聖書の中で、パウロは「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた」(テモテへの第二の手紙 3:16)と言っています。ではどうして、聖書のすべての言葉が神の御言葉だというわけではないと、あなたがたはおっしゃるのですか。

2020年8月13日

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聖書にあることがみな、神が自ら語った言葉の記録というわけではない。聖書はただ、神の働きのうち以前の二段階を記載しているに過ぎない。その一部は預言者たちによる預言の記録で、別の一部は各時代で神に用いられた人々の経験と認識である。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、それは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい理解が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓きと照らしの結果であり、それらは正しい理解である。それでも、真理をまったく正確に表現しているとは言えない。ある物事に対するそれらの見方は、個人的な経験から得た認識に過ぎないか、あるいは聖霊による啓示である。預言者たちの預言は神が直接指示したものである。つまり、イザヤ、ダニエル、エズラ、エレミヤ、そしてエゼキエルのような者たちによる預言は、聖霊による直接の指示から生じたのである。これらの人たちは預言者で、預言の霊を受けており、みな旧約の預言者だった。律法の時代、ヤーウェの霊感を受けていたこれらの人たちは多くの預言を語ったが、それらはヤーウェが直接指示したものだった。

『神の出現と働き』「聖書について(3)」(『言葉』第1巻)

旧約の律法の時代、ヤーウェによって起こされた大勢の預言者が神の預言をした。彼らはさまざまな部族や民族に指示を与え、ヤーウェが行なうであろう働きを預言した。これら起こされた人はみな、ヤーウェから預言の霊を与えられていた。彼らはヤーウェからのビジョンを見、その声を聞くことができたので、ヤーウェに啓示を受けて預言を書いた。彼らの行なった働きはヤーウェの声の代弁、ヤーウェの預言の代弁であり、当時のヤーウェの働きは、単に霊を用いて人々を導くことだった。ヤーウェは受肉せず、人々は神の顔をまったく見なかった。そこで、ヤーウェは大勢の預言者を起こして、自分の働きを行なわせ、預言者たちに神託を与え、彼らはそれをイスラエルのすべての部族や氏族に伝えた。彼らの働きは預言を語ることであり、彼らの一部はヤーウェからの指示を記述して他の人々に見せた。ヤーウェはこれらの人々を起こして預言を語らせ、将来の働きや、当時まだなされていなかった働きについて預言させた。それにより、人々はヤーウェの知恵と素晴らしさを目の当たりにすることができた。これらの預言書は、聖書の他の書とは大きく異なっていた。それらは預言の霊を与えられた人、ヤーウェからビジョンや声を得た人によって語られ、あるいは記された言葉である。預言書を除き、旧約の他のすべては、ヤーウェが自身の働きを終えた後に人々が作成した記録から成っている。これらの書は、創世記や出エジプト記がイザヤ書やダニエル書と比較できないのと同様、ヤーウェの起こした預言者による預言の代わりにはなれない。それらの預言は働きが実行される以前に語られたものであり、一方、他の書は働きが完了してから書かれたものであって、それが人々にできることだった。……このように、旧約聖書に記されていることは純粋に、当時のイスラエルにおける神の働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、地上における神の他の働きを預言するもので、ヤーウェ神自身の働きを預言していた。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言書を除いて、他のすべてはヤーウェによる当時の働きに関する、人々の経験の記録である。

『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)

今日、聖書は神であり、神は聖書であると人々は信じている。また、聖書のすべての言葉は神が語った唯一の言葉であって、それらはどれも神によって述べられたと信じている。神を信じる人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだが、みな神から霊感を受けており、聖霊の発言を記録しているとさえ考えている。これは人の誤った理解であって、事実とまったく一致していない。実際、預言書を別にして、旧約の大半は歴史的記録である。新約の書簡の中には、人々の経験に由来するものもあれば、聖霊の啓きに由来するものもある。たとえば、パウロの手紙は一人の人間の働きから生まれたもので、どれも聖霊による啓きの結果だった。また、それらの手紙は諸教会のために書かれたもので、諸教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語る言葉ではなかったのであり、パウロが聖霊の代わりに語ることはできなかったのである。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが目の当たりにした幻を見てもいない。パウロの手紙はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、およびその他の教会に向けて書かれた。したがって、新約のパウロの手紙は彼が諸教会に向けて書いた手紙であって、聖霊からの霊感ではないし、聖霊が直接発した言葉でもない。それらは単に、パウロが働きのさなかに諸教会に向けて書いた勧告と慰めと励ましの言葉であり、また同時に、パウロによる当時の活動の大部分を記録するものでもある。それらは主の兄弟姉妹全員のために書かれたもので、当時の諸教会の兄弟姉妹がパウロの助言に従い、主イエスの悔い改めの道を守るようにするためのものだった。パウロは、当時の教会であれ、未来の教会であれ、自分の書いたものを全員が飲み食いしなければならないとは絶対に言わなかったし、自分の言葉はすべて神に由来するものだとも言わなかった。パウロは単に、当時の教会の状況に応じて兄弟姉妹と交わり、彼らを励まし、彼らの信仰を深めようとしていたのであって、ただ教えを説いたり、人々の注意を促して勧告したりしていたに過ぎない。彼の言葉は彼自身の重荷に基づいており、それらの言葉を通じて人々を支えた。彼は当時の諸教会の使徒の働きを行ない、主イエスに用いられる働き手だった。したがって、教会の責任を背負い、教会の働きを引き受け、兄弟姉妹の状況を知らなければならなかった。そのため、主における兄弟姉妹全員に手紙を書いたのである。彼が述べたことはどれも人々にとって啓発的であり、肯定的であって、いずれも正しかったが、それは聖霊の発する言葉を代弁していたのではないし、神を表わすこともできなかった。一人の人間による経験の記録や手紙を、聖霊が諸教会に向けて語った言葉として扱うのは、言語道断な解釈であり、ひどい冒瀆である。パウロが諸教会に向けて書いた手紙については、特にそうである。なぜなら、彼の手紙は当時の各教会の事情と状況に基づき、兄弟姉妹に向けて書かれたものであり、主における兄弟姉妹を励まし、彼らが主イエスの恵みを受けられるようにするためのものだったからである。彼の手紙は、当時の兄弟姉妹を奮起させるためのものだった。それは彼自身の重荷であり、また聖霊が彼に背負わせた重荷でもあったと言える。結局のところ、彼は当時の諸教会を導き、諸教会に手紙を書いて励ました使徒である。それが彼の責任だった。彼の身分は単に働きを行なう使徒であって、神に遣わされた使徒に過ぎない。彼は預言者でも予知する者でもなかった。彼にとっては自分の働きと兄弟姉妹のいのちが最も重要だったのである。それゆえ、彼は聖霊の代わりに語ることができなかった。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、ましてや神の言葉だったとは到底言えない。パウロは神の被造物に過ぎず、決して神の受肉ではなかったからである。彼の身分はイエスの身分と同じではなかった。イエスの言葉は聖霊の言葉であり、神の言葉だった。イエスの身分はキリスト、すなわち神の子の身分だったからである。どうしてパウロがイエスと対等になれようか。もし人々が、パウロが書いたような手紙や言葉を見て、それらを聖霊の発した言葉と見なし、神として崇めるなら、それはあまりにも分別がないとしか言えない。もっと厳しい言い方をすれば、それは単に冒瀆ではないのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、人間の手紙や語った言葉の記録がまるで聖なる書か天の書であるかのように、どうしてその前に額ずけるというのか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。それで、あなたは何と言うのか。パウロが諸教会に向けて書いた手紙には、彼自身の考えが混じっているのではないか。どうして人間の考えで汚れていないことがあり得ようか。彼は自分の個人的経験と認識に基づいて教会に手紙を書いた。たとえば、パウロはガラテヤの教会に向けて手紙を書いているが、そこにはある意見が含まれている。またペテロも別の手紙を書いているが、そこには別の意見が記されている。どちらが聖霊に由来するものなのか。誰一人断言することはできない。ゆえに、彼らは二人とも教会のために重荷を背負っていたが、彼らの書簡はそれぞれの霊的背丈を表わし、また兄弟姉妹に対する彼らの施しと支え、そして教会に対する責任を表わすものであって、人間の働きを表わしているに過ぎない。それらがすべて聖霊のものというわけではないのである。パウロの手紙は聖霊の言葉だと言うのなら、あなたは愚かで、冒瀆を犯している。パウロの手紙や新約のその他の書簡は、より最近の霊的人物による回顧録のようなものだ。それらはウォッチマン・ニーの著書やローレンスの経験などと同じようなものである。つまり、最近の霊的人物の著作は新約の中に収められていないが、そうした人物の本質は同じだということである。彼らは一定期間にわたり聖霊に用いられた人々だったが、直接神を表わすことはできなかったのである。

『神の出現と働き』「聖書について(3)」(『言葉』第1巻)

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