人の一生の数十年は瞬く間に過ぎ去り、人生を振り返って:学校、仕事、結婚、出産、死を迎え…一生、家族、お金、地位、名利のために奔走し、真の人生の方向や目標はなく、生きていく価値や意味も見つけることができません。人々が代々このように生き、本当に虚しく苦しいです。なぜ人は生きているのにこんなにも虚しく苦しいのでしょうか。どうすれば人生の虚しさや苦しさを解決できるのでしょうか。
関連する神の言葉
人間が生涯にわたって耐える、出生、死、疾病、老齢の苦痛は、何が根源なのでしょうか。これらの事が人間に発生する原因は何でしょうか。人間が最初に造られた時、こうした苦痛は人間に発生したか、というと、発生しなかったのではないでしょうか。それならば、こうした苦痛は、何に由来するものでしょうか。それらは、人間がサタンによって誘惑され、肉体が堕落したあとで発生しました。人間の肉の痛みや苦しみ、虚無感、人の世における極度の悲惨な出来事といったことは、サタンが人類を堕落させて初めて生じました。人間がサタンによって堕落させられた後、それは人間を苛み始めました。結果として人間は一層堕落してゆき、人間の病はますます深刻になり、人間の苦しみは一層激しくなりました。人の世の空虚感や悲劇、この世で生き続けることが不可能であることを、人は一層感じるようになったのです。そしてこの世に対する希望もますます感じなくなっていきました。この苦しみはサタンから人間にもたらされたものです。
『終わりの日のキリスト講話集』の「神が世俗の苦しみを味わうことの意義」より
人類が社会科学を考案して以来、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それから科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや神を礼拝するための充分な余地は人にはなくなり、神を礼拝するための好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められた。心の中に神が無いまま、人間の内面世界は暗く、希望も無く、空虚である。そのため、人類の心と精神を満たすために多くの社会科学者や歴史家、政治家が登場し、社会科学の理論や人類進化の理論、神が人を創造したという真理に矛盾するその他の理論を発表した。こうして、神が万物を造ったという真理を信じる人はますます少なくなり、進化論を信じる人の数はさらに増加した。神の働きの記録と旧約聖書の時代の神の言葉を神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに、神が存在し万物を支配しているという信条に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや人にとって重要ではなく、人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。……神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは神が人の終着点をいかに支配し、定めているのかを自らすすんで探し求める人はほとんどいない。こうして、人間の文明は、人間の知らないうちに、ますます人の望みどおりには行かなくなり、こんな世界に生きている自分達はすでに亡くなった人々に比べて不幸せだと感じている人さえ数多くいる。過去に高度の文明を築いた国々の人たちでさえそのような不満をあらわにしている。なぜなら、神の導きなしには、支配者や社会学者が人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どのような社会学的理論も人を悩ませる虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適さなどは、人間につかの間の慰めしかもたらさない。これらのものがあっても、人はやはり必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への渇望や欲求を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけで、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からないまま人を常に恐怖に怯えたままにさせるからである。人は科学や知識を恐れるまでになり、空虚感をそれ以上に恐れるようになる。この世であなたが自由な国に住んでいようと、人権のない国に住んでいようと、人類の運命から逃れることは決してできない。あなたが支配者であろうと、被支配者であろうと、人類の運命、奥義、そして終着点を探求したいという願望から逃れることは到底できない。ましてや、途方にくれるほどの空虚感から逃れることなどできない。全人類に共通するこの現象を社会学者は社会現象と呼んでいる。しかし、このような問題を解決できる偉人が現れることはない。人間は結局、人間に過ぎず、神の地位といのちに取って代われる人間はいない。誰もが食べる物があり、平等で自由で公平な社会だけが人類に必要なのではない。人類に必要なのは神の救いと神によるいのちの満たしである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の必要、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。一つの国や民族の人々が神の救いや配慮を得ることができなければ、その国や民族は暗黒に向かって、衰退への道を突き進み、神によって滅ぼされる。
『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」(『言葉』第1巻)
「それが運命である」という言葉について心から深く共感している人もいますが、彼らが神の統治を一切信じず、人間の運命が神により定められ、指揮されているということを信じず、神の統治に服従したがりません。そのような人々は、あたかも大海原に漂流し、波にもまれ、潮に流されるように、受け身で運命に身を委ねるほかありません。依然として、彼らは、人間の運命が神の統治下にあることを認めません。彼らは、神の統治について自ら自発的に気付くことで神の権威を知り、神の指揮と采配に従い、運命に逆らうのを止め、神の慈しみと保護、導きの下に生きるということができません。言い換えれば、運命を受け容れることは、創造主の統治に従うこととは異なり、運命を信じる事は、神の統治を受け容れ、認め、知ることではなく、単にその事実と表面的な現象を認めることにすぎません。それは、創造主が人間の運命をどのように支配するかを知る事、創造主が万物の運命を支配する源であることを認める事とは異なるものであり、創造主による人の運命への采配と計画に服従する事とは明らかにはなはだしい隔たりがあります。人が運命のみを信じ、それについて深く共感していても、それにより人間の運命への創造主による統治を知り、認め、それに服従し、それを受け容れることができなければ、人の人生は悲惨で虚無のうちに生きる人生となり、創造主の支配に服従することも、造られた人間という言葉が真に意味するところの存在となることも、創造主の是認を享受することもできません。創造主の統治を本当に知り、経験する人は、受動的でも無力でもなく、能動的であるべきです。そのような人は、すべてが運命づけられていることを認めると同時に、いのちは創造主の統治下にあるという人生と運命の正確な定義を把握している必要があります。人が自分の歩んで来た道程を振り返り、旅路のそれぞれの段階を回想すると、その道の苦楽を問わず、人は、それぞれの段階で神が自分の進む道を導き、計画していたことを知ります。人が気付かぬうちに人を今日まで導いてきたのは、神の周到な采配と入念な計画です。創造主による統治を受け容れ、創造主の救いを得ることができるということは、何と幸運なことでしょう! 人が自分の運命に対して消極的な姿勢でいる場合、それは、神が彼らのために用意したあらゆる物事をその人が拒否し、従順な姿勢ではないということを意味します。神による人間の運命の統治に対して、人が能動的な姿勢でいるならば、人が自分の旅路を回顧し、神の統治を真に把握するようになった時、人は神が用意した物事のすべてに従うことを一層真剣に望むようになるとともに、人の運命を神の指揮に委ね、神に反抗することを止めるということに一層強い決断と確信を得るでしょう。運命を把握することもなく、神の統治を理解することもなく、霧の中を敢えて苦労してよろめきながら手探りでさまよった時、旅路は困難で悲痛すぎるものになることが分かります。したがって、人の運命への神の統治を人々が認めた時、賢明な人は、それを知り、受け容れて、自らの手で良い人生を作り上げようとしていた悲痛な日々と訣別することを選び、運命に逆らい、いわゆる「人生の目標」なるものを自らの方法で追い求めることを止めます。神の存在もなく、神を見ることもなく、神の統治をはっきりと認識することもなければ、毎日は無意味で、無価値で、惨めです。どこにいようが、どのような仕事をしようが、人の生き方と目標への追求は終わりのない悲しみと深刻な苦痛しかもたらさず、回想するに堪えないものになります。創造主の統治を受け容れて、その指揮と采配に従い、真の人生を求めて初めて、人は徐々にすべての悲しみや苦痛から解き放たれ、人生の虚無感を払拭できるのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
人々は神の指揮と統治を認識していないので、常に挑戦的かつ反抗的な態度で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを願い、現状を変え、運命を改変するという儚い望みを抱いています。しかし、人間は決してそれに成功することはなく、事あるごとに挫折します。こうした葛藤は、人の魂の奥底で生じ、骨身に沁みるほどの並々ならぬ苦痛を伴うものであり、人はその間絶えず自分の命を浪費しています。この痛みの原因は何でしょうか。神の統治が原因でしょうか、それとも人が不運な境遇に生まれたことが原因でしょうか。明らかに、そのいずれでもありません。結局は人々が進む道、人々が選択する人生の過ごし方が原因となっています。こうした物事を認識していない人々もいるかもしれません。しかし、神が人間の運命を統治していることをあなたが真に知り、それを真に認め、自分のために神が計画し、決定したあらゆる物事が大きな利益であり、大いなる保護であるということを真に理解した場合、その痛みが次第に緩和され、心身共にくつろいだ気持ちになり、自由になり、解放されます。大半の人々の状態から判断すると、人々は、主観的には、従前のような生活を望まず、苦痛から解放されることを望んでいるにもかかわらず、客観的には、創造主が人間の運命を統治していることの実際の価値と意義を真に把握することができず、創造主の統治を認めて従うこともできず、ましてや創造主の指揮や采配を求め、受け容れる方法を知るよしもありません。そうしたわけで、創造主が人間の運命と、人類のあらゆる物事を統治しているという事実を人々が真に認識できず、創造の統治に真に服従できない場合、その人々にとって、「人間の運命は自分の掌中にある」という観念に駆られて捕らわれることのないようにするのは困難でしょう。彼らにとって、運命や神の権威に対抗する激しい葛藤による痛みを払拭することは困難であり、また、言うまでもなく、彼らが真に解放されて自由になり、神を崇拝する人々となることもやはり困難でしょう。こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法があります。それは、自分の以前の生き方や人生の目標と訣別し、以前の生き方、人生観、追求、願望、理想を概括し、分析し、それを神の旨や人間への要求と比較し、それらのいずれかが、神の旨や要求と一致しているか、人生の正しい価値をもたらすか、一層深い真理の理解へと導くか、人間性と人間らしさを伴った生き方を可能にするかを確認することです。人々が追求する人生の様々な目標や多種多様な生き方を繰り返し調査し、注意深く分析すると、創造主が人類を創った時の創造主の本来の意図と一致するものがひとつもないことが分かります。それらはすべて、人間を創造主の統治と慈しみから引き離し、人々を堕落させて地獄へと導く罠です。このことを認識した後の課題は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神の采配に委ねることです。それは、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、個人的な選択肢を持たず、神を崇拝する人になるということです。これは簡単に思えますが、行うのは困難です。苦痛に耐えられる人々もいれば、耐えられない人々もいます。喜んで従う人々もいれば、ためらう人々もいます。ためらう人々には、それを行うことを望む気持ちと決意が不足しています。つまり、彼らは、神の統治を明確に認識するとともに、人間の運命を計画し、采配を行うのは神であることを完全に知っているにもかかわらず、それでもなお反抗しようとあがき、自分の運命を神の掌中に委ねて神の統治に従うことを許さず、さらには、神の指揮と采配に憤慨しています。そのようにして、自らのために自分の能力を知ることを願う人々が常に存在するのです。彼らは自分の運命を自らの手で変えること、自分の力で幸福になること、神の権威の範囲を出て、神の統治を超えることができるかどうかを試すことを望みます。人間の悲劇は、人間が幸せな人生を望むことや、富や名声を望むこと、霧の中で自分の運命に立ち向かうことではなく、創造主の存在を知り、創造主が人間の運命を統治しているという事実を知ってなお、自分自身のあり方を正し、泥沼から抜けるということができず、心を頑なにして自分の過ちを押し通そうとすることです。人間は、すべてにおいて悔恨の欠片もなく、泥の中でのたうち回り、創造主の統治に対して頑固に対抗し続け、苦々しい結末を見るまで抗い続けます。うちひしがれ、重傷を負って倒れた時、やっと諦めて戦いを止めるのです。これが、人間の本当に悲しい性です。ですから、わたしは言います。服従することを選ぶ人々は賢者であり、苦闘して逃れることを選ぶ人々は実に愚か者です。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
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