不信者とは何か。
関連する神の言葉
あなたは神を信じているので、あなたは神の言葉とその働きの全てに信仰を持たなければならない。つまり、あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことはないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。
『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」(『言葉』第1巻)
神の言葉を誤って理解している者は皆未信者である。彼らは真の認識を少しも持ちあわせておらず、まして真の器など備えてはいない。彼らは、現実性に欠ける無知な人々である。つまり、神の言葉の本質から外れて生活する者は皆未信者である。人間により未信者とみなされた者たちは、神の目から見ると獣であり、神により未信者とみなされた者たちは、神の言葉を自分のいのちとして持っていない者である。したがって、神の言葉の現実性を自分のものとしておらず、神の言葉を実際に生きることを怠る者は未信者である。
『神の出現と働き』「真理を実践することだけが現実を自分のものにすることである」(『言葉』第1巻)
神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が讃美しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。こうした人々は、何年にわたり神に付き従って来たかによらず、自分の考えや観点は全く変わらない。こうした人々は、信仰を持たない人々のようであり、信者以外の原則や作法に従って物事を対処し、信者以外の人々が持つ生存の規則や信念を遵守している。こうした人々は神の言葉を自分自身のいのちであることを決して認めず、神の言葉が真理であると決して信じず、神の救いを受ける意志が一切無く、神を自らの神として認めたことが一度も無い。こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる霊的な必需品のように扱っているため、神の性質や本質を理解しようとすることが有意義だと考えていない。真の神に該当する物事全てが、こうした人々に無縁であると言えるであろう。こうした人々は無関心であり、わざわざ注意を払うことも無い。これは、こうした者の心の深部において、神は視認できず、触れる事も出来ず、したがって神は存在しない、と常に激しい口調で伝える声があるからである。こうした人々は、そのような神を理解しようとすることは、努力に値しない、自分自身を騙そうとしているだけだと考えている。こうした人々は言葉で神を認めるのみで、本気で証しをすることは無い。また、こうした人々は実践的には何もせず、自分達が利口だと考えている。神は、こうした人々のことを、どう思うであろうか。神は、こうした人々を、信者以外の者とみなす。「信者以外の者が神の言葉を読めるだろうか。その者が自分の本分を尽くせるだろうか。その者は『私は神のために生きる』と述べられるだろうか」と質問する者がいる。多くの場合、人間が見るのは、人々の表面的な物事であり、その本質ではない。しかし、神は表面的な物事を見ず、内面的な本質のみを見る。したがって神には、こうした人々に対してそのような姿勢であり、そのように定義されている。
『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)
一部の人々は真理を喜ばず、裁きとなればもっと喜ばない。むしろ、人々は権力と富に喜びを見出すのであり、そのような人々は俗物と呼ばれる。彼らはもっぱら、影響力を持つ世界中の宗派や、神学校出身の牧師や教師を探し求める。真理の道を受け入れたにもかかわらず、彼らはどこまでも懐疑的で、自分自身を完全に献げることができない。彼らは神のために犠牲を捧げることについて話しはするものの、その目は偉大な牧師や教師に注がれ、キリストは無視されている。彼らの心は名声、富、栄誉にばかり向けられている。彼らは、そのような取るに足りない人がそれほど多くの者を征服することができ、そのような平凡な人が人を完全にすることができるなどと全く信じない。塵と糞の中にいるこれらのとるに足りない人々が神に選ばれているとは信じないのである。もしそのような人々が神の救いの対象であれば、天と地がひっくり返り、すべての人間が大笑いするだろうと彼らは信じている。彼らは、もし神がそのような取るに足らない人々を完全にするために選んだのであれば、先に挙げたような偉大な人たちは神そのものになると信じている。彼らの考え方は不信仰によって汚れている。実際のところ、不信仰どころか、彼らは、ばかげたけだものである。なぜなら、彼らは地位、名声、権力だけに価値を置き、重要視するものは大組織や宗派であるからである。彼らはキリストに導かれる者のことを全く考慮しない。キリストに、真理に、そしていのちに背をむけた裏切り者でしかないのである。
あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、目立った地位にある偽の牧者たちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を愛さないが、邪悪な世と交わりを持つ奔放な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを奪い取り放蕩な生活を送る屍たちを賞賛するのである。あなたはキリストのそばで苦しむ覚悟はないが、あなたに肉、言葉、支配しか与えない無謀な反キリスト者たちの腕の中に喜んで飛び込む。今でもあなたの心は、彼らに、彼らの評判に、彼らの地位に、そして彼らの影響力に向いている。それなのに、あなたはキリストの働きを飲み込みがたいものにする態度をとり続け、進んでそれを受け入れようとしない。だから、あなたにはキリストを認める信仰がないとわたしは言うのである。あなたが今日に至るまでキリストに従ってきたのは、あなたが強いられていたからに過ぎない。一連の気高いイメージが、あなたの心にいつまでもそびえている。彼らの言葉や行いのひとつひとつが忘れられず、彼らの影響力ある言葉や手も忘れられない。あなたの心の中では、彼らは永遠に至高で、永遠に英雄なのである。しかし、これは今日のキリストにはあてはまらない。彼はあなたの心の中で永遠に取るに足らない存在であり、永遠に畏敬に値しない。なぜなら、彼はあまりにも普通すぎ、あまりにも影響力がなさ過ぎ、高遠さからははるかにかけ離れているからである。
いずれにしても、真理を重んじない者はすべて、不信仰者であり真理を裏切る者であるとわたしは言う。そのような人は決してキリストの承認を得ることはない。
『神の出現と働き』「あなたは本当に神を信じる人なのか」(『言葉』第1巻)
神への信仰において、いつも神の前で生きていないのであれば、心の中に神への畏れを持たず、ゆえに悪を避けることができません。これらはつながっています。心が常に神の前で生きていれば、抑制が働き、多くの物事において神を畏れます。行き過ぎることがなく、あるいは自堕落なことをすることもありません。神が嫌うことをせず、理知に欠けた言葉を語ることもありません。神の観察を受け入れ、神の鍛錬を受け入れれば、多くの悪事をしないようになります。このようにして悪を避けるのです。そうですね? 神への信仰において、戸惑いの状態にあることが多く、自分の心に神がいるかどうかが分からず、自分が心の中で何をしたいと望んでいるかを知らないのであれば、また神の前で心穏やかでいることができず、何かが起きたときに神に祈ったり真理を探し求めたりしないのであれば、さらに、自分の意志に従って行動することが多く、自分のサタン的性質に従って生き、傲慢な性質をあらわにするのであれば、そして神の精査や鍛錬を受け入れず、神に服従しないのであれば、こうした人々は常にサタンの前で生き、自分のサタン的性質に支配されます。よって、こうした人々は神への畏敬をこれっぽっちも持っていません。彼らは悪を避けることがどうしてもできず、たとえ悪事をしないにしても、考えることはみな悪であり、真理と結びついておらず、真理に反しています。では、こうした人々は基本的に神との結びつきがないのですか。彼らは神によって支配されているものの、神の前に出向いたことがなく、神を神として扱ったことがなく、自分を支配する創造主として神を扱ったことがなく、神が自分の神にして主であることを認めたことがなく、心から神を崇めようと考えたことがありません。こうした人々は神を畏れることが何を意味するか理解しておらず、悪をなすことを自分の権利だと考え、こう言います。「私は自分のしたいことをする。自分のことは自分で面倒を見るから、他の誰も関係ない」。彼らは悪をなすことを自分の権利だと考え、神への信仰を一種の題目、儀式の一形態として扱います。これでは彼らは非信者ということにならないでしょうか。彼らは非信者です!
『キリストの言葉の記録』の「常に神の前で生きてのみ、救いの道を歩くことができる」より
説教と交わりの参考箇所
神の家の者は誰もが神を信じています。しかし、ある種の人は神を信じていると主張しながら、心の中では神の存在、神が万物を創造されたという事実、神による万物の支配、神の受肉、神の言葉、真理について疑いを抱いています。この一つの意味は、彼らにはこれらのことが本当かどうかを確認できないということです。もう一つは、これらのことが不可能であると信じて、依然として疑っているということです。彼らは心の中では何を信じているのでしょうか。物質世界に存在するものをすべて信じています。自分の目で見えるものをすべて信じ、自分の手で触れられるものをすべて信じています。彼らは自分の目で見ることのできないものには懐疑的な態度を取り、それを認めさえしないほどです。この種の人は名目上でしか神を信じておらず、実際には単なる非信者です。西洋の宗教においては、牧師の二十五パーセント、つまり四人に一人の牧師が主イエスが聖霊によって宿されたとは信じておらず、聖書について疑問を抱いていると私は聞いたことがあります。西洋の牧師の中には非信者がこれだけ多くいます。特に神の二度目の受肉に関しては反対がさらに強くなります。彼らは、「神は天にのみ存在し、人のあいだで働かれることは決してない」と信じています。その結果、神が到来したと言う人は誰でも、西洋の牧師の大多数に異端者として非難されます。あなたはこの人々は非信者であると言わないでしょうか。彼らは非信者です。非信者は聖霊の働きを信じないのです。彼らはこう言います。「これは人が考え出すことだ。人の心は一時的に刺激されたり、時には啓発されたりすることもありえる。しかし、これは聖霊の働きとは関係ない」彼らは聖霊の働きを信じていません。また、神の御言葉が神によって語られたとも信じていません。彼らは言います。「これらの言葉は人が話したのだ。神が言葉を言うのを誰が見たのだ。どうして神にこれらのことが言えるのか。これは人が話したのだ」神の受肉や聖霊の働きを信じず、神の御言葉が神と神の御霊によって表されていることさえも信じない人はみな非信者です。自らの神への信仰がどれほど本物であると言っても、彼らは非信者なのです。非信者とは神を信じないと主張する人ではありません。非信者は神を信じていると口では言いますが、心は信じていないのです。非信者であるとはこういうことであり、彼らはペテン師であるとも言えるのです。
『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「いかに種類ごとに人を見極めるか」より
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