真に神を信じるとはどういう意味か

2021年3月19日

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神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は「神」という言葉や「神の働き」のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。「神への信仰」とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。このような形で神を信じる人は、神を信じることの意義を失っており、最後の最後まで信じ続けるかもしれないが、神の承認を得ることは決してない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、文字上でだけ、空しい教義上でだけ神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

神への真の信仰は、ただ救われるために神を信じることではなく、ましてやよい人であることではありません。また単に人間らしさをもつようになることでもありません。実際、信仰とは単に神が存在すると信じること、また神は真理であり、道であり、いのちだが、それ以上のものではないと信じることだ、という見方をしてはいけません。また、あなたに神を認めさせ、神は万物の支配者にして全能であり、この世の万物を創造し、唯一にして至高であると信じさせるのが目的でもありません。信仰は単にその事実を信じることではないのです。あなたの存在全体と心が神に与えられ、神に服従するべきだというのが神の旨です。つまり、神に従い、神があなたを用いられるようにし、喜んで神に奉仕し、神のためにできることは何でもするべきなのです。それは、神によって予定され、選ばれた人だけが神を信じるべきだということではありません。実際には全人類が神を崇拝し、神を耳に傾け、神に従わなければなりません。人類は神によって造られたからです。あなたがいつも「私たちは永遠のいのちを得るために神を信じているのではないか。救われるために神を信じているのではないか」などと言うなら、神に対するあなたの信仰はさほど重要でない事柄のようであり、何かを得るためだけになされています。神への信仰をそのように見てはいけません。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することだけが、神を真に信じることである」より引用

今日の実際の神への信仰とは何なのか。それは、神の真の愛を達成するために、神の言葉をあなたのいのちの現実として受け入れることであり、神の言葉から神を知ることである。明確に言うならば、すなわち神への信仰は、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神の被造物によって為されるべき本分を遂行することに資するものである。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、造ったものの中で、神がいかに救いの働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、神への信仰における最低必要事項である。神への信仰はおもに、肉の生活から神を愛する生活への転換、堕落の中の生活から神の言葉のいのちにおける生活への転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰はおもに、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためのものである。その結果、あなたは、神の旨を行い、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンの前で神への証しとなることができるようになる。神への信仰は、しるしや不思議を見たいという願望を中心とせず、個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死ぬまで神に従うことを追求することでなければならない。これが、神への信仰の主要な目的である。神の言葉を飲み食いするのは、神を知るためであり、神を満足させるためである。神の言葉を飲み食いすることは、神についてのより大きな認識をもたらす。そうなってはじめて、あなたは神に従うことができる。神についての認識があってはじめて、あなたは神を愛することができ、そしてそれが、人が神への信仰において持つべき目標である。もし、神への信仰において、いつも、しるしや不思議を見ようとするなら、そのような神への信仰の考え方は間違っている。神への信仰とは、おもに、いのちの現実として神の言葉を受け入れることである。神自身の口から出た言葉を実践し、あなた自身の内部でそれらの言葉を実行することでのみ、神の目的は達成される。神を信じることにおいて、人は神によって完全にされるように、神に服従することができるように、神に完全に従順でいられるように努力すべきである。もし不平もなく神に従うことができ、神の希望を心に留め、ペテロの霊的背丈に達し、そして神が言うところのペテロの流儀を所有するなら、それはあなたが神への信仰に成功したときであり、そしてそれは、あなたが神のものとされたことを意味するのである。

『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)

あなたは神を信じているのだから、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を体験し、神の言葉を生きなければならない。それだけが神への信仰と呼べるのだ。口では神を信じると言いながら、神の言葉を一つも実践できていなかったり、何の現実も生み出せていなかったりするのなら、それは神への信仰とは言えない。それは単に、「飢えを満たすためにパンを求めている」だけだ。あなたが取るに足らない証しや役に立たない事柄、表面的な物事について話すだけで、現実を少しも得ていないなら、それは神への信仰ではなく、神を信じる正しい道をまったく把握していないことになる。なぜ神の言葉をできるだけ多く飲み食いしなければならないのか。神の言葉を飲み食いせずに、ただ天に昇ることだけを求めているのなら、それは神への信仰であろうか。神を信じる人が進むべき最初の一歩は何だろうか。神はどのような道によって人間を完全にするのだろうか。神の言葉を飲み食いせずに、人が完全にされることはできるだろうか。神の言葉を現実として持つことなく、神の国の民とみなされることができるだろうか。神への信仰とは、正確には何を意味するのか。神を信じる人々は、最低限として外見上よい振る舞いをしなければならず、何よりも重要なことは、神の言葉を持っていることである。何があろうとも、神の言葉から離れることはできない。神を知ること、神の心を満たすことは、すべて神の言葉を通して達成される。将来的にはすべての国、教派、宗教、領域が神の言葉を通して征服される。神は直接語りかけ、すべての人々は神の言葉をその手に抱き、それによって人類が完全にされる。内にも外にも、神の言葉はあらゆるところに行き渡る。人類は自らの口で神の言葉を語り、神の言葉にそって実践し、神の言葉を心の中に留め、内も外も神の言葉に満たされ続ける。このようにして人は完全にされる。神の心を満たし、神の証しをすることができる人々は、神の言葉を自身の現実としている人々なのである。

『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)

神に仕える者は、神のためにどう苦しむべきかを知るだけでなく、それ以上に、神を信じる目的は神への愛を追い求めることだと理解しなければならない。神があなたを用いるのは、単にあなたを精錬したり、苦しませたりするためでなく、むしろあなたが神の業を知り、人生の真の意義、とりわけ、神に仕えることが容易な業ではないことを知るようにするためである。神の働きを体験することは、恵みを享受することでなく、むしろ神に対する自分の愛のために苦しむことに関係している。あなたは神の恵みを享受しているのだから、神の刑罰も享受しなければならない。そのすべてを経験しなければならないのである。あなたは自分の中における神の啓きを経験できるが、自分に対する神の取り扱いと裁きも経験できる。このように、あなたの経験は包括的なのである。神はあなたに裁きと刑罰の働きを行なった。神の言葉はあなたを取り扱ったが、それだけでなく、あなたを啓いて照らしもした。あなたが否定的かつ弱くなったとき、神はあなたのことを心配している。この働きはどれも、人間に関するすべてのことが神の指揮下にあることをあなたが知るようにするためである。あなたは、神を信じるとは苦難を受けること、または神のためにありとあらゆることを行なうことだと考えているかもしれないし、神を信じる目的は自分の肉が平和であるため、人生において万事が順調に進むため、あるいは自分があらゆることにおいて快適かつ気楽でいられるためだと思っているだろう。しかし、これらの目的はどれも、神への信仰に付随させるべきではないものである。あなたがそうした目的のために信じているのであれば、あなたの見方は誤りであり、あなたが完全にされることは不可能である。神の業、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の不思議と計り知れない性質は、どれも人々が認識すべきことである。そうした認識をもち、またそれを使うことで、自分の個人的な要求、希望、および観念を心の中から残らず取り除きなさい。これらのことを排除して初めて、あなたは神から求められる条件を満たすことができる。そうすることでのみ、あなたはいのちを得、神を満足させられるのである。神を信じる目的は、神を満足させ、神が求める性質を生きることで、神の業と栄光がこの無価値な人々の集団を通じて示されるようにすることである。これが神を信じる正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは神を信じることについて正しい観点をもち、神の言葉を得ることを求めなければならない。神の言葉を飲み食いし、真理を生きられるようにならなければならず、とりわけ神の実際の業、全宇宙を通じて為される神の素晴らしい業、そして、神が肉において行なう実践的な働きを見られるようになる必要がある。人は実際の経験を通じ、神が自分にどう働きを行なうのか、自分に対する神の旨が何かを理解することができる。それはどれも、人々の堕落したサタン的性質を排除するのが目的である。自分の中にある汚れと不義を一掃し、誤った意図を取り除き、神に対する真の信仰を育んだ後、真の信仰をもつことでのみ、あなたは神を真に愛することができる。神への信仰を基礎としなければ、あなたは本当に神を愛することができない。神を信じることなく、神への愛を実現できるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについて混乱してはならない。中には、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを知るやいなや、活力に満ち溢れるものの、精錬を受けなければならないことを知ったとたん、すべての精力を失う人がいる。それが神を信じることなのか。最終的に、あなたは自分の信仰において、神の前で完全無欠の服従を成し遂げなければならない。あなたは神を信じているが、依然として神に要求を行ない、捨てきれない宗教的観念、諦めきれない個人的な利益が数多くあり、いまだに肉の祝福を求め、神が自分の肉を助け出し、自分の魂を救うことを望んでいる。これらはみな誤った観点をもつ人々の振る舞いである。宗教的な信念をもつ人々は、神を信仰してはいるものの、自分の性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益しか求めない。あなたがたの多くは、宗教的信念の範疇に属する信仰をもっている。それは神に対する真の信仰ではない。神を信じるには、神のために苦しむ覚悟がある心と、自分を捧げる意志をもっていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、神に対するその人の信仰は無効であり、性質の変化を成し遂げることはできない。心から真理を追い求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人だけが、真に神を信じる者である。

『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」(『言葉』第1巻)

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