正直な人とは何か。なぜ神は正直な人々を好むのか。

2017年11月24日

関連する神の言葉

あなたがたは神が誠実な人を好むことを知らなければならない。実質的に神は誠実であり、神の言葉は常に信頼できる。それだけでなく、神の行動は完璧で疑う余地がない。だからこそ神は、神に対して絶対的に誠実な人を好むのである。誠実であるということは、自らの心を神に捧げること、万事において神に真実であること、万事において神に隠し立てしないこと、事実を隠さないこと、立場の上および下の人を欺こうとしないこと、神にこびへつらうためだけに行動しないことを意味する。要するに、言動において純粋であり、神も人も欺かないということである。……神の面前ではとりすまして真面目にする者もいて、何とか「行儀よく」しようとするが、霊の面前では牙をむき、爪を振りかざしている。そういった人を誠実とみなすだろうか。あなたが偽善者で、「対人関係」を心得ているなら、あなたは間違いなく神をぞんざいに扱おうとしている人であるとわたしは言う。あなたの言葉が言い訳や取るに足らない弁明ばかりなら、あなたは真理を実践したがらない人であるとわたしは言う。共有するのを躊躇するような秘密を数多く持っているなら、自分の秘密、つまり自分自身の困難を光の道を求めるために他者の前に明かすのがどうしても嫌だというなら、あなたは簡単には救いを得られない人であり、暗闇から簡単には脱せない人であるとわたしは言う。真理の道を求めることで喜びを感じるのであれば、あなたは常に光の中で暮らす人である。神の家において効力者であることに心から満足し、誰に知られずとも熱心かつ誠実に働き、常に与え、何も得ようとしないのであれば、あなたは誠実な聖徒であるとわたしは言う。なぜなら、見返りを求めずに、ただ誠実であるからである。あなたが正直であろうとするなら、自らをすべて費やそうとするなら、神のために命を捧げて固い証しを立てられるなら、自身のことばかりを考えたり顧みたりせずに、神を満足させることしか知らないほどに誠実であるなら、このような人は光の中で育まれ、神の国で永遠に暮らすことができるとわたしは言う。

『神の出現と働き』「三つの訓戒」(『言葉』第1巻)

正常な人々の性質にはひねくれた点や不正直さはなく、人々はお互いに正常な関係にあり、孤立していないし、その生活は凡庸でもなければ退廃的でもない。そこで神もすべてのものから褒め称えられ、神の言葉は人間の間に広がり、人々はお互い平和に神の配慮と保護のもとに暮らし、地上は調和で満たされ、サタンの妨害はなく、神の栄光が人間の間で最も重要なものになっている。このような人々はまるで天使である。純粋で、活気があり、けっして神について不平を言わず、地上の神の栄光だけに、ひたすら努力を捧げる。

『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第十六章」(『言葉』第1巻)

わたしは他者を疑わない者を好む。そして真理を快く受け入れる者を好む。この二種類の人々をわたしは大いに保護しよう。わたしから見ると彼らは正直な人々だからである。

『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」(『言葉』第1巻)

わたしの国には、正直で、偽善的でなく、偽りのない人々が必要だ。誠実で正直な人々は、この世では好かれないのではないか。わたしはまったくその逆だ。正直な人たちがわたしのところに来るのは受け入れられる。わたしはそのような人を喜び、そのような人を必要としてもいる。それこそがわたしの義である。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第三十三章」(『言葉』第1巻)

神が人に誠実であることを求めるのは、神が欺瞞に満ちた人間を心から忌み嫌い、好まないことの証明である。神が欺瞞に満ちた人間を嫌うというのは、そのような人たちの行動、性質、そして動機を嫌うということである。つまり、彼らの物事の仕方を嫌うのだ。それ故、神を喜ばせるにはまず、自分たちの行動とあり方を変えなければならない。かつて、私たちは人のあいだで生きるために嘘と見せかけに頼りました。それが私たちの資本であり、生存基盤であり、いのちであり、自分の行動規範だったのですが、神はそのすべてを嫌いました。この世の非信者の中にあって、巧妙だったり不正直だったりする術を知らなければ、しっかり立っているのは難しいでしょう。よりよい生活を得るために自分を守り、偽装するためには、嘘をつき、詐欺を働き、陰謀に満ちた不正直な手段を用いることしかできないはずです。神の家ではまさにそれと正反対です。不正直であればあるほど、洗練された操作を用いて芝居を打ったり自分を装ったりすればするほど、あなたはしっかり立っていることができなくなり、神はそのような人をますます嫌って拒みます。正直な人だけが天国で演じるべき役割を与えられると、神は予め定めました。あなたが正直でなく、また人生において正直であることに実践が向いておらず、自分の素顔を明らかにしないなら、神の働きや賞賛を受ける可能性はまったくありません。

『キリストの言葉の記録』の「正直であることの最も基本的な実践」より引用

説教と交わりの参考箇所

誠実な人であるということは、実際にはどういう意味でしょうか。 第一に、誠実な人は良心と理知を持ち、心の中で神を賛美し、神の愛に報いることができる、と確実に言えます。第二に、誠実な人は実際的で現実的に話します。事実を歪めず、正直に語り、他人を公平に扱います。第三に、誠実な人は神を畏れ、真理を実行に移し、そして神に従います。第四に、誠実な人はきちんと自分の本分を尽くし、行なうことのすべてにおいて神に忠実です。第五に、誠実な人は心の中で神を愛しています。あらゆることにおいて神の御心を考えることができるのです。第六に、誠実な人は神の御言葉によって生き、真に神を崇拝することができます。これらの特徴を有する人が誠実な人です。神の御前で暮らすこれらの人々に、神は満足しておられます。こうした人間こそが、神が完全にしたいと思われている人であり、神がご自分のものとしたいと思われている人です。こうした人こそが誠実な人なのです。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

なぜ神様は正直者を好まれるのでしょうか。第一に、正直者は他人と仲良くつきあえます。他人と親しい友になることができるのです。あなたを欺くことはなく、本当のことを言います。このような人と関わるとき、心は晴れ晴れして解放されており、平穏です。第二に、最も重要なのは、正直者は信頼でき、頼りになります。正直な人に何かを任せたり、助けてもらったりするとき、その人を信頼することができます。そのため正直者と関わるとき、気が楽で、くつろぎ、心配がなく、落ち着いています。心地よさと楽しさを感じます。正直な人だけが他人と親しい友となり、他人の信頼を得ることができるので、正直者だけが真の人間の在り方です。

『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

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