それは聖霊、神の霊、7倍に強化された霊、すべてを包みこむ霊と呼ぶことができる。神の霊は多くの働きを実行することができる。それは世界を創造することができ、地球を洪水にして世界を破壊することもできる。それは全人類を贖うことができ、そのうえ、全人類を征服し、破滅させることもできる。この働きはすべて神自身によって実行され、神のほかのどの位格が神の代わりに行ったということはありえない。神の霊はヤーウェ、イエス、ならびに全能者という名で呼ぶことができる。それは主であり、キリストである。また人の子になることもできる。天にも地にもいる。天上の高みにも、群衆の中にもいる。天と地の唯一の主人である。天地創造から今に至るまで、この働きは神自身の霊によって実行されてきた。天における働きであろうと、肉体での働きであろうと、すべては神の霊によって実行される。すべての被造物は、天であろうと、地上であろうと、神の全能の手のひらの中にある。このすべては神自身の働きであり、神に代わって誰も行うことはできない。天において、神は霊であるが、神自身でもある。人々のもとでは、神は肉体であるが神のままである。神は何十万もの名前で呼ばれるかもしれないが、それでも神は神であり、すべての働き[b]は神の霊の直接表現である。神の磔刑による全人類の贖いは神の霊の直接的働きであったし、終わりの日の間にすべての民、すべての地に向けた宣言もそうである。いつも神は全能で唯一の真の神、すべてを含む神自身としか呼ぶことはできない。はっきりと異なる位格は存在しないし、ましてや父、子、聖霊というこの考えも存在しない。天にも地にも神はただひとつである。

『言葉は肉において現れる』の「三位一体は存在するのか」より

脚注

a.原文には「働いているのは」という語句は含まれていない。

b.原文には「……の働き」という語句は含まれていない。

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