パウロがテモテ第二の手紙の中で「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」(テモテヘの第二の手紙 3:16)。つまり聖書の言葉は全て神の御言葉であり、聖書は主を代弁するということです。主を信じることは聖書を信じることで、聖書を信じることは主を信じることです。聖書から逸脱すると主を信じないことになります。主の信仰は聖書にしっかり従うだけで良いのです。たとえ終わりの日における全能神の働きを受け入れなくても、私たちはやはり救われて天国に入れます。この認識に間違いはありますか?

2019年4月2日

回答:宗教界では「聖書は全て神の霊感によって書かれた」というパウロの言葉を基に聖書全てが神様の御言葉であると決め付け、聖書に固執する限り天国に招かれると信じられています。終わりの日になっても信者の多くがまだそれを信じています。でもこの考え方は真理と事実に準じたものですか? 主イエスは「すべての聖句は神の霊感によって書かれたものである」と言いましたか? 聖霊がその証しをしましたか? そうですね! していません。それはパウロが言ったのです。信者の多くがパウロのこの言葉をもとに聖書の言葉は神様の霊感を受けいるので、全て神様の御言葉であると信じています。これは大きな間違いではないですか? 人間が語った言葉でさえ聖書に記録があれば、神様の御言葉であると信じる者もいるくらいです。これは誤った不合理な考えではありませんか? 主を信じる者は聖書は神様の証しであり、働きの記録に過ぎないということをはっきり理解するべきです。聖書の製作は神様が人類を救うという働きが基になっていました。どの段階でも神様の御働きは邪悪なサタンとの戦いに明け暮れ、神様の御言葉だけが聖書に記録されているのではなく、いろいろな人やサタンの言葉でさえ記録されています。これは明確な事実でしょう。聖書の言葉は全て神の言葉であるという主張は成り立ちますか? 事実を歪め白黒の区別をつかなくしていませんか? それなのになぜ間違った事をまだ信じるのですか? 事実に沿っているべきでは? 聖書を読んだことのある人なら、聖書には神様とモーゼの会話や神様とヨブの会話、神様と選ばれた民との会話、神様とサタンとの会話が記述されていることは知っています。神様が対話していた相手の言葉は神様の言葉となり得ますか? あまりにもばかげていませんか? ですから「聖書は全て神様の霊感を受けて書かれたもので神様の御言葉である」とは断固として主張できないのです。聖書の人の言葉は神様の言葉であると勝手に主張する不合理な人もいます。これは事実に全く反します。これは純粋に神様を汚し、神様を侮辱し、神様の性情を深刻に犯すものです! 神様の言葉が神様の言葉であり、人間の言葉は人間の言葉でしかなく、サタンの言葉はサタンの言葉なのです。なぜそれを混同するのですか? 神様の御言葉はいつも真理を語っています。人間の言葉は決して真理ではなく、せいぜい真理を確かめるに過ぎません。サタンの言葉はいつも欺瞞と嘘だらけです。たとえ一万回繰り返しても、それは嘘と偽りにしか過ぎません! 賢い者はこの事実を認めるでしょう。愚かな者だけがこの誤った考えに固執する。全能神の言葉をもう一句読むとよりはっきりするでしょう。

全能神は言われます。「今日、聖書は神であり、神は聖書であると人々は信じている。また、聖書のすべての言葉は神が語った唯一の言葉であって、それらはどれも神によって述べられたと信じている。神を信じる人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだが、みな神から霊感を受けており、聖霊の発言を記録しているとさえ考えている。これは人の誤った理解であって、事実とまったく一致していない。実際、預言書を別にして、旧約の大半は歴史的記録である。新約の書簡の中には、人々の経験に由来するものもあれば、聖霊の啓きに由来するものもある。たとえば、パウロの手紙は一人の人間の働きから生まれたもので、どれも聖霊による啓きの結果だった。また、それらの手紙は諸教会のために書かれたもので、諸教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語る言葉ではなかったのであり、パウロが聖霊の代わりに語ることはできなかったのである。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが目の当たりにした幻を見てもいない。パウロの手紙はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、およびその他の教会に向けて書かれた。したがって、新約のパウロの手紙は彼が諸教会に向けて書いた手紙であって、聖霊からの霊感ではないし、聖霊が直接発した言葉でもない。……もし人々が、パウロが書いたような手紙や言葉を見て、それらを聖霊の発した言葉と見なし、神として崇めるなら、それはあまりにも分別がないとしか言えない。もっと厳しい言い方をすれば、それは単に冒瀆ではないのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、人間の手紙や語った言葉の記録がまるで聖なる書か天の書であるかのように、どうしてその前に額ずけるというのか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか(『神の出現と働き』「聖書について〔3〕」〔『言葉』第1巻〕)

多くの人が「聖書は神様を代弁し主を代弁する聖書を信じることは主を信じることで主を信じることは聖書を信じることである」と言います。これは間違いではないように聞こえます。でも経験のある者ならその考え方自体が間違っていることがわかります。神様を信仰する者でも神様を知らないことを示し、聖書と神様との関係をはっきり理解していないということです。聖書は神様を代弁し聖書を信じることは神様を信じることだとまだ主張する人がいれば、お聞きしましょう。聖書が人を救うのですか、それとも神様? 聖書が神様の代わり神様の働きをしますか? 聖書が聖霊に代わって働きができますか? 神様は天と地とすべてのものをお造りになりました。聖書が天と地とすべてのものを造ることができますか? 神様の方が偉大ですか、それとも聖書ですか? 神様と聖書ではどちらが先に存在していたのですか? 今まで考えたことがありますか? 信者が理解すべき常識的な事がまだ理解できない人は神様の御働きを経験されていないのでは? 聖霊の御働きの経験は何もないのですか? 神様の全能性と知恵についての知識はお持ちではないのですか? 神様はただ一つの真の神であり、創造主であることは誰もが知っています。神様は言葉を語り、天と地とすべてのものを造り、全てのものを支配する。神様は霊であっても人の子として肉になり、人間に語り人間の中で働き、人間を贖い、人間をお救いになります。神様は本物であり、生きてらっしゃいます。今おられ、かつておられ、やがて来られる全能者です。聖書は律法の時代と恵みの時代という2つの段階に神様が働いた記録に過ぎません。歴史書ですね。それなのに聖書がなぜ神様と比較できるのですか? どう見ても聖書が神様を代弁することはできないし、聖書を信じることは神様を信じることではなく、聖書に固執しても神様に従うことにはならないのです。聖書は聖書であり、神は神なのです。聖書と神様は全く別の存在です。これは誰も否定できない事実です!

映画『呪縛を解く』より引用

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