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神の働き、神の性質、そして神自身 1

本日我々が交流するテーマは重要なものだ。このテーマは神の働きの始まりの時から今日まで議論され、そして全ての人にとって極めて重要な意味を持つ。言いかえれば、信仰の道を歩む全ての人に関係することであり、ゆえに触れられなければならないテーマだということである。人間である以上、重大で不可避な、かけ離れることのできないテーマなのだ。ところで重要なことと言えば、あなたがたは、神を信じる全ての者にとって最も重要なことは何だと考えているだろうか。ある人たちは神の意志を理解することが最も重要だと考える。またある人たちは、より多くの神の言葉を飲食することが最も重要だと考える。自分自身を知ることこそ一番重要だと感じている人たちもいる。神の救いをいかに見出し、いかに神に従い、そしていかに神の意志を達成するかということこそ大切だという意見を持つ人たちもいる。だが本日はこれらについては一旦おいておくことにする。では本日、わたしたちは何について話すのかというと、「神について」だ。これは果たして全ての人にとって最も重要なテーマだろうか。では、神について話すといったが、具体的にはいったいどのような内容なのか。無論、このテーマは神の性質、神の本質、神の働きからかけ離れて語ることはできない。したがって本日のテーマは「神の働き、神の性質、そして神自身」について語り合おう。

人が神を信じ始めたときから、人はこの「神の働き、神の性質、そして神自身」のテーマと何らかの形で関わっている。神の働きについて、ある人たちは「神はすでにその業を私たちになさっている。それは私たちが毎日経験するものであり、全く知らないことではない」と言うだろう。神の性質について述べてみると、「神の性質は私たちが生涯をかけて学び、探求し、重点をおいて取り組むものである。ゆえに私たちはそれについてよく知っているはずだ」と言う人もあるだろう。神自身ということに関しては、「神自身は私たちが従い、信仰を置き、追い求めるまさにその方である。だから神自身について無知だということもまたない」と言う人もあるだろう。実際、神は世界の創造以来ずっと働きを続けることでその性質を現し続け、様々な方法で神の言葉を現してきた。それと同時に、神は自身とその本質を人間に示し続け、人間に向かっての神の意志、そして人間へ要求することを示し続けている。ゆえに文字通りにすれば、これらのテーマはよく知っているものであるはずだ。しかしながら、神に従う今日の人々は、神の働き、神の性質、そして神自身は全くというほど理解していない。どういった場合だろうか。人は神の業を経験しているときに、神との交わりも経験し、あたかも自分が神の性質、あるいはその一部を理解しているように思いこんでしまう。それゆえに、人は自分が神の働きや神の性質とったことについて無縁ではないと考える。むしろ、自分は神と非常に親しい存在であり、神について多くを知っていると考えるのだ。しかし現在の状況をベースに考えると、多くの人が理解する神とは彼らが読んできた本、自分の経験、自分の想像といったものの域を出ることはなく、何より彼らが自分の目で見ることができる事実範囲に限られている。これらの理解は、本物の神自身からは遠くかけ離れているものである。しかし、どれほどそれは「かけ離れている」ものなのだろうか。人は自分がどれほどかけ離れているかを自覚しておらず、感覚的に気づくだけなのだろう。しかし特に神自身となると、人の理解は本物の神の本質からは気が遠くなるほどにかけ離れている。これこそが、わたしたちがこの「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマについて、系統的に重点的に交わる必要がある理由なのだ。

事実、神の性質というのは隠されたものではなく、いつでもわたしたちに開かれているものだ。というのは、神は決して意識的に何人を避けるのではなく、自分が人に知られないように、あるいは理解されないように敢えて自分を隠すようなことはしないからである。神の性質はいつでも開かれており、いつでも一人ひとり率直に対面しているのである。神が経営する期間、神は全ての人に相対して働くのである。そして、神の働きは一人ひとりに対して行われている。神がその業を行うにあたって、神は絶えず自身の性質を現し、自身の本質と、神であるもの、神の持っているものを用いて一人ひとりを導き、そして一人ひとりに与える。どのような時代や段階にあっても、状況の善し悪しにかかわらず、神の性質はいつでも一人ひとりに対して開かれており、神の持っているもの、神であるものは一人ひとりに対して開かれている。それは神のいのちが絶えることなく人間に与え続け、また人間を支え続けているのと同じである。にも関わらず、ある人たちにとっては神の性質は隠されたもののように思えるのである。なぜだろうか。それは、彼らが神の働きの中で生き、神に従っていたとしても、神をもっと深く知りたいと願ったり、ましてや神と親しくなりたいと思ったりしたことがないからである。そのような人たちにとって、神の性質を理解するということは、彼らの終わりの時が近づいているということであり、神の性質によって裁かれ、罪に定められるということである。彼らは神自身やその性質を知りたいと願ったことがなく、神の意志についてのより深い理解や知識も切望しない。彼らは意識的に協力することで神の意志を理解しようとは思わないのである。彼らは自分がしたいと思うことを行い楽しむことに飽くことがない。彼らが信じているのは自分にとって都合のいい神、自分の想像や観念の中にのみ存在する神であり、日々の生活から離れないでいてくれる神なのである。しかし本物の神自身となると、彼らは完全に拒絶する。神を理解しようという気もなく、神に目を向けることもなく、神とより親しくなろうなどとは思わない。彼らは神が語った言葉を、自分自身の上辺を飾って綺麗に包装するための表現に用いているのである。そして、そのことで自分が「成功している信者」であり、自分は本心から神への信仰を持っていると思っているのである。しかし実際には、彼らが導かれているのは自分自身の想像や観念、さらにいえば、自分のイメージにあった神なのである。一方で、本物の神自身は彼らとは全く関係がない。というのも、もし彼らが本物の神とその性質を理解し、神の持っているものと神であるものを理解するなら、このことは彼らの行動や信仰、そして求めていることは罪に定められることを意味するからである。それゆえに彼らは神の本質を理解しようとはせず、神自身について、そして神の意志と性質についてよりよく知るために自ら求めたり祈ったりしようとはしないのである。むしろ彼らは、神が、人間が作り上げた中身のないぼんやりとした存在であることを望んでいるのである。彼らが望んでいるのは、自分の想像通りの神で、自分たちの思うとおりになり、限りなく与え、自分がいて欲しい時にはいつでもいてくれる神なのである。彼らが神の恵みを享受したいと思うときには、神自身ではなく、その恵みだけを求める。彼らが神の祝福を必要とするときには、神自身ではなく、その祝福だけを求める。彼らが逆境にあるときには、自分たちを励まし、安全網となってくれることを求める。このような人々の神への認識は恵みと祝福の範囲を出ることがない。また、彼らの神の働き、神の性質、そして神自身への理解は自分の想像の中だけのものであり、文字と教義上だけのものである。しかし神の性質を本当に追い求める人たちもいる。それは心から神自身を知りたいと思い、神の性質と神の持っているもの、神であるものを本当に理解したいと願っている人たちである。そのような人たちは、真理の現実、そして神の救いを求め、神が自分を征服し、救い、完全にしてくださることを望んでいる。そのような人たちは心を神の言葉に向け、心から自分の周りの人や物事、そして状況、神が準備した事を認識し、心から祈り、求めるのである。彼らが欲しているのは何よりも神の意志を知ることであり、神の性質と本質を理解することだ。そうすれば彼らが二度と神に反することなく、経験を通して神の素晴らしさや神の真実の一面を知っていくことができるからである。そして、最早想像や概念や不明瞭さの狭間に生きることはないであろうまさに正真正銘の神が彼らの心の中に宿り、神が心に居場所も又確保するであろう。彼らが神の性質と本質を切実に理解することを願い追求するのは、人間の経験においても、神の性質と本質は常に必要なものであり、人生を通していのちを与えるものだからである。一旦神の性質を理解したら、神をより畏れ、神の計画に協力し、神の意志をより配慮し、持てる力の全てで自分の本分を果たすことができるようになる。神の性質に対する人間の態度には2種類ある。一つ目は、神の性質を理解したくないという態度である。彼らは口では神の性質を理解し、神自身を知り、神の持っているものと神であるものを知りたいと言い、心から神の意志に認めたいと言うのだが、心の奥底では神が存在しなければよいと思っている。というのは、彼らは一貫して神に不従順で、神に抵抗しているからである。自分の心の中の支配権を神と争い、しばしば神の存在を疑ったり拒否すらしたりする。彼らは神の性質あるいは本物の神が自分たちの心を支配することを望まない。彼らの望みは、自分の欲望が、想像力が野心が満たされることだけである。つまり彼らは神を信じ、従い、家庭や仕事を神に捧げてはいるかもしれないが、悪の道を進み続けるのである。ひどい場合には献金を盗んだり浪費したり、私生活で神を呪う言葉を言ったりする者もあれば、自分の地位を利用して繰り返し自分に有利な証言をして自分の立場を強化し、人や地位に関して神と争おうとするのである。彼らはあらゆる手段を用いて人々に自分を崇拝させ、常に人々の心を虜にし、支配しようとする。さらにひどい場合には意図的に彼ら自身が神であるかのように扱われると考えさせるように誤って導くのである。彼らは自分が堕落しているとは決して言わない。自分も堕落した高慢な存在であり、崇拝の対象にはなりえないことを人々に決して伝えない。また彼らがどれだけ立派にやっているとしても、それは神の行ったことのゆえであり、単にすべきことをしているに過ぎないとは言わない。なぜ彼らはこの事実を伝えないのか。それは人々が自分に見向きもしなくなるのを恐れているからである。このような者は神を理解しようとしたことがないので、決して神をあがめず、神の証人とはならないのである。神を理解することなく神を知ることはできるだろうか。不可能だ。ゆえにこの「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマはシンプルなようだが、人によってその意味するところは異ってくるのである。このテーマは、真理の現実を求め、神の意志を知るために神の前にしばしば立つものにはまさに魚に水だが、神に従わず、神に抵抗し、神に敵対する者にとっては罪の責めをもたらすものだ。あなたがたの中には神の性質と神の働きについての話を聞くと頭が痛くなり、心がさらに頑なになり、非常に不愉快に感じる人もいるだろう。又あなたがたの中には別に「このテーマは自分自身に非常に有益となるのでまさに私が必要としていたものである」と。「私の人生経験において欠かせないものであり、何にもまして最重要課題であり、信仰の基礎であり、人間が切り離すことのできないものである」と言う者もいるだろう。みなさんにとってはこのテーマは近くでもあり、遠くでもある、そして知らないようで知っている、そんなテーマである。ただいずれにしても、このテーマはここにいる全ての人が聞き、知り、そして理解しなければならないものである。ここで聞くことをあなたがどのように扱うにしても、また、どのような視点で捉えるにしても、どのように受け止めるにしても、このテーマの重要性は無視できないものだ。

神はその働きを人間の創造の時からずっと行ってきている。最初、その業はとてもシンプルだった。だがシンプルであったにしても、神の本質や性質はその業に内包されている。今になって、神の仕事が高まり、神は自分に付き従う者に対して膨大な量の具体的な働きを行い、大量の言葉を語った。しかし始めのときから今まで、神の本当の姿というものは人間から隠されてきたのである。神は二度、受肉したが、聖書の記述から現代まで、神の真の姿を見たという人はいるだろうか。あなたがたの理解する範囲で、神の真の姿を見たことがある人がいるだろうか。いない。神の本当の姿を見たことがある人はいないということは、だれも真の神自身を見たことがないということだ。この点では誰もが同意するだろう。そこからいえるのは、神の真の姿あるいは神の霊というものは、神が創造したアダムとエバや、神が受け入れた義人ヨブも含めたすべての人に隠されたものであるということである。彼らですら、神の真の姿を見てはいない。しかしなぜ神は意識的に神の姿を隠しているのだろうか。ある人たちは「神は人々を怖がらせたくないのだ」と言う。またある人たちは「神がその真の姿を隠しているのは、人間は小さすぎて、神は大きすぎるからだ。人間には神を見ることは許されていない。見ることがあれば、人は死んでしまう」と言う。「神は御業を行うのに忙しすぎて、人々の前に現れる時間がないのかもしれない」と言う人たちもいる。あなたがたがどのように信じようが、わたしはここにひとつの結論を提示する。その結論とは何か。それは、神は人々にその姿を見てもらいたいとは思っていない、ということである。人が神を見ることができないのは、見ることができないように神が故意にしているからである。別の言い方をすれば、人が神の真の姿を見ることができないのは、神の意図によるところなのである。これではっきりしたと思う。神がその本当の姿を誰にも見せたことがないとしても、あなたがたは神の本当の姿が存在すると思うか。(存在する。)もちろん神の本当の姿は存在する。神の本当の姿が存在するということに関しては議論の余地はない。では神の本当の姿がどれだけ大きなものか、あるいはどのような姿なのか、ということは人間が調査すべき問題か。否。そうではない。もし神の本当の姿に関することがわたしたちの探究するテーマではないとすれば、わたしたちが学ぶべき話題は何なのだろうか。(神の性質)。(神の業)。では正式なテーマとして交流する前に、今話したことをもう一度おさらいしよう。神はなぜ本当の姿を人に現したことがないのか。なぜ神はあえて自身の姿を人間から隠しているのか。その理由はただひとつ。即ち、創造された人類は何千年ものあいだ、神の働きを経験してきたが、誰一人として神の働き、神の性質、神の本質を知った者はいない。そのような人間は神の眼中で神に敵対する存在であり、自分に敵対する者たちに神は姿を現すことはない。これが、神がその姿を人間に現さず、また意図的に人間に対し姿を隠している唯一の理由である。ここまで話してきたことで、神の性質を知ることの重要性がはっきりしただろうか。

神が経営をし始めてから今まで、神はいつでもその働きを十分に献身的に遂行している。神はその姿を人間に対して隠していても、いつでも人間の味方であり、人間に対して業をなし、自身の性質を現し、自身の本質によって全ての人間を導き、力、知恵、権威を通して一人ひとりの人間に働きを行っている。従って律法の時代、恵みの時代、そして今日の神の国の時代を現実のものにする。神は人間に対し自分の姿を隠してはいるが、その性質、神であるものと持っているもの、そして人間への意志は人間が見て、経験できるようにそのまま現されている。別の言い方をすれば、人類には神を見たり神に触れたりすることはできなくても、人類が経験してきている神の性質や本質は、間違いなく神自身の現れであるということである。それが真実ではないだろうか。神がどのような方法で見地からその働きを行うにかかわらず、神は人間を自身の存在を基準として扱い、すべきことを行い、言うべきことを言う。どの位置から語るとしても――それが第三の天であったとしても、もしくは肉を持った存在としてであったとしても、もしくは普通の人としてであったとしても――神は人間に、常に心と思いを尽くして、欺かれたり隠されたりすることなく語りかけてくる。神が業を行うとき、神は自身の言葉とその性質、そして持っているものと神であるものを余すところなく現す。そして自身のいのち、神の持っているもの、神であるものにより、人間を導くのである。これが見ることも触れることもできない神のもと、律法の時代、すなわち揺籃の時代を人間が生きてきた方法である。

神は律法の時代のあと、初めて人になった。そして受肉した人間の姿を33年半続けた。人間にとっては、33年半は長い期間だといえるだろうか。(長い期間ではない)。通常、人間の寿命というのは30数年よりはもっと長いので33年半は長い期間とはいえない。しかし人となった神にとっては、33年半というのは非常に長い。神は人になった。神の業と委託を行うために生まれた普通の人になった。それは、普通の人では耐え切れない苦痛にも耐えながら、普通の人では負いきれない仕事を引き受けねばならないことを意味していた。主イエスの働きの始めから十字架にかかるまでの間、恵みの時代に主イエスが受けた苦しみは、今日の人間が直接見ることができるものではないとしても、少なくても聖書に書かれている話を通して多少理解することはできるだろうか。記録された出来事の事実がどれだけの量が詳しく書かれているかに関わらず、全くこの期間の神の働きは困難と苦痛に満ちていた。堕落した人間にとっては、33年半は長い期間ではない。多少の苦しみというのは大した問題ではないのだ。しかしながら、聖なる、汚れなき神が、人間の全ての罪に耐え、罪人とともに食べ、眠り、生きなければならなかったこの痛みは計り知れない。創造主であり、全ての主、全ての支配者でありながら、彼は地上に降りて来て、どうしようもなく堕落した人類からの抑圧と残酷さに耐えなければならなかった。自身の働きを完成させ、人間を悲惨な状況から救い出すには、人間により激しく咎められ、全ての人類の罪を背負わなければならなかった。イエスが通った苦しみがどれほどであったかは、普通の人間が想像できたり、理解できたりするものではない。この苦しみは何を意味するのか。それは、神の人間への愛情を表す。これは人類の救いのために、罪を贖うために、そしてこの段階での神の業を完了するために、イエスが被むった苦痛と払った代価の象徴である。神の十字架によって、人類は贖われただろうということの象徴でもある。これは血潮、すなわち命によって払われた代価であり、被造物が払うことが決してできないものである。イエスは神の本質を持っており、神の持っているもの、神であるものを備えている。そしてこの種の苦しみと業に耐えることができた。被造物である神以外の存在が代わってできる働きはないのである。これが恵みの時代においての神の働きであり、神の性質の現れである。これは神が持っているもの、神であるものを示しているものだろうか。人間が知ろうとする価値のあるものだろうか。

この時代には、人間は神の本当の姿を見ることはなかったが、神による罪のためのいけにえを受け取っており、神により十字架から贖われた。神が恵みの時代に行ったことを知らないわけではなくても、この時代に現した神の性質や意志についてよく知っているという人は果たしているだろうか。人間がそれぞれの方法で知っているのは、単にそれぞれの時代に行われた神の業についての詳細、そして神がその業を行う際にどのようなことがあったかというような神に関するストーリーだけである。そのような詳細やストーリーはせいぜい神に関する情報あるいは伝説であり、神の性質や本質とは関係がない。人間がどれだけたくさん神のストーリーを知っていたとしても、それは人間が神の性質や本質について深い理解や認識を持っているということにはならない。律法の時代同様、恵みの時代の人々は受肉した神と間近で親密な交わりを経験してはいるが、彼らの神の性質や本質に関する認識は無いに等しい。

神の国の時代に、はじめの時と同様、神は再び人となった。この業を行った期間、神は言葉を余すところなく現しており、神はすべきことを行い、自身が持っているものと、自身であるものを現している。同時に、人の不従順と無知に寛容をもって耐え続けている。神はこの働きの期間も、自身の性質と意志を現し続けているではないか。したがって、人間が神によって創造された時から今日まで、神の性質、神であるものと神が持っているもの、そして神の意志は、全ての人に常に開かれてきたのである。神は自身の本質、性質、意志を意図的に隠していることはない。ただ単に人間が、神が行っていることや神の意志に無関心なだけである。それゆえに人間は情けないほど神を理解できていないのである。別の言い方をすれば、神がその姿を見えないようにしている間も、神は常に人間のそばにおり、意志、性質、本質を開かれた方法で常に示しているのである。ある意味では、神の姿は人々に対し開かれたものであるが、人間の無知と不従順が、神を見えないものにしているのである。ではもしそうであるならば、神の性質と神自身を理解することは誰にとっても易しいはずではないのか。これはとても難しい質問だ、そうではないか。簡単だ、と言うこともできるだろう。しかし人は神を知ることを求めていても、神を本当の意味で知る、あるいは明確な理解を得ることはできない。それはいつでもぼんやりと、はっきりしないものなのだ。しかし「簡単なことではない」、といってしまうのもまた正しくない。長い間神の業の対象となってきた者として、全ての人は、その経験を通して神を知ってきてはいるはずである。少なくとも神がいると感じたことがある、あるいはかつて霊的なレベルで神との衝突を経験したことがあるはずだ。そしてそれによって神の性質に関して何らかの感情的目覚めを経験しているか、神について何らかの理解を得ているはずである。人間は神に従い始めてから今日まで、本当に多くのものを神から受け取ってきた。しかし人間の能力の限界、無知、反抗心、そして人間的な思いなどの様々な理由で、人間はその多くを失っているのである。神は人間にすでに充分に与えてはいないのだろうか。その姿を人間から隠してはいるものの、神は自身の持っているものと自身であるものによって多くを人間に与え、命すらも与えている。人間の神への認識は、今のそれよりももっと豊かであるべきなのだ。それゆえにわたしはこの「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマについてより深くあなたがたに伝える必要があると思うのだ。そうすることで、神が何千年もの間ずっと人間に対して注いできた思いが無駄に終わらず、人間が自分に対する神の意志を真に理解し、そして意志を感謝できるようになるからである。そしてそのことによって、神の認識において新しい段階へと進むことができるからである。それは神に自分の中の本来神がいるべき場所に戻ってもらうことでもある。それは人間が神に対してなすべき義である。

神の性質と神自身を理解するには、とても小さなことから始めなければならない。そのとても小さなこととは何か。わたしは聖書のいくつかの箇所を調べた。以下の内容には聖句が含まれており、そのすべては「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマに関係するものである。これらの抜粋は、あなたがたが神の働き、神の性質、そして神自身について知るための参考として特に役立つはずだ。これらを用いて、神が自身の業により現わされた、そして人々が知らずにきてしまった神の性質と本質を見ていく。これらの箇所は古いものかもしれないが、わたしたちが今扱っているテーマは新しく、人々が知らず聞いたこともないものだ。あなたがたの中には、理解できないと思う人もいるかもしれない。アダムとエバを取り上げ、そしてまたノアを扱うのは、後戻りすることではないのか、と。あなたがたがどう思うかにかかわらず、これらの箇所はこのテーマを扱う上で非常に有益であり、今日のテーマの教科書、あるいは一次資料としての役割を担うものだ。このテーマについてわたしが話し終わる頃には、わたしがなぜこれらの箇所を選んだのかをあなたがたも理解するはずだ。聖書を読んだことがある人はこれらの箇所を読んだことはあるかもしれないが、本当には理解していない可能性がある。では細かく見ていく前に、一度ざっと通すことにする。

アダムとエバは人類の祖先である。聖書に登場する人物を挙げていくとすれば、まず出てくるのはこの2人だ。次にノア、人類の第2の祖先である。分かるだろうか。では第3の人物は。(アブラハム)。アブラハムのストーリーについてあなたがたは知っているだろうか。ここにいる何人かは知っていると思うが、はっきりと知らない人もいるかもしれない。では第4の人物は。ソドムの滅びの話の中で出てくる人物は。(ロト)。だがロトはこの資料の中には出てこない。資料に出てくるのは。(アブラハム)。アブラハムのストーリーにおいておもに示されているのは、ヤーウェ神が何を言ったかということだ。分かるだろうか。5人目の人物は。(ヨブ)。神はこの段階における働きの中でヨブのストーリーを多く示していないだろうか。あなたがたはこのストーリーをどれほど重要だと思っているだろうか。もし重要と思っているならば、聖書のヨブのストーリーを注意深く読んだことはあるだろうか。ヨブが何を言い、何をしたかを知っているだろうか。この中で一番ヨブのストーリーを読んでいる人は、何回読んだだろうか。頻繁に読むだろうか。香港の姉妹達、教えてくれないか。(恵みの時代の時に2回ほど読んだ)。それ以来読んでいないのか。もしそうならば、恥じるべきことだ。あなたがたに言おう。神の働きのこの段階で、神はヨブのことに何回も言及している。そしてそれは神の意図を反映している。神がヨブにこれほど頻繁に言及していながら、あなたがたがそのことに注意を向けなかったのは、あなたがたがよい人間になること、そして神を畏れ、悪を避けることに興味がないということの証明だ。ただ神が語ったヨブのストーリーを、概要を理解しただけで満足しているということだ。ストーリーの概要を理解しているだけで満足し、ヨブがどのような人物であったかについて興味を持って深く知ろうとせず、またなぜ神が何回もヨブに言及するのか、その背後にある目的について考えようとしなかった。もし神が褒めたこのような人物にさえ注意を払わないならば、あなたがたはいったい何に注意を払うのか。このように神が言及する重要な人物を、あなたがたが興味を持って理解しようとしないのであれば、そこからあなたがたの神の言葉に対する態度のどのようなことがわかるだろうか。嘆かわしいことではないか。このことはあなたがたの多くが実践的なことを行っておらず、真理を追究してはいないということの証明ではないだろうか。もし真理を追求するのなら、神が認めた人々とその人物について神が語ったストーリーについて相応の興味を持つはずだ。あなたが理解できるかどうか、明白だと感じるかどうかにかかわらず、すぐにその箇所を開いて読み、理解しようとし、その例に従い、自分にできることを精一杯するはずだ。それが真理を求める者の態度というものだ。しかし実際には、ここにいるほとんどの人はヨブの話を読んだことがない。このことが意味するところは大きい。

それでは話を元に戻すことにする。この旧約の律法の時代の箇所は、おもに聖書の人物の物語を抜粋したものである。これらの物語は、聖書を読んだことがある人の大多数がよく知っている。これらの人物はとても象徴的な人物だ。物語を読めば、神がこれらの人物に行った業、そして語った言葉は、今日の人々にも明白に通じるものだと感じることができるようになる。これらの聖書の物語と記録を見ると、当時神が業をどのように成し、どのように人々を取り扱ったのかについてよりよく理解できるようになるのである。しかし今日わたしがこれらの箇所を用いるのは、あなたがこれらの物語と登場人物について理解するためではない。これらの人物の物語を通して神が行ったことや神の性質を見ることで、神を理解することが容易になり、神の真の側面を見ることができるようになり、神に対して想像することをやめ、自分の観念にとらわれることをやめ、あいまいな信仰に終止符を打つためである。土台なしで神の性質を理解し、神自身を知っていこうとするならば、自分のどうしようもない無力さに度々苛まれることになり、どこから手を付ければよいか分からなくなる。それだから、人が神をより理解し、神の心を真に理解し、神の性質と神自身について知り、神の存在を純粋に感じ、人間に対する神の心を理解するために、このような方法と取り組み方を使おうと考えたのである。これはあなたがたにとって価値のあることではないか。今これらの物語と聖書箇所を改めて見て、どのように感じるだろうか。わたしが取り上げたこれらの箇所は不要と思うだろうか。先ほど言ったことをもう一度強調したい。これらの人物の物語を見ていく目的は、神がどのように人々に対し業を行うのか、そして神の人間への姿勢がどのようなものであるかをあなたがたが理解するためである。何を通してこれらのことを理解できるだろうか。それは神が過去に行った業と、今神が行っている業が結びつたものを通してである。これらのことが、あなたがたが神についての様々なことを理解する助けとなる。これらのことは真実であり、神をもっと知りたいと思う者に知られ、理解されなければならないものなのである。

では、アダムとエバのストーリーから始める。まず、聖書を読んでいくことにする。

一、アダムとエバ

1.アダムへの神の命令

(創世記2:15-17)ヤーウェ神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。ヤーウェ神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

この箇所からあなたがたは何かを学んだだろうか。この箇所をあなたがたはどのように感じただろうか。なぜ「アダムへの神の命令」を聖書から取り上げるのだろうか。神とアダムが心に描けただろうか。想像してみてほしい…もしあなたがたがこのシーンの中にいたら、神をどのような存在と思うだろうか。あなたがたはどのような感情を抱くだろうか。これは感動の、心温まるシーンである。そこには神と人間しかおらず、その関係の親密さは羨ましいほどだ。神のあふれんばかりの愛は惜しみなく人間に注がれ、人間を包んできた。人間は純粋で、無邪気で、気楽、気ままで、神に見守られて満足して生きている。神は人間を心配してくださり、そして人間は神の護りと祝福の中で生きていた。人間の全ての言動は、神と密接に関係し、神と切り離すことはできない。

この命令は神が人間を創造以来、最初に与えた命令だったといえる。ではこの命令は何を表しているのだろうか。それは神の意志を表しているが、同時に神の人類に対する懸念も表している。これは神の最初の命令であり、そしてこの時初めて神は、人間のことを心配した。どういうことかといえば、神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を持っていたということである。その責任とはどのようなものだろうか。それは人間を守り、顧みるという責任である。人間が神を信頼し従うことを神は望んだ。そしてそれは神が人間に抱いた最初の期待でもある。神はその期待とともに、次のように言った。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。このシンプルな命令に神の意志が現れている。そして神の人間に対する心配をすでに表していたこともわかる。被造物にあって、アダムだけが神の姿に似せて造られ、アダムだけが神の息を吹き込まれ、神と歩み、神と対話できる存在だった。それゆえに神はそのような命令を人間に与えたのである。神はこのことを命じたとき、非常に分かりやすい形で人間が何をすればよいのか、そして何をしてはいけないのかを伝えた。

この極めてシンプルな言葉から、神の心をうかがい知ることができる。わたしたちはここからどのような神の心を見て取れるだろうか。神の心に愛はあるだろうか。そこに神の配慮は現れているのだろうか。この聖書箇所に示されている神の愛と配慮は、頭で理解できるだけでなく、実際に感じることができることだ。そうではないか。わたしは今これらのことを述べてきたが、あなたがたはまだ、これが単なる言葉だと思うだろうか。それほど簡単なものではないのではないか。このことに気づいたことが今までにあるだろうか。神がもし直接あなたにこれらのことを語ったら、あなたはどのように感じるだろうか。もしあなたが無慈悲で、心が冷え切っているなら、何も感じないだろうし、神の愛も理解できず、神の心を理解しようともしないだろう。しかしもしあなたに良心があり、人間性があるなら、見方は違ったものになる。もしそのような人間であるならば、温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じることができるだろう。違うだろうか。これらのことを感じるならば、あなたは神に対しどのように行動するだろうか。神とのつながりを感じるだろうか。心の底から神を愛し、敬うだろうか。あなたの心は神に近づくだろうか。神の愛が人間にとってどれだけ重要かということが、ここから見て取れるだろう。しかしそれよりさらに重要なのは、人間がその神の愛を深く知り、理解することである。事実、神はこの段階の働きにおいて似たようなことを多く語っていないだろうか。しかし、今日の人々は神の心を理解しているだろうか。今ここでわたしが述べた神の心の意味を掴めただろうか。あなたがたはこれほどはっきりしていて分かりやすく、現実に示されている神の心さえ、認識することができない。ゆえにわたしはあなたがたが神に対する本当の認識と理解を得ていないと言うのである。そうではないだろうか。このセクションでわたしが述べるのは以上である。

2.エバの創造

(創世記2:18-20)またヤーウェ神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そしてヤーウェ神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

(創世記2:22-23)ヤーウェ神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

この箇所にはいくつかの鍵となるフレーズがある。次の部分に印をつけてほしい。「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」。ここで全ての生き物に名前をつけたのは誰だったか。それは神ではなく、アダムだった。この部分は人類にある事実を示している。神は人間を知性的な存在として創造した。つまり、人間の知恵は神によるものだということである。これは間違いなく事実である。しかし、なぜだろうか。アダムは神に創造された後、学校へ行っただろうか。アダムは字を読むことができただろうか。神が様々な生き物を造った後、アダムは神が創造した数々の生き物を全て認識することができたのだろうか。神はアダムにそれらの生き物の名前を教えたのだろうか。もちろん、神はアダムに対して生き物にどのような名前をつけたらよいかを教えていない。間違いない。ではアダムはどうして動物に名前をつけることができ、またどのような名前をつけたらよいのかがわかったのだろうか。これらの問いは、神が創造の際にアダムに何を与えたのかという問いに関わるものだ。この「アダムが動物たちに名前をつけることができた」という事実は、神がアダムを造った時に、アダムに知恵を与えたことを証明している。これは鍵となるポイントだ。あなたがたは注意深く聞いていただろうか。もうひとつ、はっきりさせておかなければならない重要な点がある。それは、アダムが生き物に名前を与えた後、神はそれらの動物を、アダムがつけた名前で呼ぶようになったということである。なぜわたしはこのことをわざわざ述べるのか。それは、このこともまた、神の性質に関わることで、わたしが説明する必要がある事柄だからである。

神は人間を創造し、人に息を吹き込み、また自身の知恵、能力、そして自身が持っているものと自身であるものを一定程度与えた。神が人間にこれらのものを全て与えた後、人間は自分で行動することができるようになり、自分で考えられるようになった。もし人間が神の目によいことを思いつき、行うのであれば、神はそれを受け入れ、人のすることに介入することはない。人間の行うことが正しいことである限り、神は人間の思うようにさせておくのである。ではこの「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」という言葉はいったい何を示唆するのだろうか。ここからわかることは、神は人間がつけた動物の名前を変えることは一切なかったということである。アダムがその名前で呼んだのならば、神はその名前を認め、神もその名前で呼んだのだ。神はアダムに意見しただろうか。絶対にそのようなことはない。ではここから、何を読み取ることができるだろうか。神は人間に知恵を与え、人間は様々なことを行うためにその知恵を用いた。そして人間のすることが神の目にあってよいことである限り、神はそれを一切の評価や批判をすることなく受け入れ、理解し、承認したということだ。これは人間や悪魔、あるいはサタンには絶対にできない。ここに神の性質を見ることができるだろうか。人間に、堕落した人間に、あるいはサタンに、他者が自分の目の前で行ったことを自分の行動として認めることができるだろうか。そんなことはもちろんできない。自分達と異なる他者もしくは他の力と彼らは戦うだろうか。勿論戦う。そのとき、もしアダムと一緒にいる者が堕落した人間かサタンであったなら、彼らは間違いなくアダムのしたことを拒否したであろう。自分で考えることができ、独自の見解があることを証明するために、アダムのしたことを全て否定しただろう。「この名前でどうか。」、「いや、私はその名前では呼ばない。私は別の名前で呼ぶ。君はそれをトムと呼んだが、私はハリーと呼ぶことにする」。私は自分の能力を誇示しなければならない。これはどのような本性だろうか。あまりに傲慢ではないか。しかし神にそのような性質は見られるだろうか。神はアダムがしたことに対して、特に反対しただろうか。決してそのようなことはない。神の性質には、論争、傲慢、独善などは一切みられないのである。それは実に明確だ。些細なことだが、神の本質を認識していなければ、そして心から神がどのように働き、どのような態度であるかを理解しようとしなければ、神の性質を認識することはできないし、神の性質に関する表現や明示を見出すことはできない。違うだろうか。今わたしが説明したことに同意できるだろうか。アダムがしたことに対して、神は高圧的に「よくやった。お前は正しいことをした。お前に同意する」とは言わなかった。しかし神は心の中ではアダムを認め、受け入れ、アダムのした事を褒めたのである。これが、人間が神の命令に基づいて行った最初のことであった。神の代理として、神の代わりに人間が行ったことだ。神の目には、これは、神が人間に与えた知性から来るものであった。神はその知性をよいものとして、肯定的に捉えていた。この時アダムが行ったこのことは、神の知恵が人間を通して現れた最初の出来事であり、神の目から見て、よい現れだったのである。ここであなたがたに伝えたいのは、神が自分の持っているものと神であるもの、その知恵の一部を与えたのは、人間が神の性質を現す存在となるためであったということである。このように、生きる被造物が神の存在を体現する者として物事を行うことこそ、まさしく神が人間に望んでいたことなのである。

3.(創世記3:20-21)さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

ではこの3番目の箇所を見ていこう。ここではアダムがエバに与えた名前には意味があるということが語られている。この箇所は、創造された後アダムが自分の考えを持ち、たくさんのことを理解していたことを示すものだ。だがここでは彼が何をどのくらい理解していたかということを掘り下げていくのではない。この3番目箇所でわたしが取り上げたいテーマはそこではない。ではこの箇所で取り上げることとは何か。「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」というところを見てみよう。もしわたしたちが今日この聖句の意味するところを掘り下げなければ、もしかしたらあなたがたは一生この聖句の意味するこころを本当には理解できないかもしれない。最初に、ヒントをあなたがたに与える。アダムとエバが住んでいるエデンの園を想像しよう。神が彼らのもとへやって来たが、彼らは裸だったので隠れる。神には彼らの姿が見えないため、彼らを呼ぶと、彼らは、「私たちはあなたにお会いすることができません。私たちは裸ですから。」と答えた。彼らは裸だったので、神に会おうとしなかったのである。このときヤーウェ神は彼らに何をしただろう。原文にはこう書いてある。「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」。今、神が何の素材で人間の服を作ったか知っているだろうか。神は人間の服を作るために動物の皮を使ったのだった。つまり、神が人間に作ったのは毛皮のコートだ。これが、神が人間のために最初に作った服だ。毛皮のコートというのは今日では高級品で、誰でも着ることのできるものではない。もし誰かに、「人間の祖先が最初に身に着けた衣類は何だったか。」と聞かれたなら、あなたは、「毛皮のコート」と答えればよい。「誰がその毛皮のコートを作ったのか。」と聞かれたなら、「神が作られた。」と答えればよい。これが重要な点なのだ。この服は神によって作られたものだった。これは注目に値することではないだろうか。今わたしが説明したことが、心に描けただろうか。せめて簡単な概要くらいはあるはずだろう。今日このことをあなたがたに伝えているのは、人間が最初に身に着けた服が何であったかを知らせるためではない。では、何が重要なのか。重要なのは毛皮のコートではなく、神が毛皮のコートを与えたことによって表された神の性質、神であるものと持っているものをどのように捉えるか、ということである。

この「ヤーウェ神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」という部分では、アダムとエバと共にいた神は彼らにとってどのような役割をしたのだろうか。人間が2人しかいないこの世界で、神は自身をどのような役割を持つ者として現しただろうか。神としての役割であっただろうか。香港の兄弟姉妹よ、答えてくれないか。(親としての役割)。韓国の兄弟姉妹よ、神はこの時にどのような役割の者として現れたと思うか。(家族の長)。台湾の兄弟姉妹よ、どう思うか。(アダムとエバの家族の一人、つまり家族の一員としての役割)。あなたがたの中には、神はアダムとエバの家族の一員として現れると言う人もいれば、神は家族の長として現れると言う人もあり、また、親として現れると言う人もいる。これらの答えは全て適切だ。だが、わたしが言おうとしていることは何か。神はこの2人の人間を創り、2人を自身の友として扱った。2人の唯一の家族として、神は彼らの生活を見守り、基本的な必要において面倒を見たのである。ここでは、神はアダムとエバの親として現れている。その間、人は神がどれだけ高尚であるか見ることをせず、神の至高、その奥義、そして特に怒りや威厳を見ることをしなかった。人が見るのは神の謙遜、慈愛、人間への思い、神の責任及び配慮である。神の態度やアダムとエバの扱い方は、人間の親が自分の子どもに対して心配するものと同種である。人間の親が自分の息子や娘を愛し、世話をし、面倒を見るのに似ている――現実的で、見ることができ、触れて感知することができる。自身を高く、威厳のある者として位置付けるのではなく、神は人間のために動物の皮で衣服を作ったのである。その毛皮のコートが、裸の身体を覆うためだったか、寒さから守るためだったかは問題ではない。要するに、人間の体を覆うための衣服は神が自分の手で作ったということだ。人間が想像するような、神の考えだけで衣服を作ったり、奇跡的な方法で作ったりしたのではなく、むしろ神にはできない、神がするべきないと人が考えるような方法で作ったのである。そのような簡単なことを敢えて言うまでもないと思う人もいるかもしれない。しかし神に従ってはいたが、神についてぼんやりとしたイメージしか持っていなかった人たちにとっては、この箇所を見ることで神の真実さ、魅力、忠実さ、謙遜をはっきり見ることができるようになる。そして自分が位の高い、力ある存在と考えるどうしようもなく高慢な人たちに、神の真実さや謙遜の前に自分を恥じ入らせ、自惚れていたその頭を下げさせる。ここで現されている神の真実さや謙遜を通して、神の魅力を知るようになる。人の心の中の大きく、愛すべきであり、全能である神が小さく、醜い、吹けば飛ぶようなものになってしまっている。この聖句を読み、ストーリーを聞くとき、このようなことをした神をあなたは見下すだろうか。そういう人もいるかもしれない。しかしある人にとっては全く逆で、神を真実で愛すべきとして捉え、その真実さと愛すべき性質に心動かされるだろう。本当の神の側面をより知っていくことで、神の愛、神が自分の心の中にいてもらえることの重要性、そして神がどんなときも共にいてもらえることに、より深い理解を得るようになる。

ここで、わたしたちの話を現在とつなげてみるべきだろう。もし神が最初に自身が創造した人間に対しこれらの様々な小さなこと、人間が全く考えたり予想したりしないようなものですら人間に対して行うことができるのなら、神は今日の人々に対してもそのようなことをすることは可能だろうか。「可能だ」と言う人もいるだろう。それはなぜだろうか。それは神の本質は偽物ではなく、神の魅力が偽物ではないからである。神の本質は真に存在しており、他者によって付け加えられるものではなく、また時間、場所、時代によって変わるものでも決してないからである。神の真実さや魅力は、人間が注目に値するとも重要とも思わないことをする中に、そして神がするとは思えないようなとても小さなことのなかに真に現されるのである。神は偉ぶってはいない。神の性質や本質のなかには、誇張、偽装、高ぶり、あるいは高慢さは存在しない。神は決して誇らず、かえって人間を愛し、配慮し、世話をしてくれ、忠実さと誠実さをもって自身が創造した人間を導く。人々がこのことをどれだけ感謝し、感じ、また理解できるかにかかわらず、神は間違いなくそうしている。神がそのような実質を持っていると知ることは、人々の神への愛に影響をもたらすだろうか。彼らの神への畏れに影響するだろうか。あなたが神の本当の側面を理解する時、あなたが神とさらに親しくなり、神の人間への愛と配慮にさらに深い感謝を持つことができるようになり、それと同時に神に心を捧げ、そして神に対しての疑いもいぶかりも持たなくなることをわたしは願っている。神はその誠実さ、忠実さ、そして愛をもって、人間のために全てのことを静かに行っている。しかし神は自身の行うこと全てに対して不安を持ったり後悔したりすることは一切なく、また人間から何らかの形でのお返しを必要とすることもなく、人間から何かを得ようとする意図も一切ない。神がこれまでに行ってきたこと全ての唯一の目的は、神が人間の真実な信仰と愛を受け取ることができるようになるためである。ここで最初のテーマについてまとめることにしよう。

これらの話はあなたがたの役に立っているだろうか。どれほど役立っただろうか。(神の愛についてよりよく知り、理解した)。(この交わり方は、将来私たちが神の御言葉をよりよく知り、神の持っておられた感情と神がそれらのことを言った時にその背後にあった意味を深く理解し、そしてその時神が何を感じておられたかを感じ取る助けとなる)。これらの言葉を読んだ後、神の実際の存在をさらに感じる者はいるだろうか。神の存在がうつろなものでも漠然としたものでもなくなっただろうか。そのように感じている人たちは、神があなたの傍らにいて下さると感じるだろうか。その感覚がまだはっきりしていなかったり感じることができなかったりするかもしれない。しかしいつの日かあなたがたが心に神の性質と本質について深い理解と本物の認識を持つようになった時、あなたは神があなたの傍らにいて下さることを感じることになる――ただ今はあなたが心から神を受け入れていないだけだ。これが真実だ。

この交わり方をどのように思うだろうか。ついて来れただろうか。神の働きと神の性質のテーマについてのこのような類の交わり方は、とても重いと思うだろうか。あなたがたはどのように感じたか。(とてもよい。興奮している)。何をもってよいと感じているのか。なぜ興奮しているのか。(エデンの園に戻って、神の側にいるようだった)。「神の性質」というのは実際、全ての人にとってほとんど馴染みのないテーマだ。なぜなら普通あなたが想像したり、本で読んだり、あるいは交わりの中で聞いたりすることは、盲人が象を触っているような感覚をもたらすものだからだ。つまり、手探りで探っているだけで、実際あなたの目では何も見ていないということだ。手で触れるだけでは神に関する基本的認識を得ることはできず、ましてやはっきりとした概念など持つことはできない。それがあなたにもたらすものはさらなる想像であり、そうなればあなたは神の性質や本質が何であるかを正確に定義することはできなくなる。自分の想像から出てくるこれらのはっきりしない要素は、むしろあなたの心をいつも疑いで満たすようである。あなたが何かについて確信が持てず、それでもそのことを理解しようとする時、あなたの心はいつも矛盾と対立を抱えることになる。そして時々それがあなたに混乱すらもたらし、途方にくれさせるのである。神を追い求め、神を知り、神をはっきりと見たいと思っているのに、いつも答えが見つからないように感じるのは苦しいことではないか。もちろん、これらの言葉は神に対する畏れを追い求め、神に満足してもらいたいと願う人々だけに向けられたものである。そのようなことに全く関心のない人たちには、このことは実際関係のないことだ。なぜなら彼らにとっては神の真実さと存在は伝説や幻想であることが望ましく、そうであれば彼らは何でも自分たちのしたいことができ、そうであれば彼らは自分たちが最も偉大かつ最も重要な存在であることができ、そうであれば彼らは結果を気にせずに悪を行うことができ、そうであれば彼らは懲罰を受けたり責任をとったりする必要がなくなり、そうであれば神が悪を行う者について言っていることでさえ自分たちには当てはまらないからである。そのような人々は神の性質を深く知る気はない。神を知ろうとすることと神に関する全てにうんざりしているのである。彼らは神が存在しないほうが好ましいと考える。彼らは神に敵対しており、彼らこそが滅びゆく存在なのである。

次は、ノアの物語と、それがどのようにこの「神の働き、神の性質、そして神自身」と関係しているのかを見ていく。

この聖書の箇所で、あなたがたは神がノアに何をしているのを見て取れるだろうか。おそらくここに座っている全員が聖書に書かれているこの話を読んだことがあり、何かしら知っているだろう。神はノアに箱舟を作らせ、そしてその後洪水によって世界を滅ぼした。神はノアの8人家族を救うためにノアに箱舟を作らせ、それにより彼らが生き残り、次世代の人類の祖先となるようにした。では聖書を読んでいこう。

二、ノア

1.神が世界を洪水で滅ぼそうと考え、ノアに箱舟を作るように命じる

(創世記6:9-14)ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。」

(創世記6:18-22)「ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。ノアはすべて神の命じられたようにした。

このくだりを読んで、ノアがどんな人物であったかの全般的な理解はできただろうか。ノアはどのような人物だったか。聖書にはこう書かれている。「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった」。現代の人々の理解からして、当時の正しい人とはどのような人だったのだろうか。正しい人は完全な人でなければならない。その完全な人というのは、人間の目に完全なのだろうか、それとも神の目に完全なのだろうか。間違いなく、ここでいう完全な人というのは神の目に完全な人であり、人の目に完全な人ではない。それは確かなことだ。人間は盲目で見ることができない。神だけが全地を見、人間一人一人を見ているのであり、神だけがノアが完全な人であったことを知っていたのである。したがって、洪水で世界を滅ぼす神の計画は、神がノアを召し出した時から始まっていた。

その時代、神はノアにとても重要な仕事をさせようと考えた。なぜ神はそうしなければならなかったのか。それは、その時に神は計画を持っていたからである。神の計画は、洪水で世界を滅ぼすことだった。なぜ世界を滅ぼすのか。聖書にはこう書かれている。「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた」。「暴虐が地に満ちた」という部分から、何を見て取れるだろうか。世界とその人々はこれ以上ないほどに堕落しており、それが「暴虐が地に満ちた」という当時の状態である。今日の言葉で言えば、「暴虐が地に満ちた」は、「全てのことがめちゃくちゃだった」ということである。人はさまざまな職業において無秩序であり、物事は混沌としており、管理が難しいということである。神の目には、世の人間は堕落しすぎていたという意味である。どれほど堕落していたのだろうか。それは神がもはや目も当てられないほど、そしてもはや忍耐の限界を超えるほどの堕落である。神が滅ぼすと決めたほどの堕落である。神が世界を滅ぼすと決めたとき、箱舟を作る者を探すことを計画した。そしてその人物にノアを選び、ノアに箱舟を作らせた。なぜ神はノアを選んだのであろうか。神の目にはノアは正しい者であり、神がどんな指示を出そうともそれに従って物事を行った。つまり神の言うことは何でも、ノアは行うということだ。神は神と共に働き、任せられたものを完成させ、地上での自身の計画を達成するこのような者を探していた。当時、ノア以外でこの仕事を完成させることができた者はいたか。いや、絶対にいなかった。ノアが唯一の候補者であり、神が任せた仕事を完成できる唯一の人間であった。ゆえに神はノアを選んだ。しかし、今日、神の人々を救う範囲や基準は、当時のものと同じだろうか。答えは、「もちろん違いはある」だ。なぜわたしはこれを聞くのか。当時ノアは神の目にあって、唯一正しい人間だった。そして彼の妻と息子達、そして息子の妻達は皆正しい者ではなかったと推測されるが、ノアのゆえに神は子どもたちと妻も生かしたということだ。神は、神が今日の人々に求める方法で彼らに求めることはせず、むしろ、ノアの家族8人全員を生かしたのである。ノアの家族は、ノアの義のゆえに神の祝福を受けた。もしノアがいなかったら、誰も神が任せた仕事を全うできなかった。したがって、本来はノアだけが当時の世界の破滅を逃れられる者だった。しかし家族の他の者ははおこぼれに与ることができた。つまり、神が正式に神の経営の働きを開始する前には、神が人間を扱い、そして人間に求めた原則と基準は相対的リラックスしたものだったのだ。今日の人々からしてみれば、神のノアの家族に対する扱いは公平さに欠けると感じられるだろう。しかし神がどれほどまでに今日の人々に働き、どれほどの言葉を与えているかということを考えれば、当時の神の働きを考えると、神がノアの家族8人に対して行ったことは、単に働きの原則でしかない。ノアの家族と今日の人々を比較した場合、どちらがより多くを神から受けているだろうか。

ノアが召しを受けたということは単純な事実だが、この聖書のくだりに現れている神の性質、神の意志、そして神の本質というわたしたちの話の中心は単純ではない。これらの神の側面を理解するためには、まず神が召したいと思うのはどのような人物なのかを理解しなければならない。そしてその後、神の性質、意志、そして本質を理解することだ。このことは非常に重要だ。では神の目には、この召された人物はどのような人物だったのだろうか。その人物は神の言葉を聞くことができ、そして指示に従うことができる人物でなければならない。それと同時に、その人物には責任感があり、自分が責任を持ってやるべきことを果たして神の言葉を達成すべきと捉えることができる人物でなければならない。では、その人物は神を知る人物でなければならないか。そうではない。当時、ノアは神からの教えをそれほど受けておらず、神の働きも経験していなかった。したがって、ノアの神に対する認識は微々たるものであった。この聖書のくだりにノアは神と共に歩んだと書いてはあるが、ノアは神の姿を見ただろうか。もちろん見てはいない。なぜならこの時代には、人のところにやってくるのは神の使いだけであった。使いたちは言葉や行いで神を表すことはできたが、神の意志や考えを伝えているに過ぎなかった。神の姿は直接明らかにはされてはいないのである。この聖書のくだりでわたしたちが見ることができるのは、基本的に、このノアという人物が何をしなければならなかったのか、そして神のノアに対する指示は何だったのかということである。ではここで現された神の本質は何か。神のすることは全てが緻密に計画されている。神が物事や状況を見るとき、神の目にはそれを測る基準があり、その基準によって、神はその事や状況に対応するための計画を開始するのか、どのようにそれを扱うのかを決める。神は無関心であったり無感情であったりするのではない。実際には全くその逆である。この聖書のくだりでは神はノアにこう言っている。「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。この時神は人間だけを滅ぼすと言っているだろうか。そうは言っていない。神は全て肉なるものを滅ぼすと言っている。なぜ神は滅ぼそうとしたのか。ここにもう一つの神の性質の現れがある。神の目には、人間の堕落、全ての肉なるものの汚れ、暴力、不従順に対する忍耐の限界があった。その限界とは何だろうか。神はこう言っている。「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」。この「すべての人が地の上でその道を乱したからである」という部分は何を意味するのだろうか。それは、神に従った者、神の名を呼んだ者、かつて神に全焼のいけにえを捧げた者、言葉で神の存在を認め賛美さえした者も含む生きる全ての者も、彼らの態度が堕落に満ち、神の目に抵触したことがあるので、神は彼らを滅ぼさなければならないということだ。それが神の限界だった。ではどの程度まで、神は人間に耐えられ、肉なるものの堕落に耐えられたのか。全ての人々は、神に従っていた人であろうと未信者であろうと、正しい道を歩んではいなかった。人間は単に道徳的に堕落し悪に満ちていただけではない。神の存在を信じていた者はおらず、ましてや神が世界を支配していることや、神が人々に光を与え正しい道へ導くことができると信じていた者などいなかった。人間は神の存在を憎み、神の存在を認めなかった。人間の堕落がここまで来てしまうと、神はもう忍耐することはない。ではその状態は何と取って代わられるのか。神の怒りと罰の到来である。それは神の性質の現れの一部分ではないか。この時代にあっても、神の目にあって正しい者はいるのだろうか。神の目にあって完全な者はいるのだろうか。今の時代は地上の全て肉なる者の振る舞いが神の目に堕落と映る時代だろうか。この日この時代に、神が完全にしたいと望む者、神に従い、神の救いを受け入れている者を除けば、全て肉なる者は神の忍耐の限界に達しているのではないだろうか。身の回りに起こる全ての事、自分の目で見て耳で聞く事、そしてそれぞれがこの世で日々経験することは不法で満ちてはいないだろうか。神の目には、このような時代、このような世界はもう滅ぼされるべきものなのではないだろうか。今の時代背景はノアの時代背景とは全く違うが、人間の堕落に対する神の感情と怒りは、ノアの時代のものと全く同じである。神はその働きゆえに耐えることができる。しかし神の目からすれば、全ての状況や条件を考えるならば、この世界はとうの昔に滅ぼされているべきものなのだ。今の世界の状況は、洪水で滅ぼされる以前の世界よりもはるかにひどいものだ。では当時と今の違いは何だろうか。その違いこそが神を最も悲しませるものであり、そしておそらく誰も理解できていないものなのである。

神が洪水で世界を滅ぼそうとしていた時、神はノアを呼び、箱舟を作らせ、備えをさせることができた。神はノアという一人の人間を召し出し、自身のためにこのような働きをさせることができた。しかし今の時代には、神が召し出すことができる者は誰もいない。なぜだろうか。ここにいる全ての人がその理由をよくわかっていることと思う。説明が必要だろうか。あえて言葉にすれば、あなたがたの顔をつぶし、悲しませてしまうことになるかもしれない。ある人たちはこう言うだろう。「私たちは神の目にあって正しい者ではなく、完璧ではないが、それでももし神が私たちに何かを命じるならば、その命令を実行する力はある。以前、神が大災害が来ると言われた時、その時に備えて私たちは食料など必要なものを準備し始めた。それら全ては神の要求に応えたということではないか。神の働きに協力したということではないのか。私たちがそこでしたことというのは、ノアのしたことと比べられないだろうか。私たちが行ったことは本当の従順ではないのか。神の命令に従っていたのではないのか。私たちは神の言葉を信じていたからこそこれらのことを行ったのではないのか。だとすればなぜ神は悲しむのか。なぜ神は召し出せる者がいないと言われるのか」と。では、あなたがたが行ったこととノアが行ったことに違いはあるだろうか。どのような違いがあるか。(来る災害に備えて食べ物を準備するのは、自分自身の意思だ)。(ノアは神の目に正しい人であったが、私たちの行いは「正しさ」には届かない)。あなたの言ったことは、さほど外れてはいない。ノアが行ったことは、今日の人々がしていることとは実質的に異なる。ノアが神に指示されたことを実行したとき、ノアは神の意図を知らなかった。神が何を成し遂げたいのかをわかっていなかった。神はノアに命令を与え、すべきことを伝えただけで、あまり説明はしなかったが、ノアはとにかく実行した。ノアは神の意図を自分なりに理解しようとしたり、神を拒絶したり、疑いを抱いたりすることはなかった。彼は純粋でシンプルな心でただ従ったのである。神がノアにするよう導いたことをノアは全て行った。そして神の言葉に従順に聞き従うことはノアが事を行ううえでの信念だった。神に任されたことを、ノアはそのようにまっすぐに、シンプルに行った。彼の本質、すなわち彼の行動の本質は従順であり、先読みしたり、拒否したりせず、さらに自分の私的な利益や損得を考えなかったことだ。さらに言えば、神が洪水で世界を滅ぼすと言ったとき、ノアはそれがいつであるとか、その真意を問うといったことはせず、どのように世界を滅ぼすのかも聞かなかった。ノアはただ、神が命じたように行ったのである。箱舟を何でどのように造るのか、神が指示した通りにノアはそれを造り、しかも直ちにとりかかった。彼は神に満足していただきたい一心でそうしたのだ。彼は自分が災害から逃れるためにこれを行っただろうか。それは違う。世界が滅ぼされるまでにあとどれほどの年月が残されているかを彼は神に聞いただろうか。いや、聞いていない。箱舟を作るのにどれくらいの時間がかかるのかを、彼は神に聞いたか、あるいは知っていただろうか。それも彼は知らなかった。彼はただ従い、聞き、言われた通りに行ったのである。今日の人々はそうではない。神の言葉から少しでも情報が漏れれば、また何か自分に妨害や困難が起こりそうな兆候を感じれば、彼らはただちに行動をとる。何としてでも、どんな代価を払っても、災害後に必要な食べ物、飲み物その他のものを準備し、災害が来た時の避難経路さえ計画する。さらに興味深いのは、このような時には、人間の脳は非常に「使える」ものなのである。神がどんな指示も与えていないときには、人間は非常に的確に物事を計画することができる。「完璧」という言葉が大げさではないくらいに、だ。しかし神の言うことや神の意図が何であるか、神が何を望むかについては、誰も気にかけず、知ろうともしないのである。これこそがノアと、今日の人々の最大の違いではないか。

このノアの物語の記述から、神の性質の一部を見て取れるだろうか。人間の堕落、汚れ、暴力に対する神の忍耐には限界がある。その限界に達すると、神はもう耐えることはしない。新しい経営と新しい計画を開始し、神がしなければいけないことを開始し、神の業と、神の性質のもう一つの面を現すのである。それは、神を決して怒らせてはいけないという意味でもなければ、神は権威と怒りに満ちているという意味でもなく、人間を滅ぼすことができると示すためでもない。神の性質、神の聖い本質が、このような人間が自身の前で生き、自身の支配の下で生きていることをこれ以上許さず、これ以上耐えることもできないのである。つまり、全ての人間が神に敵対していたとき、地上で神が救うことができる人間がいなくなったとき、神はそのような人間に対し忍耐することをやめ、一切の躊躇なく、そのような人間を滅ぼす計画を実行するのである。これらの神の行動は、神の性質によるところなのである。これは必然の結果であり、神の支配の下にある全ての被造物はこれに耐えなければならない。これは、この時代に、神が自身の計画を全うし、救おうとしている人々を救うことが待ちきれないということではないのか。このような状況で神が最も問題とすることは何か。それは、神に全く付き従わない者たちやどちらにしても神に反対する者たちがどのように自身を扱い、拒否するかでも、人間がどのように神を中傷するかでもない。自身に従う者たち、すなわち神の経営計画において救いの対象となる人々が、神によって全き者となったかどうか、彼らが神自身が満足する者になったかどうかが、神にとっては問題なのである。神に付き従う者以外の人間に対しては、神は時々多少の罰をもってその怒りを示すだけである。例えば、津波、地震、火山噴火などである。それと同時に、神は神に従う者とまもなく救われる者を強固に保護し世話をする。神の性質とは次のようなものだ。神は自分が完全にしようとする人々には桁違いの忍耐と寛容さを示し、待てる限り待ち続ける一方で、神に付き従わずに敵対するサタンの輩を激しく忌み嫌う。神はこのサタンの輩が自分に従い礼拝するかは気にかけてはいないが、彼らに対する忍耐を持ちながらも彼らを忌み、神がこのサタンの輩の最後を決めると同時に、自身の経営計画が段階的に進んでいくのを待っている。

次の箇所を見ていこう。

2.神が洪水後にノアに与えた祝福

(創世記9:1-6)神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」。

この箇所からあなたがたは何を見るだろうか。なぜわたしはこの箇所を選んだのだろうか。なぜわたしはノアとその家族の箱舟での生活の様子から抜粋しなかったのだろうか。今日のテーマは箱舟の生活の様子とはあまり関係がないからである。今わたしたちは神の性質に注目している。もし箱舟での生活についての詳細を知りたかったら、自分で聖書を読めば良い。ここではその話はしない。今日ここで扱うおもな点は、神の業をどのように知るか、である。

ノアが神の命令を受け入れ箱舟を作り、そして神が洪水で世界を滅ぼした日々を生きた後、ノアの8人家族全員は生き延びた。ノアの8人家族を除いては、全ての人間は滅ぼされ、そして全ての生き物も滅ぼされた。神はノアに祝福を与え、ノアと彼の息子たちにいくつかのことを語った。これらは神がノアに授けたことであり、ノアへの神の祝福でもあった。これらは神の言葉に耳を傾け、神の指示を受け入れることができる者に神が与える祝福と約束であり、神が人々を報いる方法でもある。つまり、ノアが完全な人だったかどうか、あるいは正しい人であったかどうか、そしてノアがどれだけ神について知っていたかに関わらず、端的に言って、ノアと彼の3人の息子たちは皆、神の言葉を聞き、神の業に協力し、神の命令に従ってするべきことをした。その結果として彼らは、神が人間や様々な種類の動物を洪水によって滅ぼした後にそれらの生き物が生きながらえるための助けとなり、そうすることで神の経営計画の次の段階に対して大きな貢献をしたのである。神はノアが行った全てのことのゆえに、彼を祝福した。今日の人々は、ノアがした事など語る価値もないと思うかもしれない。「ノアは何もしなかった。神はノアが生き残るよう心に決めていた。ゆえにノアは絶対に助かることになっていたのだ。彼が生き延びたのは彼自身の貢献によるものではない。人間は受動的なので、神がそうしたかっただけだ」と考える人すらいるかもしれない。しかしそれは神が考えていたことではない。神からすれば、その人が偉大な者であってもなくても、神を聞くことができ、神の命令と神の任務に従い、神の業、神の意志、神の計画に協力することで神の意志と計画が円滑に達成されるようにするならば、その行いは神に覚えてもらうに値し、また神の祝福を受けるに値するのである。神はそのような人々を大切にし、そして神は彼らの行動、そして神への愛と思いを尊いものとするのだ。それが神の姿勢である。ではなぜ、神はノアを祝福したのか。人の行動と従順を神はそのように扱うからである。

ノアへの神の祝福に関して、次のように言う人もいるだろう。「人が神に従い、神を満足させるのなら、神は人を祝福するべきで、それは当たり前のことではないか」。そのように言えるだろうか。ある人々は「そうは言えない」と言う。なぜそのように言えないのだろうか。ある人々は「人間は神の祝福を楽しむのに値しないからだ」と言う。しかしそれは完全には正しくない。なぜなら人が神の任務を受け入れる時、神自身がその人の行動の良し悪しを決める基準、その人が従ったかどうかを決める基準、その人が神の心を満足させたかを決める基準、彼らの行ったことが適確だったかどうかを決める基準を持っているからである。神が問題とするのはその人の心であり、彼らの表面上の行動ではない。人がそれを行っている限り、どのようなやり方をしていても、神はその人を祝福すべきだということはない。それは人々の神への誤解だ。神は物事の最終結果だけを見るのではなく、むしろ物事が進んでいく中で人の心がどうであるか、人の態度がどのようなものであるかに重きを置き、彼らの心に従順、配慮、そして神を満足させたいという願いがあるかどうかを見る。当時、ノアは神についてどれほど知っていただろうか。今あなたがたが知っているほどたくさんの教義を知っていただろうか。神の概念や知識などのような真理という観点でいえば、ノアはあなたがたほどに育てられ、牧養をされていただろうか。いや、そうではなかった。しかし否定できない事実がひとつある。今日の人々の意識や認識の中、あるいは心の深い奥底にある神の概念や態度というのは、ぼんやりとして明確ではない。神の存在に消極的な態度をとる人々すらいると言える。しかしノアの心、ノアの意識の中では、神の存在いうのは絶対的で疑う余地のないものだった。それゆえノアの神への従順は純粋で、試みに耐えうるものだった。ノアの心は純粋で、神に対して開かれていたのだ。ノアは神のひとつひとつの言葉に納得して従うために多くの教義的認識は必要ではなく、また、神がノアに任せた任務を受け入れ、神がノアにさせることが何でもできるようになるために多くの事実を用いて神の存在を証明する必要もなかった。これこそがノアと今日の人々の実質的な違いであり、また正確に言うと、神の目にあって完全な人とはどのような人であるかの真の定義である。神が欲しているのはノアのような人々だ。ノアは神が賛辞を送る類の人であり、そしてまさしく神が祝福する類の人なのである。あなたがたはこのことから何かを悟っただろうか。人はうわべでその人を判断するが、神はその人の心と本質を見る。神は人が神自身に対して中途半端な心や疑いを持つことを許さず、いかなる方法によっても神自身を疑うことも試みることも許さない。したがって、今日の人々は神の言葉と向き合っており、神と向き合っていると言えたとしても、彼らの心の中の深いところにあるもの、彼らの堕落した本質の存在と、彼らの神に敵対する態度により、彼らの神に対する真の信仰は妨げられており、神への従順から遮断されているのである。それゆえに、彼らがノアに授けた祝福と同じ祝福に到達することは非常に難しいのである。

3.神と人間との契約のしるしとして虹を作る

(創世記9:11-13)「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

次に、神がどのように人間との契約のしるしとして虹を作ったかをこの聖書の箇所から見ていこう。

ほとんどの人々は虹が何であるか知っているし、また虹に関係するストーリーをいくつか聞いたことがある。聖書の虹についてのストーリーは、ある人々は信じているし、別の人々は伝説として捉えている。また、全く信じていない人々もいる。いずれにしても、虹に関係して起こった全てのことは、神が一度したことであり、神の経営計画の過程の中で起こったことである。これらのことは聖書に正確に記述されている。これらの記述は、当時神はどのような気持ちだったのか、あるいはこれらの神が言った言葉の背後にある意図は何だったのかといったことをわたしたちに教えることはない。それ以上に、神がこれらのことを言ったとき神が何を感じていたかをわかることのできる者などいない。しかしながら、このこと全体における神の心境は、文の行間に現れている。まるで神の当時の考えが、ひとつひとつの言葉と言い回しを通してページから飛び出てくるように、である。

人々は神の考えを心に留めるべきであり、最優先に知ろうとすべきである。神の考えは人間の神に対する理解に密接に関係しているものであり、人間の神への理解は、人間がいのちに入ることと切り離せないものだからである。ではこれらのことが起こったとき、神は何を考えていたのだろうか。

はじめに神は人間を創造した。神の目にあって人間は非常によく、神と親密だった。しかし神に反抗した後、彼らは洪水によって滅ぼされた。そんな人間が、このように一瞬で消えてしまうことは神を悲しませただろうか。もちろん悲しませた。では神の痛みの表現は何だったか。聖書の記述には何とあるか。次のように書いてある。「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。このシンプルな文章が神の思いを表現している。この世界の滅びは神の心を非常に痛めた。人間の言葉で言えば、神はとても悲しかったのである。わたしたちは以下のことを想像できる。かつて命で満ちていた地球は洪水によって滅ぼされた後、どのような姿だっただろうか。かつては人で満ちていた地球は今、どのようになったのだろうか。人の住居もなく、生物もなく、地は水で満ち、水面はひどく汚れている。そんな光景は、神が世界を創造したときの神の本来の考えだっただろうか。もちろん違う。神の本来の考えは地の至るところに命を見ること、自分が創造した人間が自分を礼拝しているのを見ることだった。ノアだけが神を礼拝するのではなく、あるいはノアだけが神の召しに答え、与えた任務を全うできる者であるのではない。しかし人間が一掃された時、神が見たのはもともと神が意図していたことではなく、むしろそれとは完全に逆のものだった。これで神の心が痛まないことがあろうか。神が自身の性質を現し、自身の感情を表しているとき、神はある決断をした。神はどのような決断をしたか。人間との誓い、神が洪水によって二度と人類を滅ぼさないという約束として、雲の中に虹(注:わたしたちが見る虹)をかけたのだ。それは同時に、神が一度世界を洪水によって滅ぼしたことを伝え、なぜ神がそのようなことをしたのかを人間に永遠に思い出させるためでもあった。

この時世界を滅ぼすということは、神が望んだことだったか。それは決して神が望んだことではなかった。わたしたちは世界の滅びの後の地上の痛ましい光景をわずかに想像することはできるかもしれないが、当時それが神の目にどのようなものであったかということに関しては、わたしたちの想像ははるか及ばない。それが当時の人々であっても今日の人々であっても、神がその光景、すなわち洪水での滅びの後の世界を見た時の神の感情を想像あるいは理解できる者は誰もいないと言える。人間の不従順故に神はこのことをしなければならなかったのであるが、この洪水による世界の滅びによって引き起こされた神の心の痛みは、人間には計り知れないものである。それゆえ神は人間と契約を結んだ。つまり神が一度このようなことをしたことを思い起こすよう人々に伝えるため、そして神が二度とこのような方法で世界を滅ぼすようなことはしないと彼らに誓うためである。この契約に、わたしたちは神の心を見る。神の心は人間を滅ぼしたときに非常に痛んだことをわたしたちは見る。人間的な言い方をすれば、神は人間を滅ぼして人間が地上から消えるのを見た時、神の心は涙を流し血を流したのである。これが最適な表現ではないだろうか。これらの言葉は人間の感情を表すために人間により用いられるものであるが、人間の言葉は不十分すぎるため、それらを用いて神の感情を説明するのはわたしからするとそれほど悪くなく、また行き過ぎでもない。少なくともそれは、神の当時の心境がどのようなものであったかについて非常に生気溢れる、非常に適切な理解をあなたがたに与えるものだ。あなたがたは今もう一度虹を見るときに何を思うだろうか。少なくとも、神が洪水で世界を滅ぼした時にどれほど悲しんだかをあなたがたは思い出すだろう。神は世界を憎み人間を忌み嫌いはしたが、神が自らの手で創造した人間を滅ぼした時、どれほど神の心が痛み、滅ぼすことを惜しみ、気は重く、耐え難く感じていたかをあなたがたは思い出すだろう。ノアの8人家族だけが神の唯一の慰めだった。神が骨身を惜しまず全てのものを創造した意味があったと思えるのは、ノアの協力があったからだった。神が苦しんでいた時、神にとってそれだけがその心の痛みを和らげるものだったのである。それ以来、神は彼らが神の呪いではなく祝福の下で生きること、洪水によって世界が滅ぼされるのを彼らが二度と見ないこと、そして彼ら自身も滅ぼされないことを望み、人間への期待の全てをノアの家族に託した。

ここからわたしたちは、神の性質のどのような面を理解すべきだろうか。人間が神に敵対したため、神は人間を忌み嫌った。しかし神の人間に対する思い、配慮、憐れみは変わることがなかった。人間を滅ぼした時でさえ、神の心は変わってはいなかった。人間が堕落と神への不従順に満ち、それが一定の程度に達したとき、神は自身の性質と本質、そして神の原則のゆえにこのような人間を滅ぼさなければならなかった。しかし、神の本質のゆえに、神はそれでも人間を憐れみ、様々な方法で人間を贖い、彼らを生かし続けたいとすら願った。しかしながら人間は神に反逆し、神への不従順を続け、神の救いを受け入れることを拒絶した――つまり神のよい意図を受け入れることを拒んだ。神がどのように人間に呼びかけ、思い出させ、与え、助け、寛容に接しても、人間はそのことを理解または感謝せず、あるいは注意を払うこともしなかった。痛みの中にあっても、神は人間が心を改めるのを待ち、最大限の寛容を人間に与えることを忘れなかった。そして神が自身の限界に達した後、神は自身が行わなければならなかったことを迷いなく行った。別の言い方をすれば、神が人間を滅ぼすことを計画し始めた時から、実際に人間を滅ぼす働きを正式に始めるまでの間には、一定の期間と過程があったということだ。この過程は人間が心を改める機会を与えるために存在した。そしてそれは神が人間に与えた最後のチャンスだった。では神が実際に人間を滅ぼすまでの期間、神は何をしていたのだろうか。神は人間に思い起こさせ、忠告するために多くの働きをしていたのである。神の心がどれほどの痛みと悲しみにあったかに関わらず、神は人間を配慮し、心配し、溢れるほどの憐れみを人間に注ぎ続けたのである。このことからわたしたちは何を見るだろうか。神の人間に対する愛が真実であって、お世辞のようなものだけでないことがはっきり見て取れる。その愛は実際に存在し、感じ知ることができ、偽物ではなく、汚れたり、欺いたり、あるいは偽装したりしていないものである。神は自分が愛すべき者であることを人々に見させるために、騙したり、イメージを繕ったりすることは決してしない。偽証によって自分の魅力を人々に見せようとすることも、自分の魅力や聖さを誇示することもない。このような神の性質は人間の愛を受けるに値するものではないか。礼拝されるに値するのではないだろうか。大切にされるに値するのではないだろうか。ここで、わたしはあなたがたに尋ねたい。これらのことを聞いた今、神の偉大さは単に紙に書かれている言葉だけのものだと思うか。神の魅力はただの虚しい言葉か。違う。絶対に違う。神の至高、偉大さ、聖さ、寛大さ、愛…これら全ての様々な神の性質と本質の側面は、神が業を行うたびに現れるものであり、神の人間に対する意志が具現化されたものであり、そして全ての人間に対し履行され、反映されるものである。あなたがこれまでにそう感じたことがあるかどうかに関わらず、神は全ての人をあらゆる方法の限りを尽くして思いをはせ、一人一人の心を温めるため、そして一人一人の霊を呼び覚ますため、誠実な心、知恵、そして様々な方法を用いている。これは議論の余地のない事実だ。何人ここに座っているかに関わらず、一人一人が、神の寛大さ、忍耐、愛をそれぞれ経験し、感じてきている。端的に言って、それらの神の経験、そして神に対する感じ方または認識と言った肯定的なものは全て神からのものである。そのような自分が得てきた神の経験と認識を融合させ、あなたがたは今日読んだこれらの聖書のくだりと結びつけることにより、神についてのより現実的で正しい理解を身につけることができただろうか。

このストーリーを読み、この出来事を通して現されている神の性質のいくつかを理解したあなたがたは、どのような神への真新しい理解を得ただろうか。神と神の心について、より深い理解を得ただろうか。再びノアのストーリーを読むとき、以前とは違った思いを持つだろうか。あなたがたの視点から見て、これらの言葉を伝えることは不要だったと思うだろうか。これらの言葉について聞いてみて、あなたがたはこれが必要なかったと思うだろうか。必要だったのではないだろうか。わたしたちが読んできたのは物語だが、これは神が一度は行った業の真の記録である。わたしの目的はこれらの物語や登場人物の詳細をあなたがたに深く理解してもらうためでも、あなたがたが登場人物を学ぶためでもなく、ましてや聖書を改めて勉強するためなどではない。わかるだろうか。これらのストーリーは、あなたがたの神に対する認識の助けになっただろうか。このストーリーはあなたがたの神への理解に何を与えてくれただろうか。香港の教会の兄弟姉妹よ、教えてくれないか。(神の愛は私たち堕落した人間は誰も持っていないものだということがわかった)。韓国の教会の兄弟姉妹よ、教えてくれないか。(神の人間への愛は真実だということが分かった。神の人間への愛は神のご性質を現すものであり、神の偉大さ、聖さ、至高、寛大さを現すものであることが分かった。このようなストーリーを通してそれら全てが神のご性質の一部分であることをより知ることができ、そして私たちがより深く理解しようとする価値のあるものであることも知ることができる)。(先ほどのような交わりを通して、一方では義であり聖い神のご性質を私は見ることができ、そしてもう一方では、神の人間への思い、神の人間への憐れみ、そして神のすることの全て、また神の考えることや思うことの全てに神の人間に対する愛と配慮が現われていることも私は見ることができる)。(私は、以前は神が洪水を用いて世界を滅ぼしたのは人間が一定程度まで邪悪になったためであり、そして神が人間を滅ぼしたのは人間を憎んでいたからであるかのように理解していた。今日神がノアのストーリーについて語り、神の心は苦しみに満ちていたことを知ってはじめて、実は、神は人間を滅ぼしたくはなかったことを悟った。単に人間が不従順すぎたために、人間を滅ぼすほかなかっただけだった。事実、神の心は人間を滅ぼした時、悲しみに満ちていた。このことから神のご性質に人間への思いと配慮を見ることができる。これは私が今まで知らなかったことだ。かつて私はただ人間が邪悪すぎるゆえに神は滅ぼしたとだけ考えていた。私の理解はそれほど表面的だった)。素晴らしい。次の方もどうぞ。(私はこれを聞いてとても影響を受けています。私は聖書を読んだことはありましたが、今日のように、神がこれらのことを直接分析して私たちが神を知ることができるという経験は初めてです。このように聖書を理解できるよう神が私たちを導いてくださり、人間が堕落する以前、神の本質は人類への愛と配慮であったことを私に理解させました。人間が堕落したときから今の終わりの日まで、神はずっとその義のご性質を現しながらも、神の人間への愛と思いは変わらない。それにより、神の愛の本質が、創造から今まで、人間の堕落にも関わらず決して変わらないことがわかります。)(今日私は、神の本質はその働かれる時や場所によって変わることのないことを理解しました。また、神が世界を創造するにしても、あるいは人間の堕落の後に滅ぼすにしても、神のすること全てには意味があり、そして神のご性質を内包するものだということも理解しました。それによって私は神の愛が永遠で計り知れないことを理解し、そして他の兄弟姉妹が言ったように、神の世界を滅ぼした時の人間に対する配慮と憐れみも知りました)。(私はこのようなことは今まで知りませんでした。今日の話を聞いて、神は真に信頼できるお方で、真に信じるに値するお方で、信仰を持つ価値のあるお方で、実際に存在されるお方だと私は感じます。神のご性質と神の愛がこれほどまでに真に揺るぎないものであることが良く分かります。今日の話を聞いて、そう感じました)。素晴らしい。今日の話をあなたがたはしっかり心に受けとめたようだ。

今日話した聖書の箇所を含む聖書全体に通じるある事実にあなたがたは気づいただろうか。神は自分の考えを表現したり、人間への愛と配慮を説明したりするために自身の言葉を用いたことがあるだろうか。神がどれだけ人間を思い、愛しているかを神が平易な言葉を使って表した記録はあるだろうか。ない。違うだろうか。この中の実に多くの人が聖書あるいは聖書以外の本を読んだことがあるが、あなたがたの中の1人でもそのような言葉を見たことのある人はいるか。絶対にいない。つまり、神の言葉や神の業の記録を含む聖書の記述の中では、どの時代あるいはどの期間にあっても、神が自身の感情を説明したり、人間への愛や思いを表現するために自身の方法を用いたり、あるいは自身の気持ちや感情を伝えるために言葉や行動を用いたことはない――これが事実ではないだろうか。なぜわたしはこう言うのか。なぜこれを示さなければならなかったのか。それは、これもまた神の魅力と神の性質を内包しているからである。

神が人間を創造した。彼らが堕落していようと神に付き従っていようと、神は人間を自分の愛する者として、あるいは人間的な言い方をすれば「最愛の存在」として接し、オモチャのようには扱わなかった。神は自分が創造主であり、人間は神が創造したものだと言っている。ということは、そこには少しの格の違いがあるように思われるが、実際には神が人間に対し行ってきたことというのは、この関係の性質をはるかに越えるものである。神は人間を愛し、思い、そして配慮してくれる。そして常に絶えることなく人間に与え続けてくれる。神はそれを心の中で余計な仕事とも、多くの賛辞に値することとも感じていない。また神は人間を救い、彼らに与え、全てを与えることを人間への大きな貢献とも思っていない。神はただ静かに、神自身のやり方で、神自身の本質を通して、自身の持っているものとその存在そのものを与えてくれるのである。どれだけ人間に与えてくれていても、どれだけ助けても、神はそれを手柄と考えたり、それによって手柄をたてようと考えたりしない。これは神の本質によるものであり、そしてまさしく神の性質の真なる表現なのである。それゆえ、聖書その他の本の中に神が自身の考えを現わしているものを見つけることもできなければ、また、自身が行う働きに関して人間に対する大きな愛を説明したり表明したりして人間に自身への敬意を感じさせたり称賛させたりするようなものを見つけることはできないのである。神は傷ついている時や心が激しく痛む時でさえ、ひとり静かにひたすらその傷と痛みに耐えながら、人間に対する責任あるいは思いを忘れずにいる。その一方で神は、いつものように、人間に与え続けるのである。人間は神をしばしば賛美したり証しをしたりするが、それらのどれもが神に要求されているものではない。なぜなら神は、人間に感謝されたり見返りを得たりするために人間によい働きをすることなどないからである。神を畏れ悪を避ける人々、誠をもって神についていき、神にうかがい、神に忠実で神に従う人々は、神の祝福をしばしば受け取るのであり、神はたくさんの祝福を惜しみなくこれらの人々に与えるのである。さらに、人々が神から受け取る祝福は、しばしば人間の想像を超えるものであり、人間が自らの行いや自らが払った犠牲に対する代価として受け取れるものをはるかに超えている。人間が神の祝福を楽しむ時、神の行っていることを気にかける人はいるだろうか。神がどのように感じているかに配慮を示す人はいるだろうか。神の痛みを理解しようとする人はいるだろうか。これらの問いへの正確な答えは「いない」である。当時神が感じていた痛みを理解できる者が、ノアを含めた全人類の中にひとりでもいるだろうか。神がなぜあのような契約を打ち立てたかを理解することができる人はいるだろうか。人間には理解できない。人間は神の痛みを理解しない。それは人間が神の痛みを理解できないからでも、神と人間の差によるものでも、神と人間の立場の違いからでもない。人間が単に神がどう感じているかを気にかけることすらしないからである。神は独立した存在なので、人が神を思ったり、理解したり、配慮を示したりする必要がないと人は考える。神は神であって、痛みを感じることもなく、感情もない。神は悲しむこともなければ、嘆くこともなく、泣くことすらない。神は神であって、感情の表現は一切必要なく、そして感情的な慰めも一切必要としていない。もしある状況下で感情の表現や慰めが必要ならば、そのときは神が自分自身で解決し、人間からの助けは一切必要としない。逆に、神の慰め、施し、励ましを必要としているのは、弱く未熟な人間のほうであり、人間はいつでもどこでも神に慰めてもらわなければならない。そのような考えが、人間の心の奥底に隠れている。弱いのは人間のほうだ。彼らは何においても神に世話してもらう必要があり、神からのあらゆる助けを受けるにふさわしく、自分のものであるべきだと感じるものを何でも神から求めるべきだ。神は強い。神は全てを持っている。そして神が人間の後見人であり、祝福を授ける存在であるべきだ。神はすでに神であるから、神は全能であり、人間からは決して何も必要としないのだと。

人間は神が表現することのいずれにも注意を払わないので、神の悲しみ、痛み、または喜びを感じたことはない。しかし逆に、神は人間の感情表現を自分のそれのようによく知っている。神は常にどこにいても皆の必要を満たし、一人ひとりの考えの変化を見て、彼らを慰め、励まし、導き、光を灯す。神が人間に対し行ってきた全てのこと、そして彼らのゆえに払った全ての代価に関して、神が人間から何か得ることを求めていることをはっきりと示している聖書のくだり、あるいは神の言葉はあるだろうか。ない。対照的に、どれだけ人々が神の考えを無視しようと、それでも神は人間を繰り返し導き、繰り返し与え、助け、そうすることで人間が神の道に従えるようにし、神が彼らのために用意した美しい終着点へとたどり着くようにしたのである。神について言えば、神の持っているものと神であるもの、神の恵み、神の憐れみ、そして神の全ての報いは、神を愛し従う人々には惜しみなく与える。しかし神は誰にも自身の苦しんだ痛みあるいは自身の心境を明かすことはなく、人間が神自身に配慮せず、自分の意志を知らないことに対して不満を言ったこともない。神はそれらのこと全てを静かに耐え、人間がわかるようになる日を待っている。

なぜわたしはこれらのことを述べたのか。わたしの述べたことから、あなたがたは何がわかるだろうか。最も見落としやすい神の本質と性質の中に、神だけが持つことができるものがある。それは偉大だと思われている人々や良い人と思われている人々、また彼らの想像上の神も持つことができないものである。それは何か。それは、神が無私であることだ。無私について話すと、あなたは自分もまた非常に無私だと思うかもしれない。なぜなら、自分の子供のことに関して言えば、あなたは子供と取引は決してせず、気前良く与えるからである。あるいは自分の両親のことに関してなら、あなたは自分が非常に無私だと思うかもしれない。あなたがどう考えるかに関わらず、少なくともあなたは「無私」という言葉の意味を理解しており、そしてそれは肯定的であり、無私な人であることはとても立派なことだと考えている。自分が無私であるとき、自分は素晴らしいとあなたは考える。しかし全ての物、人、出来事の中にあって、そして神の業を通して、神が無私であることを見ることのできる人はいない。なぜか。それは、人間があまりに自己中心だからである。わたしがこう言うのはなぜか。人間は物質的世界に住んでいる。あなたは神に付き従っているかもしれないが、神がどのようにあなたに与え、あなたを愛し、あなたに配慮しているかを見たり理解したりすることはない。ではあなたは何を見るのか。あなたはあなたを愛してくれる、あなたを可愛がってくれる肉親を見ている。あなたは自分の肉にとって有益なものに目を留め、自分が愛する人々や愛する物事に心を配る。それが人間の言う無私だ。ところがそのような「無私」な人々も、彼らに命を与える神のことは決して気にかけない。神とは対照的に、人間のいう「無私」とは自己中心で卑劣なものとなっていく。人間が信じる無私とは、空虚で現実が伴わず、汚れた、神とは相成れないものであり、神とは全く関係がない。神の無私とは神の本質の真の現れである一方、人間の無私というのは自分自身のためのものである。人間が神の与えられるものを常に受けているのは、まさしく神が無私であるゆえである。あなたがたはわたしが今日話しているテーマにそれほど深く影響されず、単に同意の頷きをしているだけかもしれない。しかしあなたが自分の心の中に神の心を理解しようとすると、あなたはこのような発見をせざるを得ない。この世の全ての人々、出来事、そして物の中にあって、神の無私だけが真実で揺るぎないものであると。なぜなら神のあなたに対する愛だけが無条件で汚れのないものだからである。神以外の全ての者のいわゆる無私は全て偽もので、表面的、そして魂胆があるものである。そこには目的、特定の意図、取引があり、試みに耐えることができない。それは汚れた卑しむべきものだとさえ言える。あなたがたもそう思うか。

あなたがたがこれらのテーマについてあまり馴染みがないこと、そして本当に理解する前に、自らのものにするための時間がもう少し必要だという事をわたしは知っている。これらの問題とテーマにあなたがたが馴染みがなければないほど、それがあなたがたの心の中にはないことを証明する。もしわたしがこれらテーマについて話さなかったら、あなたがたの中で少しでもそれを知っていた者はいるだろうか。知ることはまずなかっただろう。間違いない。あなたがたがどれだけ理解し、知ることができても、端的に言って、わたしが話したこれらの話は人々に最も欠けているものであり、しかも最も知るべきことである。これらのテーマは全ての人にとって非常に重要だ。それらは尊く、それらはいのちであり、あなたがたがこれから進む道で持っていなければならないものだ。これらの言葉の導きそしてあなたの神の性質と本質への理解なくしては、あなたは神に関していつも疑問を持つことになる。神を理解することさえ出来ていなければ、どうやって神を正しく信じることができるだろうか。あなたは神の感情、神の意思、神の心境、神が考えていること、神を悲しませること、神を喜ばせることについて何も知らない。それでどうして神の心に配慮することができるのか。

神が悲しむ時はいつでも、神は自身に全く気を留めない人間に向き合い、神に従い、自分は神を愛していると言いながら神の感情を完全に無視する人間に向き合う。これでどうして神の心が傷つかないことがあろうか。神の経営の働きの中で、神は誠実に働きを実行し、ひとりひとりに語り、そして自分自身を惜しみなく現わす。それとは逆に、全ての神に従う人間は神に対し閉鎖的であり、積極的に神に近づいていったり、神の心を理解しようとしたり、神の感情に気を留めようとする者はいない。神と親友になりたいと思っている人々でさえも、神に近づこうとせず、神の心に配慮しようとせず、神を理解しようとしない。神が喜ぶ時、誰もその喜びを分かち合える人間はいない。神が人々に誤解されている時、神の傷ついた心を慰める者はいない。神の心が痛んでいる時、神が打ち明けることに耳を傾けようとする者は一人もいない。何千年に亘る神の経営の働きを通して、神の気持ちを知る者も、深く理解する者も感じる者もおらず、ましてや神に寄り添って神の喜びや悲しみを分かちあう者などひとりもいない。神は孤独だ。神は孤独なのだ。神が孤独なのは単に堕落した人間が敵対するからだけではない。霊的であろうとし、神を知ることを追い求め、神を理解しようとし、さらに神に人生の全てを捧げたいと思っている人々ですら、神の考えを知らず、神の性質と感情を理解しないからである。

ノアの物語の最後で、わたしたちは神が普通とは違った方法で自身の感情を表したのを見た。その非常に特別な方法とは、人間と契約を結ぶことだった。それは神が洪水によって世界を滅ぼすことが二度とないということを宣言する方法だった。一見、契約を結ぶということは実に普通のことのように思える。それは両者の利益を保護することを目的として、言葉を用いてお互いを侵害行為から守るものでしかない。形の上では、それは非常に普通のことであるが、その背景にある動機と神がこのことを行った意味からすれば、この契約は神の性質と考えを真に現すものなのである。もしあなたがただこれらの言葉を脇に置いて無視するならば、わたしが事の真実をあなたがたに伝えない限り、人間は決して神の考えを知ることはない。あなたの想像の中では神はこの契約を結んだときに微笑んでいたか、もしくはおそらく神の表情は真剣だったと思っているだろう。しかし多くの人々が想像するような神の表現とは関係なく、誰も神の心や神の痛み、まして神の孤独は誰も見ることができない。自分を神に信頼させることのできる人間、または神の信頼するに値する人間などいない。神が自身の考えを表現したり、自身の痛みを打ち明けたりできる人間もいない。それゆえに神はそのようなことをするしかなかったのだ。表面的には、神はかつての堕落した人間と決別するために簡単なことを行い、過去を終結させ、自らが起こす洪水よる世界の破滅に対し完璧な結論を描いたように見える。しかしながら、神はこの瞬間から、自身の痛みを心の奥深くに埋めたのである。誰にも心を打ち明けられる者がいない当時、神は人間と契約を結び、二度と洪水によって世界を滅ぼすことはしないと伝えたのである。虹が出るのはかつてこのようなことがあったと人々に思い起こさせ、悪を行わないように警告するためだ。そのような痛みの中にあっても、神は人間を忘れず、人間へ多くの配慮を示し続けた。これは神の愛であり、無私無欲さではないだろうか。しかし人々が苦しんでいる時には何を考えるだろうか。そのような時が、彼らが神を最も必要とする時ではないか。このような時はいつも人々は神を引きずり出し、神に慰めでもらおうとする。どんな時でも、神は人々を落胆させることはない。そして神はいつも人々を苦境から抜け出させ、光の中で生きるようにさせてくれる。神は人間に非常に多くを与えているにも関わらず、人間の心の中では、神は単に安心するための薬か気付け薬以外の何物でもない。神が苦しんでいる時、神の心が傷ついている時、被造物あるいは誰か人間がそばにいて慰めを与えるなどということは、神にとって間違いなくただの高望みともいえるものだ。人間は決して神の感情に気を留めない。ゆえに神は決して自分を慰めることのできる誰かにいて欲しいと願ったり、期待したりすることはない。神は自身の気持ちを表現するために、ただただ、自身の方法を用いる。人々は、そのような苦しみを神が通ることが大したことだとは考えない。しかしあなたが本当に神を理解しようとする時、神の行うこと全てにおける心からの意図を真に理解できる時、神の偉大さと神の無私を感じることができる。神は虹を用いて人間との契約を結んだが、神はなぜそうしたのか、なぜその契約を打ち立てたのかを誰にも言っていない。つまり、神は自身の本当の考えを誰にも話していない。それは、神が自らの手で創造した人間への愛の深さを真に知ることができる者は一人としておらず、そして人間を滅ぼした時にどれほどその心が痛み、苦しんだかを理解できる者はいないからである。したがって、神がたとえ自分がどのように感じるかを人間に伝えたとしても、彼らにはその信頼を受け止めることができないのである。痛みを感じているにも関わらず、神は次の段階へと自身の働きを進める。神は全ての苦しみを静かに負いながらも、人間には自身の最善の側面を与え、最善のものを与えてくれる。神は決してこれらの苦しみを広く打ち明けることはない。むしろ、神はそれらに耐え、静かに待つ。神の忍耐は冷たくはなく、無感覚なものでもなく、無力なものでもなく、弱さの印でもない。それは神の愛と本質が無私であるという印である。これは神の本質と性質の自然な現れ、そして創造主なる神の身分を真に具現化したものである。

このように言ったところで、わたしの言ったことを誤解する人もいるかもしれない。わたしが神の感情をこのように細かく、煽動的に説明してきたのは、人々に神を気の毒だと思わせたいからだろうか。そのような意図はあっただろうか。(ない)。わたしはあなたがたが神をよりよく知るようになり、神のすべての面を知るようになり、神の感情を理解するようになり、そして神の本質と性質は、人間の空虚な言葉、文字、教義の空想により描かれたものと反対に、徐々に、確実に、その働きを通して表されているということをあなたがたが知るようになるためだけにこれらの話をしてきている。つまり、神、そして神の本質というのは実際に存在する。それらは絵画や想像上のものでも、人間に造られたものでもなく、人間に捏造されたものでも勿論ない。それが理解できただろうか。もし理解できたのならば、今日のわたしの目標は達成された。

今日わたしたちは3つのテーマについて話した。あなたがたがこれら3つのテーマを通して多くを学んだと信じている。これらの3つのテーマを通して、わたしが説明したような神の考え、あるいはわたしが話した神の性質や本質が、人々の神への概念や理解を変え、皆の神に対する信仰を覆すことすらし、さらに、心の中で称賛されていた神のイメージを覆したとわたしは確信を持って言える。いずれにせよ、今日聖書の2つの箇所から学んだ神の性質があなたがたの役に立つことを願う。そして帰宅後さらに深く考えることを願う。今日の集会はこれで終了する。さようなら。

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