真理を認めず神だけを認めるという問題の本質と結末

2017年11月22日

関連する神の言葉

肉となった神を信じない人、すなわち、目に見える神の働きと言葉を信じない人、目に見える神を信じないで目に見えない天の神を崇拝する人はみな、心の中に神を持たない人である。彼らは、神に従わず、反抗する人たちである。このような人は真理を欠いているのは言うまでもなく、人間性と理知をも欠いている。このような人たちにとっては、目に見える神、触れることができる神はもっと信頼できず、目に見えない神、触れることのできない神こそが、いちばん信頼でき、またいちばん彼らの心を喜ばせるのである。彼らが求めるものは現実的な真理ではなく、いのちの本質でもなく、ましてや神の考えなどではない。むしろ彼らは、刺激を求めている。もっとも彼らの欲望を満たすことができるものならどんなものであっても、間違いなくそれが、彼らが信じ、追い求めるものである。彼らはただ自分の欲望を満たすためだけに神を信じるのであって、真理を求めるためではない。このような人たちはみな悪を行う人たちではないのか。彼らはひどく自信過剰で、天の神が彼らのような「善良な人々」を滅ぼすとは信じない。むしろ神は彼らを生き残らせ、しかも手厚く報いてくれると思っている。なぜなら、彼らは神のために多くの事をし、神のためにずいぶん「忠誠心」を尽くしたからである。もし彼らが目に見える神を追い求めることになった場合、彼らの欲望が満たされないとなれば、彼らは直ちに神に反撃するか、烈火のごとく怒るはずである。このような人たちはみな、自分の欲望を満たそうとする卑劣な人間である。彼らは、真理を追い求めることにおいて誠実な人々ではない。このような人々は、キリストに従ういわゆる悪者たちである。真理を求めないこのような人たちは真理を信じることはできない。彼らは、人類の未来の結末については、なおさら感じることができない。なぜなら、彼らは目に見える神の働きと言葉をひとつも信じず、人類の未来の終着点をも信じることができないからである。したがって、彼らは見える神につき従っていても、やはり悪を働いて真理を求めず、わたしの要求する真理を実践することもない。自分が滅ぼされることを信じない人たちは逆に、まさに滅ぼされる対象そのものである。彼らはみな、自分がとても賢明であると信じていて、自分が真理を実行する人であると信じている。彼らは自分の悪行を真理と考え、それを大事にする。このような悪者はみなひどく自信過剰である。彼らは真理は教義であるとし、自分の悪行を真理と見なす。最後に彼らは自分の蒔いた種から刈り取る。自信過剰で傲慢であればあるほど、真理を得ることができず、天の神を信じれば信じるほど、神に逆らう。このような人たちはみな罰せられる人々である。人類が安息の中に入る前に、各々の種類の人が罰せられるか、それとも報われるかどうかは、彼らが真理を求めるかどうか、神を知っているかどうか、目に見える神に従うことができるかどうかによって決まる。目に見える神に奉仕してきたが神を知らない人や従わない人はみな真理のない人である。このような人たちは悪を行う人であり、悪を行う人は間違いなく罰を受ける対象である。しかも彼らは、彼らの悪行に応じて罰せられる。神は人による信仰の対象であり、また人が従うに値する存在である。だが、漠然とした目に見えない神だけを信じる人たちはみな神を信じない人たちである。その上、彼らは神に従うことができない。もしこのような人たちが神の征服の働きが終わるときに、依然として、目に見える神を信じることができず、しかも目に見える肉の神に従わず、逆らい続けるなら、このような「漠然派」は疑いなく滅ぼされる。それは、あなたがたのうちにも見られる。つまり、あなたがたのうち、口先では肉となった神を認めるが肉となった神に従うという真理を行うことができない人は誰でも、最後には排除され、滅ぼされる。また、口先では目に見える神を認め、しかも目に見える神が表現した真理を飲み食いするが、漠然とした見えない神を追い求める人はなおさら将来滅ぼされる。このような人々の誰も、神の働きが終わった後の安息の時まで生き残ることができない。このような人はだれも安息の時まで生き残ることができない。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

今、わたしは地上に暮らし、人間のもとで生活している。人々は皆、わたしの働きを経験し、わたしの発言に注目している。そうした中で、わたしの追随者たちがわたしからいのちを受け、それゆえに彼らがたどることのできる道を得られるように、彼ら一人ひとりにあらゆる真理を授ける。わたしは神、いのちを与えるものだからである。わたしの何年もの働きのあいだ、人間は多くを得て、多くを捨ててきたが、それでもやはり人間は真にわたしを信じていないとわたしは言う。なぜなら、人間はわたしが神であることを口先では認めるものの、わたしが話す真理には異議を唱え、さらには、わたしが彼らに要求する真理を実践することなどないからである。つまり、人間は神の存在だけを認め、真理の存在は認めない。神の存在だけを認め、いのちの存在は認めない。神の名だけを認め、神の本質は認めない。その熱心さゆえに、わたしは人間を軽蔑している。人間はわたしを欺くために、耳に心地よい言葉を使うだけで、誰一人としてわたしを真に崇拝する者はいないからである。あなたがたの言葉には、蛇の誘惑がある。さらに、それは極端なまでに不遜で、まさに大天使の宣言そのものである。その上、あなたがたの行いは不名誉なまでにぼろぼろに裂けてちぎれている。あなたがたの過度の欲望や貪欲なもくろみは聞くに堪えない。あなたがたは皆、わたしの家の蛾、強い嫌悪をもって捨て去られる対象になった。なぜなら、あなたがたの誰一人として真理を愛さず、それどころか、祝福されることを欲し、天に昇ることを欲し、キリストが地上でその力を振るう荘厳な光景を見ることを欲するからである。しかし、そこまで深く堕落し、神が何であるかを全く知らないあなたがたのような人が、どうして神に従うに値することがあり得ようか。それについて考えたことがあるのか。どうしてあなたがたが天に昇れようか。そのように荘厳な光景、その壮麗さにおいて前例のない光景を見るに値する存在に、どうしてあなたがたが成り得ようか。

『神の出現と働き』「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(『言葉』第1巻)

あなたがたが長年にわたりわたしの前で見せてきた振る舞いは、前例のない解答をわたしにもたらした。その解答に対する問いは、「真理と真の神の前で、人の態度はどのようなものか」である。わたしが人間に捧げてきた努力は、人間を愛するわたしの本質を証明し、人がわたしの前で行なってきた一つひとつの行動は、真理を憎んでわたしに反抗する人間の本質を証明している。わたしはいつでも、わたしに従うすべての人を気にかけているが、わたしに従う人はいかなるときも、わたしの言葉を決して受け取ることができない。彼らはわたしの提案さえ受け入れることができない。これがわたしを何より悲しませることである。たとえわたしの態度が誠実で、わたしの言葉がやさしくても、誰一人わたしを理解できたことがないし、そのうえ、誰一人わたしを受け入れられたこともない。誰もが、わたしにまかされた働きを、自分の考えにしたがって行おうとしている。わたしの旨を求めず、ましてやわたしが何を求めているかを尋ねることなどない。彼らはわたしに逆らいながら、依然としてわたしに忠実に仕えていると主張している。多くの人たちは、自分が受け入れられない真理、あるいは自分が実践できない真理は、真理ではないと信じている。そのような人たちの中で、わたしの真理は否定され、投げ捨てられるものになっている。それと同時に、人々は言葉でこそわたしを神として認めているが、わたしのことを真理でも、道でも、いのちでもない部外者だとも信じている。誰一人、次の真実を知る人はいない。わたしの言葉は永久不変の真理である。わたしは人間にいのちを施す者であり、人類の唯一の案内人である。わたしの言葉の価値と意味は、人間に認められているかどうか、受け入れられているかどうかではなく、言葉自体の本質によって決定される。たとえこの地上の誰一人としてわたしの言葉を受け入れられないとしても、わたしの言葉の価値と、それがどれだけ人類の助けになるかは、どんな人にも計り知れない。だから、わたしの言葉に逆らい、反論し、あるいはわたしの言葉をまったく軽蔑している人に直面するとき、わたしの立場はこうである。時と事実をわたしの証人とし、わたしの言葉が真理であり、道であり、いのちであることを示そう。そして、わたしが言ったことはすべて正しく、人はそれを備えるべきであり、さらに、人はそれを受け入れるべきであることを、時と事実に実証させよう。わたしに従うすべての者たちに次の事実を知らせる。わたしの言葉を完全に受け入れられない人たち、わたしの言葉を実践できない人たち、わたしの言葉に目的を見いだせない人たち、そしてわたしの言葉によって救いを受け入れられない人たちは、わたしの言葉によって罪に定められた人たちであり、さらには、わたしの救いを失った人たちである。そして、わたしのむちは決して彼らを外さない。

『神の出現と働き』「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」(『言葉』第1巻)

あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は単に知的で観念的であり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないのか。今日なお、あなたがたは真理の言葉の一つ一つに対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。キリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どのように聖霊の働きに入っていくのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の惑わしの区別の仕方を知らない。ただ、自分の考えに沿わない、神が表した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、軽率であってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど幸運ではない人ではないのか。

『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」(『言葉』第1巻)

キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそが聖霊の顕現であり、神の顕現であり、神が地上での働きを託した者だからである。したがって、終わりの日のキリストによってなされる一切のことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言う。聖霊を冒涜する者が受ける報いは、誰の目にも自明である。これもあなたに言っておくが、あなたが終わりの日のキリストに抵抗し、終わりの日のキリストを足蹴にするなら、その結末をあなたに代わって引き受ける人は誰もいない。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえ自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが抵抗したのは人ではなく、あなたが足蹴にしたのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからである。あなたはその結末がどのようなものか知っているのか。あなたが犯すのは小さな過ちではなく、重罪である。だから、わたしはすべての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりしてはいけない。あなたにいのちをもたらせるのは真理以外になく、あなたが生まれ変わり、再び神の顔を仰げるようにするものは、真理以外にはないからである。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

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