神の働き、神の性質、そして神自身 III.

これまで数回の交わりは、あなたがた一人ひとりに大きな影響を与えてきました。いま、人々は神の真の存在と、実際には神が人と極めて近しいことを、ようやく実感できるようになったのです。人々は長年にわたり神を信じてきたかもしれませんが、神の思いと考えを現在ほど深く理解したことはなく、また神の実践的な業を今日ほど真に経験したこともありませんでした。認識であれ、実際の行為であれ、ほとんどの人は新しい認識を得て、より深く理解し、自分自身のそれまでの追求における過ちや経験の浅さに気づき、また自分の経験において神の旨に即していない事柄が多すぎること、そして最も人間に不足しているのは、神の性質に関する認識であることに気づいたのです。人によるこのような認識は、一種の知覚的な認識に過ぎず、理性的な認識の水準に達するには、自分の経験を通じた段階的な深化と強化が必要となります。真に神を理解する前の人間は、客観的に見て、神の存在を心で信じていると言えますが、神は実際にどのような神か、神の旨は何か、神の性質とはどのようなものか、人類に対する神の本当の姿勢はどのようなものかといった、具体的な問題についてはまったく理解していません。このことが人々の神に対する信仰を大いに損ない、その信仰が純粋なものになること、および完全なものになることを妨げています。たとえ神の言葉と向き合ったとしても、あるいは自分の経験を通じて神に対面したと感じたとしても、それをもって神を完全に理解したとは依然言えません。あなたは神の考えを知らず、また神が何を愛して何を憎むか、何に怒って何に喜ぶかも知りません。それゆえ、あなたは神を真に理解していません。あなたの信仰は、曖昧さと想像の上に立脚し、主観的な願望を基盤としています。そうした信仰は真の信仰から依然かけ離れており、あなたは真の信者から依然ほど遠い存在なのです。ここで紹介する聖書の物語の例を説明することで、人間は神の心を知るとともに、働きの各段階における神の考え、神がその働きを行なった理由、その際に神がもっていた本来の意図と計画、神が自分の考えを実現させる方法、そして神が自身の計画をどう立案し、展開させたかを理解できるようになります。こうした物語により、六千年にわたる経営(救い)の働きにおける神の具体的な意図、および神の本当の考えの一つひとつについて、そして各時点、各時代における神の人間に対する姿勢について、詳細かつ具体的に理解することができるのです。それぞれの状況で神は何を考えていたか、神の姿勢はどのようなものだったか、そして神はどのような性質を示したかを理解できれば、一人ひとりが神の真の存在をより深く理解し、神の現実性と真正さをより深く感じる上で助けとなります。わたしがこれらの物語を話す目的は、聖書に記された歴史を人々に理解させることでも、聖書の聖句や登場人物になじませることでもなく、とりわけ律法の時代における神の業の背景を理解できるようにすることでもありません。むしろ、人々が神の旨、神の性質、神のあらゆる側面を理解し、神についてより真正かつ正確な理解と認識を得られるようにすることです。これにより、人々は神に対して徐々に心を開き、神に近づくことができるとともに、神、神の性質、神の本質をさらに深く理解し、神自身をより深く知ることができるようになるのです。

神の性質に関する認識、および神が所有するもの神そのものに関する認識は、人々に肯定的な影響を与えることができます。そうした認識は、人々が神をさらに信頼し、神に対して真に服従し、神を崇敬する上で役立ちます。そうなると、人々はもはや盲目的に神に従うことも、無闇に神を崇めることもなくなります。神は愚か者や、盲目的に大衆に追随する人たちを望まず、むしろ神の性質を心の中ではっきり知って認識し、神を証しすることができる人、および神の愛、神が所有するものと神そのもの、そして神の義なる性質のゆえに、決して神を捨てない人の集団を望みます。神に付き従う者として、心がいまだ明瞭でなければ、あるいは神の真の存在、神の性質、神が所有するものと神そのもの、そして人類を救う神の計画に関して漠然とした点や混乱している点があれば、あなたの信仰が神に称賛されることはありません。神は、そのような人が自分に付き従うことを望んでおらず、そのような人が自分の前に来ることを好みません。この種の人は神を理解せず、心を神に捧げることができず、神に対して心が閉ざされているので、神に対する信仰は不純に満ちています。そのような人の神に対する信仰は、盲目としか言いようがありません。神に関する真の理解と認識は神への真の服従と畏敬を育みますが、人はそれらをもって初めて真の信仰を得て、真の信者になることができます。そのような形でのみ、人は神に心を捧げ、心を開くことができるのです。それが神の望むことです。なぜなら、そのような人の行動や思考はどれも神の試練に耐え、神を証しすることができるからです。神の性質、神が所有するもの神そのもの、あらゆる業における神の旨と考えについて、わたしがどのような観点から伝えようと、あるいはどのような角度から話そうと、それはどれも、あなたがたが神の真の存在についてより確信を抱き、人類に対する神の愛を真に認識して理解し、人々に対する神の懸念、そして人類を経営して救うという神の真摯な望みを真に理解するにあたり、その手助けをするものです。

創世以降の神の思い、考え、行ないを振り返る

本日は、神による人類創造以降の神の旨、考え、そして行動についてまとめ、創世から恵みの時代の開始時点までに神が行なった働きを検討します。すると、神の旨と考えのうち、人間に知られていないものがどれかを突き止めることができ、そこから神の経営計画の秩序をはっきりさせ、神が経営の働きを創った背景、起源、そして展開過程を完全に理解することができ、また神が経営の働きからどのような結果を望んでいるか、つまり神による経営の働きの核心と目的を完全に理解することができます。これらの事柄を理解するには、人間が存在しなかった、遠い過去の静寂の時代まで遡る必要があります……

神が最初の生きた人を自ら造る

目覚めた神が最初に考えたことは、生きている現実の人間、常に神とともに生き、神の道連れとなる人を創ることでした。この人間は神の言葉を聞き、神が信頼して話せる人でした。次に、神はまずひと握りの土をすくい上げ、心の中で想像していた姿にしたがって最初の人間を創り、その生きた被造物をアダムと名づけました。息をして生きているこの人間を創った後、神はどのように感じましたか。愛すべき道連れをもつ喜びを初めて感じたのです。また、父としての責任と、それに伴う懸念も初めて感じました。息をして生きているこの人間は、神に幸福と喜びをもたらしました。神は初めて慰めを感じたのです。これが、神が自身の考え、さらには自身の言葉によってではなく、自身の手で行なった最初の業でした。いのちをもち、息をする人間、肉と血で創られた身体をもち、神と話せるこのような存在が目の前に立ったとき、神はかつてない喜びを感じました。神は自らの責任を実感し、この生き物に心惹かれるだけでなく、その一つひとつの行動に心が温まって感動しました。この生き物が神の前に立ったとき、神は初めて、このような人間をさらに得たいと考えました。これら一連の出来事は、神が当初に抱いたこの考えから始まったものです。神にとって、こうした出来事はどれも初めてのことでしたが、これら最初の出来事において、神が感じたのが喜びであれ、責任であれ、懸念であれ、それを分かち合う相手が神にはいなかったのです。この瞬間から、神はそれまで感じたことのなかった寂しさと悲しさを心から感じました。人間は自分の愛と懸念、そして人間に対する自身の旨を受け入れることも理解することもできないと思った神は、依然として悲しみと心の痛みを感じていました。人間のためにこれらのことを行なったにもかかわらず、人間はそれに気づかず、理解することもありませんでした。幸福に加え、人間が神にもたらした喜びと慰めは、ほどなくして最初の悲しみと寂しさをも神にもたらしたのです。以上が、この時点で神が考え、感じていたことです。そうしたことを行なっている間、神の心は喜びから悲しみに、悲しみから苦痛に変わり、その感情には懸念が入り交じっていました。神が望んだのはひとえに、自身の心にあるものをこの人間、この人類に急いで知らしめ、一刻も早く自身の旨を理解させることでした。そうすれば、人間は神に付き従う者となって神の考えを分かち合い、神の旨に従えるようになるはずです。ひたすら無言で神の言葉に耳を傾けることも、神の働きにどう加わるべきかを知らずにいることもなくなり、そして何より、神の求めに無関心でいることはなくなるでしょう。神が最初になしたこれらの事柄は、極めて有意義であり、神の経営計画と現在の人間にとって大いに価値あるものでした。

万物と人類を創った後、神が休むことはありませんでした。自身の経営を実行し、自身がこよなく愛する人間を得ようと待ちきれなかったのです。

律法の時代の前後、神が前例のない一連の働きを行なう

その後、神が人間を創ってからほどなくして、世界中で大規模な洪水が起きたと聖書には記されています。この洪水の記録はノアについて触れていますが、ノアは、神の務めを遂行すべく神とともに働くよう、神の命令を受けた最初の人間だと言えるでしょう。もちろん、神が地上の人間に対して、自身の命令に従って何かをするよう呼びかけたのもこれが最初でした。ノアが箱舟を完成させると、神は地球に最初の洪水を起こしました。洪水によって大地を滅ぼしたとき、神は人間を創ってから初めて、人間への嫌悪感に圧倒されました。それにより、神は洪水によって人類を滅ぼすという悲痛な決断を余儀なくされたのです。地球が洪水によって滅ぼされた後、神は人間との間で、二度と洪水によって世界を滅ぼさないという内容の最初の契約を交わしました。この契約のしるしは虹でした。これが神と人類との最初の契約であり、したがって虹は、神による契約の最初のしるしでした。虹は実体のある物理的な存在です。この虹こそが、洪水で失った以前の人類に対する神の悲しみをしばしば呼び起こし、それらの人々が見舞われた出来事を、絶えず神に思い出させるものなのです……神は歩を緩めることなく、ひたすら自身の経営を次の段階へと進めました。次に、イスラエル全土における自身の働きの中で、神は最初にアブラハムを選びました。これは、神がアブラハムのような者を選んだ最初の時でもありました。神はこの人物を通じて人類を救う働きを始め、それから彼の子孫を通じて自らの働きを継続することを決意しました。神がアブラハムに対してそのようにしたことは、聖書で確認することができます。その後、神はイスラエルを最初の地として選び、選民であるイスラエル人を通じて律法の時代の働きを始めました。この時も、神は初めて、人類が従うべき明確な規則と律法をイスラエル人にもたらし、それらを詳しく説明しました。どのように生贄を捧げるべきか、どのように暮らすべきか、何をすべきで何をすべきでないか、どのような祝祭や期日を守るべきか、そして万事においてどのような原則に従うべきかについて、神は初めて具体的かつ標準的な規則を人間にもたらしたのです。

ここで「初めて」というのは、神はそれ以前に同様の働きを行なったことがなかった、という意味です。そうした働きはそれまで存在しておらず、神は人類を創り、ありとあらゆる生き物を創ったにもかかわらず、こうした働きを行なうことは以前になかったのです。これらの働きはすべて、神による人類の経営が関係しています。どれも人々に、そして神による人々の救いと経営に関係していたのです。アブラハムの後、神は再び初めてのことをしました。つまりヨブを選び、彼を律法のもとで暮らし、サタンの試みに耐え、その一方で引き続き神を畏れ、悪を避け、神の証しに立つ人間としたのです。それはまた、サタンが人を試すのを神が許した最初の時であり、神がサタンと賭けをした最初の時でもありました。最終的に、サタンと対峙しながら神の証しに立ち、その証しをできる人、サタンを完全に辱められる人を、神は初めて得たのです。神による人類の創造以来、神が自身の証しをできる人を得たのはこれが最初でした。ヨブを得た神はより精力的に経営を続け、働きの次なる段階へと進み、それを行なう場所と人を選んで用意しました。

ここまでの交わりで、神の旨を真に理解しましたか。このように人間を経営して救うことを、神は何より重要だと考えます。神はこうした業を、自身の考えや言葉だけでそれらのことを行なうのではなく、ましてや軽々しい態度で行なうことなどあり得ません。計画、目的、基準、そして自身の旨にしたがってそれらのことを行なうのです。人類を救うその働きが、神と人間の両方にとって極めて大きな意義をもつことは明らかです。その働きがいかに困難だとしても、障害がいかに大きくても、人間がいかに弱くても、あるいは人類の反逆心がいかに強くても、そのいずれも神にとって困難とはなりません。神はひたすら血のにじむような努力を続け、自身が行なおうとしている働きを経営します。また、神はすべてを采配し、働きの対象となるすべての人間と、完了させたいと望むすべての働きを経営していますが、それらはどれも以前に行なわれたことがないものです。人類を経営して救うという一大事業のために、神がこれらの手段を使い、かくも大きな代価を支払ったのはこれが初めてなのです。神はこの働きを行なう一方、自身の血のにじむような努力、自身が所有するものと自身そのもの、自身の知恵と全能、そして自身の性質の各側面を、人類に対して少しずつ、かつ惜しみなく示して明らかにします。それまで明かしてこなかったこれらのことを明らかにして示すのです。ゆえに、神が経営して救おうとする人間を除き、神にこれほど近づき、親密な関係をもつ生物は全宇宙に存在しません。神の心の中では、自分が経営して救おうとしている人間が最も重要であり、神はこの人類を他の何より大切にしています。たとえ彼らのために大きな代価を支払ってきたとしても、また彼らに絶えず傷つけられ、反抗されたとしても、神は彼らを決して見捨てず、不満を言うことも後悔することもなく、自身の働きをひたすら続けます。と言うのも、人々が遅かれ早かれ自身の呼びかけで目覚め、自身の言葉によって動かされ、神が創造主であることを認めて神のもとへ戻ることを、神は知っているからです。

今日ここまでの話を聞いて、神が行なうことはすべてごく普通だと感じるかもしれません。人間は神の言葉と働きから、神の旨の一部を絶えず感じ取っているように思われますが、人々の感情や認識と、神が考えていることとの間には、常に一定の差があります。そのためわたしは、神が人類を創った理由や、自ら望む人々を獲得したいという神の望みの背景について、すべての人に伝える必要があると思うのです。一人ひとりが心の中ではっきりさせて理解するよう、これを全員に分かち合うことが不可欠なのです。神の一つひとつの考えや発想、そして神の働きの各段階と各期間は、いずれも神の経営の働き全体と結びつき、密接に関連しているので、働きの各段階における神の考え、発想、そして旨を理解することは、神の経営計画の働きがどのように生じるかを理解することと同じなのです。これを土台として、神に関するあなたの理解は深まります。先ほど述べた、神が世界を創った際に行なったすべてのことは、いまや「情報」に過ぎず、真理の追求と何ら関係ないように見えます。しかし、経験を積んでゆく過程で、それが単なる情報のように単純なものでもなければ、ある種の謎のように簡単なものでもないことに気づく日が来ます。今後の人生のなかで、心の中に少しでも神の居場所があれば、あるいは神の旨をより徹底的に、より深く理解すれば、わたしが本日話している内容の重要性と必要性を真に理解することができます。いまこれをどの程度受け入れるかに関係なく、こうした事柄を理解して知ることは、あなたがたにとって必要なことです。神が何かを行なったり働きを実行したりするとき、それが神の考えによるものか、あるいは神自身の手によるものかを問わず、また神がそれを行なうのが最初であるか最後であるかを問わず、最終的に、神には計画があり、神が行なうすべてのことには神の目的と考えが込められているのです。こうした目的と考えが神の性質を示し、神が所有するものと神そのものを表わしています。これら二つのこと、つまり神の性質、そして神が所有するものと神そのものは、すべての人が理解しなければならないことです。いったん神の性質や、神が所有するものと神そのものを理解すれば、その人は徐々に、神がなぜそれを行なうのか、なぜそれを言うのかを理解できるようになります。そこから神に従い、真理と性質の変化を追い求める信仰をさらに得られるのです。つまり、神に関する人間の理解と、神への信仰は不可分なのです。

人々が知って理解するようになったことが、神の性質や神が所有するものと神そのものだとしたら、それによって得られるのは神から生じるいのちです。ひとたびこのいのちが自分の中で形作られると、神への畏れが次第に大きくなります。それは極めて自然に生じる成果です。神の性質や本質について、それを理解しようと望まず、また知ろうともしないなら、あるいはそれらの事柄を考えたり重視したりすることさえ望まないなら、神への信仰を追求するにあたってあなたが現在行なっている方法では、神の旨を満足させることも、神の称賛を得ることも決してできないと断言できます。それ以上に、神の救いも決して得られません。それが最終的な結果です。神を理解せず、神の性質を知らなければ、神に対して真に心を開くことはできません。いったん神を理解すれば、神の心中にあるものを、関心と信仰をもって理解し、味わうようになります。神の心中にあるものを理解して味わうとき、神に対して徐々に心が開かれていきます。神に対して心が開いたとき、自分がしてきた神とのやりとり、神に対する要求、そして自分自身の過度な欲望がどれほど恥ずかしく軽蔑に価するかを感じるようになります。神に対して真に心を開いた時、神の心が無限の世界であることや、自分が未体験の領域へと入ってゆくのがわかります。この領域には嘘や欺瞞、闇や邪悪がまったくありません。そこにあるのは誠実さと忠実さ、光と正しさ、義と優しさだけなのです。この領域は愛と思いやり、慈悲と寛容にあふれ、それを通じて生きていることの幸福と喜びを感じることができます。あなたが神に心を開いたとき、神はこれらのことをあなたに明かすのです。この無限の世界は神の知恵と全能、また神の愛と権威に満ちています。そこでは、神が所有するものと神そのもの、神に喜びをもたらす物事、神が懸念を抱く理由、神が悲しむ理由、神が怒りを抱く理由について、そのあらゆる側面がわかります。心を開いて神が入ってくるのを受け入れた人はみな、これらの事柄がわかるのです。神があなたの心に入れるのは、あなたが神に心を開くときだけです。神があなたの心に入ったときにだけ、あなたは神が所有するものと神そのもの、そしてあなたに対する神の旨を理解できるのです。そのとき、神に関するすべての物事が尊いこと、神が所有するものと神そのものが大切にする価値のあるものだとわかります。それに比べると、あなたの周囲の人々、生活における物事や出来事、そしてあなたの家族や伴侶、あるいはあなたが愛する物事さえ、述べる価値すらありません。それらはとても小さく卑しいものであって、自分が何らかの物体に引きつけられることはない、あるいは何らかの物体が自分を誘惑し、その代価を払わせることは二度とできないと感じるようになります。あなたは神の謙虚さの中に、神の偉大さと至高を目の当たりにします。そのうえ、あなたは神の業の中に、自分がそれまで、神の無限なる知恵と寛容はごく小さなものだと信じていたこと、そして自分に対する神の忍耐、寛容、および理解を目の当たりにします。こうした事柄により、あなたの中に神への愛が育まれます。あなたはその日、人類がとてつもなく汚れた世で生きていること、身近な人々や生活の中の出来事、自分が愛する人や、そうした人のあなたに対する愛、そしていわゆる保護や気遣いさえも、述べる価値すらないものと感じられ、自分が愛するのは神だけであり、自分にとって最も貴重なのは神だけであると感じます。この日が来たとき、次のように言う人々が現われることをわたしは信じています。「神の愛はかくも偉大であり、神の本質はかくも聖なるものだ。神には欺瞞、邪悪、ねたみ、争いが皆無であり、正義と正当性しかなく、神が所有するものと神そのもののすべては、人間が望むべきものである。人間はそれを求めて努力し、熱望すべきだ」では、それを成し遂げる人類の能力は何を基盤としていますか。そうした能力は、神の性質と本質に関する自分自身の理解を基盤としています。したがって、神の性質、そして神が所有するものと神そのものを理解することは、各人が生涯をかけて学ぶことであり、また自分の性質を変え、神を知ろうと努力するすべての人が追い求める目標でもあるのです。

神が初めて肉となり、働きを行なう

わたしたちはここまで、神が行なったすべての働き、そして神が実行した一連の前例なき働きについて話し合いました。それらはどれも神の経営計画と神の旨に関係しており、神自身の性質と本質にも関係しています。神が所有するものと神そのものについてもっと理解したいと望むなら、旧約聖書や律法の時代で立ち止まることはできず、神がその働きのなかで辿った段階にしたがい先へと進む必要があります。ゆえに、神は律法の時代を終えて恵みの時代を始めたのですから、わたしたちもそのあとを追い、恵みと贖いに満ちた時代、すなわち恵みの時代へと進みましょう。この時代、神は再び初めての重要なことを行ないました。神と人類の両者にとって新しいこの時代における働きは、新たな出発点となりました。この新たな出発点もまた、神がそれまで行なったことのない働きから成り立っていました。この新たな働きは前例のないものであり、人間やあらゆる被造物の想像力を超えるものでした。それはいまや誰もが知っています。つまり、神は初めて人間となり、初めて人間の姿で、人間の身分において新たな働きを始めたのです。この新たな働きは、神が律法の時代の働きを終えたこと、そして律法に基づく言動をもはやしないことを示しました。また律法の形で、あるいは律法の原則や規則にしたがって、何かを述べたり行なったりすることもなかったのです。つまり、律法に基づく神の働きは永遠に止まり、継続することは二度とありませんでした。なぜなら、神は新たな働きを始め、新たな業を行なうことを望んだからです。神の計画は再び新たな出発点を迎え、ゆえに神は人類を新たな時代へと導く必要がありました。

それが人間にとって喜ぶべき知らせであるか、忌むべき知らせであるかは、各人の本質によって決まります。一部の人々にとって、それは嬉しい知らせでなく忌むべき知らせだったと言えるでしょう。と言うのも、神が新たな働きを始めた際、律法と規則に従うだけだった人、教義に従うばかりで神を畏れなかった人は、神による以前の働きを持ち出して、神の新たな働きを非難しようとする傾向にあったからです。こうした人たちにとって、それは悪い知らせでした。しかし、汚れがなく率直であり、神に対して誠実であり、神の贖いを喜んで受けた人々にとって、神の最初の受肉は極めて喜ばしい知らせでした。なぜなら、人間が存在するようになってからというもの、神が霊ではない形で現われ、人間とともに生活したのはこれが初めてであり、神は今回人間として生まれ、人の子として人々の間で生活し、人々の中で働きを行なったからです。この「初めての出来事」は、人々の観念を打ち壊し、あらゆる想像を越えるものでした。さらに、神の信者は残らず目に見える益を得ました。神は古い時代を終わらせただけでなく、自身の働きにおけるそれまでの手段や方式をも終わらせたのです。つまり、神は使者に自身の旨を伝えさせることを止め、もはや雲間に隠れず、稲妻を通じて現われることも、人間に命令口調で語ることもなくなりました。それ以前とは異なり、人間にとって想像もつかず、理解することも受け入れることも極めて困難な方法、つまり肉になるという方法でその時代の働きを始めるべく、神は人の子となりました。神によるこの行動は、人間にとってまったくの不意打ちであり、また不快なものでした。なぜなら、神はまたしても、それまで行なったことのない新しい働きを始めたからです。本日は、この新たな時代に神が実現した新たな働きは何かを検討し、また神の性質、および神が所有するものと神そのものという観点の中で、わたしたちがこの新たな働きから何を学べるかを考えます。

次に挙げるのは新約聖書に記された言葉です。

1.イエスが安息日に麦の穂を摘んで食べる

マタイによる福音書 12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。

2.人の子は安息日の主である

マタイによる福音書 12:6-8 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。

まずは「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた」という聖句を検討しましょう。

わたしがこの聖句を選んだのはなぜですか。この聖句と神の性質との間にはどのようなつながりがありますか。この聖句で最初にわかるのは、安息日であるにもかかわらず、主イエスは外出し、弟子たちを率いて麦畑を歩いたということです。さらに「けしからぬ」こととして、弟子たちは「穂を摘んで食べはじめた」のです。律法の時代、ヤーウェ神の律法には、安息日に何気なく外出したり、何らかの活動に参加したりしてはならないと明記されていました。安息日にしてはならないことが沢山あったのです。主イエスによるこの行動は、長らく律法の下で暮らしてきた人にとっては不可解であり、非難を招きさえしました。ここでは人々の困惑や、イエスの行動について人々がどのように語ったかは検討せず、まずは主イエスがすべての曜日の中でなぜ安息日にこうした行動をとったのか、またその行動により、律法の下で暮らしていた人々に何を伝えたかったかを検討します。それがこの聖句と、わたしがこれからお話しする神の性質とのつながりなのです。

来臨した主イエスは、神が律法の時代を離れて新たな働きを始めたこと、またその新たな働きが安息日の遵守を求めないことを、実際の行動によって人々に伝えました。神が安息日の拘束から抜け出たのは、神の新たな働きの前触れに過ぎず、実際の偉大な働きはいまだ行なわれていなかったのです。主イエスは働きを始めた際、律法の時代の「束縛」をすでに捨て去っており、その時代の規制や原則を打破していました。イエスには、律法に関連する部分がまったく見られませんでした。律法を完全に捨て去り、もはやそれを守らず、また律法の遵守を人に要求することもなかったのです。ゆえにここで、主イエスが安息日に麦畑を歩いていたこと、およびその日に休まなかったことがわかります。主イエスは外に働きに出て休まなかったのです。主イエスによるこの行動は人々の観念に衝撃をもたらし、イエスがもはや律法の下で暮らしていないこと、およびイエスが安息日の束縛を離れ、新たな姿で、新たな働き方を携えて人類の前に現われたことを人々に伝えました。またイエスによるこの行動は、彼が新たな働きを携えてきたことを人々に示しました。それはつまり、律法の支配と安息日を離れることから始まる働きです。新たな働きを行なう際、神はもはや過去に固執せず、律法の時代の規則を気にかけることもありませんでした。また過去の時代の働きに影響されることもなく、他の各曜日と同じく安息日であっても働きを行ない、かくして弟子たちは空腹となったとき、麦の穂を摘んで食べることができました。これはどれも、神の目にはごく普通のことでした。神にとって、自身が行なおうとしている新たな働きや、言おうとしている新たな言葉の大部分について、それらが新たに始まるのは許されることなのです。神は何か新しいことを始めるとき、以前の働きに触れることも、それを続けることもありません。神の働きには原則があるので、神が新たな働きを始めようとしたら、それは自身の働きの新たな段階に人類を連れ出すとき、自身の働きがより高次の段階に入るときなのです。人々が旧来の言い習わしや規則に従って行動し続けたり、それらに固執し続けたりした場合、神はそれを記憶することも讃えることもしません。なぜなら、神はすでに新たな働きをもたらし、働きの新たな段階へと入ったからです。神は新たな働きを始めるとき、人々が神の性質や神が所有するものと神そのものの様々な側面を見て取れるよう、まったく新しい姿で、まったく新しい角度から、まったく新しい方法でもって、人類の前に現われます。これが神による新たな働きの目的の一つです。神は以前の物事にしがみつくことも、踏みならされた道を歩くこともありません。また働きを行なって言葉を語るときも、人間が想像するように何かを禁じたりはしません。神においてはすべてが自由であり、解放されており、禁止も束縛もありません。神が人類にもたらすのは自由と解放なのです。神は生きている神であり、本当に実在する神です。操り人形でも粘土の像でもなく、人間が崇め奉る偶像とはまったく違います。神は生きており、活気に満ち、神の言葉と働きが人類にもたらすのは、ひとえにいのちと光、自由と解放です。なぜなら、神には真理といのちと道があり、働きの中でいかなる物事にも制約されないからです。人々が何を言おうと、あるいは神の新たな働きをどのように見たり評価したりしようと、神は何のためらいもなく働きを行ないます。自身の働きや言葉に対する人間の観念と批判、さらには自身の働きに対する強い反感や反抗を、神が懸念することはないのです。人間の理知、あるいは人間の想像、知識、倫理によって、神の働きの評価や定義をしたり、それを貶め、混乱させ、妨害することができる者は、あらゆる被造物の中に一人もいません。神の働きや業の中に禁じられていることは一切なく、人や出来事や物事に制約されることも、敵対する勢力に邪魔されることもありません。神の新たな働きに関する限り、神は永遠に勝利する王であり、いかなる敵対勢力も、あるいは人類による異端や詭弁も、すべて神の足台の下で踏みにじられます。神の働きのうち、どの新たな段階が現在なされているかを問わず、神の大いなる働きが完了するまで、それは必ずや人類の間で発展、拡大し、全宇宙において妨害されることなく実行されます。これが神の全能と知恵、そして権威と力なのです。そのため、主イエスは安息日に公然と外出して働くことができました。なぜなら主の心には、人間に由来する規則も、知識も、教義もなかったからです。イエスにあったのは神の新たな働きと道でした。その働きは、人間を自由にして解放し、人間が光の中に存在して生きられるようにする道でした。一方、偶像や偽の神を崇拝する人は、サタンに束縛され、ありとあらゆる規則や禁忌に制約されながら毎日を生きています。今日はあることが禁止され、明日はまた別の何かが禁止されるという具合に、彼らの生活に自由はないのです。彼らは足かせをはめられた囚人のようなもので、語るべき喜びをもたずに生きています。「禁止」とは何を表わしていますか。それは、制約、束縛、そして邪悪を表わしています。偶像を崇拝するや否や、その人は偽の神、悪霊を崇めていることになります。そうした行ないがなされると、そこには禁止が伴います。あれやこれを食べてはいけない、今日は外出できない、明日は料理できない、その翌日は転居してはならない、婚礼や葬儀、さらにお産まで、特定の日を選ぶ必要がある、といった具合です。それは何と呼ばれますか。それを「禁止」というのです。それは人間の束縛、サタンと悪霊の足かせであり、人々を操ってその心身を拘束しているのです。これらの禁止事項は神に存在しますか。神の聖さについて語るとき、まずは神に禁止事項がないことを考えなければなりません。神の言葉と働きには原則があっても、禁止事項はありません。なぜなら、神こそが真理であり、道であり、いのちだからです。

次に、「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」(マタイによる福音書 12:6-8)という聖書の一節を検討しましょう。ここでいう「宮」、つまり神殿は何を指していますか。簡単に言えば、それは高くて壮麗な建物を指しており、律法の時代においては、司祭が神を礼拝する場所でした。主イエスが「宮よりも大いなる者がここにいる」と言った際、「大いなる者」とは誰を指していましたか。それは明らかに、肉体をもつ主イエスを指しています。なぜなら、神殿よりも偉大なものは主イエスだけだったからです。この言葉は人々に何を伝えましたか。神殿から出るよう、人々に伝えたのです。神はすでに神殿から出ており、もはやそこでは何も行なっていなかったので、人々は神殿の外で神の足跡を求め、新たな働きにおける神の歩みに従うべきなのです。主イエスがそう言ったとき、その言葉の背景には一つの前提がありました。つまり、人々は律法のもと、神殿を神自身よりも偉大なものとして見なすようになっていたことです。要するに、人々が神でなく神殿を礼拝したので、主イエスは人々に対して偶像を崇拝せず、至高の存在である神を崇拝するよう警告したのです。そうしたわけで、主は「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と述べました。主イエスから見て、ほとんどの人は律法のもと、もはやヤーウェを礼拝しておらず、単に生贄を捧げる動作を繰り返していたのは明白であり、主イエスはその動作を偶像崇拝だと判断しました。これらの偶像崇拝者は、神殿を神よりも偉大で崇高なものと考えていました。彼らの心には神殿しかなく、神は存在しなかったので、神殿を失うとすみかを失うことになりました。神殿がなければ礼拝する場所がなく、生贄を捧げることができませんでした。ここでいう「すみか」とは、神殿に留まって自分の活動を行なうべく、ヤーウェ神を礼拝するふりをしていた場所のことです。また「生贄を捧げる」とは、神殿で奉仕を行なうという口実のもと、自分個人の恥ずべき取引を行なうということでした。当時の人々が、神殿は神より偉大だと見なしていたのはこれが理由でした。こうした人たちは神殿を隠れ蓑として、生贄を人々と神を欺く口実として利用していたので、主イエスは人々への警告としてこれらの言葉を語ったのです。現在に当てはめても、これらの言葉は依然として正当であり、適切なものです。現在の人々は律法の時代の人々と異なる神の働きを経験していますが、人の本性実質は同じです。現在の働きに関しても、人々は「神殿は神よりも偉大である」という言葉に代表されるような物事を依然として行なっています。たとえば、自分の本分を尽くすことを仕事と考えており、神を証しすること、赤い大きな竜と戦うことを、人権保護、民主主義、そして自由のための政治活動だと考えています。また人々は、自分の技能を活用する本分を職務としていますが、神を畏れて悪を避けることを、遵守すべき単なる宗教的教義として扱っています。このような振る舞いは、「神殿は神よりも偉大である」というものと本質的に同じではないですか。二千年前、人々は形ある神殿で自分の個人的な仕事を行なっていたのに対し、現在において、人々は無形の神殿で自分の個人的な仕事を行なっているというだけの違いです。規則を重視する人は、規則を神よりも偉大なものと見なし、地位を好む人は、地位を神よりも偉大なものと見なし、職務を好む人は、職務を神よりも偉大ものと見なしています。そうした人たちが表わしていることのために、わたしは次のように言うのです。「人々は、口では神を最も偉大だと褒め讃えるが、その人たちの目には、あらゆる物事が神よりも偉大なものとして映る」。その理由は、神に付き従う道において、自分自身の才能を示したり、あるいは自分自身の仕事や職務を行なったりする機会を見出すとすぐ、人は神から離れ、自分が愛する職務に没頭してしまうからです。神が彼らに託した物事や、神の旨は、はるか昔に捨て去られたのです。これらの人たちの状態と、二千年前に神殿の中で自分の仕事を行なっていた人たちの状態と、いったい何が違うでしょうか。

次にこの一節の最後の一文、つまり「人の子は安息日の主である」という文章を検討しましょう。この文章に現実的な側面はありますか。現実的な側面が見て取れますか。神が述べるすべてのことは神の心から生じるものです。では、そのように述べたのはなぜですか。あなたがたはどのように理解していますか。あなたがたはいま、この文章の意味を理解しているかもしれませんが、それが語られた当時、理解している人は多くありませんでした。と言うのも、人類は律法の時代から抜け出したばかりだったからです。彼らにとって、安息日を離れるのはとても難しいことであり、本当の安息日とは何かを理解していなかったのは言うまでもありません。

この「人の子は安息日の主である」という一文は、神に関する一切のものが非物質的であることを人々に伝えています。それでは、神はあなたが必要とする物質的な物事をすべて授けることができますが、物質的な必要性がすべて満たされた後、こうした物事による満足感で真理の追求を置き換えることはできますか。それは明らかに不可能です。ここまで交わってきた神の性質、および神が所有するものと神そのものは、どちらも真理です。その価値を物質的な物事で計るのは不可能であり、またそれがいかに貴重でも、その価値を金銭で数量化することもできません。なぜなら、それは物質的なものではなく、各人の心が必要とするものを満たすものだからです。すべての人々にとって、こうした無形の真理の価値は、あなたが大事にしているいかなる物体の価値よりも高いはずです。違いますか。この問題についてはじっくり考える必要があります。わたしが述べてきたことの要点は、神が所有するものと神そのもの、および神に関する一切のことは、あらゆる人にとって最も重要なことであり、どのような物体もその代わりにはなり得ないということです。一つ例を挙げましょう。空腹のときには食べ物が必要です。この食べ物は比較的良いものである場合と、そうでない場合があります。しかし腹一杯食べさえすれば、空腹の不快感は解消されてなくなります。落ち着いていられるようになり、身体も安らぎます。人間の空腹は食べ物で解消されますが、神に付き従っているのに、自分は何ら神を理解していないと感じるなら、その心の空虚さはどうすれば解消することができますか。食べ物で解消することができますか。また、神に付き従っているのに、神の旨を理解していなければ、そうした心の飢えは何を使えば満たせますか。神による救いを経験する過程において、性質の変化を追い求めながら、神の旨を理解することも、真理とは何かを知ることもなく、神の性質を知らなければ、あなたは極めて不安に感じませんか。心の飢えと渇きを強く感じませんか。そうした感覚によって心の安息が妨げられはしませんか。では、こうした心の飢えを解消するにはどうすればよいですか。それを解消する方法はありますか。ショッピングに出かける人もいれば、悩みを打ち明けられる友達を探す人、ひたすら眠る人、神の言葉をさらに読む人、より懸命に働き、本分を尽くすためにいっそう努力する人もいます。こうしたことで実際の問題を解決できますか。このような行動については、あなたがたの誰もが完全に理解しています。無力感を覚えたとき、あるいは真理や神の旨を実際に知ることができるよう、神の啓示を得たいと渇望するとき、あなたに一番必要なものは何ですか。大量の食事でも二、三の優しい言葉でもなく、ましてや束の間の慰めでも肉の満足でもありません。あなたに必要なのは、自分がすべきことは何か、それをどうすべきか、そして真理とは何かを、神から明瞭に直接伝えてもらうことです。ほんの少しでもそれを理解したら、良い食事を食べたときよりも心の中で満足感を覚えませんか。心が満たされたとき、心と自分の存在全体が真の安らぎを得られるのではないですか。この例と分析から、わたしが「人の子は安息日の主である」という文章をあなたがたと分かち合いたい理由が理解できたでしょうか。この文章が意味するのは、神から生じるもの、神が所有するものと神そのもの、および神に関する一切のことは、他の何より偉大だということです。そこには、あなたがそれまで最も貴重だと信じていた物事や人も含まれます。つまり、神の口から言葉を得られなかったり、神の旨を理解できなかったりすれば、その人は安らぎを得られないのです。あなたがたは今後の経験のなかで、わたしが今日あなたがたにこの聖句を考察してほしいと望んだ理由を理解するでしょう。これは非常に重要なことです。神が行なうことはどれも真理であり、いのちです。この真理は人間のいのちに不可欠なものであり、それなしで生きることは決してできません。また、それは最も偉大なものだとも言えるでしょう。真理は見ることも触れることもできませんが、あなたに対する重要性を無視することはできません。それはあなたの心に安らぎをもたらす唯一のものなのです。

真理に関するあなたがたの理解は、自分自身の状態と一体となっていますか。実生活では、どの真理が、自分が遭遇した人や出来事や物事に関連しているかをまず考えなければなりません。こうした真理の中に神の旨を見出し、自分が遭遇した物事と神の旨を関連づけることができるからです。自分が遭遇した物事について、真理のどの側面がそれと関連しているかを知ることなく、神の旨を直接求めにいったところで、そのような盲目的なやり方で成果を得ることはできません。真理を求めて神の旨を理解したければ、まずは自分にどのようなことが起きているのか、それが真理のどの側面と関連しているかを検討してから、神の言葉の中に、自分が経験したことに関連する特定の真理を探し出す必要があります。次に、その真理の中から自分にふさわしい実践の道を探します。そのようにすることで、神の旨に関する間接的な理解が得られます。真理を探して実践することは、機械的に教義を適用することでも、公式に従うことでもありません。真理は公式のようなものでも、法則でもないのです。真理は死んだものではなく、いのちそのものであり、生きているものであり、被造物が人生において従うべき法則、生きる上でもたなければならない法則です。それは、あなたが経験によって可能な限り深く理解する必要があるものなのです。自分の経験がどの段階に達していようと、あなたは神の言葉や真理から離れることができず、神の性質についてあなたが理解していること、神が所有するものと神そのものについてあなたが知っていることはどれも、神の言葉の中に表わされています。それらには真理と切り離せないつながりがあるのです。神の性質、そして神が所有するものと神そのものは、それ自体真理です。真理は神の性質と、神が所有するものと神そのものを表わす真正なものです。それによって神が所有するものと神そのものは具体的なものになり、またはっきり述べられることになります。神が何を好むか、何を好まないか、あなたに何をしてほしいのか、あなたが何をするのを許すのか、どのような人を嫌ってどのような人に喜ぶかを、それはあなたにはっきり伝えるのです。神が表わす真理の背景から、人々は神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができます。これが神の性質の現われです。神の言葉から神が所有するものと神そのものを知り、神の性質を理解することを除いて最も重要なのは、実践的な経験を通じてこの理解に達する必要性です。神を知るために自分を実生活から切り離せば、その人は神を知ることができません。神の言葉から何らかの理解を得られる人がいたとしても、その理解は教義や言葉に限られ、本当の神自身と差異が生じることになります。

いま話し合っていることはどれも、聖書に記録された物語の範囲内にあるものです。これらの物語と、そこで起きたことの分析によって、人間は神が表わしてきた神の性質と、神が所有するものと神そのものを理解することができ、それによって神のあらゆる側面をより広く、深く、包括的に、そして徹底的に知ることができます。では、神のあらゆる側面を知るには、これらの物語を通して知るのが唯一の方法ですか。違います。それが唯一の方法ではありません。神の性質をより十分に知るには、神の国の時代における神の言葉と働きのほうが役立つからです。しかし、神の性質を知り、神が所有するものと神そのものを理解するには、人々が親しんでいる聖書の中の実例や物語を通して行なうほうがより簡単だと思います。裁きと刑罰の言葉、および神が現在表わしている真理を一語一語取り上げ、それによってあなたに神を理解させようとすれば、あなたはあまりに退屈で面倒だと感じ、中には神の言葉は型通りだと感じる人さえいるでしょう。しかし、こうした聖書の物語を例として取り上げ、神の性質を知る手助けとすれば、人々は退屈さを感じません。これらの例を説明する過程で、気分や感情、思いや考えといった、神の心にそのときあった事柄の詳細は人間の言葉で語られており、その目標はひとえに、神が所有するものと神そのものが型通りのものでないことを人々が理解し、感じ取るようにすることだと言えるでしょう。それは伝説でもなければ、人々が見たり触ったりすることができないものでもありません。それは実在するもの、人々が感じ取って理解できるものなのです。これが最終的な目標です。この時代に生きる人々は祝福されていると言えるでしょう。聖書の物語を用いることで、神の以前の働きについて認識を広げ、神が行なった働きを通して神の性質を知ることができるからです。そして神が表わしてきた性質を通じて、人類に対する神の旨を理解し、神の聖さと人間への配慮の具体的な現われを理解することができます。このようにして、人々は神の性質をより詳細に、より深く知ることができるのです。これはあなたがたの誰もがいま感じられることだと思います。

主イエスが恵みの時代に完成させた働きの中に、神が所有するものと神そのものに関するもう一つの側面を見ることができます。それは神の肉によって表わされた側面であり、人々は神の人間性のおかげでそれを見て理解することができました。人々は人の子の中に、受肉した神がどのように人間性を生きたかを見、肉を通じて表わされた神の神性を理解したのです。これら二種類の表われにより、人間は極めて現実的な神を理解し、神に関する別の考えを形作ることができました。しかし、創世から律法の時代の終焉に至るまで、つまり恵みの時代の以前、人々が見聞きして経験した神の側面は、神の神性、無形の領域における神の言動、そして見たり触れたりすることのできない、神の真の実体から表わされた事柄だけでした。これらのことにより、神が圧倒的に偉大であり、自分は神に近づくことができないと、人々は往々にして感じました。神が人間に対して通常与える印象は、神は知覚できることもあればできないこともあるというものです。そして人々は、神の思いや考えはすべて神秘的であり、捉えどころがないので、それらに到達する術はなく、まして理解や認識を試みることすら不可能だと感じました。人間にとっては神に関するすべての事柄が、自分たちには見ることも触れることもできないほどはるか遠くに離れていたのです。神は天高くにいて、まったく存在しないかのようでした。そのため人間にとって、神の心や思い、あるいは神のどんな考えも理解不可能であり、到達することさえ不可能でした。神は律法の時代にある程度の具体的な働きを行ない、また具体的な言葉を発したり、具体的な性質を表わしたりすることで、人間が神に関する真の理解と認識を得られるようにしましたが、結局のところ、神が所有するものと神そのものに関するそれらの表われは無形の領域から生じたものであり、人々が理解したこと、知ったことは依然として、神が所有するものと神そのものがもつ神性の側面でした。人間は、神が所有するものと神そのものにまつわるこうした表われから具体的な考えを得ることができず、彼らの神に対する印象は依然、「出現と消滅を繰り返す、近づきがたい霊体」という範疇に留まっていました。神は物質界に属する特定の物体や姿を用いて人々の前に出現することはなかったので、人々は人間の言葉で神を定義することができないままでした。そして心と頭の中では、たとえば神の身長、体重、外見、好み、そして性格などといったことについて、自分たちの言葉を使って神の基準を定め、神を有形化したい、人間化したいといつも望んでいました。事実、神は心の中で、人々がこのように考えていたことを知っていました。神は人々が必要としているものを極めて明確に理解しており、当然ながら、自分が何をすべきかも知っていたので、恵みの時代には違う方法で働きを行ないました。この新しい方法は神性と人間性の両方によるものでした。主イエスが働きを行なっている間、人々は、神には数多くの人間的な表われがあることを知りました。たとえば、神は踊ったり、婚礼に列席したり、人間と親交したり、人間と会話したり、様々な事柄を話し合ったりすることができました。さらに、主イエスはその神性を示す働きを数多く成し遂げましたが、当然ながらそうした働きはどれも神の性質を表わし、示すものでした。その間、神の神性が普通の肉において具体化され、人々が見たり触れたりできるようになったとき、彼らは神が出現と消滅を繰り返す存在、自分たちが近づけない存在だとは感じなくなりました。それとは逆に、人の子の一挙手一投足、言葉、そして働きを通じ、神の旨を把握したり、神の神性を理解したりすることを試みられるようになったのです。受肉した人の子は、その人間性を通じて神の神性を表わし、神の旨を人類に伝えました。また、神の旨と性質を表わすことで、霊的領域に暮らし、見ることも触れることもできない神を人間に表わしたのです。人々が見たのは、肉と骨から成る、姿形のある神自身でした。そうして受肉した人の子は、神の身分、地位、姿、性質、そして神が所有するものと神そのものを、具体的かつ人間的なものにしました。人の子の外見は、神の姿に関してある程度の制約があったものの、人の子の本質、および人の子が所有するものと人の子そのものは、神自身の身分と地位を完全に示すことができました。ただ表わし方に違いがあっただけなのです。人間性と神性の両方において、人の子が神自身の身分と地位を示していたことは否定できません。しかし、この時期、神は肉を通じて働きを行ない、肉の見地から語り、人の子の身分と地位をもって人間の前に姿を見せたのであり、人々はそれによって、人類の間における神の真の言葉と働きに遭遇し、それらを経験する機会が得られました。それはまた、謙虚さの中にある神の神性と偉大さについて、人間が見識を得ることを可能にするとともに、神の真正さと実在に関する予備的な認識と定義を得ることも可能にしました。主イエスが完成させた働き、イエスが働きを行なう方法、および言葉を述べる観点は、霊的領域にある神の真の実体とは異なるものでしたが、イエスにまつわる一切のことは、人類がかつて見たことのない神自身を真に示しており、その事実は決して否定できません。つまり、神がどのような形で現われるか、どの観点から言葉を述べるか、どのような姿で人類と向き合うかにかかわらず、神は他ならぬ神自身を示すのです。神は誰か一人を示すことも、堕落した人類の誰かを示すこともできません。神は神自身であり、それを否定することはできないのです。

次に、主イエスが恵みの時代に述べた喩えについて検討します。

3.迷える羊の喩え

マタイによる福音書18:12-14 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

この一節は喩えですが、人々にどのような印象を与えますか。この喩えでは、人間の言語による修辞的な表現が用いられており、人間の知識の範囲内にあります。もし律法の時代に神がこのようなことを述べていたとしたら、そのような言葉は神のありようにそぐわないと人々は感じていたでしょう。しかし、恵みの時代に人の子がこの言葉を述べたとき、それは慰めとなり、人に暖かさと親密さを感じさせました。受肉して人の姿で現われた神は、自身の心の声を表わすべく、自身の人間性に由来する極めて適切な比喩を用いました。その声は神自身の声と、その時代に神が行なおうとした働きを示すものでした。それはまた、恵みの時代における神の人間に対する姿勢も示していました。神の人間に対する姿勢という観点から、神は一人ひとりを羊に喩えたのです。一匹の羊がいなくなれば、神はあらゆる手を尽くしてその羊を探すでしょう。このことは、当時、受肉した神が人類の間で行なった働きの原則を示しています。神はこの喩えを用いることで、その働きに対する自身の決意と態度を説明したのです。これが、神が受肉したことの利点でした。つまり、神は人間の知識を利用し、人間の言語を用いることで、人々に語りかけて自身の旨を表わすことができたのです。人々が人間の言語で理解しようと悪戦苦闘していた、神の深遠な神性の言語を、神は人に対して説明した、ないしは「翻訳」したのです。このことは、人々が神の旨を理解し、神が行なおうとしていたことを知る一助になりました。また、神は人間の立場から、人間の言語を使って人々と話をし、人々が理解できる方法で意思疎通を行なうことができました。その上、人々が神の優しさと親密さを感じ、神の心を理解できるよう、神は人間の言語と知識を用いて言葉を述べ、働きを行なうことさえできたのです。このことから何がわかりますか。神の言葉や業には何かを禁じるものが存在しないということでしょうか。人の見るところ、神が人間の知識、言語、あるいは話し方を用いることで、自身の話したいことや行ないたい働きについて語ったり、自分の旨を表わしたりすることはとうてい不可能です。しかし、それは誤った考えです。人々が神の現実性と誠実さを感じ、この時期における神の人間に対する態度を理解できるよう、神はこうした喩えを用いました。この喩えにより、長年にわたり律法の下で生活してきた人間は夢から覚め、さらにこの喩えは、恵みの時代に生きた何世代にもわたる人々に励ましを与えました。人はこの喩えの一節を読むことにより、人間を救う神の誠実さや、神の心における人間の重みと重要性を知るのです。

次に、この一節の最終文「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」を検討しましょう。これは主イエス自身の言葉ですか、それとも天なる父の言葉ですか。表面的には、話しているのは主イエスであるように思われますが、イエスの旨は神自身の旨を示しています。そこで主は「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」と述べたのです。当時の人々は天なる父だけを神と認め、自分が目の当たりにしているこの人物は神から遣わされたに過ぎず、ゆえに天なる父を示すことはできないと信じていました。それゆえ、人間に対する神の旨を人々が実感し、その言葉の真正さと正確さを感じ取れるよう、主イエスは喩えの最後にこの一文を加える必要があったのです。この文章は単純なものですが、それは思いやりと愛をもって語られたのであり、主イエスの謙遜と慎ましやかさを示すものでした。受肉したか、あるいは霊的領域で働きを行なったかを問わず、神は人間の心を最もよく知っており、人々が必要とするものを最もよく理解し、人間が不安に感じること、人間を困惑させることは何かを知っていました。そのため、神はこの一文を付け加えたのです。この文章は人間に潜む問題を浮き彫りにしています。人々は人の子が述べることに懐疑的だったという問題です。つまり、主イエスは話をしているとき、「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」と付け加える必要があったのです。この前提があって初めて、イエスの言葉は実をつけることができ、その正確さを人々に信じさせるとともに、信憑性を増すことができました。このことは、神が普通の人の子となったとき、神と人間の間に極めて不自然な関係があったこと、人の子を巡る状況が極めて情けないものだったことを示しています。また当時、人間の中で主イエスの地位がどれほど低かったかも示しています。イエスがこの言葉を述べたとき、それは実際のところ、「安心しなさい。この言葉はわたし自身の心にあるものを示しているのではなく、あなたがたの心にいる神の旨である」と人々に伝える言葉でした。人間にとって、これは皮肉なことではないですか。受肉して働きを行なう神には、神の実体にはない多くの利点がある一方で、神は人間の疑念と拒絶だけでなく、その愚鈍さに耐えなければなりませんでした。人の子の働きが辿った過程は、人間からの拒絶を経験する過程、および人間と自分自身の争いを経験する過程でもあったと言えるでしょう。それにもまして、この過程は、神が所有するものと神そのもの、そして神自身の本質により、人間の信頼を絶えず勝ち取り、人間を征服しようとする働きの過程でもありました。受肉した神が地上でサタンを相手に戦っていたというよりも、神は普通の人間になり、神に従う者たちとの戦いを始め、そしてその戦いの中で、人の子が、自身の謙虚さ、人の子が所有するものと人の子そのもの、そして自身の愛と知恵により、その働きを完成させたということなのです。神は自ら望む人々を獲得し、自身に相応しい身分と地位を勝ち取り、神の玉座に「戻った」のです。

次に、以下の二つの聖句について検討しましょう。

4.七の七十倍赦すこと

マタイによる福音書 18:21-22 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。

5.主の愛

マタイによる福音書 22:37-39 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。

これら二つの聖句のうち、一方では赦しについて、他方では愛について述べられています。この二つの主題はまさに、主イエスが恵みの時代に行なおうと望んでいた働きを浮き彫りにするものです。

神は受肉した際、働きの一段階、つまりこの時代に表わしたいと望んでいた性質と具体的な働きの項目を携えてきました。この時期に人の子が行なった業はどれも、神がこの時代に行なうことを望んでいた業にまつわるものでした。それ以上でも以下でもなかったのです。人の子が述べた言葉と行なった業はどれも、この時代に関連するものでした。それを人間の言語、人間のやり方で表わしたかどうか、あるいは神性の言語で表わしたかどうかを問わず、またどの方法で、あるいはどの観点からそうしたのかを問わず、人の子の目的は、自分が何をしたいのか、自分の旨は何か、そして人々に対する自分の要求が何かを、人間が理解するのを助けることでした。様々な方法と観点を用いることで、自身の旨と、人間を救う自身の働きを、人間が理解するように助けることもありました。そうしたわけで、主イエスは恵みの時代、人間に伝えようと望んでいた事柄を、ほとんどの場合人間の言語で表わしたのです。さらに、主イエスが普通の案内役としての観点から、人々と会話し、人々が必要としていた物事を施し、人々の要求に応じて彼らを助けたことがわかります。このような働き方は、恵みの時代に先立つ律法の時代には見られないものでした。主イエスは人間とより親密になり、かつ彼らに対して哀れみ深くなり、また形式と方法の両方において実践的な結果をさらに達成できることができるようになりました。「七の七十倍」人を赦すという比喩は、この点を実に明らかにしています。この比喩の数値によって実現される目的は、主イエスがそう述べた際の意図を人々に理解させることです。主の意図は、人は一回や二回ではなく、七回でもなく、七の七十倍まで他人を赦すべきである、ということでした。「七の七十倍」という言葉の中には、どのような考えが込められていますか。それは人々に対し、赦しを自分自身の責任、学ぶべき事柄、そして守るべき「道」とさせることです。これは単なる比喩に過ぎませんが、重要な点を浮き彫りにする役目を果たしました。人間がイエスの真意を深く理解し、正しい実践の道を見出し、実践における原則と基準を見出すにあたり、その手助けをしたのです。人々はこの比喩のおかげで明確に理解し、正しい考えを与えられました。つまり、人は赦しを学ぶべきであり、何度でも無条件で赦し、なおかつ寛容な姿勢と他人への理解をもって赦すべきだということです。主イエスがこう述べたとき、その心中はどのようなものでしたか。イエスは本気で七の七十倍と考えていたのですか。違います。神が人を赦す回数というものはありますか。ここで触れた「回数」に強い関心を抱き、その数字の根拠と意味を知りたいと強く願う人が大勢います。このような人たちは、主イエスがこの数字を口にした理由を理解したがりますが、それはこの数字に深い意味があると考えているからです。しかし実際には、神が人間の話し方をする中で出た数字に過ぎません。いかなる含意や意味であっても、それは主イエスの人間に対する要求に即したものでなければなりません。神がいまだ受肉していなかったとき、人々は神が言うことのほとんどを理解していませんでした。神の言葉が完全な神性から発せられていたためです。神の言葉の観点と背景は、人間が見ることも触れることもできないものでした。それは、人には見えない霊の領域から発せられていたのです。肉において生きる人間にとって、霊の領域に立ち入ることは不可能でした。しかし神は受肉したあと、人間性の観点から人に対して語り、霊の領域から出てそれを超えました。神は自身の神性、旨、および姿勢を、人間が想像できる物事や、生活の中で見たり遭遇したりする物事を通じ、人間が受け入れられる方法を用い、人間が理解できる言葉で、また人間が把握できる知識で表わしました。そうすることで、人間が神を知って理解し、人間の能力の範囲内で、そして人間に可能な程度まで、神の意図と神が求める基準を理解できるようにしたのです。これが、神の人間性における働きの方法と原則でした。神が肉において行なった働きの方法と原則は、もっぱら人間性によって実現されましたが、それはまさに、神性において直接働いたのでは得られない成果を獲得したのです。神の人間性における働きはさらに具体的であり、真正であり、的を絞ったものであって、その方法は格段に柔軟であり、形式においても律法の時代になされた働きを超えるものでした。

次に、主を愛し、隣人を自分のように愛することについて話しましょう。これは神性において直接表わされたことですか。明らかに違います。これはひとえに、人の子が人間性において述べたことなのです。「隣人を自分のように愛せよ」、「自分のいのちを大切にするように他人を愛せよ」などと言うのは人間だけであり、このような言い方をするのは人間だけです。神はこのような話し方をしたことがありません。少なくとも、神性における神はこの種の言葉をもっていません。なぜなら、神は人間への愛を律する上で「隣人を自分のように愛せよ」などという信条をもつ必要がなく、人間に対する神の愛は、神が所有するものと神そのものの自然な現われだからです。神が「わたしは自分を愛するように人間を愛する」などと言っているのをいつ聞いたことがありますか。聞いたことなどないはずです。なぜなら、愛は神の本質の中、神が所有するものと神そのものの中にあるからです。人間に対する神の愛と姿勢、そして神による人間の扱い方は、神の性質を自然に表わし、かつ明らかにするものなのです。神は隣人を自身と同じように愛するために、そうしたことを意図的に特定の方法で行なったり、故意に特定の方法や倫理的な規範に従ったりする必要はありません。神にはこの種の本質がすでに備わっているからです。このことから何がわかりますか。神が人間性において働きを行なうとき、神の方法、言葉、真理の多くが人間的な方法で表わされるということです。しかし同時に、神の性質、神が所有するものと神そのもの、そして神の旨も、人々が知って理解できるように表わされました。人々が知って理解したのはまさに神の本質であり、神が所有するものと神そのものなのであって、それらは神自身に固有の身分と地位を示しています。つまり、受肉した人の子は神自身に固有の性質と本質を、最大限度まで、かつ可能な限り正確に表わしたのです。人の子の人間性は、人間と天なる神との意思疎通や相互交流の障害および障壁にならなかったのみならず、実際には人間が創造主とつながる唯一の経路、架け橋でした。さて、あなたがたは現時点で、主イエスが恵みの時代に行なった働きの性質や方法と、現段階の働きとの間に多くの似ている点があると感じませんか。また現段階の働きでも、人間の言語が数多く使われて神の性質を表わすとともに、人間の日常生活における言語や方法、そして人間の知識が数多く用いられることで、神自身の旨が表わされています。いったん神が受肉すると、人間性の観点から話しているか神性の観点から話しているかを問わず、神の言語と表現方法の多くは、人間の言語と方法を媒介として生まれます。つまり、神が受肉したときは、あなたが神の全能と知恵を理解し、神にまつわる真の側面を残らず知る最高の機会なのです。受肉して成長している間、神は人間の知識、常識、言語、および人間性の表現方法の一部を理解し、学習し、把握しました。受肉した神は、自ら創った人間から生まれたこれらの物事を自分のものにしていたのです。それらは、受肉した神が自らの性質や神性を表わす道具となり、神が人間の中で、人間の観点から、人間の言語で働きを行なう際、その働きをより適切で、真正で、正確なものにするのを可能にしました。それによって神の働きは人々にとってより手の届きやすいもの、より理解が簡単なものになり、かくして神が望んだ結果を達成させたのです。神がこのように肉において働くほうが、より実践的ではありませんか。それが神の知恵ではありませんか。神が肉となり、その肉体によって自ら望む働きを実行できるようになったとき、神は自身の性質と働きを現実的に表わし、また人の子としての職分を正式に始めることができました。このことは、神と人間との間にもはや「世代の溝」が存在しないこと、神はもうすぐ使いによる意思疎通を行なわなくなること、そして神自身が肉において、表わそうと望む言葉と働きをすべて表わすことを意味していました。またこのことは、神が救う人々は神の近くにいること、神の経営の働きが新たな領域に入ったこと、そしてあらゆる人間が新時代を迎えようとしていることを意味するものでもありました。

聖書を読んだことのある人は誰でも、主イエスが生まれたときに多くの出来事があったことを知っています。これらのうち最も大きいものは、悪魔の王に追われたことです。その出来事はあまりに苛酷で、その街に住む二歳以下の幼児が残らず虐殺されたほどです。神は人間の中で受肉することで、大きな危険を冒したのは明らかです。さらに、人間を救うという自らの経営を遂行すべく、神が大きな代価を払ったことも明白です。また、人の間で肉においてなされる働きに対し、神が大きな希望を抱いていたことも明らかです。神の肉体が人の間で働きを行なえたとき、神はどう感じましたか。人々は多少なりともそれを理解できなければなりません。違いますか。少なくとも、神は新たな働きを人の間で実行できたので幸せでした。主イエスが洗礼を受け、自身の職分を尽くすべく正式に働きを始めたとき、神の心は喜びで一杯でした。長年にわたり準備をして待ち続けた末、ようやく普通の人間の身体をまとい、血と肉を備え、人々が見て触ることのできる人の姿で新たな働きを始められたからです。神はついに、人間の身分で面と向かって、心と心で人々と話せるようになったのです。神はついに、人間の方法と言語を媒介として、人類と直接向かい合えたのです。神は人間に施し、彼らを啓き、人間の言語で助けられるようになりました。人間と同じ食卓で食事をとり、人間と同じ空間で生活できるようになりました。そして人間や物事を見るとともに、人間と同じ方法で、さらには人間の目を通して、あらゆるものを見ることができるようになりました。神にとって、これは肉における働きの最初の勝利でした。また、これは大いなる働きの成就だとも言えるでしょう。もちろん、それは神が最も喜んだことでした。このとき以来、人類の間における働きについて、神は初めて一種の慰めを感じました。これらの出来事はどれも実践的であり、自然であり、また神が感じた慰めは真実そのものでした。人間にとって、神の働きの新たな段階が成就したとき、そして神が満足したときというのは、いずれも人間が神に、そして救いに近づけるときです。また神にとっては、自身の新たな働きの始まりであり、経営計画の前進であり、そしてそれ以上に、自身の旨が完全な成就に近づくときでもあります。人間にとって、そうした機会が訪れるのは幸運なことであり、とてもよいことです。神の救いを待つすべての人にとって、これは重大かつ喜ばしい知らせです。神が働きの新たな段階を実行し、新たな始まりを迎え、この新たな始まりと働きが人の間で出発を迎えて採り入れられたとき、働きのこの段階の結果はすでに決定し、成就しており、そして神はその最終的な効果と成果をすでに見ているのです。またこのとき、神はそれらの効果に満足し、そしてもちろん、神の心は幸福です。神は自ら探している人々をその目ですでに見定めており、神の働きを成功に導き、神に満足をもたらすこの人々の集団をすでに得ているので、安心しています。こうして不安を脇にのけて幸せを感じているのです。言い換えると、神の肉体が人の間で新たな働きを始められ、すべき働きを妨げられることなく開始し、すべてが成し遂げられたと感じるとき、神にとってその結末はもう視界に入っているのです。そのため、神は満足し、幸福な心でいます。神の幸福はどのように表わされますか。その答えがあなたがたに想像できますか。神は泣くでしょうか。泣くことができるでしょうか。神は拍手できるでしょうか。踊れるでしょうか。歌えるでしょうか。歌えるなら、どのような歌を歌うでしょうか。もちろん、神は美しく感動的な歌、自身の心の喜びと幸福を表わす歌を歌うことができるでしょう。神は人間のため、自分自身のため、そして万物のためにその歌を歌うことができるのです。神の幸福はあらゆる方法で表わされますが、それはどれも普通のことです。なぜなら、神には喜びと悲しみがあり、神の様々な感情は多様な方法で表わすことができるからです。これは神の権利であり、これ以上に普通で適切なことはありません。これについて考え違いをしてはいけません。また、神に対して「緊箍呪」[a]をかけることで、神はあれこれしてはならないとか、こんな風に振る舞ってはいけないなどと言って、神がもつ幸福や感情を抑えようとしてはいけません。人々の心の中では、神は幸福になることができず、涙を流してすすり泣くこともできず、いかなる感情も表わすことができません。過去二回の交わりで話し合ったことから、あなたがたはもう神のことをそのように見ておらず、神がいくばくかの自由と解放をもてるようにすると信じています。それは非常によいことです。今後、神が悲しんでいると聞いて神の悲しみを実感でき、神が幸せであると聞いて神の幸福を実感できれば、あなたがたは少なくとも、神を幸せにするのは何か、神を悲しませるのは何かをはっきり知ることができるようになります。神が悲しんでいるので自分も悲しむことができ、神が幸せなので自分も幸せを感じられるなら、神はあなたの心を完全に得たことになり、あなたと神との間にもはや障壁はありません。人間の想像や観念、知識によって神を制約しようとすることもなくなります。そのとき、神はあなたの心の中に生き、鮮明な存在となります。神はあなたのいのちの神となり、あなたにまつわるすべての主となるでしょう。あなたがたはこうしたことを熱望していますか。それを成し遂げる自信がありますか。

次に、以下の聖句について検討しましょう。

6.山上での説教

八福の教え(マタイによる福音書 5:3-12)

塩と光(マタイによる福音書 5:13-16)

律法(マタイによる福音書 5:17-20)

怒り(マタイによる福音書 5:21-26)

姦淫(マタイによる福音書 5:27-30)

夫婦の離縁(マタイによる福音書 5:31-32)

誓い(マタイによる福音書 5:33-37)

目には目を(マタイによる福音書 5:38-42)

敵を愛す(マタイによる福音書 5:43-48)

施しに関する指示(マタイによる福音書 6:1-4)

祈り(マタイによる福音書 6:5-8)

7.主イエスの喩え

種まきの喩え(マタイによる福音書 13:1-9)

毒麦の喩え(マタイによる福音書 13:24-30)

からし種の喩え(マタイによる福音書 13:31-32)

パン種(マタイによる福音書 13:33)

毒麦の喩えの説明(マタイによる福音書 13:36-43)

宝の喩え(マタイによる福音書 13:44)

真珠の喩え(マタイによる福音書 13:45-46)

網の喩え(マタイによる福音書 13:47-50)

8.戒め

マタイによる福音書 22:37-39 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。

まずは「山上での説教」の各部分について検討しましょう。これらの各部分は何に触れていますか。それらの内容はすべて、律法の時代の規律と比べて格段に向上し、より具体的になり、人間生活に近いものになったと確信をもって言うことができます。現代の言葉で言うと、これらは人々の実際の行動により関連しているのです。

以下の具体的な内容を見ていきましょう。八福の教えをどう理解すべきか。律法について知るべきことは何か。怒りはどのように定義すべきか。姦淫する者をどのように取り扱うべきか。離縁についてどう述べられているか、それに関してどのような規則があるか。離縁できる者、できない者はそれぞれ誰か。誓い、目には目を、敵を愛する、施しに関する指示についてはどうか、などです。これらはどれも、人間の神に対する信仰の実践、神に付き従うことにまつわる各側面に関連しています。これらの実践の中には、現時点で人々に求められているものより浅いものの、現在に適用できるものもあります。それらは人々が神への信仰において直面する、極めて基本的な真理なのです。主イエスが働きを始めたときから、神はすでに人間のいのちの性質に対する働きを開始していましたが、神の働きにおけるそれらの側面は律法に基づくものでした。そうした事柄についての規則や言葉は、真理と関連していましたか。もちろん、大いに関連していました。以前の規律や原則、恵みの時代の説教はどれも、神の性質と、神が所有するものと神そのもの、そして真理と関連していたのです。神が何を表わそうと、またどのような表わし方や言語を用いようと、神が表わすことの基礎、起源、そして出発点はいずれも、神の性質の原理、および神が所有するものと神そのものの原理の中にあります。これは絶対に真実です。したがって現在では、神の述べたことが多少浅薄に思えますが、依然としてそれが真理でないとは言えません。なぜなら、これらの事柄は、恵みの時代の人々が神の旨を満たし、いのちの性質を変化させる上で不可欠だったからです。それら説教の中に、真理と一致しないものが一つでもあると言えますか。いいえ、言えません。それらはどれも真理です。すべて人間に対する神の要求だったからです。それらはどれも神から与えられた原理と範囲であり、人が自分の行ないをどう律するべきかを示すとともに、神の性質を表わすものなのです。しかし、当時における人間のいのちの成長度合いに基づけば、彼らが受け入れて理解できるのはそれらの物事だけでした。人間の罪がいまだ解消されていなかったので、主イエスが発することのできる言葉はそれしかなく、この範囲内に含まれる簡単な教えを用いることで、どう振る舞うべきか、何をすべきか、いかなる原理と範囲の中で物事を行なうべきか、どのように神を信じて神の要求を満たすべきかを、当時の人々に伝えたのです。それらはすべて、当時の人間の霊的背丈に基づいて決められました。律法の下で暮らしていた人々にとって、それらの教えは受け入れがたいものでした。ゆえに主イエスが教えたことは、その範囲内に留まらざるを得なかったのです。

次に、「主イエスの喩え」に含まれる様々な内容を検討しましょう。

一つ目は種まきの喩えです。これは極めて興味深い喩えです。種まきは人々の生活で一般的に行なわれていることだからです。二つ目は毒麦の喩えです。穀物を栽培したことのある人、そしてもちろんすべての大人は、「毒麦」とは何かを知っているでしょう。三つ目はからし種の喩えです。からしとは何か、みなさん知っていますね。知らなければ聖書をご覧なさい。四つ目はパン種の喩えです。いまではたいていの人が、パン種が発酵に用いられること、そして人間が日常生活で用いるものであることを知っています。六つ目の宝物の喩え、七つ目の真珠の喩え、八つ目の網の喩えなど、それ以降の喩えはすべて人間の実生活から採り上げられたものであり、それに由来しています。これらの喩えはどのような光景を描いていますか。それは、神が普通の人間となり、人間と共に生活し、人間の日常言語を使って人間と意思疎通し、人間に必要な物事を施す光景を描いています。神は受肉して人間の中で長期にわたって生活したとき、人間の様々な生活様式を経験し、目の当たりにしましたが、その後そうした経験は、神が自身の神性の言語を人間の言語へと変換する教材となりました。もちろん、神が生活の中で見聞きしたことはまた、人の子による人間としての経験を豊かにしました。そして、何らかの真理や神の旨を人々に理解させたいと望んだとき、人の子は上記と似た喩えを用いることで、神の旨や人間に対する要求について人々に伝えることができたのです。これらの喩えはどれも人々の生活と関連しており、人間生活に関係ない喩えは一切ありませんでした。人間とともに生活していた際、主イエスは畑を耕す農民を目の当たりにし、毒麦とは何か、パン種とは何かを知りました。また人間が宝物を好むことを知っていたので、宝物と真珠の喩えを使いました。さらに生活する中で、漁師が網を投げるのも頻繁に目にしました。主イエスは人間生活に関係するこれらの活動を見、またそうした生活を経験しました。普通の人間とまったく同じく、一日に三回食事するなど、人間の日常を経験したのです。イエスは一般的な人間の生活を自ら経験し、他者の生活を観察しました。こうした事柄を目の当たりにし、自ら経験したときにイエスが考えたのは、どうすればよい生活を送れるか、どうすれば一層自由で快適に暮らせるか、ということではありませんでした。むしろ本物の人間生活を経験したことから、主イエスは人々の生活における困難を見ました。サタンの権力の下で暮らす人々、サタンの堕落による罪の生活を送っている人々の困難、悲惨さ、そして悲しさを目の当たりにしたのです。人間生活を自ら経験している間、イエスは堕落の中で生きる人々がいかに無力であるかも経験し、また罪の中で生き、サタンや悪による拷問の中ですべての方向性を失った人々の哀れな状況を見て経験しました。こうしたことを目の当たりにした主は、神性をもってそれらを見ましたか、それとも人間性をもって見ましたか。主イエスの人間性は実在し、極めて鮮明なものでした。イエスはそのすべてを経験して見ることができたのです。しかしもちろん、イエスは自らの本質、すなわち自身の神性においてもそれらを見ました。つまり、キリスト自身、人間であった主イエスがそれを見たのであり、見た事柄のすべてが、神が今回肉において行なう働きの重要性と必要性を自身に強く感じさせたのです。イエス自身、肉において引き受けるべき責任が極めて重いこと、自分が直面するであろう苦痛が極めて苛酷なものになることを知っていましたが、罪の中にある無力な人々を見、彼らの悲惨な生活や、律法の支配下でのはかない奮闘を見て、いっそう深い悲しみを感じるとともに、人間を罪から救おうとする切望がますます強くなりました。直面するであろう困難がどのようなものであれ、また受けるであろう痛みがどのようなものであれ、罪の中で生きる人間を贖おうという決意がいっそう強くなったのです。この過程において、主イエスは自身が行なう必要のある働きと、自身に託された物事をより明確に理解した、と言えるでしょう。またイエスは、自分が行なう働きを完遂させたいとますます強く望むようになりました。人間のあらゆる罪を負い、人間を贖い、そうすることで人間がこれ以上罪の中で生きることなく、それと当時に神が罪のいけにえによって人の罪を赦し、人間を救う働きをさらに進められるようにするのです。主イエスは心の中で、人間のために進んで自分自身を捧げ、自分を生贄にしようとした、と言えるでしょう。また、イエスは進んで罪の生贄となり、十字架にかけられ、この働きを完成させることを心から望んでいました。人間生活の悲惨な状態を見たイエスは、できるだけ早く、一分一秒たりとも遅れることなく自身の使命を果たしたいとますます強く願いました。イエスはこのような差し迫った思いをしながら、自身の受ける痛みがどれほど酷いものかを考慮することも、耐えるべき恥辱がどれほど大きいかと不安を抱くこともありませんでした。イエスが心に抱いていたのは一つの確信だけです。つまり、自分が我が身を捧げ、罪の生贄として十字架にかけられる限り、神の旨は実行され、神は新しい働きを始められるという確信、人間のいのちと、罪の中で生存している状態が完全に変わるという確信です。イエスの確信と決意は人を救うことに関係しており、イエスにはただ一つの目標、すなわち神が働きの次なる段階を首尾よく始められるよう、神の旨を行なうという目標しかありませんでした。これが、当時の主イエスの心中にあったものなのです。

受肉した神は肉において暮らしつつ、普通の人間性を有していました。普通の人間の感情と理性を有していたのです。幸せとは何か、痛みとは何かを知っており、このような生活を送る人類を見たとき、人々に何らかの教えを授けたり、何かを施したり、あるいは何かを教えたりするだけでは、彼らを罪から導き出すのに十分ではないと痛感しました。また人々を戒めに従わせるだけでは、彼らを罪から贖うこともできないでしょう。人類の罪を背負い、罪深い肉体に似た姿になって初めて、それと引き換えに人類の自由と、神による人類の赦しを勝ち取ることができるのです。そのため、罪に暮らす人々の生活を経験して目の当たりにした後、主イエスの心中には強い願望が生じました。罪の中で悪戦苦闘する生活から、人間を自由にさせるという願望です。イエスはその願望により、一刻も早く十字架にかけられて人類の罪を背負わなければならないと、ますます強く感じるようになりました。これが、人々と暮らし、罪における彼らの生活の惨めさを見聞きし、感じた後の、当時の主イエスの考えなのです。受肉した神は人類に対してこのような旨をもち、このような性質を表わして明らかにすることができたのですが、それは普通の人間にでき得たことでしょうか。この種の環境で暮らす普通の人は何を見るでしょうか。何を考えるでしょうか。普通の人間がこのようなことに直面したら、一段高い視点から問題を見つめるでしょうか。絶対にそうはしません。受肉した神は外見こそ人間とまさに同じで、人間の知識を学んで人間の言語を話し、ときには人間自身の方法や話し方を通じて自身の考えを表わしますが、人間や物事の本質に対する見方は、堕落した人々のそれらに対する見方と絶対に同じではありません。受肉した神の視点と立っている高さは、堕落した人間には決して到達できないものなのです。と言うのも、神は真理であり、神がまとう肉もまた神の本質を有しており、神の考え、および神の人間性によって表わされるものも真理だからです。堕落した人々にとって、神が肉において表わすことは真理の施し、いのちの施しなのです。これらの施しは一人の人間だけでなく、全人類に対してなされます。堕落した人間の心の中には、自分と結びついている少数の人しかいません。彼らはその一握りの人たちだけを気遣い、配慮します。災害が迫るとき、彼らはまず自分の子どもたち、親族、あるいは両親のことを考えます。より思いやりのある人であれば、親戚や親友にいくらか思いを巡らせるでしょうが、そのような人の思いが、それ以上に広がることはあるでしょうか。いいえ、決してありません。結局のところ人間は人間であり、人間としての高さや視点からしかすべてのものを見られないからです。しかし、受肉した神は堕落した人間とまったく違います。受肉した神の肉体がいかに平凡でも、いかに普通でも、いかに卑しくても、さらには人々がどのような軽蔑の眼で受肉した神を見下そうと、人類に対するその考えと姿勢は、人間には備えることも真似ることもできないものです。受肉した神は常に神性の視点から、そして創造主としての立場の高さから、人類を観察します。神の本質と心構えを通じて絶えず人類を見るのです。神が一般的な人間と同じ低さから、あるいは堕落した人間の視点から人類を見ることはあり得ません。人が人類を見るとき、彼らは人間のビジョンをもって見るのであり、人間の知識、規則、理論といったものを基準として使います。それは、人々が自分の目で見られるものの範囲内、堕落した人々が到達可能な範囲内にあります。神は人類を見るとき、神性のビジョンをもって見るのであり、神の本質と、神が所有するものと神そのものを基準として使います。人には見ることができないものもその範囲に含まれており、そこが、受肉した神と堕落した人がまったく違う点なのです。この違いは、人間と神のそれぞれ異なる本質によって決まります。両者の身分と地位、そして物事を見る視点と高さは、これら異なる本質によって決まるのです。あなたがたは、神が主イエスにおいて表わしたこと、明らかにしたことが見えますか。主イエスの言動は自身の職分と神の経営の働きに関係しており、それはどれも神の本質を表わし、明らかにするものだと言えるでしょう。神は確かに人間の姿をとりましたが、その神性の本質と現われを否定することはできません。その人間の姿は、本当に人間性を表わしていたでしょうか。本質的に言えば、神がとった人間の姿は、堕落した人間がとる人の姿とまったく違っていました。主イエスは受肉した神でした。イエスが本当に普通の堕落した人々の一人だったなら、罪の中にある人類の生活を神性の観点から見ることができたでしょうか。絶対にできません。これが人の子と普通の人との違いです。堕落した人々はみな罪の中で暮らし、罪を見ても特別な感情を抱きません。彼らはどれも同じであり、泥の中で暮らしながら、それを不快とも不潔とも感じない豚同然です。それとは逆に、よく食べてぐっすり眠っています。誰かが豚舎をきれいにしたら、その豚は気分が落ち着かず、きれいなままではいません。やがて泥の中で再び転がり回り、気分がすっかり落ち着きます。豚は不潔な生物だからです。人間は豚を汚いものと見なしますが、豚舎をきれいにしたところで豚の気分はよくなりません。自宅で豚を飼う人がいないのはそれが理由です。人間が豚をどのように見るかは、豚自身がどのように感じているかと常に異なっています。人間と豚は同類ではないからです。そして受肉した人の子は堕落した人類と同類ではないので、受肉した神だけが神の視点、神の高さに立てるのであって、そこから人類と万物を見ているのです。

神は肉となって人の間で暮らすとき、どのような苦しみを経験しますか。それは何の苦しみですか。本当に理解している人はいますか。中には、神は大いに苦しむとか、受肉した神は神自身であるにもかかわらず、人はその本質を理解せず、いつも人間のように扱い、神を悲しませ、不当に扱われていると感じさせる、などと言う人がいます。つまり、これらのせいで、神の苦しみは本当に大きいと言うのです。また、神には汚れも罪もなかったが、人間と同じように苦しみ、人間とともに迫害や中傷や侮蔑に苛まれ、また自身に付き従う人の誤解や反抗にも苦しんだ、と言う人もいます。それゆえ、神の苦難はまことに計り知れないと言うのです。あなたがたはいま、神を真に理解していないと考えられます。実のところ、あなたがたの言う苦しみは、神にとって真の苦しみには数えられません。それよりも大きな苦しみがあるからです。では、神自身にとって真の苦しみとは何ですか。受肉した神にとって真の苦しみとは何ですか。神にとって、人間が自身を理解しないことは苦しみのうちに入らず、人々が神について何らかの誤解を抱いたり、神と考えなかったりすることも、苦しみのうちには入りません。しかし、人々は往々にして、神はひどく不当に扱われたに違いないとか、神は受肉している間、自身の実体を人類に見せることも、自身の偉大さを人が見られるようにすることもできないとか、神は平凡な肉体に身をやつしており、それは神にとって大きな責め苦に違いない、などと感じています。人々は、神の苦しみについて自分たちが理解できること、見て取れることを心に留め、ありとあらゆる形で神に同情し、神の苦しみを少しばかり賞賛することさえたびたびあります。実際には、神の苦しみに関する人々の認識と、神が本当に感じていることとの間には、違いと隔たりがあります。ここで本当のことをお話しします。神の霊であるか、受肉した神であるかを問わず、神にとって、以上の苦しみは真の苦しみではありません。では、神は実のところ何に苦しんでいますか。ここでは受肉した神の視点からのみ、神の苦しみについて話し合いましょう。

受肉して平均的な普通の人間になり、人間の中で人々と共に暮らすとき、神は人々の生存の方法、法則、哲学を見て感じることができないのでしょうか。こうした生存の方法や法則は、神にとってどう感じられますか。心の中で嫌悪感を抱くでしょうか。嫌悪感を抱くのはなぜでしょうか。人類の生存方法、生存法則とは何ですか。それらはどのような原則に基づいていますか。何を土台としていますか。人類の生き方に関係する方法や法則などはどれも、サタンの理論、知識、哲学を基に創られたものです。この種の法則にしたがって生きる人に人間性はなく、真理もありません。みな真理に逆らい、神に敵対しているのです。神の本質に目を向けると、それはサタンの理論、知識、哲学と正反対であることがわかります。神の本質は義と真理と聖さに満ち、その他の肯定的な物事の現実で溢れています。この本質をもちつつ、このような人の間で暮らす神は何を感じていますか。心の中で何を感じているのですか。苦痛に満ち溢れているのではないですか。神の心は苦痛の中にあります。誰一人理解することも経験することもできない苦痛です。神が直面し、見聞きし、経験することはどれも、全人類の堕落と邪悪、そして真理に対する反逆と反抗だからです。人間に由来する一切の物事が、神の苦しみの根源なのです。つまり、神の本質は堕落した人間とは異なるため、人間の堕落が神の最も大きい苦しみの源になるのです。神は受肉するとき、自身と共通の言語をもつ人を見つけることができますか。人類の中に、そうした人を見つけることはできません。神と意思疎通することができたり、対話できたりする人を見つけることはできないのです。それについて、神はどのような感情を抱いているでしょうか。人々が語り合い、愛し、追い求め、切望する物事はどれも、罪と悪しき傾向に関係しています。神がこうした物事に直面すれば、それは神の心にとって刃のようなものではありませんか。こうした物事に直面して、神は心の中で喜べるでしょうか。慰めを見つけることができるでしょうか。神と共に暮らしている人たちは、反逆と邪悪に満ちています。そうであれば、神の心が苦しまずにいられるでしょうか。実際のところ、この苦しみはどれほど大きいものですか。誰がそれを気にかけますか。誰が心を留めますか。誰がそれを理解できますか。人々には神の心を理解する術がありません。神の苦しみは人々がとりわけ理解できないことであり、人間の冷たさと愚鈍により、神の苦しみはいっそう深まるのです。

「きつねには穴があり、鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」という聖書の聖句があるために、しばしばキリストの苦境に同情する人がいます。人々はこれを聞いて心に留め、それは神が堪え忍んだ最大の苦しみ、キリストが堪え忍んだ最大の苦しみだと信じます。さて、事実という観点から見た場合、本当にそうでしょうか。違います。神はそうした困難を苦しみとは考えません。肉の困難のせいで、神が不当な扱いに声をあげたことはなく、人間に何らかの報いや代価を求めたこともありません。しかし、人類に関する一切のことや、堕落した人間の堕落した生活と邪悪を目にしたり、人類がサタンの手中にあって囚われの身となり、そこから逃れられないのを目の当たりにしたり、罪の中で暮らす人々が真理とは何か知らないのを見たとき、神はそれらの罪を大目に見ることができません。人間に対する神の嫌悪は日ごとに増していきますが、神はそれに耐えなければなりません。これが神の大いなる苦しみです。神は自身に付き従う者に対し、心の声や感情を完全に表わすことさえできず、また神に付き従う人の中に、神の苦しみを真に理解できる人はいません。誰一人として、毎日、毎年、そして幾度となくこの苦しみを耐え忍んでいる神の心を理解し、慰めようとすらしないのです。このことから何がわかりますか。神は自身が授けた物事について、その見返りを人間に求めることはありませんが、自身の本質のゆえに、人間の邪悪、堕落、罪を大目に見ることが絶対にできず、極度の嫌悪と憎悪を覚え、そのため心身ともに果てしない苦しみを耐え忍んでいるのです。あなたがたにそれがわかりますか。あなたがたの中にこれがわかる人はいないでしょう。誰一人、神を真に理解することができないからです。あなたがたは時間をかけて、徐々にそれを経験しなければなりません。

次に、以下の聖句を検討しましょう。

9.イエスが奇跡を行なう

1) イエスが五千人に食事を与える

ヨハネによる福音書 6:8-13 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。

2) ラザロの復活が神を讃える

ヨハネによる福音書 11:43-44 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

主イエスが行なった奇跡のうち、この二つしか取り上げなかったのは、これからお話しすることを説明するにはそれで十分だからです。これら二つの奇跡はまさに驚くべきものであり、主イエスが恵みの時代に行なった奇跡を余すところなく示しています。

まずは最初の聖句「イエスが五千人に食事を与える」を検討します。

「五つのパンと二匹の魚」とは、どのような考えですか。通常、五つのパンと二匹の魚で何名の人を満腹させられますか。一般的な人の食欲を基に計算すると、二人しか満腹させられません。これが、五つのパンと二匹の魚に関する最も基本的な考えです。しかしこの聖句では、五つのパンと二匹の魚で何人が満腹になりましたか。聖書には、「その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった」と記されています。五つのパンと二匹の魚に対して、五千人というのは大きな数ですか。人数が極めて多いことは何を示していますか。人間の視点から見て、五つのパンと二匹の魚を五千人で分け合うことは不可能です。なぜなら人数と食べ物の差が大きすぎるからです。各人がほんの一口しか食べなかったとしても、五千人に十分な量とは言えません。しかしここで、主イエスが奇跡を行ないました。五千人全員が腹一杯食べられるようにしただけでなく、残った食べ物さえあったのです。聖書には「人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、『少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい』。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった」とあります。この奇跡によって、人々は主イエスの身分と地位を目の当たりにし、神に不可能なことはないと知ることができました。このようにして、神の全能が真実であることを理解したのです。五つのパンと二匹の魚は五千人を満腹させるのに十分でしたが、食べ物がまったくなかったとしたら、神は五千人に食事を与えられたでしょうか。当然、与えられたでしょう。これは奇跡であり、理解不能で、驚異的で、謎であると人々が感じたのも無理はありませんが、神にとって、こうしたことを行なうのは何でもないことでした。神にとって普通のことであるなら、ここで採り上げて解釈すべきなのはなぜですか。この奇跡の裏には主イエスの旨があり、それは人類がかつて認識したことのないものだからです。

まず、この五千人がどのような人だったかを理解しましょう。彼らは主イエスに付き従う人でしたか。聖書によると、この人たちは主イエスに付き従う人ではありませんでした。彼らは主イエスが誰かを知っていましたか。間違いなく知りません。少なくとも、目の前に立つ人物がキリストであることを知らず、一部の人が名前を知っているか、イエスの行なったことを聞いたり知っていたりしていただけでしょう。主イエスに対する彼らの好奇心は、イエスにまつわる話を聞いて生じたものに過ぎませんが、だからと言ってその人たちがイエスに付き従っていたとは言えず、ましてイエスのことを理解していたとは絶対に言えません。主イエスがこの五千人を見たとき、彼らは空腹で腹一杯食べることしか考えられませんでした。そこでこの状況のもと、主イエスは彼らの欲求を叶えたのです。この人たちの欲求を叶えた際、イエスの心中には何がありましたか。空腹を満たしたいだけの人々に対し、主はどのような態度をとりましたか。このとき、主イエスの考えと態度は、神の性質と本質に関連するものでした。空腹を抱えて腹一杯食べることしか考えていない五千の人々、自分への好奇心と希望に満ちているこれらの人々を前に、主イエスはこの奇跡を使って彼らに恵みを授けることしか考えていませんでした。しかし、この人たちが自分に付き従う人になるという希望を抱くことはありませんでした。彼らは楽しく腹一杯になるまで食事をしたいとしか考えていないことを知っていたからであり、そのためそこにあったもの、つまり五つのパンと二匹の魚を最大限に活用して五千人に食事を与えたのです。彼らは素晴らしいものを見て自分の目を楽しませ、奇跡を見たいと望んでいたのですが、イエスによって目を開かれ、受肉した神が実現可能なことをその目で見たのです。主イエスは形あるものを使って彼らの好奇心を満足させたものの、この五千人がよい食事しか望んでいないことを心の中で知っていたので、説教することも、何かを言うことも一切ありませんでした。彼らにありのままの奇跡を見せただけなのです。心から自分に付き従う弟子たちと同じように、この人たちを扱うことは絶対にできませんでしたが、神の心の中では一切の被造物が自身の支配下にあり、また自身の視界にあるすべての被造物に対し、必要に応じて神の恵みを享受させます。これらの人々はパンと魚を食べた後でさえも、イエスが誰かを知らず、イエスのことを理解しておらず、イエスについて具体的な印象をもつことも、感謝の念を抱くこともありませんでしたが、それは神が取り上げるような問題ではありませんでした。神は彼らに対し、神の恵みを享受するという素晴らしい機会を与えたのです。中には、神は自らの業について原則に従っているので、非信者を見守ることも保護することもなく、特に神の恵みを享受させることはなかった、と言う人がいます。それは事実ですか。神の目においては、自身が創った生物である限り、神はそれらの被造物を支配し、配慮します。神は様々な方法でそれら被造物に接し、計画し、支配します。これが万物に対する神の考えと態度です。

パンと魚を食べた五千人には、主イエスに付き従う意図はありませんでしたが、イエスが彼らに厳しい要求をすることはありませんでした。彼らが腹一杯食べたあと、主イエスがどうしたかをあなたがたは知っていますか。彼らに何か説教しましたか。その後、どこに行きましたか。聖書には、主イエスが彼らに何か言ったとは記されておらず、奇跡を行なってから静かに立ち去ったとしか書かれていません。では、イエスはこれらの人々に何か要求しましたか。憎しみを抱いていましたか。いいえ、要求も憎しみもありませんでした。イエスは単に、自分に付き従うことができないこれらの人々をそれ以上気遣うことを望まず、またそのとき、イエスの心は苦痛の中にありました。イエスは人間の堕落を目の当たりにし、人間による拒絶を感じたので、このような人々を見て共にあったとき、人間の愚鈍さと無知に悲しみ、心を痛め、これらの人々から一刻も早く離れることだけを望んだのです。主は心の中で、彼らに何かを要求することはなく、彼らを気遣うことを望まず、それ以上に、労力を費やすことを望みませんでした。また、これらの人々が自身に付き従えないことも知っていましたが、それにもかかわらず、彼らに対するイエスの態度は極めて明確でした。イエスはただ、彼らに優しく接し、恵みを授けることを望んだのですが、これがまさに、自身の支配下にあるすべての被造物に対する神の姿勢だったのです。つまり、すべての被造物に優しく接し、それらに施し、糧を与えるという姿勢です。主イエスが受肉した神だったというまさにその理由のため、イエスはごく自然に神の本質を示し、これらの人々に優しく接しました。憐れみと寛容の心をもって彼らに接し、そのような心持ちで彼らに優しさを見せたのです。この人たちが主イエスをどのように考えていたかにかかわらず、また結果がどうなるかにかかわらず、イエスは万物の創造主としての立場に基づいて、あらゆる被造物に接しました。イエスが示した一切のものは例外なく神の性質であり、神が所有するものと神そのものでした。主イエスは静かにそれを行ない、静かに立ち去りましたが、これは神の性質のどのような側面ですか。神の慈愛だと言えますか。神の無私だと言えますか。普通の人間にできることですか。絶対に違います。本質的に言って、主イエスが五つのパンと二匹の魚で食事を授けた五千の人々は、どのような人たちでしたか。イエスと相容れられる人だと言えるでしょうか。全員神に敵対していたと言えるでしょうか。この人たちは絶対に主と相容れられず、その本質は間違いなく神に敵対するものだと断言できます。しかし、神はこの人たちにどう接しましたか。ある手段を使うことで、神に対する人々の敵対心を取り除いたのです。その手段とは「優しさ」です。つまり、主イエスはこの人たちを罪深き者と見なしましたが、神の目からみれば依然として自身の被造物です。ゆえにイエスはこれらの罪深き者たちに優しく接したのです。これは神の寛容であり、この寛容は神自身の身分と本質によって決まります。したがって、神が創った人間にこのようなことはできず、それが可能なのは神だけなのです。

人類に対する神の考えと姿勢を真に理解し、一つひとつの被造物に対する神の気持ちと気遣いを真に認識できるとき、あなたがたは創造主によって創られた一人ひとりの人間に対する神の献身と愛情を理解することができます。そのとき、あなたは二つの言葉を使って神の愛を表わすでしょう。その二つの言葉とは何ですか。「無私」と言う人もいれば、「博愛」と言う人もいます。これら二つのうち、「博愛」は神の愛を表わす言葉として最も不適切なものです。この言葉は、寛大な人、あるいは心の広い人を表わすために人々が使う言葉です。わたしはこの言葉に強い嫌悪を感じます。と言うのも、原則に一切意を払わず、手当たり次第に、そして無差別に慈善を行なうことを指すからです。博愛というのは、愚かで混乱している人々に共通する、過度に感情的な性向です。この言葉を使って神の愛を表わす場合、そこには必然的に冒涜の意味があります。神の愛を表わすより適切な二つの単語を、ここでお教えします。それは何ですか。最初の言葉は「計り知れない」です。この言葉は示唆に富むものではありませんか。二番目は「広大」です。わたしが神の愛を表わす際に用いるこれらの単語の裏には、真の意義があります。文字通りの意味にとると、「計り知れない」という言葉は物事の数量や能力を指しますが、その大きさにかかわらず、それは人間が見たり触れたりできる物事です。なぜなら、それは実在し、抽象的なものではなく、比較的正確に、かつ現実的な形で、人にその概念を与えられるからです。それを二次元の視点で見るか、三次元の視点で見るかにかかわらず、その存在を想像する必要はありません。なぜなら、それは現実に存在するものだからです。「計り知れない」という言葉で神の愛を説明すると、神の愛を計量しているように感じられますが、それと同時に計量不可能であるという感覚も与えます。神の愛は計量可能だとわたしが言うのは、それが空虚なものでも、伝説の存在でもないからです。むしろ、神の支配下にある万物が共有しているものであり、様々な程度で、様々な視点から、すべての被造物が享受しているものです。人々は神の愛を見ることも触れることもできませんが、人生の中で少しずつ明らかにされるにつれ、その愛は万物に糧といのちをもたらし、その人たちは自分が絶えず享受している神の愛を数え上げ、その証しをするようになります。神の愛は計量不可能だとわたしが言うのは、神が万物に施し、糧を与えるという奥義は、万物に対する神の思い、特に人間に対する神の思いと同じく、人間には推し測るのが難しいものだからです。つまり、創造主が人類に注いできた血と涙を知る人は誰もいないのです。自らの手で創った人間に対する創造主の愛の深さや重さを、理解したり認識したりすることができる人はいません。神の愛を計り知れないと説明したのは、その広さと、それが存在するという真実を、人々が理解できるようにするためです。それはまた、「創造主」という言葉の実際の意味を人々がより深く理解し、「被造物」という呼び名がもつ真の意味をさらに深く理解できるようにするためです。「広大」という単語は通常何を表わしますか。一般的には海や宇宙などを表わすために用いられます。「広大な宇宙」「広大な海」といった具合です。宇宙の広さや静かなる深さは人間の理解を超えるものであり、人間の想像力を捉えるとともに、大きな驚異を感じさせます。その神秘と深遠さは、目に見えても手の届くものではありません。海のことを考えれば、その広さが頭に浮かびます。それは果てしないもののように見え、神秘と包容力を感じさせます。そのため、わたしは「広大」という単語を用いることで、神の愛を説明するとともに、人々がその尊さを感じ、神の愛の深遠なる美しさと、無限の広がりをもつ神の愛の力を実感できるようにしたのです。この単語を用いたのは、人々が神の愛の聖さ、そして神の愛を通じて示される神の威厳と不可侵性を感じられるようにするためです。あなたがたはいま、神の愛を説明するにあたって「広大」がふさわしい単語だと思いますか。神の愛は、「計り知れない」と「広大」という二つの単語に集約することができますか。間違いなくできます。人間の言語の中で、この二語だけがいくぶん適切であり、神の愛の説明に比較的近いものです。そうは思いませんか。神の愛を説明するよう求められたとしたら、あなたがたはこの二語を使うでしょうか。きっと使わないでしょう。なぜなら、神の愛に関するあなたがたの理解は二次元の視点に限られており、高さをもつ三次元の空間に達していないからです。したがって、あなたがたに神の愛を説明するよう求めたとしたら、あなたがたは言葉を見つけられず、言葉を失いさえするでしょう。本日話し合ってきたこの二語は、あなたがたにとって難解だったり、まったく同意できないものだったりするかもしれません。そのことはひとえに、神の愛に対するあなたがたの認識と理解が表面的で、狭い範囲に限られていることを示しています。先ほど、神は無私だと言いましたが、この「無私」という単語を思い出してください。神の愛は無私としか説明できない、ということでしょうか。それではあまりに範囲が狭くはありませんか。あなたがたはこの問題をさらに深く考え、そこから何かを得るべきです。

以上が、最初の奇跡から見て取れる神の性質と本質です。この物語は人々が数千年にわたって読み続けてきたものであり、あらすじは簡単で、人々は単純な現象を見ることができます。しかし、わたしたちはこの簡単なあらすじから、より尊い物事、つまり神の性質と、神が所有するものと神そのものを読み取ることができます。神が所有し、神そのものであるそれらの物事は、神自身を表わすとともに、神自身の考えを表現しています。神が自身の考えを表わすとき、それは神の心の声を表わしているのです。神を理解することができ、神を知ってその旨を理解できる人、神の心の声を聞いて積極的に協力し、神の旨を満たせる人がいることを、神は望んでいます。主イエスが行なったことは、神の声なき表現だったのです。

次に、ラザロの復活が神を讃えるという一節を検討しましょう。

この一節を読んで、あなたがたはどのような感想をもちますか。主イエスが行なったこの奇跡の意義は、先ほど検討した奇跡よりもはるかに重大なものです。なぜなら、死人を墓から蘇らせること以上に驚異的な奇跡はないからです。この時代、主イエスがそのような業を行なったことには極めて大きな意義がありました。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、実際的な側面、取るに足らない要素しか見ることができませんでした。神の性格、あるいは神がもっていると思しき特別な能力を、見て理解している人も中にはいましたが、主イエスがどこから来たか、本質的にどのような者か、他に何をできるかについては誰一人知りませんでした。それはどれも人類に知られていなかったのです。そのため、主イエスにまつわるこれらの疑問に答えるべく証拠を見つけ、真相を知ろうと望む人が数多くいました。神は何らかの業を行なうことで、自身の身分を証明することができましたか。神にとってそれは朝飯前、極めて容易なことでした。神はいつでもどこでも何かを行ない、自身の身分と本質を証明することができましたが、神には物事を行なう方法がありました。計画通りに、段階的に行なうのです。神が無闇に何かを行なうことはなく、最適な時期と機会が到来するのを待って、人間に見させる物事、本当に有意義な物事を行なうのです。そのようにして、神は自身の権威と身分を証明しました。では、ラザロの復活は主イエスの身分を証明できたでしょうか。次の聖句の一節を検討しましょう。「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は……出てきた」主イエスがこの業を行なったときに言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけでした。するとラザロは墓から出てきましたが、それは主の発したたったひと言で成し遂げられたものです。このとき、主イエスは祭壇を立てることも、それ以外の業を行なうこともありませんでした。そのひと言を述べただけなのです。これは奇跡と呼ぶべきでしょうか。それとも命令と呼ぶべきでしょうか。あるいは何らかの魔術だったのでしょうか。表面上はこれを奇跡と呼ぶことができ、現在の観点から見ても、当然奇跡だと言えるでしょう。しかし、魂を死から呼び戻す類の魔術とは決して考えられず、絶対にいかなる魔法でもありません。この奇跡は創造主の権威を実証する、最も普通かつ些細な証明である、というのが正しいのです。これが神の権威と力です。神には人を死なせたり、その魂を身体から離れさせて冥府へ還らせたり、その他の然るべき場所に戻らせたりする権威があります。人がいつ死ぬか、死後にどこへ向かうかは、いずれも神によって定められます。神はいつでもどこでもその決断を下すことができ、いかなる人間や出来事、物事、空間、および地理的条件の制約を受けません。神は望むことを何でも行なえます。なぜなら、万物とすべての生物は神の支配下にあり、あらゆる物が神の言葉と権威によって生まれ、生き、消滅するからです。神は死者を復活させることができますが、これもまた、神がいつでもどこでも行なえることです。これが、創造主のみがもつ権威です。

主イエスがラザロを死から復活させるといった業を行なったのは、人に関する一切のこと、および人の生死は神によって定められること、またたとえ肉になったとしても、神は依然として目に見える物理的世界を支配するとともに、人には見えない霊的世界をも支配し続けていることについて、人間とサタンに証拠を与えて知らしめるのが目的でした。これは、人に関する一切の事柄がサタンの支配下にないことを、人間とサタンに知らしめるためです。これはまた神の権威の現われ、顕現であり、人類の生死が神の手中にあることを万物に伝える手段でもあるのです。主イエスによるラザロの復活は、創造主が人類を教え導く手段の一つでした。これは、神が自身の力と権威を使って人類を指導し、彼らに糧を施す具体的な行動だったのです。また、創造主が万物を支配しているという真理を、言葉を用いることなく、人類が理解できるようにするための手段でもありました。さらに、神による以外に救いは存在しないことを、実際の業を通じて人類に伝える手段でもありました。神が人類を教え導くこの無言の手段は永続的なものであり、消えることがなく、決して色あせない衝撃と啓示を人間の心にもたらします。ラザロの復活は神を讃えるものであり、神に付き従うすべての人に大きな衝撃を与えます。それにより、この出来事を深く理解するすべての人に、神だけが人類の生死を支配できるという認識、そしてビジョンが固く定着します。神にはこの種の権威があり、ラザロの復活を通じて人類の生死に対する自身の権威を伝えましたが、これは神の主要な働きではありませんでした。神は決して無意味なことをしません。神が行なうすべてのことには大きな価値があり、どれも宝物庫に眠る比類なき宝石なのです。「人を墓から出させる」ことを、自身の働きの最優先事項、あるいは唯一の目的ないし項目にすることは決してないのです。神は無意味なことを一切行ないません。ラザロの復活は、それだけで神の権威を示し、主イエスの身分を証明するのに十分です。そのため、主イエスはこの種の奇跡を繰り返しませんでした。神は自身の原則にしたがって業を行ないます。人間の言語で言うならば、神は重要な物事にしか関心がないと言えるでしょう。つまり、神は業を行なうとき、自身の働きの目的から外れることがないのです。神はこの段階でどのような働きを行ないたいのか、何を成し遂げたいのかを知っており、自身の計画に厳密にしたがって働きを行ないます。堕落した人間にこうした能力があっても、その人は単に、自分がどれほど優れているかを他人に知らしめ、頭を下げさせ、その人たちを支配して呑み込もうと、自分の能力を誇示する手段を考えるだけでしょう。それはサタンに由来する邪悪であり、堕落と呼ばれます。神にそうした性質はなく、またそうした本質もありません。神が業を行なうのは自己顕示のためではなく、人類により多くの啓示と導きを施すためであって、そのため聖書には、この種の出来事がごくわずかしか見られないのです。そのことは、主イエスの力が限られていたという意味でも、そうしたことを行なえなかったという意味でもありません。それは単に、神が行なおうと思わなかっただけなのです。と言うのも、主イエスがラザロを復活させたことには極めて現実的な意義があり、また受肉した神による主要な働きは、奇跡を行なうことでも、人間を死から復活させることでもなく、人類を贖う働きだったからです。そうしたわけで、主イエスが成し遂げた働きの大半は、人々に教え、糧を施し、助けるものであり、ラザロを復活させるといった出来事は、主イエスが果たした職分のほんの一部に過ぎませんでした。さらに、「自己顕示」は神の本質に含まれていない、とも言えるでしょう。そのため主イエスは、それ以上の奇跡を示さないことで自ら抑制を働かせていたのではなく、環境に制約されていたのでもありません。そしてもちろん、力が足りなかったからでは決してありません。

主イエスがラザロを死から復活させる際に使った言葉は、「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけでした。それ以外には何も言わなかったのですが、そのひと言は何を示していますか。神は語ることで、死者の復活を含むあらゆることを成し遂げられることを示しています。神は万物と世界を創造したとき、言葉でそれを行ないました。言葉で命じ、その言葉には権威がありました。万物はそのようにして創られ、かくして創造が成し遂げられたのです。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した際に神が述べた言葉と同じであり、神の権威と創造主の力がありました。万物は神の口から発せられた言葉によって形づくられ、しっかり立つことができましたが、それと同じように、ラザロは主イエスの口から発せられた言葉によって墓から歩き出たのです。これは受肉した肉体において示され、実現された神の権威です。この種の権威と能力は創造主に属するものであり、また創造主が形あるものとなった人の子に属するものです。神はラザロを死から蘇らせることで、それを人類に教えて理解させたのです。これで、この主題に関する話は終わりにします。それでは聖書の聖句をさらに読んでいきましょう。

10.パリサイ人によるイエスへの非難

マルコによる福音書 3:21-22 身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

11.イエスによるパリサイ人への叱責

マタイによる福音書 12:31-32 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

マタイによる福音書 23:13-15 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

上の二節の内容はそれぞれ異なっています。まずは「パリサイ人によるイエスへの非難」の一節について検討しましょう。

聖書によると、イエスと、イエスの行なったことに対するパリサイ人の評価は「……気が狂ったと思った……『彼はベルゼブルにとりつかれている』……『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』」(マルコによる福音書 3:21-22)というものでした。律法学者とパリサイ人による主イエスへの非難は単なる他人の言葉の受け売りでも、根拠のない憶測でもありませんでした。それは主イエスの行動を見聞きしたことから引き出された結論だったのです。その結論はあくまで正義の名のもとに下され、人々から見てしっかりした根拠があるように思われましたが、彼らが主イエスを非難した際の傲慢さは、彼ら自身にも抑えがたいものでした。主イエスに対する燃えるような憎しみの力は、彼ら自身の向こう見ずな野望と悪しきサタンのような顔つき、そして神に抵抗する悪意に満ちた本性を露わにしました。主イエスを非難するにあたって彼らが述べたこれらの言葉は、彼らの向こう見ずな野望、嫉妬、そして神と真理に敵対する悪意に満ちた醜い本性を原動力としていたのです。彼らは主イエスの行動が何によるものかを調べず、イエスの言動の本質を調べることもしませんでした。それどころか、興奮状態の中、意図的な悪意をもって、イエスが行なったことを無闇に攻撃して貶めたのです。そのひどさたるや、イエスの霊、すなわち神の霊である聖霊を故意に貶めるほどでした。律法学者とパリサイ人が「気が狂った」、「ベルゼブル」、「悪霊どものかしら」などと言ったのは、そのような意味だったのです。つまり、神の霊はベルゼブル、悪霊の頭だと言ったのであって、受肉した神の霊、すなわち肉をまとった神の働きに狂気という烙印を押したのです。彼らは聖霊をベルゼブル、悪霊の頭といって冒涜したのみならず、神の働きを断罪し、主イエス・キリストをも断罪して冒涜しました。神に抵抗して冒涜する彼らの本質は、サタンや悪魔が神に抵抗して冒涜する本質とまったく同じです。彼らは堕落した人間を象徴していただけでなく、それ以上にサタンの権化でもありました。彼らは人類の間でサタンにつながる出口であり、サタンの一味にして手下でした。彼らが主イエス・キリストを冒涜、誹謗することの本質は、地位を巡る神との戦い、争い、そして終わることのない神への挑戦でした。神に抵抗する彼らの本質、神に敵対する彼らの姿勢、そして彼らの言葉と考えが、神の霊を直接冒涜してその怒りを招いたのです。そのため、神は彼らの言動をもとに妥当な裁きを下し、彼らの行ないを、聖霊を冒涜した罪だと判断しました。この罪はこの世でもきたるべき世でも赦されるものではありません。聖句に「聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」、「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」と記されている通りです。本日は「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」という神の言葉がもつ真の意味について話し合いましょう。つまり「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」という言葉を神がどのようにして実現するか、その謎を解き明かしていきます。

これまで話し合ってきたことはどれも、神の性質、および人々や出来事や物事に対する神の姿勢に関するものです。もちろん、先に述べた二節も例外ではありません。これら二つの聖句について、何か気づいたことはありますか。その中に神の怒りを見ると言う人もいれば、人間による背きを許さず、神を冒涜することを行なえば、その人は神の赦しを受けられないという、神の性質の側面を見ると言う人もいます。これら二節の中に、人は神の怒りと、神が人間の背きを許さないことを見たり感じ取ったりしますが、それでも神の姿勢を真に理解しているわけではありません。これら二節は、神を冒涜して怒らせた者に対する、神の本当の姿勢と処遇を暗に示しているのです。神の姿勢と処遇が「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」という聖句がもつ本当の意味を表わしているのです。人が神を冒涜してその怒りを招いたとき、神は審判を下し、その審判が神の下した結末になります。それについて聖書にこう記されています。「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」(マタイによる福音書 12:31)。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」(マタイによる福音書 23:13)。しかし、主イエスがこのように述べたあと、律法学者とパリサイ人の結末、そして主は狂気に取り憑かれていると言った人たちの結末がどうなったか、聖書に記されていますか。何らかの懲罰を受けたと記されていますか。何も記されていないことは確かです。ここで何も記されていないというのは、そのような記録がないということではなく、人の目に見える結末がなかったということに過ぎません。「記録されなかった」ということによって、ある種の物事を取り扱う際の神の姿勢と原則にまつわる問題が解明されます。神を冒涜したり、神に抵抗したり、果ては神を中傷さえしたりする人々、つまり、意図的に神を攻撃したり、中傷したり、呪ったりした人々に対し、神は見ないふりをすることも、聞こえないふりをすることもありません。むしろ、そのような人たちに対する明確な姿勢があります。神はこうした人々を嫌悪し、心の中で断罪します。そして、神には自身を冒涜した人に対する明確な姿勢があること、およびそのような人の結末を神がどう定めるかを人々に知らしめるべく、神は彼らの結末を公然と明らかにします。しかし人は、神がそれらを述べたあとも、神がこうした人々をどのように取り扱うかに関する事実をほとんど理解できず、神が彼らに下す結末や審判の裏にある原則を認識できません。つまり人々は、神が彼らを取り扱う際の具体的な姿勢や手段を理解することができないのです。そのことは、神が業を行なう際の原則と関係しています。神は事実を生じさせることで、一部の人の邪悪な行ないを取り扱います。つまり、神は彼らの罪を宣告するのでも、彼らの結末を定めるのでもなく、事実を生じさせることで懲罰と正当な報いを直接彼らに与えているのです。こうした事実が生じるとき、その懲罰を受けるのは人の肉体ですが、そのことは、その懲罰が人間の目に見えるものであることを意味しています。一部の人々の邪悪な行動を取り扱うとき、神は言葉によって彼らを呪い、それと同時に神の怒りが彼らに及びますが、彼らが受ける懲罰は人の目には見えないものです。それにもかかわらず、この種の結末は、罰せられたり殺されたりといった目に見えるもの以上に深刻な場合があります。このような人を救わない、このような人にこれ以上慈悲や寛容さを示さず、機会を与えることもしないと神が判断したなら、彼らを見捨てるというのが神の姿勢です。ここで言う「見捨てる」とはどのような意味ですか。その言葉の基本的な意味は、脇にのけ、無視してこれ以上注意を払わないというものです。しかし、神が何かを見捨てる場合、その意味は二通りに説明することができます。一つ目の説明は、その人のいのちと、その人に関する一切のものを、神がサタンに与えて取り扱いを任せ、その人にそれ以上責任を負わず、管理することもないというものです。その人が狂気に取り憑かれていたり、愚かであったりしても、あるいは生きていても死んでいても、または地獄に落とされて懲罰を受けていても、そのどれも神には関係なくなるのです。つまり、そのような被造物は創造主と何ら関係がなくなるという意味です。二つ目の説明は、神がその人に対し、自らの手で何かを行なうと決めた、というものです。その人の奉仕を利用したり、彼らを引き立て役として用いたりすることもあるでしょう。または、神にはこの種の人を取り扱う特別な方法があり、パウロに対してそうしたように、特別な方法でその人を扱うかもしれません。この種の人を取り扱うと判断した際、神の心の中には以上の原則と姿勢があります。したがって、人々が神に抵抗し、神を中傷、冒涜したとき、あるいは神の怒りを買ったり、我慢の限界を超えさせたりしたとき、その結末は想像を絶するものになります。神が彼らのいのち、彼らにまつわる一切のことを永遠にサタンに委ねるというのが、最も深刻な結末です。このような人は永遠に赦されません。そのことは、この人物がサタンの餌食になり、玩具になり、そして今後は神と無関係になることを意味します。サタンがヨブを試したとき、それがどれほど悲惨なものだったか、あなたがたは想像できますか。サタンはヨブのいのちに危害を加えることを許されませんでしたが、そのような条件であっても、ヨブは大いに苦しみました。それならば、完全にサタンの手に委ねられた人、完全にサタンの手中にある人、神の慈しみや憐れみを完全に失った人、もはや創造主の支配下にいない人、神を信仰する権利と、神の支配下に属する被造物である権利を奪われた人、そして創造主との関係を完全に絶たれた人に加えられるサタンの猛威は、それにも増して想像するのが難しくはないでしょうか。サタンによるヨブの迫害は、人間がその目で見られるものでしたが、神がある人のいのちをサタンに引き渡したなら、その結末は人の想像を絶するものになります。たとえば、牛やロバとして生まれ変わる人もいれば、不浄な悪霊に取り憑かれる人などもいます。これが、神からサタンに引き渡された人の結末です。表面上、主イエスを嘲笑し、中傷し、断罪し、冒涜した人たちは、そのような結末に苛まれていないように見えます。しかし、神にはあらゆる物事に対する取り組み方がある、というのが真実です。各種の人を取り扱うにあたってその結末がどうなるか、神は明確な言語でそれを人々に話すことはないかもしれません。直接話すのではなく、むしろそのまま行動することもあります。神がそれについて何も語らないということは、何の結末もないという意味ではなく、実際のところ、そのような場合にはより深刻な結末になる可能性もあります。表面上、神が一部の人々に対し、自身の姿勢を明確に語っていないかのように思われることがあります。しかし実際には、そのような人に注意を払うことをずっと以前から望んでいなかったのです。彼らに二度と会いたくないのです。その人の行動や振る舞い、本性実質が原因となって、神はそうした人たちが自身の視界から姿を消すこと、彼らをサタンに直接引き渡すこと、彼らの霊魂と身体をサタンに与え、サタンの意のままにさせることだけを望んでいるのです。神がその人たちをどれほど憎んでいるか、どれほど嫌悪しているかは明らかです。ある人が神を怒らせ、神が二度と会いたくないとさえ思ったり、完全に見捨てる心構えができたり、自分自身で取り扱いたくないと思ったりするようになれば、あるいは、その人をサタンに引き渡して好きなようにさせ、思うがままにその人を支配し、食い尽くし、取り扱うのを許すようになれば、その人は完全に終わりです。その人の人間たる権利は永久に無効となり、神の被造物たる権利も終焉を迎えます。それは最も過酷な懲罰ではありませんか。

以上が「この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」という言葉の完全な説明であり、この聖句に関する簡単な解説でもあります。これでみなさん理解できたと思います。

次に、以下の聖句を読みましょう。

12.復活後のイエスによる弟子への言葉

ヨハネによる福音書 20:26-29 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

ヨハネによる福音書 21:16-17 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。

これらの聖句が述べている事柄は、復活後の主イエスによる弟子への言動です。まず、復活の前後における主イエスの違いを検討しましょう。復活後の主イエスは、以前のイエスと同じでしたか。この聖句には、復活後のイエスを描写する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた」という一文が含まれています。当時の主イエスがもはや肉体に宿っておらず、霊体になっていたことは明らかです。なぜなら、扉が閉ざされていたにもかかわらず、人々の前に出て姿を見せることができたなど、肉の限界を超越していたからです。これが肉において生きていた復活前の主イエスと、復活後の主イエスの最も大きな違いです。その際の霊体の外見と、それ以前の主イエスの外見との間には何の違いもありませんでしたが、その瞬間の主イエスは、その人たちにとって見知らぬ人と感じられるような存在になっていました。と言うのも、主は死から復活した後に霊体となり、以前の肉体に比べると、人々にとって謎めいた存在、戸惑いを感じさせる存在となっていたからです。それはまた、主イエスと人々との距離をさらに広げ、人は心の中で、その時の主イエスがより不思議な存在になったと感じました。人々は自分が抱くこれらの認識と感覚により、見ることも触れることもできない神を信仰していた時代へと、突如として戻されたのです。そうしたわけで、復活した主イエスが最初に行なったのは、誰でも自分を見えるようにし、自分が存在すること、および復活した事実を確信させることでした。加えてこの業により、イエスと人々との関係は、イエスが受肉して働きを行ない、人々が見て触れることのできるキリストだったときの関係に戻りました。そこから生じた結果の一つに、十字架にかけられた主イエスが死から復活したことについて、人々が何の疑いも抱かず、同時に人類を贖う主イエスの働きについても疑問をもたなかったことがあります。またもう一つの結果として、主イエスが復活後に人々の前に現われ、彼らが主を見て触れられるようにしたことで、恵みの時代が人類の間に定着し、このとき以降、主イエスが「失跡」した、あるいは「無言で立ち去った」からという表向きの理由で、人々が以前の律法の時代に戻ることはなくなった、ということが挙げられます。イエスはこのようにして、人々が前進し続け、主イエスの教えと働きに従うようにしたのです。かくして、恵みの時代の新たな働きが正式に始まり、これ以降、律法の下で暮らしていた人々は正式に律法から脱し、新たな時代、新たな始まりへと入りました。以上が、復活後の主イエスが人々の前に現われたことの、多岐にわたる意義です。

主イエスがいまや霊体に宿っているなら、人々がイエスに触れたり、イエスを見たりすることができたのはなぜでしょうか。その問題は、主イエスが人間の前に現われたことの意義と関連しています。先ほど読んだ二つの聖句について、何か気づいたことはありますか。通常、霊体は見ることも触れることもできず、また復活後、主イエスがそれまでに着手していた働きはすでに完了していました。したがって理論的に言えば、イエスが元の姿で人々の前に戻り、彼らに会う必要はまったくなかったのです。しかし、主イエスの霊体がトマスのような人の前に現われたことで、その意義がより具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれました。トマスの前に現われたイエスは、疑いを抱くトマスに自身の手を触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言いました。この言葉と振る舞いは、主イエスが復活して初めて伝えたい、行ないたいと思ったことではなく、十字架にかけられる前から伝えたい、行ないたいと思っていたことです。なぜなら、トマスの疑いはこのときに始まったことではなく、主イエスに付き従っている間ずっと彼が抱いていたものだったからです。十字架にかけられる前から、主イエスがトマスのような人たちのことを理解していたのは明らかです。このことから何がわかりますか。主イエスは復活後も依然として同じだったということです。イエスの本質は変わっていませんでした。しかし、死から復活し、元の姿、元の性質、そして肉にあったときからの人間に対する認識をもって、主イエスが目の前に戻ってきたのです。そのため、主イエスは最初にトマスのところへ行って自身のわき腹に触れさせ、復活後の霊体を見させただけでなく、自身の霊体に触れさせてそれを感じさせ、彼の疑念を完全に払拭したのです。主イエスが十字架にかけられる前、トマスは常にイエスがキリストであることに疑念を抱き、信じることができないでいました。トマスの神に対する信仰は、自分の目で見えるもの、自分の手で触れられるものだけに基づいていたのです。この種の人の信仰について、主イエスはよく理解していました。このような人たちは天なる神だけを信じ、神に遣わされた者も受肉したキリストもまったく信じず、受け入れようとすることもありませんでした。自分が存在すること、および本当に受肉した神であることをトマスに認めさせ、信じさせるため、主イエスはトマスに対し、手を伸ばして自分のわき腹に触れるのを許しました。主イエスの復活前後で、トマスの疑いに異なる点はありましたか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊体がトマスの前に直接現われ、身体に残る釘のあとに触れさせる以外に、トマスの疑念を解消して払拭することは誰にもできませんでした。そうしたわけで、主イエスがトマスにわき腹を触れさせ、釘あとがあるのを実感させると、トマスの疑念は消え、主イエスが復活したことを真に知り、主イエスが真のキリストであり、受肉した神であることを認め、信じるようになりました。このとき、トマスはもはや疑っていませんでしたが、キリストに会う機会は永遠に失われていました。キリストと共にあり、キリストに付き従い、キリストを知る機会、キリストによって完全にされる機会を永遠に失ったのです。主イエスの出現と言葉により、疑いに満ちた人の信仰に対する結論、および審判が下されました。イエスは実際の言葉と業によって、疑念を抱く人、天なる神を信じるだけでキリストを疑う人に対し、神はそうした人の信仰も、疑念を抱きながら付き従うことも褒めないと伝えたのです。そのような人が神とキリストを完全に信じる日こそ、神の大いなる働きが完了した日なのです。もちろんその日は、彼らの疑いに審判が下る日でもあります。キリストへの姿勢によって彼らの運命は決まったのであって、頑なに疑いを抱いているせいで信仰は実を結ばず、頑固なせいで希望は叶わなかったのです。そのような人の天なる神に対する信仰は幻想によって育まれており、またキリストを疑うというのが神に対する彼らの本当の態度だったので、たとえ主イエスの釘あとに触れたところで、その信仰は依然として無益なままで、その結末はざるで水を汲むようなもの、つまりすべて無駄だとしか言いようがありませんでした。主イエスがトマスに言ったことはまた、次のことを万人にはっきり述べるものでもありました。つまり、復活した主イエスは、三十三年と半年にわたって人類の間で働きを行なった主イエスだということです。イエスは十字架にかけられて死の陰の谷を歩み、その後復活したにもかかわらず、どの側面も変わることがありませんでした。イエスの身体には釘のあとがあり、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨はまったく変わっていなかったのです。また、イエスは人々に対し、自分は十字架から下ろされて罪に打ち勝ち、苦難を乗り越え、死に勝利したと伝えました。その釘あとはサタンに対する勝利の証しであり、罪のいけにえとなって全人類を見事に贖った証しだったのです。さらに、自分はすでに人類の罪を背負い、贖いの働きを成し遂げたとも伝えました。使徒たちの前に戻って来たイエスは、出現という手段によって次のことを彼らに伝えました。「わたしは依然として生きており、ここに存在している。今日、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共にいる」また、主イエスはトマスの例を挙げて、未来の人々への警告にしました。つまり、あなたは主イエスへの信仰において、イエスを見ることも、イエスに触れることもできませんが、真の信仰ゆえに祝福されており、真の信仰ゆえに主イエスを見ることができるのであって、このような人が祝福された人なのです。

主がトマスの前に現われたときに述べた、聖書に記されているこの言葉は、恵みの時代のあらゆる人にとって大いに役立つものです。主がトマスのもとに現われたことと、主が彼に語った言葉は、その後何世代にもわたる人々に極めて大きな影響を与え続け、そこには不朽の意義があります。トマスは神を信じながら神に疑念を抱く類の人間を代表しています。このような人は疑い深い性格であり、心に悪意があり、不忠であり、神が成し遂げられる業を信じません。神の全能と支配も、受肉した神も信じません。しかし主イエスの復活は、このような人に平手打ちをくらわせたようなものでした。つまり、自分の疑いに気づいてそれを認識し、自分の不忠を認め、それによって主イエスの実在と復活を心から信じる機会を与えたのです。トマスの身に起きた出来事は後の世代の人々への警告であり、より多くの人がトマスと同じ疑う人にならないよう自戒し、もし疑いで一杯になれば、必ずや闇に落ちると自分を戒めるようにするためのものでした。神に付き従いながら、トマスのように主のわき腹や釘あとに触れ、神が存在するかどうかを憶測し、確かめることをいつも望むのであれば、神はあなたを見捨てるでしょう。それゆえ、主イエスは人々に対し、自分の目で見ることのできる物だけを信じたトマスのようにならず、純粋で正直な人間となり、神に対して疑念を抱かず、神を信じて付き従うことを求めているのです。このような人は祝福されています。これは主イエスが人々に行なうごくささやかな要求であり、また自分に付き従う人に対する警告でもあるのです。

以上に述べたのが疑い深い人に対する主イエスの姿勢です。では、心から信じて付き従う人に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ないましたか。主イエスとペテロとの対話を通じてそれを検討しましょう。

この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と尋ねています。これは、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような人に対し、復活した主イエスが求めたより高い基準です。この質問は一種の調査と尋問でしたが、それ以上に、ペテロのような人への要求と期待でした。イエスはこのように質問することで、人々が自分自身を省みてじっと見つめ、「主イエスが人々に求められているのは何か。わたしは主を愛しているか。神を愛する者か。わたしはどのように神を愛するべきか」と自問するようにしたのです。主イエスがこの質問を投げかけたのはペテロだけでしたが、実は心の中で、ペテロにこの質問をすることにより、神を愛することを求めるより多くの人に対し、同様の質問を投げかけることを望んでいたのです。ペテロはこの種の人々を代表して、主イエスの口からこの質問を受けるという祝福にあずかったに過ぎません。

復活した主イエスはトマスに「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と告げましたが、ペテロに対しては「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と三度繰り返して尋ねました。この質問によって、人は主イエスの厳格な姿勢と、質問した際の差し迫った気持ちをより感じ取ることができます。不正直な本性をもち、常に疑っていたトマスに対し、主イエスは手を伸ばして身体の釘あとに触れることを許し、それによって自分が復活した人の子であることを信じさせ、自身のキリストとしての身分を認めさせました。主イエスはトマスを厳しく咎めることも、明確な裁きを言葉で表わすこともしませんでしたが、それでも実際の行動を通じて、自分がトマスを理解していることを知らせつつ、この種の人に対する自身の姿勢と決意を示したのです。この種の人に対する主イエスの要求と期待は、主の言葉には見られません。と言うのも、トマスのような人には真の信仰がこれっぽっちもないからです。このような人に対する主イエスの要求はその程度ですが、ペテロのような人に表わした姿勢はまったく異なります。イエスはペテロに対し、手を伸ばして釘あとに触れるよう求めることも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言うこともありませんでした。その代わり、同じ質問を繰り返したのです。その質問は思考を刺激すると同時に有意義なものであり、キリストに付き従うすべての人が後悔と恐怖だけでなく、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じずにはいられなくなるものです。そして、大きな苦痛や苦しみにあるとき、彼らは主イエスの懸念と気遣いをより理解できるようになり、純粋で誠実な人々に対するイエスの熱心な教えと厳格な要求を認識します。人は主イエスの問いかけを通じ、これらの簡単な言葉に示されている主イエスの人々に対する期待は、単にイエスを信じてイエスに付き従うことだけでなく、愛をもつこと、つまり自分の主と神を愛することだと感じられるようになります。この種の愛は慈しみと服従です。神のために生き、死に、神にすべてを捧げ、神のためにすべてを費やし、そして与えるということなのです。この種の愛はまた、神に慰めをもたらし、神が証しを享受して安息を得られるようにします。それは人類による神への報いであり、責任であり、義務であり、本分であり、人がその生涯を通じて従うべき道なのです。この三度の問いかけはペテロと、完全にされるであろうすべての人に対する主イエスの要求であり、訓戒でした。ペテロが最後まで人生の道を歩むよう導き、励ましたのは、この三度の問いかけでした。また、ペテロが完全にされる道を歩み始めるよう導き、そして主への愛ゆえに主の心を気遣い、主に服従し、主に慰めをもたらし、その愛ゆえに自分の一生と自分のすべてを捧げるよう導いたのも、主イエスが去り際に行なったこの問いかけだったのです。

恵みの時代、神の働きはおもに二種類の人を対象としていました。一つは神を信じて付き従い、神の戒めを守って十字架を背負い、恵みの時代の道を守ることのできる人でした。この種の人は神の祝福を得て、神の恵みを享受しました。もう一つはペテロのように、完全にされ得る人でした。そうしたわけで、復活した主イエスはまず、二つの極めて有意義な業を行なったのです。そのうちの一つはトマスに対してなされ、もう一つはペテロに対してなされたものです。その二つの業は何を表わすものですか。神が人類を救う真意を表わしているのでしょうか。人類に対する神の誠実さを表わしているのでしょうか。神がトマスに対して行なった働きは、疑う人にならず、ひたすら信じるよう、人々に警告するためのものでした。そしてペテロに対して行なった働きは、彼のような人の信仰を強め、この種の人への要求を明確なものにし、目指すべき目標を示すためのものでした。

復活した主イエスは、必要と思われる人々の前に現われ、彼らに語りかけ、彼らへの要求を伝えるとともに、人々に対する自身の旨と期待を残しました。つまり、受肉した神として、人類に対するイエスの懸念と、人々に対する要求は決して変わらなかったのです。イエスが肉にあったときも、十字架にかけられた後に復活して霊体にあったときも、それらは同じままでした。イエスは十字架にかけられる前からこれら弟子たちのことを懸念しており、各人の状態を心の中で明確に理解するとともに、各人の欠点を認識していました。そしてもちろん、死んで復活し、霊体になった後も、各人に関するイエスの理解は、肉にあったときと同じでした。イエスのキリストとしての身分について人々が完全に確信していなかったことを、イエスは知っていましたが、肉にあったとき、人々に対して厳格な要求をすることはありませんでした。しかし、復活したイエスは彼らの前に姿を見せ、主イエスが神のもとから来たこと、イエスが受肉した神であること、そして人類が生涯をかけて追求していくにあたり、自身の出現と復活をその最大のビジョン、最大の動機にしたことを、彼らに完全に確信させました。イエスの死からの復活は、イエスに付き従うすべての人々を強くしただけでなく、恵みの時代における人類の中での働きを完全に成し遂げるものであり、かくして恵みの時代における主イエスの救いの福音が徐々に人類全体へと広まったのです。復活した主イエスが人々の前に現われたことに、何か意味があると言えるでしょうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生においてこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼしたでしょうか。神を信じる生涯において最も素晴らしい、至高のビジョンだと見なしたでしょうか。一生神に付き従い、神を満足させようと努め、神への愛を追求する上での原動力だと見なしたでしょうか。この至高のビジョンを広めるため、生涯をかけて努力したでしょうか。主イエスの救いを広めることを、神から託された使命として受け入れたでしょうか。あなたがたはまだそれを経験していませんが、トマスとペテロの事例は、現代の人々が神の旨と神自身をはっきり理解するのに十分なものです。肉となり、人類の間で人間生活を自ら経験し、当時の人類の堕落や人間生活の状況を目の当たりにした後、受肉した神は、人類がいかに無力で嘆かわしく、哀れであるかを深く感じました。肉において生活していた際、自身が有していた人間性、および自身の肉体的な直感のために、神は人間の状況により共感を覚え、その結果、自身に付き従う人への懸念をさらに強く感じました。あなたがたはおそらくこれらを理解できないでしょうが、自身に付き従うすべての人に対する受肉した神の不安と気遣いは、「強い懸念」という言葉で表わすことができます。その言葉は人間の言語に由来するものであり、極めて人間的な言葉ですが、自身に付き従う人に対する神の感情を真に表わし、描写するものです。あなたがたは人間に対する神の強い懸念を、経験を重ねる中で徐々に感じ取り、味わってゆくことでしょう。しかし、自分自身の性質の変化を追求することで、神の性質を徐々に理解しなければ、それは不可能です。主イエスが姿を見せたことで、人類のうちイエスに付き従う人に対する主の強い懸念が形をなし、イエスの霊体、あるいはイエスの神性に伝えられました。また主イエスの出現により、人々は神の懸念と気遣いを再び経験し、感じることができ、それと同時に時代の幕開け、展開、そして終焉をもたらすのは神であることが、力強く証明されたのです。自身の出現を通じ、イエスはすべての人々の信仰を強くし、自身が神であることを全世界に証明しました。それによって、主に付き従う人々は永遠に確信し、また主イエスは自身の出現を通じ、新しい時代における働きの一局面を始めたのです。

13.復活後にパンを食べ、聖句を説明するイエス

ルカによる福音書 24:30-32 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

14.イエスに焼き魚を差し出す使徒たち

ルカによる福音書 24:36-43 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

次に上記の聖句を検討します。前者は復活後の主イエスがパンを食べながら聖句について説教している場面、後者はイエスが焼いた魚を食べている場面です。神の性質を知る上で、これら二節はどのように役立ちますか。パンや焼いた魚を食べている主イエスの描写から、そのような場面を想像することができますか。主イエスが自分の前に立ってパンを食べているとしたら、自分がどのように感じるかを想像できますか。あるいは、イエスが自分と同じ食卓で人々と共に魚とパンを食べているとしたら、そのときどのような気持ちがするでしょうか。主は自分と非常に親密で、とても懇意にしてくださると感じるなら、その感情は正しいものです。それがまさに、人々の集団の前でパンと魚を食べることで、復活後の主イエスがもたらそうとした結果なのです。復活した主イエスが人々と話をするだけで、彼らがイエスの肉体を感じられず、手の届かない霊だと感じたなら、その人たちはどのように思ったでしょうか。落胆したのではないでしょうか。彼らは落胆しながら、見捨てられたように感じていたのではないでしょうか。主イエス・キリストとの間に隔たりを感じていたのではないでしょうか。こうした隔たりは、神と人々との関係にどのような悪影響を与えたでしょうか。人は間違いなく恐怖を感じ、あえて近づこうとせず、敬遠する態度をとっていたでしょう。その後は主イエス・キリストとの親しい関係を絶ち、人間と天なる神という、恵みの時代以前の関係に戻っていたはずです。人が触れることも感じることもできない霊体が原因となり、神との親密な関係が解消されてしまい、主イエス・キリストが受肉していた際に築かれた、人間との密接な関係もまた消滅するでしょう。霊体が人間の中でかき立てる感情は恐怖と忌避だけであり、人は目を丸くして絶句します。あえて近づこうとも会話しようともせず、ましてや従ったり、信じたり、仰ぎ見たりはしないでしょう。人々が自身にこうした感覚を抱くことを、神は望みませんでした。人々が自分を避けたり、自分の前から立ち去ったりするのを望まなかったのです。神は、人々が自分を理解し、自分に近づき、自分の家族となることだけを望んでいました。あなたの家族や子どもたちが、あなたを見てもあなたであると気づかず、あなたに近寄ろうとせず、いつも避けてばかりいて、あなたが家族や子どもたちのためにしたことを一切理解してもらえなかったとしたら、あなたはどのように感じるでしょうか。それはつらいことではないでしょうか。心が痛むのではないでしょうか。人々が神を避けたときに神が感じるのは、まさにそうした感覚です。そうしたわけで、復活した主イエスは血の通った肉体の姿で人々の前に現われ、彼らと飲食を共にしたのです。神は人を家族と考え、また人に対しても、神は最も近しい存在だと考えることを望みます。そうして初めて、神は真に人々を得ることができ、人々は真に神を愛して崇拝できるのです。復活した主イエスがパンを食べながら聖句について説明している一節と、使徒がイエスに焼いた魚を差し出している一節をわたしが取り上げたことについて、その意図がこれでわかりましたか。

復活後の主イエスによる一連の言動には真剣な考えが込められていたと言えるでしょう。それらは神が人類に抱く優しさと愛情に満ち溢れ、また受肉していた際に人類との間で築いた親密な関係に対する、慈しみと周到な配慮にも満ち溢れていました。さらに、受肉していた際、自身に付き従う人たちと寝食を共にしたことへの懐古の念と切望にも満ち溢れていました。そうしたわけで、人間が神との間に距離を感じることも、人間が神と距離を置くことも、神は望まなかったのです。さらに、復活した主イエスはもはや人間と親密だったころの主ではない、また主は霊の世界、人間が決して見ることも触れることもできない父のもとへ戻ったので、もはや自分と共にはいない、と感じることも望みませんでした。神の立場と自分たちの立場に違いが生まれたと人間が感じることを、神は望みませんでした。神に付き従いたいと望みながら神を敬遠している人間を見ると、神は心を痛めます。なぜなら、その人の心が神から遠く離れていること、神がその人の心を得るのは極めて難しいことを意味しているからです。そうしたわけで、イエスが見ることも触れることもできない霊体の姿で人々のもとに現われていたら、人は再び神と距離を置き、復活後のキリストが高尚な存在、人間とは違う存在となり、また罪深く、汚れており、決して神に近づけない人間と食卓を共にできない存在となった、などという人間の誤解を招いていたでしょう。こうした人間の誤解を払拭するため、主イエスは受肉した際に行なっていた数多くの業を行なったのであり、それは聖書に「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられる」と記されている通りです。また、過去に行なっていたように、人々に聖句を説明することもしました。イエスが行なったこれらの業により、主イエスと会った人はみな、イエスは変わっておらず、依然として同じ主イエスであると感じました。イエスは十字架にかけられて死を経験しましたが、その後復活したのであって、人間のもとから去ったわけではありません。イエスは人々の間に戻り、何一つ変わるところがありませんでした。人々の前に立つ人の子は、依然として同じ主イエスだったのです。イエスの物腰や人々との話し方は非常になじみ深いものでした。依然として慈愛、恵み、そして寛容に溢れていたのです。それは自分と同じように他の人を愛し、人を七の七十倍赦すことのできる主イエスでした。以前と同じように人々と食事を共にし、彼らと聖句について話し合い、またさらに重要なこととして、以前同様、見て触れることのできる血の通った肉体をもっていました。こうした人の子の姿のおかげで、人々は親密感を抱き、くつろぎを感じ、失ったものを取り戻した喜びを覚えました。そして大きな安心感とともに、果敢に、かつ確信をもって、人類の罪を贖うことのできる人の子を頼り、仰ぎ見るようになったのです。また人々は、ためらうことなく主イエスの名において祈り始め、イエスの恵みと祝福、安らぎと喜び、そして気遣いと加護を得るようになり、イエスの名において病人を癒やし、悪霊を追い払い始めたのです。

主イエスが肉において働きを行なっていた際、その身分や言葉を完全に認識できている人は、イエスに付き従う人の中にほとんどいませんでした。イエスが十字架に向かっていたとき、イエスに付き従っていた人たちは傍観の態度をとりました。イエスが十字架にかけられてから墓に入れられるまで、人々の主に対する態度は落胆でした。この間、イエスが受肉していた際の言葉について、人々の心は疑いから否定へとすでに変わり始めていたのです。そしてイエスが墓から出て一人ひとりの前に現われたとき、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々のほとんどが、否定から懐疑へと徐々に態度を変えました。主イエスがトマスに手でわき腹を触れさせ、復活後に群衆の前でパンを裂いて食べ、続いて彼らの前で焼いた魚を食べて初めて、人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け入れたのです。それはあたかも、血の通った肉体をもち、これらの人々の前に立っているこの霊体が、彼らをひとり残らず夢から目覚めさせたようだった、と言うことができるでしょう。人々の前に立つ人の子は、悠久の過去から存在していた者でした。人の子には形もあれば肉と骨もあり、長らく人間と共に生きて食事をしていたのです……人々はこのとき、イエスの存在がまったくの真実であり、実に素晴らしいと感じました。同時に大きな喜びと幸福を覚え、感動で満ち溢れました。イエスが再び現われたことにより、人々はイエスの謙虚さを目の当たりにし、人間に対する親密さと愛着を感じるとともに、自分たちのことをいかに思っているかを感じ取ったのです。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、あたかも一生が過ぎ去ったかのように感じました。迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、麻痺していた彼らの心は安らぎを得て、もはや疑っても落胆してもいませんでした。なぜなら、いまや希望があり、頼れるものがあったからです。人の子がそのとき人々の前に立ったことで、彼らはいかなるときも後ろ盾を得られることになりました。人の子は永遠なる堅固なやぐら、そしてよりどころとなったのです。

主イエスは復活しましたが、イエスの心と働きが人間のもとから離れたわけではありません。どのような形で存在しようと、自分は人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも一緒にいること、そしていつでもどこでも人類に糧を施し、牧養し、自分を見て触れられるようにするとともに、人類が二度と絶望を感じないようにするということを、イエスは自身の出現を通じて人々に伝えたのです。また、この世における生活が孤独なものではないと、人々が知ることも望みました。人には神の配慮があり、神は人と共にあります。人はいつでも神をよりどころにすることができ、神は自身に付き従うすべての人の家族です。よりどころとなる神がいれば、人間はもはや孤独になることも絶望することも一切なく、また神を罪の捧げ物として受け入れる人は罪に縛られることがありません。人間の目から見ると、復活後に主イエスが行なった働きは、極めて小さなものではありますが、わたしから見ると、それらはどれも意味があり、貴重であり、重要であり、大きな意義が込められているのです。

主イエスが受肉して働きを行なっていた時期は困難と苦しみに満ちていたものの、血の通った肉体をもつ霊体として現われたことで、イエスはその働きを徹底的に、かつ完全に成し遂げました。肉になることで自身の職分を始め、肉の姿で人の前に現われることでその職分を締めくくったのです。イエスは恵みの時代の到来を告げ、キリストの身分によって新しい時代を始めました。自身のキリストとしての身分によって恵みの時代の働きを行ない、恵みの時代に自身に付き従ったすべての人を強くし、そして導いたのです。神の働きについて、神は自身が始めたことを真に完成させると言えます。そこには段階と計画があり、その働きは神の知恵、全能、驚くべき業、そして愛と憐れみに満ち溢れています。もちろん、神の働きのすべてには、人類への気遣いが一貫しています。決して脇にのけることができない懸念が染みわたっているのです。聖書のこれらの聖句では、復活した主イエスが行なったあらゆることに、人類に対する神の変わらぬ希望と懸念、そして周到な配慮と慈愛が表わされています。現在に至るまで、それらはいずれも変わっていません。あなたがたにわかりますか。それがわかったとき、あなたがたの心は無意識のうちに神に近づくのではありませんか。あなたがたがその時代に生きていて、復活した主イエスが形ある姿であなたがたの前に現われ、あなたがたの前に座ってパンと魚を食べ、あなたがたに聖句を説明し、あなたがたと話し合ったとしたら、あなたがたはどう感じるでしょうか。幸せに感じるでしょうか。それとも罪悪感を覚えるでしょうか。神に対するそれまでの誤解と忌避、神との対立や疑いは、すべて残らず消えるのではありませんか。神と人との関係は、より正常かつ正しいものになるのではないでしょうか。

これら聖書の限られた断片を解釈することで、神の性質に何か欠点を見つけましたか。神の慈愛に何らかの不純なものが見つかりましたか。神の全能や知恵に、何らかの欺瞞や邪悪さが見つかりましたか。絶対に見つかりません。神は聖いと断言できますか。神の感情の一つひとつが神の本質と性質の現われであると断言できますか。これらの聖句を読んだ後、そこから理解したことが、性質の変化を追求すること、そして神を畏れることにおいて、あなたがたを助けて益をもたらすことをわたしは望んでいます。また、それらがあなたがたの中で実をつけ、その実が日を追うごとに大きくなり、その追求の過程においてあなたがたがより神に近づき、神が求める基準に近づくこともわたしは望んでいます。あなたがたは真理の追求に飽きることもなければ、真理の追求や性質の変化の追求は面倒だ、あるいは不要だなどと感じることもありません。むしろ、神の性質の真の表われと、神の聖い本質に突き動かされて光と正義を求め、真理の追求を渇望し、神の旨を満たすことを切望して、神に得られる人、真の人になるのです。

本日は、神が最初に受肉した恵みの時代における、神の業の一部について検討しました。それらのことから、神が肉において表わし、示した性質と、神が所有するものと神そのもののあらゆる側面を見てきました。神が所有するものと神そのものの側面はすべて非常に人間化されているように見えますが、実のところ、神が示し、表わした一切のことの本質は、神自身の性質と切り離せないものです。受肉した神が人間性においてその性質を表わしたことについて、その手段と側面はどれも、神自身の本質と不可分に結びついています。したがって、神が受肉という方法を使って人類のもとに来たのは非常に重要なことなのです。同じく重要なこととして、神が肉において行なった働きがありますが、肉において生きるすべての人、堕落の中で生きるすべての人にとってさらに重要なのは、神が示した性質と、神が表わした旨なのです。あなたがたにそれが理解できますか。神の性質、および神が所有するものと神そのものを理解した後、神にどう接するべきかについて、何らかの結論に達しましたか。最後にこの質問への回答として、三つのことをあなたがたに忠告します。第一に、神を試してはいけません。あなたが神のことをどれほど理解していようと、神の性質についてどれほど知っていようと、決して神を試してはいけません。第二に、地位を巡って神と争ってはいけません。神から授かった地位がどのようなものであれ、神から託された働きがどのようなものであれ、神から尽くすように任された本分がどのようなものであれ、そしてあなたが神のためにどれほど自分を費やし、我が身を捧げたかにかかわらず、絶対に地位を巡って神と争ってはいけません。第三に、神と競ってはいけません。神が自分に対して行なうこと、自分のために采配すること、そして神が自分にもたらすものについて、あなたがそれを理解していようと、あるいはそれに服従することができようと、絶対に神と競ってはいけません。これら三つの忠告を守れるなら、あなたはまったく安全であり、神の怒りを招くこともありません。これで本日の交わりを終わります。

2013年11月23日

脚注

a.「緊箍呪」は中国の小説『西遊記』の中で三蔵法師が使った呪文である。三蔵法師はこの呪文を使い、孫悟空の頭にはめられた金属の輪を締め上げ、激しい頭痛を生じさせることで彼を操り支配下に置いた。そこからこの表現は、人を縛るものを表す比喩になった。

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