主イエスはすでに全能神として再来なさり、人々が清めを得て救われることを可能にする真理のすべてを表し、神の家から始まる裁きの働きを現在行っておられるとあなたがたは証を立てていますが、私たちはこれを受け入れません。神の言葉や働きはすべて聖書に記録されており、聖書以外の他の言葉や働きはありえず、聖書に反したり聖書の域を超えたりするものは何であれ異端であると宗教界の牧師や長老たちが私たちに普段から教えているためです。私たちはこの問題について識別力がないので、説明してください。

2021年3月19日

回答:宗教界のそのような見解は神様の御言葉に根拠がありますか。それは神様の御言葉に根拠がなく、ひとえに聖書を誤って解釈した結果生じたものです。聖書が神様の働きにおける最初の二段階の証しをしているのは本当です。しかし聖書に記されていることには、神様がその二段階の働きにおいてお語りになった御言葉のすべてや、神様の働きに関する証しのすべてが含まれているわけではありません。聖書に記されていることは限られています。聖書編纂者のあいだにおける見落としや論争のために、預言者の預言と使徒による体験の証しが一部省かれています。それは認められた事実です。ならば聖書を除いて、神様の働きや人間の体験の証しに関する記録は他にないとどうして言えますか。それらの見落とされた預言や使徒の書簡にはすべて人間の意思が混ざっていたのですか。主イエスは新約聖書に記録された御言葉だけをおっしゃったわけではなく、主の御言葉や働きの一部は新約聖書には記されませんでした。それらの御言葉や働きも聖書に記されるべきではなかったのですか。聖書は神様ご自身の指揮下で編纂されたのではなく、神様に仕える多くの人が合同で編纂したものです。よって不一致や見落としが生じたり、何らかの問題が持ち上がったりするのは避けられなかったことでしょう。現代人にさえ、聖書については様々な解釈や観念があります。しかし事実を尊重するべきですから、神様の御言葉と働きは聖書の外に存在しないとは言えません。それは事実に反することになるでしょう。本来、聖書は旧約聖書だけで構成されていました。主イエスが贖いの働きをなさるあいだにおっしゃったことは、何一つ旧約聖書には記されていません。そうすると、主イエスの表現や贖いの働きは聖書の中に見つかりますか。それとも聖書の外ですか。人は実際の事実を認識しておらず、神様が働きの一段階を終了なさるたび、初めてそれらの事実が生じて聖書に記されたことがまったくわかっていません。神様の御言葉や働きの記録は聖書の外に存在しないと主張することは、いささか恣意的で滑稽です。旧約聖書と新約聖書はそれぞれ、神様が働きの一段階を終了なさったあとに作られましたが、聖書の出現以降、神様が他にどんな働きをなさるかや、他にどんな御言葉をおっしゃるかを知る者は一人としていませんでした。それは事実です。そのように聖書を規定したり、そこに記されていることを基に神様を規定したりする資格は、人間には決してありません。その点について、堕落した人類がどれほど傲慢で独善的そのものになり、理知がまったくないかが誰にでもはっきり見えます。そうした人は真理に直面したとき、向こう見ずにも結論を引き出そうとさえします。それは、ユダヤの祭司長や律法学者やパリサイ人が神様に抵抗すべく聖書を利用したときに犯した過ちを繰り返すことではないですか。ゆえに、聖書だけを基に神様を信じたり、神様に従ったり、真の道を追究したりすることはできません。聖書は参考として使えるだけだからです。もっとも重要なこととして、私たちは聖霊の働きがあるかどうか、真理があるかどうかを決断の基礎としなければなりません。そうした基礎だけが正確であり、そのとき初めて正しい選択をすることができるのです。したがって、「聖書に反したり聖書を超えたりするものはどれも異端で誤りだ」などという主張は実に不適切です。恵みの時代、ユダヤの祭司長や律法学者やパリサイ人は主イエスを断罪するにあたって聖書を根拠とし、主を十字架にかけました。それは神の性質に背き、彼らが罰せられ呪われる原因となった行ないでした。これらはすべて聖書を盲目的に信じて偶像化し、キリストを拒絶したことの結果です。そこで尋ねますが、主イエスの贖いの働きは旧約聖書に従っていましたか。従っていませんでしたか。主イエスが贖いの働きを終えられてから二千年後、全能神が終わりの日における裁きの働きをなさるべく来られましたが、それは新約聖書の記述と一致していますか。宗教界はいつも聖書を使って神様の働きを規定していますが、それはまったく馬鹿げていて滑稽です。表面上は聖書を尊重しているように見えるものの、実際には自分の地位を守り支配を維持しようとしているだけなのです。彼らは本当に真理を追い求めておらず、彼らが歩いている道は実は反キリストの道です。そのことから、真の道を判断し、神様の働きを学ぶ基礎として聖書を用いることが間違っているのは明らかです。それが真の道かどうか、神様の働きかどうかを決定付ける唯一の的確かつ正しい方法は、聖霊の働きと真理があるかどうかを判断の基礎とすることです。ゆえに、聖書に書かれていることの他に神様の御言葉や働きが存在しないと言うのは間違っています。そうした主張はまったく誤りです。

兄弟の交わりより引用

宗教界の信者たちはこう思いがちです。聖書にすべての神の言葉があるとすべてが聖書の中で完備し、それ以外には神の言葉がないとね。聖書に固執することこそが信仰なのだと、聖書から離れなければ、天国に招かれるはずだと思っているんです。そういう見方は人にとっては理にかなったものでも、果たしてそれは主イエスの言葉が基になったものでしょう。本当に真理に沿っていますか?神の言葉や行いがすべて聖書の中に記録されているとは、主イエスはひと言も言っていませんよね。それが事実です。確かに聖書を知っている人なら分かるはず。聖書は神の行いから何年もたってから編集されたということを、まず神の働きがあり、そして聖書が書かれたのです。言い換えれば、神が何か偉業を達成されるたびに、それを体験した者が、その時点で神の言葉と行いを記録に残したものです。その記録を収集したものが聖書なのです。こうは思いませんか。神が、まだ実際に行っていないことが、事前に記録されることがあり得るでしょうか。つまり、神の終わりの日の働きは、なおさら聖書にはあるはずもないのです。新約聖書と旧約聖書の歴史は約2000年、全能神は終わりの日の働きを開始されたばかりです。したがって、終わりの日の神の言葉がなん千年も前に書かれた聖書に記録されているはずがない。そうは思いませんか?全能神は終わりの日に、神の家から始まる裁きを行って、何百万という言葉を語られました。この言葉は人間を救うための真理を語るだけでなく、終わりの日のキリストが与える永遠の命への道となるのです。神の国の時代の聖書にまとめられています。『言葉は肉において現れる』全能神が示した真理は、事前に聖書には記録されていませんが、主イエスの預言を完全に成就しています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(ヨハネの黙示録 2:7)。全能神が示した真理は証明しています。全能神は真理の御霊の現われなのです。全能神は受肉された神です。全能神の御言葉はすべて、終わりの日の真理の御霊によるもので、教会に向けられた聖霊の御言葉なのです。これが神の御言葉ではないと思いますか?まだ否定するつもりですか?終わりの日に神が話し働かれるという真実を知っても、神の御言葉はすべてが聖書の中だけにあり、そのほかには存在しないと言えるでしょうか。今までは理解していませんでした。神が何か御業を達成された時点で、聖書が作られたという事実を知らず、神の言葉や行いが聖書の他にはないと勝手に決めつけているのです。とても自分勝手で、不合理ではないでしょうか。

聖書が作られた背景を理解できなければ、私たちは信仰の道から容易に逸脱してしまいます。律法の時代と恵みの時代という神が働かれた2つの時代に、神が発せられた御言葉すべてが聖書に記録されているわけではありません。律法の時代に聖書に預言が記されなかった預言者もいるんです。これはもちろん皆さんもご存知の事実ですよね。恵みの時代には、主イエスが語った言葉はもっとあったはずです。聖書に記された言葉はごく限られたものです。考えてください。主イエスが地上で説教をしたのは3年半ほど、一日に話した言葉はどのくらいになると思いますか。主イエスはこの3年半の間に実に多くの言葉を語られたはずです。それを数える方法などありません。使徒ヨハネはこう言いました。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う(ヨハネによる福音書 21:25)。新約聖書の四福音書を見ると、そこに記されている主イエスの言葉はあまりにも少ない、氷山の一角に過ぎないのです。主イエスの3年半のみ言葉が、四福音書にあるだけなら、当時どうやって多くの人を従えることができたのでしょうか。なぜ主イエスの行動で、ユダヤ全土を揺るがすことができたのでしょう。聖書に記載されている神のみ言葉は、ごく限られたものなのです。すべてのみ言葉が記載されているなどあり得ません。これは誰にも否定できない事実なのです。ご存知のとおり、神は創造主です。人類の命の源であり、枯れることのない命の泉です。神の豊かさは永遠に無尽蔵なのです。聖書は単に神が働かれた2つの時代の記録に過ぎず、記録されているみ言葉はあまりに少ない、神の命という海の中の1滴に過ぎないのです。神のみ言葉と行動のすべては、聖書の中にしかありませんか?神が聖書の中にある言葉しか言わなかったと決めることは、神に限界を設け、軽視し、神を冒涜しています。そうやって、神のみ言葉や行いを聖書だけに限定し、聖書の他には存在しないものと考えることは、大きな間違いではないでしょうか。

それでは、全能神の言葉を読んでみましょう。真理についてしっかり理解できます。全能神は言われます。「聖書に記録されていることは限られており、神の働き全体を表わすことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちの前に現われたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。しかし、人々はそれらと現在の働きとを比べることさえして、それらを宝として大切にする。そのような人は、神にはこの程度のことしかできないとでも言うように、イエスが生涯に行なった働きはその程度にしかならないとさえ信じている。それは馬鹿げたことではないか(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)

律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たければ、旧約聖書を読まなければならない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約聖書を読まなければならない。しかし、終わりの日の働きはどうすればわかるのか。それには今日の神の導きを受け入れ、今日の働きに入らなければならない。なぜなら、それが新たな働きであり、過去に誰も聖書に記録していないからである。……今日の働きは人間がかつて歩んだことのない道であり、誰も見たことのないものである。それはかつて行なわれたことがない働きであり、地上における神の最新の働きである。……今日の働きを細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することが誰にできよう。一切の慣習を拒む、より大きく賢いこの働きを、あのカビ臭い古い本に誰が記録できようか。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければならない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる(『神の出現と働き』「聖書について〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)

結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を守り、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を尊重していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ。彼は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか(『神の出現と働き』「聖書について〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)

現在わたしが説明している事実は、神であるもの、神がもつものは永遠に無尽蔵であり、無限であるということである。神は生命と万物の源である。神は、創造物が想像し得ないものである。最後に、すべての人に再度思い出させなければならないことがある。すなわち、神を書籍や言葉、従来の言葉に制限してはならない、ということである。神の働きの特徴は『新しい』という一語に尽きる。神は旧来の道を辿ったり、働きを反復するのを好まない。さらに、神は人間が神を一定範囲に制限した上で礼拝することを望まない。これは神の性質である(『神の出現と働き』「あとがき」〔『言葉』第1巻〕)

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

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