キリストの神性の本質を認識するには

2017年11月22日

参考聖書箇所:

「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである』」(ヨハネによる福音書 14:6-7)

「わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい」(ヨハネによる福音書 14:10-11)

「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書 10:30)

関連する神の言葉

受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

実際の神についてあなたが知るべきことは何だろうか。実際の神自身は、霊、人、そして、言葉から成り立っている。これが実際の神自身の本当の意味である。あなたがこの人だけを知っていて――つまり、彼の習慣と性格のみを知っていて――霊の働きを知らなければ、あるいは、霊が肉の中で何をするのかを知らず、ただ霊と言葉に注意を払って、霊の前で祈るだけで、実際の神における神の霊の働きを知らなければ、それは、あなたがまだ実際の神を知ってはいない証拠である。実際の神を知ることには、神の言葉を知り、経験すること、聖霊の働きの規則と原則を理解すること、そして、神の霊が肉の内でどのように働くかを把握することが含まれる。その中には更に、肉となった神のすべての行為は聖霊によって支配されており、彼が語る言葉は聖霊が直接表現したものであるということを理解することも含まれている。したがって、あなたが実際の神を知りたいと願うならば、人間性においてまた神性において、神がどのように働くかをまず知らなければならない。そのことはすべての人々が関係している霊の表現というものにつながってゆく。

『神の出現と働き』「実際の神は神自身であることを知るべきである」(『言葉』第1巻)

神を知ることは、神の言葉を読んで理解することを通じて達成なされなければなりません。「私は受肉した神を見たことがない。それでどうして神を知ることができるのか」と言う人がいます。実のところ、神の言葉は神の性質の表現です。神の言葉から、人間に対する神の愛と救い、そして人間を救う神の方法などを見ることができます。神の言葉は人間によって書かれるのではなく、神自身によって表現されるからです。それらは神によって直々に表現されるのであり、神自身がその言葉と内なる声を表現しているのです。それらが心からの言葉だと言われるのはなぜですか。なぜなら、それらは奥深くから発せられ、神の性質、心、考え、人類への愛、人類の救い、人類への期待などを表現しているからです。神の発する言葉には厳しい言葉もあれば優しく思慮深い言葉もあり、また人類の望みと一致しない暴きの言葉もあります。暴きの言葉にしか目を向けなければ、神はいささか厳しいと感じるでしょう。優しい言葉にしか目を向けなければ、神にはさほど権威がないかのように感じるでしょう。ゆえに、神の言葉を文脈から切り離すのではなく、むしろあらゆる角度から見なければなりません。神が優しく憐れみ深い視点から語るときがあり、そのとき人々は神の人類への愛を見ます。神が非常に厳格な観点から語るときもあり、そのとき人々は一切の背きを許さない神の性質を見ます。人間はひどく汚れており、神の顔を見たり神の前に出たりする価値はありません。今、人々が神の前に出られるのは、ひとえに神の恵みによるものです。神の知恵は、神が働きを行なう方法や、神の働きの意義に見ることができます。しかも人々は神と直に接触しなくても、神の言葉の中にこれらの物事を見ることができるのです。真に神を知る人がキリストと接触するとき、その出会いは、その人がすでに有している神の認識と一致することができますが、理論でしか理解していない人が神と出会っても、その相互関係はわかりません。真理のこの側面は奥義の中で最も深いものであり、理解するのは困難です。受肉の奥義に関する神の言葉を要約し、あらゆる角度から見つめた上で、ともに祈り、真理のこの側面についてさらに考え、話し合いなさい。そうする中で、聖霊の啓きを得て理解できるようになります。人には神と直に接触する機会がないのですから、神について真の認識を獲得するには、そうした経験に頼って模索し、少しずつ入っていかなければなりません。

『キリストの言葉の記録』の「受肉した神をいかにして知るか」より引用

受肉した神は外見こそ人間とまさに同じで、人間の知識を学んで人間の言語を話し、ときには人間自身の方法や話し方を通じて自身の考えを表わしますが、人間や物事の本質に対する見方は、堕落した人々のそれらに対する見方と絶対に同じではありません。受肉した神の視点と立っている高さは、堕落した人間には決して到達できないものなのです。と言うのも、神は真理であり、神がまとう肉もまた神の本質を有しており、神の考え、および神の人間性によって表わされるものも真理だからです。堕落した人々にとって、神が肉において表わすことは真理の施し、いのちの施しなのです。これらの施しは一人の人間だけでなく、全人類に対してなされます。堕落した人間の心の中には、自分と結びついている少数の人しかいません。彼らはその一握りの人たちだけを気遣い、配慮します。災害が迫るとき、彼らはまず自分の子どもたち、親族、あるいは両親のことを考えます。より思いやりのある人であれば、親戚や親友にいくらか思いを巡らせるでしょうが、そのような人の思いが、それ以上に広がることはあるでしょうか。いいえ、決してありません。結局のところ人間は人間であり、人間としての高さや視点からしかすべてのものを見られないからです。しかし、受肉した神は堕落した人間とまったく違います。受肉した神の肉体がいかに平凡でも、いかに普通でも、いかに卑しくても、さらには人々がどのような軽蔑の眼で受肉した神を見下そうと、人類に対するその考えと姿勢は、人間には備えることも真似ることもできないものです。受肉した神は常に神性の視点から、そして創造主としての立場の高さから、人類を観察します。神の本質と心構えを通じて絶えず人類を見るのです。神が一般的な人間と同じ低さから、あるいは堕落した人間の視点から人類を見ることはあり得ません。人が人類を見るとき、彼らは人間のビジョンをもって見るのであり、人間の知識、規則、理論といったものを基準として使います。それは、人々が自分の目で見られるものの範囲内、堕落した人々が到達可能な範囲内にあります。神は人類を見るとき、神性のビジョンをもって見るのであり、神の本質と、神が所有するものと神そのものを基準として使います。人には見ることができないものもその範囲に含まれており、そこが、受肉した神と堕落した人がまったく違う点なのです。この違いは、人間と神のそれぞれ異なる本質によって決まります。両者の身分と地位、そして物事を見る視点と高さは、これら異なる本質によって決まるのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

神が物事に関して人と同様の見解をもつことは一切ありませんし、さらに、神が人間の観点や知識、科学、哲学、想像を用いて物事を処理することもありません。もっと正確に言えば、神が行なうすべてのことと、神が明らかにするすべてのことは真理につながっています。つまり、神が発してきたあらゆる言葉と、神が行なってきたあらゆる行為は真理と結びついているのです。この真理は、根拠のない空想の産物ではありません。この真理とそれらの言葉は、神の本質と神のいのちゆえに神が表すものなのです。これらの言葉と神が行なってきたあらゆることの本質は真理なので、神の本質は聖なるものであると言うことができます。言い換えると、神の言動のすべては人に活力と光をもたらし、人が前向きな物事とその現実性を見ることができるようにし、人が正しい道筋を歩けるよう、人に道を示します。これらの物事はすべて神の本質ゆえに決定され、神の聖さの本質ゆえに決定されます。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)

神もまた不浄の地に生まれたが、汚れに染まってはいない。神はあなたと同じ汚れた世界で生きているが、理知と見識を有しており、汚れを嫌悪する。あなたは自分の言動に汚れたものを何も見つけることさえできないかもしれないが、神にはそれが可能であり、それをあなたに指摘する。あなたの以前からの古いもの、つまり教養や見識や理知の欠如と遅れた生活様式は、今や暴き出されて白日の下に晒された。神が地上に来てこのように働きを行なうことでのみ、人は神の聖さと義なる性質を目の当たりにする。神はあなたを裁いて罰し、あなたに認識を得させる。時にはあなたの悪魔的な本性が露わになり、神はそれを指摘する。神は人の本質をすっかり知りつくしている。神はあなたがたのあいだで暮らしており、同じものを食べ、同じ環境の中で生きている。だが、それでも、神は人より多くのことを知っており、あなたを暴いて人の堕落した本質を見抜くことができる。人の処世哲学、不実、欺瞞ほど神が忌み嫌うものはない。人の肉体的な交流を神はとりわけ嫌悪する。神は人の処世哲学をそれほどよく知らないかもしれないが、人が表わす堕落した性質をはっきり見て暴くことができる。神はこうしたことを通じて人に語りかけ教えるために働き、こうしたことを用いて人を裁き、神の義にして聖い性質を明らかにする。このようにして、人は神の働きの引き立て役になるのである。受肉した神だけが、人間の堕落した性質とサタンのあらゆる醜い顔を明らかにできる。神はあなたを罰せず、自身の義と聖さの引き立て役として用いるにすぎないが、あなたは恥じ入り、隠れる場所がない。あなたがあまりにも汚れているからである。神は人において暴かれたこれらのことを使って語り、それが白日の下に晒されて初めて、人は神の聖さに気づく。神は人のほんのわずかな不純さえ、心の中の汚れた思いさえ見逃さない。人の言動が神の旨と一致しなければ、神は人を容赦しない。神の言葉の中に人間やそれ以外の何かの汚れが存在する余地はなく、それはすべて白日の下に晒されなければならない。そのとき初めて、神が本当に人間と違うことがわかる。人の中にほんの少しでも汚れがあれば、神はその人を完全に忌み嫌う。時には人は理解できず、「神よ、なぜそんなに怒るのですか。どうして人の弱さに配慮しないのですか。人に少し寛大になれないのですか。なぜ人に対してこれほどまでに思いやりがないのですか。人がどれほど堕落させられてきたかを明らかに知っているのに、なぜいまだに人をこのように扱うのですか」と尋ねることもある。神は罪を憎み、嫌悪しているが、あなたに不従順の痕跡が少しでもあれば、とりわけ嫌悪を感じる。あなたが反抗的な性質を表わすとき、神はそれを見て強く嫌悪する。この上なく嫌悪するのである。このようなことを通じて神の性質と神そのものが明らかにされる。それと人を比べると、神は人と同じものを食べ、同じ服を着、同じことを享受し、人と共に生きて暮らしているものの、それでも人と違うことがわかる。それが引き立て役の意義ではないのか。このような人間的なことを通じて神の力が示される。光の貴い存在を際立たせるのは闇なのである。

『神の出現と働き』「征服の働きの第二段階の効果はいかにして成し遂げられるのか」(『言葉』第1巻)

神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人に関連するあらゆる種類の実践を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人のそばには住まわないが、人間の本性や世俗的な人の堕落のすべてを承知している。これこそが神という存在である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目には見えず、人の耳には聞こえない聖霊の働きについて、現在のものも過去のものも知っている。これには処世哲学ではない知恵や、人には到底理解できないふしぎも含まれている。これが人に開かれており、また隠されてもいる神という存在である。神が表すものは特別な人の存在そのものではなく、霊に本来備わっている特質と存在そのものである。神は世界中を巡回しないが、世界のすべてを知っている。神は知識も識見もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超える言葉を語る。人間性がなく、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人の集団の中で神は暮らすが、人類に通常の人間性を生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにすることができる。このすべてが、いかなる生身の人間の存在よりも高い、神という存在である。行うべき働きを行い、堕落した人類の本質を余すところなくに明らかにするために、複雑でめんどうで浅ましい社会生活を経験することは神にとって不必要である。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き裁くことは、神の肉の経験を表現することではない。それは神が人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌った果てに、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。神の働きから、人は神がどのような存在であるかはわからない。神の働きに基づいて被造物の人として神を分類することも不可能である。神という存在もまた、被造物の人として神を分類できないようにしている。人は神を人間でない存在と考えるしかなく、どの範疇に神を入れるべきかわからない。そのため人は神を神の範疇に入れざるをえない。こうすることは人にとって不合理なことではない。なぜなら、神は人には行うことのできない多くの働きをしてきたからである。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

すべての被造物におよぶ権威となるのは神の霊である。神の本質のある肉も権威を有するが、肉となった神は父なる神の心に沿った働きをすべて行える。こうしたことは人には実現も想像もできない。神自身が権威であるが、神の肉は神の権威に服従することができる。これが「キリストは父なる神の心に服従する」という言葉に秘められた意味である。神は霊であり、救いの働きができるように、受肉した神も救いの働きをなすことができる。いずれにしても、神自身が神自身の働きをする。神は阻止することも、干渉することもせず、まして互いに対立する働きをすることはない。霊と肉は働きの本質が似ているからである。霊も肉も一つの心を行い、同じ働きを管理するために働くからである。両者は性質が異なるが、本質は同じである。どちらも神自身の本質と、神自身の身分を持っている。神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善と、すべての愛の現れである。肉の姿であっても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてでも、神は心底から父なる神に従い、他の選択はしない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうものはすべてサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンと同様の性質を持っている理由は、サタンに堕落させられ手を加えられたからである。キリストはサタンによって堕落させられていないため、神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。どんなに働きが困難で、肉が弱くても、キリストは肉のうちに生きながら、神自身の働きを阻止するようなことは決してせず、ましてや不従順な行いで父なる神の心を無視するようなことはない。キリストは父なる神の心に逆らうくらいなら肉の痛みを受けることを選ぶだろう。イエスが「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈ったようにである。人は選択をするが、キリストはそうしない。彼は神自身の身分を持っているが、肉ある神として、なお父なる神の心を求め、父なる神から委ねられた任務を果たす。これは人には不可能なことである。

『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)

私たちが知らないうちに、この取るに足らない人は私たちを神の働きの一つ一つの段階へと導き入れてきた。私たちは数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。そして神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と憐れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じられるようになり、神の愛らしさを目のあたりにし、そして人類を救いたいという神の強い願いを目にする。この平凡な人の言葉を通して、私たちは神の性質と本質を知り、神の旨を理解し、人の本性と本質をも理解し、そして救いへの道と完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は私たちを「死なせ」、そして「生き返らせる」。その言葉は安らぎを与えるが、同時に罪悪感と恩義の念で私たちを苦しめもする。その言葉は私たちに喜びと平安をもたらすが、同時に無限の痛みも与える。私たちは時にその手によって屠られる子羊のようであり、時に最愛のもののようにその慈愛を享受する。また時にはその人の敵のようでもあり、そのまなざしのもとでその怒りによって焼かれ灰にされる。私たちは彼に救われる人類であり、その目から見れば蛆であり、彼が日夜見つけ出そうと躍起になっている迷える子羊である。彼は私たちに対して慈悲深くもあれば、私たちを軽蔑もし、立ち上がらせ、慰め励まし、導き啓き、懲らしめ鍛え、そして呪いさえする。彼は昼も夜も私たちのことを心配し続け、昼も夜も守り気遣い、決して私たちの傍を離れず、私たちのためにその心血を注ぎ、いかなる代償も払う。この小さく平凡な肉体から出る言葉の中に、私たちは神のすべてを享受し、神が私たちに授けた終着点を見た。それにもかかわらず、私たちの心の中ではいまだ虚栄心のために問題が起こっており、このような人を積極的に神として受け入れることができずにいる。この人は私たちに非常に多くのマナや、多くの喜びを与えたが、それでも私たちの心の内にある主の地位を奪うことはできない。私たちはこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのだ。彼が口を開いて、私たちに自分が神であることを認めるよう求めない限り、私たちは決してこの人を、まもなく現れる、そして同時にすでに私たちのもとで長く働いてきた神として、あえて認めようとはしないだろう。

神は発話を続けており、さまざまな方法や観点を用いて私たちにすべきことを諭しつつ、同時にその心を言葉に表している。その言葉は生命力を備えており、私たちが歩むべき道を示し、真理とは何かを理解させてくれる。私たちはその言葉に引き付けられるようになり、その口調や話し方に注目し始め、そして無意識のうちに、この目立たない人の心の内に関心を持ち始める。彼は私たちのために労力を惜しまず、私たちのために睡眠も食欲もなくし、涙を流し溜息をつき、病気に苦しみ、私たちの終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私たちが鈍感で反抗的なために心から涙と血を流している。このような存在とその持てるものは、普通の人を超えているし、堕落した人間が誰一人として所有も到達もできないものだ。彼には普通の人にない寛容と忍耐力が備わっており、その愛はどんな被造物にも授けられていないものなのだ。私たちの考えをすべて知り、私たちの本性や本質をこれほど明確かつ完全に把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神の代理として私たちに語りかけ、このように人の間で働くことができる人は、この人をおいて他にいない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を授けられている者はいない。この人からは神の性質、そして神が所有するものと神そのものが、あますところなく発せられている。この人以外に、私たちに道を示し、光をもたらせる者はいない。彼以外に、神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に、私たちをサタンの束縛や私たち自身の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を体現しており、神の心の奥底にあるものと訓戒、そして全人類に対する神の裁きの言葉を表現している。彼は新しい時代、新しい紀元を開き、新たな天地と新しい働きを到来させた。そして彼は私たちに希望をもたらし、漠然としていた私たちの生活を終わらせ、私たちの全存在をもって救済の道を完全にはっきりと目撃できるようにしてくれたのである。彼は私たちの存在そのものを征服し、私たちの心を得た。その瞬間から私たちの心は覚醒しており、霊が生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、私たちの間で生きながらも長年私たちに拒否され続けてきたこの人こそ、私たちが寝ても覚めても絶えず思い続け、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。そう、彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私たちの神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私たちがもう一度生きて光を見ることができるようにし、私たちの心のさまよいを止めてくれたのだ。私たちは神の家に戻り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔を目撃し、行く手にある道をこの目で見た。今、私たちの心は完全に彼に征服され、私たちはもはや彼が誰であるか疑わず、もうその働きや言葉に反抗することもなく、ただ彼の前にひれ伏す。私たちの望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、そして神の恵みと私たちへの愛に報い、神の指揮と采配に従い、神の働きに協力し、できる限りのことをして神に委ねられた物事を全うすることだけである。

神に征服されることは、まるで武術の試合のようだ。

神の言葉は一つ一つが私たちの急所を突き、私たちは傷ついて恐れに満たされる。彼は私たちの観念、想像、そして堕落した性質を明らかにする。すべての言動から思いや考えの一つ一つに至るまで、私たちの本性や本質は神の言葉によって暴かれ、私たちは恥じ入って隠れる場所もなく恐怖に震える。彼は私たちの行動、目的や意図、そして自分でも知らなかった堕落した性質まで、すべてを一つ一つ私たちに示すので、私たちは自分の惨めな不完全さをすべて見せつけられ、さらには完全に打ち負かされた気持ちになる。彼は私たちが反抗したことを裁き、神を冒涜し糾弾したことで私たちを罰し、自分たちが神の目には何の贖うべき特徴もなく、生きたサタンなのだと思わせる。希望は粉々にされ、もはや神に理不尽な要求をしたり希望を持ったりすることもなくなり、夢さえも一夜にして消え去る。これは誰一人として想像できず、受け入れることもできない事実である。一瞬のうちに私たちは内面の平静を失い、この先どうやって進んでいけばいいのか、どうやって信仰を保っていけばいいのかわらなくなる。まるで自分たちの信仰が振り出しに戻ったような、そして主イエスに会ったことも、主を知ったこともないような気持ちになる。目の前のすべてが私たちを困惑させ、ためらいに揺れ動かせる。私たちは狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには抑えきれない憤りと屈辱感がくすぶる。そしてうっぷんを晴らそう、出口を探そうと試み、さらには救い主イエスを待ち続けて、イエスに胸中を打ち明けようとさえ考える。表面上は平静で、高慢でも謙虚でもないように見えるときもあるが、心の中ではこれまでにない喪失感に苛まれている。ときには表面上いつになく冷静に見えることもあるかもしれないが、内面は荒れた海原のような苦悶に揺れている。彼の裁きと刑罰は私たちの希望と夢のすべてを奪い去ったため、贅沢な望みはみな葬られ、私たちはあの人が救い主で自分たちを救えるのだと信じようとはしなくなる。彼の裁きと刑罰は私たちと神との間に亀裂を作り、それがあまりに深いため、誰も渡ろうとさえしない。彼の裁きと刑罰によって、私たちは人生で初めてこれほどの挫折と屈辱を感じたのである。私たちは彼の裁きと刑罰によって、神の名誉と人の侮辱に対する神の不寛容とを本当に認識した。それと比べると、私たちはなんと卑しく汚れていることか。彼の裁きと刑罰によって私たちは初めて、いかに自分たちが傲慢で尊大か、いかに人間が決して神と同等でなく、神と肩を並べることは一切ないかを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、私たちはもうこのような堕落した性質の中で生きることをやめたい、この本性と本質からできるだけ早く抜け出したい、神にとって卑劣で不快なものでなくなりたいと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、私たちは神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と采配に反抗することはなくなった。彼の裁きと刑罰によって、私たちは生き残ることを再び切望するようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった……。私たちは征服の働きから抜け出し、地獄から、死の影の谷から抜け出した……。全能神は私たちを、この一群の人々を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、数多くの敵を打ち倒したのだ。

『神の出現と働き』「附録4:神の裁きと刑罰に神の出現を見る」(『言葉』第1巻)

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