だまされるのを避けるための噂や誤信の識別
終わりの日に主イエスが受肉した全能神としてこの世に再来して働き、真理を表し、働きの一段階をなさり、そこで人類が裁かれ清められます。心から主を信じ、神の再来を心待ちにしているあらゆる宗派や教派の多くの人々は神の声を聞き、全能神に従い始めました。これは必然的に宗教界の指導者たちの極度なパニックを引き起こしました。彼らは自分の信者が皆全能神を信じ始めて、自分を崇めたり従ったりしなくなるのを恐れたため、さまざまな噂や誤信を流布して終わりの日の神の働きを非難し、教会の信者たちが真の道を探し求めたり学んだりすることを制約したり禁じたりしました。多くの兄弟姉妹には識別力がなく、そのような噂や明らかな嘘を信じ、あえて真の道を調べようとはしません。聖霊の新たな働きを進んで探し求めるよりも、聖霊の働きや導きなしに暗闇の中でもがきながら生きるほうがいいのです。宗教界が広めている嘘や誤信のいくつかについてここで取り上げ分析し交流し、それにより主の再来を心待ちにしていた兄弟姉妹が一人残らず嘘や誤信を識別できるようになり、邪悪な下僕に騙されることを避け、終わりの日の神による救いを失わないようにします。以下に、頻繁に耳にする嘘や誤信のいくつかを挙げ、詳細を検討します。
1. 宗教指導者はよく教会を閉じて、信者に「知らない人を迎え入れるな。水一杯さえ与えるな。東方閃電から来る人で惑わす者だから」と主張します。宗教指導者が兄弟姉妹に見知らぬ人を迎え入れさせないというのは主の御心と一致するでしょうか。主イエスは私たちにおっしゃいました。「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイによる福音書 10:42)。神への信仰のために見知らぬ人を迎え入れることを神が私たちに要求しているということは明らかです。遠い昔から、見知らぬ人を受け入れたことで多くの人が神からの祝福を受けてきました。聖書には、どのようにアブラハムが天使だとは知らずに三人の男を迎え入れ、神に祝福されたかが記録されています(創世記 18:1–16参照)。ロトは神の使い二人を迎え入れ、その良き寛大な行いのおかげでロトとその家族は災難から逃れることができました(創世記 19:1–25参照)。遊女のラハブは見知らぬ二人のイスラエル人スパイを迎え入れ、そのおかげでラハブとその家族は神に守られました(ヨシュア記 2:1–21参照)。エチオピヤ人の宦官は、主イエスの弟子が説くことを信じたため主の救いを受けましたが(使徒行伝 8:27–40参照)、この宦官も見知らぬ人を迎え入れていたのではありませんか。聖書に記録されている事実から、見知らぬ人を迎え入れた人は騙されなかっただけではなく、逆に、知らず知らずのうちに神の祝福を受けたのが分かります。皆が知っているように、神の福音は遠い昔から人々により伝えられ、主イエスはユダヤの地で人類を贖う神の働きをなさいました。神の国の福音がユダヤの地から広がり、今では世界中の隅から隅まで届いています。当時、主イエスを見たユダヤの少数の人たち以外は誰も主イエスを知らず、誰も主の福音を広めその証しをした弟子や使徒を知らなかったのです。もし当時の人たちが皆、今日の私たちように知らない人を迎え入れなかったら、誰がイエス・キリストの福音を受けることができたでしょうか。明らかに、知らない人を一切受け入れないのは主の御心ではなく、これはキリストの教えを越えています。ヨハネの黙示録第三章二十節にこう書かれています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。もし神が見知らぬ人を送って私たちの家の戸を叩かせ、私たちがそれを無視したら、神に入るのを拒否していることになりませんか。そうすると、神に抵抗し神を拒否した裏切り者として歴史から非難されるのではないでしょうか。これは恐ろしいと思いませんか。つまり、指導者が見知らぬ人たちを迎え入れるのを私たちに禁止することは明らかに主の教えに反し、人をだますために使われている手段なのです。
2. 宗教指導者はよく兄弟姉妹に「他の説教がどんなによく聞こえても、聞きに行ってはいけない。たとえ真理を説いていてもそうだ。だまされるのを避けるために自分の教会から離れてはいけない」と頻繁に言います。宗教指導者は兄弟姉妹に他の説教を聞きに行くのを許さず、自分たちの教会から離しません。これは主の要求に反しています。主イエスはおっしゃいました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書 25:6)。ヨハネの黙示録に書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録 2:7)。「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」(ヨハネの黙示録 14:4)。神の御心は私たちが真理を探し求め、神の声に注意を向け、子羊の足跡について行くことです。それが神の救いを受ける唯一の方法だからです。律法の時代にイスラエル人は皆ヤーウェ神を信じ、ヤーウェの律法や掟を守りました。祭司は神殿で毎日ヤーウェに仕え、ヤーウェに従う人々も神殿で安息日を守りました。しかし、主イエスがその働きをするためにいらしたとき、神殿の中で説いたり働いたりされず、神殿の外に出て海辺や山上、荒地や村で説き働き、天の国の福音を広げました。神殿を離れてイエスについて行き、真の道を率先して探し求めた人たちは皆、主イエスの救いを受けることができました。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、ナタナエル、ニコデモなどの人たちです。これについてよく考えてみると、もし彼らが神殿を去らず、イエスについて行かなかったなら、イエスが皆がずっと待っていたメシアであることに気づけたでしょうか。彼らは主の救いを受けることができたでしょうか。もちろん、できていなかったでしょう。同様に、終わりの日に再来された主イエス、つまり全能神はある教派に現れたり働いたりされず、その選ばれた人々の集団において新たな段階の働きをなさいます。もし人々が自分の教派を離れて聖霊の新たな働きを探し求めず、自分の宗教の中に常にとどまり続けていたら、主の再来を迎えることは絶対に不可能でしょう。ですから、神が新たな段階の働きをなさるときにはいつでも、宗教を離れ、神の新しい働きと御言葉を探し求めて、子羊の足跡について行くことによってのみ、人々は聖霊の働きを得て、神の救いを受けることができるのです。全能神はおっしゃいます。「神を信じているのであれば、人間は神の歩調に遅れることなく、一歩一歩ついて行かなければならない。人間は『子羊が行く所はどこへでもついて行く』べきである。彼らだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の働きによって既に排除された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、各期間において、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が『ヤーウェは神である』または『イエスはキリストである』というような一つの時代のみに該当する真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きに遅れずついて行くことは決してできず、聖霊の働きを得ることは永遠にできないであろう」(『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」〔『言葉』第1巻〕)。ですから、他の説教を聞きに行くのを禁止し自分の教会に留まっていろという宗教指導者の主張は、主の御心にまったく反していることがわかります。宗教指導者が広めた噂を盲目的に聞き従い、宗教にはまったまま抜けられず、真理を求めたり、真の道を学んだりしなかったら、永遠の救いを失います。そしてこれは確かなことです。
3. 牧師や長老が「主が来たという説教はどれも間違いでだまそうとしている」と言って噂を広めています。この主張によれば、主イエスは絶対に再来しないということなのでしょうか。イエスは再来すると何度もおっしゃいましたし、世の終わりの日が来たときに自分が再来して裁きの働きをする、羊と山羊を、麦と毒麦を分け、種類によってあらゆる人を分け、善人を報い悪人を罰すると預言なさいました。このような働きは間違いなく神が終わりの日になし遂げられることですが、それでも牧師や長老は「主が来たという説教はどれもだまそうとしていて間違いだ」と言っています。これは主イエス自身の言葉に対する反駁ではありませんか。イエスの再来をそれとなく否定し非難しているのではありませんか。このような人たちが本当に主を信じているのでしょうか。多くの人が主を信じ主の再来を待ち、偽キリストや偽預言者たちを警戒することを第一の任務と考えています。しかし、神の声を聞き、主の再来を歓迎するための注意を払っていないので、それにより木を見て森を見ていないような、窒息を恐れて食べるのをやめるような状態になっています。どんなに偽キリストを警戒したところで、主の再来を歓迎できないならば、それは愚かな乙女で、神への信仰は最終的に失敗に終わります。主が再来してかなり経った今、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れるのが、清められ終わりの日の神の救いを受けられる唯一の方法なのです。それでもまだ、牧師や長老が盲目的に警戒させて終わりの日の神の働きを探し求めたり学ぶことを許さないため、彼らは人々が神の救いを受ける機会をつぶしています。こうすることで、牧師や長老は人々が神の国に入るのを阻む障害、つまずきの石になっているのではありませんか。これは、主イエスがパリサイ人を非難したときに言われたことに似ています。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない」(マタイによる福音書 23:13)。もし、指導者たちが言っていることを信じ、主が来るという説教のすべてを間違いだと思い、探し求めたりこの道を学んだりすることを全くしなかったら、主を歓迎し神の国に引き上げられる機会を逃します。そうなると自分自身を破壊することになりませんか。
4. 宗教指導者は噂をでっちあげて、「全能神を信じて全能神教会に入ったら、その瞬間から二度と出られなくなる。出ようとすると目をえぐり取られ耳や鼻を切り落とされる」と言っています。これは全くばかばかしい話で、頭を使える人なら誰でもこれは単なるうわさでしかなく、終わりの日の神の働きに対する冒涜や中傷だとすぐに分かります。誰もが知るように、共産党は無神論を掲げる政党で、神を最も嫌うサタンの政権です。もし中国で神を信じているという理由から誰かの目がえぐり取られ耳や鼻が切りとられたら、中国政府は大騒ぎしてそれを大事件として扱い、犯人を罰していたはずです。さらに、マスメディア、つまり中共の代弁者が異常興奮と呼べる程度まで煽って報道し、誰もに知りわたるように仕向けていたはずでした。しかし、全能神が働きを始めてから何年も経つのに、全能神を信じたために目をえぐりとられたり、鼻や耳を切りとられたりした人は一人もいないのです。私たちのまわりの人たちを見てみましょう。状況はさまざまです。たとえば、何年も前に全能終わりの日の神の働きを受け入れた人たちがいます。全能神の働きについて学んだあと、牧師や長老が広めた噂を信じて引き返した人もいます。全能神の福音を何度も聞いたけれど受け入れなかった人もいます。また、全能神の働きを受け入れたあと、邪悪な行いをしたために全能神教会から追放された人もいます。そしてこのような人のうちで、鼻を切りとられたり目をえぐりとられりした人、手や足を切断された人は誰でしょうか。誰もいません。それが最も確固たる証拠です。さらに、全能神教会は誰かに入会を強制したことは一度もなく、神の国の行政命令の中に次のように明確に規定されているとおりです。「信仰のない家族(あなたの子供たち、夫または妻、姉妹、両親など)は強制的に教会に入会させられるべきではない。神の家はメンバーに不足しておらず、役に立たない人々で数を作り出す必要もない。喜んで信じない人は誰も、教会に導き入れてはならない」(『神の出現と働き』「神の国の時代に神に選ばれた人々が従わなければならない行政命令十項目」〔『言葉』第1巻〕)。全能神教会に入会する者は皆、神を心から信じている人でなければなりません。全能神教会は信徒数を増やすためだけに、神を信じる気もない人を受け入れません。入会する人は皆まず厳格な審査を受け、入り込もうとしている不信心者や邪悪な者は教会によって粛清、追放されます。もし気が変わってもう全能神を信じないという人がいれば、そんな人を止めることはありません。神の家の戸は大きく開いており、去りたいときにいつでも自由に去ることができます。ですから、「全能神を信じて、全能神教会に入ったらその瞬間から二度と出られなくなる。離れようとすると、目をえぐりとられ、耳や鼻を切りとられる」という宗教指導者の主張は、悪魔がついたただのウソでしかなく、頭がある人なら誰でもそれが識別できます。
5. 牧師や長老は、全能神の福音を伝道する人を自分たちの羊を盗みに来ると言って非難します。主を心から信じる人は皆知っているように、神を信じる者は神に属するのであって、絶対にどの教派にも、どの教派の指導者にも属しません。どんな教派において集まろうと、誰が指導しようと、主イエスがおっしゃったように、信者は皆、神の羊です。「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている」(ヨハネによる福音書 10:14)。しかし、多くの牧師や長老は、信者は自分たちの羊だと言うのです。これは大きな間違いではないでしょうか。そんなふうに言うことで、神の地位を占めようとしているのではないでしょうか。神の信者と神が選ばれた人々をめぐって、神と張り合っているのではないでしょうか。終わりの日に再来されたイエスは、神の羊を神の家に連れ戻すでしょう。そしてこれは天の不変の掟も同然です。それなのに神は宗教界の指導者たちに邪魔され、不当な非難を受けているのです。指導者たちは神を敵とみなし、信者を神に渡すことを拒否するだけでなく、それどころか自分たちの支配下に置いて自分たちの羊だと言うのです。そして、福音を説く全能神教会の兄弟姉妹が自分たちの羊を盗みに来たと言い、あらゆることをして妨害し、非難し、しかも警察に通報して逮捕させるのです。彼らはまさに主イエスに悪い農夫と呼ばれた人たちではないでしょうか。
このように、宗教界の指導者たちは自分たちの羊を守っているふりをしていますが、兄弟姉妹が全能神の働きや言葉を学ぶのを邪魔することを慎重に計画していて、聖書を変に解釈したり、噂をでっちあげたり、兄弟姉妹に嘘をついたり脅したりするところにまで至り、兄弟姉妹の命を考えた上でそういうことをしていると言っています。もし兄弟姉妹の命に関わる責任を本当に果たしているのなら、なぜ真の道を追求するように彼らを導かないのでしょうか。なぜ、思い切って全能神の言葉をとり上げて兄弟姉妹が堂々と学ぶことを許さないのでしょうか。なぜ兄弟姉妹が全能神の働きを受け入れるのをそんなに恐れるのでしょうか。実は、多くの宗教指導者は全能神の言葉をすでに読んでおり、全能神の言葉が権威と力をもつことを知っています。では、なぜそれを自分たち自身で受け入れず、また兄弟姉妹にも受け入れることを禁じるのでしょうか。本当のところ、指導者は信者が全能神の言葉を一度読んだらそれが神の声であり真理であることに気づいて、そうすると全能神に従うようになることを恐れているのです。そんなことになれば、宗教指導者は信者からの崇拝を楽しめなくなり、地位や生活の糧をなくします。それが理由で兄弟姉妹を罠にかけ、管理し、いろいろなひどい噂を作り上げてだまし、脅し、真の道を探求し学ぶ邪魔するのです。これが彼らの本当の目的であり悪意に満ちた意図です。彼らはまるでイエスの時代のユダヤ人の祭司長、律法学者、パリサイ人たちのようです。彼らは主イエスが神の権威と力を授かっていることを完全に分かっていましたが、皆が主イエスを信じ始め、彼らから離れていき、その結果、地位や生活の糧、悦びを失うのを恐れたため、真の道を探し求めたり学んだりするかわりに、必死になって主イエスを非難し抵抗したのでした。その様子は聖書に次のように記録されています。「そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して言った、『この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう』。……彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した」(ヨハネによる福音書11:47–48,53)。最終的に、彼らは主イエスを十字架にはりつけにして、神の性質を侵し、凶悪な罪を犯し、裏切り者として永久に断罪される者になります。パリサイ人が主イエスに抵抗し非難した根本の理由は、現在の宗教界において牧師や長老が全能神に抵抗し非難する理由とまったく同じなのです。彼らは皆、真理に嫌気を感じ、真理を憎み、神に抵抗するサタンの本性に支配下にあるのです。終わりの日に全能神は、神を心から信じる人たち皆を神の家に連れて帰るために働きをなさるのです。しかし、宗教指導者は、自分たちの信者を引き渡すどころか、反対に、神の働きを邪魔し、人々が全能神に救いを求めるのを阻止しようとできる限りのことをしています。教会は自分の領地で、兄弟姉妹は自分の所有物だと考えています。この人たちは主イエスに悪いしもべと呼ばれた人たちではありませんか。終わりの日に暴かれた反キリストではありませんか。全能神はおっしゃいます。「荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは『健全な体質』をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか」(『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」〔『言葉』第1巻〕)。宗教界の牧師や長老が流布している噂を私たちが盲目的に信じ、自分の識別力を使わないでいたら、悪いしもべたちの抜け目のない計略に引っかかり、反キリストとともに埋葬される犠牲者にすぎなくなるでしょう。
以上、宗教指導者が広めた噂や誤信のいくつかを検討、分析しました。これは、兄弟姉妹が識別力を養い、サタンの悪巧みを見極めて、このような噂や誤信に騙されなくなるように手助けをするためです。兄弟姉妹のみなさん、中国本土での神の裁きの働きは終わりつつあり、神の国の福音が海を越えて全世界に広がっています。神を心から信じ、真理を追求する兄弟姉妹のほとんどがすでにサタンの悪巧みを見抜き、悪いしもべの罠を抜け出して神の御前に戻りました。これらの兄弟姉妹は神の命の生きた水を受け取り授けることを楽しみ、救われる可能性を見ました。終わりの日のキリスト、つまり全能神だけが私たちに真理といのちを授けることができ、また、神だけが私たちを美しい終着点に導くことができます。どんな指導者も人のいのちのみなもとにはなり得ません。噂を盲目的に信じたら浅はかです。このような噂や誤信を見抜いて騙されず、真の道を探し求めることによってのみ、終わりの日に神が表現する真理を手に入れ、神の救いを受け、神の国に入ることができまるのです。したがって、終わりの日の全能神の働きを受け入れることは救いを受ける唯一の方法であり、神に救われる機会を絶対に見逃してはなりません。さもないと、一生後悔することになります。
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