宗教界の牧師と長老たちは聖書のパウロの次の言葉に固執して、聖書にあるすべては神の言葉であると信じています。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって……」(テモテヘの第二の手紙 3:16)けれど、聖書の言葉は全体的に神の言葉で成り立っているのではないとあなたがたは言います。これは一体何のことですか。
回答:そもそも、私たちは聖書がどのように形を成し、いつ作成されたかを理解する必要があります。聖書の原書とは旧約聖書を指します。イスラエル人、つまりユダヤ人は旧約聖書のみを聖書と呼びました。その後、恵みの時代に主イエスが贖いの御働きの段階をなされました。主から三百年以上経ったとき、当時の教会指導者達が集まり、会議を開きました。彼らは終わりの日が近づいており、主イエスがお話しになった御言葉を弟子が書いた書簡とともにまとめ、旧約聖書に似た一冊の本にまとめ、各地の教会に送るべきだと考えました。このようにすることで、書簡が適切に守られ、教会のいのちを正しい道に置くことができます。そうして、彼らは主イエス様の使徒と弟子のすべての書簡を分類し、まとめ、調査をした後、二十七の書を最終的に選び新約聖書の正典としました。その後、新約聖書の正典の二十七書を旧約聖書と合わせ、聖書の全体の内容としました。これが新約聖書と旧約聖書からなる本の成り立ちの基盤です。聖書全体が神様の霊感を受けて書かれたものと信じている人がいます。具体的には、当時パウロは、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた」と言っています。この言葉の背後には一つの事実があります。この言葉が言われた時、新約聖書はまだ一冊の本になっていなかったため、新約聖書はなく、まだ綴じ込んでいない書簡がそれぞれの教会で保管されていました。このような背景に鑑みれば、パウロの言葉は結局何を指していたことになりますか。もちろん、それは旧約聖書に言及していたのです。したがって、パウロがテモテヘの第二の手紙で言った「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた」は、旧約聖書を指しており、新約聖書ではありません。これは事実です。しかし、終わりの日の人々はパウロが言った「聖書」という言葉を旧約聖書と新約聖書を合わせた聖書全体と解釈しています。これは当時の事実と反するもので、パウロが当時言ったことの背景に反するものです。したがって、これは事実と一致せず、偏り、誤った解釈です。これはさておき、もし旧約聖書が神様の霊感を受けて書かれたものであると言われたならば、これ批判に耐える主張ですか。「神の霊感を受けて」とは何のことですか。「霊感」は何を意味しますか。旧約聖書の律法の時代においては、モーセはイスラエル人の指導者であり、神様が派遣なさった代理人、つまり、イスラエルの民をエジプトから連れ出し神様の律法を伝えた人でした。律法の時代の御働きは、神様がモーセを使って行われました。モーセは旧約聖書を説明する最大の権威を有しており、他にこの資格を持っているものはいませんでした。モーセ五書の中で、モーセは自分の記述したものは神様の霊感受けたものだと言いましたか。第一に、モーセはそうは言いませんでした。第二に、神様が旧約聖書の時代に使った全預言者の中にも、最も偉大な預言者、イザヤ、ダニエル、エゼキエルのうちの誰もこのような発言をしませんでした。「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれた」という言葉は、後にパウロのみが言ったのであり、したがって、証拠として完全に受け取ることはできません。もし旧約聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものだと神様が言われたならば、預言者をとおしてそうおっしゃったはずですが、これは預言者の言葉には出てきません。モーセがこのような見方ができたのであれば、そう言っていたでしょう。しかし、モーセの発言の中にもそのような言葉はありません。これが、聖書の成り立ちと構成に関して私たちが持つべき認識です。これは、どのようにして聖書が形成され、誰が記述し、誰が記録したかを正確に知ることを可能にする聖書の内部事情とでも言うことができるものです。聖書には認識と観点を共有する何十人もの著者がいます。そのうちの何人が、これはすべて神様の霊感を受けて書かれたものだと言いましたか。パウロは当時、聖書はすべて神様の霊感を受けて書かれたと言いましたが、それは旧約聖書を指していました。数百年後にはどのように解釈されましたか。旧約聖書と新約聖書のすべてが神様の霊感を受けて書かれたものだと言われています。このような解釈はかなりのこじつけがあり、説得力に欠けるのではありませんか。
新約聖書と旧約聖書と合わせられた後、人はパウロの言葉を読み、パウロが言及しているのは旧約聖書と新約聖書の両方だと信じました。パウロが今でも生きており、後世の人々によるこのような解釈を聞いたなら、「私が当時言ったことは旧約聖書を指しており、新約聖書は含んでいない」と即座に宣言することでしょう。さらに、終わりの日の諸教派の人々が彼らが書いた書簡をまるで神様の御言葉のように扱っているのを見たら、パウロやペテロ、その他の新約聖書の書簡の著者は何と言ったでしょうか。彼らはこの事実を受け入れることができるでしょうか。彼らは何と言ったでしょうか。おそらく、「あぁ、これは問題だ。あなたたちはみな大きな過ちを犯している。今や異端の過ちを犯している。私達はみな兄弟だ。私たちが言ったことは神様の御言葉を表さない。どうしてそんなに盲目になれるのだ。どうして私たちの言葉を神様の御言葉として受け取るなどということができるのだ」と言ったことでしょう。彼らは衝撃を受けることでしょう。パウロとペテロは主イエスの昇天直後に書簡を書いたわけではありません。主イエスの昇天から三十年後に、彼らの書簡が一つづつ現れ始めました。彼らは説教を始めて二十~三十年経つまでは正式に書簡を書き始めました。彼らの書いた手紙が諸教会に送られた後、教会の兄弟姉妹はそれをどのようにとらえましたか。「これは神様の御声だ。これは神様の御言葉だ!」と言うことができたでしょうか。そう言ったでしょうか?「これはペテロ兄弟からの手紙だ。見なさい。彼がこの手紙に書いていることは本当に素晴らしい。本当に啓発的だ」「これはパウロ兄弟からの手紙だ」「これはバルナバからの手紙だ」「これはマタイからの手紙だ」と言ったでしょう。……当時、弟子からのこれらの書簡を神様の御言葉とみなした人がいましたか。百パーセントの確率であり得ません。ペテロやマタイ、その他の使徒は自分が神であると発言したり、自分が受肉した神であると言ったりは決してしませんでした。彼らはみな、自分は主イエスの信者であり、主イエスの弟子であることを認識していました。したがって、当時の諸教会の兄弟姉妹もまた彼らを兄弟とみなし、彼らの手紙や彼らの言ったことは兄弟の言葉、兄弟からの交流、兄弟による証ととらえたのです。これは完全に正しいことで、歴史的背景と一致しています。しかし、今日の人々はこれら弟子の言葉を神様の御言葉とみなし、これらを神様の御言葉と同列において言及します。これは当時の史実に反しませんか。今日の人々は目を大きく開けて、大胆にも史実に反し、使徒たちの言葉を神様の御言葉とみなして、自分が間違っているとは少しも思いません。誰かがこの事実を明らかにすると、彼らは自分たちを弁護し、聖書の言葉を引用します。これらの言葉の根拠はありますか。何を指していますか。それを理解していますか。弟子の手紙に、これと同じ意味のことを表している言葉があります。ペテロは、パウロの言葉や書簡が聖霊の啓示や御働きが含まれていると言いました。しかし、ペテロはパウロの言葉は神様の御言葉だとは言いませんでした。ペテロは、パウロの言葉がすべて聖霊の霊感を受けたものであり、神様の御言葉として取り扱わなければならないとは言いませんでした。そう言ったならば、それは間違いです。パウロは自分自身の言葉が神様の霊感を受けたものであるともあえて言いませんでした。パウロもペテロも、彼らが言ったことが神様の御言葉であると証を立てるようなことはしていません。それなのに、どうして終わりの日の信者は彼らの言葉を神様の御言葉とみなすことができるのですか。このような信者は何の間違いを犯していますか。宗教界にいるあらゆる聖書解釈学者が聖書を正しく理解していたか、していなかったか、どちらだと思いますか。このように非常に馬鹿げた過ちを目の前にして、彼らはそれに気づかず、それについて一切の認識をもたないまま、それがわからないのです。このような人々には真理がなく、物事を見透かすことはできません。それにもかかわらず、他の人々は彼らを盲目的に崇拝しています。信仰において、人々は人間を盲目的に信じ、何でも言われたとおりのことを信じているのです。宗教人は聖書に関して迷信的であり、聖書を崇め、神様より上位に置き、聖書は神様を代表しており、すべては聖書に従うべきと考えます。これは愚かさを示していませんか。人々はどのように聖書に関する盲目的な信念を抱きますか。史実に従って聖書を取り扱いません。本当に真理を求めず、聖霊の啓示と光に従って聖書を取り扱わず、その代りに盲目的に有名人を崇拝します。誰が何を言ったかにかかわらず、これらすべてを正しいとみなし、すべてを受け入れ、無差別に適用します。パウロには過ちがありませんでしたか。パウロが言ったことは正確でしたか。彼もまた人でした。では、人に不純さがまったくないということがどうしたら可能ですか。それでは、恵みの時代に弟子の手紙を神様の御言葉とともに編纂したことは過ちではなかったのですか。聖書にある神様の御言葉は神様の御言葉であり、人が言ったことは人の言葉です。聖書のどの言葉が神様の御言葉ですか。私たちはこれを識別するべきでした。ヤーウェ神御自身が話されたこと、ヤーウェ神がモーセに言うように命じられたこと、ヤーウェ神が預言者に言うように命じられたこと、預言者が伝えるように言われたこと、そしてまた主イエス御自身が話されたこと、これらのみが正真正銘の神様の御言葉です。預言者の言葉に特に象徴的なものに気づきましたか。預言者は「ヤーウェはこう言われた」「ヤーウェが言われたことはこうである」と言い、「我ダニエル(あるいはイザヤ)はこう言う」とは言っていません。これは、預言者は神様の御言葉を伝達していたことを人々に明示しています。したがって、神様が元来お話しになり、預言者が伝えた御言葉は神様の本当の御言葉であり、ヤーウェ神御自身が話されたと記録されていることもすべて神様の本当の御言葉であり、主イエス御自身が話されたと弟子達が記録していることもすべて、神様の御言葉です。聖書のこれらの箇所のみが神様の本当の御言葉であり、それ以外は、弟子が言ったことや神様の従者が記録したことはすべて人による証です。人による証と言えば、問題が発生します。人が話すことはときに不完全であったり、具体的でなかったりと、何かが欠けています。そのため、神様は終わりの日の御働きにおいて、その当時の事実を明らかになさっているのです。たとえば、パウロの状況はこうこうであった、ペテロの状況はかくかくしかじかであった等です。神様は終わりの日の御働きでこれらを補足されます。したがって、このことから、人が言ったことが何であれ、事実上の背景と完全に一致しないことがわかります。これは、神様が終わりの日の御働きの中で明らかになさる問題の一つです。
兄弟の交わりより引用
聖書はすべて神様の霊感によって与えられるとパウロがかつて書簡の中で述べたために、後に宗教界は聖書に記されている一切のことは神様の霊感、神様の御言葉であると規定するようになりました。パウロの言ったことに根拠はありませんでした。神様がそのように聖書の証しをされたことはなく、また聖書は神様の霊感によって与えられ、すべて神様の御言葉であると主イエスがおっしゃったこともないからです。聖書に関するパウロの証しは彼個人の聖書の知識を基にしていただけでした。パウロは神様に代わって語っていたわけではまったくありません。聖書が何であるのかは、聖霊と神様だけがその内幕をご存じであり、被造物である人類がそれを完全に理解できたことはありません。そのことは事実です。主イエスは、聖書は神様の証しであるとおっしゃったに過ぎず、すべて神様の霊感を受けた神様の御言葉であるとはおっしゃいませんでした。また聖霊もそのような聖書の証しを誰にもしていません。ゆえに、パウロの言ったことに根拠はなかったのです。パウロは聖霊の代わりどころか、神様の代わりに語っていたのではありません。聖書の記述はすべて神様の働きに関する実際の出来事や経験の証しの記録であり、神様に仕えた人たちが記したものです。神様ご自身によって書かれた章は一つもなく、各章の筆者は単に神様の御言葉を伝えているか、神様の御名と働きの証しをするために、聖霊によって啓かれ照らされた自分自身の経験や認識を描写したに過ぎません。それは事実です。使徒たちの記録や書簡は聖霊によって啓かれたものですが、それらは神様の御言葉を表わしていません。聖霊は各人が真理を理解して神様についての認識を獲得できるよう、それぞれの個人的な状態に応じてその人を照らし、啓き、導くからです。これが聖霊の働きの結果です。ゆえに聖霊の働きによってもたらされるこの啓きと照らしは、神様の御言葉に相当するものではありません。神様の御言葉は神様のいのちの性質を表わし、すべてがその真理の本質をもっています。神様がお語りになるどの文章も、人間が完全に経験できることは決してありえません。神様の御言葉にはあまりに多くの真理の本質が含まれており、一生涯の限られた経験の中でそれを生きることなど人間にはできないからです。そのため、どれほど真理を理解し神様を知ろうとも、人は決して神様の御言葉を表現できません。ゆえに聖霊の啓きと照らしは、真理を理解する光をいくらか人間に提供するだけだということがわかります。人の経験の証しがどれほど深遠でも、神の言葉とは比較になりません。人間の本質と神様の本質は昼と夜ほど違っているので、人間は決して神様の御言葉を表現できません。神様の神性の本質を授けられたキリストだけができるのです。預言者は神様の御言葉を伝えることしかできませんし、聖霊に用いられている人でさえ神様の御言葉を表現することはできず、自分自身の経験と証しを語れるだけです。人間は自分の本質に応じて表現できるだけであり、そしてどう生きるかがその証しを決定します。神様は神性の本質を有しておられるので、当然神様の御言葉を表現なさいます。私たち人間は人間としての本質を持っているので、私たちが表現することは当然自分の経験と証しに基づいています。そうであれば、人間が伝えたことのうち神様の御言葉である部分を除けば、残りは間違いなく人間の体験と認識の記録です。それらが真理と合致していても、決して神様の御言葉に匹敵することはできません。人間の本質は神様の本質とまるで違っているからです。ゆえに、聖書を読むときは、神様の御言葉の部分と人間が語った部分とをはっきり区別すべきです。そうすることでのみ、責任をもち、かつ神様の御心に沿う形で聖書を扱うことができるのです。さらに、聖書に書かれていることは一切が神様の御言葉であると宗教界が主張しても、それは当時の歴史的事実と一致していません。例えば恵みの時代において、使徒が書いた書簡や証しは神様の霊感によるものだと聖霊は証しをしませんでした。さらに使徒自身も、自分たちの書いたことは神様の霊感から生まれたものだと言ったことはなく、まして神様の実際の御言葉であるなどと主張したこともありません。当時の諸教会に送られた書簡はみな、使徒の兄弟が書いた手紙と見なされました。誰一人として、それらが神様の霊感を受けた神様の御言葉だとは一言も言わなかったのです。それは当時においては真実でした。今日ではもはや真実ではないのですか。いまの終わりの日において、それらの書簡が神様の御言葉だと主張する人たちは歴史的事実に反しています。律法の時代において、神様のしもべも預言者も自分の言葉が神様の霊感であるとも、神様の御言葉であるとも言いませんでした。その人たちが著わした書物については、それらは神様のしもべや預言者が書いたものだと当時のイスラエル人が見なしていたのは間違いありません。それらの文書で彼らが伝えた神様の御言葉は別として、残りは神様の働きの記録と分類することができます。そうした神様のしもべや預言者が書いた書物がすべて神様の霊感であり、神様の御言葉であるとイスラエル人は決して証しをしなかったのに、二千年後に生きる人間がどうして当時の歴史的事実に反することができますか。人間が書いた聖書の言葉が本当に神様の御言葉であるなどと、どうして露骨に主張できますか。それは歴史的事実と一致していません。終わりの日における人々が聖書を見る際の盲目的な信仰や偶像化は、ひとえに人間の観念と想像から生じるものです。それらは神様の御言葉にまったく基礎を置いておらず、宗教界が人々を惑わし神様に反抗するやり方そのものです。反キリストの力はこのようにして人々を誤った方向へ導き、彼らを当惑させて、聖書を盲目的に信じさせたり偶像化させたりするのです。そのせいで多数の教派がすでに生まれており、教会生活と人々のいのちの入りを混乱に陥れるとともに、数多くの好ましくない影響を生み出しています。その点について、人はみな自己を省みて認識し、この問題を解決して正しい道から外れないように真理を探し求めるべきです。
兄弟の交わりより引用
パウロの言葉から、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもの」(テモテヘの第二の手紙3:16)聖書すべてが、神のみ言葉であると決めつけ、聖書を信じることで天国に行けると思われている。終わりの日にも多くの信者がそれを信じている。この考え方は真理に即したものでしょうか?「聖書はすべて神の霊感によって与えられたものである」聖霊はそう言いましたか。いいえ、言っていません。これはパウロが言ったことです。信者の多くがこの言葉を基に、聖書は神の霊感を受けているので、すべて神のみ言葉であると信じているのです。これは大きな間違いではないですか?人間の言葉さえ、聖書に記録があれば、神のみ言葉であると信じる者もいるのです。この考えはあまりにも不合理ではありませんか。聖書は神の証しであり、お働きの記録に過ぎないのだと、理解すべきなのです。人類を救済する神の働きを基に聖書は作られた、神のお働きはどの段階でも邪悪なサタンとの戦いに満ちていました。聖書に記載されているのは神の言葉だけではない。人々やサタンの言葉さえ記録されているのです。これは明確な事実です。皆さんは聖書の言葉すべてが、神のみ言葉であるという主張が成り立つと思いますか?事実をゆがめて、混同しているのでは?それなのに、なぜまだ誤ったことを信じるのですか?事実に沿って議論するべきではありませんか。聖書を読んだことがある人なら、聖書には、神とモーセの会話、神とヨブの会話、選ばれた民との会話やサタンとの会話があると知っているはずです。神の対話相手の言葉は、神の言葉になり得るのでしょうか。あまりに短絡的ではないですか。ですから、聖書のすべてが神の霊感を受けて書かれたものとは、主張することができないのです。人の言葉までも神の言葉だと勝手に主張する不合理な人たちもいます。これは事実に反しています。この考えは神を冒涜するものであり、神の性質を深刻に犯すものです。神の言葉は神の言葉です。人間の言葉は人間の言葉です。サタンの言葉はサタンの言葉です。なぜ混同するのですか?神のみ言葉はいつも真理を語っています。人の言葉は真理ではありません。せいぜい真理に沿っていると言えるだけ、サタンの言葉は欺瞞とウソに満ちています。一万回繰り返しても、サタンの言葉はウソと偽りに過ぎません。賢明な人はこの事実を理解できるはず、愚かな者だけが誤った考えに固執するのです。
その問題について、全能神の御言葉を二節読みましょう。そうすればよりはっきり理解できます。全能神は言われます。「今日、聖書は神であり、神は聖書であると人々は信じている。また、聖書のすべての言葉は神が語った唯一の言葉であって、それらはどれも神によって述べられたと信じている。神を信じる人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだが、みな神から霊感を受けており、聖霊の発言を記録しているとさえ考えている。これは人の誤った理解であって、事実とまったく一致していない。実際、預言書を別にして、旧約の大半は歴史的記録である。新約の書簡の中には、人々の経験に由来するものもあれば、聖霊の啓きに由来するものもある。たとえば、パウロの手紙は一人の人間の働きから生まれたもので、どれも聖霊による啓きの結果だった。また、それらの手紙は諸教会のために書かれたもので、諸教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語る言葉ではなかったのであり、パウロが聖霊の代わりに語ることはできなかったのである。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが目の当たりにした幻を見てもいない。パウロの手紙はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、およびその他の教会に向けて書かれた。したがって、新約のパウロの手紙は彼が諸教会に向けて書いた手紙であって、聖霊からの霊感ではないし、聖霊が直接発した言葉でもない。……もし人々が、パウロが書いたような手紙や言葉を見て、それらを聖霊の発した言葉と見なし、神として崇めるなら、それはあまりにも分別がないとしか言えない。もっと厳しい言い方をすれば、それは単に冒瀆ではないのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、人間の手紙や語った言葉の記録がまるで聖なる書か天の書であるかのように、どうしてその前に額ずけるというのか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか」(『神の出現と働き』「聖書について〔3〕」〔『言葉』第1巻〕)
「聖書にあることがみな、神が自ら語った言葉の記録というわけではない。聖書はただ、神の働きのうち以前の二段階を記載しているに過ぎない。その一部は預言者たちによる預言の記録で、別の一部は各時代で神に用いられた人々の経験と認識である。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、それは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい理解が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓きと照らしの結果であり、それらは正しい理解である。それでも、真理をまったく正確に表現しているとは言えない。ある物事に対するそれらの見方は、個人的な経験から得た認識に過ぎないか、あるいは聖霊による啓示である」(『神の出現と働き』「聖書について〔3〕」〔『言葉』第1巻〕)
全能神の御言葉でもうお分かりでしょう。聖書はすべて神の霊感によるのではなく、御言葉だけでもない。聖書のうち、どれが神様の御言葉で、どれが人の言葉か、眼識があれば分かります。著者の名前は、聖書の各書に明記されています。さらに、どの箇所が神様の御言葉かも示されています。なぜ人々は平然として、人やサタンの言葉を、神様の御言葉だと言い続けるんでしょう?それは不当な言い分なのでは?もし主の信者が、聖書に書かれた人間の言葉を御言葉だと言ったら、神様はどう思われるでしょうか?不当と思われるのでは?神様を貶め冒涜することじゃないですか?神様には、人の言葉の重みはどのくらいでしょうか?皆さん、ちょっと考えてみてください。人の言葉を神様の御言葉と比較できますか?神様と人の本質は全く異なり、人の言葉と神様の御言葉はもっと違います。もし人が聖霊の啓示によって、真理に沿う話ができればすばらしいことです。聖霊の導きがないと、人間の言葉など、間違いと嘘だらけでしょう。もし信者が、これを理解しないなら、あまりに無知で愚かです。今では、宗教界全体が、聖書に書かれた人間の言葉を、御言葉と受け取っています。宗教界では、誰も真に神様を知らない証拠でしょう。宗教界の指導者は、ほとんどが偽善的なパリサイ人です。本当に神を知る者なら、聖書の全文が、霊感を受けて書かれた御言葉だとは信じません。ましてやみくもに聖書を崇め、神と敬うなどありえないことです。宗教界の通念では、聖書は霊感を受けて記された、神様の御言葉であり、神様の代弁とされています。これは宗教界の最も愚かなまやかしの観念なんです。
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