唯一の真の神を「三位一体の神」と定義することは、神に反抗し、神を冒涜することである

2017年11月23日

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三位一体はこの宇宙のどこにも存在しないことを話しておこう。神には父も子もおらず、ましてや父と子が道具として共同で使う聖霊の概念などない。このすべては最大の誤った考えであり、この世には断じて存在しない。だが、そのような誤った考えにさえ発端があり、全く根拠がないわけではない。なぜならあなたがたの心はそれほど単純ではないし、あなたがたの考えには理性がないわけではないからである。むしろ、それらの考えはかなり適切で、独創的であるので、どのサタンに対してでも動じない。残念なのは、これらの考えがすべて誤った考えであり、断じて存在しないことである。あなたがたは本当の真実をまったく見たことがない。あなたがたは単に推測し、観念を作り、次に、欺いて他の人々の信用を得るため、また機知や理性のない極めて愚かな人々を支配するため、そのすべてを物語に作り上げ、人々にあなたがたの偉大で、名高い「専門家の教え」を信じさせようとしている。これは真理だろうか。これは人が受けるべきいのちの道なのだろうか。すべては馬鹿げている。一語も適切ではない。この長い年月を通してずっと、神はこのようにあなたがたによって分けられてきて、各世代とともにますます細かく分けられ、一つの神が公然と三つの神に分けられるまでに至った。そして今、人が神を一つに再結合するのはまったく不可能である。神をあまりにも細かく分けすぎたからである。手遅れにならないうちにわたしの迅速な働きがなければ、あなたがたがどのくらい長く厚かましくもこのようなことを続けるかはわからない。このように神を分け続けるなら、どうして神はあなたがたの神でいられようか。あなたがたはまだ神を認識できるであろうか。あなたがたはまだ神を父として受け入れ、神のもとに戻るつもりなのか。もしわたしが少しでも遅く到着していたら、あなたがたは「父と子」、ヤーウェとイエスをイスラエルに送り返し、あなたがた自身が神の一部であると主張していたことだろう。幸いにも、今は終わりの日である。とうとう、わたしが長いこと待っていたこの日が来て、この段階の働きを自分の手で実行してはじめて、あなたがたによる神そのものの分割が停止した。これがなかったら、あなたがたはエスカレートして、あなたがたの中のサタンをすべて祭壇上に載せて崇拝さえしていただろう。これがあなたがたの策略である。あなたがたが神を分ける手段である。あなたがたは今そのようにし続けるつもりなのか。あなたがたに尋ねたい。神は幾つあるのか。どの神があなたがたに救済をもたらすのか。あなたがたがいつも祈る対象は最初の神か、二番目なのか、それとも三番目なのか。そのなかでどの神を常に信じているのか。父だろうか。それとも子だろうか。あるいは霊だろうか。あなたが信じるのはいずれなのか、わたしに教えて欲しい。あなたはあらゆる言葉をもって神を信じていると言うが、あなたがたが実のところ信じているのはあなたがた自身の知力である。あなたがたは断じて心の中に神を持っていない。しかし頭の中にはそのような「三位一体」がいくつかあるのだ。あなたがたはそう思わないだろうか。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)

旧約聖書には、父、子、聖霊についての言及はなく、唯一の真の神、ヤーウェがイスラエルで働きを実行することにしか触れていない。神は時代が変わるにつれて異なった名前で呼ばれているが、これは名前ごとに異なる神格を指していることを証明できない。もしそうなら、神には無数の位格がいるのではないだろうか。旧約聖書に書かれていることは、ヤーウェの働き、つまり、律法の時代に開始するための神そのものの働きの段階である。それは、神が語るとそのようになり、神が命じると従うといった神の働きであった。ヤーウェは自分が働きを実行するために来た父であるとは決して言わなかったし、子が人類を贖うために来ると預言もしなかった。イエスの時代になった時、神はすべての人類を贖うために受肉したと言われただけで、来たのは子であるとは言われなかった。各時代は同様ではないし、神自身がする働きも異なるので、神は異なる領域内で働きを実行する必要がある。このようにして神の表す身分も異なる。ヤーウェはイエスの父であると人は信じているが、このことは実はイエスによって認められておらず、イエスは次のように語った。「わたしたちは決して父と子として区別されなかった。わたしと天の父は一つである。父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある。人が子を見るとき、天の父を見ているのである」。すべてが語られた時、父であろうと子であろうと、彼らは一つの霊であり、別々の位格には分けられない。ひとたび人が説明しようとすると、はっきりと異なる位格や、父、子、霊の関係で問題は複雑になる。人が別々の位格について話す時、これは神を物質化することではないだろうか。人は位格を第一、第二、第三とランク付けさえしている。これらはすべて人の概念にすぎず、言及する価値はなく、まったく非現実的である。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)

人間に最も足りないのは神に関する認識です。人間は神と何ら関係のない諺、発言、そして言葉をしばしば神に押しつけますが、そうした言葉が神に関する認識の最も正確な定義だと信じているのです。人間の想像に由来するこれらの諺、および人間自身の理論や知識は、神の本質とまったく無関係ですが、人はそのことをほとんど知りません。したがって、神が人々にもつよう望んでいる認識について言えば、神はあなたが神を認識し、神の言葉を認識することを求めているだけでなく、神に関するあなたの認識が正確であることを求めているのです。たとえひと言しか述べられなかったり、ほんの少ししか知らなかったりしても、そのわずかな認識は正確であり、真実であり、神自身の本質と一致しているということです。神は見当違いだったり無分別だったりする讃美や賞賛を嫌悪するからです。そのうえ神は、人間が神を空気のように扱うことを忌み嫌います。人が神に関する事柄を話すとき、事実と無関係な発言をしたり、何のためらいもなく適当に話したり、思いのままに語ったりするのを、神は忌み嫌います。また、自分は神を知っていると思い込み、神に関する認識を吹聴し、何ら気兼ねなくみだりに神に関する事柄を論じる人を、神は忌み嫌います。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなたの神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、そのような認識は実情にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ十分で、聞こえの良いものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容認しない。神はあなたの認識を称賛しないだけでなく、神を冒涜した罪人としてあなたに天罰を下す。神を認識する言葉は軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、あなたの言葉が優れているために黒いものを白いと、白いものを黒いと議論して説得できるとしても、神に対する認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが急いで判断を下したり、気軽に褒めたり、また無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも褒めるが、それでもなお神の大徳と恩恵を描写する適切な言葉に悪戦苦闘し、これは全ての失敗者が体験することなのである。

『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)

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イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な肉を着て、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。

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