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神の声を聞き主イエスの再臨を喜んで迎えなさい!

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彼らを追い払うことに、まったく問題はない。聖書には、明らかに「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。……」(ヨハネの黙示録 1:7)と書かれている。主が雲に乗って来られるということが分かっている。しかし今日、私たちはその事実を見ていないのだ。どうやって主は戻ってこられたと言える?

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楊守道:彼らを追い払うことに、まったく問題はない。聖書には、明らかに「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。……」(ヨハネの黙示録 1:7)と書かれている。主が雲に乗って来られるということが分かっている。しかし今日、私たちはその事実を見ていないのだ。どうやって主は戻ってこられたと言える?

李佳音:伯父さん、主が戻って来られることは大きな出来事です。聖書に記述されたただ一つの例を見るだけといのは少し独断的ではないでしょうか?当時のユダヤのパリサイ人を思い出してください。パリサイ人はメシアの到来を切望し、メシアの預言を心に刻み付けていました。しかし、主イエスが働きを行うためにやって来られた時、パリサイ人たちが想像していた通りではなかったのでメシアとしてイエスを認めないどころか、イエスを十字架につけたのです。パリサイ人たちは神にそむき、時代を超えて非難される人になりました。彼らは神に呪われています。伯父さん、私は、主の戻って来られるのを待つことに関しては、神に背く過ちを犯さないため、よりいっそう慎重になるべきだと思います。東方閃電が神の働きであり、主の再臨であるのかどうかは今はまだ、はっきりわかりません。東方閃電の人々が、主の再臨を私たちに証言する時、少し耳を傾けて言い分について考えてから判断しても良いと思います。皆さんはどう思われますか?

赵姉妹:あなたは正しいわ。

杨候恩:佳音、あなたの言っていることは筋が通っているよ。でも、聖書には、白い雲にのって主が到来すると書いてあるんだけど、それについては、どう説明するんだい?

李佳音:最近私は、主の再臨に関する聖書の記述を注意深く読むことに時間を費やしてきました。聖書の再臨に関する記述は、大きく二通りに分けることができることを発見しました。兄さん、見てください。一つ目は、主が雲に乗って到来し、すべての人に目撃されるというものです。もう一つは、黙示録3章3節に書かれているように、主は盗人のように来られるだろう、というものです。「わたしは盗人のように来るであろう。」マタイによる福音書25章6節でもこう言われています。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。」これらの聖書箇所から見えるのは、主の到来に関する記述は二通りであるということです。一つは、主は誰にも知られないよう、盗人のように来られるというもの。もしかしたら主は密かに来られるかもしれません。もう一つは、主は雲に乗って来られ、すべての人に見られる、というもの。主は万人の前に御姿を現わされるのかもしれません。私の個人的な理解では、主は多分、最初は秘かに来られるでしょう。そして、ご自身の働きを完了された後に、公に御姿を現されることでしょう。これは、主イエスがご自身の働きを行うためにやってこれられた時と同様です。主イエスは、まず最初に、人の子として肉になり、ひそかにこの世にいらしたのです。お働きを成し遂げられた後、主イエスは十字架に釘付けにされ、その後、死から復活させられました。イエスは40日の間、人々の前に御姿を現され、その後、天へと昇っていかれました。我々が良く知っている通りです。

楊守道:佳音、君は間違っている。「盗人のように」や「真夜中に」というのは、いつ主がやって来られるのか、誰もわからないということなんだ。ひそかに主がいらっしゃると言っているわけではないんだ。

李佳音:伯父さん、このことに関する私の理解は次の通りです。聖書の多くの箇所では、主の再臨は「人の子の到来」だと預言されています。このことは、ルカによる福音書17章24~25節でも明らかです。主イエスは言われました。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。 しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」「人の子」とは受肉された神を指しています。この節ではこうも述べられています。「彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」人の子はまたこの時代によって排斥されなければならないわけですから、受肉された神が秘かに到着されると意味する可能性は非常に高いでしょう。主イエスがご自身の働きを行うためにいらしたとき、誰も、主が約束されたメシアである、ということをわかりませんでした。人々は主を普通の人間だと考え、非難し、受け入れませんでした。主が来られるとき、もし主が直接、万人に御自身の姿を現すなら、主が苦しみを受けることはないだろうし、主が今の世代によって排斥されることがありません。ですから、私は次のように考えています。「盗人のように」や「真夜中に」とは、いつ主が来るのか誰もわからない、といった単純な意味ではありません。これらの表現は、主がどのように人の子として、ひそかに、戻られるか、ということに言及している可能性が高いと思います。

「待つ」より