「三位一体の神」は最も愚かな言葉だと言われるのはなぜか

2017年11月23日

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イエスの受肉という真実が明るみに出た後、人は、天の父がいるだけではなく、子とさらには霊がいるということを信じた。これが、天には父と子と聖霊のすべてを一つにした三位一体の神がいるという、人の抱いている従来の観念である。すべての人間が次のような観念を持っている。神は一人だが、三つの部分からなっている。従来の考えに深くはまり込んだ人々は、それが父、子、聖霊と考える。それら三つの部分を一つにしたものだけが神のすべてなのである。聖なる父がいなければ、神は完全ではない。同様に、子、または聖霊がいなければ、やはり神は完全ではない。人々の観念においては、父だけでも、子だけでも神と見なすことはできないと考えられている。父と子と聖霊が合わさって初めて神そのものと見なすことができる。今、すべての宗教信者は、あなたがたの中のあらゆる追随者も、この信念を抱いている。だが、この信念が正しいかどうかに関しては、誰も説明できない。なぜならあなたがたは神そのものに関する事柄についてはいつも意識が曖昧だからである。これらは観念であるが、あなたがたはそれが正しいか、間違っているかわからない。それはあなたがたが宗教的観念にあまりにも強い影響を受けてしまっているからである。あなたがたはこれらの従来からの宗教的観念をあまりにも深く受け入れており、この毒はあなたがたの内部にあまりにも深く浸透している。従って、この件に関してもあなたがたはこの有害な影響に屈している。なぜなら、三位一体は絶対に存在しないからである。すなわち、父と子と聖霊の三位一体など絶対に存在しない。これらはすべて人の従来からの見解、人の誤った信念である。人は何世紀にもわたりずっと、その心の中の観念が生み出し、人によってねつ造され、人がこれまで見たことのない三位一体の存在を信じてきた。長年にわたり、たくさんの聖書解説者が三位一体の「真の意味」を説明してきたが、三位一体の神は三つのはっきり区別できる同質の位格であるというような説明は曖昧模糊としたもので、人々はみな神の「構成」のせいで混乱している。これまで完全な説明ができた偉人は一人もいない。ほとんどの説明は論法の見地からすれば、また理論上では合格レベルに達しているが、その意味を十分明確に理解している人は一人としていない。これは、人が心の中で抱いている偉大な三位一体など存在しないからである。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)

三つの段階の働きがこの三位一体の概念に従って評価されるならば、それぞれが行う働きは同じではないので、三つの神がいなければならない。あなたがたの中の誰かが三位一体は実際存在すると言うならば、この三位格で一つの神とは一体何か説明してみたまえ。聖なる父とは何か。子とは何か。聖霊とは何か。ヤーウェは聖なる父なのだろうか。イエスは子なのだろうか。それでは聖霊についてはどうか。父は霊ではないのだろうか。子の本質も霊ではないのだろうか。イエスの働きは聖霊の働きではなかったのだろうか。当時のヤーウェの働きはイエスの働きと同じ霊によって行われたのではなかったのだろうか。神はいくつの霊を持つことができるのだろうか。あなたの説明によると、父、子、聖霊の三位格は一つである。もしそうなら、三つの霊がいることになるが、霊が三ついるということは神が三ついることを意味する。となると唯一の真の神はいないことになる。こんな神がどうして神の本来備え持つ本質を持つことができるだろう。神は一つであることを受け入れるならば、神はどうして子を持ち、父であることができるのか。これらはすべて観念にすぎないのではないか。神は唯一で、この神の中には唯一の位格しかなく、神の霊は唯一である。聖書に「唯一の聖霊、唯一の神のみがいる」と書かれている通りである。あなたの言う父と子が存在するかどうかにかかわらず、結局は唯一の神のみがあり、あなたがたが信じる父、子、聖霊の本質は聖霊の本質である。言い換えれば、神は一つの霊であるが、すべての上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、全宇宙に、そしてその上に存在することができる。すべての人々が神は唯一の真の神であると言うので、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である。あなたが言うように、それが父、子、聖霊であるならば、三つの神ではないのか。聖霊は一つの事柄であり、子は別の事柄、さらに父も別の事柄である。彼らの位格が異なり、彼らの本質が異なるのだから、どうしてそれぞれが唯一神の一部分でありえようか。聖霊は霊である。これは人にとって理解しやすい。もしそうなら、父はさらにいっそう霊である。父は地上に降臨したことも、肉体になったこともない。父は人の心の中でヤーウェ神であり、確かに霊でもある。では父と聖霊の関係は何か。それは父と子の関係なのだろうか。それとも聖霊と父の霊の関係なのだろうか。各霊の本質は同じなのだろうか。それとも聖霊は父の道具なのだろうか。これはどうしたら説明できるのだろうか。それなら子と聖霊の関係は何なのだろうか。それは二つの霊の関係なのだろうか。それとも人と霊の関係なのだろうか。これらはすべて説明のできない事柄である。彼らがみな一つの霊ならば、三位格の話はありえない。彼らはただ一つの霊を所有しているからである。彼らがはっきり異なる位格であるならば、霊の力も異なるものになり、断じてただ一つの霊になることはできないだろう。父、子、聖霊のこの概念は非常に不合理である。これは神を分割し、それぞれが地位と霊を持つ三つの位格に分けてしまう。それではどうして神は一つの霊、一つの神でいられようか。教えて欲しい。天と地、そしてその中のすべてのものは父、子、あるいは聖霊が造ったのだろうか。彼らは一緒になって天地を創造したのだと言う人がいる。それでは誰が人類を救ったのだろうか。聖霊か、子か、それとも父なる神か。人類を救ったのは子であると言う人もいる。それでは実質上、子とは誰か。彼は神の霊の受肉ではないのか。受肉した神は被造物の人という観点から、天の神を父の名で呼ぶ。イエスが聖霊による受胎から生まれたことを知らないのか。彼の中には聖霊がいる。あなたが何と言おうとも、彼はやはり天の神と一つなのである。彼は神の霊の受肉だからである。子というこの考えは断じて真実ではない。すべての働きを実行するのは一つの霊である。神だけが、すなわち、神の霊が働きを実行する。神の霊とは誰か。聖霊ではないのか。イエスの中で働くのは聖霊ではないのか。働きが聖霊(すなわち神の霊)によって実行されなかったのなら、彼の働きが神自身を表すことができただろうか。イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な肉を着て、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの「人の子」になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたがたが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたがたに教えた主の祈りをまだ覚えているか。「天にいますわれらの父よ……」イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたがたすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。あなたがたは天の神を父の名で呼んだので、このことはイエスが彼自身をあなたがたと対等の立場にあり、神によって選ばれた地上の人(すなわち神の子)と見なしていることを示している。もしあなたがたが神を「父」と呼ぶならば、これはあなたがたが被造物だからではないのか。地上におけるイエスの権威がどんなに偉大でも、磔刑以前はイエスは単に人の子であり、聖霊(すなわち神)に支配され、地上にいる被造物の一人にすぎなかった。まだ自分の働きを完成させていなかったからである。従って、彼が天の神を父と呼ぶのはもっぱら彼の謙虚と従順さからであった。しかし、彼がそのように神(すなわち天の霊)に呼びかけることで、彼が天の神の霊の子であることの証明にはならない。むしろ、それは単に彼の視点が異なっていることであり、彼が別の位格であるということではない。別個の位格の存在というのは間違った考えである。磔刑以前、イエスは肉体の限界に縛られた人の子であり、霊の権威を十分には所有していなかった。そのため、彼は被造物の視点からのみ父なる神の意志を求めることができた。ゲッセマネで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と三度祈ったときのように。十字架刑に処せられる前、彼はユダヤ人の王にすぎなかった。彼はキリストであり、人の子であり、栄光の体ではなかった。そのため、彼は被造物の観点から神を父と呼んだのである。さて、あなたは神を父と呼ぶ者はすべて子であると言うことはできない。もしそうなら、ひとたびイエスがあなたがたに主の祈りを教えたら、あなたがたは皆「子」になっていたのではないだろうか。まだ納得しないなら、教えて欲しい。あなたがたが父と呼ぶのはだれなのか。イエスに言及しているなら、あなたがたにとってイエスの父は誰なのか。イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたがたが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)

それでもまだ「父は父であり、子は子であり、聖霊は聖霊であり、そして最後には一つにされるだろう」と言う人もいるであろう。では一体どのようにしてそれらを一つにするべきであろうか。どうして父と聖霊を一つにすることができるのか。もしそれらがもともと二つなら、どのように結合しても、二つのままではないだろうか。それらを一つにすると言うとき、それは単に二つの別々の部分を結合して全体で一つにすることではないだろうか。しかし、それらは一つにされる前は二つの部分ではなかっただろうか。一つの霊はそのはっきりとした本質があり、二つの霊を一つにすることはできない。霊は物質ではなく、物質界のほかの何ものとも異なっている。人々の理解するところでは、父は一つの霊であり、子は別の霊で、聖霊もさらに別の霊であるので、それなら三つの霊はコップ三杯に入っている水のように混ざりあって一つの全体になる。そうすれば三つは一つにまとめられるのではないか。これは全く間違った説明である。これは神を分割しているのではないだろうか。どうして父、子、聖霊のすべてを一つにできるのだろうか。これらはそれぞれ異なる性質をもつ三つの部分ではないのか。それでも、「イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったか」と言う人たちがいる。イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である――これは確かに神自身によって語られた。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。「わたしが父におり、父がわたしにおられる」というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。時代の変化、働きの必須要件、神の経営計画のさまざまな段階のために、人が神を呼ぶ名前も違ってくる。第一段階の働きを実行するために来た時、神はヤーウェ、イスラエル人の羊飼いとしか呼ばれなかった。第二段階では、受肉した神は主およびキリストとしか呼ばれなかった。しかし、その時、天の霊は、イエスは神の愛する子であるとだけ述べ、彼が神のひとり子だとは言及しなかった。そのようなことは断じて起こらなかった。どうして神がひとり子を持つことができようか。それでは神は人にならなかったのか。神は受肉したので愛する神の子と呼ばれ、このことから父と子の関係が生じた。それは単に天と地に別れていたためであった。イエスは肉体の観点から祈った。イエスは普通の人間の肉体の姿をしていたので、肉体の観点から「わたしの外観は被造物のものである。わたしは肉体となってこの世に来たので、今や天からは遠く、遠く離れている」と言ったのである。このため、イエスは肉体の観点からしか父なる神に祈ることができなかった。これがイエスの本分であり、受肉した神の霊が備えていなければならないものであった。イエスが肉体の観点から父に祈るということだけで彼が神でないと言うことはできない。イエスは神の愛する子と呼ばれるが、それでも神自身である。霊が受肉しただけで、本質はやはり霊だからである。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)

人の説明にはたくさんの矛盾がある。実際、これらはすべて人のもつ観念である。さらなる精査がなければ、あなたがたは皆、それらは正しいと信じるだろう。あなたがたは、三位一体の神の考えは人の見解にすぎないことを知らないのか。人の認識に十分で完全なものはない。いつも不純物があり、人の考えはあまりにも多すぎる。これは、被造物が神の働きを説明することはどうしてもできないことを立証している。人の心の中にはあまりにも多くのものがあり、すべて論理と思考から来ており、真理と矛盾している。あなたの論理は完全に神の働きを分析できるだろうか。ヤーウェのすべての働きについて識見を得ることができるだろうか。すべてを見通せることができるのは人であるあなたなのか、それともとこしえからとこしえまで見ることができる神自身なのだろうか。とこしえの昔からとこしえの未来まで見ることができるのはあなたなのか、それともそれができるのは神なのだろうか。どう思うか。どうしてあなたが神を説明するのに値するのか。あなたの説明の基礎は何か。あなたは神なのか。天と地、およびその中のすべてのものは神によって造られた。これをしたのはあなたではなかったのだから、なぜあなたは正しくない説明をしているのか。さて、あなたは三位一体の存在を信じ続けるのか。それはあまりにも厄介だとは思わないのだろうか。三つではなく一つの神を信じるほうがよいであろう。軽いのがもっともよい。主の荷は軽いからである。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)

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