終わりの日の受肉した神はなぜ女性なのか

2021年11月13日

終わりの日に、受肉した全能神が働きのために現れ、多くの真理を表しました。これはインターネットで拡散され、世界を震かんさせ、より多くの人が、全能神の出現と働きを調べようとしてます。神が受肉し、真理を表したということは、神の御言葉の力と全能性を完全に明らかにしています。真の道を調べる人はその多くが、全能神が表した御言葉には権威があり、力があり、御言葉は真理で、神の言葉であると、そう確信し、疑いを捨てます。しかし、終わりの日のキリスト、全能神が女性だと聞くと、多くの人が首を横に振り、全能神を受け入れようとしません。彼らは、主イエスは男性としてやってきたし、その時聖霊も主イエスは「愛すべき息子」だと証をしている、そして聖書にもそう記載されているので、主が再来する時は主イエスがそうだったように、男性の姿をして現れるはずで、女性であるはずがないと考えています。全能神がどれほどの真理を表し、どれほど偉大な働きをしても、彼らは受け入れるどころか、調べようともしません。そしてこう言います。「全能神が男性だったら信じていたが、女性なら何と言われようと信じない。主イエスは男性だからだ」と。このことで彼らは主の再来をお迎えできずに災難に落ちることになるのです。なんと哀れなことでしょう。このような宗教界の人々の話や観点は正しいのでしょうか? 聖書の預言と一致しますか? 御言葉に裏づけがありますか? 答えはノーです。主イエスは、再来した時に女性となるか男性となるかについては明言していませんし、聖霊も、再来した人の子が女性となるか男性となるかの証をせず、聖書にも、終わりの日に再来する神が男性か女性かについての預言はありません。これが証明するのは、人間の話や観点には聖書の裏づけがなく、単なる観念や想像にすぎないということです。多くの人が聞きます。「なぜ終わりの日の受肉した神は男性ではなく女性なのか?」と。これについて、個人的な認識をお話します。

聖書には、終わりの日に受肉した神が人の子として出現するという多くの預言がありますが、終わりの日に再来する主が男性か女性かについては触れていません。「人の子の現れる」「人の子が来る」「人の子もその日には」とだけ書かれています。全能神はすでに来られ、多くの真理を表し、終わりの日の裁きの働きをされています。預言のとおりです。しかし終わりの日のキリストが女性であると知り、多くの人が驚きます。このことは人の観念と一致しません。神の出現と働きについて、人が観念をもつのは自然なことです。主イエスの再来時は、さらに大きな誤解もありました。しかし多くの人が観念をもつほどに、それは奥義となります。神がその奥義を明らかにしなければ、人は決して理解できません。全能神が何と仰っているか見てみましょう。全能神は言われます。「もしも神が男性としてのみ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として定義し、女たちの神だとは決して信じないはずだ。すると男たちは、神は自分たちと同じ性別であり、男たちの長であるとするだろう。しかし、女たちにとっては何になるのか。これは不公平であるし、えこひいきではないか。そうであれば、神が救ったすべての人は神と同じ男ということになり、女は一人も救われないということになる。神は人類を創造したとき、アダムを創り、そしてエバを創った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を創ったのである。神は男たちだけの神ではなく、女たちの神でもある(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」〔『言葉』第1巻〕)。「神による各段階の働きには実際的な意義がある。当時、イエスは男性の形で来たが、今回来る際、神は女性の形である。このことから、神が男女両方を創造したことは自身の働きに役立ち、また神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それはいかなる肉体でも意のままにまとうことができ、その肉体は神を表すことができる。男性であろうと女性であろうと、それが神の受肉した肉体である限り、どちらも神を表せるのである(『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の御言葉からわかるのは、受肉した神は、男性でも女性でも、有意義な存在であり、そこにある真理を追い求めることで、神の旨と神の性質を知ることができるようになります。受肉した神が常に男性だったら、一体どうなるでしょう? 人は、神は永遠に男性であり、女性にはなり得ないと決めつけ、女性は差別を受け、社会の一員として生きることができません。それは公平でしょうか。神は義なる神であり、男と女を作られました。神はまず最初の受肉で男性となり、終わりの日に女性として受肉されました。これは非常に意義深いことで、すべての女性は喜びに胸を躍らせ、観念を捨て去るべきです。女性が受肉した女性の神を拒絶し、差別するなら、その人は非常に気の毒な人です。事実、受肉した神が男性か女性かは重要ではありません。大切なのは、真理を表し、救いの働きをしているということ。受肉した神は、男性であった場合にのみ働きを行うことができ、女性であれば働きはできないなどと考えることは、時代を逆行する、浅はかな考えです。現在、男性ができることは女性もできるというのは周知の事実です。例えば、男性が飛行機を操縦するなら、女性もできます。男性が宇宙飛行士になるなら、女性もなれます。男性が大統領になれるなら、女性もなれます。男性が事業を起こし経営者となれるなら、女性も事業を起こし経営者となれます。女性が男性に劣るなどということはありません。ではなぜ受肉した神は女性ではなく男性でなければならないと考えられているのでしょう? 全能神は多くの真理を表し、多くの働きをされています。女性であることで働きに支障が出ていますか? 終わりの日の全能神の裁きの働きは、主イエスの働きよりもはるかに偉大です。全能神が表す真理は主イエスのものよりも数が多く、深みもあります。この明らかな事実を、人はなぜ認識できないのでしょう? 今日の世界で、抑圧され、差別され、苦しむ女性に必要なのは、男性と平等の地位を与えられること、そして何より、救いと自由が必要です。このような女性たちを救えるのは一体誰でしょう? いま、全能神は来られ、深く堕落した邪悪な世界と人類を裁くために真理を表しました。受肉した全能神が女性でありながら真理を表し、終わりの日の裁きの働きを行っているのを見て、多くの女性が女性としての誇りをもち、頭を高く上げ、自由と解放感を感じています。そしてその全員が全能神を称えています。女性とした受肉した神が神の義なる性質を示しています。神のみが人類を真に愛し、真の意味で公平に扱えます。神は愛すべき存在なのです! では、別の点を考えてみましょう。男性の主イエスは人々の罪を背負い、十字架にかけられることで贖いの働きを完了しました。もし主イエスが女性として来たなら、十字架にかけられることで贖いの働きを完成させることができたでしょうか。答えはもちろん、完成させることができた、です。神の受肉というのは、神の霊が人間といういれものに入ることで、そのいれものが男性であれ女性であれ、神は神なのです。神が表す真理も、働きも、そのすべては神の霊が行い、神の霊が支配します。そのため、受肉した神が男性でも女性でも関係ないのです。受肉した神は神としての資格をもち、神の働きを行い、最終的に働きを完了し、神は栄光を得ます。全能神が仰るとおりです。「イエスが来たときに女性として現れたとしても、つまり、男の子ではなく女性の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その段階の働きはまったく同じように完成されたことであろう。そうだったならば、現段階の働きは女性ではなく男性によって完成されなければならないはずだが、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。各段階でなされる働きにはそれぞれの意義があり、どちらの段階の働きも繰り返されることはなく、互いに矛盾することもない(『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」〔『言葉』第1巻〕)。これはつまり、受肉した体が男性でも女性でも、真理を表し、神が求める働きを完了させ、人類を清め、救える限り、それは受肉した神なのです。受肉した神は女性ではなく男性でなければならないというのは、人の物差しに当てはめた、人の観念や想像にすぎないのでは? 神は女性ではなく男性だけを創造されたと思いますか? 受肉した神が女性だからといって、どれほど多くの真理を表そうと、どれほど偉大な働きを行おうと、認識せず、受け入れようとしない。それは女性を否定し差別しているからに他ならないのでは? 人間の堕落した性質なのでは? 神がどのように出現し働きを行うかは、人には選べません。それが肉となった神であり、真理を表し、神の働きを行っている以上は、肉体が男性でも女性でも、受け入れて従うべきです。これこそが、理知があり、聡明な人がとる道です。神は全知全能で、その考えは人間より高い次元にあります。人が神の働きを理解するなど、できるでしょうか。古(いにしえ)より今に至るまで、神の働きの各段階は人間の観念を超え、裏切るものでした。主イエスが現れて働きを行った時、その外見、生まれ、家柄は人間の観念を大きく外れていました。だからパリサイ人は、主イエスは聖書で預言されたメシアではないと考え、最終的に十字架にかけたのです。大罪を犯し、神の懲罰と呪いを受けました。これは血塗られた大事な教訓となりました。神の出現や働きに関しては、すべてがとても大事なことで、奥義です。真理を求めず、観念にしがみつき、安易に判断し、決断を下す人は、神の性質に背くことになります。神に拒絶され、淘汰され、神の救いを失った後では、悔やんでも悔やみきれないでしょう。

現在、いまだ多くの人が、全能神が女性だという理由で、その出現と終わりの日の働きを拒絶しています、そして全能神の御言葉が真理と知りながら、全能神を受け入れようとしません。何が問題なのでしょう? なぜ人の観念はこんなにも強いのでしょう。なぜ真理の価値や、真理が表されたという事実を、一番に考えないのでしょう。人として、被造物である人類の一員として、私たちは神とその働きを理知をもって扱うべきです。全能神が受肉した神であることは明白で、全能神が表した御言葉が真理であることも明白なのに、いまだ観念にしがみつき、女性だからと全能神を受け入れないというのは、とても深刻な問題です。神を否定し、神に抵抗することと同じです。受肉した神や表された真理を認めないという行為は、単なる観念や想像の問題ではすみません。反キリストとして、つまり神の敵として、呪いを受けることになるのです! 聖書にもこうあります。「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」(ヨハネの第二の手紙 1:7)。「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている」(ヨハネの第一の手紙 4:3)。確信をもって言えます。人の子の再来を受け入れず、受肉した神の再来を認めない者は、全員が反キリストです。再来された神は、反キリストを救うでしょうか? ありえません。では反キリストはどうなるのでしょう? 反キリストの過ちとはなんでしょう? 彼ら人に反抗しているだけでなく、終わりの日のキリスト、つまり神に反抗しているのです。全能神を断罪し、非難するとはどういうことでしょう? それは聖霊への冒とく罪にあたります。この罪は永遠に許されることはありません。

現在神を信じる多くの人が神の働きを知らず、人の子とは何か、受肉とは何か、真の神とは誰かを知りません。このように人は簡単に受肉した神に反抗できてしまいます。ですから、私たちは、観念や想像で神の働きを限定することなく、真理を求めて観念を取り払うべきです。そうして初めて神の祝福を得られます。2度受肉した神が行う働きには、非常に深い意味があります。全能神はこうおっしゃっています。「神は単に、聖霊、霊、7倍に強化された霊、すべてを包み込む霊であるだけでなく、人間、普通の人間、ことのほか平凡な人間でもある。神は男性だけでなく、女性でもある。彼らはどちらも人間に生まれたという点で同じであるが、一人は聖霊によって受胎され、もう一人は生まれながらに人間であるが、霊から直接派生したという点で異なっている。彼らはどちらも神の受肉した肉体で、父なる神の働きを実行するという点で同じであるが、一人は贖いの働きを行い、もう一人は征服の働きを行うという点で異なっている。どちらも父なる神を表すが、一人は親愛の情と慈悲に満たされた贖い主であり、もう一人は怒りと裁きに満ちた義の神である。一人は贖いの働きを開始した最高司令官であり、もう一人は征服の働きを成し遂げる義の神である。一人は始まりであり、もう一人は終わりである。一人は罪のない肉体であり、もう一人は贖いを完成させ、働きを続行し、決して罪深くない肉体である。彼らはどちらも同じ霊であるが、異なる肉体に宿り、異なる場所で生まれ、数千年も隔てられている。しかし、彼らの働きはすべて相互に補完し合うものであり、決して対立せず、同じ次元で語られる。どちらも人であるが、一人は男の赤子であり、もう一人は女の幼児だった(『神の出現と働き』「神に対するあなたの認識はどのようなものか」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の御言葉からわかるのは、人類を救う働きをするために神が受肉された時、神が男性か女性か、どのような家柄か、どのような見た目か、それらはすべて重要ではなく、一番大事なのは、神の働きができ、神の旨を実行でき、神の栄光をもたらせるかどうかです。2千年前、主イエスはユダヤに暮らす普通の家庭に生まれ、飼い葉おけに入れられました。人はこれに対して観念をもち、主イエスをナザレ出身の大工の息子であるとして見下して、その働きを受け入れることを拒みました。その結果、彼らは神に呪われ、神の救いを失いました。終わりの日に、全能神は来られました。普通の家庭に生まれ、アジア人の外見をしています。一見普通の人間のように見えますが、非常に多くの真理を表し、終わりの日の裁きの働きをなさり、人を支配し、勝者の一団を作られました。全能神の働きの影響力は、全世界を揺るがし、数千年にわたるサタンによる人類の堕落の歴史を終わらせ、新たな時代を始められました。神が女性として受肉したことについて、人が観念をもつ資格はありますか? そのような人は傲慢で、理知にかけています。現在、全能神の神の国福音は世界中に広がっています。神の働きの段階は広大で力強く、止めることはできず、神の御言葉はすべてを達成します。これは神の義なる性質、全能性、智慧を完全に明らかにしています。全能神が仰るとおりです。「終わりの日における神の働きのすべては、この普通の人を通して行われる。この人はすべてのものをあなたに授け、またそれ以上に、あなたに関係するすべてのことを決定できる。このような人が、あなたがたが思っているように、言及する価値もないほど取るに足らないということがあり得るだろうか。この人の真理はあなたがたを完全に納得させるのに十分ではないのか。この人の業の証しは、あなたがたを完全に納得させるのに十分ではないのか。あるいは、この人がもたらす道は、あなたがたが歩む価値などないということなのか。結局あなたがたがこの人を忌み嫌い、見捨て、距離を置く理由は何なのか。真理を表すのはこの人であり、真理を施すのはこの人であり、あなたがたに従うべき道をもたらすのもこの人である。あなたがたが依然として、これらの真理の内に神の働きの痕跡を見つけられないということがあり得ようか。イエスの働きがなければ、人類が十字架から降りることはできなかったはずだが、今日の受肉がなければ、十字架から降りる者たちが神に認められることは決してないし、新しい時代に入ることもできない。この普通の人の到来がなければ、あなたがたに神の本当の顔を見る機会はなく、またその資格もない。と言うのも、あなたがたはみな、はるか昔に滅ぼされているべき対象だからである。二度目に受肉した神の到来のゆえに、神はあなたがたを赦し、あなたがたに憐れみを示してきた。いずれにしても、最後にわたしがあなたがたに言い残さなければならない言葉はやはりこうである。受肉した神であるこの普通の人は、あなたがたにとって極めて重要である。これこそが、神が人々のあいだで成し遂げた偉大なことなのだ(『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」〔『言葉』第1巻〕)

あなたがたが今日に至ったという事実は、この肉のおかげである。あなたがたに生存の機会があるのは、神が肉の中で生きているためである。この幸運はすべて、この普通の人のゆえに得られたものである。それだけではない。最後にすべての国はこの普通の人を崇め、この取るに足りない人に感謝し、従うだろう。全人類を救い、人と神の対立を和らげ、両者の距離を縮め、神と人の考えをつなげたのは、この人がもたらした真理、いのち、道だからである。いっそう偉大な栄光を神にもたらしたのもこの人である。このような普通の人は、あなたの信頼や敬愛を受けるに値しないだろうか。このような普通の肉はキリストと呼ばれるに相応しくないだろうか。このような普通の人が、人々のあいだで神の表れになることはできないのか。人類を災難から免れさせたこのような人は、あなたがたの愛に、抱きしめたいというあなたがたの願望にふさわしくないのか。彼の口から発せられる真理を拒み、自分たちのあいだに彼が存在するのを忌み嫌うならば、あなたがたの運命は最後にどうなるだろうか(『神の出現と働き』「あなたは知っていたか。神が人々のあいだで偉大な業を成し遂げたことを」〔『言葉』第1巻〕)

神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代の到来を知らせ、その働きの方法を変え、その時代全体の働きを行う。これが言葉の時代における神の働きの原則である。神はさまざまな視点から語るために肉となって、肉に現れた言葉である神を人間が真に目のあたりにし、神の知恵と驚くべき素晴らしさを目にできるようにした。このような働きは人間を征服し、完全にし、淘汰するという目的をより効果的に達成するために行われており、それが言葉の時代に言葉を用いて働きを行うことの真の意味なのである。こうした言葉を通して、人々は神の働き、神の性質、人間の本質、そして人間が何に入るべきかを知るようになる。言葉を通して、神が言葉の時代に行おうとしている働きの全体が実を結ぶのだ。こうした言葉を通して、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人々は神の言葉を目にし、その言葉を聞き、その言葉の存在を認識した。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、そして神の人間への愛と、人間を救いたいという願望とを信じるようになった。『言葉』という語は単純でごく普通かもしれないが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがし、人々の心を変革し、人々の観念と古い性質を変革し、世界全体の古い現れ方を変革する。多くの時代の中で、今日の神だけがこのように働いてきており、そして今日の神だけがこのように語り、このように人間を救いに来る。これ以降、人間は言葉の導きの下に生き、神の言葉により牧され、施しを受けることになる。人々は神の言葉の世界で、神の言葉の呪いと祝福の内に生きている。そしてさらに多くの人々が、神の言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになっている。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、そして過去の創造による世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、言葉をもって全宇宙の人々を導き、言葉をもって彼らを征服し救う。そして最終的に、神は言葉をもって古い世界全体を終わらせ、その経営(救いの)計画全体を完了させる(『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」〔『言葉』第1巻〕)

わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつて愛と尊敬をもって、わたしを救い主イエスとも呼んだ。しかし今日、わたしはもはや、人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、自身の全性質を余すところなく表し、権威、名誉、栄光に満ちつつ、地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。創世から今日に至るまで、わたしを見たことがある者は一人としていない。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々のあいだに隠れている神なのである。神は真実かつ現実に、照りつける太陽や燃えさかる炎のように、力に満ち、権威にあふれて人々のあいだに住まう。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人としておらず、一つとしてない。燃える火によって清められない人や物は一人としておらず、一つとしてない。最終的に、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日のすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であること、わたしが全人類を征服する全能神であることを理解する。また、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを灰にする太陽の炎、そしてすべてのものを露わにする義の太陽になることを理解する。それが終わりの日におけるわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持つことで、わたしが義の神、照りつける太陽、そして燃えさかる炎であることをすべての人が理解し、誰もが唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見られるようにする。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、贖い主であるだけでもない。わたしは天、地、海の至る所にあるすべての被造物の神なのである(『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」〔『言葉』第1巻〕)

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