聖書は神の働きの証です。信者は聖書を読むことでのみ、神が天と地と万物を創造したことを理解するようになり、神の不思議な業や神の偉大さと全能性を知ることができます。聖書には神の言葉がたくさんあり、また人の経験の証もあります。それらは人のいのちに必要なものを提供し、大きな啓発をもたらすことができます。そこで私が知りたいのは、聖書を読むことで実際に永遠のいのちを得ることができるか、ということです。聖書の中に永遠のいのちの道はないということがありえるのですか。

2021年3月19日

回答:聖書を読むと、神様が万物の創造主だということや、その驚くべき業が分かります。これは聖書が神様の働きの最初の2段階の証しで、律法の時代および恵みの時代の御言葉と働きの記録だからです。ですから、聖書は私たちの信仰にとても重要です。もしも聖書がなかったら、どうやって主の御言葉を理解し、主を知ることができますか?どうやって神様の御業を証しし、神様への真の信仰を持てるというんでしょう?もし聖書を読まなければ、神様に従ってきた聖徒たちの本物の証しをどうやって確認できるんですか?ですから、聖書を読むことは信仰の実践に不可欠です。信者は聖書から逸脱すべきではありません。聖書から逸脱する者は、主を信じていないと言えるでしょう。これは聖徒たちの経験から証明されています。信仰における聖書を読むことの意義と価値を誰も否定できません。つまり、各時代の聖徒や信者たちはみな、聖書を読むことを重要だと受け止めていました。聖書を読み祈ることは、2本の足のようなもの、それがなければ、前へは進めません。ただし、主は言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない(ヨハネによる福音書 5:39-40)。なのに、勘違いする人もいます。聖書が神様の御言葉と人による証しを記録したものなら、聖書を読めば、永遠の命が得られるはずだと、では、なぜ主は聖書の中に永遠の命はないとおっしゃったんでしょう?実は、そう難しい問いではありません。そもそも、律法の時代と恵みの時代における、御言葉と働きの内情と本質、成果を理解していれば、なぜ聖書を読んでも、永遠の命が得られないか分かるでしょう。まず律法の時代を考えてみましょう。この時代のヤーウェ神の働きは、人が従うべき律法、戒め、掟の普及がおもでした。御言葉のほとんどは未熟な人類を地上の暮らしで導くもの、人の命の性質を変えることは関わっていません。つまり、律法の時代の御言葉はすべて、人を律法と戒めに従わせることが目的でした。これらの言葉は真理ですが、初歩的な真理を表していました。そして恵みの時代、主イエスの御言葉と働きは贖いの働きに集中していました。神様が発した言葉は贖いの真理、罪を告白し悔い改め罪から遠のくこと、これを人に説いたものでした。また主への祈り方を教え、人が心から主を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、他人に対する寛容と忍耐を持つこと、ひたすら他人を許すことを説いています。これらはすべて悔い改める方法なんです。つまり、聖書を読んでも、律法の時代と恵みの時代の神様の働きを理解できるだけです。万物が神様によって創造されたことを知り、地上でどう生き、どう神様を礼拝するのかを学びます。誰が神様に祝福され、誰が呪われ、罪とは何であるか。神様に罪をどう告白し悔い改めたらよいか。謙虚さや忍耐や寛容の精神、十字架を負い主に従うこと、主イエスの私たちへの無限の憐れみと思いやりを知るんです。主イエスの前に来ることによってのみ、豊かな恵みと真理を得ることができると分かります。聖書に記された律法の時代と恵みの時代の御言葉と働きは、人類を救う計画と当時の人類の必要に沿って神様が語られた真理です。これらの真理で、人の命の性質を変えることはできず、人が清められ、救われ完全になることは決してできませんでした。こうして、恵みの時代に主イエスが発した御言葉は、悔い改める道とは呼ばれても、永遠の命の道とは呼ばれないんです。

永遠の命への道とは何ですか?それは人間が永遠に生きることができる真理の道です。人間を罪深い性質の束縛から解き放つ道であり、人間の命の性質を変えることで、命の真理を得て、サタンの影響から解放され、キリストと一致するようになるんです。それは人が神様を知り、従い、畏れ敬い、二度と神様に逆らい裏切らないということです。これを達成できる道こそ、永遠の命への道と呼ばれるべきでしょう。人間は罪があるからこそ、死ぬ定めなんです。もし人がいのちの真理を得て、罪から解放されたなら、神様から永遠の命を与えられることでしょう。ですから、終わりの日に神様から救われることでのみ、神様が人類に与える永遠の命への道を得られるんです。主イエスは言われた。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない(ヨハネによる福音書 11:25-26)。このことは、人の生死は神様の御手の中にあることを示しています。それは神様の権威であり、自分の運命を変えられる人は誰もいません。終わりの日の神様の働きを受け入れて真理を自分のいのちとして受け入れることで救いに到達した人だけが、永遠のいのちを得ることができるのです。これは実に確かなことです。ですから、主イエスが恵みの時代に贖いの働きを完成された後、主イエスは戻って来られると約束され、その当時こう言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネの福音書16:12-13)。戻ってこられた主イエスが示された真理のみが、永遠のいのちへの道であり、そのことから、キリストが真理であり、道であり、いのちであることが分かります。聖書にはなぜ永遠のいのちの道が含まれていないのでしょうか。それはおもに聖書は過去の二段階の働きを記録しており、終わりの日に神様が人類を清め、救うためにお表しになる真理を全て含んではいないからです。ですから、聖書は永遠のいのちの道を含んでいないのです。けれども、この事実のせいで神様の証しとしての聖書と、その読み手に与える効果が縮小するわけではありません。聖書に書かれている神様の証しは真実であり、神様が天地万物を創造されたことは真実であり、何世代にも亘る聖徒たちの神様への従順と忠実の証しは真実であるからこそ、人間の心の中に占める聖書の地位は揺らぐことがないのです。何世代もの聖徒たちは聖書から受けた啓発により成長し、成熟したと言えるでしょう。人間の堕落した性質が人の中に存続し、サタン的な本質もずっと存在し、真に清められてはいないにも関わらず、聖徒たちの神様への信仰と忠実は揺らぐことがありませんでした。多くが主のために殉教し、みな美しく素晴らしい証しとなりました。それらは律法の時代と恵みの時代における神様の働きの成果なのです。主を信仰する者は数えきれないほどいて、彼らはみな清められてはおらず、いのちの性質も変えられておらず、神様に対する真の認識も欠けているけれども、彼らの信仰は真実だったということは私たちの誰にも明らかです。神様はこのような人々をお見捨てになりませんでしたし、終わりの日に主が戻られたとき、彼らが主の前に引き上げられ、清められ、完全にされるのを待っておられます。このようにして、主への真の信仰を持ち真理を愛する者はみな、終わりの日に神様がお授けになる永遠のいのちの道を得るのです。聖書がなぜ永遠のいのちを授けることができないかが、これで分かったのではないでしょうか。

神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

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