救いを得るためにはどのように神の裁きと刑罰を経験するべきか。

2017年11月23日

関連する神の言葉

要約すると、神への信仰においてペテロの道を歩むとは、真理を追い求める道を歩むことであり、その道はまた真に自分自身を知り、自らの性質を変える道でもあります。ペテロの道を歩むことでのみ、人は神によって完全にされる道を進むのです。ペテロの道を正確に言ってどのように歩むのか、またそれをどのように実践に移すかをはっきり知らなければなりません。第一に、自分自身の意図や不適切な追求だけでなく、自分の家族や肉体にかかわるすべてのことさえも脇へのける必要があります。心から献身的であらねばなりません。つまり、神の言葉に自分自身を完全に捧げ、神の言葉を飲み食いすること、真理を探求すること、そして神の言葉の中にある神の意図を探し求めることに集中し、すべてにおいて神の心を把握しようと努めなければなりません。それが最も根本的にして極めて重要な実践の方法です。ペテロがイエスを見たあとに行なったのもそれであり、そのように実践することでのみ、人は最高の結果を得られます。神の言葉への心からの献身はおもに、真理を探し求めること、神の言葉の中にある神の心を探し求めること、神の心を把握することに集中すること、神の言葉からさらなる真理を理解し獲得することが含まれます。神の言葉を読むとき、ペテロは教義を理解することにも、さらには神学的な知識を得ることにさえ集中していませんでした。その代わりに真理を理解すること、神の心を把握すること、そして神の性質と愛らしさを認識することに心を砕いたのです。ペテロはまた、神の言葉から人間の様々な堕落した状態を、また人間の堕落した本性や実際の欠点を認識しようと努め、それにより神が人間に課す要求のすべての側面を満たし、神を満足させました。ペテロは神の言葉を守る数多くの正しい実践を行ないました。それは神の心にもっともかなっており、また神の働きを経験しつつ人が行なうことのできる最高の協力方法です。神から来る数百もの試練を経験するとき、ペテロは人間に対する神の裁き、暴露、および要求の言葉の一つひとつを鏡として自分自身を厳しく吟味し、これらの言葉の意味を理解しようと努めました。またイエスが彼に言ったあらゆる言葉を真摯に考え、心にとどめようとし、極めて優れた結果を残しました。このような実践の方法を通じて、ペテロは神の言葉から自分自身を認識するにいたり、人間の様々な堕落した状態だけでなく、人間の本質、本性、様々な欠点をも理解するようになったのです。これが本当に自己を理解するということの意味です。ペテロは神の言葉から、自身を本当に理解しただけでなく、神の言葉において表現されるもの、すなわち神の義なる性質、神が所有するものと神そのもの、働きに関する神の心、神の人間への要求といったことの言葉から、神を完全に知るようになりました。ペテロは神の性質と本質を知り、神が所有するものと神そのものに加え、神の愛らしさ、そして神の人間への要求を知り理解するようになったのです。当時、神は今日ほど多くを話しませんでしたが、これらの側面においてペテロに成果がそれでも達成されたのです。これは希にして貴重なことです。

『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用

神の言葉の裁きを受けるとき、苦しみを恐れたり、痛みを心配したりしてはいけません。まして、神の言葉が自分の心を刺し通すのではないかと恐れてはいけません。神が私たちをどのように裁いて罰するか、私たちの堕落した本質をどのように暴くかについて、私たちは神の発する言葉をもっと読むべきです。それらを読んでもっと自分と照らし合わさなければなりません。それらの言葉と他人を比べてはいけません。自分自身と比べなければならないのです。私たちにはこれらの物事がどれもありますが、私たちは誰しもそれらと自分を比較することができます。信じないのであれば、自分で経験しに行きなさい。……私たちは信仰の中で、神の言葉が真理であることを固く保たなければなりません。それは実際に真理なのですから、理知的に受け入れなければなりません。それを認識したり認めたりすることができようとできまいと、神の言葉に対する私たちの態度はまず絶対的な受容の態度でなければなりません。神の言葉の各文はある特定の状態に関するものです。つまり、神の発言の各文はどれも外面的な現象に関するものではなく、ましてや外面的な規則に関するものでも、人々の単純な行動形態でもありません。そのようなものではないのです。神の発言の各文を、人間の単純な行動や外面的な現象に関するものと見なすならば、あなたには霊的理解が一切なく、真理とは何かを理解していません。神の言葉は奥深いものです。では、どれだけ奥深いものですか。神が言うすべてのこと、神が露わにするすべてのことは、人の堕落した性質と、人のいのちの中にある、実質的で根深い物事に関することなのです。それらは本質的な物事であり、外面的な現象ではなく、外面的な振る舞いでは特にありません。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求する重要性と真理の追求の道」より引用

神の支配を信じるなら、毎日起きる物事はよいことであれ悪いことであれ、偶然の出来事ではないことを信じなければなりません。誰かがわざとあなたにつらく当たったり、あなたを標的にしたりしているのではなく、実はすべて神が采配しているのです。神は何のためにこれらの物事を指揮するのですか。あなたの短所を暴くためでも、あなたを露わにするためでもありません。あなたを露わにすることは最終目標ではないのです。最終目標はあなたを完全にして救うことです。神はどのようにそれを行ないますか。まず、神はあなたの堕落した性質、本性と本質、短所、そして欠けているものをあなたに気づかせます。これらのことを知り、心の中で理解して初めて、真理を追い求めて堕落した性質を徐々に捨て去ることができます。これは神が機会を与えているのです。あなたはこの機会をどのように掴むべきかを知らなければならず、神と角突き合わせてはいけません。とりわけ、神があなたの周りに配した人や出来事や物事に向き合うとき、自分の望み通りでないと考えたり、逃れようと思ったり、神を責めて誤解したりするばかりではいけません。それは神の働きを経験することではなく、真理の現実に入るのを非常に難しくします。完全には理解できない物事が何であっても、困難を抱えたときは服従することを学ばなければなりません。まずは神の前に出向いてもっと祈るべきです。そうすれば、知らないうちに自分の内なる状態が変わり、真理を求めて問題を解決できます。あなたは神の働きを体験できるのです。その間にあなたの中で真理の現実が生じ、そのようにしてあなたは前進し、いのちの状態が変化します。いったんこの変化を経験して、そのような真理の現実を得たならば、あなたは霊的背丈を有するようになり、霊的背丈とともにいのちが生じます。いつも堕落したサタン的な性質を基に生きるなら、熱意や活力がどれほどあっても、その人は霊的背丈やいのちを有しているとはやはり考えられません。神は一人ひとりの中で働きを行ないますが、その方法が何であれ、どのような人や物事を使って力を尽くすのであれ、言葉の調子がどういったものであれ、神の最終目標は一つしかありません。それはあなたを救うことです。あなたを救うのに先立ち、神はあなたを変える必要があります。そうであれば、あなたはどうして少しばかりの苦しみを受けないでいられるでしょうか。あなたは苦しまなければなりません。この苦しみには多くのことが含まれます。あなたが自分自身を認識できるようになるよう、神はあなたの周囲に人や物事を配することがあります。さもなければ、あなたは直接取り扱われ、刈り込まれ、露わにされます。手術台の上の人と同じく、よい結末を迎えるにはいくらかの苦しみを経験しなければならないのです。あなたが刈り込みと取り扱いを受けるたび、神が人や問題や物事を配するたび、あなたの感情がかき立てられ、士気が高められるなら、それは正しく、あなたは霊的背丈を得て真理の現実に入ってゆきます。

『キリストの言葉の記録』の「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」より引用

ペテロは、神を信じる中で、全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではなかっただろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練――これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、神への純粋な愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物として相応しいということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。

『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)

人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にあり、それは人類にとって最も有益で役立つ真理である。それはあなたがたの体に必要な滋養と糧であり、人が正常な人間性を回復することを助ける。またそれは、人間が備えているべき真理である。神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちはより早く開花し、真理がますます明確になる。自分の霊的背丈が成長するにつれ、あなたがたは霊的世界の物事をより明瞭に理解し、さらに力を得てサタンに勝利するだろう。神の言葉を実践する時、あなたがたが理解していない真理の多くも明らかになるだろう。ほとんどの人は神の言葉の文面を理解するだけで満足し、自分の経験を実践において深めることではなく、むしろ教義を身につけることに重点を置くが、それはパリサイ人のやり方ではないのか。ならば彼らにとって、「神の言葉はいのちである」という言葉がどうして真実であり得ようか。単に神の言葉を読むだけでは、人のいのちが成長することはできず、神の言葉が実践されて初めて成長できる。もしもあなたの考えが、神の言葉を理解しさえすればいのちと霊的背丈を得ることができる、というものであれば、あなたの理解は歪んでいる。神の言葉の真の理解は、あなたが真理を実践する時に生まれる。そしてあなたは「実践して初めて真理を理解できる」ということがわかっていなければならない。

『神の出現と働き』「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」(『言葉』第1巻)

自らの本分を尽くしながら神を満足させることができ、言動において原則をしっかりともち、真理のあらゆる側面の現実に入ることができるなら、その人は神により完全にされる人間です。神の働きと言葉は、そのような人にとって完全に有効であり、神の言葉はその人のいのちとなり、その人は真理を得て、神の言葉に沿って生きることができる、と言うことができます。その後、その人の肉体の本性、つまり、根源的存在の基礎そのものが、震えてばらばらになり崩壊します。神の言葉を自らのいのちとして有するようになると、人は新しい人となります。神の言葉が人のいのちとなり、神の働きのビジョン、人類への神の要求、人への神による暴露、神が人に達することを要求する真のいのちのための基準が人のいのちとなり、これらの言葉と真理に従って生きるならば、人は神の言葉によって完全にされます。そのような人は生まれ変わり、神の言葉をとおして新しい人となったのです。

『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用

説教と交わりの参考箇所

終わりの日の神様の働きは言葉で裁くこと。ですから、もし私達が堕落した性質を清めて救われたいと思うのなら、まず神様の御言葉に集中しなければなりません。そして御言葉を真剣に読み、神様の御言葉による裁きを受け入れねばならないのです。神様の言葉がどんなに辛らつに響いて苦々しく感じられても、その言葉は全てが真理であり、私達が生きるべきいのちなのですから。神様の語りかけは全て私達を清めて変えます。私達の堕落した性質を捨てさせて救い、真理を理解し、神様について知ることができるようにします。ですから、御言葉の裁きと刑罰、刈り込みと取り扱いを受けなくてはなりません。御言葉における真理を得たいと思うなら、私達は苦労してでも真理と御言葉に従わなければなりません。私たちは御言葉の真理を深く求め、御心を感じ、自分を見つめ直して、神様の御言葉によって自分たちの横柄さや欺瞞、わがままや卑しさを自覚すべきです。神様と取引し、利用し、騙し、真理を弄ぶといったサタン的性質や、信仰の不純さや祝福を狙う裏心を自覚すべきです。そうすれば、徐々に堕落の真実と自分の本性と本質が見えてくるでしょう。真理を理解すればするほど、神様への認識はより深くなります。神様がどんな人を愛し嫌うのか分かるようになるでしょう。どんな人を救い、逆に排除し、どんな人を使い、祝福するかもです。その結果私達は神様の性質を理解できるようになります。全ては御言葉による裁きと刑罰を経験してできることです。真理を追求したければ、御言葉による裁きと刑罰を経験し、全てにおいて真理や御言葉を実践して、神様に従うことが重要です。それができる人は神の御言葉を経験することによって真理を徐々に理解して現実に入り、救われて完全になるでしょう。神様の示した真理により、神様の出現と働きを認識はしていながら、真理を愛さない者は、神様のために全てを犠牲にして本分を尽くしさえすれば救われると思っています。彼らはたとえ長年信じても真理と命は得られません。言葉や教義を少し知っているだけで、真理も現実も分かっていると思い込み、自分に嘘をついてるので、確実に神様に見捨てられます。

神の国福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

今日、私たちが神の御言葉を読むとき最も重要なことは、神の裁きと刑罰を受け入れることです。最重要点は神の裁きと刑罰を受け入れることであり、これが最も基本的なことです。……あなたがたは皆、「私は裁きと刑罰の苦しみに喜んで耐える」と言います。この苦しみに喜んで耐えるつもりならば、どのように服従しますか。どのように受け入れますか。神の裁きと刑罰の御言葉を目にすれば、それを神の自分に対する裁きとして受け入れますか。それとも、その言葉は他人を裁いているのであり自分とは関係ないと主張して、神の裁きと刑罰を避けますか。どちらの道をたどりますか。もし神の裁きと刑罰を喜んで受け入れるならば、神の御言葉を読んでいるとき、これらを避けるべきではありません。どんなに痛烈で厳しい言葉でもすべて受け入れるべきです。神にこう祈るのです。「神よ、私はあなたの裁きと刑罰を喜んで受け入れます。あなたの裁きの御言葉は私に向けられています。私はこのように堕落した人です。こうした堕落の問題を抱えていますから、あなたの裁きと刑罰を受け入れるべきです。これが私へのあなたの愛で、あなたによる高揚だからです。私はそれらを完全に受け入れ、従います。あなたの愛に感謝します。」このように祈れば、あなたはすぐにそれらを容易に受け入れ、難しいと思うことはありません。それから神の御言葉を自分自身の状態と比較して、理解を深めるのです。このようにすればできます。これが神の裁きと刑罰への服従の表現です。しかし、かなり厳しい神の御言葉を見て、「神よ、この言葉は私への裁きではありません。他の人たちへの裁きです。サタンへの裁きです。私とは何の関係もありません。ですから私には読む必要がありません」と言うならば、これでは神の裁きと刑罰を避けることになります。兄弟姉妹があなたを刈り込み、取り扱うならば、何をすべきでしょうか。すぐに神に祈るべきです。「神よ、感謝します。これは私に向けられたあなたの愛です。あなたは私への愛ゆえに、兄弟姉妹を動かし、私を刈り込み取り扱うようになさいました。私は服従します。」あなたは祈らなければなりません。祈らなければ、簡単に拒み、肉が簡単に反抗し、簡単に他人と衝突し、簡単に不平を言うようになり、さらに簡単に否定的になってしまいます。ですから、すぐに祈りに行かなければなりません。祈った後は心が落ち着いて、服従できます。本当に服従できるようになれば、心に喜びがあり、こう言うでしょう。「あの時私は癇癪を起こさず、受け入れた。それは祈ったからだ。今やっと神に服従できる」あなたは希望のかすかな光を見、霊的背丈が伸びます。人はこうして成長するのです。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

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あなたは主イエスは全能神として再臨され、終わりの日に裁きの働きをし真理を示していると証しをされている。なぜそんなことが可能ですか? 主は実際に私たちを天の国に連れて行かれるのです。私たちを置いて終わりの日の裁きの働きをなされるなんて、有り得ないでしょう? 主を信じ、聖霊の働きを受けていれば、既に神様の裁きの働きを体験していると思います。主イエスの言葉が何よりの証拠です。「わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネによる福音書 16:7-8)。私たちは、主イエスが復活されて天国に昇ぼられた後のペンテコステで、人に働きかけるために聖霊が下りてきたのだと考えます。それによって人々はすでに、自分の罪や義、裁きについて自分を責めています。主の前で告白し悔い改めたとき、私たちは実際に主の裁きを受けているのです。つまり、主イエスの働きは贖いの働きであっても主イエスが天に昇られたあとにペンテコステで降りてきた聖霊の働きが、終わりの日の神の裁きの働きであると信じています。それが裁きの働きでは? 「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」とありますが、主の信者として、私たちはよく聖霊に触れられ、戒められて訓練されています。だからいつも、主の御前で泣いて悔い改めるのよ。多くの良い行いこそが、主への信仰で私たちがどう変化したかを表すものです。これは神の裁きを受けた結果ではないのですか? あなたの言う終わりの日の全能神の裁きの働きは主イエスの働きとどう違うのですか?

回答:主イエスがされたのは贖いの働きであることはご存知ですが、主が言われたのはこうです。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)。では一体何を根拠に、ペンテコステで聖霊が終わりの日における裁きの働きを行ったなどと言われるのですか? あなたがたは、主イエスの…