唯一無二の神自身 I.

神の権威(1)

過去数回の交わりは、神の働き、神の性質、そして神自身に関するものでした。これらの交わりを聞いて、神の性質についての理解と認識を得たと思いますか。どの程度の理解と認識を得ましたか。それを数え上げることはできますか。これらの交わりによって、神に関するより深い理解を得られましたか。その理解は、神に関する真の認識だと言えるでしょうか。神に関するその認識と理解は、神の本質全体、神が所有するものと神そのもの全体についての認識だと言えるでしょうか。いいえ、明らかに言えません。なぜなら、それらの交わりは神の性質の一部、神が所有するものと神そのものの一部に関する認識をもたらしただけで、全体に関する認識をもたらしたわけではないからです。それらの交わりによって、あなたがたは神が過去に行なった働きの一部を認識することができ、神の性質、神が所有するものと神そのもの、そして神が行なってきたすべての業の裏にある取り組み方と考えを目の当たりにしました。しかし、それは文字や言葉による神の理解に過ぎず、あなたがたは心の中で、そのうちどれくらいが現実かを確信できないでいます。それらの事柄に関する人々の理解に現実性があるかどうかは、おもに何によって決まりますか。それは、実体験の中で神の言葉と性質をどの程度経験したか、その実体験の中でどれほど多くのものを見て認識できたかによって決まります。「過去数回の交わりで、神が行なった業、神の考え、そしてさらに人類に対する神の姿勢、神の業の根底にあるもの、神の業の原則が理解できた。そのおかげで神の性質を理解し、神をすっかり知るようになった」などと言ったことがある人はいますか。そうした発言は正しいですか。明らかに間違っています。そうした発言は間違いだとわたしが言うのはなぜですか。神の性質、および神が所有するものと神そのものは、神が行なってきた業、神が語ってきた言葉の中に表わされます。神が行なってきた業と語ってきた言葉を通じ、人は神が所有するものと神そのものを見ることができます。しかしそのことは、人はそうした働きと言葉により、神の性質の一部、神が所有するものと神そのものの一部しか理解できないということに過ぎません。神をより深く理解したいのであれば、神の言葉と働きをさらに経験しなければいけません。神の言葉や働きの一部を経験しても、人は神を部分的にしか理解できませんが、その部分的な理解は神の真の性質を表わすものでしょうか。神の本質を表わすものでしょうか。もちろん、それは神の真の性質、神の本質を表わすものであり、そこに疑いの余地はありません。時間や場所を問わず、また神がどのような方法で働きを行なうか、どのような姿で人の前に現われるか、どのような形で自身の旨を表わすかを問わず、神が明らかにする物事、表わす物事はすべて、神自身、神の本質、そして神が所有するものと神そのものを示すものです。神は、神が所有するものと神そのものを使い、神の真の身分において働きを行ないます。これは紛れもない事実です。しかし現在、人々は神の言葉を通じて、あるいは自分が説教で聞いたことを通じて、神を部分的に理解しているに過ぎません。そのため、そうした理解は単なる理論的な認識でしかないと、ある程度は言えるでしょう。あなたの現状を鑑みると、自分が見聞きした神、あるいは心の中で認識している神についての理解や認識を確かめられるのは、一人ひとりが実体験の中でそれらを経験し、少しずつ知るようになる場合に限られます。わたしがこうした言葉をあなたがたに伝えていなければ、自分の経験だけを通じて神を真に認識することができるでしょうか。残念ながら、それは極めて難しいでしょう。と言うのも、どのように経験すべきかを知るには、まず神の言葉がなければならないからです。神の言葉を飲み食いした分、人は実際に経験することができます。神の言葉は道しるべであり、人の経験の指針です。簡単に言えば、実際の経験をいくらか積んだ人にとって、過去数回の交わりは真理をより深く理解し、神をいっそう現実的に理解する手助けとなります。しかし、実際の経験がまったくない人、経験し始めたばかりの人、現実に触れ始めたばかりの人にとって、これは大きな試験なのです。

過去数回の交わりのおもな内容は、「神の性質、神の働き、そして神自身」に関するものでした。わたしが話したことの主要な部分、核心となる部分から、あなたがたは何を理解しましたか。これらの交わりを通じ、働きを行なった神、それらの性質を示した神が、万物を支配する唯一無二の神自身であることを認識できましたか。認識できたと言うなら、そのように結論づけた根拠は何ですか。そのように結論づける中で、いくつの側面を考慮に入れましたか。答えられる人はいますか。過去数回の交わりがあなたがたに深い感銘を与え、神を認識する心の新たな出発点になったことをわたしは知っていますが、それは素晴らしいことです。しかし、あなたがたは以前と比べ、神のことを飛躍的に理解するようになりましたが、神の身分に関するあなたがたの定義は、律法の時代のヤーウェ神、恵みの時代の主イエス、そして神の国の時代の全能神に留まっています。つまり、あなたがたは「神の性質、神の働き、そして神自身」に関する過去数回の交わりによって、かつて神が述べた言葉、神が行なった働き、そして神によって示された神が所有するものと神そのものについて、ある程度の認識を得られましたが、「神」という言葉を正しく定義することも、正確に位置づけることもできないのです。また、神自身の身分と地位、つまり万物と全宇宙の中での神の地位に関する、真実かつ正確な位置づけと認識もありません。なぜなら、神自身と神の性質に関する前回までの交わりの内容はすべて、聖書に記されている、神が以前に表わしたことや明らかにしたことを基にしているからです。しかし、神による人類の経営と救いにおいて、あるいはそれ以外において明らかにされ表わされる、神が所有するものと神そのものを、人が見つけ出すのは困難です。したがって、神が過去に行なった働きで明らかにされた、神が所有するものと神そのものを、たとえあなたがたが理解していたとしても、神の身分と地位に関するあなたがたの定義は、「唯一無二の神、万物を支配している神」から依然として程遠いものであり、「創造主」のそれとも異なっています。過去数回の交わりで、人間にどうして神の考えを知ることができるというのかと、誰もが同じように感じたはずです。それを知っている人がいたとしたら、その人は間違いなく神です。と言うのも、神自身の考えを知り、神が行なう一切のことの根底にある基礎と取り組み方を知っているのは、他ならぬ神自身だけだからです。神の身分をこのようにして認識することは合理的かつ論理的なように思われますが、神の性質と働きから、それは本当に人間の働きではなく神自身の働きであり、神に代わって人間が行なうことのできない働きだと誰にわかるでしょうか。この働きが、神の本質と力をもつ者の支配下にあることを、誰が理解できるでしょうか。つまり、あなたがたはどのような特徴や本質を通じて、神が神自身であり、神の身分をもち、万物を支配する存在であることを認識するのですか。それについて考えたことはありますか。考えたことがなければ、それは一つの事実を証明しています。つまり、過去数回の交わりは、神が働きを行なった歴史の断章、その働きにおける神の取り組み方、その際に神が表したこと、そして明示したことについて、いくばくかの認識をあなたがたに与えただけである、ということです。そのような認識はあなたがた一人ひとりに対し、これら二段階の働きを行なったのは、あなたがたが信じて付き従っている神自身、あなたがたが常に付き従わなければならない者だということを、疑問の余地なく認識させましたが、あなたがたは依然として、それが創世以来ずっと存在しており、永遠に存在する神であることを認識できず、また全人類を導き支配する神であることも認識できていません。あなたがたがこの問題について考えたことがないのは確かです。ヤーウェであれ、主イエスであれ、それが自分たちの付き従うべき神であるのみならず、人類を指揮し、人類の運命を支配し、天地万物を支配している唯一無二の神自身であることを、本質や明示のどの側面を通じて認識することができますか。自分たちが信じて付き従っている存在が、万物を支配している神自身であることを、あなたがたはどの経路を通じて認識しますか。自分たちが信じている神と、人類の運命を支配している神自身とを、あなたがたはどの経路を通じて結びつけますか。自分たちの信じている神が唯一無二の神自身であり、天地万物の中にいる神であることを、何によって認識することができますか。次節ではこの問題を解明します。

あなたがたが考えたことのない問題、あるいは考えもつかないような問題が、神を知る上で最も鍵を握る問題、人間にとって計り知れない真理を探求する問題である可能性が大いにあります。あなたがたにそのような問題が投げかけられ、向き合って選択することを求められた際、自分の愚かさと無知のため、あるいは自分の経験があまりに表面的で神に関する真の認識がないため、それを完全に解決することができなければ、その問題は神を信じる道において最も大きな障害、最も大きな妨げになります。そうしたわけで、わたしはこの件について、あなたがたと交わる必要が大いにあると感じています。いまの自分の問題が何か、あなたがたはわかっていますか。わたしが話している問題について、あなたがたははっきり理解していますか。それらはあなたがたが直面する問題ですか。あなたがたが理解していない問題ですか。いままで思いついたことのない問題ですか。自分にとって重要な問題ですか。それは本当に問題ですか。この件はあなたがたに大きな混乱をもたらす源であり、自分の信じる神についてあなたがたが真に認識していないこと、神を真剣に捉えていないことを示しています。中には「それが神であることを知っているので、わたしは付き従っている。なぜなら、その言葉は神を表わしているからだ。それだけで十分だ。その上どのような証明が必要なのか。もちろん、神を疑う必要はないし、神を試してはいけない。神の本質や神自身の身分を疑う必要などないはずだ」と言う人がいます。あなたがたがこのように考えるかどうかを問わず、わたしがあなたがたに以上の質問を投げかけたのは、神に関してあなたがたを混乱させるためでも、あなたがたに神を試させるためでもなく、ましてや神の身分と本質について疑念を抱かせるためでもありません。わたしがそうしたのは、むしろ神の本質についてより深く理解すること、神の地位をより強く確信することをあなたがたに促し、神に付き従うすべての人が心の中で神を唯一の存在とし、また創造主として、万物を支配する存在として、唯一無二の神自身としての神の本来の地位が、あらゆる被造物の心に再び確立されるようにするためです。それはまた、これからお話しするテーマでもあります。

それでは聖書の以下の聖句を読みましょう。

1.言葉を用いて万物を創造する神

創世記 1:3-5 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

創世記 1:6-7 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。

創世記 1:9-11 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。

創世記 1:14-15 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。

創世記 1:20-21 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。

創世記 1:24-25 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。

第一の日、神の権威により、人類の昼と夜が生まれ、確立した

では、最初の聖句を検討しましょう。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である」(創世記 1:3-5)。この聖句では、創世における神の最初の業、そして昼と夜がある、神の過ごした最初の日が描かれています。しかし、この日は特別でした。神は万物のために光を用意し始め、さらに光と闇を分けたのです。この日、神は言葉を語り始めましたが、神の言葉と権威は隣り合わせに存在していました。神の権威が万物の前に示され、言葉によって神の力が万物に及びました。この日以降、神の言葉、権威、そして力により、万物が創造されて確立し、また神の言葉、権威、そして力のおかげで、それらのものが機能し始めました。神が「光あれ」と言ったので、そこには光がありました。神は何らかの仕事に取りかかったのではなく、神の言葉によって光が現われたのです。それは、神が昼と呼ぶ光であり、現在も人間が生存するのに必要な光です。神が命じたために、その本質と価値は変わったことがなく、それらが消えたこともありません。光の存在は神の権威と力を示し、創造主の存在を宣言するとともに、その身分と地位を繰り返し確認するものです。その光は形なきものでも架空のものでもなく、人間が見ることのできる実際の光です。そのとき、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり」という空虚な世界に、最初の形あるものが生み出されました。それは神の口から発せられた言葉によって生み出され、神の権威と発した言葉により、万物創造の最初のものとして現われました。その直後、神は光と闇が分かれるように命じました……。神の言葉によってすべてが変化し、完了したのです……。神はその光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼びました。そのとき、神が創造しようとしている世界に最初の夜と朝が創られ、神はそれを第一の日と言いました。この日は創造主による万物創造の初日であり、創造の始まりであり、自ら創ったこの世界に創造主の権威と力が示された最初のときでした。

これらの言葉により、人間は神の権威と神の言葉の権威、そして神の力を見ることができます。このような力をもつのは神だけであり、ゆえに神だけがこのような権威をもっています。そして神はこのような権威をもっているので、神だけがこのような力をもっています。人間や物がこうした権威と力をもつことはできるでしょうか。何か思いつきますか。神以外に、被造物やそうでないものが、このような権威をもっているでしょうか。書籍や出版物の中で、そうした物の例を見たことはありますか。誰かが天地と万物を創ったという記録はありますか。そのようなことは他のどの書籍や記録にも書かれていません。それらは当然ながら、神の壮大な創世に関する、権威と力がある唯一の言葉であり、聖書の中に記されています。つまりそれらの言葉は、神だけがもつ権威と身分を語っているのです。こうした権威や力は、神独自の身分を象徴するものだと言えるでしょうか。それらは神だけがもつものと言えるでしょうか。神だけがこのような権威と力をもっていることに、疑いの余地はありません。被造物であれ、そうでないものであれ、この権威と力をもつことはできず、それに取って代わることもできません。それは唯一無二の神自身がもつ特性の一つですか。あなたがたはそれを目の当たりにしたことがありますか。人々はこれらの言葉のおかげで、神が独自の権威と力をもち、至高の身分と地位にあることを、迅速かつ明瞭に理解することができます。以上の内容から、自分の信じている神が唯一無二の神自身であると言えますか。

第二の日、神は自身の権威によって水と大空を創り、最も基本的な人間の生存空間を創った

次に二番目の聖句を読みましょう。「神はまた言われた、『水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ』。そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた」(創世記 1:6-7)。神が「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」と述べた後、どのような変化が起きましたか。聖書には、「神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた」と記されています。神が言葉を語ってこの業を行なった結果は、どのようなものでしたか。その答えは、聖句の中の「そのようになった」という箇所にあります。

これら二つの短い一節には壮大な出来事が記録され、素晴らしい光景が描かれています。その光景とは、神が水を支配し、人間が存在できる空間を創造したという、途方もない業の様子です……。

この場面では、水と大空が一瞬にして神の眼前に現われ、神の言葉の権威によって互いに離れ、神が命じた通り「上」と「下」に分かれました。つまり、神が創った大空は下にある水を覆っただけでなく、その上にある水を支えていたのです……。ここで人間は、創造主が水を移動させ、水に命令し、大空を創るという神の権威の力と壮麗な光景を、息を呑み、茫然と見つめるより他ありません。神は自身の言葉と力、そして権威により、偉大な業を再度成し遂げたのです。これは創造主の権威の力ではありませんか。ここで神が行なった業を、聖句を使って説明しましょう。神は言葉を語り、その言葉のために、上下の水の間に天がありました。同時に、神によるこれらの言葉のために、この空間で途方もない変化が生じましたが、それは普通の意味の変化ではなく、無が有になるという、一種の置き換えでした。それは創造主の考えから生まれ、創造主が語った言葉のために無から有になったのです。さらに、その後は創造主のためにしっかり存在し続け、創造主の考えに従って移動し、変化し、再び新しくなりました。この一節では、創世における創造主の二番目の業が描かれていますが、それもまた創造主の権威と力を表現するものであり、創造主による前例のない業なのです。この日は、創造主が世界を創造してから二日目であり、この日も創造主にとって素晴らしい日となりました。光の中を歩み、大空をもたらし、水を整え支配するとともに、自身の業、力、そして権威が、この新しい日に駆使されたのです……。

神が言葉を語る以前、水の間に大空はありましたか。もちろんありません。それでは、神が「水の間におおぞらがあって」と語った後はどうですか。神が意図したものが現われました。つまり、水の間に大空が生まれるとともに、神が「水と水とを分けよ」と述べたために、水が二つに分かれたのです。このようにして、神がもつ権威と力の結果、神の言葉に従って二つの新しいもの、新たに創られた二つのものが万物の間に出現しました。これら二つの新しいものが出現したことについて、あなたがたはどう感じますか。創造主の力の偉大さを感じますか。創造主がもつ唯一無二のとてつもない力を感じますか。こうした力の偉大さは神の権威に由来するものであり、また神の権威は神自身を表わすものであって、神自身だけがもつ特性でもあります。

あなたがたはこの一節から、神が唯一無二であることを再度深く感じ取れましたか。しかし、それではまったく足りません。創造主の権威と力はそれをはるかに超えるものなのです。神が唯一無二であるのは、いかなる被造物にもない本質があるからだけではなく、神の権威と力が並外れており、無限であり、すべてに優り、すべての上に立つからです。そして何より、神の権威と、神が所有するものと神そのものはいのちを創り、奇跡を生み出し、壮大かつ並外れた一瞬一瞬を引き起こすからです。それと同時に、神は自ら創ったいのちを支配し、自ら創った奇跡と一瞬一瞬を統治することができるのです。

第三の日、神の言葉によって地と海が生まれ、神の権威によって世界がいのちで満たされた

次に、創世記1章9-11節の最初の文章を検討しましょう。「神はまた言われた、『天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ』」。神が「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」とひとこと述べた後、どのような変化が生じましたか。また光と大空以外に、その空間には何がありましたか。聖書には「神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた」と記されています。つまり、その空間にはいまや地と海があり、その地と海が分けられたのです。神が命令するとこれらの新しいものが出現し、「そのようになった」のです。聖書では、神がそうする中で多忙だったと述べられていますか。肉体労働をしている神が描かれていますか。では、神はそれをどのように行ないましたか。神はどのようにして、これらの新しいものが生み出されるようにしたのですか。明らかに、神は言葉を用いてそのすべてを成し遂げ、それら一切のものを創ったのです。

上記の三つの聖句から、三つの大きな出来事が発生したことがわかりました。その三つの大きな出来事は神の言葉によって生じたものであり、またそれらの出来事が神の眼前で次々と実現されたのも、神の言葉によるものです。したがって、「神が言葉を述べると、その言葉は現実となる。神が命令すると、それは確かなものとなる」というのは、無意味な言葉ではないことがわかります。神のこの本質は、神の考えが生まれた瞬間に確認されるのであり、神が口をひらいて語ったとき、神の本質は完全に反映されるのです。

次に、この一節の最後の文章を検討しましょう。「神はまた言われた、『地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ』。そのようになった」。神が語っている間に、それらすべてのものが神の考えに従って存在するようになりました。そして一瞬のうちに、様々な繊細な生物が土からよろよろと芽生え、土を払う間もなく互いに身体を振って挨拶を交わし合い、この世界にうなずき微笑み合ったのです。これらの生物は自分たちにいのちを授けた創造主に感謝し、自分たちが万物の一部であること、そして互いにいのちを捧げて創造主の権威を示すことを世界に告げました。神の言葉が発せられる中、地は青々と緑豊かになり、人に用いられる様々な植物が地表から芽吹くとともに、山々と平野には木や森が生い茂りました……。いのちの痕跡すらなかったこの不毛の地が、豊富な草木で急速に覆われ、緑で一杯になったのです……。草と土の香りが空中に広がり、様々な植物が回りゆく風を一緒になって呼吸し、成長の過程を始めました。同時に、神の言葉と神の考えに従い、すべての植物が永遠の生命周期を始め、成長し、花を咲かせ、実を結び、そして繁殖するようになりました。植物はそれぞれのいのちの過程に厳密に従い、万物の中でそれぞれの役割を果たし始めました……。すべての植物は創造主の言葉のために生まれ、生きていました。それらは創造主による施しと糧を絶え間なく受け取るとともに、創造主の権威と力を示すため、地のあらゆる場所で粘り強く生き延び、創造主から授けられたいのちの力をいつまでも伝えるのです……。

創造主のいのち、考え、権威は並外れたものであり、ゆえにその言葉が発せられると、最終的な結果は「そのようになった」となります。明らかに、神は自らの手で働きを行なう必要がないのです。神は自らの考えと言葉だけを用いて命じ、このようにして物事が成し遂げます。この日、神は水を一ヵ所に集め、乾いた地を出現させた後、地から草木を芽生えさせました。すると種をもつ草が育ち、実を結ぶ樹木が生えました。そして神は植物を一つひとつ種類ごとに分け、それぞれが独自の種をもつようにさせました。これらはすべて神の考えと命令に従って実現されたことであり、その一つひとつが次々とこの新しい世界に出現したのです。

神は働きを始める以前から、成し遂げようと意図しているもののイメージを心にもち、神がそうしたイメージを実現しようとした時は、その内容について神が口をひらいて語り、神の権威と力によって万物が変化し始める時でもありました。神がどのようにそれを行なったか、どのように権威を行使したかにかかわらず、すべては神の計画に従い、神の言葉によって一歩ずつ実現され、また神の言葉と権威のために、天地の間で変化が一つひとつ生じます。こうした変化はどれも創造主の権威と、創造主のいのちの力の非凡さと偉大さを示すものでした。神の考えは単純な発想でも、空虚なイメージでもなく、生命力と並外れた活力をもつ権威であり、万物の変化、復活、再生、滅びを引き起こす力です。このため、万物は神の考えによって機能すると同時に、神の発する言葉によって実現されるのです……。

万物が出現するのに先立ち、神の心の中では完全な計画がはるか昔に形を成しており、新たな世界が実現されていました。第三の日、地にはありとあらゆる植物が出現したものの、神にはこの世界の創造をここで止める理由がありませんでした。つまり、神は言葉を発し続け、引き続き新しいものの創造を成し遂げるつもりだったのです。神は言葉と命令を発し、権威を行使し、力を示すとともに、これから創る万物と人類のために用意しようと計画していたすべてのものを用意したのです……。

第四の日、神は再び権威を振るい、人類の季節、日、年が生まれた

創造主は言葉を用いて自身の計画を実現させ、そのようにして神の計画の最初の三日間が過ぎました。この三日間、神は忙しい様子も疲れている様子も見せず、逆に自身の計画における最初の三日間を満喫し、世界を劇的に変化させる偉業を成し遂げました。神の眼前にはまったく新しい世界があり、神の心に秘められていた美しい光景が、ようやく神の言葉において一つひとつ明らかになったのです。新しいものが一つひとつ出現する様子は、まるで赤ん坊が誕生するかのようであり、それまで心にあった光景がいまや生を受けたことに、神は喜びを覚えました。この時、神は心の中でわずかに満足したものの、自身の計画は始まったばかりでした。一瞬のうちに新しい日が訪れましたが、創造主の計画の次なる一ページはどのようなものでしたか。神は何と言いましたか。どのように自身の権威を行使しましたか。一方、どのような新しいものがこの新たな世界に出現しましたか。創造主の導きに従い、ここで神による万物創造の第四の日を検討しますが、その日もまた新たな始まりの日でした。もちろん、創造主にとってはその日も間違いなく素晴らしい日であり、現代人にとって最も重要な日となりました。当然ながら、その日は計り知れない価値をもつ日でした。その日はどのように素晴らしく、どのように重要で、なぜ計り知れない価値があったのでしょうか。まずは創造主の発した言葉に耳を傾けましょう……。

「神はまた言われた、『天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ』」(創世記 1:14-15)。乾いた地とそこに生きる植物を創った後、神は再び自身の権威を行使し、それを被造物に示しました。神にとって、そのような業はすでに行なったことと同じくらい簡単なものでした。なぜなら、神にはそうした力があり、自身の言葉に忠実であって、その言葉は実現されるからです。神は天に光が現われるよう命じ、その光は空で輝き地を照らしただけでなく、昼と夜、季節、そして年月の目印にもなりました。このように、神が言葉を発すると、神が成し遂げようと望む業はすべて神の意思通りに、神の指定する方法で実現されたのです。

天の光は空にあって光を放つ物体であり、空と地と海を照らすことができます。光は神の命じる周期と頻度で回転し、様々な時間帯に地を照らしますが、このように、光が回転する周期によって地の東西に昼と夜が生み出されるのです。また、光は昼と夜の目印であるのみならず、祭日など人間にとって重要な日も、光の様々な周期によって示されます。また光は、神が定めた春夏秋冬の四季に付随し、それを補足するものとしても最適です。さらに、それと調和する形で、人類の節気と日と年についても、光はそれらを定期的かつ正確に示す目印として機能しました。神が創った光によって節気と日と年は分割され、人類は農業が始まって初めてそれを目にして理解し始めたわけですが、実のところ、今日の人間が理解している節気と日と年は、はるか昔、神による万物創造の四日目に始まったものです。そして人間が経験する春夏秋冬の移り変わりも、はるか昔、神による万物創造の四日目に始まったものなのです。神が創った光によって、人間は定期的に、正確に、かつ明確に昼夜を区別し、日数を数え、歳月をはっきり辿ることができるようになりました。(満月の日が一ヵ月の終わりの日であり、人はそこから光が新たな周期に入ったことを知りました。また半月の日は一ヵ月の半分が経過したことを示し、人はそれによって新たな節気が始まりつつあることを知り、いくつの昼夜で一つの節気になるのか、いくつの節気で一つの季節になるのか、そしていくつの季節で一年になるのかを推測することができました。そのすべてが極めて定期的に生じたのです。)そうしたわけで、人間は光の周期により、節気と日と年を簡単に辿ることができたのです。それ以降、光の周期によって生み出される昼夜と季節の規則正しい移り変わりの中で、人類と万物は無意識のうちに生活しました。これが、第四の日に創造主が光を創ったことの意義です。同様に、創造主によるこの業の目的と意義は、依然として神の権威や力と切り離すことができませんでした。そうしたわけで、神によって創られた光と、それが程なくして人間にもたらした価値もまた、創造主が権威を行使した際の完璧な手腕を示すものだったのです。

人類が出現する以前のこの新たな世界において、創造主はまもなく創ることになる新しいいのちのために、昼と夜、大空、陸と海、様々な草木、光、季節、日々、そして年をすでに用意していました。創造主の権威と力は、自ら創った新しいものの一つひとつに現われており、神の言葉とその実現は寸分違わず、時をおかず、同時に生じました。これら新しいものの出現と誕生は、いずれも創造主の権威と力を証明するものでした。創造主が言うことはその通りの意味であり、創造主が言うことは成し遂げられ、創造主が成し遂げることは永続します。この事実が過去に変わったことはなく、現在においても変わらず、そして永遠に変わることはありません。これらの聖句を改めて読んで、新鮮に感じられますか。新しい内容や新発見はありましたか。あったとしたら、それは創造主の業があなたがたの心を動かし、その権威と力を知る上での方向性を示し、創造主に関する認識の扉を開くとともに、創造主の業と権威がそれらの言葉にいのちを授けたからです。そうしたわけで、人間はこれらの言葉の中に、創造主の権威が現実的かつ鮮明に表わされるのを目にし、創造主の至高の地位を真に目の当たりにし、創造主の権威と力の非凡さを見たのです。

創造主の権威と力は次々と奇跡を生み出します。創造主は人間の注意を引きつけ、また創造主による権威の行使から生まれた驚くべき業に対し、人間は目を見張らずにはいられません。その驚異的な力は次々と喜びをもたらし、人間は目がくらんだまま歓喜に圧倒され、感嘆して息をのみ、畏敬の念を抱いて大喜びします。さらに、人間は目に見えるほど感動し、自身の中に尊敬の念、崇拝の念、そして愛慕の念が生じます。創造主の権威と業は人間の魂に大きな影響を及ぼし、それを清める効果がありますが、何よりも人間の魂を満たします。神の考え、発する言葉、そして権威の明示の一つひとつが、あらゆる物事の中でも傑出したものであり、被造物たる人類が深く理解し、認識する価値のある偉大な事業なのです。創造主の言葉から生まれた被造物を一つひとつ数え上げると、わたしたちの魂は神の力の不思議へと惹かれ、創造主の足跡に従って次の日、すなわち神による万物創造の五日目へと進むのです。

引き続き聖書を一節ずつ読んで、創造主の業をさらに検討しましょう。

第五の日、多種多様ないのちにより、創造主の権威が様々な形で示された

聖書には「神はまた言われた、『水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ』。神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた」(創世記 1:20-21)とあります。神がこの日に水中の生物や空の鳥、つまり様々な魚や鳥を創造し、それらを種類ごとに分類したことを、聖書ははっきり伝えています。このようにして、大地、空、水が神の被造物で一杯になったのです……。

神の言葉が語られるに従い、それぞれ異なる形をした新たないのちが、創造主による言葉の中、瞬時に生まれました。これらの生物は歓喜に飛びはねながら、我先にこの世界へと出現しました……。様々な形や大きさの魚が水中を泳ぎ、様々な種類の貝が砂の中で育つとともに、うろこのある生物、殻をもつ生物、脊椎のない生物などが、大小や長短を問わず、様々な形をとりつつ急速に成長していきました。同じように、様々な海藻類も元気よく成長し始め、各種の水生生物の動作に合わせて揺れ動きつつ、淀んだ水にもそうするように促しました。それはあたかも「さあ踊ろう。友だちも連れておいでよ。もう一人ぼっちになることはないのだから」と言っているようでした。神の創造した様々な生物が水中に現われた瞬間から、それまでずっと静まりかえっていた水の中に、新たな生物の一つひとつが活気を与え、新たな時代をもたらしました……。以降、それらの生物と水は寄り添って共生し、互いに距離を置くことはありませんでした。水はその中の生物のために存在し、そこに棲む一つひとつのいのちを育みました。そしてすべてのいのちは自分たちを育ててくれる水のために存在しました。一つひとつの生物が互いにいのちを与え合うと同時に、創造主による創造の驚異と素晴らしさ、そして創造主の権威がもつ至高の力を同じように証ししたのです……。

海がもはや静かでなくなるにつれ、空にもいのちが溢れ始めました。大小様々な鳥たちが次々と地上から空へ飛び立ったのです。海の生物とは違い、鳥には翼と羽根があり、細長く優雅な身体を覆っていました。その翼を羽ばたかせ、華麗な羽根と、創造主から授けられた特別な機能と能力を誇らしげに披露したのです。鳥は自由に空を飛翔し、天と地の間、草原と森の間を巧みに行き交いました……。鳥は空に愛され、万物に愛されていたのです。鳥はやがて天地を結ぶ存在となり、万物に知らせを伝えるようになります……。鳥はさえずり、嬉しそうに飛び回り、それまで空虚だった世界に喜びと笑い、そして活気をもたらしました……。鳥は澄んだ声で歌うように鳴き、心の言葉を使って、自分たちにいのちを授けてくれた創造主を讃えました。鳥は陽気に踊り、創造主による創造の完璧さと驚異を示すとともに、創造主から授けられた特別ないのちを通じてその権威を証しすることに、自分たちの一生を捧げるのです……。

水中に暮らしているか、あるいは空中に暮らしているかを問わず、これら溢れんばかりの生物は創造主の命令により、異なる生命形態の中で存在していました。それらはまた、創造主の命令により、それぞれの種ごとに群れ集まりました。この法則と規則を変えることは、いかなる被造物であっても不可能でした。それらは創造主によって定められた範囲をあえて超えようとはせず、そうすることもできませんでした。創造主が命じた通りに暮らし、繁殖し、創造主が定めた生涯と法則に厳密に従うとともに、創造主が黙示した命令、創造主が与えた天の命令と訓告を、今日に至るまで意識的に守りました。生物は創造主と独自の方法で語り合い、創造主の意図を理解するようになり、その命令に従いました。創造主の権威から逸脱した生物は存在せず、生物に対する創造主の統治と支配は、その思考の中で行使されました。つまり、言葉が発せられることはなかったものの、創造主に特有の権威が、言語をもたない物言わぬ人類以外の万物を支配したのです。こうした特殊な形で神の権威が行使されたことにより、人間は創造主だけがもつ権威について新たな認識を得て、新たに解釈することを余儀なくされました。この日、創造主の権威が行使されたことで、その独自性が再び示されたことを、ここでみなさんに伝えなければなりません。

次にこの聖句の最後の一文、「神は見て、良しとされた」という文章を検討しましょう。これはどのような意味だと思いますか。この言葉には神の思いが込められています。自ら創った万物が出現し、自らの言葉によってしっかり立ち、徐々に変化し始めるのを神は見ていました。この時、自身の言葉によって創造した様々なものや、自身が成し遂げた様々な業について、神は満足していたでしょうか。その答えは、「神は見て、良しとされた」です。ここから何がわかりますか。「神は見て、良しとされた」というのは、何を示し、何を象徴するものですか。その言葉は、自身が計画したことや命令したことを実現させ、自身が成し遂げようと決めた目的を達成する力と知恵が神にはある、ということを意味しています。一つひとつの作業を完了させた時、神は後悔していましたか。その答えも、「神は見て、良しとされた」です。つまり、神は後悔していなかっただけでなく、むしろ満足していた、ということです。神は後悔していなかったとは、どのような意味ですか。それは、神の計画、力、知恵が完璧であること、そしてこうした完璧さは、神の権威によってしか成し遂げられないことを意味しています。人間が作業を行なう時、その人は神と同じく、それを見て良しとすることができるでしょうか。人間の行なう一切のことが完璧になり得るでしょうか。何かを未来永劫完璧なものにすることはできるでしょうか。人間が言うように、「完璧は有り得ず、より優れているに過ぎない」のであって、人間の行なうことが完璧なものになることはあり得ません。自身が行ない、成し遂げたすべてのことについて、神が良いと判断した場合、神が創造した一切のものは神の言葉によって定められたことになります。つまり、「神は見て、良しとされた」とき、神が創ったすべてのものは永久的な形をもち、種類ごとに分類され、永久不変の位置、目的、機能を与えられたのです。さらに、万物の間におけるそれらの役割と、神による万物の経営の中でそれらが辿る旅路は、すでに神によって定められていたのであり、永遠に変わることがありません。これが、創造主によって万物に与えられた天の法則だったのです。

「神は見て、良しとされた」。簡潔であり、それほど重視されず、往々にして無視されてきたこの言葉は、神がすべての生物に授けた天の法則と天の命令であり、これもまた、創造主の権威をより実践的に、より深く具体化するものです。創造主は自身の言葉によって、得ようと決めたすべてのものを得て、成し遂げようと決めたすべてのことを成し遂げられただけでなく、自ら創造した一切のものをその手中に収め、自身の権威で創ったすべての物を支配することもできました。そしてさらに、すべては系統的かつ規則的でした。万物は神の言葉によって増え、存在し、そして消滅し、またそれ以上に、神の権威によって、神が定めた法則の中に存在していました。そこに例外はなかったのです。この法則は「神はこれを見て、良しとされた」瞬間に始まり、神の経営(救いの)計画のため、それが創造主によって廃止されるまで存続して機能します。創造主に特有の権威は、万物を創造し、万物が現われるように命令する自らの能力にだけ示されるのでなく、万物を支配、統治する能力、万物にいのちと活力を授ける能力、そしてさらに、自身の計画の中で創造する万物が、完璧な形、完璧な生命構造、および完璧な役割で、自ら創った世界に現われ、永遠に存在するようにさせる能力においても示されました。それはまた、創造主の考えがいかなる制約にも縛られず、時間、空間、および地理的条件の制約を受けないことの中にも示されました。創造主に特有の身分も自身の権威と同じく、永遠に変わることがありません。創造主の権威は自身に特有の身分を絶えず表わし、象徴するのであって、創造主の権威と身分は隣り合って永遠に共存するのです。

第六の日、創造主が言葉を発すると、心にあったありとあらゆる生物が次々と現われた

創造主による万物創造の働きは知らぬ間に五日間続き、すぐさま六日目を迎えました。この日もまた新たな始まりの日であり、特別な日でした。それでは、この新しい日の前夜、創造主の計画はどのようなものでしたか。どのような新しい生物を創る予定だったのでしょうか。お聞き下さい、これが創造主の語った言葉です……。

「神はまた言われた、『地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ』。そのようになった。神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた」(創世記 1:24-25)。ここにはどのような生物が含まれていますか。聖書には、「家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」とあります。つまり、この日にありとあらゆる地上の生物が生み出されただけでなく、そのすべてが種類によって分類され、前日と同じく「神は見て、良しとされた」のです。

それまでの五日間のように、創造主は同じ調子で語り、自身の望む生物が誕生し、種類ごとに地上に現われるよう命じました。創造主が自身の権威を行使した時、その言葉に無駄な部分はまったくありませんでした。ゆえに六日目、神が創ろうとしていた生物はどれも指定した時間に出現したのです。創造主が「地は生き物を種類にしたがっていだせ」と言うと、大地はすぐにいのちで一杯になり、ありとあらゆる生物の息づかいが突如として地上に現われたのです……。草に覆われた原野には、頑強な牛が尾を左右に振りながら次々と現われ、鳴き声を上げる羊が群れをなし、馬がいななきながら早駆けを始めました……。静寂に包まれた広大な草原が、一瞬にして生物で溢れかえったのです……。こうした様々な家畜の出現は、静かな草原の美しい光景であり、限りない活気をもたらしました……。家畜は草原の仲間となり、その主となり、互いに依存し合うようになります。さらに家畜は草原を守る存在となり、その草原は家畜の恒久的な住みかとなって、それらが必要とするすべてのものを提供しました。草原は、家畜が生存するのに必要な糧を永遠に与える源だったのです……。

創造主の言葉によって様々な家畜が生まれたのと同じ日、無数の昆虫も次々と出現しました。昆虫はすべての生物の中で最も小さかったものの、その生命力はやはり創造主による驚異的な創造であり、出現が遅すぎたわけでもありませんでした……。小さな翼をばたつかせるものもあれば、ゆっくりと地を這うもの、跳ね回るもの、よろめき歩くもの、高速で移動するもの、逃げ足の速いもの、横向きに歩むもの、高く跳ねるもの、低く跳ねるものもありました……。どの昆虫も自分の住みかを見つけようと走り回り、草の中に分け入るものもあれば、地面に穴を掘ろうとするもの、木に飛び上がるもの、森に潜むものもありました……。昆虫は小さいながらも空腹に耐えることを好まず、すみかを見つけるとすぐ、食物を求めて駆け回りました。草を登って柔らかい葉を食べるもの、泥を口いっぱいにほおばって胃に詰め込み、おいしそうに、楽しそうに食べるもの(昆虫にとっては泥でさえもご馳走だったのです)もあれば、森に隠れているものもありましたが、決して休むことはありませんでした。濃い緑色をした艶のある葉が、昆虫の食料となる汁を提供したからです……。昆虫は満腹した後も活動を止めません。身体こそ小さいものの、大量のエネルギーと無限の活力を備え、すべての被造物の中で最も活発であり、勤勉でもあるのです。昆虫は怠けることも、ゆっくり休むこともありませんでした。空腹が満たされた後も将来のために骨折って働き、明日のため、そして生存のために忙しく駆けずり回ったのです……。昆虫は様々な旋律とリズムをもつバラードを口ずさみ、自分を励ましました。昆虫もまた、草木や土に喜びをもたらし、一日一日、一年一年を特別なものにする存在でした……。昆虫は独自の言語と方法によって、地上のすべての生物に情報を伝えました。そして昆虫独自の生涯を通じ、あらゆる物事に印をつけ、その痕跡を残したのです。昆虫は土や草や森と懇意にしており、それらに生命力と活力をもたらすとともに、あらゆる生物に創造主の訓戒と挨拶を伝えました……。

創造主の視線は自ら創った万物を見渡していましたが、この瞬間、森と山に目が止まって考えが変わりました。生い茂った森の中、そして山の上で創造主の言葉が発せられると、それまでに現われたのとは違う種類の生物が出現しました。これらの生物は野獣、つまり神が述べたところの「地の獣」でした。それらの野獣はかなり遅れて頭と尾を振りましたが、それぞれ違う顔つきをしていました。毛皮をまとうものもあれば、甲羅のあるもの、牙や歯をむき出しにしているもの、首の長いもの、尾の短いもの、獰猛な目つきのもの、臆病な眼差しのもの、身をかがめて草を食べるもの、口の周りに血がついているもの、二本足で跳ねるもの、四つの蹄で駆け回るもの、木のてっぺんから遠くを見つめるもの、森で横たわりながら待ち続けるもの、休むためのほら穴を探すもの、草原で跳ね回るもの、森を徘徊するものもありました……。また野獣にはうなるもの、遠吠えするもの、吠えるもの、大声で鳴くものがありました……。鳴き声が高いもの、低いもの、大きいもの、そして明るく歌うように鳴くものもありました……。顔つきが厳めしいもの、可愛らしいもの、醜いもの、愛らしいもの、恐ろしいもの、そして愛らしいまでに純真なものもありました……。こうした野獣が次々と出現したのです。それらは威張っていたり、自由奔放であったり、互いに興味を示さなかったり、見向きさえしなかったりしています……。それぞれが創造主から授けられた独自のいのち、獰猛さ、および野蛮さをもちつつ、森や山に出没しました。野獣はあらゆるものを軽蔑し、横柄そのものです。結局のところ、こうした野獣が山や森の真の主なのです。創造主によって出現するよう命じられた瞬間から、これらの野獣は山や森を「我が物」にしていました。と言うのも、創造主はすでに野獣の棲息範囲を決め、その中に封じ込めていたからです。山や森の真の主は野獣だけであり、それが野蛮さと傲慢さの理由なのです。それらが「野獣」と呼ばれるのは、ひとえにあらゆる被造物のなかで最も獰猛であり、野蛮であり、飼い慣らすことができないためです。野獣を飼い慣らすことはできないので、飼育することはできず、人間と調和して暮らすことも、人間の代わりに働くこともできません。野獣が人間から離れて暮らさざるを得ず、また人間が野獣に近づけないのは、それが飼育不可能であり、人間のために働くこともできないからでした。その一方、人間から離れて暮らし、人間が近づけなかったので、野獣は創造主から与えられた責任、つまり山や森を守る責任を果たすことができたのです。野獣の獰猛さが山や森を守り、その生存と繁栄を最もよく保護したのです。それと同時に、野獣の獰猛さが万物の均衡を保ち、確実なものにしました。野獣の出現によって山や森に支えとよりどころがもたらされ、静寂で空虚だった山や森に無限の活力と活気がもたらされたのです。この時以降、山や森は野獣の恒久的な棲息地となり、野獣は住みかを失うことがありませんでした。なぜなら、山や森が出現して存在しているのは野獣のためであり、野獣はそれらを守るために自身の本分を尽くし、あらゆることを行なうからです。そうしたわけで、野獣もまた、創造主の訓戒を厳しく守って自分たちの領域に留まり、獣の本性を用いることで、創造主が確立した万物の均衡を維持し、創造主の権威と力を示し続けているのです。

創造主の権威の下では、万物が完璧である

鳥や魚、木や花など、神によって創られた万物は、動けるものも動けないものも含め、あるいは第六の日に創られた家畜、昆虫、野獣を含め、すべて神の目に良いものと映り、また神から見て、それらは自身の計画によると完璧の域に達しており、自身が望む基準を満たしていました。自身が行なおうとしていた働きを、創造主は一つひとつ、自身の計画に従って行ないました。すると自身で創ろうとしていたものが次々と現われましたが、その出現はどれも創造主の権威の反映であり、その結晶でした。こうした結晶化のために、あらゆる被造物は創造主の恵みと施しに感謝せずにはいられませんでした。神の奇跡の業が自ずと明らかになるにつれ、この世界は神が創ったもので少しずつ一杯になり、混沌と闇から明瞭で明るいものへ、死の静寂から生と無限の活力へ変化していきました。大きいものから小さいものに至るまで、そして小さいものから微小なものに至るまで、創造主の権威と力によって創られなかったものは一つもなく、それぞれの被造物の存在には独自かつ固有の必要性と価値がありました。形や構造の違いに関係なく、それらは創造主の権威の下で存在するよう、創造主によって創られたのです。時として、とても醜い昆虫を見て「ひどい虫だ。神がこのような醜いものを創ったなんてあり得ない。これほど醜いものを創るはずはない」などと言う人がいます。何という愚かな見方でしょう。むしろ、その人は次のように言うべきです。「この虫は極めて醜いが、神が創った虫なのだから、この虫にしかない目的があるはずだ」。神はその考えの中で、自ら創った様々な生物に対し、それぞれ固有の外見、そしてありとあらゆる機能と目的を与えるつもりでした。ゆえに、神の被造物は一つとして同じではないのです。外見から内部構造に至るまで、生活習慣から棲息地に至るまで、一つひとつ異なっているのです。牛には牛の、ロバにはロバの、鹿には鹿の、象には象の外見があります。最も外見が美しい生物はこれ、最も醜い生物はこれ、などと言えますか。最も役立つ生物はこれ、最も存在する必要がない生物はこれ、などと言えますか。象の見た目を好む人はいても、象を使って農地に植え付けを行なう人はいません。ライオンや虎の外見は万物の中で最も印象的なので、その見た目を好む人はいますが、それらをペットとして飼育することはできますか。要するに、無数の被造物について言えば、人間は創造主の権威に従わなければならない、つまり万物の創造主が定めた秩序に従わなければならないのです。これが最も賢明な姿勢です。創造主の本来の意図を探し求めてそれに従う姿勢だけが、創造主の権威を真に受け入れ、それを確信するということなのです。神はそれを見て良しとしているのですから、人間は何の理由があって欠点を見つけなければならないのですか。

かくして、創造主の権威の下にある万物は、創造主による支配の新たな交響曲を奏で、新しい日における神の働きの輝かしい前奏曲を演奏することになります。またこの時、創造主は自身の経営の働きにおける新たな一ページを開くことになるのです。春の芽吹き、夏の成熟、秋の刈り入れ、そして冬の蓄えという創造主が定めた法則に従い、万物は創造主による経営計画と共鳴し、それぞれの新たな日、新たな始まり、新たないのちの道のりを喜んで迎えます。そして、創造主の権威の支配下で新しい日々を迎えるべく、万物は生存と繁栄を無限に続けるのです……。

創造されたものも、それ以外のものも、創造主の身分に代わることはできない

万物の創造が始まった時から、神の力が表わされ、明らかになり始めました。なぜなら、神は言葉を用いて万物を創ったからです。神が万物をどのように創造したか、なぜ創造したかを問わず、万物は神の言葉のために出現し、しっかり立ち、存在しました。これが、創造主だけがもつ権威なのです。人類がこの世界に出現する前、創造主は自身の力と権威を用いて人類のために万物を創り、独自の方法を用いて人類に適した生存環境を整えました。神が行なったことはどれも人類のための準備であり、やがて人類は神の息を授かることになります。つまり、人類が創られるのに先立ち、天、光、海、地などの大きいもの、動物や鳥などの小さなもの、そして各種の昆虫や、肉眼では見えない様々なバクテリアを含めた微生物など、人間とは異なるすべての被造物の中に、神の権威が示されたのです。それらはどれも創造主の言葉によっていのちを与えられ、創造主の言葉のために繁殖し、創造主の支配の下で生きました。それらの被造物は創造主の息こそ受け取らなかったものの、創造主から授かったいのちの活力を自身の様々な形や構造を通じて示しました。またそれらは、創造主が人類に与えた話す能力を受け取りませんでしたが、創造主から授かったいのちを表現する方法を受け取っており、それは人間の言語とは異なるものでした。創造主の権威は、一見静止している物体にいのちの活力を与え、それらが決して消え去らないようにしますが、それと同時にあらゆる生物に生殖本能を与え、それらが決して絶滅せず、創造主から授けられた生存法則や生存の原則を、世代を超えて受け継ぐようにします。創造主が自身の権威を行使する際の様式は、巨視的視点や微視的視点に厳密に従うものではなく、またいかなる形態にも限定されていません。創造主は宇宙の活動を指揮し、万物の生死を支配し、そしてさらに、万物を操作して自身に仕えさせることができます。また、山や川や湖の活動を一つ残らず管理し、そこにあるすべてのものを支配することができるだけでなく、万物が必要とするものを施すこともできるのです。これが、人類以外の万物に対する、創造主だけがもつ権威の現われです。こうした現われは生涯にわたって続くだけでなく、終わることも中断することもなく、いかなる人や物によっても変えられたり、損なわれたり、加減されたりすることもありません。と言うのも、創造主の身分に取って代われるものは存在せず、したがって創造主の権威に取って代われる被造物も存在しないからです。それはいかなる被造物にも不可能なことなのです。神の使いと天使を例にとりましょう。彼らは神の力を有しておらず、ましてや創造主の権威などもっていません。彼らに神の力と権威がないのは、創造主の本質がないからです。神の使いや天使をはじめとする被造物以外の存在は、神に代わってある程度のことを行なえるものの、神を代表することはできません。人間にはない力があっても、神の権威はありません。つまり、万物を創造し、万物に支配し、万物を統治する神の権威はないのです。したがって、被造物以外のどんな存在も神の独自性に取って代わることはできず、また同様に、神の権威と力に取って代わることもできません。神の使いが万物を創造したという話を、あなたは聖書で読んだことがありますか。神が使いや天使を遣わして万物を創らせなかったのはなぜですか。それは、神の権威が彼らにはなく、ゆえに神の権威を行使する能力がなかったからです。あらゆる被造物と同じく、彼らもまた創造主の支配と権威の下にあり、それと同様に、創造主は彼らにとっても神であり、主権者であるのです。高貴であるか卑しいか、力が強いか弱いかを問わず、神の使いや天使の中に神の権威を超えられるものはおらず、したがって、創造主の身分に取って代われるものもいません。彼らが神と呼ばれることは決してなく、創造主になることもできません。これは変えることのできない真理であり、事実なのです。

ここまでの交わりを通じ、唯一の権威と力をもつ万物の創造主、万物の支配者だけが、唯一無二の神自身だと断言することはできるでしょうか。この時点で、このような質問はあまりに奥深いと感じるかもしれません。今のところ、あなたがたはこれを理解することも、その本質を把握することもできないので、答えるのは難しいと感じています。なので、交わりを続けることにしましょう。次に、神だけがもつ権威と力による、多方面にわたる実際の業を取り上げ、あなたがたがそれらを目の当たりにできるようにします。そうすることで、あなたがたは神の独自性とは何か、神だけがもつ権威とは何かを認識し、理解し、知ることができます。

2.神は言葉を用いて人間との契約を立てる

創世記 9:11-13 「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

万物を創造した後、創造主の権威が「虹の契約」によって再び確認され、示される

創造主の権威は万物の中に絶えず示され、行使されています。また、創造主は万物の運命を支配するだけでなく、創造主自身の手で創られ、異なる生命構造をもち、異なる生命形態の中で存在している特別な被造物、すなわち人類をも支配しています。万物を創った後も、創造主は自身の権威と力を示し続けました。創造主にとって、万物を支配し、人類全体の運命を支配する権威が正式に始まったのは、自身の手から人間が実際に生まれた後でした。創造主が意図していたのは、人類を経営し、支配し、救うとともに、万物を統治できる人間を真に自分のものとし、そうした人間を自身の権威の下で生活させ、彼らに自身の権威を知らしめ、それに従わせることでした。そこで神は、言葉を使って自身の権威を人間に示し、権威を使って自身の言葉を実現させることを正式に始めました。当然ながら、この過程においても、神の権威はあらゆる場所で示されました。わたしは、あなたがたが神の独自性と、神だけがもつ権威とを認識して理解することができるよう、よく知られた具体的な例をいくつか選んだに過ぎません。

創世記9章11-13節と、神による創世の記録に関する上記の聖句との間には類似点があり、また相違点もあります。類似点は何ですか。神が言葉を用いて意図していたことを行なった、というのが類似点であり、ここで引用した聖句は神と人間の対話を示している、というのが相違点です。この対話の中で、神は人間との間に契約を立て、契約に含まれる内容を人間に伝えています。神と人間が対話する間、神の権威がこのようにして行使されたのですが、それはつまり、人類が創られる以前、神の言葉は、これから創ろうとしていた被造物に対する指示と命令だった、ということです。しかし、神の言葉を聞く人がいまや存在していたので、神の言葉は人間との対話であり、同時に人間に対する説諭と訓戒でもありました。さらに神の言葉は、神の権威を有する、万物への命令でもあったのです。

この一節には神のどのような業が記されていますか。そこでは、洪水で世界を滅ぼした神が人間と立てた契約について記されており、神が二度と同じように世界を破壊しないこと、そのために神がしるしを創ったことを人に伝えています。そのしるしとは何でしたか。聖書には「わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」とあります。創造主は人類に対してこの通りの言葉を語りました。創造主がこのように語ったところ、人間の眼前に虹が現われ、それは今日に至るまで存在しています。そのような虹は誰でも見たことがあります。では、虹を見たとき、それがどのように現われるか知っていますか。虹がどのように現われるか、どこから現れるか、どこにあるのかは、科学では証明できません。なぜなら、虹は創造主と人間との契約のしるしだからです。虹は科学的根拠を必要とせず、人間によって創られたものではなく、人間が虹を変えることもできません。虹は、言葉を語った後も創造主の権威が続いていることを示すものです。創造主は独自の方法により、自身と人間との契約、および自身の約束を守ったので、自分が立てた契約のしるしとして虹を用いたことは天の法則、天の命令であり、それらは創造主にとっても、被造物である人間にとっても永遠に不変なのです。しかし、この不変の法則は、万物の創造に続く創造主の権威の現われであり、創造主の権威と力は無限であると言わなければなりません。神が虹をしるしとして用いたことは、創造主の権威が継続し、拡張されたことを示すものです。それは神が言葉を用いて行なったもう一つの業であり、神が言葉を用いて人間との間に立てた契約のしるしです。神は人間に対し、自分が何を引き起こすと決めたのか、それをどのような方法で実現するのかを人間に伝えました。このようにして、物事は神の口から出た言葉に従って実現されたのです。神だけがこのような力をもっており、神が言葉を述べてから数千年が経過した現在も、人は神の口から語られた虹を見ることができます。神が発したこの言葉により、虹は現在まで変わることがありませんでした。この虹を消すこと、その法則を変えることができる人はおらず、虹はひとえに神の言葉のために存在しています。これがまさに神の権威です。「神は自身の言葉に忠実であり、神の言葉は実現され、神が実現した物事は永遠に残る」。まさにこの言葉の通りであり、それは神の権威と力の明確なしるしであり、特徴でもあります。このようなしるしや特徴をもつ被造物は存在せず、被造物の中に、あるいはそうでないものの中に、それらが見られることもありません。それらは唯一無二の神だけに属するものであり、創造主だけがもつ身分と本質を、被造物がもつそれと区別するものです。同時に、神自身を除き、被造物であろうとそうでないものであろうと、そのしるしと特徴を超えられるものも存在しません。

神が人間との間に契約を立てたことは極めて重要な業であり、それはまた、人間に事実と自身の旨を伝えるべく、神が用いようとした業でもありました。神はそうするために独自の方法を用いたのであり、つまり特別なしるしを使って人間との間に契約を立て、人間との間に立てた契約の誓いとしたのです。この契約が立てられたのは大事件でしたか。どの程度の大事件だったのですか。この契約がこれほどまでに特別なのは、人と人、組織と組織、国と国との間で立てられたものではなく、創造主と人類全体との間で立てられたものであり、創造主が万物を完全に破壊する日までずっと有効だからです。この契約を執行するのも守るのも創造主です。つまり、人間との間に立てた虹の契約はすべて創造主と人類との対話に基づいて履行され、それは現在も続いているのです。創造主の権威に服し、従い、それを信じ、それが何であるかを認識し、目撃し、讃美する以外、被造物に何ができるでしょうか。このような契約を立てる力をもつものは、唯一の神以外に存在しません。幾度となく出現する虹は、創造主と人類との契約を人間に知らせ、注意を促すものです。創造主と人類との契約が継続的に現われる中で人類に示されるのは、虹でも契約自体でもなく、創造主がもつ不変の権威です。幾度となく出現する虹は、創造主が隠れた場所で行なう驚異的かつ奇跡的な業を示すと同時に、決して色あせず、変わることのない創造主の権威を力強く反映するものなのです。そのことは、創造主だけがもつ権威のもう一つの側面を示すものではないでしょうか。

3.神の祝福

創世記 17:4-6 わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。

創世記 18:18-19 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。わたしは彼が後の子らと家族とに命じてヤーウェの道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これはヤーウェがかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである。

創世記 22:16-18 ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

ヨブ記 42:12 ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

創造主に特有の話し方と特徴は、創造主だけがもつ身分と権威の象徴である

多くの人が神の祝福を求め、得ることを望んでいますが、誰もがこうした祝福を得られるわけではありません。神には独自の原則があり、独自の方法で人間を祝福するからです。神による人間への約束や、神が人間に授ける祝福の量は、人間の思いと行動に基づいて配分されます。それでは、神の祝福によって示されるのは何ですか。人々はその中に何を見ることができますか。ここで、神はどのような人を祝福するかという議論や、人間に対する神の祝福の原則といったことは脇に置きましょう。その代わり、神の権威を知ることを目的として、その観点から、人間に対する神の祝福を検討することにします。

先に述べた四つの聖句はどれも人間に対する神の祝福に関する記録です。これらの聖句では、アブラハムやヨブなど神の祝福を受けた人、神が祝福を授けた理由、そしてそれらの祝福の内容が詳細に説明されています。神の発言の語気や方式、そして神が言葉を述べた際の視点と立場から、恵みを授ける存在とそれを受ける存在とでは、身分、地位、そして本質に明らかな違いがあることを認識できます。そうした言葉の語気や方式、そしてそれらが述べられた際の立場は、創造主の身分を有する神に特有のものです。いかなる人も疑うことを許さない権威と力、そして創造主の栄誉と威厳が神にはあるのです。

まずは創世記17章4-6節を検討しましょう。「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう」。これらの言葉は神がアブラハムとの間に立てた契約であり、神によるアブラハムへの祝福でもあります。神はアブラハムを諸国の父とし、彼が極めて多くの子孫を残すようにするとともに、彼から諸国を創り、王となる人が彼から出るようにしたのです。これらの言葉から神の権威を見てとることができますか。また、そうした権威をどのように見てとれますか。神の権威の本質のうち、どの側面を見てとれますか。これらの言葉をじっくり読めば、神の発言の言葉遣いの中に、神の権威と身分がはっきり示されていることを容易に見いだせます。たとえば、「わたしはあなたと契約を結ぶ……あなたを……とする……わたしはあなたに……をさせ……」と述べている場合、「あなたを……とする」や、「わたしはあなたに……をさせ」といった語句は、神の身分と権威を確信させる言葉遣いをしていますが、一方では創造主の忠実さを示し、またもう一方では、創造主の身分をもつ神が用いる特別な言葉であり、従来の語彙の一部でもあります。ある人が誰かに対し、その人が極めて多くの子孫を残し、その子孫たちから諸国が生まれ、王となる者が出ることを望むと言った場合、それは紛れもなく一種の願望であり、約束や祝福などではありません。したがって、「あなたをこうしよう、あなたはこうなる」などとあえて言う人はいないのです。なぜなら、自分にそのような力はなく、そうなるかどうかは自分次第ではないと知っているからです。そして、たとえそのようなことを言ったとしても、その言葉は欲望や野心に突き動かされた空虚な戯言です。自分の望みが叶わないと感じつつ、そのような尊大な口調で話そうとする人がいるでしょうか。誰もが自分の子孫の幸運を祈り、子孫が優れた人物となり、大いに成功することを望みます。「もし子孫の誰かが皇帝になるとしたら、それは何と幸運なことだろう。もし子孫の誰かが知事になったとしたら、それも素晴らしいことだ。とにかく子孫が重要な人物になっていればいい」。こうしたことは誰もが望むことですが、人にできるのは子孫に祝福が授けられるのを望むことだけであって、自分の約束を果たすことも、それを実現させることもできません。誰もが心の中で、自分にはこうした事柄を実現させる力がないことをはっきり知っています。なぜなら、自分に関する一切のことを自分で管理するなど不可能だからです。それならば、どうして他人の運命を思い通りにできるでしょう。一方、神がこうした言葉を述べられるのは、神にはそうした権威があり、人間との約束をすべて叶え、実現させることができ、人間に授けるすべての祝福を実現させることができるからです。人間は神によって創られたのであり、誰かが極めて多くの子孫を残すようにすることなど、神にとっては児戯に等しいのです。誰かの子孫を繁栄させるには、神の言葉以外に必要なものはありません。神自身がこうしたことのために汗水を流して働いたり、心を砕いたり、あれこれ心配したりする必要はありません。それがまさに神の力であり、神の権威なのです。

創世記18章18節「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか」を読んで、神の権威を感じとることができますか。創造主の非凡さを感じとることができますか。創造主が至高の存在であることを感じとることができますか。神の言葉に間違いはありません。神がそのような言葉を発するのは、そうなることを確信しているからではなく、そうなることを示しているのでもありません。むしろそれは、神が発する言葉の権威を証明するものであり、神の言葉を実現させる命令なのです。ここで注意すべき表現が二つあります。神が「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか」と述べる時、これらの言葉に曖昧な要素はありますか。懸念の要素はありますか。恐怖の要素はありますか。神の発する言葉にある「必ず~となって」「みな~受ける」という語句のために、人間に特有のそうした要素、人間の中にしばしば現われるそうした要素は、創造主とまったく無縁のものです。誰かの幸運を願うときにこのような言葉を使う人はおらず、また強大な国を与えたり、地上の万国があなたにおいて祝福されると約束したりするほど、確信をもって別の誰かを祝福しようとする人もいないはずです。神の言葉が確かであればあるほど、それは何かを証明するものとなります。では、その何かとは何ですか。これらの言葉は、神にそうした権威があること、神の権威がそうした事柄を実現させられること、そしてその実現が不可避であることを証明しています。アブラハムを祝福するにあたって用いたすべての事柄について、神は心の中で何のためらいもなく確信していました。さらに、そのすべては神の言葉に従って実現されることとなり、いかなる力もその実現を変えたり、妨げたり、損なったりすることはできません。他に何が起きたところで、神の言葉が実現されないようにしたり、それに影響を与えたりすることは何であってもできないのです。これがまさに、創造主の口から発せられた言葉がもつ力であり、人間による否定を許さない創造主の権威なのです。これらの言葉を読んでも、いまだに疑いを抱いていますか。これらの言葉は神の口から語られたものであって、神の言葉には力、威厳、そして権威があります。被造物であれ、そうでないものであれ、このような力と権威を得ることや、事実が必ずや成し遂げられるようにすることは不可能であり、またそれらを超えることもできません。このような語気と口調で人類と対話できるのは創造主だけであり、その約束は空約束でもくだらない戯言でもなく、どのような人間や出来事や物であっても超越できない独自の権威の現われであることが、事実によって証明されているのです。

神が語る言葉と人間の言葉の違いは何ですか。神が語るこれらの言葉を読むと、あなたは神の言葉の力と神の権威を感じとります。人間がこのような言葉を発するのを聞いたら、あなたはどう感じますか。その人は極めて傲慢であり、自慢げであり、自己顕示していると考えますか。その人にはこのような力も権威もないので、そうしたことを実現するのはまったく不可能です。その人が自分の約束を強く確信しているのは、単に出任せを言っていることを示すに過ぎません。このような言葉を発する人は間違いなく傲慢であり、自信過剰であり、大天使の性質の典型的な例を自ら示していることになります。これらの言葉は神の口から発せられたものですが、そこに傲慢さの要素を感じとりますか。神の言葉は単なる冗談だと思いますか。神の言葉は権威であり、事実であり、その言葉が神の口から発せられる前に、つまり神が何かをしようと決めている時点で、それはすでに実現されているのです。神がアブラハムに述べたすべてのことは、神がアブラハムとの間に立てた契約であり、神がアブラハムにした約束だったと言えるでしょう。この約束は確立された事実、実現された事実であって、それらの事実は神の計画に従い、神の考えの中で徐々に成就しました。そうしたわけで、神がこのような言葉を述べることは、傲慢な性質をもっていることを意味しているのではありません。神はそうしたことを実現させられるからです。神にはその力と権威があり、こうした業を完全に実現させることができ、またそれらを実現させることは完全に神の能力の範囲内にあります。このような言葉が神の口から発せられるとき、それは神の真の性質を示して表現するもの、神の本質と権威を完璧に示して表わすものであって、創造主の身分の証明としてそれ以上に適切なものはありません。こうした発言の方法、語調、そして言葉遣いはまさに創造主の身分のしるしであり、神自身の身分の表現と完璧に一致しており、そこに見せかけや不純さはないのです。こうした発言は、創造主の本質と権威を完璧に、徹底的に示すものです。被造物にはその権威も本質もなく、ましてや神から授けられた力もありません。人間がそのような振る舞いを見せるなら、それは間違いなくその人の堕落した性質が爆発したのであって、その根底では、人間の傲慢さや向こう見ずな野望が干渉して影響を与えており、人々を騙して惑わし、神を裏切らせようと望む、他ならぬ悪魔サタンの悪意が露呈しています。そのような言葉によって明らかになったことを、神はどのように見なしますか。あなたは神の地位を乗っ取ろうとしている、神を真似て神に取って代わろうとしていると、神は言うでしょう。神の発言の口調を真似るとき、その意図は人々の心における神の居場所を乗っ取り、神が正当に所有している人類を盗むことです。それはサタン以外の何物でもなく、天が決して許さない大天使の末裔の所業です。あなたがたの中に、人々を惑わし、欺くことを目的として、いくつかの言葉を語って何らかの形で神を模倣し、自分の言動には神の権威があり、自分の本質と身分は唯一のものであり、さらには自分の口調と神の口調が同じであるかのように感じさせた人はいますか。そのようなことをしたことはありますか。話す時に神の口調を模倣しつつ、神の性質を示すような身振りをし、自分に力と権威があるかのようなふりをしたことがありますか。あなたがたの多くはこのように振る舞ったり、そうしようと思ったりすることがよくあるのですか。創造主の権威を真に目の当たりにし、知覚し、理解したいま、自分がかつて行なったこと、露わにしたことを振り返って、あなたがたは嫌悪を感じますか。自分が下劣で恥知らずなことに気づきますか。そのような人の性質と本質を分析すると、彼らは呪われた地獄の子だと言えるでしょうか。こうしたことをする人はみな、自分自身を辱めていると言えるでしょうか。あなたがたはこの問題の深刻さに気づいていますか。それはどの程度深刻ですか。このように振る舞う人の目的は神を模倣することです。彼らは神になろうとし、人々に自分を神として崇めさせることを望みます。彼らは人々の心における神の居場所をなくし、人の間で働きを行なう神を排除したいと望んでおり、人々を操り、食い物にし、我が物にするという目的を達成すべくそうしています。誰もがこのような願望や野望を無意識のうちに抱いており、このような堕落したサタン的本質、そして神に敵対し、神を裏切り、神になろうと望むサタン的本性の中で生きています。神の権威というテーマに関するわたしの交わりを聞いても、あなたがたは依然として神になりすますこと、神を模倣することを望んだり目指したりしているのですか。依然として神であること、神になることを望んでいるのですか。人間が神の権威を模倣することはできず、神の身分や地位を真似することもできません。神の口調を真似ることはできても、神の本質を真似ることはできません。神の場所に立って神になりすますことはできても、神が意図する業を行なうことも、万物を支配して統治することも決してできません。神の目から見ると、あなたは永遠に小さな被造物であって、あなたの技能や能力がいかに優れていても、いかに多くの才能をもっていたとしても、あなたは完全に創造主の支配下にあります。傲慢な言葉を発することはできても、自分に創造主の本質があることを示したり、創造主の権威があることを表わしたりすることはできません。神の権威と力は神自身の本質です。それらは習得されたものでも、外部から加えられたものでもなく、神自身に固有の本質です。したがって、創造主と被造物の関係を変えることは決してできません。人間は被造物の一つとして、自身の立場を守り、誠実に行動しなければなりません。創造主から託されたものを忠実に守りなさい。適当でないことをしたり、自分の能力を超えることや、神に嫌悪されることをしたりしてはいけません。偉大になろうとしたり、超人になろうとしたり、他の人を超えようとしたり、神になろうとしたりしてはいけません。人はこうした存在になることを望んではいけないのです。偉大になること、超人になることを追い求めるのは馬鹿げています。ましてや神になろうとするのはさらに恥ずべきことであり、不快で卑劣です。称賛に値し、被造物が他の何より守るべきことは、真の被造物となることです。それが、すべての人が追求すべき唯一の目標なのです。

創造主の権威は、時間、空間、および地理的条件の制限を受けず、創造主の権威は計り知れない

創世記22章17-18節を検討しましょう。この一節もヤーウェ神が語ったものであり、アブラハムに対してこう述べています。「わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。ヤーウェ神はアブラハムを何度も祝福し、子孫を増やすとありますが、どこまで増やすのでしょうか。それは聖書に述べられている通り、「天の星のように、浜べの砂のようにする」までです。つまり、神はアブラハムに対して、天の星や浜辺の砂と同じくらい多くの子孫を授けることを望んだのです。神は比喩的表現を使って語りましたが、その比喩から、アブラハムに対して一人や二人でもなければ千人でもなく、むしろ無数の子孫を授けることが容易にわかります。またその数は多数の国となるのに十分でしたが、アブラハムが多くの国の父となることを神は約束していたのです。では、その数を決めたのは人間ですか、それとも神ですか。人間がその子孫の数を操ることはできますか。それは人間次第なのですか。数名の子孫をもてるかどうかすら人間次第ではないのですから、ましてや「天の星のように、浜べの砂のようにする」ほど多くの子孫をもてるかどうかなど、人間に決められることではありません。子孫が星の数ほどになることを望まない人はいませんが、残念ながら、物事がいつも自分の望み通りになるとは限りません。いかに技能や能力に優れていても、それは人間が決めることではなく、誰一人神が定めた範囲から出ることはできないのです。神があなたに与えたぶん、あなたは得ることになります。神が少数を与えたのであれば、多数を得ることはなく、神が多数を与えたのであれば、自分の得た数に憤慨しても無駄です。そうではありませんか。それはすべて神次第であり、人間次第ではないのです。人間は神に支配されているのであって、誰一人例外ではありません。

神が「大いにあなたの子孫をふやして」と述べたとき、それは神がアブラハムとの間に立てた契約であり、「虹の契約」と同じく永遠に実現されます。それはまた、アブラハムに対する神の約束でもありました。この約束を実現させる資格があるのは神だけであり、実現させることが可能なのも神だけです。人間が信じるかどうか、受け入れるかどうか、どのように見て考えるかを問わず、それはすべて神の言葉に従い、一言一句違わずに実現します。神の言葉が人間の意志や観念の変化によって変わることはなく、人間や出来事や物事の変化のせいで変わることもありません。万物は消え去っても、神の言葉は永遠に存在します。事実、万物が消え去る日こそ、神の言葉が完全に実現されるときなのです。なぜなら、神は創造主であり、創造主の権威と力をもち、万物とあらゆるいのちの力を支配しているからです。神は無から有を生じさせることも、有を無にすることも可能であり、また万物の生から死への変化も支配しています。神にとって、誰かの種を増やすことなど何より簡単だったのです。これは人間にとって、おとぎ話のような空想的なことに聞こえますが、神にとって、自身が行なうと決めたこと、および約束したことは、空想でもおとぎ話でもありません。むしろそれは、神がすでに見た事実であり、必ずや実現されるものなのです。これが理解できますか。アブラハムの子孫が多数いたことは、事実によって証明されていますか。またそれは、どれほど多数ですか。神が述べたように「天の星のように、浜べの砂のように」というほど多数だったのでしょうか。アブラハムの子孫たちは、あらゆる国と地域、世界のいたるところに広まったでしょうか。また、この事実は何によって実現されたものですか。神の言葉の権威により実現されたものですか。神の言葉が語られてから数百年、あるいは数千年の間、それは実現され続け、絶えず事実となり続けました。これが神の言葉の力であり、神の権威の証しです。始めに万物を創造した時、神は「光あれ」と言葉を発し、そこに光がありました。これは極めて迅速に起こり、極めて短時間のうちに実現され、その実現はまったく遅れることがありませんでした。神の言葉の効果は即座に現われるのです。これらはいずれも神の権威を示すものですが、神はアブラハムを祝福した時、自身の権威の本質がもつもう一つの側面を人間が理解できるようにし、同時に創造主の権威が計り知れないことを理解させ、さらには創造主の権威のうち、より現実的かつ精緻な側面を理解させたのです。

いったん神の言葉が発せられると、神の権威がこの働きを支配し、神の言葉によって約束された事実が次第に現実となってゆきます。その結果、春の到来とともに草が緑色に変わり、花々が咲き、木から芽が出て、鳥たちが歌い始め、ガチョウが舞い戻り、野原に人々が集うといったように、万物に変化が生じ始めます……。春の到来とともに万物は活気を取り戻しますが、それは創造主による奇跡の業です。神が約束を果たす時、天地の万物は神の考えに従い、再び新しくなって変化しますが、そこに例外はありません。神の口から誓いや約束が発せられる時、万物はその実現に寄与し、その実現のために動かされます。そして創造主の支配の下、すべての被造物が指揮され、采配され、それぞれの役割を担い、それぞれの機能を果たすのです。これが創造主の権威の表われです。このことから何がわかりますか。神の権威をどのように知ることができますか。神の権威に範囲はありますか。時間的な制約はありますか。特定の高さや長さがあると言えますか。特定の大きさや強さがあると言えますか。人間の寸法で計測することができますか。神の権威は点いたり消えたりするものでも、行ったり来たりするものでもなく、それがどの程度偉大かを計測できる人もいません。どの程度時間が経過したかを問わず、神がある人を祝福した場合、その祝福は継続し、その継続は神の権威が計り知れないことの証しとなり、創造主がもつ消えることのないいのちの力の再現を、人間が幾度となく目の当たりにすることを可能にします。神の権威が表わされるたび、神の口から発せられた言葉が、万物と人間に対して完全に立証されます。さらに、神の権威によって実現されたすべてのものは比べようもないほど精緻であり、まったく完璧です。神の考え、言葉、権威、そして神が実現させたあらゆる働きは、どれも比類なき美しい光景であり、被造物にとって、その意義と価値を人間の言語で表現することは不可能です。神がある人に約束を行なうとき、その人が暮らす場所、行なうこと、その約束を受け取る前後の背景、そしてその人の生存環境がどれほど変動したかなど、その人にまつわるすべてのことを、神は掌を指すかのごとく知っています。神が言葉を発してからどれほど時間が経過したかにかかわらず、神にとってその言葉はたったいま発せられたようなものです。つまり、神には力があるとともに、人間との約束を残らず追跡し、支配し、実現させる権威があるのです。そしてその約束が何であるか、完全に実現するまでにどの程度の時間を要するか、またその実現が、時間や地理や人種など、どれほどの範囲に影響を及ぼすかを問わず、その約束は実現され、成就するのであって、さらにその実現と成就において、神は努力する必要がまったくありません。それは何を証明していますか。神の権威と力の幅広さは、宇宙全体と人類全体を支配するのに十分だということです。神は光を創りましたが、それは神が光を支配していることだけを意味するのではありません。また、神が水を支配しているのは単に水を創ったからだという意味でも、それ以外のことはすべて神と無関係だという意味でもありません。これは誤解ではないでしょうか。アブラハムに対する神の祝福は、数百年も経つころには次第に人間の記憶から消えていきましたが、神にとって、その約束は同じままでした。その約束は依然として実現される過程にあり、止まることはなかったのです。神が自身の権威をいかに行使するか、万物がいかに指揮され、采配されるのか、そしてこの間、神に創造された万物の中でどれほど多くの素晴らしい物語が生み出されたか、人間は聞くことも知ることもありませんでした。しかし、神の権威と業が見事に表わされると、それはすべて万物に伝えられ、万物はそれを称え、万物は創造主の奇跡的な業を示して語り、そして創造主による万物の支配について何度も語られてきた物語の一つひとつが、万物によって永遠に語り継がれるのです。神が万物を支配する際の権威、そして神の力は、神がいつでもあらゆる場所にいることを万物に示しています。神の権威と力が遍く存在していることを目にしたとき、神がいつでもあらゆる場所に存在していることをあなたは理解します。神の権威と力は、時間、地理、空間、人間、出来事、および物事に制約されません。神の権威と力の幅広さは人間の想像を超え、人間には計り知れず、想像を絶するものであり、人間が完全に知ることは決してできません。

中には推測や想像を好む人がいます。しかし、人間の想像はどこまで及びますか。この世界を超えることはできますか。人間は、神の権威の信憑性や正確さを推測したり想像したりすることができますか。自身の推測や想像によって、神の権威を認識できるようになりますか。神の権威を真に理解し、それに服従するようになりますか。人間の推測や想像は思考の産物でしかなく、神の権威を知るにあたって何の役にも立たないことが事実によって証明されています。SF小説を読んで、月や星がどのようなものかを想像できる人がいます。しかしそれは、人間が神の権威について何らかの認識をもっているという意味ではありません。人間の想像は、単に想像でしかないのです。こうした事柄の事実、つまりそれらと神の権威とのつながりにまつわる事実について、人間はまったく理解していません。たとえ月に行ったことがあるとしても、それが何だと言うのでしょうか。それは、神の権威を複数の次元から理解していることを示すものですか。神の権威と力の幅広さを想像できることを示すものですか。人間の推測や想像に頼ったところで神の権威を知ることはできないのなら、人間は何をすべきでしょうか。推測や想像を避けるのが最も賢明な選択肢です。つまり、神の権威を知ることに関して、人間は想像や推測に頼ってはいけないのです。ここでわたしが言わんとしていることは何ですか。神の権威と力、神自身の身分、および神の本質に関する認識は、人間の想像に頼ったところで得られません。神の権威を知る上で想像に頼れないのであれば、どうすれば神の権威に関する真の認識を得られますか。それは神の言葉を飲み食いすること、交わりを行なうこと、そして神の言葉を経験することです。そうすることで、あなたは徐々に神の権威を経験してそれを確かめ、神の権威に関する認識を次第に積んでゆくのです。神の権威を認識するにはこの方法しかなく、近道はありません。あなたがたに想像を行なわないよう求めたとしても、それは何もせずひたすら滅びを待つようにさせることでも、あらゆる行動を禁止することでもありません。自分の頭脳で考えたり想像したりするのを避けることは、論理を用いて推測したり、知識を用いて分析したり、科学を根拠としたりせず、その代わり、自分の信じる神に権威があること、神が自分の運命を支配していること、そして神は唯一の神自身であると、神の力が常に証明していることを、神の言葉を通じて、真理を通じて、そして生活の中で直面するすべてのことを通じて理解し、確かめ、納得するということです。これが神を認識する唯一の方法なのです。中には、その目的を達成する簡単な方法を見つけたいという人もいますが、そのような方法を考えつくことはできますか。考えるまでもなく、それ以外の方法は存在しません。神が発する一つひとつの言葉、神が行なう一つひとつの業を通じ、神が所有するものと神そのものを誠実に、かつ着実に認識して確かめるのが唯一の方法です。神を知るにはこの方法しかありません。なぜなら、神が所有するものと神そのものは空虚なものではなく、現実のものだからです。

創造主が万物と生物を支配、統治している事実は、創造主の権威が真に存在することを物語る

同じように、ヨブ記には、ヨブに対するヤーウェの祝福が記されています。神はヨブに何を授けたのでしょうか。「ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった」(ヨブ記 42:12)。人間の観点から見て、ヨブに与えられたこれらのものは何だったでしょうか。人の財産だったのでしょうか。この財産を得たヨブは、その時代では非常に裕福ではなかったでしょうか。またヨブは、どのようにしてこの財産を得たのでしょうか。彼の財産をもたらしたものは何でしょうか。ヨブがこの財産を得たのは、神の祝福のおかげだったことは言うまでもありません。ヨブがこれらの財産をどう見ていたか、神の祝福をどのように見なしていたかは、ここでは検討しません。神の祝福について言えば、神に祝福されることを誰もが昼も夜も切望していますが、自分が生涯でどのくらいの財産を得られるか、神から祝福を受けられるかどうかは、人間が意のままにできることではありません。それは反論の余地がない事実です。神には権威があり、あらゆる財産を人間に授ける力、人間があらゆる祝福を得られるようにする力があるものの、神の祝福には原則があります。神が祝福するのはどのような人ですか。もちろん、それは神が好む人たちです。アブラハムとヨブはともに神に祝福されましたが、二人が授かった祝福は同じではありませんでした。神は砂や星の数ほどの子孫でアブラハムを祝福しました。アブラハムを祝福した時、神は一人の人間の子孫、一つの種族を強くさせ、繁栄させました。その際、神の権威が支配したのは、万物とあらゆる生物の中でも、神の息を呼吸する人類でした。神の権威による支配下で、人類は神が定めた速度と範囲で繁殖し、存在しました。具体的には、この種族の生存能力、拡大率、平均寿命は、すべて神の采配の一部であり、それらの原則はどれもアブラハムに対する神の約束に基づいていました。つまり、状況がどうあれ、神の約束は妨害されることなく進行し、神の権威の摂理に基づき実現されてゆくのです。アブラハムに対する神の約束では、世界の大変動、時代、および人間を苛む大惨事にかかわらず、アブラハムの子孫が消滅する恐れはなく、その種族が死滅することもありません。しかし、ヨブに対する神の祝福のおかげで、ヨブは極めて裕福になりました。神がヨブに授けたのは、呼吸する様々な生物であり、その数、繁殖速度、生存率、そして体脂肪率といった詳細もまた、神によって支配されていました。これらの生物に言葉を話す能力はありませんでしたが、これらもまた創造主の采配の一部であり、これらに対する神の采配の原則は、神がヨブに約束した祝福を基にしていました。神がアブラハムとヨブに授けた祝福において、約束された物事は違っていましたが、創造主が万物とあらゆる生物を支配する権威は同じでした。神の権威と力の詳細はどれも、アブラハムとヨブに対するそれぞれ異なる約束と祝福の中で表わされており、神の権威は人間の想像を超えるものであることがここでも示されています。これらの詳細は人類に対し、神の権威について知りたいのであれば、神の言葉を通じて、そして神の働きを経験することを通じてそうするしかないということを伝えています。

神が万物を支配する権威によって、人間は一つの事実を見ることができます。つまり、神の権威は「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は言われた。『大空あれ。』こうして、大空があった。神は言われた。『地あれ。』こうして、地があった」という言葉に具現化されているだけでなく、それ以上に、神が光を継続させ、大空が消えないようにし、地を永遠に海と分けたこと、そして光、大空、地という被造物を支配し、管理したことにおいても具現化されているのです。それ以外に、神による人類の祝福から何がわかりますか。明らかに、アブラハムとヨブを祝福した後も、神の歩みは止まりませんでした。なぜなら、神は自身の権威を行使し始めたばかりで、自身の言葉の一つひとつを現実にし、自身が語った詳細の一つひとつを実現させる意向だったからです。それゆえ、その後の年月、神は意図したことを一つ残らず行ない続けました。神には権威があるので、人間にとってはおそらく、神に必要なのは語ることだけで、指一本上げずにすべてのことが成し遂げられるかのように思われるかもしれません。しかし、このような想像は極めて馬鹿げています。神が言葉を用いて人間との間に契約を立てたこと、言葉を用いてすべての業を成し遂げたことについて、あなたが一方的な見方しかせず、神の権威が万物の生存を支配している様々なしるしや事実を見てとることができないなら、神の権威に関するあなたの理解はあまりに空虚であり、馬鹿げています。神をそのようなものとして想像するなら、神に関する人の認識は絶望的であり、行き詰まりに達したと言わざるを得ません。なぜなら、人が想像する神は命令を下す機械でしかなく、権威のある神ではないからです。アブラハムとヨブの例から、あなたは何を理解しましたか。神の権威と力の実際面を理解しましたか。アブラハムとヨブを祝福した後、神はその状態に留まらず、使いを働かせつつ結果がどうなるかを待つだけでもありませんでした。それとは逆に、神が言葉を発するやいなや、万物は神の権威による導きの下、神が意図している働きに従い始め、神が必要とする様々な人や物事が準備されました。つまり、神の口から言葉が発せられたとたん、神の権威がすべての地で行使され始め、神はアブラハムとヨブに対して行なった約束を実現させるべく、方向性を定める一方、実行に移そうとしていた手順や主な段階の一つひとつに必要とされる、適切な計画や準備をも行なったのです。この時、神は使いだけでなく、自身が創造した万物も動かしました。つまり、神の権威が行使された範囲には使いだけでなく万物も含まれており、自身が成し遂げようとしていた働きに従わせるべく、神はそれら万物を動かしたのです。これが、神の権威が行使された具体的な方法でした。あなたがたの中には、神の権威を想像の中でこのように理解している人がいるかもしれません。つまり、神には権威と力があるので、第三の天や一定の場所に留まっていればいいのであって、特定の働きをする必要はなく、神の働きはすべて神の考えの中で完了する、というものです。また、神はアブラハムを祝福したものの、何もする必要がなく、言葉を発するだけで十分だった、と信じる人もいるでしょう。それが現実に起きたことですか。明らかに違います。神には権威と力があるものの、神の権威は真実であり、また現実であり、空虚なものではありません。神の権威と力の信憑性、および現実性は、神による万物の創造と支配、そして神が人間を導き、経営する過程の中で徐々に示され、具体化されるのです。神が人類と万物を支配する際の方法と観点と詳細、神が成し遂げたすべての働き、そして万物に関する神の理解はいずれも、神の権威と力が空虚な言葉ではないことを文字どおり証明しています。神の権威と力は絶えず万物に示され、明らかにされています。このように示され、明らかにされることは、神の権威が実在することを物語っています。なぜなら、神は絶えず自身の権威と力を用いて働きを継続し、万物に命令し、万物を支配しており、天使や神の使いが神の力と権威に取って代わることはできないからです。神はアブラハムとヨブにどのような祝福を与えるかを決めましたが、それは神の下す決定でした。神の使いは自らアブラハムとヨブを訪れましたが、彼らの行動は神の命令を基にしており、神の権威に従うものであって、その使いたちは神の支配下にあったのです。聖書の記録から、神の使いがアブラハムを訪れ、ヤーウェ神自身は何も行なわなかったことが見てとれます。しかし実際のところ、力と権威を本当に行使したのは神自身だけであり、人間がそれを疑うのは許されません。天使や使いには大きな力があり、奇跡を行ない、神から託された物事を実行してきたことをあなたは知っていますが、彼らの行動は神の任務を遂行するためのものに過ぎず、決して神の権威が示されているわけではありません。なぜなら、万物を創造して支配する創造主の権威は、いかなる人や物ももっていないからです。ゆえにいかなる人や物であっても、創造主の権威を行使したり示したりすることはできないのです。

創造主の権威は不変であり、犯すことができない

聖書のこれら三ヵ所から何がわかりましたか。神が権威を行使するにあたり、そこに原則があることを理解しましたか。たとえば、神は虹を用いて人間との契約を立てましたが、雲間に虹を置くことで、自分が洪水で世界を滅ぼすことは二度とないと人間に伝えました。人々が現在目にする虹は、神の口から語られた虹といまだ同じものですか。その性質や意味は変わりましたか。当然、そのようなことはありません。神は自身の権威を用いてこの業を行ない、神が人間との間に立てた契約は現在に至るまで続いており、この契約が変更される時期は言うまでもなく神次第です。「雲の中に、にじを置く」と述べた後、神は常にその契約を遵守し、今日に至っています。このことから何がわかりますか。神には権威と力があるものの、自身の業に対して厳格であり、厳しい原則に従うとともに、いつも自身の言葉に忠実である、ということです。神の厳格さと神の業の原則は、創造主が犯すことのできない存在であること、そして創造主の権威が無敵であることを示しています。神には至高の権威があり、万物は神の支配下にあり、また神には万物を支配する力がありますが、神は自身の計画を害したことも乱したこともなく、権威を行使するたび、常に自身の原則を厳しく守り、自身の口から語られた言葉、および自身の計画の段階と目的に従っています。言うまでもなく、神に支配されている万物もまた、神が権威を行使する際の原則に従っており、いかなる人や物も神の権威による采配を免れず、神の権威が行使される際の原則を変えることもできません。神の目から見ると、祝福された人は神の権威がもたらす素晴らしい賜物を受け取り、呪われた人は神の権威のために懲罰を受けます。神の権威の支配下においては、いかなる人や物も神が行使する権威を免れず、神の権威が行使される際の原則を変えることもできません。創造主の権威はどの要素が変わったところで変化せず、同様に、神の権威が行使される際の原則は、いかなる理由であっても変わりません。天地が大変動に見舞われても創造主の権威は不変であり、万物が消え去っても創造主の権威は決して消滅しません。これが創造主の不変にして犯すことのできない権威の実質であり、創造主が唯一無二たるゆえんなのです。

次の聖句は神の権威を知る上で不可欠であり、その意義を以下の交わりで説明します。続けて聖書を読みましょう。

4.サタンに対する神の命令

ヨブ記 2:6 ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

サタンは創造主の権威を決して超えようとしなかったので、万物は秩序ある生活を送っている

これはヨブ記からの抜粋であり、「彼」はヨブを指しています。この一文は簡潔ながら、多くの問題を解明するものです。そこでは霊の世界における神とサタンの会話が具体的に述べられており、神の言葉の対象がサタンであることをわたしたちに伝えています。また、神が述べたことも具体的に記されています。神の言葉はサタンに対する命令でした。この命令の具体的な内容は、ヨブのいのちを奪わないことと、サタンによるヨブの扱いについて神がどこに一線を引いたかに関するものです。つまり、サタンはヨブのいのちを守らざるを得なかったのです。この一文から最初に学べるのは、それが神からサタンに語られた言葉だということです。ヨブ記の原典には、この言葉の背景が記されています。それによると、サタンはヨブを責めたいと望んでいましたが、ヨブを試みる前に神の同意を得る必要がありました。ヨブを試みたいというサタンの要求に同意した時、神は「ヨブはあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」という条件を示しました。この言葉はどのような性質のものですか。明らかに命令です。この言葉の性質を理解すると、この命令を発したのは神であり、それを受けて従ったのはサタンであることも当然理解できるはずです。言うまでもなく、この命令における神とサタンの関係は、これらの言葉を読めば誰でも明確に理解できます。もちろん、これは霊の世界における神とサタンの関係、身分と地位における神とサタンの違いでもあり、聖書に記された神とサタンとのやりとりによってそれが示されています。つまり現在、身分と地位における神とサタンの明確な違いについて、人は具体的な例と文書の記録で知ることができるのです。この点において、これらの言葉の記録は、人類が神の身分と地位を知る上で重要な文章であり、貴重な情報をもたらすものだと言わなければなりません。霊の世界における創造主とサタンとのこの会話により、人間は創造主の権威についてもう一つの側面を理解することができます。これらの言葉は、創造主だけがもつ権威のもう一つの証しなのです。

表面上、ヤーウェ神はサタンと会話しています。しかし本質的に言えば、ヤーウェ神が言葉を述べる際の態度、そしてヤーウェ神が位置している立場は、サタンよりも高いものです。つまり、ヤーウェ神はサタンに命令口調で言いつけており、すべきことやすべきでないことを告げるとともに、ヨブがすでにサタンの手の中にあること、そしてサタンは思うがままにヨブを扱ってもよいが、ヨブのいのちを奪ってはならないということを伝えているのです。その言外の意味は、ヨブはサタンの手の中にあるものの、ヨブのいのちはサタンに与えられておらず、神が許可しない限り、ヨブのいのちを神の手中から奪える者はいない、ということです。神の態度はサタンに対するこの命令の中で明白に説明されており、またこの命令は、ヤーウェ神がサタンと会話する際の立場を示し、明らかにするものです。その際、ヤーウェ神のもつ地位というのは、光と空、万物とすべての生物を創り、万物とすべての生物を支配する神の地位だけでなく、人類と冥府を指揮し、すべての生物の生死を支配する神の地位です。霊の世界において、サタンに対してこのように命令する存在が、神以外にあるでしょうか。では、神がサタンに自ら命令を下したのはなぜですか。ヨブを含めた人間のいのちが神によって支配されているからです。神はサタンに対し、ヨブのいのちを傷つけたり奪ったりすることを禁じるとともに、サタンがヨブを試みることを許したときでさえ、その命令を強調することを忘れず、ヨブのいのちを奪ってはならないとサタンに再度命令したのです。サタンは神の権威に背こうとしたことが一切なく、さらには神の指示と具体的な命令を注意深く聞き、それに従い、あえて逆らおうとせず、当然ながら神の命令を自由に変えようともしませんでした。神がサタンに課した制限はそのようなものであり、ゆえにサタンはあえてその制限を超えようとしなかったのです。これは神の権威の力ではないですか。これは神の権威の証しではないですか。神に対してどのように振る舞うか、神をどのように見るかについて、サタンは人間よりもずっと明確に理解していたので、霊の世界で神の地位と権威をはっきり目の当たりにしており、神の権威の力と、神の権威が行使される際の原則についても深く理解しています。サタンはそれらを見過ごすことも、何らかの形でそれらに背こうとすることもなく、また神の権威に背く行動を取ることも、どのような形であれ神の怒りに対抗することも一切ありませんでした。サタンの本性は邪悪で傲慢ですが、神がサタンに対して定めた領域と限度を超えようとしたことはありません。数百万年の間、サタンはそうした限度を固く守り、神からの指示と命令にすべて従い、あえて一線を越えようとしたこともありません。サタンは悪意に満ちていますが、堕落した人間よりもはるかに賢く、創造主の身分を知っており、自分の限度も心得ています。サタンの「従順な」行動から、神の権威と力は、サタンが背くことのできない天の命令であることがわかります。また、神が唯一の存在であること、そして神の権威ゆえに、万物は秩序正しく変化と増加を行ない、人類は神によって確立された過程の中で生活と繁殖を行なえるのであり、この秩序を乱したり、この法則を変えたりすることができる人や物が存在しないこともわかります。なぜなら、それらはすべて創造主の手から生み出され、創造主の命令と権威から現われたからです。

創造主の身分をもつ神だけが、唯一無二の権威を有している

サタンがもつ「特別」な身分のために、人々はサタンが表わす様々な側面に強い関心を示してきました。中には、サタンは奇跡を起こし、人間には不可能なことができるので、サタンにも神と同じく権威があると信じている愚かな人さえいます。そうしたわけで、人類は神を崇拝するだけでなく、心の中にサタンの居場所をとっておき、サタンを神として崇拝することさえします。こうした人は哀れであると同時に憎むべき存在です。彼らは無知のために哀れであり、その異端的な信条と、持って生まれた邪悪な本質のために憎むべき存在なのです。ここで、権威とは何か、権威が象徴するものは何か、権威が表わすものは何かを皆さんに教える必要があるでしょう。概して言えば、神自身が権威であり、その権威は神の至高と実質を象徴し、神自身の権威は神の地位と身分を表わします。そうであれば、サタンは自分こそ神であるなどとあえて言うでしょうか。自分が万物を創り、万物を支配しているなどとあえて言うでしょうか。当然ながら、そのようなことは言いません。なぜなら、サタンは万物を創造することができないからです。現在に至るまで、神が創ったものをサタンが創ったということは一度もなく、サタンがいのちあるものを創ったこともありません。サタンには神の権威がないので、神の地位と身分を有することはとても不可能であり、これはサタンの本質によって決まることです。サタンに神と同じ力はありますか。当然ながら、そのようなことはありません。サタンの行動や、サタンが起こした奇跡を、わたしたち何と呼びますか。力でしょうか、それとも権威でしょうか。もちろん違います。サタンは邪悪な潮流を率い、神の働きのあらゆる側面を乱し、損なわせ、妨げます。これまでの数千年間、人類を堕落させ乱暴に扱い、人間をそそのかして騙し、それによって人間が堕落して神を拒む状態にし、死の淵に向かわせた以外に、サタンは人間による記念、称賛、敬愛に少しでも値することを行なったでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人類はサタンによって堕落させられていたでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人間はサタンによって害を被ったでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人類は神を捨てて死に向かっていたでしょうか。サタンに権威も力もないのなら、そのすべての行ないの本質についてどう結論づけるべきでしょうか。サタンによるすべての行ないを単なる策略と定義する人もいますが、そのような定義はさほど適切ではないとわたしは考えます。人類を堕落させるという邪悪な行ないは、単なる策略でしょうか。サタンがヨブを虐げた邪悪な力と、ヨブを虐げて食い尽くそうとする激しい願望は、単なる策略ではとても成し遂げられないものです。振り返ると、丘や山の一面に群れていたヨブの動物たちは、一瞬にして消え去りました。ヨブの巨大な富も一瞬にして消え去りました。これは単なる策略でなし得たことでしょうか。サタンによる行ないの性質は、どれも損傷、妨害、破壊、危害、邪悪、悪意、闇などといった否定的な言葉に一致するものであり、不正で邪悪な出来事のすべてはサタンの行為と密接に繋がっていて、サタンの邪悪な本質と切り離すことができません。サタンがいかに「強力」か、その大胆さと野望がどれほどのものか、危害を加える能力がどれほどのものか、人間を堕落させ、誘惑する技能の幅広さがどれほどのものか、人間を脅かす策略や計略がどれほど狡猾か、そしてサタンの存在する形態がどれほど変化可能かを問わず、サタンは一つの生物も創れたことも、万物の存在に関する法則や規律を定められたこともなく、いのちあるものかどうかにかかわらず、何かの物体を支配して操れたこともありません。宇宙と大空の中に、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに支配されたり操られたりしている人間や物はまったく存在しません。それとは逆に、サタンは神の支配下で暮らすしかなく、その上神の指示と命令にすべて従う必要があります。神の許しがなければ、サタンはひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難です。また、地面の蟻を自由に動かすことさえできず、ましてや神の創った人類を動かすことなど不可能です。神から見ると、サタンは山に咲くユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣ります。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人類のために働き、神の働きと経営計画に役立つことです。サタンの本性がどれほど悪意に満ちていようと、その本質がいかに邪悪であろうと、サタンにできるのは、神に仕え、神を際立たせるという、その役割に従順に従うことだけです。これがサタンの本質と立場です。サタンの本質はいのち、力、権威から切り離されており、サタンは神の手中にある玩具、神に役立つ道具に過ぎません。

サタンの本当の顔を理解しても、権威とは何かをいまだ理解していない人が大勢いるので、ここで言っておきます。神の権威はそれ自体が神の力だと説明できます。まず、権威と力はともに肯定的なものだと断言できます。それらは否定的なものと何らつながりがなく、いかなる被造物やそれ以外のものとも関係がありません。神の力は、いのちと活力をもつ、あらゆる形のものを創ることが可能であり、それは神のいのちによって決まっています。神はいのちであり、したがってあらゆる生物の源です。さらに神の権威は、あらゆる生物を神の一言一句に従わせることができます。つまり、あらゆる生物は神の口から発せられた言葉通りに現われ、神の命令によって生き、繁殖し、その後は神があらゆる生物を支配してそれらに命令し、そこからの逸脱は永遠にあり得ないのです。人間や物体にはこれらのものがありません。こうした力は創造主だけが有しており、したがって権威と呼ばれます。これが、創造主が唯一無二たるゆえんなのです。ゆえに、「権威」という言葉自体であれ、権威の本質であれ、どちらも神としか関係していません。なぜなら、それは創造主に固有の身分と本質の象徴であり、また創造主の身分と地位を表わすものだからです。創造主を除き、「権威」という言葉と関連のある人間や物体は存在しません。これが、創造主だけがもつ権威の解釈です。

サタンは貪欲な目でヨブを見ていましたが、神の許しがなかったので、ヨブの体毛一本すら触れようとはしませんでした。サタンは生まれつき邪悪で残酷ですが、ひとたび神が命令すると、その命令に従うほかなかったのです。そうしたわけで、ヨブのところに来たサタンは羊の中の狼のように凶暴だったにもかかわらず、神が定めた限度をあえて忘れることも、神の命令に背こうとすることもなく、すべての行動において神の言葉の原則と限度から逸脱しようとはしませんでした。これが事実ではないですか。そのことから、サタンはヤーウェ神の言葉にあえて背かないことがわかります。サタンにとって、神の口から発せられた一言一句は命令であり、天の法則であり、神の権威を表わすものです。なぜなら、神の一言一句の背後には、神の命令に背いた者、天の法則に反抗した者に対する神の懲罰が暗示されているからです。神の命令に背いた場合、神の権威から逸脱し、天の法則に反抗した報いを受けなければならないことを、サタンははっきり知っています。では、その報いとはいったい何ですか。言うまでもなく、それは神による懲罰です。ヨブに対するサタンの行為は人間を堕落させたことの縮図に過ぎず、またサタンがそれらのことを行なっていた際、神がサタンに対して定めた限度と、サタンに発した命令は、サタンのあらゆる行動の背後にある原則の縮図に過ぎませんでした。さらに、この点におけるサタンの役割と立場は、神の経営の働きにおけるサタンの役割と立場の縮図に過ぎず、サタンがヨブを試みた際の神に対する完全な服従は、神の経営の働きに少しも反抗しようとしなかったことの縮図に過ぎません。これらの縮図はあなたがたに何を警告していますか。サタンを含めた万物の中に、創造主が定めた天の法則や命令に背ける人や物事は存在せず、こうした天の法則や命令にあえて違反しようとする人や物事も一切ありません。なぜなら、服従を拒んだ者に創造主が科す懲罰は、どんな人や物にも変えられず、そこから逃れることもできないからです。天の法則や命令を確立できるのは創造主だけであり、それらを施行する力があるのも創造主だけであって、人間や物事が超えられないのは創造主の力だけなのです。これが創造主にしかない権威であり、この権威は万物の中で至高のものであるので、「神は最も偉大であり、サタンはその次に偉大である」と言うことはできません。唯一無二の権威をもつ創造主を除いて、他に神は存在しないのです。

神の権威について、あなたがたはいま新たな認識を得ましたか。まず、先ほど述べた神の権威と人間の力との間に違いはありますか。その違いは何ですか。両者を比べることはできないと言う人がいますが、そのとおりです。人は両者を比べることはできないと言いますが、人間の思考や観念においては、人間の力がしばしば権威と混同され、両者を並べて比較することがよくあります。これはどういうことですか。うかつにも両者を取り違えるという間違いを犯しているのではないでしょうか。この二つに関連性はなく、両者を比較することもできませんが、人はそれでも比較せずにはいられないのです。これはどうすれば解決できるでしょうか。解決策を見つけたいと心から願うのであれば、神だけがもつ権威を理解し、それを知るよりほかにありません。創造主の権威を理解して知るようになれば、人間の力と神の権威を同じように語ることはなくなります。

人間の力とは何のことですか。簡潔に言うと、人間の堕落した性質、欲望、および野望を最大限に拡大し、それらを成し遂げることを可能にする能力、あるいは技能のことです。それを権威と見なせますか。人の野望と願望がどれほど大きいとしても、あるいはどれほど利益をもたらすとしても、その人に権威があるとは言えません。そうした自惚れや成功は、せいぜいサタンが人の間で行なう茶番に過ぎず、神になるという野望を果たすべく、自身の祖先を演じる喜劇に過ぎません。

あなたはいま、神の権威をどのように見ていますか。この交わりで伝えた言葉から、あなたは神の権威に関する新たな認識を得たはずです。そこであなたがたに質問します。神の権威は何を象徴しますか。神自身の身分を象徴しますか。神自身の力を象徴しますか。神だけがもつ地位を象徴しますか。あらゆる物事のなかで、あなたが神の権威を目の当たりにした事柄は何ですか。どのようにしてそれを目の当たりにしましたか。人間が経験する四季について言えば、春夏秋冬が入れ替わる法則を人間が変えることはできますか。春になると、木々は芽吹いて花を咲かせ、夏には葉で覆われ、秋には実を結び、冬には葉を散らします。この法則を変えることができる人はいますか。これは神の権威の一側面を反映するものですか。神が「光あれ」と言うと、光がありました。その光はいまも存在していますか。それが存在するのはなにゆえですか。もちろん、光が存在するのは神の言葉と権威のゆえです。神が創った空気はいまも存在していますか。人間が呼吸する空気は神に由来するものですか。神に由来するものを取り去ることができる人はいますか。神に由来するものの本質と機能を変えることができる人はいますか。神が割り当てた昼と夜、神が命じた昼夜の法則を覆せる人はいますか。サタンにそのようなことができますか。あなたが夜に眠らず、夜と昼を取り違えていても、それは依然として夜です。日々の習慣を変えることはできても、昼夜の入れ替わりに関する法則を変えることはできません。この事実は誰にも変えることができないものです。違いますか。ライオンが牛のごとく地面を耕すようにすることはできますか。象をロバに変えることできますか。鶏が鷹のごとく空を飛ぶようにすることはできますか。狼が羊のごとく草を食べるようにすることはできますか。(できません。)魚が水のない地上で暮らすようにすることはできますか。人間にそのようなことはできません。なぜできないのですか。それは、神が魚に水中で暮らすよう命じたからであり、そのため魚は水中で暮らしているのです。魚は地上で生存できず、死んでしまうでしょう。神の決めた限度を魚が越えることはできないのです。万物には存在の法則と限界があり、それぞれ固有の本能があります。それらは創造主が定めたものであって、いかなる人も変えたり越えたりすることはできません。たとえば、ライオンは常に人間社会から離れた荒野で暮らします。ライオンが人間とともに生活し、人間のために働く牛のように従順で忠実になることはありません。象とロバはともに動物であり、四本の脚をもち、空気を呼吸しますが、両者は違う種に属しています。なぜなら、それらは神によって異なる種に分けられ、それぞれ固有の本能があり、したがって両者を入れ替えることはできないからです。鶏は鷹と同じく脚と翼をもっていますが、空を飛ぶことは決してできず、飛べたとしてもせいぜい木に留まる程度です。それは鶏の本能によって決まっていることです。また言うまでもなく、それはひとえに神の権威が命じたからです。

現在における人類の発展の中で、人間の科学は繁栄していると言えます。また、人間による科学的探求の成果は印象的のひと言で説明できます。人間の能力はかつてないほど高まったと言わなければなりませんが、人類がいまだ成し遂げられない科学的進歩が一つあります。人類は飛行機、航空母艦、原子爆弾などを作り、宇宙空間へと進出し、月面を歩き、インターネットを発明し、ハイテク技術による生活様式の中で暮らすようになりましたが、呼吸する生物を作ることはいまだにできません。あらゆる生物の本能、動物が生きる上での法則、そして生物の生死の循環はどれも人類の科学の力を超えるものであり、それによって操ることはできません。ここで言わなければなりませんが、人間の科学がいかに高度なものへと進化しようと、創造主の考えとは比較にならず、創造主による創造の奇跡や、神の権威の力を解明することは不可能です。地球上には多数の海がありますが、限度を超えて地上へ自由に来ることはありません。なぜなら、神がそれぞれの海の境界を定めたからです。海は神が命じた場所に留まり、神の許しがなければ自由に動き回ることはできません。神の許しがなければ、それぞれの海が侵害し合うことはできず、神がそう述べたときにだけ移動することができ、また海がどこへ移動して留まるかは、神の権威によって定められるのです。

端的に言えば、「神の権威」とは物事が神次第であることを意味します。神には物事をどのように行なうかを決める権利があり、それは神の望む方法で行なわれます。万物の法則は人間次第ではなく神次第であり、人間がそれを変えることはできません。万物の法則は人間の意志で動かせるものではなく、むしろ神の考え、知恵、そして命令によって変えられるものであり、これは誰も否定できない事実です。天と地、万物、宇宙、星空、そして四季など、人間に見えるものも見えないものも、すべては神の権威の下、神の命令と定め、および創造の初めの法則に従い、わずかな間違いもなく存在し、機能し、変化します。それらの法則、あるいはそれらが機能する固有の過程は、いかなる人や物であっても変えることができません。それらは神の権威ゆえに現われ、同じく神の権威ゆえに消滅します。これがまさしく神の権威なのです。ここまで語ったいま、神の権威は神の身分と地位の象徴だと感じることができますか。被造物やそれ以外のものが神の権威をもつことはできますか。それを模倣したり、真似したり、それに取って代わったりすることができる人や物がありますか。

創造主の身分は唯一無二なので、多神論に従ってはならない

サタンの技能と能力は人間のそれに優っており、人間には不可能なことが可能であるものの、サタンの行為を羨んだり望んだりするかどうか、それを憎んだり忌み嫌ったりするかどうか、サタンの行動が理解できるかどうか、サタンがどの程度のことを達成できるのか、どれほど多くの人を騙して自分を崇拝させたり祀らせたりすることができるのか、そしてあなたがサタンをどのように定義するかを問わず、サタンに神の権威と力があるとは到底言えません。神は神であり、唯一の神しか存在せず、そしてそれ以上に、神だけが権威をもち、万物を支配する力があることを知らなければなりません。サタンには人間を欺く能力があり、神になりすまし、神のしるしと奇跡を模倣することができ、神と似たようなことをしているからといって、神は唯一無二ではなく多数の神が存在する、またそれらの神には多かれ少なかれ技能があり、行使する力の幅広さに差があるなどといった誤解をあなたはしています。登場する順番や年齢でそれらの神の偉大さに順位をつけたり、神のほかにも神性を有するものが存在すると誤解したり、神の権威と力は唯一無二ではないと考えたりするのです。あなたにこうした考えがあり、神が唯一の存在であることを認めず、神だけが権威を有していることを信じず、ひたすら多神論に従っているなら、あなたは被造物のくずであり、サタンの真の化身であり、邪悪の権化であるとわたしは言います。このような言葉でわたしが何を教えようとしているか、あなたがたはわかっていますか。時間、場所、背景を問わず、神と人間、神と物事を混同してはいけません。神の権威や神自身の本質について、それらを知ったり、それらに近づいたりするのがどれほど難しく感じられようと、自分の観念と想像がサタンの言動とどれほど一致していようと、そしてそれらが自分をどれほど満足させようと、あなたは愚かであってはならず、それらの観念を混同してはならず、神の存在を否定してはならず、神の身分と地位を否定してはならず、神を追い出し、その代わりに心の中へサタンを招き入れ、あなたの神にしてはいけません。そのようなことをした結果がどうなるか、あなたがたは想像できるはずです。

人類は堕落させられてきたが、創造主の権威の支配下で生きている

これまで数千年にわたり、サタンは人類を堕落させてきました。無数の悪事を働き、何世代もの人々を欺き、世界中で凶悪な犯罪を犯してきました。人間を虐げ、欺き、誘惑して神に反抗させ、神の経営計画を何度も乱して害を与えるという悪事を重ねてきたのです。それでもなお、神の権威の下、万物とすべての生物は神が定めた規則と法則を遵守し続けています。神の権威に比べれば、サタンの邪悪な本性とその蔓延は極めて醜く、不快であり、卑劣であり、取るに足りず、脆弱です。サタンは神に創られた万物の中を歩んでいますが、神に率いられる人間や物事をわずかでも変化させることはできません。数千年が経過した現在、人類は神から授かった光と空気を享受し、神自身から授かった息を呼吸し、神が創った花や鳥、魚や昆虫を楽しみ、神から授かったすべてのものを享受しています。昼と夜はいまも絶えず入れ替わり、四季はいつものように移り変わり、空を舞うガンは冬に去り、次の春に舞い戻るとともに、魚は住みかである川や湖から決して離れません。また夏の日中には地上のセミが心から高らかにうたい、秋には草の中にいる鈴虫が風に合わせて優しく口ずさみ、ガンが群れをなす一方、鷹は孤独なままです。ライオンは誇り高く狩りを行なうことで自分を支え、ヘラジカは草原の草花を離れません……。万物の中でも、すべての生物は行き来を繰り返しており、無数の変化が一瞬にして生じます。しかし、その本能と生存法則が変わることはありません。それらは神の施しと糧によって生きており、その本能を変えたり、生存法則に害を及ぼしたりすることは誰にもできないのです。万物の中で生きる人類はサタンに堕落させられ、欺かれてきたものの、神が創った水、神が創った空気、そして神が創ったすべてのものを捨てることは依然できず、いまなお神が創ったこの空間で暮らし、繁殖しています。人間の本能は変わっていないのです。人間はいまなお目で見、耳で聞き、脳で考え、心で理解し、足で歩き、手で作業を行なうなどしています。神の施しを受け取れるよう、神が人間に授けた本能は変わらないままで、人間が神と協力する能力、被造物の本分を尽くす能力、人類が霊的に必要とするもの、自分の起源を知りたいという願望、そして創造主に救われることへの渇望は変わっていません。以上が、神の権威の下で暮らし、サタンによる血なまぐさい破壊を経験してきた人類の現状です。人類はサタンの圧迫を受け、もはや創造当初のアダムとエバではなく、知識、想像、観念といった神に敵対する物事や、堕落したサタン的性質でいっぱいですが、神の目から見て、人間は依然として神が造った時と同じ人間です。人間はいまなお神に支配され、指揮され、神が定めた過程の中で暮らしているので、神の目から見ると、サタンによって堕落させられた人類は埃をかぶり、空腹でお腹を鳴らし、反応がいささか遅くなり、以前ほどの記憶力がなく、少し年老いたに過ぎず、人間の機能と本能はまったく損なわれていません。これが、神が救おうとしている人類なのです。この人類は創造主の呼びかけを聞き、創造主の声に耳を傾けさえすれば、立ち上がってその声がどこから聞こえるのかをただちに突き止めようとするはずです。創造主の姿を見さえすれば、その他のことには注意を払わず、すべてを捨てて自分自身を神に捧げ、神のために命すら捧げます。創造主の偽りなき言葉を心の中で理解したとき、人間はサタンを拒絶し、創造主の側につきます。また身体の穢れを完全に洗い流し、創造主による施しと糧を再び授かった時、人間の記憶は蘇り、そこで人間は創造主の支配下へと本当に戻るのです。

2013年12月14日

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