「すべてを捨て神に従う」の意味は何か。

2017年11月24日

関連する神の言葉

肉のため、家族のため、あるいは自分の個人的な願望のためでなく、神の家の益のために、自分の心身と真の愛のすべてを神に捧げ、それらを神の前に置き、神に完全に従順であり、神の旨を絶対的に配慮し、万事において神の言葉を原則および基礎とすることができるなら、そのようにすることで、あなたの意図や観点はすべて正しい場所にあり、あなたは神の前で神の称賛を受ける人となる。

『神の出現と働き』「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」(『言葉』第1巻)

あなたは神を信じ、神に付き従っているのだから、心で神を愛さなければならない。自分自身の堕落した性質は脱ぎ捨て、神の望みを叶えることを追い求め、被造物としての本分を尽くさなければならない。あなたは、神を信じ付き従う以上、あなたの持つすべてを神に捧げ、自分の個人的な選択や要求は持たず、神の望みを満たすことを成し遂げるべきである。造られた者として自分を造った主に従うべきである。これは、あなたが元々自分を支配することができず、自分の運命を決める能力も持ち合わせていないからである。あなたは神を信じる者である以上、聖さと変化を追い求めるべきなのである。あなたは被造物であるから、本分を守り、自らの立場を守り、その本分を超えてはならない。これはあなたを束縛したり、教義によって抑えつけたりするものではなく、ひたすらあなたが本分を尽くすための道であり、義を尽くす人には必ず到達できる、また到達されるべき道である。

『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)

9. あなたの思いは教会の仕事にあるべきで、自分の肉体の将来的展望は脇にやり、家庭問題については決然とし、心から神の働きに自己を捧げ、神の働きを第一にし、自分自身の生活は第二にするべきである。これが聖徒の礼儀正しさである。

『神の出現と働き』「神の国の時代に神に選ばれた人々が従わなければならない行政命令十項目」(『言葉』第1巻)

あなたは真理のために苦難を受け、真理に自分を捧げ、真理のために恥辱を忍ばねばならず、より多くの真理を得るためには、より多くの苦難を受けなければならない。これこそがあなたの為すべきことである。あなたは平穏な家庭生活のために真理を投げ捨ててはならず、一時的な享楽のために、あなたの一生の尊厳や品位を失ってはならない。あなたは、すべての美しく良いこと、また一層有意義な人生の道を追求すべきである。あなたがこのような俗悪な生活を送り、何の目的も追求しなかったならば、あなたは人生を無駄にすることになるのではないか。そのような人生から何が得られるであろうか。あなたは、真理のために肉の享楽をすべて捨て去るべきであり、僅かばかりの享楽のために全ての真理を投げ捨ててはならない。このような人々には、品位も尊厳もなく、彼らの存在には何の意味もない。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

説教と交わりの参考箇所

神様はご自身を信じる人全員に、すべてを捨ててご自分に従うようお求めになります。恵みの時代から神の国の時代に至るまで、数多くの人がすべてを捨てて神様に従ってきました。そうした人だけが聖徒と呼ばれるにふさわしく、神の国の時代における神様の民です。すべてを捨てて神様に従うとは何を意味しますか。それは自分の心と存在をすべて神様に捧げ、神様の働きに完全に没入し、自分自身を神様のために費やすことです。これがすべてを捨てて神様に従うことの本当の意味です。まだ自分の家庭をもたず、何の心配もない人だけがすべてを捨てられるのであって、家庭があり、両親や配偶者や子どもがいる人にはそれができないと信じる人がいます。この見方は正しくありません。第一に、神様が人に要求なさることは公平で理にかなっていることを知らなければなりません。神様は両親や配偶者や子どもを捨てるようお求めにはなりません。むしろ、人や出来事や物事に拘束されることなく心を捧げ、全力で本分を尽くすようお求めになっているのです。これがすべてを捨てて神様に従うことです。神様は人が行なう覚悟のないことをするように強制なさることはありません。神様に満足していただくべく全力を尽くすだけで十分なのです。振り払うべきものを振り払わなければならないのは当然のことに過ぎません。今のところ何かが捨てられないのであれば、必要なのはその何かに縛られないことだけです。心が縛られたままで完全に本分を尽くせないなら、それはすべてを捨てたことにはなりません。神様への忠誠という問題は、すべてを捨てるという実践にあります。あなたが本当に神様に忠実な人なら、心の中で家族や配偶者や子どもに縛られるのを避けることができます。多くの兄弟姉妹には家族のつながりがありますが、彼らの心は家族に縛られておらず、とても立派に本分を尽くします。家族の世話をするために時おり離れることもありますが、そのせいで自分の本分がわずかでも妨げられることをよしとしません。そのような人がすべてを捨てて神様に従っていないと言うことができますか。家族があるのは確かに困難なことです。誰もこのことを否定できません。しかし心が神様に忠実でいられるなら、人は家族の束縛を残らず振り払うことができます。肉体はいくらかの苦労を経験するものの、いのちの成長において神様からの大いなる祝福があります。一方、肉の快楽にしがみつく人は何を得ますか。最終的には何も得られません。また肉の苦労をどのように取り扱うべきですか。その大小にかかわらず、肉の困難はよいことだと言えます。神様が満足していらっしゃる限り、人の霊は喜ぶことができます。最も大きな苦痛は、肉の快楽にしがみついているせいで神様を侮辱することです。すべてを捨てて神様のために自分を費やす人はみな喜びを得ます。人間の本分を正しく尽くして神様に満足していただいたからです。さらに、そのような人は神様のお褒めにあずかります。ご自身のため誠実に自分を費やす人すべてに、神様は大いなる祝福をお与えになるからです。家族や肉の享楽にしがみつき、すべてを捨てて神様に従えない人はみな、悪魔サタンに身を捧げているのです。彼らが神様に救われることはできず、とりわけ神様の祝福など得られないのは間違いありません。

兄弟の交わりより引用

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