受肉した全能神として主イエスがすでに再来なさり、全能神は人類を清め救うためにすべての真理を表現し、神の家から始まる裁きの働きをなさるとあなたがたは証を立てていますが、それならば私たちはどのように神の声を聞き分け、全能神が本当に再来した主イエスであるとどのように確認するべきなのでしょうか。

2021年3月17日

回答:

その問題は極めて重要です。終わりの日の神の働きを受け入れ、神の出現を見るには御声の聞き分け方を知らねばなりません。御声を聞き分けるとは、実際は発せられた御言葉を認識することであり、その特徴を認識することです。肉となった神の御言葉も、神の霊の語りかけもすべて高いところから人類に語られたものです。それが神の御言葉の語調と特徴です。そこに神の権威と身分がはっきりと現れているということなんです。それこそが、創造主の独特な語り方です。神が肉となられるたびに話される内容は多くの分野にわたっていて、おもに神から人への要求や警告、神の行政命令や戒め、裁きと刑罰や人類の堕落を暴く話です。また預言の言葉や神の人類に対する約束などもあります。これらの御言葉はすべて真理、道、いのちの表現です。神のいのちの本質と神の性質、神の持つもの、神であるものを表しています。だから、私たちは神によって語られた御言葉から、それが真理であり権威と力があることが分かるんです。そのため、全能神の御言葉が神の御声かどうかを見極めたければ、主イエスと全能神の御言葉をよく読むべきです。見比べてみて、同じ霊によって語られたかどうかを調べるんです。同じ神によってなされた働きかどうかを。源が同じなら、全能神の御言葉が神の語りかけであり、全能神は神の顕れであることは明らかです。律法の時代のヤーウェ神と恵みの時代の主イエスの御言葉を見てみましょうか。両方とも聖霊の表現で、同じ神の働きでした。これは主イエスがヤーウェ神の現れで創造主の現れでもあったことを証明しています。聖書を読んだ人なら、誰でも恵みの時代の主イエスの御言葉には神の警告や人への要求や神の行政命令などがあることを知っています。多くの預言や約束の御言葉も含まれています。これらが恵みの時代における神の一段階の働きでした。

神の羊は御声を聞く。神の御声の聞き分け方ですが、主イエスの御言葉を見てみればすべてはっきりすることでしょう。それでは、まず主イエスの人への要求と警告を見てみましょう。主イエスは言われました、「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイによる福音書 4:17)。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている(マタイによる福音書 22:37–40)。マタイ福音書第5章でこう言われました。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。……義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう(マタイによる福音書 5:3–6)。「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい(マタイによる福音書 5:10–12)

次に、主イエスが行政命令について言われたことを見てみましょうか。マタイによる福音書12章31節と32節で、主イエスは言われました。「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」そして、また5章22節で主イエスはこう言われました。「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

行政命令の御言葉のほかに、パリサイ人たちを裁き暴露するものもあります。主イエスは言われました。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。(マタイによる福音書 23:13)偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする(マタイによる福音書 23:15)

主イエスはまた預言や約束についても語っています。ヨハネによる福音書14章2節と3節です。主イエスは言われました。「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」そしてまた12章47節と48節でも主イエスは言われました。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」ヨハネの黙示録21章3節と4節にもあります。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。

恵みの時代に主イエスが語られた様々な真理を見てみると、主イエスが救い主の現れだったのが分かるでしょう。主イエスの御言葉が神から全人類への語りかけなのも分かります。主は神の性質と人類に対する御心を表されました。人類を導き養い、そして自ら人類を救うためです。これは神ご自身の身分と権威を現しています。これらは読むとすぐに真理であり、また権威と力があると感じられます。これらの御言葉はすべてが神の御声であり、人類への語りかけです。終わりの日に主イエスが戻られ、全能神として裁きのために来られて、神の国の時代を開き、恵みの時代を終わらせました。そして主イエスの贖いの働きに基づいて、神の家から始まる裁きの働きをなさり、人類を清めて救うための真理を全て語られました。全能神の御言葉は内容が豊かで、非常に広範囲に及びます。次の全能神の御言葉通りです。「創世以来、神がすべての人類に話しかけたのはこれが初めてだと言っても過言ではない。神がかくも詳細に、またかくも系統立てて、被造物である人類に話したことはかつてなかった。もちろん、全人類にこれほど多くのことを、かくも長きにわたって話したのもこれが初めてである。それはまったく前例のないことなのである。そのうえ、これらの言葉は人類のあいだで神が発した初めての文章であり、神はその中で人々を暴き、導き、裁き、心を通わせて語っている。それはまた、神が人々に自身の足跡、横たわる場所、神の性質、神が所有するものと神そのもの、神の考え、そして人類に対する神の懸念を知らしめる最初の発言でもある。これらは、創世以来神が第三の天から人類に語りかけた最初の発言であり、神が本来の身分を使って言葉の中に現われ、心の声を人類に表現した最初の例だと言える(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、序論」〔『言葉』第1巻〕)。終わりの日で、全能神の御言葉はとても幅広く豊かなものです。その中には裁きや人の暴露、神の国の時代の行政命令や戒め、神から人への警告や要求、約束もありますし、預言などもあります。では次に神から人への警告や要求、神の働きについての御言葉を読んでみましょう。

全能神は言われます。「今日、わたしに本物の愛を抱いている者たちは幸いである。わたしに服従する者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国にとどまるであろう。わたしを知る者は幸いである。その人たちは、必ずや、わたしの国で権力を振るうであろう。わたしを追い求める者は幸いである。その人たちは必ずやサタンの束縛から逃れ、わたしの中にある祝福を享受するであろう。自らを捨てることのできる者は幸いである。その人たちは、必ずやわたしのものとなり、わたしの国の富を相続するであろう。わたしのために走り回る者を、わたしは記憶し、わたしのために尽くす人を、わたしは喜んで抱こう。わたしに捧げ物をする人に、わたしは喜びとなるものを与えよう。わたしの言葉に喜びを見出す者を、わたしは祝福する。その人たちは必ずや、わたしの国の棟木を支える柱となるであろう。その人たちは、必ずやわたしの家で何ものにも及ばない豊かさを得、彼らに並ぶものは一人もいない(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十九章」〔『言葉』第1巻〕)

イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

人々が恵みの時代に留まっていれば、彼らは堕落した性質を決して免れないし、ましてや神の本来の性質を知ることはない。人々がいつも豊かな恵みの中に生きていても、神を知り、神を満足させることを可能にするいのちの道がなければ、いくら神を信じても決して本当に神を得ることはないだろう。それはなんと哀れな形の信仰ではないか(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)

人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)

神の足跡と顕現を積極的に探し求める者は一人もいない。また進んで神の配慮と加護の中で生存しようとする者もいない。その代わりに、この世と邪悪な人類が従う生存の掟に適応するために、邪悪な者、サタンの腐敗に頼ることを人は望む。この時点で人の心と霊は、サタンへの貢物となり、その餌食となった。その上、人間の心と霊はサタンの住みかとなり、サタンの恰好の遊び場となった。こうして人間は、人間であることの原則について、また人間存在の価値と意義についての理解を気づかないうちに失うのである。神の律法、そして神と人の間で交わされた契約は、人の心の中で次第に薄れ、人は神を求めることも神に注意を払うことも止めてしまう。時間が経つにつれ、人は神が人間を創造した理由も、神の口から出る言葉や神から来る全てをもはや理解しなくなる。それから人は神の律法と掟に抵抗し始め、人の心と霊は麻痺してしまう……。神は自らが最初に創造した人間を失い、人間はその始まりの根源を失う。これが人類の悲哀である(『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」〔『言葉』第1巻〕)

人類は今日まで、何万年もの歴史を通して発展してきた。しかしわたしが当初創造した人類は、はるか昔に堕落へと落ち込んでしまった。人間はすでにわたしが望んだ人間ではなく、そのためわたしの目にはすでに、人類という名前に相応しいものではなくなっている。むしろ彼らはサタンによって捕われた屑であり、サタンに取り憑かれサタンを内に宿した生きる屍である。人々はわたしの存在を信じておらず、わたしの到来を歓迎もしない。ただ渋々わたしの要求に応え、一時的にそれに応じるだけで、人生の喜びや悲しみを心からわたしと共有したりもしない。人々はわたしを不可解な存在とみなしているため、渋々笑顔を見せ、権力者に擦り寄るような態度をしている。それはわたしの働きについて何も知らず、ましてや現在のわたしの旨も一切知らないからだ。正直に言うが、その日が来たとき、わたしを崇める人の苦しみは、あなたがたの苦しみよりも軽くなる。あなたがたの信仰の程度は実際、ヨブのそれを超えておらず、ユダヤのパリサイ人の信仰ですらあなたがたの信仰を上回る。したがって、火で焼かれる日が訪れると、あなたがたの苦しみはイエスに非難されたときのパリサイ人よりも大きく、モーセに反抗した250人の指導者たちよりも、滅びの炎に焼かれたソドムよりも重くなるだろう(『神の出現と働き』「本物の人とは何を意味するのか」〔『言葉』第1巻〕)

人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によってのみ、神は次第に人に本来の姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、神の国を回復する。最終的にそれらの不従順の子を徹底的に滅ぼすのも、人がよりよく神を礼拝し、よりよく地上で生存することができるためである。神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく――これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)

あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)

あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行なってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを追い求めるべきである。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、自分の性質の変化を追い求める人であり、そして喜んで神を証しし、被造物の本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが神によって完全にされるのである。もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)

神の国の時代における全能神の働きについて、全能神の御言葉をいくらか読んでみましょう。全能神は言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する(『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」〔『言葉』第1巻〕)

時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。……終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン〔3〕」〔『言葉』第1巻〕)

裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

神の国の時代の全能神が発せられた行政命令を二節読みましょう。

神の国の時代に神に選ばれた人々が従わなければならない行政命令十項目

1. 人は自分を大きく見せてはならないし、崇めてもいけない。人は神を崇め、賛美するべきである。

2. あなたは神の働きのためになることは何でもするべきであり、神の働きに有害なことは一切してはならない。神の名、神の証し、神の働きを守るべきである。

3. 金銭、物質、神の家のすべての財産は、人が提供すべき捧げものである。これらの捧げものを享受するのは祭司と神だけである。人からの捧げものは神が享受するためのものであり、神はこれらの捧げものを祭司とだけ分かち合い、ほかの誰も、捧げもののいかなる部分であれ、享受するに相応しくなく、またそうする資格はないからである。人からの捧げものはすべて(金銭や享受できる物質的なものを含め)神に捧げられ、人には与えられない。それゆえ、これらのものを人は享受すべきではない。捧げものを享受するなら、その人は捧げものを盗んでいるのである。誰でもこのようなことをする人はユダである。ユダは裏切り者であることに加えて、金袋に入っているものも勝手に使ったからである。

4. 人の性質は堕落している。その上、人はさまざまな感情を持っている。そこで、神に仕える際、男女が二人きりで一緒に働くことは絶対に禁止される。誰でもそうしていることが見つかった者は除名され、これに例外はなく、誰も免除されない。

5. あなたは神を批判してはならず、不用意に神に関連する事柄について話してはならない。人が行動すべき仕方で行動し、話すべき仕方で話し、自分の限度を越えてはならず、自分の境界を逸脱してもならない。口を慎み、自分の歩みに気をつけなさい。これらはすべて、神の性質を犯すことを防ぐであろう。

6. 人が行うべきことを行い、自分の責務を実行し、責任を果たし、本分を忠実に守るべきである。あなたは神を信じているのだから、神の働きに貢献するべきである。そうしなければ、あなたは神の言葉を飲み食いする資格がなく、神の家で暮らす資格もない。

7. 教会の仕事や事柄に関し、神に従うことは別として、すべてのことについて聖霊に用いられている人の指示に従うべきである。ほんのわずかな違反も受け入れられない。絶対的に順守するべきであり、正誤を分析してはならない。何が正しいか、間違っているかはあなたには関係がない。あなたは全面的に服従することだけを気にかけなければならない。

8. 神を信じる人は神に従い、神を礼拝すべきである。どんな人物をも、崇めたり、仰ぎ見たりするべきではない。神を第一位とし、仰ぎ見る人々を第二位とし、自分自身を第三位とすべきではない。誰もあなたの心の中に場所を占めるべきではなく、あなたは人々を、とりわけあなたが崇拝する人々を、神と劣らず、神と同等なものと考えてはならない。これは神にとって耐えられないことである。

9. あなたの思いは教会の仕事にあるべきで、自分の肉体の将来的展望は脇にやり、家庭問題については決然とし、心から神の働きに自己を捧げ、神の働きを第一にし、自分自身の生活は第二にするべきである。これが聖徒の礼儀正しさである。

10. 信仰のない家族(あなたの子供たち、夫または妻、姉妹、両親など)は強制的に教会に入会させられるべきではない。神の家はメンバーに不足しておらず、役に立たない人々で数を作り出す必要もない。喜んで信じない人は誰も、教会に導き入れてはならない。この命令はすべての人に向けられる。この件に関し、あなたがたはお互いに確認し、監視し、注意するべきである。だれでもこれを犯してはいけない。信仰のない家族が不本意に教会に入る時でさえ、彼らに書籍を与えたり、新しい名前を与えたりしてはならない。そのような人々は神の家には属しておらず、必要ないかなる手段を用いても彼らが教会に入ることは止めなければならない。もし悪魔が侵入したために教会に問題が持ち込まれたなら、あなた自身が除名されるか、またはいくつかの制約が課せられる。要するに、誰もがこの件に関して責任があり、無謀なことをしてはならず、個人的恨みを晴らすために使ってはならない」(「神の国の時代に神に選ばれた人々が従わなければならない行政命令十項目」『言葉は肉において現れる』)

わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政命令を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる――空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲の上に乗って降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」〔『言葉』第1巻〕)

また預言の言葉や神の人類に対する約束などもあります。「わたしの国では、無数の被造物がよみがえりを始め、生気を取り戻す。地上の状態が変化したため、地と地の境界にもまた、変化が起こる。以前、わたしは預言した――地が地から離れ、地が地とつながると、そのとき、わたしは国々を打ち砕くと。このとき、わたしはすべての被造物を新たにし、全宇宙を区切りなおす。それにより、全宇宙を秩序立て、古い状態を新しいものに変える。これがわたしの計画だ。これらがわたしの業だ。国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて人間の世界に与え、わたしによって、比類ない富にあふれるようにする(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」〔『言葉』第1巻〕)

わたしの言葉が完成するにつれて、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人のぬくもりが満ちる(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十章」〔『言葉』第1巻〕)

人類がみな本来の姿を回復し、それぞれ自分の本分を尽くし、自分の立場を守り、神のすべての定めに従うことができたら、神が地上で一団の、自身を礼拝する人たちを得、自身を礼拝する国を打ち立てたことになる。神は地上で永遠の勝利を得、自身に敵対する者たちは永遠に滅びる。これは神が最初に人を造った時の意図を回復し、神が万物を造った意図を回復し、地上での神の権威、万物の中での神の権威、敵の間での神の権威をも回復したことになる。これらは神が完全に勝利を得たことのしるしである。その後人類は安息に入り、正しい軌道に乗った生活に入る。神も人との永遠の安息に入り、神と人が共有する永遠の生活に入る。地上の汚れと不従順は消え、地上の嘆き悲しみも消える。神に敵対する地上のあらゆるものも存在しなくなる。神と神に救われた人たちだけが残り、神の創造物だけが残る(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の御言葉から、全能神と主イエスが同じ方であって、同じ受肉の神であり高いお立場で人に語っておられることが分かりました。どちらの方も神の性質と聖なる本質を現わされ、さらに神の権威とご身分をお示しになっておられます。パリサイ人を裁く主イエスの御言葉や堕落した人類を裁く全能神の御言葉から分かることは、神が罪を憎み、人類の堕落を嫌われていること、神は義にして聖なる性質をお持ちであり、人の心の奥をご覧になれるということです。神は私たちの堕落を知り尽くしておられます。主イエスと全能神の人類への警告と要求から、神が人類に期待されているのが分かります。正直者を好み、神に真剣に身を捧げる者を祝福してくださる。これは神の人類に対する配慮と救いを示しています。主イエスと全能神の人類への約束から、神の人類に対する愛が分かります。さらに神が人類の運命を定め万物を支配される権威と力も見えます。主イエスと全能神は口調もよく似ていますし、話し方もとてもよく似ています。神の性質の顕れだからです。神の身分と本質を完全に現されているんです。では考えてみてください。創造主以外に誰が全人類に語りかけられるでしょう?神の御心を直接表現し、人間に要求できるでしょう?誰が人の終わりを決め、生死を支配できるでしょう?誰が宇宙や全てのものを支配できるでしょう?神以外に誰が人類の堕落の本質を見抜けるでしょう?誰が心の奥に潜むサタンの本性を暴けるでしょう?誰が終わりの日の神の裁きを成し遂げて、私たちをサタンの影響から救い出せるでしょうか?創造主だけがそのような権威と力を持っているんです。全能神の御言葉は完全に神のみが持っておられる権威と身分を現しています。全能神の御言葉を聞いて私たちは心から確信しましたね。これらは全て神によって語られた神の御声なんです。これらは全て終わりの日の裁きの働きの際に創造主が表された真理です。私たちはすぐ心から神への畏敬の念を持ちました。全能神の御言葉を聞いて同じように感じていませんか。これではっきり分かるのは、全能神と主イエスの御言葉は源が同じだということです。どちらも同じ霊の表現で、同じ神が異なる時代の人類に語られたものなんです。終わりの日に全能神は主イエスの贖いの働きをもとに、神の家から始まる裁きを行われます。人類を救い清めるため真理を全て表し、人類を救うための経営計画の奥義を全て明らかにし、さらに、私たちに真理のさまざまな面の本質をはっきりと語ってくださるんです。こうして私たちは開眼し確信します。全能神の御言葉と働きは主イエスの預言を成就させました。全能神が終わりの日の裁きのため語られた全ての御言葉に私たちは神の御声を認識しました。そして全能神が主イエスの再臨であり、天地万物を造られた唯一の真の神が終わりの日の裁きに来られたと確信しています。地上のサタンの支配と悪と暗闇の時代を終わらせ、千年の神の国の時代を開きに来られたんです。こうして、私たちは願い通り天の御国に入れるんです。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

神の声を聞くのに、人としての資質や経験の長さは関係ありません。信仰において、主イエスの言葉を聞いた時どう感じるでしょう?主の言葉について経験も認識もないのに、聞いた瞬間にそれは真理であると感じて、権威と力があると分かるでしょう。その感覚というのは経験から来るものでしょうか?霊感と直感から来るのです。その証拠に、心と霊がある人は神の言葉が持つ力と権威を感じられます。これが神の声を聞くということです。さらに、神の声と人間の声の最大の違いは、神の声は真理で、力と権威があり、すぐに分かるということです。言葉にできるかどうかはともかく、気持ちははっきりしている。人間の声はもっと簡単です。聞いた瞬間理解できると感じるのです。その言葉には力や権威が全くなく、真理があるとも思えません。これが神と人間の言葉の違いです。例を挙げましょう。主イエスの言葉には力と権威があり、聞いた瞬間真理だと分かります。しかも言葉は奥深く、謎めいていて、人間の計り知れない、意味があることは。それでは聖書にある使徒の言葉はどうでしょうか。大半が聖霊の啓示を受けていますが、権威も力もありません。正しくて人の役に立つだけです。主イエスのような言葉を話せる人はいますか?誰も話すことはできません。つまり主の言葉は神の声だという証拠です。

全能神の御言葉を数節読んで、それが真理で神の声かどうかを確かめましょう。全能神は言われます。「わたしは宇宙の隅々まで自らの働きを行なっており、東方では雷のような轟音が終わりなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在へと導いてきたのはわたしの声である。わたしはすべての人がわたしの声によって征服され、この流れの中に入り、わたしの前に帰服するようにするつもりだ。わたしははるか昔に全地からわたしの栄光を取り戻し、それを東方で新たに発したからだ。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光のもとへ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを目にとめない者がいるだろうか。贖い主の再来を待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は地上の隅々まで行き渡るだろう。わたしは選ばれた者たちと向き合って、もっと彼らに話しかけたいと願っている。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を語りかける。こうしてわたしの口から出る言葉は人の宝となっており、すべての人々はわたしの言葉を大切にしている。稲妻は東から西へとひらめき渡る。わたしの言葉は、人が手放したがらないと同時に人には理解し難いものだが、それ以上に彼らに大きな喜びをもたらすものである。すべての人々は生まれたての赤児のように喜びに満ち、わたしの到来を祝っている。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れてくる。その時からわたしは正式に人類の中へ入り、彼らはわたしを崇拝するようになる。わたしが放つ栄光とわたしの口から出る言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、そしてわたしが東方の『オリーブ山』にも降臨したことを知るようになる。彼らはわたしがすでにずっと前から地上にいたことを知り、すでにユダヤ人の息子ではなく、東方の稲妻であることを知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の間から去って、その後再び栄光とともに人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた赤児である。そしてそれ以上に、今この時代の栄光に満ちた全能神なのだ。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見せ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を目撃させなさい。これがわたしの旨のすべてであり、わたしの計画の結末かつ頂点であると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい(『神の出現と働き』「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」〔『言葉』第1巻〕)

わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる――空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲の上に乗って降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

……わたしが世界を創ったとき、わたしはすべてのものをそれぞれに創った。すべての形あるものをそれぞれの種類に集まるようにした。わたしの経営(救いの)計画が終わりに近づくと、天地創造当初の状態を回復させ、すべてを本来の姿に戻す。すべては大きく変わり、すべてはわたしの計画の内に戻る。時は来た。わたしの計画の最後の段階が終わろうとしている。ああ、不浄な古き世界。必ずや、わたしの言葉に倒れる。必ずや、わたしの計画で無になる。ああ、無数の被造物たち。あなたがたは、みな、わたしの言葉の内で新たないのちを得る。あなたがたには主を持つのだ。ああ、純粋でしみ一つない新たな世界。必ずやわたしの栄光の中でよみがえる。ああ、シオンの山よ。もはや沈黙するな。わたしは勝利の内に帰ってきた。被造物の中から、わたしは全地を調べる。地上で、人間たちは新たな生活を始め、新たな希望を得た。ああ、わが民よ。どうして、あなたがたがわたしの光の中で復活しないでいられようか。どうして、あなたがたがわたしの導きの下、喜びに跳ね上がらないことがあろうか。地は歓喜の声を上げ、水は楽しい笑い声を響かせる。ああ、よみがえったイスラエルよ。わたしの定めをどうして誇りに感じないことがあろう。誰が泣いたのか。誰がうめき声を上げたのか。かつてのイスラエルは、もうない。そして、今日のイスラエルは立ち上がった、塔のようにまっすぐに、この世に、すべての人間の心の中に立ち上がった。今日のイスラエルは必ずや、わが民を通じて存在の源を得る。ああ、忌まわしいエジプトよ。まことに、もうわたしに敵対はしないだろう。どうしてわたしの憐れみを利用してわたしの刑罰を免れようとするのか。どうしてわたしの刑罰の内に存在できないのか。わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の言葉を読むと同じ感情になり、神が人類に語られていると分かります。神以外に、誰が人類に語ってくれるのでしょうか?人類を救うという神の意向を他の誰が示すのでしょうか?終わりの日の働きの計画を明かし、人類の果てと終着点を誰が示せますか?神の行政を誰が世界中に宣言できますか?神以外、誰にもできません。全能神は全人類に向けて話し、神の言葉の持つ力と権威を見せました。全能神の言葉は神の表現であり、声なのです。全能神が発する言葉は神が第三の天に立ち、全人類に語られているかのようです。全能神は人類の創造主として、みんなに語りかけています。神の義、威厳、傷つかない性質を人類に明らかにしているのです。全能神の言葉を聞けば、たとえ真理がまだよく理解できず、経験のない神の羊であっても、全能神の言葉には力と権威があり、神の声に間違いないこと、そして神の霊が直に発していることがはっきりと分かるのです。神に選ばれた人は言葉を聞くだけで神の声だと分かるのに、なぜ牧師や長老は全能神を非難するのでしょうか?反キリストは神の受肉を認めず、神が真理を示すことを認めません。それが真理であることを認識できて、神の言葉の持つ力と権威を感じるのです。神が肉体から言葉を発することも、語られたことが全て真理であるということも認めようとしません。なぜか分かりますか?終わりの日に、受肉した全能神が全人類に語られる言葉をいったいどれくらいの人が気づくでしょうか?全能神が語っても、宗教界の多くの人が神の声だと分かっていません。人間が語った言葉のように扱い、自分の観念だけで全能神を決め付け非難しています。神を畏れる心があるのでしょうか?彼らは真理を嫌い、神を非難した昔のパリサイ人と同じでは?神の言葉には権威と力があるのに、それが神の声だと分からないのです。それで神の羊と言えますか?聞いても心は空っぽ、目にしても分からず、結局理解できません。それで天に招かれますか?終わりの日に受肉した神は真理を示し、宗教界の人々の本性を暴きます。真の信者と偽者、真理を愛する者と嫌う者、賢いおとめと愚かなおとめのように全員が振り分けられ、それぞれ分類されるのです。全能神は言われます。「悪者はすべて神の口から語られる言葉によって罰せられ、義人はすべて神の口から語られる言葉によって祝福され、……(『神の出現と働き』「千年神の国が到来した」〔『言葉』第1巻〕)神の声を聞く者は主の再臨を迎え、玉座に引き上げられて、子羊の婚宴に招かれることになります。それは賢いおとめで恵まれた人類です。

神の声は心と霊で聞く必要があり、心が同じなら分かり合えます。神の言葉は真理であり、力と権威があるので、心と霊があれば分かります。全能神の言葉を少し読んだだけで、多くの人が神の声であると確信できます。神は受肉のたびにその段階の働きをします。神の指示で特定の言葉を少し伝えるだけの預言者とは全く違います。受肉した神が働きをする時、多くの言葉を語り、多くの真理を伝え、奥義をあきらかにして、預言します。終わるまでに何十年も必要な場合があります。例えば、贖いの働きでは、主はまず「悔い改めよ、天国は近づいた」と言い、どのように悔い改め、赦し、苦しみや苦難に耐えるかを諭しました。そして恵みの時代に従うべき道を開き、神の愛と慈悲の性質を見せました。また天国の奥義と天国に入る条件も明らかにしたのです。主が磔にされ復活し、昇天した時、神の贖いの働きが終わりました。主の言葉は真理で、贖いの働きで神が人類に与えた物です。終わりの日に、全能神が現れ、人類を清め救う真理を示しました。神の家から始まる裁きの働きで、義を主とする神の性質を人類に明らかにしました。六千年にわたる経営計画にまつわる奥義を明かし、神の国の時代を開き恵みの時代を終わらせました。全能神の言葉はその命の本質が湧き出たもので、神の性質を表します。今は人類を清め救うために、神が終わりの日に働いている段階なのです。全能神の言葉を読んで、それが真理を語り神の声であるか確認しましょう。

全能神は言われます。「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。……終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン〔3〕」〔『言葉』第1巻〕)

裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

これで終わりの日に、神がいかに裁きを働かれるかおわかりになりましたか?神が明らかにされなければ分かりませんよね。終わりの日、全能神は真理を示し裁きの働きをされ、その御言葉は人類の堕落を明らかにします。神に抗い悪に傾く、人間の堕落した心が暴かれます。聖であり義なる神の性質を人類に示されました。そのお姿と働きを見た人々は次々と救いを受け入れています。

(中略)

私たちは全能神の裁きによって、自己中心や偽り、思いあがりに気が付くのです。悪魔的な性質です。たとえ神を思い、苦難に耐えても、それが本当の服従や愛だと言うことはできません。苦難に直面すると、私たちは神に疑いや否定の気持ちを抱きます。これは私たちがサタンの性質を持っていることの現れなのです。私たちのこうした悪の性質が清められなければ、神への真の服従や愛はありません。今まで、私たちは思い違いをしていました。何かを犠牲にして熱心に働けば、良い人間になれる、神を愛する人間になれると、でも全能神の裁きで明らかになるのです。表向きは熱心に尽くしているようでも、実際には神に嘘をつき、欺いています。自分の利益や顕示欲を優先しているのです。努力したり犠牲を払ったりするのは、祝福を受け、天国に招かれたいからで、それでは神との取引です。神への服従や愛を語ることはできません。なのに、自分が誰よりも神に忠実だと主張する者がいます。全く無知で神を知らない者です。そのお裁きから分かるように、神はすべてお見通しです。神の素晴らしい聖さ、義、その背くことのできない性質を感じる時、畏れに震えます。私たちは内なるサタンに気付き、神の前で生きる価値もないと感じます。打ちひしがれ後悔して嘆き叫び、自分の存在を呪い、ののしるのです。私達は悪に支配され日々を生き、人間らしさを見失っていることに気づくのです。多くの裁きや刑罰、試練、精錬、取り扱いやかりこみを経験し、ようやく真理が見え始めます。自分に潜む堕落をしっかり見つめ、それと同時に、神に対する真の認識を得ます。心から崇拝し、服従するのです。これが正しい信仰の姿で、神の裁きと刑罰を経験した結果です。神様の裁きと刑罰がなければ、私たちはサタンに堕落させられたことに気づかなかったでしょう。無意識のうちに、なぜ罪を犯し神に逆らうのかわからなかったでしょう。それだけでなく、悪から逃れ真に服従する方法も知ることはなかったでしょう。神の言葉による裁きがなければ、神の義、威厳、背くことのできないを性質を知ることはない、神を畏れる心を養うことも、悪をさけるものにもなれない、これは真実です。神が受肉されなかったら、誰が終わりの日の裁きをできるでしょうか?誰が神の義で聖なる傷つかない性質を示せるでしょうか?神様が受肉されなかったら、一体誰が罪深い私たちを裁き、心を清め、救うのでしょう。その力や権威を持ち合わせる方は他にいるでしょうか。全能神の御言葉は神としての地位を明らかにするもので、全能神こそが創造主で、唯一の神だと示します。私たちは全能神の御言葉に神の声を聞くことができました。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

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