神の働き、神の性質、そして神自身 II.
前回の集会ではとても重要なテーマについて交わりました。どのような内容だったか憶えているでしょうか。もう一度繰り返しましょう。前回の交わりで扱ったテーマは、神の働き、神の性質、そして神自身でした。それはあなたがたにとって重要なテーマでしょうか。どの部分が最も重要でしょうか。神の働きでしょうか、神の性質でしょうか。それとも神自身でしょうか。どれが一番興味深いと感じますか。どれについて最も聞きたいと思いますか。もちろん、その質問に簡単に答えることはできません。なぜなら、神の性質というのは神の働きのあらゆる側面において見出せるものであるし、神の性質は絶えずその働きの中で、およびあらゆる場所で明らかにされていて、実質的に神自身を現わしているからです。神の経営(救いの)計画全体の中で、神の働き、神の性質、そして神自身はどれも互いに切り離せないのです。
神の働きに関する前回の交わりは、遠い昔の出来事に関する聖書の記述がその内容でした。それらは神と人間にまつわる物語であり、人間に起こったことであると同時に、神の介入と表現を伴うものだったので、それらの物語は神を知る上で特別な価値と意味をもっています。神は人を創造した後、すぐに人と関わって人に話しかけ、そして神の性質が人間に表わされ始めました。つまり、神は最初に人と関わったときから、何ら妨げられることなく、自身を人間に対して明かし始め、神の本質、そして神が所有するものと神そのものを人に示したのです。初期の人々、あるいは今日の人々がそれを見たり理解したりできるかどうかに関係なく、神は人間に語りかけ、人間の間で働き、自身の性質を表わし、自身の本質を表現するのです。これは事実であり、誰も否定できません。このことは、神が働きを行なって人間と関わる際、神の性質と本質、そして神が所有するものと神そのものが常に発せられていることも意味しています。神は人間に何一つ隠したことがなく、むしろ自身の性質を惜しみなく公に示しています。つまり、神は人間が神を知り、神の性質と本質を理解できることを望んでいるのです。神は、人間が神の性質と本質を永遠の奥義として扱うことを望んではおらず、また人間が神のことを絶対に解決できない謎と見なすことも望んでいません。人間は神を認識して初めて前進する道を知り、神の導きを受け入れることができます。そしてそのような人間だけが、神の支配下で、また光の中、神の祝福の中で真に生きることができるのです。
神によって発せられ、明らかにされた言葉と性質は神の旨を表わし、また神の本質も表わしています。神が人間と関わるとき、神が何を言い、何をしようと、あるいはどのような性質を表わそうと、また人間が神の本質、および神が所有するものと神そのものをどのように捉えようと、それらはすべて人間に対する神の旨を表わしています。人間がそれをどれだけ認識し、把握し、理解できるかに関わらず、それらはどれも神の旨、人間に対する神の旨を表わしているのです。これは間違いありません。人間に対する神の旨というのは、どのようになるよう人々に求めているか、何を行なうよう求めているか、どのように生きるよう求めているか、そして神の旨を満たすにあたり、どのように能力を発揮するよう求めているかということです。これらのことは神の本質から切り離せないものでしょうか。つまり、神は人間に要求すると同時に、自身の性質と、自身が所有するものと自身そのものを示しているのです。そこには偽りも、見せかけも、隠匿も、粉飾もありません。それでも人間が神の性質を知ることができず、はっきりと認識することができないのはなぜでしょうか。そしてなぜ、神の旨を理解できないのでしょうか。神により示され、発せられているものは神が所有するものと神そのものであり、それは神の真の性質のあらゆる側面です。なのになぜ、人間には理解できないのでしょうか。人はなぜ詳細に知ることができないのでしょうか。そこには重要な理由があります。その理由とは何でしょうか。創造のときから、人間は神を神として扱っていませんでした。最も初期の時代、創造されたばかりの人間に対して神が何をしたかはさておき、人間は神のことを単に頼れる仲間としてしか扱わず、神に関する認識や理解はありませんでした。つまり人間は、仲間と見なして頼っていたこの存在によって示されるものが神の本質であったことを知らず、またこの存在が万物を治めていることを知らなかったのです。簡単に言って、当時の人々は神をまったく認識していなかったのです。天地と万物が神によって創造されたことを知らず、その神がどこから来たのかを知らず、そしてそれ以上に、その神が何者なのかをまったく知りませんでした。もちろん当時、人間が神を知り、認識し、神のしていることをすべて理解し、神の旨を知ることを、神は求めてはいませんでした。当時は人類の創造から間もない時期だったからです。神は律法の時代の働きに向けて準備を開始したとき、人間に対していくつかのことを行ない、人間にいくつかの要求をし始め、どのように捧げ物を捧げ、神を礼拝すべきかを教えました。そのとき初めて、人間は神に関する簡単な概念を少しばかりもつようになり、人と神の違い、そして神が人類を創造した存在であることを知ったのです。神は神であり、人間は人間であるということを人間が知ったとき、神と人間のあいだに一定の距離が生まれたわけですが、神は自身に関する多くの認識や深い理解を人間に求めることはしませんでした。つまり神は、自身の働きの段階と状況に応じ、人間に対して異なる要求をするのです。このことから何がわかりますか。神の性質のどのような側面が理解できるでしょうか。神は真実ではないのでしょうか。神が人間に求めることは、人間の身の丈にあったものでしょうか。神が人間を造って間もないころ、人間を征服して完全にする働きをまだ行なっておらず、人間に対し多くを語ってもいないとき、神は人間に対してほとんど何も求めませんでした。人間が何を行ない、どのように振る舞おうとも、たとえ神に背くことをしていたとしても、神はそのすべてを許し、見逃しました。それは、自分が人間に与えたものと、人間の中にあるものを神は知っていて、そのため人間に対して行なうべき要求の基準もわかっていたからです。当時、神の要求の基準は非常に低いものでしたが、だからと言って、神の性質が素晴らしくないとか、あるいは神の知恵や全能が単なる空しい言葉であるということではありません。人間にとって、神の性質と神自身を知る方法は一つしかありません。それは神による人類の経営と救いの歩みに従い、神が人類に語る言葉を受け入れることです。いったん神が所有するものと神そのものを知り、神の性質を知れば、人間はそれでも神の真の実体を見せてほしいと神に求めるでしょうか。いや、人間は求めないでしょうし、求めようとすることすらないはずです。なぜなら、神の性質、そして神が所有するものと神そのものを理解していれば、人間はすでに真の神自身を目の当たりにし、神の真の実体を見ていることになるからです。これは必然的な結果です。
神の働きと計画が絶え間なく前進する中、洪水で世界を滅ぼすことは二度としないというしるしとして、人間との虹の契約を打ち立てたあと、神は自分と思いが一致する者を得たいとますます強く願うようになりました。またそのため、自分の旨を地上で行なえる者、そしてさらに、闇の力から自由になることができ、サタンに縛られず、地上で神に証しできる人々の集団を得たいと、さらに強く切望するようになりました。そのような人々の集団を得ることは神の長きにわたる願いであり、創造のときから待ち望んでいたことでもあります。したがって、神が洪水で世界を滅ぼそうとも、あるいは人間との契約があろうとも、神の旨、思い、計画、そして望みはすべて同じままだったのです。神がしたいと望んでいたこと、創造の前からずっと切望していたこと、それは人類のうち自身が得ようと望む者を得ること、つまり神の性質を知って理解し、神の旨を認識している人々の集団、神を礼拝することのできる人々の集団を得ることです。そのような人々の集団は神に証しをすることができるでしょうし、神の心を知る者だと言えるでしょう。
今日は神の足跡をさかのぼり、神の働きの歩みに従っていきましょう。そうすることで、長い間「密封」されていた神の考えや思い、また神に関するさまざまな詳細がすべて明らかになるでしょう。それらを通じて、わたしたちは神の性質を知り、神の本質を理解するようになり、また神を自分の心に受け入れるとともに、わたしたち一人ひとりが神と少しずつ親しくなり、神との距離も縮まるはずです。
前回話したことの一部は、神が人間と契約を結んだ理由に関するものでした。今回は、以下の聖句について交わります。まずは聖句を読んでみましょう。
A.アブラハム
1.神がアブラハムに息子を与える約束をする
創世記 17:15-17 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。
創世記 17:21-22 「しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた。
神が行なうと決意した働きを止めることは誰にもできない
先ほど、みなさんはアブラハムの物語を読みましたね。世界が洪水で滅ぼされた後、彼は神に選ばれ、その名をアブラハムといい、彼が百歳でその妻サラが九十歳のとき、神の約束が彼のもとに届きました。神はアブラハムに何の約束をしたのでしょうか。神は聖書に書いてあるこのことを約束しました。すなわち「わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう」という約束です。息子を与えるという神の約束の背景には何がありましたか。聖書ではこのような説明がなされています。「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか』」。つまり、この老夫婦は子どもをもうけるには年をとりすぎていたということです。そして神がこの約束をした後、アブラハムは何をしましたか。笑いながら地面にひれ伏し、「百歳の者にどうして子が生れよう」と心の中で言ったのです。そのようなことは不可能だとアブラハムは思いましたが、彼にとって、神の与えた約束は冗談でしかなかったということです。人間の視点から見れば、これは実現不可能なことであり、また同様に、神にとっても実現できない不可能なことです。おそらく、アブラハムにとってそれは笑い事であり、「神は人間を創造したのに、老いた人間が子どもをもうけられないことを知らないようだ。神はわたしに子どもを授けられると思っている。そんなことは間違いなく不可能だ!」と思ったことでしょう。そのため、アブラハムはひれ伏して笑い、こう考えたのです。「不可能だ。神は冗談を言っているに違いない。本当であるわけがない」。彼は神の言葉を真に受けませんでした。それでは、神の目にアブラハムはどのような人物に映っていたでしょうか。(義なる人物です。)アブラハムは義なる人物だとどこで言われたのでしょうか。あなたがたは、神が呼びかけた人はみな義なる人で、完全で、神と歩む人だと思っています。あなたがたは教義に固執しています! 神は誰かを定義するとき、気ままに定義するのではないのだとはっきり理解しなければいけません。ここで、神はアブラハムを義なる人だとは言っていません。神は心の中に、一人ひとりをはかる基準をもっています。神はここでアブラハムがどのような人物かを言ってはいませんが、彼の行ないという点から見て、アブラハムはどのような信仰を神に対してもっていたでしょうか。いささか抽象的なものだったでしょうか。あるいは大きな信仰をもっていたでしょうか。いや、違います。笑ったこと、そして考えたことが、彼がどのような人物だったかを示しています。したがって、アブラハムは義なる人だったとあなたがたが信じているのは、単なる想像上の虚構に過ぎず、教義を盲目的に当てはめているのであり、無責任な評価です。神はアブラハムの笑いと小さな動作を見ていたでしょうか。それを知っていたでしょうか。神は知っていました。しかし、神は行なおうと決意していたことを変えたでしょうか。いや、変えてはいません。神がこの男を選ぶと計画し、そう決意した時点で、それは達成されたのです。人間の考えも行ないも、神に影響を与えたり、干渉したりすることは一切ないのです。神は人間の行ない、無知かもしれない行ないのために計画を気まぐれに変更することもなければ、それを衝動的に変えたり、狂わせたりすることもありません。では、創世記17章21-22節には何と書いてあるでしょうか。「『しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう』。神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた」とあります。神はアブラハムの思いや言葉に少しも注意を払わなかったのです。神が無視した理由は何ですか。当時、神は人間に対し、大きな信仰をもつことも、神を深く認識できるようになることも、神の言動を理解できるようになることも求めていなかったのがその理由です。ゆえに、神が行なおうと決意したこと、神が選ぶと決意した人、あるいは神の業の原則を人が完全に理解することを、神は求めていなかったのです。なぜなら、人間の霊的背丈が単に不十分だったからです。当時、アブラハムが何をしようと、どのように自分を律しようと、神はそれらを普通のことだと見なしていました。神は彼を非難することも叱責することもなく、ただ「来年の今ごろサラはあなたにイサクを産む」と言っただけです。神がこれらの言葉を宣言した後、そうした事柄は一つひとつ現実となりました。神の目から見て、自身の計画により達成されるべきことはすでに達成されていました。そしてそのための采配を完了させた後、神は去って行ったのです。人間がすることや考えること、人間が理解すること、人間の計画はどれも、神にはまったく関係ありません。すべてのことは神の計画にのっとり、神が定めた時間と段階に従って進むのです。それが神の働きの原則です。人間が何を考えようと、あるいは何を認識しようと、神はそれらに干渉しませんが、人間が信じなかったり理解しなかったりしても、それが原因で神が自身の計画や働きを放棄することはありません。神の計画と思いによって、事実はこのように実現されるのです。聖書から正確に分かるのは次のことです。つまり、神は自身の決めたときにイサクが生まれるようにしました。その事実は、人の振る舞いや行ないが神の働きを妨げることの証明になるでしょうか。いいえ、それらは神の働きを妨げてはいません。神に対する人間のささやかな信仰、および神に関する人間の観念と想像が、神の働きに影響したでしょうか。影響してはいません。これっぽっちも影響しなかったのです。神の経営計画はどのような人にも、事柄にも、環境にも影響されません。神が行なうと決意したことはすべて、神の計画に沿って時間通りに完了し、実現され、神の働きが誰かに影響されることなどあり得ません。神は人間の愚かさや無知のある側面や、自分に対する人間の拒絶や観念のある側面さえも無視し、自分がすべき働きを構わず実行します。これが神の性質であり、神の全能性を反映するものです。
2.アブラハムがイサクを捧げる
創世記 22:2-3 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。
創世記 22:9-10 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした。
神の経営と人間の救いの業はアブラハムがイサクを捧げたことから始まる
アブラハムに息子が与えられ、神がアブラハムに語った言葉は成就しました。このことは、神の計画がここで止まったという意味ではありません。それとは逆に、人間を経営して救うという神の壮大な計画は始まったばかりであり、アブラハムに息子を授けた祝福は、神の経営計画全体からするとまだ序章に過ぎなかったのです。アブラハムがイサクを捧げたそのとき、神とサタンの戦いが静かに始まっていたことを、当時誰が知っていたでしょう。
神は、人間が愚かであるのは構わない――ただ誠実であることだけを求める
次に、神がアブラハムに何をしたのかを見てみましょう。創世記22章2節で、神は次の命令をアブラハムに与えました。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。神の旨は明確です。愛するひとり息子イサクを燔祭として捧げなさいと、神はアブラハムに言ったのです。今日の基準からしても、神のこの命令は人間の観念にそぐわないものではないでしょうか。その通りです。神が当時行なったすべてのことは、人間の観念とは正反対であり、人間に理解できるものではありません。人々は自身の観念の中で、次のように信じています。ある人間が信じておらず、それは不可能だと考えたとき、神はその人に息子を与えた。息子を与えた後、神はその息子を自分に捧げよと言う。まったく信じられない。神はいったい何をしようとしていたのか。実際の意図は何だったのか。神はアブラハムに無条件で息子を与え、そして今度は無条件で捧げ物をせよとアブラハムに命じる。これはやり過ぎなのか。第三者から見れば、単にやり過ぎなだけでなく、「理由もなしにもめ事を起こす」ようなものでしょう。しかしアブラハム自身は、神があまりに多くを求めているとは考えませんでした。アブラハムはそれについてつまらない考えをいくつか抱き、多少神を疑ったものの、捧げ物をする覚悟はできていました。ここで、アブラハムが進んで息子を捧げようとしていたことを、何をもって証明できるかわかりますか。これらの文章で言われているのは何ですか。原文には次のような記載があります。「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた」(創世記 22:3)。「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした」(創世記 22:9-10)。アブラハムが手を伸ばして刃物をとり、息子を殺そうとしたとき、神は彼の行動を見ていたでしょうか。もちろん見ていました。始めに神がアブラハムにイサクを捧げるよう命じたときから、アブラハムが実際に刃物を振り上げ、息子を殺そうとしたときに至るすべての過程により、アブラハムの心が神に示されたのです。そしてこのとき、かつての愚かさ、無知、および神に対する誤解にもかかわらず、神に対するアブラハムの心は誠実で正直であり、神から授かった息子イサクを本当に神に返そうとしていたのです。神はアブラハムの中に、自身がまさに望んでいた従順さを見たのです。
人間にとって、神が行なう多くのことは理解しがたいものであり、信じられないことすらあります。神が誰かの指揮をとろうとするとき、その指揮はしばしば人間の観念にそぐわず、理解不能なことがあるものの、その不協和音と理解不能なことこそまさに、人間に対する神の試練なのです。一方、アブラハムは自身の内にある神への従順を示すことができました。そしてそれが、彼が神の要求を満たせたことの最も基本的な条件だったのです。アブラハムが神の要求に従うことができ、イサクを捧げたときに初めて、神は人間に対して、すなわち自分が選んだアブラハムに対して真に安心し、彼を認める気になりました。このとき初めて、神は自身が選んだこの人が、自身の約束とその後の経営計画になくてはならないリーダーであることを確信するのです。それは試練と試みでしたが、神は喜び、自身に対する人間の愛を感じ、人間からそれまでにない慰めを感じました。アブラハムがイサクを殺そうと刃物を振り上げた瞬間、神はアブラハムを止めたでしょうか。神はアブラハムがイサクを捧げることを許しませんでした。イサクの命を奪うつもりはまったくなかったからです。そのため、神は直前でアブラハムを止めました。神にとって、アブラハムの従順さは試験に合格しており、アブラハムの行ないは十分なものであり、神は行なおうと意図していたことの結果をすでに見ていたのです。この結果に神は満足したでしょうか。この結果は神にとって満足ゆくものであり、またそれは神の望んでいたこと、見たいと切望していたことだと言えるでしょう。本当にそうでしょうか。状況に応じて、神はそれぞれ異なる方法で一人ひとりを試しますが、アブラハムの中に自身の望むものを見、アブラハムの心が真実で、その従順が無条件であることを知りました。この「無条件」こそ、神の望むことでした。人々はしばしば、「わたしはこれを捧げたし、あれを捨てた。なぜ神はそれでもわたしに満足しないのか。なぜ神はわたしを試練に遭わせ続けるのか。どうしてわたしを試み続けるのか」と言います。これは一つの事実を示しています。つまり、神はあなたの心を見ておらず、あなたの心を得ていないということです。言い換えると、アブラハムが刃物を振り上げ自らの手で息子を殺し、神に捧げようとしたほどの誠意を、神はあなたの中に見出していないということです。神はあなたの無条件の従順さを見ておらず、あなたから慰めを得ていません。そうであれば、神があなたを試み続けるのは当然のことです。違いますか。このテーマについてはここまでにしておきましょう。次は、「アブラハムに対する神の約束」を読みます。
3.アブラハムに対する神の約束
創世記 22:16-18 ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。
これはアブラハムに対する神の祝福の完全な記録です。短い箇所ですが、内容は濃いです。そこには、神がアブラハムに賜物を与えた理由と背景、そして神がアブラハムに何を与えたかが含まれています。また、神がこれらの言葉を発した際の喜びと感激、そして自身の言葉に耳を傾けられる者を一刻も早く自分のものにしたいという差し迫った切望もそこには込められています。わたしたちはこの中に、神の言葉に服従し、神の命令に従う人々に対する神の愛情と優しさを見ることができます。そして、神が人々を得るために払う代価と、そこに注ぐ慈しみと思いを見ることもできます。さらに、この「わたしは自分をさして誓う」という言葉を含むこの一節は、自身の経営計画におけるこの働きの背後にある、神のみが背負う苦悩と痛みの強烈な感覚をわたしたちに与えます。この一節を通して考えることは多く、後から来る者たちにとって特別な意義をもち、非常に大きな影響を与えた一節なのです。
人間はその誠実さと従順さゆえに神の祝福を受け取る
ここから読み取ることができる、アブラハムに対する神の祝福は大きなものでしたか。それはどれほど大きなものでしたか。ここに鍵となる一文があります。「また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」。この一文から、アブラハムは以前に来た者も、後から来た者も、誰一人与えられたことのない大きな祝福を受けたことがわかります。神に求められたとおり、アブラハムが自分の愛するひとり息子を神に返したとき(この場合、「捧げた」と言わずに、神に返したと言うべきです。)、神はアブラハムにイサクを捧げることを許さなかっただけでなく、アブラハムを祝福しました。どのような約束をもってアブラハムを祝福したのでしょうか。彼の子孫を繁栄させるという約束をもって、アブラハムを祝福したのです。また、どれほど多く繁栄させるというのでしょうか。聖書には次のように書かれています。「天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」。神が発したこの言葉にはどのような背景があったでしょうか。つまり、アブラハムはどのようにして神の祝福を受け取ったのでしょうか。聖書で神が言うとおり、「あなたがわたしの言葉に従ったから」、アブラハムはそれを受け取ったのです。つまり、アブラハムは神の命令に従い、神が言ったこと、求めたこと、命じたことを、不平を言わずすべて行なったために、神はそのような約束をしたのです。この約束には当時の神の考えを示す重要な一文が含まれています。それに気づいたでしょうか。「わたしは自分をさして誓う」という神の言葉に、あなたがたはそれほど注意を払わなかったかもしれません。それが意味するのは、神はこれらの言葉を発したとき、自分を指して誓っていたということです。人は誓いを立てるとき、何を指して誓うでしょうか。天を指して誓う、つまり、神に対して誓いを立て、神を指して誓います。神が自身を指して誓うという状況を、人々はあまり理解していないかもしれませんが、わたしが正しく説明すればあなたがたも理解できるようになります。神の声は聞けるものの、その心を理解できない人間と向き合う際、神は再び孤独を感じ、途方に暮れました。そして切羽詰まって、あるいは無意識のうちにと言ってよいでしょうが、神は極めて自然なことをしました。つまり、アブラハムにこの約束を授けるとき、神は自身の胸に手を置いて自ら語りかけ、そこから人は、「わたしは自分をさして誓う」と神が言うのを聞いたのです。神の行動を通じて自分のことを考えるのもよいでしょう。あなたが自分の胸に手を置いて自身に語るとき、自分が言っていることをはっきり理解できるでしょうか。あなたの態度は誠実でしょうか。心から、率直に語るでしょうか。ゆえに、神はアブラハムに語りかける際、真摯で誠実だったことがここでわかります。神はアブラハムに語りかけ、彼を祝福すると同時に、自分自身にも語っていました。神は自身にこう語っていたのです。「わたしはアブラハムを祝福し、彼の子孫が天の星と同じくらい、海辺の砂と同じくらい増えるようにする。彼はわたしの言葉に従い、わたしが選んだ者だからだ」。「わたしは自分をさして誓う」と言ったとき、神はアブラハムを通じてイスラエルの選民を生み出し、その後は自身の働きによって彼らを速やかに導こうと決意したのです。つまり、アブラハムの子孫に自身の経営の働きを担わせ、自身の働きと、自分によって表わされたものがアブラハムから始まり、アブラハムの子孫に受け継がれ、そうすることで人を救うという自身の望みを叶えようとしたのです。これを祝福と言わずして何と言うでしょうか。人間にとって、これ以上の祝福はありません。これが最大の祝福だと言えます。アブラハムが受け取った祝福は子孫が増えることではなく、アブラハムの子孫における神の経営、神の任務、そして神の働きです。つまりアブラハムが受け取った祝福は一時的なものではなく、神の経営計画が進む中で継続するものなのです。語り、自身を指して誓ったとき、神はすでに決意していました。この決意の過程は真実だったでしょうか。現実だったでしょうか。これ以降はアブラハムとその子孫のために苦労し、代価を払い、自身が所有するものと自身そのもの、自身のすべて、そしていのちまでも差し出すと、神は決意しました。また、まずはこの人々の集団に自身の業を表わし、人間が自身の知恵、権威、そして力を見るようにすることも決意したのです。
神を知り、神の証しとなる者を自身のものとすることが、神の変わらぬ願いである
神は自分に対して語ったのと同時にアブラハムに対しても語ったのですが、その際神が語ったすべての言葉から、アブラハムは神より与えられた祝福以外に、神の真の願いを理解することができたでしょうか。できませんでした。そのため、神が自身を指して誓ったその瞬間、神の心はいまだ孤独で悲しみに満ちていました。神の意図や計画を認識している人、あるいは理解している人は依然として一人もいなかったのです。この時点で、神と親密に話せる人はアブラハムを含めて誰もおらず、まして神が行なわなければならない働きに協力できる人などいませんでした。表面上、神はアブラハムという自分の言葉に従える人を得たかのように見えますが、実際には、神に関するこの人物の認識は無に等しいものでした。神はアブラハムを祝福したものの、神の心はいまだ満足していませんでした。神が満足していなかったとはどういうことでしょうか。それは、神の経営はまだ始まったばかりで、神が自分のものにしたいと望む人々、目の当たりにしたいと切望する人々、そして愛する人々がいまだ神から離れていたということです。さらに時間が必要で、待つ必要があり、忍耐する必要がありました。と言うのは、神が必要としているものを知る人は神自身以外におらず、神が何を得たいと望んでいるのか、何を切望しているのかを知る人もいなかったからです。そのため、神は非常に感激したと同時に、心の重さも感じました。それでも神は自身の歩みを止めず、行なわなければならない次なる段階を引き続き計画しました。
あなたがたはアブラハムに対する神の約束の中に何を見ますか。アブラハムが神の言葉に従ったというだけで、神はアブラハムに大いなる祝福を授けました。表面上、これはごく普通のこと、当然のことに思えますが、そこに神の心を見ることができます。神は自分に対する人の従順さをとりわけ大切にし、自身に対する理解と誠実さを尊びます。神はどれくらいこの誠実さを尊ぶのでしょうか。どれほど尊ぶかは、あなたがたには理解できないかもしれませんし、誰一人認識していない可能性も十分あります。神はアブラハムに息子を与えました。そしてその息子が成長したとき、神はアブラハムにその息子を自分に捧げるよう命じました。アブラハムは神の命令に一言一句従い、神の言葉に服従しましたが、その誠実さは神を感動させ、神はそれを尊びました。どれくらい尊んだのでしょうか。なぜ尊んだのでしょうか。神の言葉や心を誰も理解していなかった当時、アブラハムのしたことは天を揺るがし地を震えさせ、神にそれまで感じたことのない満足感を与え、自分の言葉に従える人を得たという喜びをもたらしました。この満足感と喜びは、神が自らの手で創った被造物から生じたものであり、人間が神に捧げた最初の「捧げ物」であると同時に、人間が創造されて以来最も神に尊ばれました。神はこの捧げ物を待ち焦がれ、自分が創造した人間からの最も大事な贈り物として扱いました。それは神の努力と払った代価による初めての成果を示すものとなり、これによって神は人間に希望を見出しました。その後神は、このような人の集団が自分の道連れとなり、自分と誠実に接し、自分を誠実に慈しむことをさらに強く切望しました。神はアブラハムが生き続けることさえ望みました。自身の経営を続ける中で、アブラハムのような心をもつ人間を道連れにもち、ともにいたかったからです。しかし神が何を望もうと、それは単なる望み、思いでしかありませんでした。アブラハムは神に従うことのできる人間であったに過ぎず、神に関する理解や認識をまったく持ち合わせていなかったからです。神を知り、神に証しをすることができ、神と同じ思いになれるという神の要求の基準に対し、アブラハムは遠く及ばない人間でした。そのため、アブラハムは神と共に歩むことができませんでした。イサクを捧げるアブラハムに、神は誠実さと従順さを見、彼が神の試練に耐えたことを知り、アブラハムの誠実さと従順さを受け入れましたが、それでも神の心を知る者となり、神を知り、理解し、神の性質を知るのに相応しくはなかったのです。神と思いを同じくし、神の旨をなす者にはほど遠かったのです。そのため、神は心の中で依然寂しく不安でした。その寂しさと不安が増せば増すほど、神はできるだけ迅速に自身の経営を続け、また経営計画を全うして自身の旨を一刻も早く成就させるべく、人々の集団を選んで自身のものとする必要がありました。それは神の切実な願いであり、初めのときから今日まで変わりません。最初に人を創ったときから、神は勝利者の集団、つまり神とともに歩み、神の性質を認識し、知り、理解することのできる集団を切望してきたのです。神のこの願いは一度も変わったことがありません。どれほど待たなければならないとしても、その行く手がいかに困難でも、また神の切望する目標がどれほど遠くても、神は人間に対する期待を変えたり諦めたりしたことはありません。ここまでの話を聞いて、みなさんは神の望みについて何か理解できたでしょうか。おそらくまだそれほど深くは理解していないでしょうが、徐々に理解できるようになるでしょう。
アブラハムが生きていたのと同じ時代に、神は一つの町を滅ぼしています。その町の名はソドム。間違いなく、多くの人がソドムの町の物語を知っていますが、ソドムを滅ぼしたことの背景をなす神の思いを知る人はいません。
そこで今日は、以下の神とアブラハムのやり取りを通して、当時の神の考えを学ぶと同時に、神の性質についても学んでいくことにしましょう。では、次の聖書の箇所を読みましょう。
B.神はソドムを滅ぼさなければならなかった
創世記 18:26 ヤーウェは言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
創世記 18:29 アブラハムはまた重ねて神に言った、「もしそこに四十人いたら」。神は言われた、「……これをしないであろう」。
創世記 18:30 アブラハムは言った、「……もしそこに三十人いたら」。神は言われた、「……これをしないであろう」。
創世記 18:31 アブラハムは言った、「……もしそこに二十人いたら」。神は言われた、「わたしは……滅ぼさないであろう」。
創世記 18:32 アブラハムは言った、「……もしそこに十人いたら」。神は言われた、「わたしは……滅ぼさないであろう」。
これらは聖書から抜粋したものです。抜粋であるため、原文とは異なります。もし原文を読みたいなら、自分で聖書を読んでください。時間を節約するため、原文の一部を省きました。ここでは鍵となるいくつかの節と文章に絞り、今日の交わりに関係のない文章は省略しています。これからお話しする聖句とその中身について、それぞれの物語の詳細や、その中における人の行動については省略し、当時の神の思いと考えに絞って話を進めます。神の思いと考えの中に、わたしたちは神の性質を見ることができ、そして神が行なったすべてのことから真の神自身を見ることができます。そうすることで、わたしたちの目標は達成されるのです。
神の言葉に従い、命令に従う者だけを神は慈しむ
上の各節には鍵となる単語がいくつか含まれていますが、それは数字です。まずヤーウェは、その町に五十人の正しい者があったら、その所をすべて許す、つまりその町を滅ぼさないと言いました。では、ソドムには五十人の正しい者が実際にいましたか。いませんでした。その後すぐ、アブラハムは神に何と言いましたか。「もしそこに四十人いたら」と言いました。すると神は、「これをしないであろう」と言いました。次にアブラハムが「もしそこに三十人いたら」と言うと、神は「これをしないであろう」と答えました。「もしそこに二十人いたら」、「わたしは……滅ぼさないであろう」。「もしそこに十人いたら」、「わたしは……滅ぼさないであろう」。本当に十人の正しい者がその町にいたでしょうか。十人はいません。いたのは一人だけです。それは誰ですか。ロトです。このとき、ソドムには正しい者が一人しかいなかったのですが、この数字について、神は厳しく、あるいは細かく追及しましたか。しませんでした。人間に「もしそこに四十人いたら」、「もしそこに三十人いたら」、そして最後に「もしそこに十人いたら」と訊かれた神は、「たとえ十人だとしても、その町を滅ぼすまい。それを許し、その十人以外の全員を許そう」と言いました。十人しかいないだけでも十分哀れですが、実際のところ、正しい者はソドムに十人もいなかったのです。ゆえに神の目から見て、この町の人々の罪と悪は、彼らを滅ぼすより他にないほどだったということがわかるでしょう。五十人の正しい者がいれば町を滅ぼさないと言ったとき、神は何を言わんとしていたのでしょうか。これらの数字は神にとって重要ではありませんでした。重要なのは、神の望む正しい者がその町にいるかどうかでした。正しい者が一人でもその町にいれば、町を滅ぼすことでその正しい者に危害が及ぶことを神は許さなかったでしょう。つまり、神がその町を滅ぼすつもりだったか否か、あるいは正しい者がそこに何人いたかに関係なく、神にとって、この罪深い町は呪われた忌まわしき存在であり、滅ぼされて自身の目の前から消えなければならず、その一方で正しい者は残るべきだったのです。時代、あるいは人類の発展段階がどうあれ、神の態度は変わりません。悪を憎み、自身の目から見て正しい者を慈しみます。この明確な神の態度は、神の本質の真の現われでもあります。ソドムの町には正しい者が一人しかいなかったので、神はもはやためらいませんでした。ソドムは必ずや滅ぼされるというのが、その最終的な結果でした。このことから何がわかりますか。その時代、ある町にいる正しい者が五十人でも十人でも、神はその町を滅ぼそうとしませんでした。つまり、神を畏れて崇拝することができる数名の人間のために、神は人類を赦して寛容であろうとした、あるいは導きの働きをしようとしたのです。神は人の正しい行ないを重視します。神を崇拝できる人、神の前でよき行ないをできる人を、神は重視するのです。
最初の時代から今日に至るまで、神が誰かに真理を伝えたり、神の道について語ったりしているのを、聖書で読んだことがありますか。いいえ、決してないはずです。わたしたちが読んでいる、人に対する神の言葉は、何をすべきか人々に伝えているだけです。その通りに行なった人もいれば、行なわなかった人もいます。信じた人もいれば信じなかった人もいます。それだけのことです。したがって、この時代の正しい人たち、つまり神の目から見て正しい人たちは、神の言葉を聞いて神の命令に従える人に過ぎなかったのです。そのような人は、人のあいだで神の言葉を実行するしもべでした。そのような人たちが、神を知る者だと言えるでしょうか。神によって完全にされた者だと言えるでしょうか。いや、言えません。ならばその人数にかかわらず、神の目から見て、彼らは神の心を知る者と呼ばれるのに相応しかったでしょうか。神の証人と呼ぶことができるでしょうか。決してそう呼ぶことはできません。神の心を知る者、神の証人などと呼ばれる価値など当然ありません。では、神はそのような人を何と呼びましたか。旧約聖書の中で、神は彼らを何度も「わたしのしもべ」と呼んでいます。つまり当時、神の目から見て、このような正しい人たちは神のしもべであり、地上で自身に仕える人たちでした。神はこの呼び名をどう思っていましたか。なぜそう呼んだのですか。人々の呼び方について、神は心の中で基準をもっているのでしょうか。もちろんもっています。正しい人、完全な人、公正な人、しもべなど、神が人をどう呼ぶにせよ、神には基準があります。神がある人を「神のしもべ」と呼ぶとき、その人は神の使いを受け入れ、神の命令に従い、その使いに命じられたことを実行できると、神は確信しています。この人物は何を実行しますか。神が人に地上で実行するよう命じたことを、この人物は実行します。このとき、神が人に地上で実行するよう求めたことを、神の道と呼べるでしょうか。いや、呼べません。当時、神は人に対し、いくつかの簡単なことをせよとしか求めなかったからです。つまり、いくつかの単純な命令を発し、これをせよ、あれをせよと命じただけだったのです。神は自身の計画に従って働きを行なっていました。当時は条件が整っておらず、機も熟しておらず、人間が神の道を背負うのは難しかったため、神の心から神の道がいまだ発せられていなかったからです。ここでわたしたちが見た、神が語った正しい人を、神は三十人であれ二十人であれ、自分のしもべと見なしました。神の使いが彼らに臨んだとき、彼らは使いを受け入れ、命令に従い、使いの言葉通りに行動することができました。これはまさに、神の目から見てしもべである者たちによってなされ、成し遂げられるべきことでした。神は人の呼び名に関して思慮深いのです。神が彼らをしもべと呼んだのは、彼らが今のあなたがたのような人だったからではありません。つまり、数多くの説教を聞き、神が行なおうとすることを知り、神の旨の多くを理解し、神の経営計画について深く知っていたからではないのです。むしろ、彼らの人間性が正直で、神の言葉に従えるからでした。神が彼らに命令すると、彼らは自分のしていることを脇にのけて、神が命令したことを実行できたのです。そのため、神にとって、しもべという肩書きに込めたもう一つの意味は、地上における自身の働きに協力する者ということでした。そして彼らは神の使いではないものの、地上で神の言葉を遂行し、実現させる者たちだったのです。したがって、これらのしもべ、あるいは正しい人たちは、神の心の中で大きな比重を占めていたことがわかります。神が地上で行なおうとしていた働きは、神に協力する人間なくして行なうことができず、また神のしもべが引き受けた役割は、神の使いには果たせないものだったのです。神がこれらのしもべに命令した一つひとつのことは神にとって非常に重要だったので、神は彼らを失うわけにはいきませんでした。これらのしもべによる神への協力がなければ、神が人類のあいだで行なう働きは行き詰まり、その結果、神の経営計画と希望も無に帰していたことでしょう。
神は自身が慈しむ人々に溢れるほどの憐れみを与え、忌み嫌い拒絶する人々に深く怒る
聖書の記録では、ソドムに神のしもべが十人いたでしょうか。いや、いませんでした。この町は神に許されるに値したでしょうか。この町で唯一ロトだけが、神の使いを受け入れました。これが意味するのは、この町に神のしもべが一人しかいなかったこと、また神はそのためにロトを救い、ソドムの町を滅ぼすより他になかったということです。先ほど引用したアブラハムと神のやりとりは単純なものに見えますが、実はとても深い事柄を示しています。神の行動には原則があり、神は決断を下す前に長い時間をかけて観察し、熟考する、ということです。ふさわしいときにならなければ、決断を下すことも何らかの結論に飛びつくことも決してありません。アブラハムと神のやりとりは、ソドムを滅ぼすという神の決断に少しの間違いもなかったことを示しています。その町に正しい者が四十人、三十人、いや二十人もいないことをすでに知っていたからです。正しい者は十人すらおらず、町で正しい者はロトだけでした。ソドムで起こったすべてのこと、そしてその状況を神は見ており、手に取るようにわかっていたのです。したがって、神の決断が間違っていたはずはありません。対照的に、人間は神の全能性に比べてとても鈍く、愚かで無知であり、まったく近視眼的です。これがアブラハムと神とのやりとりからわかることです。神は初めのときから今日まで、自身の性質を現わし続けています。ここにもまた、わたしたちが見るべき神の性質があります。数字は単純なもので、それ自体は何も示しませんが、ここでは神の性質を示す非常に重要なことが表現されています。神は五十人の正しい者のために町を滅ぼしません。これは神の憐れみによるものですか。神の愛と寛容によるものですか。神の性質のこの側面をあなたがたは理解していましたか。たとえ正しい者が十人しかいなかったとしても、その十人がいるために、神は町を滅ぼさなかったはずです。これは神の寛大さと愛ですか、それとも違いますか。これらの正しい者たちに対する憐れみ、寛容、そして慈しみのために、神は町を滅ぼそうとしませんでした。これが神の寛容なのです。では、わたしたちは最後にどのような結果を見ますか。アブラハムが「もしそこに十人いたら」と言ったとき、神は「滅ぼさない」と答えました。その後、アブラハムはそれ以上何も言いませんでした。ソドムにはアブラハムの言う十人の正しい者がおらず、それ以上何も言えなかったからです。またそのとき、なぜ神がソドムを滅ぼすと決めたのか、アブラハムは理解したのです。ここで神のどのような性質がわかりますか。神はどのような決意をしましたか。つまり、この町に十人の正しい者がいなければ、町が存在することを許さず、必ずや滅ぼすと決意したのです。これは神の怒りではないでしょうか。この怒りは神の性質を表わすものでしょうか。この性質は神の聖い本質を示すものでしょうか。これは人間が犯してはならない神の義なる本質の現われでしょうか。ソドムに十人の正しい者がいないことを確認すると、神は必ずやソドムを滅ぼし、その町の人を厳しく懲罰しようとしました。彼らが神に敵対し、非常に汚れて堕落していたからです。
これらの聖句をこのように分析してきたのはなぜですか。これらいくつかの単純な文章が、豊富な憐れみと深い怒りを兼ね備えた神の性質を完全に表現しているからです。神は正しい者を尊び、憐れみ、寛容を示し、慈しみますが、それと同時に、神の心の中には堕落したソドムの民全員への深い嫌悪がありました。これは豊富な憐れみと深い怒りですか、それとも違いますか。神はどのような方法でこの町を滅ぼしましたか。火によってです。では、なぜ火を使って滅ぼしたのですか。何かが火によって燃やされるのを見たり、自分が何かを燃やそうとしたりするとき、あなたはそれに対してどのような感情を抱きますか。なぜそれを燃やしたいのですか。それがもう必要ないからですか、あるいはもう見たくないからですか。それを捨てたいからですか。神が火を使うのは放棄と嫌悪を意味しており、ソドムをこれ以上見たくないということでした。それがソドムを焼き滅ぼした際の神の感情です。火を使ったことは、神がどれほど怒っていたかを表わしています。確かに、神の憐れみと寛容は存在しています。しかし、神が怒りを解き放つ際の聖さと義は、一切の背きを許さない神の側面を人に見せます。人間が神の命令に完全に従うことができ、神の要求に従って行動するとき、神は人に対する憐れみで満ちています。しかし、人間が堕落で満ちていたり、神への憎悪と敵意で一杯だったりするとき、神は深く怒ります。では、神の怒りはどれほど深いのでしょうか。神の怒りは、神が人間の抵抗と悪行を見なくなるまで、それらが神の目の前から消えてなくなるまで続きます。そのとき初めて、神の怒りは消えるのです。言い換えると、誰であれ心が神から遠くなり、離れ、神に立ち返ることがないならば、その人が外見上、あるいは主観的な願望において、いかに神を崇拝し、神に従っても、そして肉において、あるいは思考の中で神に服従しても、神の怒りは途切れることなく解き放たれます。そのため、人間に十分な機会を与えたうえで、いったん深い怒りが発せられるならば、神がそれを撤回することはなく、二度とそのような人に憐れみや寛容を示しません。これが一切の背きを許さない神の性質の一側面です。ここで、神がある町を滅ぼすのは当然のように人々には思えます。と言うのも、神の目から見て、罪に満ちた町が存続することはできず、神によって滅ぼされるのが理にかなっているからです。しかし、神がソドムの町を滅ぼす前後に起こったことの中に、神の性質の全体像が見てとれます。優しく、美しく、善いものに対し、神は寛大で憐れみに満ちています。邪悪で罪深く、悪意に満ちたものに対して神は深く怒り、その怒りは止まることがないほどです。溢れんばかりの憐れみと深い怒りが、神の性質における主要かつ最も顕著な二つの側面であり、またそれ以上に、最初から最後まで神によって示されてきたものです。あなたがたの大半は神の憐れみを何かしら経験していますが、神の怒りを味わった人はほとんどいません。神の憐れみや慈愛は誰の中にも見ることができます。つまり、神はすべての人に対して憐れみ深いのです。しかし、神があなたがたの誰かに、あるいは人々の一団に、深い怒りを向けたことはほとんどありません。いや、一度もないと言っていいでしょう。落ち着きなさい。早かれ遅かれ、誰もが神の怒りを見て経験します。いまはまだそのときではないのです。それはなぜですか。神が常に誰かに対して怒っているとき、つまり神が深い怒りを彼らのうえに解き放つときというのは、神が長いあいだその者を嫌い、拒絶し、その存在を忌み嫌い、耐えられなくなったということです。神の怒りが下るや否や、その者たちは消え去ります。今日、神の働きはまだそこまで達していません。いったん神が深く怒ると、あなたがたの中に耐えられる人は一人もいません。そうであれば、神は現時点であなたがたに憐れみ深いだけで、あなたがたはまだ神の深い怒りを見ていないということがわかります。まだ納得していない人がいたら、神が自分に怒りを注ぐように頼んでみるとよいでしょう。そうすれば、神の怒りと、人による背きを許さない神の性質が、本当に存在するかどうかがわかるはずです。あえて試そうと思いますか。
終わりの日の人々は神の言葉の中に神の怒りを見るだけで、神の怒りを真に体験することはない
聖書のこれらの節に見られる神の性質の二つの側面は、交わる価値のあるものでしょうか。この物語を聞いて、神への理解が一新されたでしょうか。あなたがたはどのように理解していますか。創造のときから今日に至るまで、この最後の集団ほど神の恵み、あるいは神の憐れみと慈愛を享受した集団は他になかったと言えるでしょう。最後の段階において、神は裁きと刑罰の働きを行ない、威厳と怒りによって働きを行なってきましたが、ほとんどの場合、言葉だけを使って自身の働きを成し遂げます。言葉を用いて教え、潤し、施し、養うのです。その間、神の怒りはずっと隠されており、その言葉の中で怒りに満ちた神の性質を経験する場合を除き、神の怒りを自ら経験したことのある人はほとんどいません。つまり、神の裁きと刑罰の働きが行なわれている間、その言葉の中で現わされている神の怒りによって、人々が神の威厳と、神が背きを許さないことを経験することはできますが、その怒りが言葉の枠からはみ出ることはありません。言い換えれば、神は言葉を用いて人を戒め、暴き、裁き、罰し、そして断罪することさえあります。しかし、人間に対してまだ深く怒ってはおらず、言葉を用いる以外に人への怒りを発したことはほとんどありません。したがって、この時代に人間が経験した神の憐れみと慈愛は神の真の性質の現われであり、一方、人間が経験した神の怒りは単に神の発言の口調と語感の影響に過ぎないのです。この影響をもって、神の怒りを真に経験した、あるいは真に認識したと、多くの人が誤解しています。その結果、ほとんどの人が神の言葉の中に神の憐れみと慈愛、そして神が人の背きを許さないことを見たと信じており、その大半が人間に対する神の憐れみと寛容を理解するようになったとさえ思っています。しかし、人間の行ないがどれだけ悪くても、人間の性質がどれだけ堕落していても、神はいつも耐えてきました。神が忍耐する目的は、自身の語った言葉、注いだ労力、および払った代価が、自分が得ようと望む人たちの中で効果を発揮するのを待つことです。このような結果を待つのは時間がかかることであり、人のために様々な環境を創る必要があります。それは、人が生まれてすぐには大人にならず、成熟した本当の大人なるまで十八年から十九年かかり、二十年から三十年かかる人さえいるのと同じことです。神はこの過程が完了するのを待っており、そのようなときが来るのを待っています。そしてその結果が訪れるを待っているのです。そして待つあいだ、神はずっと溢れんばかりの憐れみに満ちています。しかし、神の働きのこの期間に、極めて少数の人々が打ち倒され、また神への重大な反抗のために懲罰を受けた人もいます。そのような例は、人間の背きを許さない神の性質のより確かな証明でもあり、また選民に対する神の寛大さと寛容が実在することを完全に立証しています。もちろん、これらの典型的な例において、神の性質の一部がこれらの人々において表わされたことは、神の経営計画全体に影響を及ぼすものではありません。事実、神の働きにおけるこの最終段階で、神は待ち続けていた間ずっと耐えてきたのであり、自分の忍耐およびいのちと引き換えに、自身に従う人たちを救ってきたのです。あなたがたにそれがわかりますか。神は何の理由もなく計画を覆すことはしません。神は怒りを解き放つことも、憐れみで満ちていることもできるのです。これが神の性質における二つの主要な部分の現われです。はっきりわかりますか。あるいははっきりしていませんか。別の言葉で言えば、神に関して言うなら、善悪、公正と不正、肯定的なものと否定的なものはすべて、人間に対してはっきり示されているのです。神が行なうこと、好むもの、嫌うものはどれも、神の性質の中に直接反映されることができます。それらのことはまた、神の働きの中で極めてわかりやすく明確に見ることができ、漠然としていたり全般的であったりすることはありません。むしろそれらは、すべての人が神の性質、および神が所有するものと神そのものを、ひときわ具体的に、真に、かつ現実的に見ることを可能にします。これが本当の神自身なのです。
神の性質が人間から隠されたことはない――人間の心が神から離れたのである
もしわたしがこれらの事柄について交わらなければ、あなたがたは一人として聖書の物語にある神の真の性質を見ることはできないでしょう。これは事実です。と言うのも、聖書にあるこれらの物語は神が行なったことの一部を記録しているものの、神はいくつかの言葉しか語っておらず、自身の性質を直接現わしたり、自身の旨を公然と人間に示したりはしていないからです。後の時代の人々は、これらの記録を単なる物語としてしか捉えておらず、それゆえ人々にとって、神は自ら人間から隠れており、また人間から隠されているのは神の実体ではなく、神の性質と旨であるかのように思われるのです。今日のわたしの交わりの後も、神が人から完全に隠れていると感じるでしょうか。あなたがたはそれでも、神の性質が人間から隠されていると思うでしょうか。
創世以来、神の性質はその働きと歩みをともにしてきました。それが人間に隠されていたことはなく、完全な形で公に、人間にもわかりやすく表わされてきました。それでも時間が経つとともに、人間の心はよりいっそう神から遠ざかり、人間の堕落がより深くなるにつれ、人間は神からますます離れていきました。ゆっくりと、しかし確実に、人間は神の視界から消えていったのです。人間は神を「見る」ことができなくなり、そのせいで神についての「知らせ」が届かなくなりました。かくして、人間は神が存在するかどうかがわからなくなり、神の存在を完全に否定するまでになったのです。結果として、神の性質、および神が所有するものと神そのものに対する人間の無知は、神が人間から隠れていることが原因ではなく、人間の心が神から離れたことが原因なのです。人間は神を信じているものの、その心に神はおらず、神をどう愛するかもわからず、神を愛したいとも思っていません。人間の心は神に近づいたことがなく、常に神を避けているからです。その結果、人間の心は神から離れているのです。では、人間の心はどこにあるのでしょうか。実際には、人間の心がどこかに行ってしまったわけではありません。自分の心を神に捧げたり、神に示して見てもらおうとしたりする代わりに、自分の中に閉じ込めているのです。それにもかかわらず、中には「ああ神よ、わたしの心をご覧ください。わたしの考えるすべてのことをあなたはご存知です」としばしば祈る人もいれば、自分の心を神に見せると誓い、その誓いを破れば懲罰を受けても構わないと言う人さえいます。たとえ自分の心のうちを神に見えるようにしたとしても、それは人間が神の指揮と采配に従えるという意味でも、自分の運命や将来を手放し、自分のすべてを神の支配に委ねたという意味でもありません。したがって、あなたが神に立てる誓いや、あなたが神に宣言したことにかかわらず、神の目から見て、あなたの心は神に閉ざされたままです。なぜなら、あなたは神に自分の心を見せるばかりで、それを支配することは許していないからです。言い換えると、あなたは神に自分の心をまったく捧げておらず、神に対して聞こえのいい言葉を述べているに過ぎないのです。その一方、あなたは諸々の不誠実な意図に加え、陰謀、策略、計画を神から隠しており、また自分の将来と運命が神に取り上げられることを深く恐れ、それらを固く握りしめています。このように、神に対する人間の誠実さというものを、神は決して目にしません。神は人間の心の奥深くを観察し、人間が心の中で考えていることや願っていること、および人間が心にしまい込んでいるものを見ることができますが、それでも人間の心は神に属しておらず、神の支配に委ねられてもいません。つまり、神には観察する権利があっても、支配する権利はないのです。人間は主観的な意識の中で、自分を神の采配に委ねることを望んでもいなければ、そうしようとも思っていません。自分を神から閉ざしてきただけでなく、どうしたら自分の心を覆い隠せるかを考える人さえいます。そのような人は聞こえのよい言葉とお世辞を並べて偽りの印象を生み出し、神の信頼を得て、自分の素顔を神の目から隠そうとします。神に見させまいとする彼らの目的は、自分が本当はどのような存在であるかを、神に知られないようにするためです。そのような人は神に心を捧げようとは思わず、手放さずにいることを望んでいます。そのことは、人間が行なうことや望むことはすべて人間自身が計画し、計算し、そして決定するということを暗に意味しています。神による参加や介入は必要としておらず、ましてや神の指揮や采配など無用です。したがって、神の命令、神が与える使命、あるいは神が人間に行なう要求にかかわらず、人間の決定は自分の意図と利益、そのときの状態と状況に基づいているのです。人間は常に、自分に馴染みのある知識と見識、そして自分の知性を使い、自分が進むべき道を判断して選択し、神の介入や支配を許しません。これが神から見た人間の心です。
初めのときから今日に至るまで、神と対話できるのは人間だけでした。つまり、すべての生き物と神の被造物の中で、人間以外に神と対話できるものはいなかったということです。人間には耳があって聞くことができ、目があって見ることができます。また人間は言葉、自分の考え、そして自由な意志をもっています。神が語るのを聞き、神の旨を理解し、神からの使命を受け入れるにあたり、人間はそのために必要なものをすべて持ち合わせており、それゆえ神は自身の一切の望みを人間に託すとともに、自身と同じ心をもち、ともに歩める仲間にしたいと願っているのです。神は経営を始めて以来、人間が自分の心を神に捧げ、神によって清められてそれを備え、神を満足させて愛されるもの、神を畏れ悪を避けるものにしたいと願っています。神はその実現をずっと心待ちにしています。聖書にそのような人物の記録はありますか。つまり聖書の中に、自分の心を神に捧げられた人物はいるでしょうか。時代を遡って前例はあるでしょうか。今日は引き続き聖書の記録を読み、ヨブというこの人物によってなされたことが、今日お話ししている「心を神に捧げる」というテーマと何らかの関連があるかどうかを見ていきます。まず、ヨブは神に満足してもらうことができる人物であったかどうか、そして神に愛されていたかどうかを検討しましょう。
ヨブに対するあなたがたの印象はどのようなものですか。聖句の原文を引用し、ヨブは「神を恐れ、悪に遠ざかった」と言う人がいます。「神を恐れ、悪に遠ざかった」というのは神によるヨブの評価です。あなたがた自身の言葉を使うならば、ヨブをどう形容するでしょうか。ヨブは理知を備えた善人だったと言う人もいるでしょう。また、神に対する真の信仰をもつ人だったとか、正しく情け深い人だったと言う人もいるでしょう。あなたがたはヨブの信仰を見てきました。つまり、あなたがたは心の中でヨブの信仰をとても重要視しており、それをうらやましく思っているのです。そこで今日は、ヨブのもつ何が神をそこまで喜ばせたかを検討しましょう。それでは次の聖句を読んでみましょう。
C.ヨブ
1.神と聖書によるヨブの評価
ヨブ記 1:1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
ヨブ記 1:5 そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
ヨブ記 1:8 ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
これらの聖句から読み取れる重要な点は何でしょうか。この三つの短い聖句はいずれもヨブに関連しており、文章は短くても、ヨブがどのような人物だったかを明確に示しています。聖句で描かれたヨブの日々の振る舞いや行動から、ヨブに対する神の評価は根拠のないものではなく、十分な根拠に基づいていたことが誰にでもわかります。またこれらの箇所から、ヨブに対する人間の評価(ヨブ記 1:1)も神の評価(ヨブ記 1:8)も、神と人の前におけるヨブの行ない(ヨブ記 1:5)の結果であることがわかります。
まずは一つ目の聖句を読みましょう。「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」。これは聖書における最初のヨブの評価であり、この一文は著者によるヨブの評価です。当然、それは人によるヨブの評価を表わすものでもあります。つまり、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」という評価です。次に、神によるヨブの評価を読みましょう。「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない」。この二つのうち、一つは人間によるもの、もう一つは神によるものであり、同じ内容に対する二つの評価です。こうして、ヨブの振る舞いと行動は人間に知られており、また神にも賞賛されていたことがわかります。つまり、ヨブの行ないは人の前でも神の前でも変わらなかったということです。神が自分の振る舞いと動機を観察できるよう、ヨブはそれらを絶えず神の前に晒しており、また彼は神を畏れて悪を避ける人でした。そのため、神の目から見て、ヨブは地上で唯一完全で正しく、神を畏れ悪を避ける人間だったのです。
ヨブが日常生活において神を畏れ悪を避けていたことを示す具体的な描写
次に、ヨブが神を畏れて悪を避けている具体的な例を検討しましょう。ヨブ記第1章5節を、その前後の句も含めて読んでみましょう。この一節は、ヨブが神を畏れて悪を避けた様子を具体的に描写しており、ヨブが日々の生活の中でどのように神を畏れて悪を避けたかと関連しています。特筆すべきは、ヨブは神を畏れて悪を避けるために自分のすべきことをしただけでなく、自分の息子たちのために定期的に燔祭の捧げ物をしたことです。それは、息子たちが「罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」ことを恐れたからです。その恐れはヨブにおいてどう現われたでしょうか。聖書には次のように書かれています。「そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた」。ヨブの行ないは、彼の神への畏れが表面的な振る舞いに現われているのではなく、心の内側から生じるものであり、日常生活のあらゆる側面において神への畏れが常に見出せたことを示しています。自分が悪を避けただけでなく、自分の息子たちのためにしばしば燔祭の捧げ物をしていたからです。言い換えれば、ヨブは神に対して罪を犯し、心の中で神を拒むことを深く恐れていただけでなく、息子たちが神に対して罪を犯し、心の中で神を拒むことをも心配していたのです。このことから、神に対するヨブの畏れは非の打ち所がない真実であり、誰にも疑う余地のないことがわかります。ヨブは時折こうしていたのでしょうか、それとも頻繁にでしょうか。聖句の最後の一文に、「ヨブはいつも、このように行った」とあります。これは、ヨブが時折、あるいは気が向いたときに息子たちの様子を見に行ったのではなく、また祈りを通じて悔い改めていたのでもないということを意味しています。むしろ、ヨブは定期的に息子たちを送り出して聖別させ、息子たちのために燔祭の捧げ物をしました。ここで言う「いつも」は、ヨブが一日か二日、もしくはほんの一瞬そのようにしたということではありません。神に対するヨブの畏れは一時的な現われではなく、認識や口先の言葉に留まるものでもなく、むしろ神を畏れて悪を避ける道がヨブの心を導き、彼の振る舞いを決定していたのであって、それが心の中で自身の生存の根源となっていた、ということを言っているのです。ヨブがいつもそのようにしていたことは、自分が神に対して罪を犯すのではないか、また息子と娘たちも罪を犯すのではないかと恐れていたことを示しています。ここから、神を畏れて悪を避ける道がヨブの心の中でいかに多くの比重を占めていたかがわかります。ヨブは心の中で恐怖と不安を感じていたので、いつもそのようにしていました。つまり、悪事を行なって神に対して罪を犯し、神の道から外れて神に満足してもらえないことを恐れたために、いつもそのようにしていたのです。ヨブは同時に、息子と娘たちが神に背いたのではないかとも心配しました。日常生活におけるヨブの普段の行ないはこのようなものでした。この普段の行ないこそが、ヨブの「神を畏れて悪を避ける」ことが空虚な言葉ではなく、実際にそうした現実を生きたことを証明しています。「ヨブはいつも、このように行った」。この言葉は、神の前におけるヨブの日常の行ないを示しています。ヨブがいつもこのように行動していたとき、彼の振る舞いと心は神のもとに届いたでしょうか。つまり、神はヨブの心と行ないをしばしば喜んだでしょうか。そうであれば、どのような状態で、どのような背景で、ヨブはそのようにし続けたのでしょうか。「神が頻繁に目の前に現われたから、ヨブはそのように行動したのだ」と言う人がいます。また、「悪を避ける意志があったから、いつもそうしたのだ」と言う人もいます。さらには、「おそらく自分の富が簡単に手に入ったものではなく、神から授けられたものだと知っていたので、罪を犯した結果、あるいは神に背いた結果として、自分の富を失うことを深く恐れたのだ」と言う人もいます。この中に正解はあるでしょうか。どれも明らかに違います。なぜなら、神の目から見て、神がヨブに関して受け入れ、もっとも尊いと感じたのは、彼がいつもそのようにしていたということだけでなく、それ以上に、サタンの手に引き渡されて試みを受けた際、ヨブが神、人、そしてサタンの前でそのような振る舞いを見せたことです。以下に示す箇所はもっとも説得力のある証拠であり、神によるヨブの評価の真実が示されています。続いて以下の聖句を読んでいきましょう。
2.サタンがヨブを初めて試みる(ヨブの家畜が盗まれ、ヨブの子供たちに災いが降りかかる)
1) 神が語った言葉
ヨブ記 1:8 ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
ヨブ記 1:12 ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンはヤーウェの前から出て行った。
2) サタンの返答
ヨブ記 1:9-11 サタンはヤーウェに答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
ヨブの信仰が完全なものになるよう、神はサタンがヨブを試みることを許す
ヨブ記第1章8節は、聖書においてヤーウェ神とサタンのやりとりが記されている最初の箇所です。では、神は何と言いましたか。原文には次の記述があります。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』」。これが、サタンの前でのヨブに対する神の評価です。ヨブは完全で正しい人、神を畏れて悪を避ける人だと神は言いました。神とサタンのこのやりとりに先立ち、神はサタンを用いてヨブを試みよう、ヨブをサタンの手に渡そうと決意しました。そのことは、一面から見れば、ヨブに対する神の観察と評価が正確で何も間違えていないことを証明しており、ヨブの証しを通じてサタンを辱めることになるでしょう。また別の面から見れば、神に対するヨブの信仰と畏れを完全なものとするはずです。そのため神は、サタンが自身の前に現われたとき、曖昧な言葉を使わず、単刀直入にこう訊いたのです。「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。この神の質問には次のような意味があります。つまり、サタンがあらゆるところを巡り、神のしもべであるヨブをしばしば偵察していたことを、神は知っていたのです。サタンは頻繁にヨブを試み、攻撃することで、神に対するヨブの信仰と畏れが堅固なものではないと証明すべく、彼を破滅させる方法を見つけようとしたのです。またサタンは、ヨブに神を捨てさせ、神の手からヨブを奪い取れるよう、ヨブを打ちのめす機会をただちに窺いました。しかし神はヨブの心の中を見て、ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避けることがわかりました。神は質問をすることで、ヨブが神を畏れて悪を避ける完全で正しい人であり、神を捨ててサタンに従うことは決してないとサタンに伝えたのです。ヨブに対する神の評価を聞いたサタンは屈辱のあまり激怒し、その怒りは大きくなって、何としてもヨブを奪おうと思いました。完全で正しい人間、神を畏れて悪を避けることのできる人間などいないと、サタンは信じていたからです。それと同時に、サタンは人間の完全さと正しさを嫌い、神を畏れて悪を避ける人を憎んでもいました。ゆえに、ヨブ記第1章9-11節には以下のように書かれています。「サタンはヤーウェに答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』」。神はサタンの悪意に満ちた本性をよく知っており、ヨブに破滅をもたらそうとずっと企んでいたことも熟知していました。そのため神は、ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人間であると改めてサタンに伝えることで、サタンを自分に協力させ、サタンがその素顔を晒した上で、ヨブを攻撃して試みることを望んだのです。つまり神は、ヨブは完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人だと意図的に強調し、そうすることで、完全で正しく、神を畏れて悪を避けるヨブに対する憎みと怒りのために、サタンがヨブを攻撃するようにさせたのです。結果として、ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人だという事実を通じて、神はサタンを恥じ入らせ、サタンは完全に辱められ、打ち倒されることになるはずです。その後は、ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人であることを、サタンが疑ったり非難したりすることはなくなるでしょう。そのようなわけで、神の試練とサタンの試みはほぼ避けられないものになりました。神の試練とサタンの試みに耐えられる唯一の人はヨブでした。このやりとりの後、サタンはヨブを試みることを許され、かくしてサタンによる最初の攻撃が始まりました。このとき、攻撃の標的はヨブの財産でした。と言うのも、サタンはヨブを次のように非難していたからです。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。……あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです」。その結果、神はサタンに対し、ヨブの持ち物をすべて取ることを許しています。これがまさに、神がサタンと話した目的でした。それにもかかわらず、神はサタンに一つのことを要求しました。「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」(ヨブ記 1:12)。これが、ヨブへの試みをサタンに許し、ヨブをサタンの手に渡した際に神が出した条件でした。そしてこれが、神がサタンに定めた制限でした。つまり神は、ヨブに危害を加えてはならないと命令したのです。ヨブが完全で正しいことを神は知っており、またヨブが自分の前で完全で正しいことに疑いの余地はなく、試練に耐えられると信じていたので、神はサタンにヨブへの試みを許すと同時に、制限を設けたのです。サタンはヨブの全財産を取ることを許されましたが、指一本触れることができませんでした。これは何を意味しますか。そのとき、神はヨブを完全にサタンに与えたわけではないということです。サタンは好きな手段を使ってヨブを試みることができたものの、ヨブ自身に危害を加えることはできず、髪の毛に触れることすらできませんでした。それは、人間に関する一切のことは神によって支配されており、人間が生きるか死ぬかは神によって決められることで、サタンにその資格はなかったからです。神がサタンにこれらの言葉を述べたあと、サタンは即座にヨブへの試みを開始しました。あらゆる方法でヨブを試み、間もなくヨブは山ほどの羊や牛に加え、神から与えられたすべての財産を失いました……。このようにして、神の試練がヨブに降りかかったのです。
聖書を読めば、ヨブに試みが降りかかった経緯がわかりますが、試みの対象となったヨブ自身は、何が起きていたかを理解していたでしょうか。ヨブはただの人に過ぎませんでした。もちろん、自分の周りで展開している物語など知るはずもありません。しかし、神を畏れ、完全で正しいおかげで、神の試練が自分に降りかかっているのだと認識することができました。霊の領域で起きたことや、これらの試練の背後にある神の意図こそわからなかったものの、何が起ころうとも、完全で正しくあり続け、神を畏れて悪を避ける道に従うべきだということを、ヨブは知っていました。そうした事柄に対するヨブの態度と反応を、神ははっきりと見ていました。神は何を見ていたのでしょうか。神を畏れるヨブの心を見ていたのです。なぜなら、最初のときから試練を受けるときまでずっと、ヨブの心は神に対して開かれ、神の前に晒されており、またヨブが自身の完全さと正しさを捨てることはなく、神を畏れて悪を避ける道を捨て去ったり、そこから背を向けたりすることもなかったからです。神にとってこれ以上に嬉しいことはなかったのです。次に、ヨブの受けた試みがどのようなものだったか、そしてそれらの試練にヨブがどう対処したのかを検討しましょう。それでは聖句を読みましょう。
3) ヨブの反応
ヨブ記 1:20-21 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。
ヨブが自分の所有するすべてのものを進んで返したのは、神への畏れのためである
「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」と神がサタンに言ったあと、サタンはその場を去り、間もなく、ヨブは突然激しい攻撃を受けました。まず、ヨブの雄牛とロバが略奪され、何人かのしもべが殺されました。次に、ヨブの羊とさらに多くのしもべたちが焼き殺されました。その後はらくだが連れ去られ、ますます多くのしもべたちが殺され、ついには息子と娘たちの命も奪われました。この一連の攻撃が、最初の試みでヨブに降りかかった責め苦です。神に命じられた通り、サタンはこれらの攻撃の最中、ヨブの財産と子どもたちだけを攻撃し、ヨブ自身を傷つけることはありませんでした。それにもかかわらず、ヨブは巨大な富をもつ裕福な人間から、何ももたない人間へと即座に変わってしまったのです。この驚くべき打撃に耐えたり、正しく反応したりすることなど誰にもできませんが、ヨブは自身の並外れた側面を見せました。聖書には次の記述があります。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。自分の子どもたちと全財産を失ったと聞き、ヨブが最初に見せた態度はこのようなものでした。何より、驚いた素振りをすることも、うろたえることもなく、ましてや怒りや憎しみを表わすことなどありませんでした。つまり、これらの災いは偶然でなく、人間の手によるものでもなく、ましてや報いや懲罰が訪れたのでもないと、ヨブはすでに心の中で気づいていたのです。むしろ、ヤーウェの試練が我が身に降りかかったのであり、ヤーウェこそが自分の財産と子どもたちを取ろうとしていたのです。ヨブの心はいたって穏やかで、思考もはっきりしていました。完全で正しい人間性のおかげで、ヨブは降りかかった災いを理性的に、自然に、そして正確に判断して決断することができ、その結果、並外れた冷静さで振る舞うことができたのです。「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝した」。「上着を裂き」というのは、ヨブが衣服を身につけておらず、何ももっていなかったことを意味します。「頭をそり」というのは、生まれたばかりの赤児として神のもとへ戻ったことを意味します。「地に伏して拝した」というのは、ヨブがこの世に裸で生まれ、今日も何一つもたず、赤児のように神のもとへ戻ったことを意味します。自身に降りかかったすべての出来事に対するヨブの態度は、いかなる被造物もとることができないものでした。ヤーウェに対するヨブの信仰は、信心の領域を越えるものでした。それは神への畏れであり、従順だったのです。ヨブは神が与えることに感謝したのみならず、取られることにも感謝しました。さらにヨブは、自分の命も含めて、自分がもつすべてのものを自ら進んで神に返すことができたのです。
神に対するヨブの畏れと従順は人類の模範となるものであり、彼の完全さと正しさは人間がもつべき人間性の頂点でした。彼は神を見ることこそありませんでしたが、神は実在すると認識しており、そのために神を畏れました。そして神への畏れのために、神に従うことができました。自分がもつすべてのものについて、ヨブはそれらを神の意のままにさせましたが、一言も不満を漏らさず、神の前にひれ伏し、たとえいまの瞬間に神が自分の肉体を取り上げても、不満など言わずに喜んで受け入れると言ったのです。ヨブのすべての行ないは、彼の完全で正しい人間性によるものでした。つまり、彼の純粋さ、正直さ、優しさの結果として、神の存在に対するヨブの認識と経験は揺らぐことがなかったのです。この土台の上に、神による導きと、万物において自分が目にした神の業に沿って、自分にすべきことを課し、神の前での考え方、振る舞い、行ない、そして行動の原則を標準化したのです。やがて時間とともに、ヨブの経験は、神に対する現実的かつ実質的な畏れをヨブの中に生じさせ、悪を避けるようにさせました。これが、ヨブが堅く保持する完全さの根源となっているものです。ヨブは正直で、汚れのない、優しい人間性をもっており、神を畏れ、神に従い、悪を避けることを実際に経験しており、それと同時に「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ」という認識をもっていました。ひとえにこれらのことにより、ヨブはサタンによるかくもひどい攻撃を受けながらも、しっかり立って証しをすることができました。またひとえにそのおかげで、神の試練が降りかかった際も神を失望させず、神に満足ゆく答えを返すことができたのです。最初の試みにおけるヨブの行ないは非常に率直なものでしたが、後の世代の人々は、一生努力を重ねてもヨブのような率直さを会得できるかどうか、あるいは先ほど述べたヨブの行ないを自分のものにできるかどうか、自信をもてませんでした。今日、ヨブの率直な行動を目の当たりにし、神を信じて従っていると自称する人々の「死に至るまでの完全な従順と忠誠」という叫びと決意をそれと比べるとき、あなたがたは深く恥じ入りますか、それとも恥じ入りませんか。
ヨブと彼の家族が受けた苦しみを聖書で読んで、みなさんはどのように受け取ったでしょうか。考え込んでしまうでしょうか。驚くでしょうか。ヨブに降りかかった試練は「恐ろしい」と言えるものでしょうか。つまり、聖書に書かれているヨブの試練を読むだけでも恐ろしく、それが実生活においていかに恐ろしいものだったかは言うまでもないということです。したがって、ヨブに降りかかったことは「演習」ではなく、実際の「銃」と「銃弾」を伴う「実戦」だったことがわかります。では、誰の手によってこれらの試練がヨブの身に起きたのでしょうか。もちろん、それらはサタンの仕業であり、サタンが自らの手で行なったことです。それにもかかわらず、それらは神に許可されていました。神はサタンに、どの手段を用いてヨブを試みよと言ったのでしょうか。神はそのようなことは言っていません。神はサタンが守るべき一つの条件を設けただけで、それからヨブに試みが降りかかりました。ヨブに試みが降りかかったとき、人々はそれによってサタンの邪悪さと醜さ、人間に対する悪意と嫌悪、そして神への敵意を感じとりました。そのことから、この試みがいかに残酷なものだったか、言葉では表現できないことがわかります。この瞬間、サタンが人を虐げる際の悪意に満ちた本性とその醜い顔が完全に露呈したと言えます。サタンはこの機会、つまり神の許可によってもたらされた機会を用いて、ヨブを激しく、かつ冷酷に痛めつけ、その残酷さの手段と程度は、今日の人々には想像することも許容することも一切できないものでした。ヨブはサタンの試みに遭い、またその試みのさなかに固く立って証しをしたというよりも、むしろ神から与えられた試練の中、自身の完全さと正しさを守り、神を畏れて悪を避ける道を守るべく、サタンとの戦いに乗り出したと言うほうが適切でしょう。この戦いで、ヨブは山ほど多くの羊と牛、すべての財産、そして息子と娘たちを失いました。しかし、完全さと正しさ、神に対する畏れを捨てることはありませんでした。つまり、このサタンとの戦いにおいて、ヨブは完全さ、正しさ、そして神への畏れを失うより、財産と子どもを奪われるほうを選んだのです。人間であることの意味の根源を手放さないほうを選んだのです。聖書にはヨブが財産を失った過程全体が簡潔に記されており、ヨブの行ないや態度も記録されています。記述が短く簡潔なために、この試みに遭ったヨブはあたかもゆったり構えていたかのような感じを与えますが、そのとき実際に起きたことを再現し、悪意に満ちたサタンの本性の事実も考慮すれば、物事はこれらの文章に書かれているほど単純なものでも簡単なものでもありません。実際にははるかに残酷だったのです。人類、および神が認めるすべての人に対するサタンの扱いは、それほどまでに破壊的で憎しみに満ちているのです。ヨブを傷つけてはならないと神がサタンに求めていなければ、サタンは平気でヨブを殺していたでしょう。サタンは誰も神を崇拝しないことを望み、神の目から見て義なる者や、完全で正しい者が引き続き神を畏れ、悪を避けていられることを望みません。人々が神を畏れて悪を避けるというのは、サタンを避けて捨てるということです。ゆえに、サタンは神から許可されたのをいいことに、すべての怒りと憎しみを情け容赦なくヨブにぶつけたのです。したがって、ヨブが心身ともに、また内側も外側も、どれほど苦しんだかがわかるでしょう。そのときの様子がどのようなものだったかは、今日のわたしたちが知ることはできず、聖書の記録から、責め苦に見舞われたヨブの当時の感情をわずかに垣間見ることしかできません。
ヨブの揺るぎない高潔さはサタンを恥じ入らせ、慌てて退散させた
では、ヨブがこの責め苦に見舞われていたとき、神は何をしていましたか。神は観察し、見守り、その結果を待っていました。観察して見守りながら、神はどう感じたでしょうか。もちろん悲しみに打ちひしがれていました。しかし悲しみを感じたからというだけで、サタンがヨブを試みるのを許したことに対し、神は果たして後悔したでしょうか。答えはいいえです。神がそのような後悔を感じたはずはありません。ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避けると、神は堅く信じていたからです。ヨブが神の前で義であることを証明し、サタン自身の邪悪さと卑劣さを暴く機会を、神はサタンに与えただけなのです。さらにそれはヨブにとって、自分が義なる人であり、神を畏れて悪を避けることを、世界の人々とサタン、さらには神に従うすべての人にまで証しする機会でもありました。そしてその最終的な結果は、ヨブに対する神の評価が正しく、何も間違っていないことを証明したでしょうか。ヨブは実際にサタンに勝利したでしょうか。ここでヨブがサタンに勝利したことを証明する、ヨブが語った典型的な言葉を読みましょう。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」とヨブは言いました。これが神に対するヨブの従順さの態度でした。次にヨブはこう言いました。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。ヨブが語ったこれらの言葉は、神が人の心の奥深くを観察していること、人の考えを見通せることを証明するものであり、ヨブに対する神の評価に誤りがなく、神に認められたこの人が正しい者だったことを証明しています。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。これらの言葉は神に対するヨブの証しです。何の変哲もないこれらの言葉がサタンを脅かし、辱め、慌てて退散させ、さらにはサタンに足かせをはめ、どうしようもなくさせたのです。またこれらの言葉はサタンにヤーウェ神の業の偉大さと力を実感させ、神の道に心を支配されている人がもつ並外れた資質を思い知らせました。そしてさらに、取るに足りない普通の人間が神を畏れて悪を避ける道に従う中で見せる、強力な活力をサタンに対して見せつけたのです。こうしてサタンは最初の戦いに敗れました。「思い知った」にもかかわらず、サタンにヨブを諦めるつもりはなく、その邪悪な本性も何一つ変わりませんでした。引き続きヨブを攻撃しようと、サタンは再び神の前に来ました……。
次に、ヨブが二度目の試みに遭った際の聖句を読みましょう。
3.サタンがもう一度ヨブを攻撃する(腫れ物がヨブの全身を覆う)
1) 神が語った言葉
ヨブ記 2:3 ヤーウェはサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。
ヨブ記 2:6 ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
2) サタンの言葉
ヨブ記 2:4-5 サタンはヤーウェに答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
3) ヨブは試練にどう対処したか
ヨブ記 2:9-10 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
ヨブ記 3:3-4 わたしの生れた日は滅びうせよ。「男の子が、胎にやどった」と言った夜もそのようになれ。その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように
神の道に対するヨブの愛は他の全てを越える
聖書には神とサタンの述べた言葉が次のように書かれています。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした』」(ヨブ記 2:3)。この会話の中で、神はサタンに同じ質問を繰り返しています。この質問は、ヨブが最初の試練で見せたもの、および生きたものに対してヤーウェ神が良い評価を与えたこと、そしてその評価が、サタンによる試みを受ける前の評価と何ら変わっていないことをわたしたちに示しています。つまり、ヨブに試練が降りかかる以前、神の目から見てヨブは完全であり、そのため神はヨブとその家族を守り、祝福したのです。神の目から見て、ヨブは祝福されるにふさわしかったのです。試練の後、ヨブは財産と子どもたちを失ったからといって自らの舌で罪を犯すことはなく、ヤーウェの名を称え続けました。ヨブの実際の行ないのために神はヨブを称え、満点の評価を与えました。ヨブにとって、自分の子どもも財産も、神を捨てるほど価値あるものではなかったのです。言い換えれば、ヨブの心における神の居場所が、彼の子どもたちや財産によって置き換わることはあり得なかったということです。最初の試みの中、ヨブは神に対し、神に対する自分の愛、そして神を畏れて悪を避ける道に対する自分の愛が他のすべてを超えることを示しました。この試みは、ヤーウェ神から報いを受け、財産と子どもたちをヤーウェ神に取り上げられるという経験をヨブに与えたに過ぎなかったのです。
ヨブにとってこの試みは、自分の魂をきれいに洗い流す実体験になりました。それは彼の人生を充実させるいのちのバプテスマであり、またそれ以上に、神に対するヨブの従順と畏れを試す壮麗な祝宴でもありました。この試みはヨブの立場を富める者から無一文へと変え、サタンによる人間への虐待も経験させました。ヨブは貧窮したからといってサタンを憎みはしませんでした。それどころか、サタンの下劣な行ないの中にサタンの醜さと卑劣さ、神に対する敵意と反抗を見たのです。ヨブはそれに励まされ、神を畏れて悪を避ける道への決心をよりいっそう、永遠に固くしました。そして財産、子ども、あるいは家族といった外部の要因のために神を見捨てて神の道に背を向けることは決してせず、またサタン、財産、およびどのような人に対しても、その奴隷には決してならないと誓いました。ヤーウェ神を除き、誰かが自分の主、自分の神になるなどあり得なかったのです。それがヨブの強い思いでした。一方、ヨブがこの試みから得たものもありました。神から与えられた試練の中で、ヨブは巨大な富を得たのです。
それまでの数十年間の人生において、ヨブはヤーウェの業を目の当たりにし、ヤーウェ神からの祝福を受けてきました。それらはヨブを大いに不安にさせ、また恐縮させた祝福でした。と言うのも、自分は神のために何もしていないのに、これほど偉大な恵みを授けられ、これほど多くの恵みを享受したのだと信じていたからです。そのためヨブは心の中でしばしば祈り、神に報いられるようになること、神の業と偉大さを証しする機会を得ること、自分の従順さが試されること、そしてさらに、自分の従順と信仰が神から認められるまで、自分の信仰が清められることを願いました。かくして、試練が自分に降りかかった際、神は自分の祈りを聞いてくださったのだとヨブは信じました。そしてこの機会を他の何より大切にし、あえて軽々しく扱おうとはしませんでした。最も大きな長年の願いが叶えられるからです。この機会が訪れたのは、神に対する自身の従順と畏れが試され、純粋なものにされることを意味していました。そのうえそれは、神に認められ、近づく機会がもたらされたことも意味していました。試練の間、ヨブはそうした信仰と追求のおかげでより完全になり、神の旨に関する理解をさらに深めました。また、神の祝福と恵みにますます感謝し、心の中で神の業をよりいっそう称え、以前にも増して神を畏れ、崇め、神の愛、偉大さ、そして聖さを切望しました。この時点で、ヨブは神の目から見て、いまだ神を畏れて悪を避ける者でしたが、経験という点から言えば、ヨブの信仰と認識は飛躍的に成長していました。信仰が増し、従順さが足がかりを得て、神への畏れがより深まっていたのです。この試練はヨブの霊といのちを変えましたが、そのような変化はヨブを満足させず、彼の前進を遅らせることもありませんでした。この試練から得たものは何かと計算し、自分の欠点を考えるのと同時に、ヨブは静かに祈り、次なる試練が自分の身に降りかかるのを待ちました。と言うのも、神の次なる試練において、自分の信仰、従順、そして神への畏れが引き上げられることを切望していたからです。
神は人間の奥底にある思い、および人間のすべての言動を見ています。ヨブの思いはヤーウェ神の耳に届き、神はヨブの祈りを聞きました。このようにして、神の次なる試練が予想通りヨブに臨んだのです。
極限の苦しみの中、ヨブは人類に対する神の気遣いを実感する
自分に対するヤーウェ神の質問を聞き、サタンは密かに喜びました。神の目から見て完全であるこの人間を攻撃することが再び許されるとわかったからです。サタンにとって、それはまたとないチャンスです。この機会を利用してヨブの信念を完全に崩し、神に対する彼の信仰を失わせ、彼が神を畏れることも、ヤーウェの名を称えることもなくなるようにさせようとしたのです。これはサタンに一つの機会を与えるものでした。つまり、いつでもどこでもヨブを思いのままもてあそべるのです。サタンはその悪意に満ちた意図を跡形もなく隠しましたが、邪悪な本性を抑えることはできませんでした。聖句に書かれているヤーウェ神の言葉に対するサタンの返答から、その事実がうかがえます。「サタンはヤーウェに答えて言った、『皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』」(ヨブ記 2:4-5)。この神とサタンのやりとりから、サタンの邪悪さを明確に理解し、感じることができないはずはありません。サタンのこの詭弁を聞いて、真理を愛し悪を憎む人はみな間違いなくサタンの下劣さと無恥さをさらに憎み、ぞっとして嫌悪するでしょう。同時に、ヨブに対して心からの祈りと真摯な願いを捧げ、この正しい人が完全にされるよう祈り、神を畏れて悪を避けるこの人が永遠にサタンの試みに打ち勝ち、神の導きと祝福の中、光の中で生きることを願うでしょう。そしてこのような人は、ヨブの義なる行ないが、神を畏れて悪を避ける道を追い求めるすべての人々を永遠に駆り立て、励ますことを願うでしょう。この言葉の中にサタンの邪悪な意図が見て取れますが、神はサタンの「要求」を快諾しました。ただ、一つだけ条件をつけました。それは、「彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」(ヨブ記 2:6)というものです。今回、サタンは手を伸ばしてヨブの肉と骨を傷つけることを求めたので、神は「ただ彼の命を助けよ」と言ったのです。この言葉の意味は、神はヨブの肉をサタンに与えたものの、彼の命は自ら守ったということです。サタンはヨブの命を奪うことこそできませんでしたが、それ以外のことであれば、ヨブに対してどんな方法や手段でも使うことができたのです。
神の許しを得たサタンはヨブのもとへ急ぎ、手を伸ばしてヨブの皮膚を痛めつけました。するとヨブの全身に腫れ物ができ、ヨブは皮膚に痛みを感じました。それでもヤーウェ神の素晴らしさと聖さを称えたため、サタンは厚かましくもより手荒になりました。人を傷つけることに喜びを感じていたサタンは、手を伸ばしてヨブの肉をかきむしり、腫物がただれるようにしました。ヨブはすぐに比類なき痛みと苦痛を感じ始め、この肉体の痛みが魂に与えた打撃を和らげるかのように、頭の先からつま先まで両手でかきむしらずにはいられなくなりました。また、神がそばにいて自分を見守っていることにヨブは気づいており、全力で覚悟を固めようとしました。そして再び地にひざまずき、こう言いました。「あなたは人の心をご覧になり、その人の苦悩を見られます。あなたはなぜ人の弱さを心配されるのでしょう。ヤーウェ神の御名はほむべきかな」。サタンはヨブの耐えがたい苦しみを目にしましたが、ヨブがヤーウェ神の名を捨てるのは見ませんでした。そこでサタンは急いで手を伸ばし、ヨブの骨を痛めつけて必死に彼の四肢を砕こうとしました。ヨブは瞬く間に経験したことのない苦痛を感じました。それはあたかも自分の肉が骨から剥がされ、骨を一つひとつ砕かれるかのようであり、その痛さたるや死んだほうがましだと思うほどでした……。苦痛への我慢も限界に達していたのです……。ヨブは叫び声を上げ、少しでも傷みを和らげるために自分の皮膚をはがしたいと思うほどでした。それでもヨブは叫ぶのをこらえ、自分の皮膚をはがすこともしませんでした。自分の弱さをサタンに見せたくなかったからです。そこで再びひざまずいたのですが、今度はヤーウェ神の存在を感じませんでした。ヤーウェ神がしばしば自分の前後左右にいることをヨブは知っていましたが、この痛みの中、神はヨブを一顧だにせず、顔を覆って隠れていたのです。と言うのも、神が人間を創造したのは、人間に苦しみをもたらすためではなかったからです。このときヨブは涙を流しながら、必死に身体の痛みに耐えていましたが、もはや神に感謝せずにはいられなくなりました。「人は最初の一撃で倒れます。人は弱く無力で、若くて無知です。なぜあなたは人を労り、優しくしようと望まれるのですか。あなたはわたしを打ちますが、そうすることで痛みを感じておられます。人のいったい何が、あなたの労りとお気遣いにふさわしいのでしょう」。ヨブの祈りは神の耳に届きました。そして神は無言のまま、黙って見ているだけでした……。あらゆる策を試みながらそのどれも失敗に終わり、サタンは静かに去りました。しかし、ヨブに対する神の試練はまだ終わっていませんでした。ヨブにおいて明らかにされた神の力はまだ公にされていなかったので、ヨブの物語がサタンの退散で終わることはなかったのです。別の人物が登場し、さらに壮大な場面が続きました。
ヨブが神を畏れ悪を避けたことは、万事において神の名を讃えたことにも示されている
サタンの暴虐に苦しんだヨブは、それでもヤーウェ神の名を捨てませんでした。最初に舞台に登場し、人の目に見える姿でサタンの役を演じてヨブを攻撃したのは彼の妻でした。原文はその様子を次のように描写しています。「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』」(ヨブ記 2:9)。これは人の姿をしたサタンによる言葉です。この言葉は攻撃であり、断罪であり、誘惑であり、試みであり、中傷です。ヨブの肉への攻撃に失敗したサタンは彼の高潔さを直接攻撃し、彼がその高潔さを捨て去り、神を捨て、これ以上生き続けないことを望んだのです。そのためサタンは、次の言葉を用いてヨブを試みることもしました。つまり、ヤーウェの名を捨てればこのような苦しみに耐える必要はなく、肉体の責め苦から解放される、と。妻の忠告を聞いたヨブは彼女を叱ってこう言いました。「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記 2:10)。ヨブはこれらの言葉をずっと以前から知っていましたが、このとき、これらの言葉に関するヨブの認識の真実が証明されたのです。
ヨブの妻は神を呪って死になさいとヨブに忠告しましたが、その意味はこうです。「あなたの神はあなたをこのように扱っています。それならなぜ神を呪わないのですか。それでもなお生きて何をしているのですか。あなたの神はあなたに対してとても不公平なのに、それでもあなたは『ヤーウェのみ名はほむべきかな』などと言うのですか。あなたがヤーウェの御名を称えているというのに、災難をもたらすというのはどういうことですか。さっさと神の名を捨てて、従うのをやめなさい。そうすれば災難は終わるのです」。この瞬間、神がヨブにおいて見ることを望んでいた証しが生まれました。普通の人間にそのような証しはできず、また聖書のどの物語にもそのようなことは記されていません。しかしヨブがこのような言葉を発するずっと前から、神はそれを知っていたのです。神はこの機会を使うことで、ヨブがすべての人間に対し、神は正しいのだと証明させることを望んだに過ぎないのです。ヨブは妻の忠告を聞いても高潔さを失わず、また神を捨てることもしなかっただけでなく、妻にこう言いました。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。これらの言葉に大きな重みはありますか。ここに唯一、この言葉の重みを証明できる事実があります。この言葉の重みは、それが神に認められ、神が望むもの、神が聞きたいものであり、また神が見ることを切望していた結果であるということです。また、これらの言葉はヨブの証しの核心でもあります。これにより、ヨブの完全さ、正しさ、そして神を畏れて悪を避けることが証明されたのです。ヨブが尊いのは、試みに遭い、全身が腫物に覆われ、極度の責め苦にさいなまれ、妻や身内に忠告されても、このような言葉を発することができた点にあります。言い換えれば、どのような試みに遭おうと、困難や責め苦がいかに深刻だろうと、ヨブはたとえ死に直面しても神への信仰を捨てず、神を畏れて悪を避ける道を一蹴することがなかったのです。こうして、ヨブの心の中で最も大切な位置を占めていたのは神であり、ヨブの心には神だけがいたということがわかります。そのようなわけで、ヨブに関する次のような描写が聖書にはあるのです。「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」。ヨブはその唇で罪を犯さなかっただけでなく、心の中で神への不満を漏らすこともありませんでした。また神を傷つける言葉を発することも、神に対して罪を犯すこともありませんでした。ヨブは唇によって神の名を称えただけでなく、心の中でも神を称えたのです。ヨブの唇と心は一つでした。これが神の見た真のヨブであり、まさにこの理由で、神はヨブを大切にしたのです。
人々がヨブについて抱く数多くの誤解
ヨブが受けた苦難は神の使いによる働きではなく、神自身の手によるものでもありませんでした。むしろそれは、神の敵であるサタンが直接引き起こしたものです。その結果、ヨブが受けた苦しみは大きなものになりました。それでもヨブはこの瞬間、心の中に抱く神に関する日々の認識、日々の行動の原則、そして神に対する姿勢を余すところなく表わしました。これは事実です。ヨブが試みを受けていなければ、また神がヨブに試練を与えなければ、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と述べたヨブは偽善者だとあなたは言うでしょう。神はヨブに多くの財産を与えたのだから、ヨブがヤーウェの名を称えたのは当然だと。もしヨブが試みを受ける前に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言っていたなら、あなたは「ヨブは誇張しているだけだ。神の手で何度も祝福されてきたのだから、神の名を捨てるはずがない」と言うでしょう。また、「神がヨブに試練をもたらしていれば、ヨブは神の名を捨てたはずだ」とも言うでしょう。しかしヨブは、誰も望まない、あるいは誰も見たくない状況、そして誰もが恐れ、神ですら見るに堪えない状況に置かれた際、それでも高潔さを保ち、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言うことができました。仰々しい言葉を語ることが大好きな人、文字や教義を語ることが大好きな人も、そのときのヨブの行ないを見れば言葉を失います。口先だけで神の名を称え、神の試練を受け入れたことがない人は、ヨブが固く抱いていた高潔さのために咎められ、また人間は神の道を固く守れると信じたことのない人は、ヨブの証しによって裁かれます。試練におけるヨブの行ない、およびヨブが語った言葉を目の当たりにして、困惑する人もいれば、羨む人、疑念を抱く人もいるでしょう。さらにはヨブの証しに関心を示さず、鼻であしらう人もいるでしょう。そのような人は、試練のさなかにヨブに降りかかった責め苦を目にしたとき、ヨブの言葉を読むだけでなく、試練が降りかかった際にヨブが見せた人間の「弱さ」も見ているからです。彼らはこの「弱さ」を、ヨブの完全さにおける不完全らしきもの、神の目から見て完全である人間の欠点だと信じています。つまり、完全な人は完璧であり、欠点も汚点もなく、弱さもなく、痛みを知らず、悲しんだり落ち込んだりせず、憎しみを感じることも、外面的に極端な振る舞いをすることもないと信じているのです。結果として大半の人が、ヨブは真に完全であると信じていません。ヨブが試練のさなかに見せた振る舞いの多くを、人々は認めません。例えば、ヨブは財産と子どもを失ったとき、人々が想像するように、泣き叫ぶようなことはしませんでした。ヨブが見せた「非礼」のせいで、人々はヨブのことを冷たい人間だと思いました。家族のために涙を流さず、家族への愛情もなかったからです。これが、人々がヨブに対して最初に抱く悪い印象です。その後のヨブの振る舞いはさらに彼らを困惑させます。「上着を裂いた」のは神に対する不敬と解釈され、「頭をそり」は神への冒瀆および反抗だと誤解されました。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」というヨブの言葉を除き、人々は神に称えられたヨブの義を一つも識別せず、大多数の人がヨブに行なう評価は理解不能、誤解、疑い、断罪、そして理論上だけの承認という域を超えないのです。ヨブは完全で正しい人、神を畏れて悪を避ける人であるというヤーウェ神の言葉を真に理解し、認識できる人は一人もいません。
人々はヨブに対するこのような印象を基に、彼の義についてもさらなる疑いを抱きます。と言うのも、ヨブの行動と聖書に書かれているヨブの行ないは、人々が想像するように、地を揺るがすような感動的なものではないからです。ヨブは偉業を行なわなかっただけでなく、陶器の破片を手に取り、灰の中に座りながら自らの皮膚をかきむしりました。この行動は人々を驚かせただけでなく、ヨブの義について疑いを抱かせ、さらにはそれを否定させました。と言うのも、ヨブは自分の皮膚をかきむしりながら、神に祈ることも誓いを立てることもせず、それ以上に、苦痛の涙も見せなかったからです。人々がこのとき見たのはヨブの弱さだけであり、それゆえ「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」とヨブが言うのを聞いてもまったく感動せず、さもなければ決心がつかず、ヨブの言葉から彼の義を識別することができません。試練による責め苦のさなか、ヨブが人々に与える基本的な印象は、彼が卑屈でも傲慢でもないというものです。人々はヨブの心の奥底で演じられていた、彼の振る舞いの裏にある物語を見ておらず、また心の中にある神への畏れも、悪を避ける道の原則を遵守することも見てはいません。人々はヨブの冷静さのために、彼の完全さと正しさは空虚な言葉に過ぎず、神への畏れも単なるうわさだと考えています。その一方で、彼が外面的に示した「弱さ」は人々に強い印象を残し、神が完全で義であるとしたこの人間に関する「新たな視点」や、さらには「新たな認識」さえも与えるのです。そのような「新たな視点」や「新たな認識」は、ヨブが口を開いて自分の生まれた日を呪った際に証明されることになります。
ヨブが受けた苦しみの程度は、誰一人想像することも理解することもできないものでしたが、ヨブは神に背く発言をせず、自分にできる手段で身体の痛みを和らげるだけでした。聖書に記されているとおり、ヨブはこのように言いました。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」(ヨブ記 3:3)。この言葉を重視した人はおそらく一人もおらず、注意を払った人ならいるかもしれません。あなたがたの考えでは、それらの言葉はヨブが神に反抗したことを意味するものでしょうか。ヨブの言葉は神に対する不平でしょうか。わたしは知っていますが、あなたがたの多くはヨブの言葉について特定の考えをもち、ヨブが完全で正しかったのなら、弱さや悲痛を示すのではなく、サタンのどのような攻撃にも積極的に立ち向かい、サタンの試みを前に笑みすら浮かべるべきだったと信じています。サタンによって肉体にもたらされた責め苦に何の反応も示さず、心中の感情も見せるべきではなかったのです。そしてさらに、神がこれらの試練をより厳しいものにするよう求めるべきだったのです。これが、揺るぎない人間、神を畏れて悪を避ける人間が示し、自分のものにすべきことなのです。この極度の責め苦の中、ヨブは自分の生まれた日を呪う以外に何もしませんでした。神について不平を言わず、ましてや神に背く意図などなかったのです。これを実行するのは言葉で言うほど簡単ではありません。と言うのも、はるか昔から今日に至るまで、ヨブに降りかかった試みと苦しみを経験した人はいないからです。では、ヨブと同じような試みに晒された人がいないのはなぜでしょうか。それは、神の目から見て、ヨブと同じくらい責任感や使命感をもち、ヨブのように物事を行ない、そしてさらに、このような責め苦が降りかかった際、自分の生まれた日を呪った以外に、神の名を捨てずにヤーウェ神の名を称え続けられた人がいなかったからです。そのようなことをできる人がいるでしょうか。ヨブについてこのように話すとき、わたしたちは彼の振る舞いを称賛しているのでしょうか。ヨブは義なる人であり、神への証しをすることができ、またサタンが神の前に出て自分を責めることが二度とないよう、尻尾を巻いて退散させることができました。であれば、ヨブを称えることの何が間違っているのですか。あなたがたの基準は神の基準より高いとでも言うのですか。試練が自分に降りかかるとき、ヨブより立派に行動できるとでも言うのですか。ヨブは神に称賛されました。それに対して何の異議を唱えられますか。
ヨブが自分の生まれた日を呪ったのは、神に心を痛めてほしくなかったからである
神が人の心の中を見る一方、人間は人の外側を見るとわたしはよく言います。神は人の心の中を見るので、人の本質を理解しますが、人間は人の外見に基づいてその人の本質を判断します。ヨブが口を開いて自分の生まれた日を呪ったとき、ヨブの三人の友人を含むすべての霊的な人たちが驚きました。人は神から来たのだから、神から授かった命と肉体、そして自分の生まれた日を感謝すべきであり、それらを呪うべきではないというのです。これは普通の人間なら理解して思いつけることです。神に従う誰にとっても、その理解は犯すことのできない神聖なものであり、決して変わることのない真理です。一方、ヨブはこれらの規則を破り、自分の生まれた日を呪いました。それは、大半の人が一線を越えたと見なす行ないでした。ヨブは人々の理解と慈悲に値しないだけでなく、神の赦しにも値しないのです。同時に、さらに多くの人々がヨブの義を疑うようになりました。なぜなら、ヨブは神に気に入られたことでわがままになり、これまでの人生で神から与えられてきた祝福と慈しみに感謝しないばかりか、自分の生まれた日を呪って滅ぼすほど大胆かつ無謀になったように見えたからです。これが神への反抗でないとすれば何でしょうか。このような表面的な見方は人々にとって、ヨブのこの行ないを断罪する証拠となりましたが、そのときヨブが本当は何を考えていたのか、いったい誰が理解できるでしょうか。ヨブがそのように行動した理由を、いったい誰が知り得るでしょうか。この出来事の真相と理由は、神とヨブ自身だけが知っています。
サタンが自らの手を伸ばしてヨブの骨を痛めつけようとしたとき、ヨブは逃げる手段も抵抗する力もないまま、サタンの手中に落ちました。ヨブの身体と魂は激痛に襲われ、その痛みのために、肉に生きる人間の卑小さ、もろさ、無力さを実感しました。同時に、神がなぜ人間を慈しみ、見守るのかに関する深い認識と理解も得ました。サタンの手中に落ちたヨブは、肉と血でできた人間が実に無力で弱いことを知ったのです。ヨブがひざまずいて神に祈ると、あたかも神が顔を覆って隠れているかのように感じられました。神はヨブを完全にサタンの手中へ預けてしまったからです。それと同時に、神もヨブのために涙を流し、またそれ以上に苦しみました。ヨブの痛みで神も痛みを感じ、ヨブが傷ついたことで神も傷ついたのです……。ヨブは神の痛みを感じ、神にとってそれがいかに耐え難いかも感じとりました……。それ以上神を悲しませることも、神が自分のために涙を流すことも、ましてや自分のために痛みを感じることも、ヨブは望みませんでした。このとき、ヨブは自分の肉を取り除き、これ以上この肉からもたらされる傷みに苛まれないことだけを望みました。そうすれば、自分の痛みのために神が苦しまなくて済むからです。しかし、ヨブはそうすることができず、肉の痛みに耐えなければならないばかりか、神に心配をかけたくないという思いの責め苦にも耐えなくてはなりませんでした。この二つの痛み、つまり肉の傷みと霊の痛みは、ヨブに胸が張り裂けるような、はらわたがちぎれるような痛みをもたらし、肉と血でできた人間の限界がもたらす失望と無力を痛感させました。そのような状況のもと、神を切望するヨブの思いはさらに強くなり、サタンに対する嫌悪がさらに増しました。ヨブはこのとき、人の世界に生まれて来なければよかったと思いました。神が自分のために涙を流したり、痛みを感じたりするくらいなら、自分が存在しないほうがよいと思ったのです。ヨブは自分の肉を深く忌み嫌い、自分自身、自分の生まれた日、そして自分に関係する一切のことさえつくづく嫌になり始めました。そして自分の生まれた日やそれに関するものをすべて忘れたいと思い、口を開いて自分の生まれた日を呪いました。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように」(ヨブ記 3:3-4)。ヨブの言葉には「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」という自分への憎しみと、「その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように」という自責の念、そして神に痛みをもたらした罪悪感が込められています。この二つの聖句は当時のヨブの感情を表わす極限の言葉であり、彼の完全さと正しさをすべての人に余すところなく示すものです。それと同時に、ヨブが望んだ通り、彼の信仰と神への従順、そして神に対する畏れは真に高められたのです。もちろんこれは、神が予期した通りの効果でした。
ヨブはサタンを打ち負かし、神の目から見て真の人となる
最初に試練に遭った際、ヨブは財産と子どもを残らず失いましたが、それによって躓くことも、神への罪となる言葉をを口にすることもありませんでした。ヨブはサタンの試みに勝利し、物質的財産と子孫に勝利し、世俗の財産をすべて失うという試練に勝利しました。つまり、自分から何かを取り上げる神に従い、また神がしたことに対し、神に感謝と讃美を捧げられたのです。それがサタンによる最初の試みにおけるヨブの振る舞いであり、それはまた、神の最初の試練におけるヨブの証しでもありました。二度目の試練において、サタンはその手を伸ばしてヨブを苦しめました。ヨブはかつて感じたことのない苦痛を経験しますが、それでもヨブの証しは人々を驚かせるのに十分でした。ヨブはその不屈の精神、信念、神への従順、そして神への畏れによって再びサタンに勝利し、彼の行ないと証しはまたしても神に認められ、喜ばれました。この試みの間、ヨブはサタンに対し、肉の苦痛は神への信仰と従順を変えることも、神に対する強い愛着と畏れを奪うこともできないと、実際の行ないによって宣言しています。死に直面したからといって、神を拒んだり、自身の完全さと正しさを捨てたりはしないのです。ヨブの決意はサタンを弱腰にし、ヨブの信仰はサタンを臆病にさせて震えさせ、サタンとの生死をかけた戦いの激しさは、サタンの中で強い憎しみと恨みを膨らませ、そしてヨブの完全さと正しさの前にサタンは為す術もなく、ヨブへの攻撃を止め、ヤーウェ神の前で行なったヨブへの非難を捨てました。これが意味するのは、ヨブが世に打ち勝ち、肉に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、そして死に打ち勝ったということです。ヨブはまさに、完全に神に属する人でした。この二度の試練の間、ヨブは固く立って証しを行ない、自身の完全さと正しさを生き通し、神を畏れて悪を避けるという生きる上での原則の範囲を広げました。二つの試練を経たことで、ヨブの中にさらなる経験が生まれ、この経験によってヨブはさらに成熟して鍛えられ、それまで以上に強くなり、さらに強い信念をもち、自身が固く保つ高潔さの正しさと価値をさらに確信しました。ヤーウェ神によるヨブへの試練は、神が人間に対して抱く配慮を彼に深く理解させ、また実感させ、神の愛の尊さを感じ取れるようにしました。そしてそこから、神への思いやりと愛が、神に対するヨブの畏れに加わりました。ヤーウェ神による試練は、ヨブをヤーウェ神から遠ざけなかったばかりか、ヨブの心を神に近づけました。自分の肉の苦痛が頂点に達したとき、ヨブはヤーウェ神から感じ取っていた懸念のために、自分の生まれた日を呪うしかありませんでした。このような行ないは前もって計画されていたものではなく、神への思いやりと愛の自然な表現、神への思いやりと愛から生じた自然な表現なのです。つまり、ヨブは自身を忌み嫌い、神を苦しめることを望まず、またそうすることに耐えられなかったので、ヨブの思いやりと愛は無私のレベルに達したのです。このとき、長年にわたる神への敬慕と切望、そして神に対する強い愛着が、思いやりと愛というレベルに引き上げられたのです。それと同時に、神に対するヨブの信仰と従順、そして神への畏れもまた、思いやりと愛というレベルに引き上げられました。神に痛みを与え得ること、神を傷つける行ない、そして神に悲しみや嘆き、さらには不幸をもたらすことを、ヨブは一切自分に許しませんでした。神の目から見て、ヨブは以前と同じヨブのままでしたが、ヨブの信仰、従順、神への畏れは神に完全なる満足と喜びをもたらしたのです。このとき、神がヨブに期待した完全さをヨブは獲得しており、神の目から見て「完全で正しい」と呼ばれるに値する人となっていました。ヨブは自身の義なる行ないのおかげでサタンに勝利し、固く立って神への証しをすることができました。そしてまた、ヨブの義なる行ないは彼を完全にし、いのちの価値を引き上げさせ、これまでになく超越させるとともに、ヨブがサタンによる攻撃や試みを二度と受けない最初の人物となるようにしました。ヨブは義なる人だったので、サタンに責められ、試みられました。ヨブは義なる人だったので、サタンに引き渡されました。そしてヨブは義なる人だったので、サタンに勝利し、サタンを打ち倒し、固く立って証しをしました。そのようにして、ヨブは二度とサタンの手に渡されることのない最初の人となり、真に神の玉座の前に出て、神の祝福のもと、サタンによる監視も破滅もなく、光の中で生きたのです……。ヨブは神の目から見て真の人となり、解放されたのです……。
ヨブについて
ここまで、ヨブが試練を経験した過程を学んできたわけですが、あなたがたの大半はヨブ自身に関する詳しいこと、特にヨブが神の賞賛を受けた秘密に関することをもっと知りたくなったでしょう。では、ヨブについて話をしましょう。
ヨブの日常生活の中に、わたしたちは彼の完全さ、正しさ、神への畏れ、そして悪を避けることを見いだせる
ヨブについて語ろうとするなら、「ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にない」という、神自身の口から発せられたヨブの評価から始めなければなりません。
まずはヨブの完全さと正しさについて学びましょう。
あなたがたは「完全」および「正しい」という言葉をどのように理解していますか。ヨブに非難すべき点はなく、高潔だったと思うでしょうか。もちろん、これは「完全」および「正しい」という言葉の文字通りの解釈です。しかし、ヨブのことを真に理解するには実生活の背景が不可欠であり、言葉や書籍や理論が答えをもたらすことはありません。まずはヨブの家庭生活、つまり日々の生活における通常の行ないがどのようなものだったかを検討しましょう。そうすることで、人生における彼の原則と目的、そして彼の人間性や追い求めていたものが見えてくるからです。それではヨブ記第1章3節の最後の部分を読んでみましょう。「この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった」。この言葉が意味するのは、ヨブの地位と立場が非常に高かったということであり、多くの財産を所有しているからといって、または完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人間だからといって、東方で最も偉大な人間だったかどうかはわからないにしても、ヨブの地位と立場は非常に尊ばれていたことがわかります。聖書に書かれているように、ヨブに対する人々の第一印象は、神を畏れて悪を避ける完全な人で、巨大な富と尊敬される地位を有していたということです。ヨブはそのような環境と条件のもとで暮らす普通の人間でしたが、その食生活や生活水準、および個人的生活の様々な側面は、ほとんどの人が注目するところでしょう。そこで、引き続き聖句を読む必要があります。「そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが『わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った」(ヨブ記 1:4-5)。この聖句から二つのことが分かります。一つは、ヨブの息子や娘たちが定期的に宴を催し、たらふく飲み食いしていたこと。もう一つは、ヨブが息子や娘のことを心配し、子どもたちが罪を犯しているのではないか、心の中で神を捨てたのではないかと恐れ、たびたび燔祭の捧げ物をしていたということです。この聖句には異なる二種類の人間が描かれています。まずはヨブの息子と娘たち。彼らは裕福なおかげでたびたび宴を催し、贅沢な暮らしを送りつつ、心ゆくまで豪華な飲み物や食事を楽しみ、物質的な富がもたらす高水準の暮らしを享受していました。そのような生活をしていれば、しばしば罪を犯し、神に背くことは避けられません。それでも彼らは自らの身を清めたり、燔祭の捧げ物をすることはありませんでした。そこからわかるのは、彼らの心に神の居場所がなかったこと、彼らが神の恵みに思いを馳せることはなく、神に背くのを恐れなかったこと、ましてや神を捨てるのを恐れてなどいなかったことです。もちろん、わたしたちがいま問題にしているのはヨブの子どもたちではなく、そのようなことを目の当たりにしたヨブがどうしたかです。これが、この聖句に書かれているもう一つのことであり、ヨブの日常生活と彼の人間性実質がそこに関わっています。ヨブの息子と娘たちによる宴を描いている一節に、ヨブに関する記述はありません。ヨブの息子と娘たちはしばしば一緒に飲み食いしていたとだけ書いてあります。言い換えれば、ヨブが宴を催したわけではなく、そこで息子や娘たちと一緒に贅沢に飲み食いしてもいないのです。ヨブは裕福であり、多くの財産としもべを所有していたが、その暮らしは贅沢なものではありませんでした。最高の生活環境を楽しむことなく、富のために肉の享楽にふけることもなく、燔祭の捧げ物を忘れるということもなく、ましてやそのために心の中で神を徐々に避けることなどありませんでした。明らかに、ヨブは自制した生活を送っており、神の祝福の結果として貪欲になることも、快楽主義に陥ることもなく、生活水準にこだわることもなかったのです。むしろ、彼は謙虚で慎み深く、見栄を張らず、神の前で注意深く慎重でした。しばしば神の恵みと祝福に思いを馳せ、常に神を畏れました。日常生活において、ヨブはしばしば朝早く起き、息子と娘たちのために燔祭の捧げ物をしました。言い換えれば、ヨブは自ら神を畏れただけでなく、子どもたちも同様に神を畏れ、罪を犯さないことを願っていたのです。物質的な富がヨブの心を占めることはまったくなく、神が占める地位に取って代わることもありませんでした。自分自身のためであれ、子どもたちのためであれ、ヨブの日頃の行ないはすべて神を畏れて悪を避けることに結びついていました。ヤーウェ神に対するヨブの畏れは言葉だけにとどまらず、行動に移され、日常生活のあらゆる場面に反映されていました。このような実際の振る舞いから、ヨブは正直で、正義と肯定的な物事を愛する本質の持ち主だったことがわかります。ヨブがしばしば息子と娘たちを聖別しに送らせたということは、彼が子どもたちの振る舞いを良しとせず、認めもしなかったことを意味します。むしろ、心の中で子どもたちの振る舞いにうんざりしており、彼らを非難していました。息子と娘たちの振る舞いはヤーウェ神に喜ばれていないと結論づけていたのです。そのため、ヨブは頻繁に彼らを呼び、ヤーウェ神の前に赴かせて罪を告白させました。ヨブの行動から彼の人間性の別の面が見えます。それは、頻繁に罪を犯し、神に背く者と決して歩まず、遠ざかって避けたということです。そのような者が自分の息子や娘たちであっても、自分の親族だからという理由で自分の生き方の原則を曲げることはなく、感情に流されて罪を見逃すこともありませんでした。むしろ子どもたちに、罪を告白してヤーウェ神の赦しを得るよう熱心に勧めるとともに、貪欲な享楽のために神を捨ててはならないと警告しました。他の人に対するヨブの接し方の原則は、神を畏れて悪を避ける原則と切り離すことができません。ヨブは神に受け入れられる物事を愛し、神が嫌悪する物事を憎みました。心の中で神を畏れる人を愛し、神に対して悪事を行なったり罪を犯したりする人を憎みました。そのような愛と憎しみはヨブの日常生活において示されており、まさに神の目から見たヨブの正しさでした。また、それは当然ながら、日常生活における他の人との関わりの中でヨブが表わし、そして生きた真の人間性であり、わたしたちはこれについて学ばなければなりません。
試練の中で表わされたヨブの人間性(試練におけるヨブの完全さ、正しさ、そしてヨブが神を畏れ悪を避けたことを理解する)
ここまで、試みに先立つ日常生活の中で見られた、ヨブの人間性の様々な側面について話してきました。こうした様々な表われにより、ヨブの正しさ、および神を畏れて悪を避けたことに関する初歩的な認識と理解を得て、自然と確認できるようになるのは間違いありません。「初歩的」と言ったのは、大半の人がまだヨブの人間性と、彼が神に従い神を畏れる道を求めた度合いとを真に理解していないからです。つまり、ヨブに関する大半の人の理解は、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」、そして「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」というヨブの言葉を含む聖書の二節がもたらす、いくぶんヨブに好意的な印象よりも深まってはいないのです。したがって、ヨブが神の試練を受けた後、いかに自分の人間性を生きたかを理解する必要が大いにあります。そうすることで、ヨブの真の人間性がすべての人に残らず示されるのです。
財産が奪われ、息子と娘たちが命を落とし、しもべたちが殺されたと聞いた際のヨブの反応は、「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し」(ヨブ記 1:20)というものでした。この言葉は一つの事実をわたしたちに示しています。知らせを聞いたヨブは動揺せず、泣くこともなく、知らせをもたらしたしもべを責めることもせず、ましてや犯行現場を調べて詳細を確かめ、いったい何が起きたのかを突き止めることなどしませんでした。また持ち物を失ったことに対して苦痛や遺憾を一切見せず、子どもたちや愛する家族を失ったことで泣き崩れることもありませんでした。それどころか、自分の衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して拝しました。ヨブの行動は普通の人間の行動とは異なっていました。ヨブの行動に多くの人は混乱し、心の中でヨブの「冷血」を叱責しました。持ち物を突然失えば、普通の人間であれば悲しみや落胆を見せます。人によっては深い絶望に陥るでしょう。人の心の中で、財産は人生の苦労を表わしており、生きる術であり、生きる望みであるからです。財産を失うということは、それまでの努力が無駄になり、望みも失い、未来さえなくなったということです。これが普通の人の財産に対する考え方であり、それほど深く財産と関わっているのです。人の目から見て、財産とはそれほど重要なのです。そのようなわけで、財産を失っても無関心でいられるヨブに大半の人々は困惑するのです。今日はヨブの心の中で何が起きていたかを説明することで、これらの人々が残らず感じていた困惑を払拭していきましょう。
常識に照らせば、神からこれほど膨大な財産を与えられたヨブは、それを失ったことを神の前で恥じるべきでしょう。きちんと見張ることも、管理することもしなかったのですから。神から与えられた財産を、彼は守り抜けなかったのです。ゆえに、財産が奪われたと聞いた際、ヨブはまず現場に赴いて失われたものをすべて記録し、次いで神に罪を告白し、もう一度神の祝福を得られるようにすべきでした。しかし、ヨブはそのようなことをしませんでしたが、当然ながらそうしない理由がありました。自分の所有物はすべて神から授けられたものであり、自分の労働の産物ではないと、心の中で深く信じていたのです。そのため、それらの祝福を資本とすべきものとは考えず、その代わり、何が何でも自分が守るべき道から離れないよう、自身の生存の原則に留まったのです。ヨブは神の祝福を大切にし、感謝しましたが、祝福に心を奪われることも、祝福をさらに求めることもしませんでした。それが財産に対するヨブの姿勢です。ヨブは祝福を得るために何かをするということもなく、神からの祝福がなかったり、それを失ったりしても心配せず、悲しむこともありませんでした。神から祝福を受けたからといって、我を忘れて有頂天になることもなく、また繰り返し享受する祝福のせいで神の道を無視したり、神の恵みを忘れたりすることもありませんでした。財産に対するヨブの姿勢は、彼の真の人間性を人々に示しています。まず、ヨブは貪欲な人間ではなく、物質的な生活において多くを求めませんでした。次に、自分の持ち物を神が残らず取り上げることを、ヨブは決して心配せず、不安に思うこともありませんでした。これは心の中における神への従順の姿勢です。つまり、神が自分の財産を取り上げるかどうか、そしていつ取り上げるのかについて、ヨブは注文をつけたり文句を言ったりすることが一切なく、理由も訊かず、神の采配に従うことだけを求めたのです。そして三番目に、ヨブは自分の財産が自分の労働によるものだとは決して思わず、神から授けられたものだと信じていました。これが神に対するヨブの信仰であり、彼の信念の現われです。ヨブに関するこれら三つの要点から、ヨブの人間性と日々追い求めていたものがわかったでしょうか。財産を失った際の冷静な振る舞いには、ヨブの人間性と追い求めていたものが不可欠でした。神の試練のさなか、ヨブが霊的背丈と確信をもって「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と言うことができたのはまさに、日常におけるヨブの追求のおかげでした。この言葉は一朝一夕で得られるものではなく、単なる思いつきでもありません。長年にわたる人生経験でヨブが見たもの、獲得したものだったのです。神の祝福ばかり求め、神に取り上げられることを恐れ、嫌い、不平を言う人たちに比べ、ヨブの従順さは現実そのものではないでしょうか。神の存在を信じながら、神が万物を支配することを決して信じない人たちに比べ、ヨブは大いなる正直さと正しさを自分のものにしているのではないでしょうか。
ヨブの理性
ヨブの実際の経験、そして正しく正直な人間性は、彼が財産と子どもたちを失ったときに最も理性的な判断と選択を行なうことにつながりました。そうした理性的な選択は、彼が日々追い求めていたもの、および日常生活の中で知るようになった神の業と切り離すことができません。ヨブは自分の正直さのおかげで、ヤーウェ神の手が万物を支配しているのだと信じることができました。そしてその信仰のおかげでヤーウェ神による万物支配の事実を知ることができ、その知識のおかげでヤーウェ神の支配と采配に喜んで従うことができ、その従順さのおかげでヤーウェ神への畏れがますます本物になり、その畏れのおかげで悪を避けることがますます本物になり、そして最終的に、神を畏れて悪を避けたために完全になったのです。ヨブの完全さは彼を賢明にするとともに、最高の理性を彼に与えました。
この「理性的」という言葉を、わたしたちはどのように理解すべきでしょうか。文字通りの解釈は、素晴らしい理知をもち、思考において論理的で分別があり、健全な話し方、行動、判断ができ、健全かつ規則正しい道徳的基準を自分のものにしているということです。しかし、ヨブの理性はそれほど簡単には説明できません。ヨブは最高の理性を自分のものにしていたとここで言ったのは、彼の人間性、および神の前での行ないと繋がっています。ヨブは正直だったために、神の支配を信じて従うことができました。そしてそのおかげで、他の人々が得られない認識を与えられ、その認識によって、自分に降りかかった物事をより正確に見極め、判断し、定義づけることができました。そしてそのために、自分が何をすべきか、何を守るべきかについて、より正確かつ明敏に判断できたのです。つまり、ヨブの言葉、振る舞い、自身の行動の背後にある原則、および行動の規範は規則的で、明解で、具体的であり、盲目的でも衝動的でも感情的でもありませんでした。我が身に何が降りかかろうと、ヨブは対処の仕方を知っており、複雑な出来事の関係についてどうバランスをとり、どう扱うべきかを心得ていました。また、自分が固守すべき道をどう固守するか、さらにはヤーウェ神が与えた際、あるいは取り上げた際、それにどう対処すべきかを知っていました。まさにこれがヨブの理性です。このような理性を備えていたからこそ、ヨブは財産と息子と娘たちを失ったとき、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と言うことができたのです。
肉体の激痛、身内や友人からの忠告、そして死に直面したとき、ヨブは自らの行動により、自分の真の姿をすべての人に示すことになりました。
真実で、純粋で、偽りのないヨブの真の姿
ヨブ記第2章7-8節を読みましょう。「サタンはヤーウェの前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」。この聖句は、身体に腫れ物ができた際のヨブの振る舞いを説明しています。そのとき、ヨブは灰の中に座りながら痛みに耐えました。誰も彼の治療をせず、痛みを和らげようと手を差し伸べる人もいませんでした。ヨブは陶器のかけらで腫物の表面をかきむしりましたが、表面的に見れば、これはヨブの苦しみの一段階に過ぎず、彼の人間性や神への畏れとは何の関係もありません。このときヨブは一言も発することなく、自分の心情や見方を示さなかったからです。それでもヨブの行動と行ないは彼の人間性を如実に表わしています。前の章の記述には、東に住むすべての人の中でヨブが最も大いなる者だったとあります。一方、第2章のこの一節は、東方のこの偉大な人物が、灰の中に座って実際に陶器のかけらを手に取り、自分の身体をかきむしる様子を描いています。この二つの描写は実に対照的ではないでしょうか。この好対照はヨブという人を真に表わしています。つまり、それまでの誉れ高い地位と身分にもかかわらず、ヨブはそれらのものを愛しておらず、まったく無関心だったのです。自分の地位が他の人にどう見られているかなど気にしておらず、自分の行動と行ないが地位や立場に悪影響を及ぼすかどうかなどと心配することもありませんでした。また、地位の利益に浸ることも、地位と立場から生じる栄光を楽しむこともありませんでした。ヨブが気にかけていたのは、ヤーウェ神の目から見た自分の価値と人生の意義でした。ヨブの真の姿は彼の本質そのものでした。つまり、ヨブは名声も富も愛さず、名声や富のために生きることもなかったのです。ヨブは真実で、純粋で、偽りのない人間だったのです。
ヨブの愛と憎しみの分別
ヨブの人間性に関するもう一つの側面が、妻とのこの会話の中で表わされています。「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』。しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』」(ヨブ記 2:9-10)。ヨブが受けている責め苦を見た妻は、ヨブがその苦しみから解放されるよう、彼に助言を与えようとしました。しかしその「善意」はヨブに認められず、それどころか彼の怒りをかき立てました。と言うのも、彼女はヤーウェ神に対するヨブの信仰と従順を否定し、ヤーウェ神の存在も否定したからです。それはヨブにとって許し難いことでした。と言うのも、神に反抗したり神を傷つけたりすることを、ヨブは決して自分に許さなかったからであり、他人については言うまでもありません。他の誰かが神を冒瀆したり中傷したりするような言葉を発するのを見て、どうして無関心でいられるでしょうか。それゆえヨブは自分の妻を「愚かな女」と呼んだのです。妻に対するヨブの態度は怒りと憎しみ、非難と叱責のそれでした。これは愛と憎しみを区別するヨブの人間性の自然な現われであり、彼の正しい人間性を真に表わしています。ヨブには正義感がありました。その正義感のために悪の横行を憎み、ばかげた異端、愚かな論争、くだらない主張を忌み嫌い、非難し、拒絶するとともに、大衆に拒絶され、親しい人たちに見放されたときも、自身の正しい原則と立場を堅く守ることができたのです。
ヨブの優しさと誠実さ
ヨブの行ないから彼の人間性の様々な側面を見ることができるわけですが、ヨブが口をひらいて自分の生まれた日を呪った際、彼のどのような人間性を見ることができるでしょうか。それが次に検討するテーマです。
ヨブが自分の生まれた日を呪った理由についてはたったいま説明しました。そこから何がわかるでしょうか。ヨブの心が頑なで愛もなかったとしたら、またヨブが冷たい人間で感情に乏しく、人間性に欠けていたならば、神が心に抱く願望を思いやることができたでしょうか。神の心を思いやり、そのために自分の生まれた日を呪うことなどあり得たでしょうか。言い換えれば、ヨブの心が頑なで人間性に欠けていたなら、果たして神の痛みに心を苦しめたでしょうか。自分が神を悩ませたからといって、自分の生まれた日を呪ったでしょうか。決してそのようなことはありません。ヨブは心優しかったので、神の心を思いやりました。神の心を思いやったので、神の痛みを感じとりました。心優しかったので、神の痛みを感じとった結果、さらに大きい責め苦を経験しました。そして神の痛みを感じとったので、自分の生まれた日を憎み始め、ゆえに自分の生まれた日を呪いました。第三者にとって、試練におけるヨブの行ないはどれも模範的なものです。自分の生まれた日を呪うという行為だけが、彼の完全さと正しさに疑問符をつけ、違った評価をもたらすことになります。実はこれが、ヨブの人間性実質に関する最も真実の表現なのです。ヨブの人間性実質は、隠されてもいなければ梱包されてもおらず、他の誰かによって修正されたものでもありません。自分の生まれた日を呪ったとき、ヨブは心の奥深くにある優しさと誠実さを示したのです。ヨブは清い泉のようであり、その水は底が見えるほど澄んで透明なのです。
ここまでヨブについて学んできたわけですが、大半の人は間違いなく、ヨブの人間性実質を極めて正しく、客観的に評価するはずです。また、神が語るヨブの完全さと正しさについても、より深く実践的で、さらに高度な理解と認識ももつはずです。この理解と認識が、神を畏れて悪を避ける道に乗り出す手助けとなることを願います。
神がヨブをサタンに渡したことと、神の働きの目的との関係
ヨブが完全で正しく、神を畏れて悪を避けたことをほとんどの人は知っていますが、その認識によって神の意図をより深く理解できるわけではありません。人々はヨブの人間性と追求を羨むと同時に、神に次のような疑問を呈します。「ヨブが完全で正しく、人々にそれほど愛されたのなら、なぜ神はヨブをサタンの手に渡し、かくも大きな責め苦を経験させたのか」。大勢の人が心の中でそのような疑問を抱いているのも当然であり、そのような疑問をもつ人は多いのです。この点に悩む人は多いので、この疑問を改めて取り上げ、きちんと説明する必要があります。
神が行なうことはどれも必要であり、そこには並外れた意義があります。なぜなら、神が人において行なうすべてのことは、神の経営と人類の救いに関連するからです。神の目から見て、ヨブは完全で正しい人でしたが、当然、神がヨブにおいて行なった働きも同じです。言い換えれば、神が何を行なうか、その手段がどのようなものか、代価がどれほどのものか、および神の目標がどのようなものかにかかわらず、神の業の目的は変わらないのです。神の目的は自身の言葉を人の中に働かせること、そして人間に対する自身の要求と旨を人の中に働かせることです。つまり、肯定的だと信じるすべてのものを、自身の歩みに応じて人間に対して働かせ、人間が神の心を理解できるようにし、神の本質を把握できるようにするとともに、神の支配と采配に従えるようにすることで、神を畏れて悪を避けるようにするためです。これらが、神が行なう一切のことにおける、神の目的の一つの側面です。もう一つの側面は、サタンが引き立て役で神の働きに役立つものなので、人間がしばしばサタンに与えられるということです。これは、サタンによる試みと攻撃の中、人々がサタンの邪悪さ、醜さ、そして卑劣さを見るために神が用いる手段であり、それによって人々はサタンを憎み、否定的なものを知って理解するようになります。この過程により、人々はサタンの支配、断罪、邪魔、攻撃から徐々に解放され、やがては神の言葉のおかげで、そして神に関する認識と神への従順、神に対する信仰と畏れのおかげで、サタンの攻撃と断罪に勝利します。そうして初めて、人々はサタンの権力から完全に解放されるのです。サタンからの解放とは、サタンが打ち負かされたという意味であり、人々がもはやサタンの餌食ではないということです。サタンは人々を飲み込む代わりに手放したのです。なぜなら、そのような人々は正しく、信仰をもち、従順であり、神を畏れ、サタンと完全に決別したからです。彼らはサタンを辱め、怖じ気づかせ、完全に打ち負かします。神に付き従うという彼らの信念、そして神への従順と畏れがサタンを打ち負かし、自分たちへの攻撃を諦めさせるのです。このような人たちだけが真に神のものとされ、それが人間を救う神の最終目標です。救われることを願うのであれば、そして完全に神のものとされることを願うのであれば、神に従うすべての人はサタンによる大小の試みと攻撃に直面しなければなりません。このような試みや攻撃から抜け出てサタンを完全に打ち負かせる人こそ、神によって救われた人なのです。つまり、神により救われた人は神の試練を経た者、サタンの試みと攻撃を無数に受けた者なのです。神によって救われた人は神の旨と要求を理解し、神の支配と采配に従い、サタンの試みのさなかにあっても、神を畏れて悪を避ける道を捨てません。神によって救われる人は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、正義感と理性をもっており、神を気遣い神のすべてを大切にすることができます。そのような人たちはサタンに束縛されたり、監視されたり、断罪されたり、虐げられたりしておらず、完全に自由で解放されています。ヨブはまさにそうした自由な人であり、それこそが、神が彼をサタンに渡した理由の意義なのです。
ヨブはサタンに虐げられましたが、同時に永遠の自由と解放を獲得し、二度とサタンの堕落、虐待、および中傷の対象にならず、その代わり神の顔の光の中、束縛されず自由に生きる権利、神から与えられた祝福の中で生きる権利を得ました。誰もこの権利を剥奪したり、滅ぼしたり、取り上げたりすることはできません。それはヨブの信仰、決意、そして神への畏れと従順に対して与えられたものです。ヨブは自らの命という代価を払って地上での喜びと幸せを勝ち取り、また地上における神の真の被造物として、誰にも妨げられずに創造主を礼拝する権利と資格を勝ち取りましたが、それは完全に自然で理にかなったことです。これもまた、ヨブが耐え抜いた試みによる最も偉大な成果の一つです。
まだ救われていない人々の生活はしばしばサタンに邪魔され、支配さえされています。言い換えれば、救われていない人々はサタンの虜であり、自由がなく、サタンに放棄されておらず、神を礼拝する権利も資格もなく、サタンにしっかり追跡され、激しく攻撃されます。そのような人には語るべき幸せがなく、普通の存在でいる権利もなく、さらには尊厳もありません。あなたが立ち上がり、神への信仰、従順、そして畏れを武器に命がけでサタンと戦い、サタンを完全に打ち負かし、そうしてサタンがあなたを見るたびに尻尾を巻いて怯えるようになり、あなたへの攻撃と非難を完全に放棄するなら、そのとき初めてあなたは救われ、自由になるのです。サタンとの関係を完全に断ち切ろうと決意していても、サタンを打ち負かす武器を身につけていないのであれば、あなたはまだ危険な状態にあります。時間が経ち、サタンにひどく苦しめられ、一握りの力も自分の中に残っていないのに、それでもまだ証しをすることができず、サタンの断罪と攻撃から完全に解放されていないのであれば、救われる望みはほぼありません。最後に神の働きの完了が告げられるとき、あなたはいまだサタンの手中にあり、自分を解放することができず、ゆえに救われる機会も望みもありません。これが意味するのは、そのような人々は完全にサタンの虜となってしまうということです。
神の試験を受け入れ、サタンの試みに勝利し、神があなたの存在全体を得られるようにせよ
人間に対する永続的な施しと支えの働きの間、神は自身の旨と要求を余すところなく人間に伝え、自身の業、性質、そして自身が所有するものと自身そのものを人間に示します。その目的は、人間が神に付き従う中、彼らに霊的背丈を身につけさせ、神から様々な真理を得られるようにすることです。その真理は、サタンと戦う武器として神から人間に与えられるものです。これらのものが備わったならば、人は神の試験に直面しなければなりません。神は人間を試す多くの手段や手法をもっていますが、どれも神の敵であるサタンの「協力」を必要とします。つまり、サタンと戦う武器を人に与えたあと、神は人をサタンの手に渡し、サタンが人の霊的背丈を「試す」ことを許すのです。人間がサタンの軍勢から脱出し、サタンの包囲網から逃れ、それでも生きていられるなら、試験に合格したということです。しかし、サタンの軍勢を離れるのに失敗し、サタンに服従するのであれば、その人は試験に合格しなかったということです。神が人間のどの側面を検証しようと、その基準は、サタンの攻撃を受けた人間がしっかり立って証しをできるかどうか、またサタンに誘惑された際に神を捨て、サタンに降伏して服従するかどうかです。人間が救われるかどうかは、サタンに勝利して打ち倒せるかにかかっており、また自由を獲得できるかどうかは、神から与えられた武器を自ら手にしてサタンの束縛に打ち勝ち、サタンが完全に希望を失って手出ししなくなるかどうかにかかっています。サタンが希望を失って誰かを手放すとは、二度とその人を神から奪おうとはしない、二度とその人を断罪したり、邪魔したり、気まぐれに苦しめたり攻撃したりしないという意味です。そのような人だけが、真に神のものとされるのです。これが、神が人々を自分のものにする過程です。
ヨブの証しによって後の世代に与えられた警告と啓示
神がある人を完全に自分のものとする過程を理解すると、神がヨブをサタンに渡した目的と意義も同時に理解するようになります。ヨブの苦しみに心をかき乱されることがなくなり、その意義を新たに理解するのです。自分たちも同じ試みに遭うのだろうかと心配することがなくなり、神の試練が来ても反対したり拒絶したりしなくなります。ヨブの信仰、従順、そしてサタンに勝利した証しは、人々にとって大きな助け、そして励ましであり続けてきました。人々はヨブの中に自分の救いの望みを見出し、また信仰を通じて、そして神への従順と畏れを通じて、サタンを打ち負かして勝利することが完全に可能であることを見出します。神の主権と采配に従い、すべてを失っても神を捨てないという決意と信仰がある限り、サタンを辱めて打ち勝つことができると知るのです。また、たとえそれが命を失うことを意味しても、固く立って証しをする決意と忍耐力さえあれば、サタンを怯えさせて退散させられることも知るのです。ヨブの証しは後の世代への警告であり、サタンを打ち負かさなければその断罪と邪魔から逃れられず、サタンの虐待と攻撃から抜け出すのも不可能だと伝えています。ヨブの証しは後の世代に啓示を与えました。この啓示は人々に対し、完全で正しくありさえすれば、神を畏れて悪を避けることができると教えています。つまり、神を畏れて悪を避けさえすれば、神に対する鳴り響くような力強い証しをすることができる、そして神に対する鳴り響くような力強い証しをするだけで、その人は決してサタンに支配されず、神の導きと加護のもとで生きることができる、そうして初めて真に救われるということを教えているのです。救いを求める人はみな、ヨブの人格と、彼が人生において追い求めたものを見習うべきです。ヨブがその生涯をどう生きたか、試練の中でどう振る舞ったかは、神を畏れて悪を避ける道を追求するすべての人にとって、大切な宝であるのです。
ヨブの証しが神に慰めをもたらす
いまここで、ヨブは愛すべき人間だとわたしが言ったなら、あなたがたはその意味を理解することができず、なぜわたしがこうしたことを語ってきたのか、その背後にある感情も把握できないかもしれません。しかし、あなたがたがヨブとまったく同じ試練、あるいはそれに似た試練を経験し、逆境に直面し、神があなたがたのために自ら用意した試練を通り、その試みのただ中にあって自分のすべてを捧げ、屈辱と困難に耐え、それによってサタンに勝利して神への証しをする日を待ちなさい。そうすれば、わたしが語るこれらの言葉の意味がよくわかるはずです。そのときあなたは、自分はヨブよりはるかに劣ると思い、ヨブは愛すべき人間であり、見習うべき人物だと感じるでしょう。そのときになれば、ヨブが語ったこれらの古典的な言葉がいまの時代に生きる堕落した人間にとってどれほど重要か、またヨブの成し遂げたことが今日の人々にとってどれほど達成困難かがわかるでしょう。それが難しいと感じるなら、神がどれほど心配して不安になるか、そのような人々を獲得するために神がどれほどの代価を払ったか、そして人間のために神がしたこと、および費やしたものがいかに尊いかを理解するでしょう。ここまでの話を聞いて、ヨブに対する正確な理解と正しい評価が得られたでしょうか。あなたがたの目から見て、ヨブは真に完全で正しく、神を畏れて悪を避ける人だったでしょうか。ほとんどの人がはいと答えるに違いないと、わたしは信じています。ヨブが行なったこと、および示したことの事実は、人間にもサタンにも否定できないことだからです。それらのことは、サタンに対するヨブの勝利を最も力強く証明しています。その証明はヨブにおいて生み出され、神に受け入れられた最初の証しです。そのため、ヨブがサタンの試みに勝利して神に証しを行なったとき、神はヨブに希望を見出し、神の心はヨブによって慰められました。創造のときからヨブの時代に至るまで、神が慰めとは何かを実感し、人間によって慰められるとはどのようなことかを知ったのは、これが最初だったのです。このとき初めて、神は自分のためになされた真の証しを見て自分のものにしたのです。
ヨブの証し、そしてヨブに関する様々な側面の記録を聞いたいま、大半の人が目の前の道について計画をもてると信じています。そしてまた、不安と恐怖で満ちている大半の人が心身ともにゆっくりと穏やかになり、少しずつ心安らかになり始めると信じています……。
次の箇所もヨブに関する記録です。読み続けていきましょう。
4.ヨブは耳で神のことを聞く
ヨブ記 9:11 見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない。
ヨブ記 23:8-9 見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。
ヨブ記 42:2-6 わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。「無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか」。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。「聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ」。わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。
神がヨブに自身を現わさなくても、ヨブは神の主権を信じた
これらの言葉の趣旨は何でしょうか。ここにある事実が含まれていることに気づいた人はいるでしょうか。まず、ヨブはどのようにして神がいることを知ったのでしょうか。そして、天地と万物が神によって支配されていることをどのようにして知ったのでしょうか。これら二つの疑問に答える一節があります。「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。この言葉から、ヨブはその目で神を見たというよりも、言い伝えから神のことを知っていたということがわかります。こうした状況のもと、ヨブは神に従う道を歩み始め、その後、神が自分の生活の中に、そして万物の中に存在することを確信したのです。ここに否定できない一つの事実があります。その事実とは何でしょうか。神を畏れて悪を避ける道に従えたにもかかわらず、ヨブは神を見たことがなかったのです。この点において、ヨブも今日の人間と同じだったのではないでしょうか。ヨブは神を見たことがありませんでしたが、その含意は、ヨブは神について聞いてはいても、神がどこにいるのか、どのような存在か、何をしているのかは知らなかったということです。これらはみな主観的要因であり、客観的に言えば、ヨブは神に従っていたものの、神はヨブの前に現われたことがなく、語ったこともないのです。これは事実ではないでしょうか。神はヨブに語りかけたことも、何らかの命令を下したこともありませんが、ヨブは万物の中に、そして自分の耳で聞いた伝説の中に神の存在を見、神の主権を目の当たりにしており、それから神を畏れて悪を避ける生活を始めました。ヨブが神に従うようになった起源と過程はそのようなものです。しかし、ヨブがどれほど神を畏れて悪を避けても、どれほど自分の高潔さを守っても、神がヨブの前に現われることはありませんでした。次の箇所を読みましょう。ヨブは「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない」(ヨブ記 9:11)と言いました。この言葉が言わんとしているのは、ヨブは自分の周りに神がいるのを感じたかもしれないし、感じなかったかもしれないが、とにかく一度も神を見ていないということです。神が自分の前を通ったり、行動したり、人を導いたりするのを想像したことはあっても、それを知っていたわけでは決してありません。神は人間が予想しないときに来ます。神がいつ、どこで自分のもとに来るのか、人にはわかりません。人には神が見えないからです。そのようなわけで、人間にとって、神は自分から隠れている存在なのです。
神が自分から隠れていても、神に対するヨブの信仰は揺るがない
次の聖句でヨブはこう言っています。「見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない」(ヨブ記 23:8-9)。この記述から、ヨブの経験の中で、神がずっと隠れていたことがわかります。神が公然とヨブの前に現われることはなく、ヨブに言葉を語ることもなかったのですが、ヨブは心の中で神の存在を確信していました。神は自分の前を歩いている、あるいは自分のそばで行動している、そして自分に神は見えないけれども、自分の横にいて自分にまつわる一切のことを支配していると信じていました。ヨブは神を見たことがないものの、自分の信仰に忠実であり続けることができました。これは他の誰にもできなかったことです。なぜ他の人たちにはそれができなかったのでしょうか。それは、神がヨブに語ることも彼の前に現われることもなかったからであり、ヨブが本当に信じていたのでなければ、そうし続けることも、神を畏れて悪を避ける道を固く守ることもできなかったでしょう。そうではありませんか。ここに書かれているヨブの言葉を読んで、あなたはどう感じますか。ヨブの完全さと正しさ、そして神の前での義は真実で、神による過大評価ではないと思いますか。神はヨブを他の人たちと同じように扱い、ヨブの前に現われたり彼に語ったりすることはありませんでしたが、それでもヨブは自分の高潔さを固く守り、神の主権を信じ、さらには神に背いたかもしれないという恐れからしばしば燔祭の捧げ物をし、神の前で祈ったのです。神を見たことがないまま畏れることができたという事実の中に、ヨブが肯定的なものをどれほど愛したか、ヨブの信仰がいかに堅く本物であったかを見て取ることができます。神が自分から隠れているからといって、ヨブは神の存在を否定せず、また神を見たことがないからといって、神への信仰を失ったり神を捨てたりすることもありませんでした。それどころか、万物を支配する神の隠れた働きの中で神の存在を認識し、神の主権と力を感じたのです。神が隠れているからといって、ヨブは正しさを捨てず、また神が一度も自分の前に現われたことがないからといって、神を畏れて悪を避ける道を捨てることもありませんでした。ヨブは神が公然と自分の前に現われ、その存在を証明してほしいと願ったことはありませんでした。万物における神の主権をすでに見ており、他の人が得ていない祝福と恵みを自分は得たと信じていたからです。神はヨブの前から隠れたままでしたが、神に対するヨブの信仰は決して揺るぎませんでした。そのようなわけで、ヨブは他の人々にはないもの、つまり神からの承認と祝福を得たのです。
ヨブは神の名を称え、祝福や災いのことは考えない
ヨブに関する聖書の物語の中で、語られていない事実が一つあります。それが今日のテーマです。ヨブは神を見たこともなければ、自分の耳で神の言葉を聞いたこともありませんが、心の中に神の居場所がありました。神に対するヨブの態度はどのようなものだったのでしょうか。それは先ほど触れたように、「ヤーウェのみ名はほむべきかな」というものでした。ヨブは神の名を無条件に、状況に関係なく、理屈抜きに称えました。ヨブは自分の心を神に捧げ、それが神に支配されるようにしました。ヨブの思考、決定、そして心の中の計画はどれも神に明らかにされ、神から隠されることはありませんでした。ヨブが心の中で神に敵対することはありませんでした。また、神が自分のために何かをするよう、あるいは何かを与えてくれるよう願ったこともなく、自分は神を崇拝しているから何かを与えられるはずだという、途方もない願望を抱くこともありませんでした。神に取り引きを持ちかけることも、願い事や要求をすることもありませんでした。ヨブが神の名を称えたのは、万物を支配する神の偉大な力と権威のためであり、祝福を得たかどうか、災いに遭ったかどうかに左右されるものではありませんでした。神が人々に祝福をもたらすか、それとも災いをもたらすかに関係なく、神の力と権威は不変であり、ゆえにその人の状況に関係なく神の名は称えられるべきだとヨブは信じていました。人が神に祝福されるのは神の主権のためであり、人に災いが降りかかるのもまた、神の主権のためなのです。神の力と権威は人間に関する一切のことを支配し采配します。人間の運命が流転するのは神の力と権威の現われであり、人がどう見るかにかかわらず、神の名は称えられなければなりません。それが、自らの人生においてヨブが経験し、悟ったことです。ヨブの考えと行ないはすべて神の耳に届き、明らかにされ、重要なものと見なされました。神はヨブのこの認識と、ヨブがそのような心をもつことを大切に思いました。ヨブの心は絶えず神の命令を待っており、そして時間や場所に関係なく、あらゆるところで自分に何が起ころうとも、そのすべてを歓迎しました。ヨブが神に何かを要求することはなく、神から来るすべての采配を待ち、受け入れ、それに向き合い、従うことを自分に課しました。ヨブはそれを自分の本分だと信じていましたが、それこそ神がヨブに望んでいたものです。ヨブは神を見たことがなく、神が言葉を語ったり、命令を発したり、教えを与えたり、何かについて指示したりするのを聞いたこともありません。今日の言葉で言えば、真理に関する啓き、導き、あるいは施しを一切与えられていなかったヨブがそのような認識をもち、そうした姿勢をとることができたのは、神にとって尊いことでした。そしてヨブがそうしたことを示しただけでも神にとっては十分であり、またヨブの証しは神の称賛を受けて大事にされました。ヨブは神を見たことがなく、神の教えを直接聞いたこともありませんが、神にとってヨブの心とヨブ自身は、神の前で難しい理論を説き、豪語し、いけにえを捧げることについて語れるだけで、神に関する真の認識を得たことがなく、心から神を畏れたことのない人々よりもはるかに尊かったのです。ヨブの心は純粋で神から隠されておらず、ヨブの人間性は正直で優しく、そしてヨブは正義と肯定的なものを愛したからです。そのような心と人間性を持ち合わせた人だけが神の道に従うことができ、神を畏れて悪を避けることができます。そのような人は神の主権、および神の権威と力を見ることができ、神の主権と采配に従うことができます。そのような人だけが神の名を真に称えることができるのです。なぜなら、その人は神が祝福を与えるか、それとも災いをもたらすかを見ておらず、すべては神の手で支配されていること、また人間が思い煩うのは愚かさ、無知、理不尽さ、神が万物に対する主権を握っていることへの疑い、そして神を畏れないことのしるしだと知っていたからです。ヨブの認識はまさに神が望むものでした。では、ヨブはあなたがたよりも神に関する素晴らしい理論的な認識をもっていたでしょうか。当時における神の働きと発言はごくわずかなので、神に関する認識を獲得するのは容易なことではありませんでした。ヨブがそうしたことを成し遂げたのは決してただ事ではありません。彼は神の働きを経験しておらず、神が語るのを聞いておらず、神の顔も見ていないのですから。ヨブが神に対してそうした態度をとれたのは、彼の人間性と個人的な追求の賜物であり、いずれも今日の人々にはないものです。ゆえに当時、神は「彼のように全く、かつ正しい者は地上にいない」と言ったのです。その時代、神はすでにヨブをそのように評価しており、そうした結論に至りました。では今日、それはどのくらい真実味を増したでしょうか。
神は人から隠れているが、万物における神の業から、人は十分神を知ることができる
ヨブは神の顔を見たこともなければ神の語る言葉を聞いたこともなく、ましてや神の働きを直接経験したこともありません。それでいながら、神に対するヨブの畏れと、試練の際の彼の証しは誰もが目にしており、神に愛され、喜ばれ、称えられました。人々はヨブをうらやみ、高く評価し、それ以上に讃美を捧げました。ヨブの人生は偉大なものでも非凡なものでもありません。普通の人と同じく平凡な生活を送り、日の出とともに仕事へ出かけ、日が落ちると帰宅して休息しました。他の人たちと違っていたのは、平凡だった数十年間の人生において、神の道に関する洞察を得て、神の偉大な力と主権を認識して知るようになったことであり、それは他の人にはなし得ないことでした。ヨブは他のどの平凡な人よりも賢かったわけではなく、ひときわ強いいのちを持っていたわけでもありません。ましてや目に見えない特殊な能力をもっていたということはないのです。しかし、ヨブには正直で、心優しく、正しく、公正と義、そして肯定的なものを愛するという性格がありました。これらはいずれも大多数の普通の人間にはないものです。ヨブは愛と憎しみを区別し、正義感をもち、断固とした不屈の精神があり、自分の考えの隅々まで細かな注意を払っていました。そのため、地上において平凡な日々を過ごしながら、神がなした驚異的な物事をすべて目の当たりにし、神の偉大さ、聖さ、義を見、人間に対する神の気遣い、恵み深さ、加護を知り、至高の神の高貴さと主権を目にすることができたのです。普通の人が誰もなし得なかったこれらのことをヨブがなし得た第一の理由は、ヨブが純粋な心をもち、ヨブの心が神に属しており、創造主により導かれていたことです。第二の理由はヨブの追求です。つまりヨブは、非の打ち所のない完全な人になること、天の旨と一致し、神に愛され、悪を避ける人になることを追い求めたのです。ヨブは神を見ることも神の言葉を聞くこともできませんでしたが、これらのものを獲得し、追い求めました。また神を見たことがないものの、神がどのように万物を支配するかがわかるようになっており、神がそうする際の知恵を理解していました。そして神の語る言葉を聞いたことがないものの、人に報いたり人から取り上げたりするという業はすべて神に由来することを知っていました。ヨブの人生の年月は普通の人のそれと何ら変わらなかったのですが、自分の人生の平凡さのせいで、万物に対する神の主権の認識や、神を畏れて悪を避ける道が影響を受けることは許しませんでした。ヨブの目から見て、万物の法則は神の業で満ちており、神の主権は人の生活のいたるところで見られるものでした。ヨブは神を見たことがないものの、神の業が至るところにあることを認識でき、また地上で平凡な時間を過ごす間、自分の生活のあらゆるところで神の並外れた不思議な業を見てそれに気づくことができ、神の不思議な采配を知ることができました。神が隠れていたこと、そして無言であったことは、ヨブが神の業を認識する上で障害とはならず、万物に対する神の主権を知る上で影響を及ぼすこともありませんでした。ヨブの人生は、万物の中に隠されている神の主権と采配の認識を、日常生活の中で得てゆくというものでした。また、ヨブは日々の生活の中で、神の心の声と言葉を聞いて理解しましたが、神は万物のあいだで無言を貫きつつも、万物の法則を司ることで自身の心の声と言葉を表わします。それにより、人々がヨブと同じ人間性をもち、ヨブと同じように追求すれば、ヨブと同じ認識と知識を得ることができ、また万物に対する神の主権についても、ヨブと同じ理解と認識を獲得できることがわかります。神はヨブの前に姿を見せず、彼に語りかけることもありませんでしたが、ヨブは完全で正しい人になり、神を畏れて悪を避けることができました。つまり、神が目の前に現われたり語りかけたりすることがなくても、万物における神の業、そして万物に対する神の主権だけでも、人間が神の存在と力と権威に気づくのに十分であり、また神の力と権威は人間に対し、神を畏れて悪を避ける道に従わせるのに十分なのです。ヨブのような普通の人間が神を畏れて悪を避けられるのであれば、神に従う普通の人であれば誰でも同じことが可能なはずです。これは論理的推論に聞こえるかもしれませんが、物事の法則と矛盾しません。とは言え、事実が予想と一致したことはありません。神を畏れて悪を避けることは、ヨブだけが到達できる領域のように思えるでしょう。「神を畏れて悪を避ける」と聞けば、それはヨブだけに可能なことだと人は考えます。あたかも神を畏れて悪を避ける道にはヨブの名のラベルが貼られており、他の人には無関係であるかのようです。その理由ははっきりしています。正直で心優しく、正しく、公平と義、そして肯定的なものを愛する性格をもっていたのはヨブだけであり、そのためヨブだけが神を畏れて悪を避ける道に従うことができたからです。この意味はみなさん理解したはずです。つまり、正直で心優しく、正しく、公平と義、そして肯定的なものを愛する人間性をもつ人がいないので、誰一人神を畏れて悪を避けることができず、ゆえに人々は神の喜びを得られず、試練の際に固く立つことができないのです。これはまた、ヨブという例外を除き、すべての人間がいまだサタンに束縛され、サタンの罠に陥ったままであり、みなサタンに断罪され、攻撃され、虐げられていることを意味しています。サタンはそのような人たちを呑み込もうとしており、彼らには自由がなく、サタンに囚われた虜なのです。
人の心が神に敵対していれば、どうして神を畏れ悪を避けることができようか
今日の人々がヨブと同じ人間性をもっていないのであれば、彼らの本性実質と、神に対する姿勢はどのようなものでしょうか。神を畏れているでしょうか。悪を避けているでしょうか。神を畏れず悪を避けることもない人々は、次の三文字で表わすことができます。すなわち「神の敵」です。あなたがたは頻繁にこの言葉を口にしますが、本当の意味を理解していません。「神の敵」という言葉は実質を伴うものです。それは、神が人間を敵とみなすということ言っているのではなく、人間が神を敵と見なすという意味です。第一に、神を信じ始めるとき、目的も動機も野心もない人がいるでしょうか。一部の人は神の存在を信じ、神が存在するのを見たかもしれませんが、神に対する彼らの信仰にはやはり動機があり、神を信じる究極の目的は祝福と自分の望むものを得ることです。人々は人生経験を重ねる中で、「自分は神のために家族も仕事も捨てた。神はわたしに何を与えてくれただろうか。数え上げて確かめてみなければ。最近、自分は何か祝福を受け取っただろうか。この間ずっと多くを捧げ、走り回り、多くの苦しみを受けてきた。神はその報いとして何か約束して下さっただろうか。神はわたしの善行を憶えているだろうか。わたしの最後はどうなるだろう。神の祝福を受け取れるだろうか……」とたびたび考えます。誰もが心の中で常にそのような計算をし、自分の動機、野心、そして取引を好む心構えにかなう要求を神にします。つまり、人間は心の中で常に神を試み、神に関する計画を絶えず練り、自分個人の結末のために絶えず神に対して弁護を行ない、神からの弁明を引き出そうとし、自分のほしいものを神が与えられるかどうかを見ているのです。人間は神を追い求める一方で、神を神として扱いません。神と取引しようといつも試み、絶えず神に要求しつつ、一つ与えられればその次は十を取れるよう、事あるごとに神に強要さえします。人間は神と取引しようと試みながら、同時に神と口論もし、中には試練が降りかかったり、ある種の状況に置かれたりするとしばしば弱くなり、働きの際に消極的になって怠けるようになり、神に対する不満で一杯になる人さえいます。人は神を信じ始めた時から、神を豊穣の角や万能ナイフのように考え、自分は神に対する最大の債権者だと見なしてきました。それはあたかも、神から祝福と約束を得ようとするのが自分の当然の権利と義務であり、神には人を守って労り、施す責任があると言わんばかりです。神を信じるすべての人にとって、「神を信じる」ということの基本的な理解はそのようなものであり、それが神への信仰の概念に関する最も根深い認識なのです。人間の本性実質からその主観的な追求に至るまで、神への畏れに関係することは一切ありません。人が神を信じる目的は、神を礼拝することとは何ら関係ないのです。つまり人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは、考えもしないし理解もしないのです。このような状況を考えれば、人間の本質は明らかです。その本質とは何ですか。人間の心は邪悪で、陰険で、ずる賢く、公正と義、および肯定的なものを愛さず、卑劣で貪欲だということです。人間はこれ以上神に心を近づけることができません。神に心を捧げてなどいないのです。神が人の本当の心を見たことはなく、人間に礼拝されたこともまったくありません。神がいかに大きな代価を払っても、どれほど働きを行なっても、どれほど人間に与えても、人間は盲目のままで、そのすべてに対してまったく無関心です。人間が自分の心を神に捧げたことはなく、自分の心の面倒を見て、自分で決断したいと思うばかりです。それが意味するのは、人間は神を畏れて悪を避ける道に従うことも、神の主権と采配に従うことも、神を神として礼拝することも望んでいないということです。それが今日における人間の状態です。ここで再度ヨブに目を向けましょう。まず何より、ヨブは神と取引をしたでしょうか。神を畏れて悪を避ける道を固く守ろうとしたことに、何か下心があったでしょうか。当時、神は誰かに来たるべき結末について話していたでしょうか。当時、神は誰にも結末に関する約束をしたことがなく、ヨブはこれを背景として神を畏れて悪を避けたのです。今日の人々はヨブと比較になるでしょうか。違いがあまりに大きく、ヨブと同じ土俵に上れる者はいません。ヨブには神に関する認識がさほどありませんでしたが、自分の心を神に明け渡し、その心は神のものとなっていました。ヨブは決して神と取り引きせず、神に対して途方もない要望や要求をすることもありませんでした。むしろ、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ」と信じていました。ヨブはその長い人生で神を畏れて悪を避ける道を固く守りましたが、そこから理解し、獲得したのはそのようなものでした。同様に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」という言葉に示されている成果もヨブは獲得しました。この二つの文章は、ヨブが人生経験を重ねる中で神に服従する態度をとった結果、目の当たりにしたこと、知るに至ったことであり、またサタンによる試みのさなか、ヨブが勝利を収めた最も強力な武器、固く立って神への証しをする土台でもありました。いまの時点で、あなたがたはヨブを愛すべき人間だと思っていますか。そのような人になりたいと思いますか。サタンの試みを経験しなければならないことに恐れを感じますか。ヨブと同じ試練を降らせてくださいと神に祈る決意がありますか。間違いなく、大半の人はそのようなことを求めて祈ることなどしないでしょう。そうであれば、あなたがたの信仰が惨めなまでに小さいことは明らかです。つまり、あなたがたの信仰はヨブのそれと比べて触れる価値すらありません。あなたがたは神の敵であり、神を畏れず、固く立って神に証しすることができず、サタンの攻撃、断罪、そして試みに勝利することもできません。それでどうして、神の約束を受け取る資格があるでしょう。ヨブの物語を聞き、人間を救う神の意図と、人間の救いの意味を理解したいま、ヨブと同じ試練を受け入れる信仰があなたがたにありますか。神を畏れて悪を避ける道に従う決意を、少しはすべきではありませんか。
神の試練に疑念を抱いてはならない
ヨブの試練が終わり、彼から証しを受けた神は、ヨブのような人々の一団、あるいは複数の集団を得ようと決心しましたが、サタンが神と賭けをし、ヨブを試み、攻撃し、そして虐待した手段を使って他の誰かを攻撃したり、虐待したりすることを二度と許すまいと決意しました。弱く愚かで無知な人間に対してそのようなことを繰り返すことを、神はサタンに許しませんでした。サタンがヨブを試みただけで十分だったのです。サタンが思いのままに人々を虐げることを許さなかったのは、神の憐れみでした。神にとって、ヨブがサタンの試みと虐待に苦しんだだけでもうたくさんだったのです。サタンがそのようなことをするのを神は二度と許しませんでした。神に従う人々の命、そして彼らのすべては神によって支配され、指揮されており、神の選民を思いのままに操る権利はサタンにないからです。この点ははっきりと理解しなければいけません。神は人の弱さを気遣い、人の愚かさや無知に理解を示します。人が完全に救われるために、神は人をサタンの手に渡さなければなりませんが、人がサタンにもてあそばれて虐げられるのを、神が喜んで見ることはありません。人が常に苦しむのを、神は見たいと思っていません。人間は神によって創られたのであり、人間に関するすべてのことが神によって支配され、采配されるのは、完全に自然で理にかなったことです。それは神の責任であり、神が万物を支配する権威なのです。神はサタンに対し、思いのままに人間を虐げたり、ひどい扱いをしたり、様々な手段で人間を迷わせたりすることを許さず、またそれ以上に、人間に対する神の主権を犯すこと、神が万物を支配する法則を踏みにじって壊すことを許さず、人類を経営して救う神の偉大な働きについては言うまでもありません。神が救いたいと望む人、神に証しをすることができる人は、六千年にわたる神の経営計画の中心であり、その結晶であると同時に、六千年にわたる働きで神が払った努力の代価でもあります。そのような人たちをどうしてたやすくサタンに渡せるでしょうか。
人々は神の試練をしばしば懸念し、恐れながら、常にサタンの罠の中で生き、サタンに攻撃され、虐げられる危険な領域で生活しています。それでも人々は恐れを知らず、動揺することもありません。これはどういうことでしょうか。神に対する人間の信仰は、その人が見える物事に限られます。人間に対する神の愛と気遣い、あるいは神の優しさや配慮に対してまったく感謝することがありません。神の試練、裁き、刑罰、威厳、怒りに対するわずかな不安と恐れを別にして、人間は神の善意をほんの少しも理解したことがないのです。人々は試練と聞いただけで、神にあたかも隠れた動機があると感じており、また神が自分たちに対して何をするかに気づかないまま、神は邪悪な意図を抱いていると信じる人さえいます。そのため、人々は神の主権と采配に従うと叫びながら、同時にあの手この手で人間に対する神の主権と采配に反対するのです。気をつけなければ神によって間違った方向へ導かれてしまう、自分の運命をしっかり握っていなければ、自分がもつものをすべて神に取り上げられてしまい、人生すら終わってしまうかもしれないと信じているからです。人間はサタンの陣営にいますが、サタンに虐げられることを恐れず、またサタンに虐げられていながら、サタンに囚われることを恐れません。人間は神の救いを受け入れると言い続けながら神を信頼せず、神がサタンの爪から人間を真に救うことも信じません。人がヨブのように神の指揮と采配に従うことができ、自分の存在全体を神の手に委ねることができれば、ヨブと同じ結末を迎えられる、つまり神の祝福を受け取れるのではないでしょうか。神の支配を受け入れ、それに従うことができれば、失うものなどあるでしょうか。ゆえに忠告しますが、あなたがたは自分の行ないに注意し、自分に降りかかろうとしているすべてのことに気をつけるべきです。軽はずみに、あるいは衝動的になることなく、神、および神があなたに用意した人や物事を、自分の激情や天性によって、または自分の想像や観念に従って扱ってはなりません。自分の行ないに気をつけ、さらに祈って求め、神の怒りを招いてはいけません。それを憶えておきなさい。
次に、試練の後におけるヨブの様子を検討しましょう。
5.試練の後のヨブ
ヨブ記 42:7-9 ヤーウェはこれらの言葉をヨブに語られた後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、ヤーウェが彼らに命じられたようにしたので、ヤーウェはヨブの祈りを受けいれられた。
ヨブ記 42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、ヤーウェはヨブの繁栄をもとにかえし、そしてヤーウェはヨブのすべての財産を二倍に増された。
ヨブ記 42:12 ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。
ヨブ記 42:17 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。
神を畏れて悪を避ける人は神に大切にされ、愚かな人は卑しく見られる
ヨブ記第42章7-9節において、神はヨブを「わたしのしもべ」と呼んでいます。「しもべ」という言葉でヨブに触れたことの中に、神の心におけるヨブの重要性が表わされています。神がヨブをさらに立派な名前で呼ぶことはありませんでしたが、この呼び名は神の心におけるヨブの重要性と何の関係もありませんでした。ここで言う「しもべ」はヨブに対する神のあだ名であり、「わたしのしもべヨブ」と何度も述べたことは、ヨブにどれだけ喜んでいたかを示しています。「しもべ」という言葉の裏にある意味を神は語りませんでしたが、聖書のこの一節における神の言葉から、神による「しもべ」という言葉の定義がわかります。神はまず、テマン人エリパズに言いました。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。神が人々に対し、自分は試練を受けた後のヨブの言動をすべて受け入れたと公に語り、ヨブの言動がどれも正確で正しいと公に確認したのは、この言葉が最初です。神はエリパズと他の人々に怒りを覚えました。なぜなら、彼らの話は間違っていて馬鹿げており、またヨブのように、自分たちの生活の中で神の出現を見ることも、神が語る言葉を聞くこともできず、それでいてヨブは神のことを正確に認識していた反面、彼らは盲目的に神のことを推理し、何をするにも神の旨に背き、神の忍耐を試したからです。結果として、神はヨブの言動をすべて受け入れると同時に、他の人々に対して怒りを募らせました。彼らの中に、神を畏れることの現実が見られないばかりか、彼らの言葉の中に神への畏れを聞くことが一切なかったからです。そのため、神は彼らに次の要求をしました。「それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない」。この一節で、神はエリパズと他の人々に対し、罪を贖う何かをするよう言っています。彼らの愚行はヤーウェ神に対する罪であり、それゆえ自分の過ちを償うために燔祭の捧げ物をする必要があったのです。燔祭の捧げ物はしばしば神に対して行なわれましたが、ここでの燔祭の捧げ物は、ヨブに行なわれたという点で普通ではありません。ヨブは試練の中で神に証しをしたので、神に受け入れられました。一方ヨブの友人たちは、ヨブの試練の中で暴かれました。つまり、愚行のために神に断罪され、神の怒りを招き、またヨブの前に燔祭の捧げ物をすることで、神から懲罰を受けなければならなかったのです。その後ヨブは、彼らが自分たちに対する神の懲罰と怒りを一掃するよう祈りました。神の目的は彼らを恥じ入らせることでした。彼らが神を畏れて悪を避けることをしない人であり、ヨブの高潔さを断罪したためです。ある側面から見ると、神は彼らの行ないを受け入れないと言う一方、ヨブを大いに受け入れ、彼に喜びました。また別の側面から見れば、神は彼らに対し、人は神に受け入れられることで神の前で引き上げられ、また愚行のせいで神に憎まれ、神に背くのであって、そのような人は神の目から見て低く卑しい者であると言っています。これが神による二種類の人間の定義であり、これら二種類の人間に対する神の姿勢であり、これら二種類の人間の価値や地位に関する神の明確な説明です。神はヨブを自分のしもべと呼びましたが、神の目から見てこのしもべは愛されており、他の人々のために祈り、彼らの過ちを赦す権威を与えられていました。このしもべは神と直接話すことができ、神の前に出ることができ、その地位は他の誰よりも高く栄誉あるものでした。これが神の言う「しもべ」の意味です。ヨブは神を畏れて悪を避けたためにこの特別な栄誉を与えられました。また他の人々が神にしもべと呼ばれなかったのは、神を畏れて悪を避けることをしなかったからです。はっきり異なる神の二つの態度は、二種類の人々に対する神の態度を示しています。つまり、神を畏れて悪を避ける者は神に受け入れられ、神の目から見て尊いものと見なされますが、愚かな者たちは神を畏れず、悪を避けることができず、神の好意を受け取れません。そのような人はしばしば神に憎まれ、断罪され、神の目から見て卑しい者なのです。
神はヨブに権威を授ける
ヨブは友人たちのために祈りましたが、その祈りのために、神は後でヨブの友人たちに対し、その愚かさに応じた扱いをしませんでした。つまり、彼らを懲罰することも報復することもしなかったのです。それはなぜでしょうか。神のしもべであるヨブの祈りが神の耳に届いていたからです。神はヨブの祈りを受け入れたので、彼らを赦したのです。ここから何がわかりますか。神は誰かを祝福するとき、多くの報いを与えますが、それは物質的なものに限定されません。その人に権威も与え、他の人のために祈る資格を与えるとともに、彼らの過ちを忘れて赦します。神はその人の祈りを聞くからです。これこそまさに、神がヨブに与えた権威です。彼らへの断罪をやめるようにというヨブの祈りを通じ、ヤーウェ神はこれら愚かな人たちを恥じ入らせました。これはもちろん、エリパズたちに対する神の特別な懲罰だったのです。
ヨブは再び神に祝福され、二度とサタンに責められることがなくなった
ヤーウェ神の発言の中に、「あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかった」という言葉があります。ヨブが述べたこととは何だったのでしょうか。これは以前に話し合った内容であり、またヨブ記の中でヨブが語ったとされる何ページにもわたる言葉でもあります。これらのページに記された言葉の中で、ヨブは神について一度も不平や疑念を述べていません。ただ結果を待っていたのです。このように待っていたことがヨブの従順の態度であり、その結果、またヨブが神に述べた言葉の結果、ヨブは神に受け入れられました。ヨブが試練に耐え、困難に苦しんでいたとき、神はヨブの傍らにいて、たとえ彼の苦しみが神の存在によって軽くなることはなくても、神は見たいものを見、聞きたいことを聞きました。ヨブの言動の一つひとつが神の目と耳に届いたのです。神は聞き、そして見ました。これは事実です。当時、神に対するヨブの認識と、心の中の思いは、今日の人々がもつそれに比べて実のところ具体的ではありませんが、時代背景の中、神はヨブの言ったことをすべて認めました。なぜなら、ヨブの態度、心の中の思い、そしてヨブが表わしたものや示したものは神の要求を満たしていたからです。試練に晒されている間、ヨブが心の中で考えたこと、行なおうと決意したことは神に結果を示すものとなり、それは神にとって満足できるものでした。その後、神はヨブの試練を取り除き、ヨブは自身の困難から抜け出て、試練は終わり、二度とヨブに降りかかりませんでした。ヨブはすでに試練に晒され、その中で固く立ち、サタンを完全に打ち負かしたので、神は彼にふさわしい祝福を与えました。ヨブ記42章10節、および12節に記されているように、ヨブは再び祝福を受け、それは最初の祝福を上回るものでした。このとき、サタンはヨブのもとを去っており、再び何かを話したり、何かをしたりすることはありませんでした。このとき以降、ヨブはサタンに邪魔されることも、攻撃されることも二度となくなり、また神によるヨブへの祝福をサタンが非難することもありませんでした。
ヨブは人生の後半を神の祝福の中で過ごす
当時における神の祝福は、羊、牛、らくだ、および物質的な資産などに限られてはいたものの、神がヨブに授けたいと心の中で思った祝福はそれらをはるかに越えるものでした。当時、神がヨブに与えたいと思っていた永遠の約束がどのようなものであるか、記録は残っているでしょうか。神はヨブを祝福する中で、彼の最後に言及することはなく、また神の心に占めるヨブの重要性や立場が何であれ、要するに、神は慎重に考慮して祝福を与えたのです。神はヨブの最後を告げませんでした。これは何を意味するでしょうか。当時、神の計画は人間の最後を宣言するところまでに達しておらず、またその計画は神の働きの最終段階に入っていなかったので、神が人間の最後に触れることはなく、人間に対して物質的な祝福を授けただけなのです。これが意味するのは、ヨブの後半生は神の祝福の中で過ぎゆき、そのためヨブは他の人と違う存在になったということです。しかし、ヨブも彼らと同じく年齢を重ね、普通の人と同じようにこの世に別れを告げる日を迎えました。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ」(ヨブ記 42:17)と書かれているとおりです。この「日満ちて死んだ」とはどのような意味でしょうか。神が人々の終わりを宣言する以前の時代に、神はヨブの寿命を決めました。そしてヨブがその年齢に達したとき、神はヨブをこの世から自然に去らせました。ヨブの二度目の祝福から彼の死に至るまでの間、神はさらなる苦難を加えることはしませんでした。ヨブの死は神にとって自然なものであり、また必要なものでもあり、極めて普通のことであって、裁きでも断罪でもありません。生前のヨブは神を崇拝して畏れました。つまり、ヨブが死後にどのような最後を迎えるかについて、神は何も言わず、何の言及もしなかったのです。神には自らの言動に関する強い平衡感覚があり、その言動の内容と原則は自身の働きの段階と、自身が働いている期間に沿うものです。ヨブのような人間について、神は心の中でどのような最後を思い描いていたでしょうか。何らかの決定に達したでしょうか。もちろん達しました。人間がそれを知らなかっただけのことです。神はそれを人間に知らせたいとも、知らせようとも思わなかったのです。このように、表面的に見れば、ヨブは寿命を迎えて死にました。それがヨブの生涯でした。
ヨブが一生を生きた価値
ヨブは価値ある人生を送ったでしょうか。その価値はどこにあったでしょうか。ヨブは価値ある人生を送ったと言われるのはなぜでしょうか。人間にとって、ヨブの価値とは何でしょうか。人間の観点から言うと、サタンと世の人々の前で鳴り響くような証しを神に行なったという点で、ヨブは神が救いたいと願う人間を代表していました。ヨブは被造物が尽くすべき本分を尽くし、神が救いたいと願うすべての人の見本となり、その模範として振る舞いました。そうすることで、神にすがってサタンに打ち勝つことは間違いなく可能だと、人々がわかるようにしたのです。神にとってのヨブの価値は何だったでしょうか。神にとってヨブの人生の価値は、神を畏れ、崇拝し、神の業を証しし、神の業を称え、神に慰めと喜びをもたらせたことにありました。そして、ヨブは死を迎える前に試練を経験してサタンに勝利し、サタンと世の人々の前で鳴り響くような証しを神に行ない、それによって神は人類の中にあって栄光を得て、神の心は慰められ、熱意に満ちた神の心に一つの結末と希望を見せたのですが、それもまた神にとってのヨブの人生の価値でした。ヨブの証しは、人類を経営する神の働きの中で、人が固く立って神の証しをできることの前例となり、また人が神に代わってサタンを辱められることの前例となりました。これがヨブの人生の価値ではないでしょうか。ヨブは神の心に慰めをもたらし、栄光を得ることの喜びを前もって味わわせるとともに、神の経営計画が素晴らしいスタートを切れるようにしました。このとき以降、ヨブの名は、神が栄光を得たことの象徴となり、サタンに対する人類の勝利の象徴となりました。ヨブがその生涯において生きた物事、そしてサタンに対する勝利は神によって永遠に尊ばれ、またヨブの完全さ、正しさ、神に対する畏れは後の時代に尊ばれ、模範となるでしょう。ヨブは傷のない輝く真珠のように、神に尊ばれるでしょう。そして人間にとっても、ヨブは尊ばれるに値する人なのです。
では次に、律法の時代における神の働きを検討しましょう。
D.律法の時代における規則
十戒
祭壇を建てる際の原則
しもべの扱いに関する規則
盗みと賠償に関する規則
安息年と三つの祭日を守る
安息日に関する規則
捧げ物に関する規則
燔祭の捧げ物
穀物の捧げ物
和解の捧げ物
罪の捧げ物
罪過の捧げ物
祭司による捧げ物に関する規則(アロンと彼の息子たちが守るよう命じられたもの)
祭司による燔祭の捧げ物
祭司による穀物の捧げ物
祭司による罪の捧げ物
祭司による罪過の捧げ物
祭司による和解の捧げ物
祭司が捧げ物を食べることに関する規則
清い動物と不浄の動物(食べてよい動物とそうでない動物)
産後の女性の清めに関する規則
らい病検査の基準
らい病から回復した人に関する規則
感染病にかかった家の清めに関する規則
長血を煩っている女性に関する規則
年に一度遵守すべき贖罪の日
牛と羊を殺す際の規則
異邦人による忌むべき習慣(近親相姦など)の禁止
民が従うべき規則(「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」。〔レビ記 19:2〕)
モレクに子どもを捧げた者の処刑
姦淫の罪を犯した者への懲罰に関する規則
祭司が守るべき規則(日々の振る舞いに関する規則、聖なるものの消費に関する規則、捧げ物に関する規則など)
遵守すべき祭日(安息日、過越祭、聖霊降臨祭、贖罪の日など)
その他の規則(ともし火、聖年、土地の贖い、誓願、十分の一の捧げ物など)
律法の時代の規則は、神が全人類を導く本物の証拠である
律法の時代の規則と原則をみなさん読みましたね。これらの規則は広範囲にわたるものですか。まず十戒が記され、続いて祭壇の建て方などが記されています。その後、安息日を守って三つの祭日を遵守することが続き、そして捧げ物に関する規則と続きます。何種類の捧げ物があるかわかったでしょうか。燔祭の捧げ物、穀物の捧げ物、和解の捧げ物、罪の捧げ物などがあります。その後、祭司による捧げ物の規則が続き、その中には祭司による燔祭の捧げ物や穀物の捧げ物などが含まれます。八つめの規則は祭司が捧げ物を食べることに関するものです。続いて人々が生活において守るべき規則が示されています。生活の多方面に関する規定がありますが、その中には食べてよいものと食べてはならないもの、出産後の女性の清め、らい病から回復した人に関する規定などが含まれます。これらの規則の中で、神は病についても語っており、羊や牛を殺す規則さえあります。羊や牛は神によって創られたものであり、神の言う通りに殺さなければなりません。神の言葉には間違いなく根拠があり、神が命じた通りに行なうのが正しいことは確かで、人間にとって必ず益となるのです。安息日や過越の祭など、遵守すべき祝祭と規則もありますが、神はそれらのすべてについても語っています。最後に書かれている規則、その他の規則を検討しましょう。ともし火、聖年、土地の贖い、誓願、十分の一の捧げ物などです。これらの規則は広範囲にわたるものでしょうか。まずは人々の捧げ物について触れられており、それから盗みと賠償、そして安息日の遵守と続いており、生活の細部の一つひとつが含まれています。つまり、神は自身の経営計画の正式な働きを始めたとき、人間が従うべき数多くの規則を定めたのです。それらの規則は、人間が地上で普通の生活を送れるようにするためのものであり、人間の普通の生活は神および神の導きから切り離せないものです。神は最初に、どのように祭壇を作って建てるべきかを教えました。その後、人間に捧げ物をするよう指示し、人間はどのように生きるべきかを定めました。つまり、生活の中で何に注意を払い、何に従い、何をすべきで何をすべきでないかを定めたのです。神が人間のために定めたものは包括的で、それらの習慣、規則、原則により、神は人間の振る舞い方に基準を設け、人間の生活を導き、神の律法の手ほどきを行ない、そして人間が神の祭壇の前に出るよう導き、神が人間のために造った、秩序と規則と節度を兼ね備えたすべてのものの中での生活において、人間を指導したのです。神はまずこれらの簡単な規則と原則を用い、人間に対して様々な制限を設けましたが、そうすることで、人間が地上において神を礼拝する正常な生活、正常な人間の生活を送れるようにしました。それが六千年にわたる神の経営計画の始まりの具体的な内容です。それらの規則や決まりは極めて多岐にわたり、律法の時代における神による人間の導きの具体例であって、律法の時代の前に来た人間が受け入れ、従うべきもの、律法の時代に神が行なった働きの記録、そして全人類に対する神の指導と導きの確かな証拠なのです。
人類は永遠に神の教えと施しから離れられない
これらの規則から、自身の働き、経営、そして人類に対する神の態度は真剣で、良心的で、厳格で、責任感に溢れていることがわかります。神は人類のあいだにおいて、自らの働きの段階に応じ、なすべき働きをまったく矛盾なく行ない、人類に語るべき言葉を少しの誤りも抜けもなく語り、人間が神の指導から離れられないことを理解させ、神のすべての言動が人類にとってどれほど重要であるかを示します。次の時代の人間がどのようであるかを問わず、最初のとき、すなわち律法の時代に、神はこれらの簡単な働きをしたのです。神にとって、人々がその時代にもっていた神、世界、そして人間に対する概念は抽象的かつ不明瞭なものであり、意識的な考えや意図がいくらかあったものの、それらはすべて不明確で間違っており、そのため人類には神の教えと施しが不可欠だったのです。初期の人類は何も知らなかったため、神は最も表面的かつ基本的な生存の原則と、生きる上で必要な規則から教え始め、それらの物事を人間の心に少しずつ吹き込む必要がありました。言葉によるこれらの規則を通じ、そしてこれらの規制を通じ、神のことを徐々に認識させ、神の指導、そして神と人間との関係についての基本的な概念を徐々に理解させたのです。その効果が発揮されて初めて、神は後に行なう働きを少しずつ実行することができるのです。したがって、律法の時代におけるこれらの規則と神の働きは、人間を救う働きの基盤であり、神の経営計画における働きの第一段階なのです。律法の時代の働きに先立ち、神はアダム、エバ、そして彼らの子孫に語りかけましたが、その際の命令や教えは、人間一人ひとりに対して発せられるような系統的なものでも具体的なものでもなく、書き留められたものでもなく、規則になってもいませんでした。なぜなら、神の計画は当時そこまで進んではいなかったからです。神が人間をこの段階へ導いて初めて、神は律法の時代におけるこれらの規則を語り始めることができ、人間にそれを実行させ始めることができたのです。それは必要な過程であり、その結果は必然的なものでした。これらの簡潔な習慣と規則は、神の経営の働きの各段階と、神の経営計画において表わされた神の知恵を人間に示しています。自分に証しを行なう人々の集団、自分と同じ思いをもつ人々の集団を得るべく、どのような内容と手段を用いて始めるべきか、どのような手段を用いて継続すべきか、そしてどのような手段を用いて終わらせるべきかを、神は知っています。神は人間の内側にあるものを知っており、人間に何が欠けているかを知っています。神は自分が何を施さなければならないか、いかに人間を導くべきかを知っており、また同じく、人間が何をすべきで何をすべきでないかも知っています。人間はあやつり人形のようなものです。たとえ神の旨をまったく理解していなくても、神の経営の働きによって一歩一歩導かれるしかなかったのです。自分が行なおうとすることについて、神は一点の曇りもなく理解していました。神の心は明瞭で、そこには鮮明な計画がありました。そして自身の段階と計画に従い、自ら行なおうと望む働きを実行し、表面的な働きから深遠な働きへと進めていきました。神は後にどのような働きを行なおうとしているかを示すことはありませんでしたが、その後の働きは自身の計画に厳密に従う形で続けられ、進行しました。それは神が所有するものと神そのものの明示であり、神の権威でもありました。神が自身の経営計画におけるどの段階の働きを行なっているかにかかわらず、神の性質と本質は神自身を表わしています。それは絶対に真実です。時代や働きの段階を問わず、神がどのような人を愛するか、どのような人を憎むか、さらには神の性質、そして神が所有するものと神そのものは決して変わりません。律法の時代の働きで神が確立したこれらの規則と原則は、今日の人々にはとても簡素で表面的に思われるかもしれず、また理解しやすく簡単に達成できますが、そこにはやはり神の知恵があり、神の性質、そして神が所有するものと神そのものが存在します。というのも、見るからに簡素なそれらの規則の中に、人類に対する神の責任と配慮、および神の考えの素晴らしい本質が表現されており、それにより、神が万物を統治し、万物が神の手で支配されていることを、人は真に理解することができるからです。人間がどれほど知識を得ても、どれほど多くの理論や奥義を理解しても、神にとって、これらの事柄のうち、自身の施しと人類に対する指導に代われるものは一つもありません。人間が神の導きと直接の働きから離れることは永遠にできないのです。それが人間と神との切り離せない関係です。神があなたに戒めを与えるか、規則を与えるか、あるいは神の旨を理解するための真理を与えるかどうかを問わず、また神が何を行なうかにかかわらず、神の目的は人間を美しい明日へと導くことです。神が発する言葉と神が行なう働きは、神の本質の一側面、神の性質と知恵の一側面を示すものであり、神の経営計画における不可欠の一段階です。これを見落としてはいけません。神が行なうすべてのことの中に、神の旨があります。神は誤解を恐れることも、神に対する人間の観念や考えに不安を感じることもありません。どんな人や出来事や物事に縛られることもなく、自身の経営計画に沿って働きを行ない、自身の経営を続けるのです。
きょうはここまで。また次回お会いしましょう。
2013年11月9日