33. 禍と福

私は中国の村の貧しい家庭に生まれました。家計が苦しくて食事抜きの時もあり、おやつやおもちゃは論外でした。その上、服はすべて姉からのお下がりで、大概は大きすぎたため、同級生に笑われ、一緒に遊んでもらえませんでした。子供時代は苦労ばかりで、その時からこう決心しました。「大人になったらお金をたくさん稼いで、人より偉くなってやる。誰にもばかにされるものですか」。家にお金がなかったため、私は中学校を中退し、県都の薬工場で働くことを余儀なくされました。もっとお金を増やそうと午後9時か10時まで残業することが度々ありましたが、どうがんばっても稼ぎはすずめの涙ほどでした。ある時、姉が野菜を売って5日で私の1か月分を稼ぐことができたと聞いたので、私は薬工場の仕事を辞めて野菜を売りに出ました。しばらくして、果物を売った方がお金になるとわかったため、果物屋を始めることにしました。結婚後は夫婦でレストランを開きました。「レストランの主になったのだからもっと儲かるわ」と私は思いました。「かなりの収入ができたら、当然周りにうらやましがられて一目置かれるし、エリートの生活もできる」しかし、しばらく店を切り盛りしてから、それほどの儲けにはならないことがわかりました。私は苦悩し、心配になりました。いつになったら人によく思われるような暮らしができるの?

2008年、偶然にも機会が訪れました。私はある友人から、日本の一日の賃金が中国の十日分にほぼ等しいことを知ったのです。これを聞いて大喜びしました。ついにお金を稼ぐ良い機会が見つかったと思ったのです。日本に行くための仲介業者の手数料は高額でしたが、私は思いました。「虎穴にいらずんば虎子を得ず。仲介のお金がいくらかかっても、日本で仕事がありさえすれば、すぐに元が取れる」より良い生活を送る夢を実現しようと、私たち夫婦は早速日本行きを決意しました。日本到着後、とても早く仕事を見つけることができました。毎日、10時間以上働きました。仕事のストレスはかなりのもので、私は一日中疲労困憊のように感じていました。仕事の後はただ横になって休むたいとしか思えず、食事をとることさえも面倒でした。このようにペースの速い生活様式には耐えきれないと感じました。しかし、数年か苦労すればどれだけのお金になるかを考えたとき、「今は大変だけど、いづれはばら色の人生になる。だからやり続けて、あきらめないで」と自分を励ましました。そのため毎日金儲けの機械のようにひたすら身を粉にして働いたのです。 2015年にはとうとう過労で倒れてしまいました。検査入院し、医者には椎間板ヘルニアがあり、それが神経を圧迫していると聞かされました。今までどおり働き続ければ、しまいに寝たきりになり、自己管理ができなくなると言うのです。この知らせは私にとって晴天の霹靂で、私はたちまち極度に弱気になりました。その時の私の生活は改善し始めたばかりで、どんどん夢に近づいていたのです。まさか病気になるとは思いませんでした。私はあきらめようとせず。こう思いました。「私はまだ若い。ただ歯を食いしばって乗り切ることができる。今お金を増やさずに、こんなわずかな稼ぎで中国に帰ったら、ますます恥をかくんじゃないの?」そのため、もっとお金を稼ごうと、病んでいる体を引きずってまで毎日働き続けました。しかし数日後、あまりの隊長の悪さに、文字通り起き上がれなくなりました。

誰も面倒を見てくれる人がいない病院のベッドに横たわり、私はひどく惨めに感じました。「どうしてこんなことに?本当に寝たきりになってしまうの?」その時誰かがそばにいてくれたらとどんなに願っていたでしょう。あいにく夫は仕事中で、息子は学校に行っていました。上司と同僚は、自分たちの私益にしか関心がなく、誰も私のことを少しも気遣ってくれませんでした。病棟を見渡し、さまざまな患者たちが独りで苦しみに捕らわれているのを見たとき、私は言葉にならないような悲しみに見舞われ、このように熟考せざるを得ませんでした。人生の目的は何?人はどうすれば意味のある生活を送れるの?幸せは本当にお金で買えるの?自分が30年間苦労して何が得られたかを振り返りました。薬工場で働き、果物を売り、レストランを経営し、日本に働きに来ました。その長い年月の間、確かにある程度のお金を稼ぎましたが、そのために私自身の幸せが犠牲になり、その苦しみを打ち明けられる人は誰もいませんでした。日本に着いたらすぐに夢が叶い、日本で数年過ごしてから中国に戻れば、富と優雅さに満ちた新生活が始まり、人の羨望の的になれるはずだと思っていました。しかし、現実には病院のベッドに横たわり、しかも人生の後半はずっと車椅子のままで苦痛も絶えないのではないかという見通しでした。そう思うと、ただお金を稼いで出世するためだけに自分の命を危険にさらしたことを悔い始めました。そう思えば思うるほど、苦い涙が顔を流れ出しました。苦悩の中、心の中で呼びかけずにはいられませんでした。「ああ、天よ!助けて!どうして人生はこんなにつらいの?」

私が苦痛と無力感のどん底に沈んでいたとき、全能神の救いが来て、私の病は私にとって祝福となったのです。偶然にも、私は全能神教会の3人の姉妹と知り合いました。彼女たちと共に神の御言葉を読むことで、私は天地万物が自然のプロセスから生じるのではなく、神によって創造され、神が全宇宙の主人であり、人の運命も神の手にあること、神がずっと人類を導き、施されてきたこと、常に人類を気遣い、守ってくださっていることを理解しました。神が人をどれほど愛してくださっているかを感じたのです。しかし、まだわからないことがありました。神が私たちの運命を支配して司られ、私たちは幸せで楽しんでいるべきなのに、なぜ私たちは未だに病気や苦痛に遭っているのでしょうか?なぜ人生はそんなに辛いのか?人生の苦痛はどこから来るのでしょう?ある日、私は姉妹たちに自分の疑問について話しました。姉妹の一人が全能神の御言葉を一節読んでくれました。「人間が生涯にわたって耐える、出生、死、疾病、老齢の苦痛は、何が根源なのでしょうか。これらの事が人間に発生する原因は何でしょうか。人間が最初に造られた時、こうした苦痛は人間に発生したか、というと、発生しなかったのではないでしょうか。それならば、こうした苦痛は、何に由来するものでしょうか。それらは、人間がサタンによって誘惑され、肉体が堕落したあとで発生しました。人間の肉の痛みや苦しみ、虚無感、人の世における極度の悲惨な出来事といったことは、サタンが人類を堕落させて初めて生じました。人間がサタンによって堕落させられた後、それは人間を苛み始めました。結果として人間は一層堕落してゆき、人間の病はますます深刻になり、人間の苦しみは一層激しくなりました。人の世の空虚感や悲劇、この世で生き続けることが不可能であることを、人は一層感じるようになったのです。そしてこの世に対する希望もますます感じなくなっていきました。この苦しみはサタンから人間にもたらされたものです(「神が世俗の苦しみを味わうことの意義」『キリストの言葉の記録』)。姉妹は私にこう話してくれました。「神様が人を創造された当初、神様は人と共におられ、気遣い、守ってくださいました。その時は、生老病死の苦しみはなく、心配も悩みもありませんでした。エデンの園では、人は安心して気楽に暮らし、神が授けられたものすべてを享受していました。人類は神の導きの下で幸せに楽しく暮らしました。しかしサタンに誘惑され堕落させられた後、神を裏切り、神の御言葉よりもサタンの言葉に耳を傾けました。このため神の気遣い、守り、祝福を失い、サタンの支配下に落ちたのです。サタンは何千年もの間、唯物論、無神論、進化論といった異端や詭弁、偉人や有名人によって公表された、「神は全く存在しない」「我々に救いを与える者は誰もいない」「運命は己の手中にあり」「出世して先祖に栄誉をもたらす」「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」「金があれば鬼にひき臼を回させることができる」「人間は金銭のために身を滅ぼし、鳥は餌のために身を滅ぼす」「お金は全てに勝り」といった不条理や嘘を一貫して用いて人々を惑わし、害してきました。人類はこれらの不条理や異端を受け入れると神の存在を否定し、神の統治を否定し、神を裏切りました。自分たちの両手に頼って幸せな生活を築くことを望んだのです。人の性質もますます傲慢になって自惚れ、これまで以上に独善的、利己的、狡猾、邪悪になりました。地位、富、私益のために争う人の間でありとあらゆる共謀、陰謀、競争が生じました。互いに戦い、だまし合う中、ますます不安になり、疲れ果てました。最終的には、このため病にかかり、苦痛に遭い、霊的に空っぽになりました。こうした苦痛と不安のため、私たちはこの世の人生があまりにも辛く、疲れ、苦しすぎると感じます。これはすべて、サタンが人を堕落させた後に起こりました。それはサタンが私たちを害しているのであり、人類が神を否定し、神から遠ざかり、神を裏切った苦い結果でもあったのです」。

姉妹は私との交わりを続けて言いました。「神は人類がサタンによって堕落させられ、傷つけられ続けるのを見ていられないため、私たち堕落した人を贖い、救うために二度受肉されました。特に終わりの日に、受肉されたキリストは何百万もの御言葉を表されました。その御言葉は真理であり、この真理によって人はサタンの堕落から脱却し、清められ、完全に救われうるのです。私たちは神の御言葉に耳を傾け、神の御言葉の中の真理を理解している限り、サタンが人類を堕落させるあらゆる手段を明確に識別して知ることができます。サタンの悪しき本質を見極め、サタンを捨てる強さを持ち、サタンの害から解き放たれ、神の前に戻り、神の救いを得て、最終的には神によって美しい執着地に連れて行かれるのです」。神が自ら人類を救いに来られたと聞いたとき、私はものすごく感情が高ぶりました。サタンに害され続けることを本当に望んでいなかったため、自分の苦痛と疑問について姉妹に話しました。「よくわからないことがあります。「人は上をめざし、水は下に流れる」という格言があります。私は群を抜いて快適な暮らしをするために一生懸命努力してきましたし、社会的規範によれば、これは理想主義的で野心的だと見なされます。こうした生き方もサタンが私たちを害する道なのでしょうか?」

姉妹は私に全能神の御言葉を更に二節を読んでくれました。「人間が知識を習得する過程において、サタンは、物語であったり、一つの知識を与えるだけのことであったり、人間に自分の願望や大志を実現させたりと、あらゆる手段を用います。サタンはあなたをどの道に導きたいと思っていますか。人間は知識を習得することは自然であり、何も悪いことがないと考えています。聞こえの良い言い方をすれば、高尚な理想を育むことや、大志を抱くことは、向上心があると言うことであり、それは人生において正しい道のはずです。自らの理想を実現したり、職業で成功することができれば、そのように生きる方が人間にとって素晴らしいのではありませんか。そのようにすれば、自分の祖先に栄誉をもたらすのみならず、歴史に自分の名を残すことができ、それは良いことではありませんか。これは世俗的な人から見れば、良いことであり適切で前向きなことです。しかし、邪悪な動機をもつサタンが人間をそのような道へと導いて、それですべてですか。当然そうではありません。実際には、人間の理想がいかに高尚であったとしても、また人間の願望がいかに現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分に関連しています。その二つの言葉は、あらゆる人の生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは何ですか。それは『名声』と『利得』です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法、まったく過激でない方法を用いて、それにより人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生における大志を抱くようになります。そうした人生の大志にどれほど高尚な響きがあったとしても、『名声』と『利得』に複雑に関連しています。偉人や有名人、実はあらゆる人が人生において従う事柄はすべて『名声』と『利得』だけに関連しています。人間はひとたび名声と利得を手に入れれば、それを利用して高い地位や莫大な富を堪能し、人生を楽しむことができると考えます。名声と利得を、悦楽の追求と不徳な肉の快楽を手に入れるために利用できるある種の資本と考えるのです。人間は、自分が求める名声と利得のために、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有するすべて、将来、運命をすべてサタンに引き渡します。こうするのに実に一瞬たりとも躊躇することなく、引き渡したものをすべて奪回する必要にも気づかないままです。このようにしていったんサタンを頼りにし、サタンに忠義を尽くしたなら、人間は自分自身を支配していることができるでしょうか。もちろんできません。人間はすっかり完全にサタンに支配されます。すっかり完全に泥沼に沈み込んだのであり、そこから抜け出すことは不可能です。ひとたび名声と利得の泥沼に陥いると、人間は明るいもの、義なるもの、美しく良いものを求めなくなります。これは、人間に及ぼす名声と利得の魅力が強すぎるため、それが人間が生涯を通して終わりなく永遠に追求するべきものとなってしまうからです。これが真実ではないですか(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」〔『言葉』第2巻〕)。「サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために奮闘し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てるすべての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけ、人間にはそれを外す力も勇気もありません。したがって、無意識のうちに人間は足かせをかけられ、大変苦労しながら歩んでゆきます(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」〔『言葉』第2巻〕)

神の御言葉を読み終えると、姉妹はサタンが名利を用いて人を堕落させている事実と現実について話してくれました。私はその時初めて、この世界で権力を持ち、人類を支配する人たちがみなサタンの悪しき勢力であり、著名で尊敬されている人たちが人類を堕落させる魔王であり、マルクスの無神論とダーウィンによって説かれた進化論が人類を極度に惑わし、堕落させ、人類を神から遠ざけ、神を裏切らせたのだと悟りました。その時初めて、自分が過去に読んだ本はすべてサタンの毒、サタンの哲学、サタンの論理に満ちていることに気づいたのです。悪魔サタンがいかに人類を堕落させたのかを神の御言葉が明らかにしてくれなければ、私は未だにサタンに惑わされ、支配され、暗闇の中でひどくもがいていたでしょう。人が理想と願望を抱くこと自体には何の間違いもありませんが、人が理想を追求する過程において、サタンはあらゆる手段で人にサタンの手段と生存原則を吹き込み、名利のためだけに生きるように人を促します。人が名利のために費やし、努力するとき、もはや何が光であるかも、いかに有意義な生活を送るのかも求めません。なぜなら、名利の魅力が私たちにとってあまりにも大きく、私たちはそれにあまりにも取りつかれて抜けようがないからです。サタンはこうした枷によって私たちの体を縛り、こうした陰謀によって人を堕落させるのです。思い起こせば、私は人よりも抜きん出てお金を稼ぎ、他人の賞賛を得ようと自分を見失い、魂のない金儲けの機械になり、少しもためらわず名利のために自分の健康を犠牲にしました。本当にお金と名利の奴隷になっていたのです。「出世して先祖に栄誉をもたらす」という格言で表される誤った人生観の支配下にあったため、常により良くなりたいと思い、奮闘し続けるために多大な努力をしました。決して満足することはなく、体を崩壊寸前まで働かせてどうしようもなくなったため、やっとやめたのです。名利の追求は本当に私の人生をとても困難で疲れました!全能神の御言葉による暴露がなければ、私は自分の富と名利の追求が間違っていることも、これがサタンが人々に深刻な害を与える一手段であることを決してわからず、ましてやサタンが人を堕落させる邪悪な動機も狡猾な策略も見極めなかったでしょう。この後、姉妹は全能神の御言葉を数節か読み、彼女が神の御言葉とサタンが人類を堕落させるさまざまな道、手段について交わってくれたおかげで、私は自分がこの数年間絶えず名利を求めたことで痛みに圧倒され、ついには病気になったのだと悟りました。この苦痛はすべて、神を信じず真理を知らなかった結果でした。私はサタンに害され、堕落させられていたのです!

その後、姉妹たちはしばしば私に神の御言葉の交わりを伝えにきてくれました。次第に、私は終わりの日の神の働きについてますます納得し、サタンが人を害する手段に関して見識を身につけ、最も大切なことは神を信じ、御言葉を読み、真理を追い求め、神の支配と采配に従うことであると理解しました。私はこのように生きて初めて神の賞賛を受け、最も有意義で喜びに満ちた人生を生きられるのです。まもなくして、私は女性の同僚の一人が夫と日本に仕事を探してお金を稼ぎに来たことがわかりましたが、彼女の夫はお金をある程度稼いだにもかかわらず、身体に不快感を覚え始め、治療のため帰国せざるを得ませんでした。帰国後、検査から彼が末期癌にかかっていることが明らかになりました。診断後、この夫婦は二度と日本に出稼ぎに来たいと思いませんでした。家族全員が恐怖と悲しみの中で生きていたのです。同僚の不幸から、私は人の命のもろさと尊さを深く実感しました。命がなくなれば、お金がたくさんあっても何になるでしょう?お金で命を買えるでしょうか。ある日、私は全能神の次の御言葉を読みました。「人々は、金銭と名声を追い求めて人生を過ごします。それらがあれば、生き長らえて死を免れるとでもいうように、金銭と名声が唯一の支えだと考え、それらの藁にしがみつくのです。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独で無力であり、進退窮まった状態にあるかを悟ります。人間は、いのちは金銭や名声で買うことができないこと、いかに裕福であっても、いかに高い地位であっても、死を前にした人間は皆同様に貧しく取るに足らない存在であることを悟ります。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭や名声では、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを悟ります(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」〔『言葉』第2巻〕)。神の御言葉のおかげで、私はサタンがお金と名声を用いて人を縛って傷つけ、多くの人の命を滅ぼしていることを一層はっきりわかりました。しかし、私たちはサタンの計画を見極められず、金銭と名声がサタンが人類を苦しめる道具であることに気づけないため、渦の中に引き込まれて抜けられなくなり、否応なくサタンに惑わされ、害されるのです。その瞬間、私は自分が全能神の終わりの日の働きを受けることができてどれほど幸運であったかに気づきました。全能神の御言葉を読まなければ、サタンが人を害をするためにお金と名声を用いたという真相を決して見極められず、遅かれ早かれサタンに飲み込まれてしまっていました。

私が具合を悪くしていたとき、教会の姉妹たちはよく見舞いに来てくれなかった。私が背中を動かせなかったので、姉妹はマッサージとカッピング療法をしてくれました。姉妹の一人は医療の資格を持っており、鍼治療でどのツボを押せば状態がよくなるかを教えてくれました。彼女たちは私の家事も積極的に手伝ってくれ、家族であるかのように世話をしてくれました。外国人として、私は本当に頼れる人が近くにいなかったので、この姉妹たちが私の親戚よりも私によくしてくれたことに大変感激しました。彼女たちに何度も感謝しました。しかし、姉妹たちは私に言いました。「何千年も前に、神様は私たちを予め運命づけて選ばれたのです。今、神様は私たちが終わりの日に生まれるように采配なさり、私たちが終わりの日の神様の働きを受け入れる限り、この道を共に歩むように采配なさいました。これが神様の支配です。私たちは実はずっと昔から家族でした。ただ離れ離れになり、今になってやっと再会したのです。」姉妹たちがそう言った後、私は感情を抑えきれなくなって彼女たちを抱きしめ、涙が私の顔を流れ落ちました。その時、彼女たちに言葉にならない親近感を抱きました。私の心はかつてないほどに全能神に感謝していました。

徐々に、いつの間にか、私の病状は改善し始めました。この病気の苦痛を経験した後、私は自分がサタンの人生哲学の支配下にあったことを振り返りました。それまでずっと、人の中で群を抜こうとし、そうすれば幸せな人生を送ることができ、周りの賞賛と羨望の的になると確信していました。実際に得るものが苦痛と悲しみであり、安らぎと幸せの小片ですらないとは夢にも思いませんでした。神の御言葉を読み、御心を理解した今、私はもはや運命と戦おうとも、名利を得ようとも思いません。これは私が望む人生ではありません。現在は仕事に行く他に、頻繁に集会に出席し、神の御言葉を読み、自分の経験と理解を兄弟姉妹と共有しています。 賛美歌を歌うことも学びました。幸せな人生を送り、今まで感じたことがないような安心感と平穏さを手に入れました。

ある日、霊的修練の最中、私は神の次の御言葉を目にしました。「人が自分の歩んで来た道程を振り返り、旅路のそれぞれの段階を回想すると、その道の苦楽を問わず、人は、それぞれの段階で神が自分の進む道を導き、計画していたことを知ります。人が気付かぬうちに人を今日まで導いてきたのは、神の周到な采配と入念な計画です。創造主による統治を受け容れ、創造主の救いを得ることができるということは、何と幸運なことでしょう!……神による人間の運命の統治に対して、人が能動的な姿勢でいるならば、人が自分の旅路を回顧し、神の統治を真に把握するようになった時、人は神が用意した物事のすべてに従うことを一層真剣に望むようになるとともに、人の運命を神の指揮に委ね、神に反抗することを止めるということに一層強い決断と確信を得るでしょう。運命を把握することもなく、神の統治を理解することもなく、霧の中を敢えて苦労してよろめきながら手探りでさまよった時、旅路は困難で悲痛すぎるものになることが分かります。したがって、人の運命への神の統治を人々が認めた時、賢明な人は、それを知り、受け容れて、自らの手で良い人生を作り上げようとしていた悲痛な日々と訣別することを選び、運命に逆らい、いわゆる『人生の目標』なるものを自らの方法で追い求めることを止めます。神の存在もなく、神を見ることもなく、神の統治をはっきりと認識することもなければ、毎日は無意味で、無価値で、惨めです。どこにいようが、どのような仕事をしようが、人の生き方と目標への追求は終わりのない悲しみと深刻な苦痛しかもたらさず、回想するに堪えないものになります。創造主の統治を受け容れて、その指揮と采配に従い、真の人生を求めて初めて、人は徐々にすべての悲しみや苦痛から解き放たれ、人生の虚無感を払拭できるのです(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」〔『言葉』第2巻〕)。神は創造主であり、人は神の創造物です。すべての人の命は、神の指揮と采配の下、神の御手の中にあります。人が一生のうちに得るものはすべて神の支配にあり、神によって予定されています。人があちこち奔走しても決定的な要因にならないのは確かです。神が人に授られた分だけが、人が得られる分なのです。神がそれだけ授けられなかれば、人がいくら働いてもその努力は無駄になります。 「人は種を植え、天が収穫を決める」、「人事を尽くして天命を待つ」ということわざどおりです。したがって、私たちは人生において、創造主の統治と采配に従うべきなのです。これが人生の幸福の秘密であり、本当の人生の真髄です!また私は、人がどれだけの富を持っていても、どのくらい高い地位にあっても、これらのものはすべて現世的な所有物にすぎないことも理解しました。それらを持って生まれて来たわけでもなく、それらを持って死に行くこともできません。名利の追求に専念することで、最後に得るものを得るのはすべて虚無と苦痛であり、挙句の果てにはせタンに飲み込まれてしまいます。この理解を得た後、私は別の人生の道を歩んで一からやり直すことを決意しました。ただ神の指揮と采配に従い、人生の後半を神の御手に采配して頂くことを望みました。もはや富と地位を追求して他人の賞賛を得ようとはせず、神に従う人になりことを求め、真に神のために生き、神の愛に報いるために生きます。現在、私は毎日3、4時間働いています。上司は日本人です。御互い言葉の問題がありますが、上司は私をよく気遣ってくれます。私に用事を頼むときはいつも私にわかりやすい言葉を使ってくれ、決して圧迫したりしません。これは神の私への憐れみであり、神の祝福であると私は知っています。また、人が神の御言葉に耳を傾け、神の指揮と采配に従えば、そのとき初めて気楽で喜びに満ちた人生を送ることができると、私はさらによく理解しました。

私が一人のときはいつも自分が神の御前に出た道を思い返します。もし病がなければ、お金と名声の追求を止めず、未だに完全なこの世の金儲けの機械であり、しまいにはサタンに無残にも殺されて、悔い改めて道を改めようとは思うことはなかったでしょう。サタンは名利を用いて私を傷つけましたが、全能神は私の病を使って神の御前に出させてくださり、こうして私はサタンが人を堕落させた張本人であることを御言葉を通してはっきりと知り、お金と名声を用いて人を堕落させ、飲み込もうというサタンの企みのっ真相を認め、俗世間の側面をある程度見極めることができました。 私は人がどこから来たのか、人がどこへ行くのかを知りました。人の罪と退廃の原因も知り、人がいかにして有意義な生活を送るべきかを理解しました。神の御言葉にはこうあります。「病気のために神を信じ始める人もいるが、その病気はあなたに対する神の恵みである。それがなければ、あなたは神を信じることがなかったはずだ。そして神を信じていなければ、ここまで到達することはなかっただろう。ゆえに、そうした恵みでさえも神の愛なのである(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉は本当に実際的です。禍を通してのみ、私は福を得ました!今日、私は御言葉の施しと導きの下、サタンの呪縛を捨て去り、正しい人生観を持っています。人生の正しい道を歩み、霊が大いに解放されました。神は実に賢明で、全能です!私を愛し、救ってくださった全能神に感謝します!

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