いのちへの入り(1)

日々の神の御言葉 抜粋 374

万物の長である全能神は、玉座から王としての権力を振るう。神は宇宙と万物を支配し、全地でまさにわたしたちを導いている。わたしたちはどの瞬間にも神に近づき、静かに神の前に出て、一瞬の時も逃すことなく、いつでも教訓を学ばねばならない。わたしたちの周りの環境から、人々、出来事、事物までを含むすべてのものは、神の玉座に許可されて存在している。どんなことがあっても心に不平不満を抱いてはならない。さもないと、神はあなたに恵みを授けない。病を患ったなら、それは神の愛によるもので、神の善意が必ずその背後にある。体は多少の苦しみに耐えることになるかもしれないが、サタンによる思いは一切抱いてはならない。病気の只中で神を賛美し、賛美の只中で神を楽しみなさい。病気に直面しても気を落とさず、何度も繰り返し求めて諦めることがなければ、神はあなたに光を当てるだろう。ヨブの信仰はどうだったか。全能神は全能の医者なのだ。病の中に留まれば病気になるが、霊の中に留まれば健やかになるのだ。あなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない。

わたしたちの内にはキリストの復活したいのちがある。わたしたちは間違いなく、神の前で信仰に欠けている。神がわたしたちの内に真の信仰を与えて下さいますように。神の言葉はまことに甘美だ。神の言葉はよく効く薬であり、悪魔やサタンを恥じ入らせる。神の言葉を把握すれば支えを得ることができ、わたしたちの心はすぐに救われるだろう。神の言葉はすべてのものを一掃し、すべてに平和をもたらす。信仰とは一本の丸太橋のようなもので、卑屈に命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを犠牲にする覚悟のある者は自信を持って不安なく渡ることができる。臆病な恐れに満ちた思いを抱く者は、サタンに騙されているのだ。サタンはわたしたちが信仰の橋を渡って神の中に入ることを恐れているため、あらゆる手段でわたしたちにサタンの考えを送り込もうとする。わたしたちは絶えず神の光に照らしてもらえるよう祈り、常にわたしたちの中からサタンの毒が清められるよう神に拠り頼み、常に神に近づく方法を霊の中で実践し、全存在を神に支配してもらわなければならないのだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 375

問題に見舞われるたび、人がまずすべきことは何ですか。祈るべきです。祈りが最初に来るのです。あなたが敬虔で、神を畏れる心を持ち始め、神を求めることを知り、心の中に神の居場所を持ち、敬虔なクリスチャンであるということを、祈りは示します。多くの年配の信者が日々同時にひざまずいて祈り、時には立ち上がることができないほど長く祈っています。これが儀式かどうか、彼らがそこから何かを得たのかどうかを語るのはやめておきましょう。ここでは、これら年配の兄弟姉妹はひときわ敬虔であり、あなたがた若者よりもずっと優れていて、勤勉であるとだけ言っておきます。問題に見舞われたときは、まず祈るべきです。祈りとは、心にもないことをだらだら話すことではありません。それでは問題は解決しません。八回、または十回祈っても、何一つ得られないこともあるでしょうが、くじけてはいけません。それでも祈らなければならないのです。何かが起きたときはまず祈り、神に伝え、神に任せ、神に助けてもらい、導いてもらい、そして道を示してもらいなさい。そうすれば、あなたが神を第一にしたこと、あなたの心に神がいることが証明されます。問題に見舞われた際、まず反感を覚え、腹を立て、かっとなってしまうなら、そして何よりもまず消極的になってしまうなら、これはあなたの心に神がいないことの現われです。日常生活では、どのような困難に見舞われようと神の前に出なければなりません。何よりもまず、神の前でひざまずいて祈るべきであり、これが何より重要です。祈ることで、神の前での神に対するあなたの態度が明らかになります。神が心にいなければ、祈ろうとはしないでしょう。中には、「自分は祈ったけれど、それでも神は私を啓いてくれない」という人がいます。そのように言ってはいけません。まずは、自分の祈る動機が正しいかどうかに目を向けなさい。本当に真理を求め、たびたび神に祈っているならば、あなたが理解できるように、神は何らかの事柄においてあなたを啓いてくれるでしょう。要するに、あなたが理解できるようにするのです。神の啓きがなければ、自分で理解するのは不可能です。あなたには洞察力がなく、そのための頭脳もありませんが、これは人間の知性で得られるものではありません。あなたが本当に理解したとき、それはあなた自身の頭脳から生じた理解ですか。聖霊によって啓かれていなければ、誰に尋ねたところで、聖霊の働きとはどういう意味か、神が何を言わんとしているのかを知っている人はいません。神自身がその意味を伝えて初めて、あなたは知るのです。したがって、何かが起きたときにまずすべきは祈ることです。祈りでは、探し求める態度で探索すること、自分の考え、意見、そして態度を表わすことが必要になります。それがなければならないのです。単に動作を繰り返すだけでは何の効果もないので、啓かれなかったといって聖霊を責めてはいけません。神への信仰において信じ続けてはいるものの、神が口先だけの存在であるという人も中にはいます。そのような人の心に神はおらず、彼らは聖霊の働きだけでなく、祈りをも否定します。神の言葉を読んでいるに過ぎないのです。これが神への信仰と言えますか。自分の信仰から神がすっかり消えてしまうまで、彼らはひたすら信じ続けます。特に、雑多な事柄をしばしば扱い、自分はとても忙しくしているのに、骨を折ったところで何も得ていないと思っている人がいます。これは、神への信仰において正しい道を歩いていない人の例です。正しい道を歩むのは、困難なことではないですか。このような人は、多くの教義を理解したあとでさえもこの道を歩むことができず、下り坂に足を踏み入れがちです。したがって、自分に何かが起きたときは、より多くの時間を祈りと探求に費やさなければなりません。少なくともそうすべきなのです。神の旨と聖霊の意図を求めるにはどうすればよいかを学ぶことが重要です。神を信じる人が、このように経験して実践することができなければ、何も得ることはなく、その人の信仰にまったく価値はありません。

『終わりの日のキリスト講話集』「神への信仰では、真理を得ることが何よりも重要である」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 376

どれほど多くの真理を理解しているか、どれだけ本分を尽くしてきたか、本分を尽くす中でどれほど多く経験してきたか、霊的背丈の大小がどの程度か、自分がどのような環境にいるかにかかわらず、何をなすにしても神を仰ぎ、神に頼ることが不可欠です。これこそがもっとも偉大な知恵なのです。もっとも偉大な知恵とわたしが言うのはなぜですか。数多くの真理を理解するようになったとしても、神に頼らなければ何の役に立ちますか。中には、少しだけ長く神を信じたあと、真理をいくつか理解するようになり、二、三の試練を受けた人がいます。そのような人は実際の経験を少しは積んできたかもしれませんが、神に頼ることを知らず、いかに神を仰いで神に頼るべきかも理解していません。そのような人は知恵を有していますか。彼らはもっとも愚かな人であり、自分のことを賢いと思っているような人です。彼らは神を畏れず、悪を避けません。中には、「わたしは多くの真理を理解し、真理現実を自分のものにしている。原則に沿ったやり方で物事を行えばそれでいい。わたしは神に忠実だし、どうやって神に近づけばよいかを知っている。真理に頼れば十分ではないか」と言う人がいます。教義の面から言えば、「真理に頼る」のは立派なことです。しかし多くの場合、あるいは多くの状況において、人は真理とは何か、真理原則とは何かを知りません。実際の経験がある人はみなこのことを知っています。たとえば何らかの問題に遭遇したとき、その問題に関係する真理がどのように実践されるべきか、どのように適用されるべきかをあなたは知らないでしょう。このようなときに何をすべきですか。どれほど実際の経験を積んでいようとも、あらゆる状況において真理を自分のものにすることはできません。何年にわたって神を信じてきたとしても、どれだけ多くのことを経験したとしても、そしてどれだけ多くの刈り込みや取り扱い、あるいは懲らしめを経験したとしても、あなたは真理の源泉なのですか。中には、「わたしは『言葉は肉において現れる』という本にある有名な発言や文章をすべて暗記している。神に頼る必要も、神を仰ぐ必要もない。その時が来ても、神のこれらの言葉に頼るだけでうまくやっていけるはずだ」と言う人がいます。あなたが暗記した言葉は静的なものですが、あなたが遭遇する環境、それにあなたの状態は動的なものです。言葉の文字どおりの意味を把握したり、多くの霊的な教義について話したりしても、真理の理解には達しませんし、ましてやあらゆる状況において神の旨を理解することにもなりません。したがって、ここには学ぶべきとても重要な教訓があります。それは、万事において神を仰ぐ必要があるということ、またそうすることで、神を頼れるようになるということです。神に頼ることでのみ、人は辿るべき道をもちます。そうでなければ、物事を正しく、真理原則と一致する形で行なえたとしても、神に頼らなければ、あなたの行為は人間の行ないに過ぎず、必ずしも神を満足させません。真理に関する人の理解はかくも浅薄なので、様々な状況に直面してもこの同じ真理を用いて規則に従い、字句や教義にあくまで固執するでしょう。真理原則とおおむね合致する形で多くの物事が成し遂げられる可能性もありますが、そこに神の導きは見られず、聖霊の働きも見られません。そこには深刻な問題があります。つまり、人は自分の経験、自分が理解した規則、あるいはある種の人間的な想像に依存して多くの物事を行なうのです。最高の成果は、神を仰ぎ、神に祈って神の旨を理解すること、そうして神の働きと導きに頼ることから生じるものですが、人はそうした成果をほとんど挙げられません。だからこそ、最大の知恵とは万事において神を仰ぎ、神に頼ることだとわたしは言うのです。

神を仰ぐとき、神があなたに何の感情も明確な考えも与えず、ましてやはっきりした指示など与えることもないのに、何らかの理解を許すことがあります。また、今回は何も理解しなかったということもあるでしょうが、神を仰ぐのは正しいことです。このような実践は規則に従うことではありません。むしろそれは、人の心が必要とすること、人が実践すべきことなのです。あなたが神を仰いだり神に呼びかけたりするたびに、啓きや導きが得られるということではありません。人間のいのちにおけるこのような霊的状態は正常で自然であり、神を仰ぐことは人の心における神との正常な交わりなのです。神を仰ぐことが、具体的な言葉を通じて神に何かをするよう頼んだり、具体的な導きや加護を求めたりすることを意味しない場合があります。むしろ、何らかの問題に直面した際、その人が心から神を呼び求められることを意味するのです。では、人が神を呼び求めるとき、神はそこで何をしていますか。誰かの心が動いて、「ああ神様、わたしにはできません。どうすればいいかわからなくて、弱く消極的に感じてしまいます」という考えが頭に浮かぶとき、神はそれを知らないでしょうか。このような考えが人の頭に浮かぶとき、その心は誠実ですか。このように人が誠実に神を呼び求めるとき、神は助けることに同意しますか。たとえ一言も話さなかったとしても、その人は誠実さを示すので、神は助けることに同意します。特に厄介な困難に出会ったものの、頼れる人がおらず、とりわけ無力に感じるとき、その人は唯一の希望を神にかけます。その人の祈りはどのようなものですか。心の状態はどうですか。誠実ですか。そのとき不純なものはありますか。あなたの心が誠実であるのは、神が助けてくださることを願って、自分のいのちを救うためにしがみつく最後の藁であるかのように神を頼るときだけです。たとえあまり話さなかったとしても、あなたの心はすでに動いています。つまり、あなたは自分の誠実な心を神に捧げ、神は耳を傾けるのです。神は耳を傾けるとき、あなたの困難を見てあなたを啓き、導き、助けます。人間の心が最も誠実なのはいつですか。それは窮地にあるときです。

『終わりの日のキリスト講話集』「神への信仰は世界の悪しき風潮を見通すことから始めなければならない」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 377

真理は神自身のいのちであり、神の性質、神の本質、および神の中にあるすべてのものを表わしています。少しばかり経験があれば、それが真理を有しているということだと言うならば、あなたに神の性質を表わすことができますか。真理のある側面や方面について何らかの経験か光を有していても、それを他人に永遠に施すことはできません。ですから、あなたが得たその光は真理でなく、人々が到達可能なある地点に過ぎません。それは単に人間が有するべき正しい経験、正しい認識であり、つまりは真理に関する実際の経験と認識なのです。そうした光、啓き、そして経験による理解は、決して真理の代わりとはなり得ません。すべての人がこの真理を完全に経験し、彼らの経験による理解をすべて持ち寄ったとしても、その一つの真理に取って代わることは依然としてできないでしょう。過去に「それを人間世界の格言で要約しよう。人間の中にわたしを愛する者は一人もいない」と言われた通りです。これは真理の言明であり、人生に関する真の本質です。それは最も深遠なものであり、神自身の表現です。あなたはそれを経験し続けることができ、三年間経験すればそれに関する表面的な理解が得られ、七ないし八年間経験すればさらにその理解が得られます。とは言え、あなたの得る理解が真理に関するその一つの言明に取って代わることは決してできません。二年間経験した他の人はわずかな理解を得、十年間経験すれば少しだけ深い理解を得られ、生涯にわたって経験すればさらに理解を得ます。しかし両者が得た理解を結合させたところで、どれだけの理解、どれだけの経験、どれだけの識見、どれだけの光、あるいはどれだけ多くの例があろうと、どれも先に述べた真理の代わりには依然なり得ません。言い換えると、人間のいのちはいつまでも人間のいのちであり、あなたの理解がどれほど真理や神の意図や神の要求と一致していようとも、真理の代わりには決してなれないということです。人が真理を得たというのは、何らかの現実を有している、真理について何らかの理解を得た、神の言葉に実際ある程度入った、それらに関する何らかの実際的な経験がある、神への信仰において正しい道にいる、ということを意味しています。神からの言葉一つだけで、人間が生涯にわたって経験するのに十分です。人間が数度の生涯、あるいは数千年にわたってそれを経験したとしても、それでもなお、ひとつの真理を完全に、かつ徹底的に経験することはできないでしょう。表面的な言葉をいくつか理解しただけなのに、自分は真理を得たと主張するなら、それはまったく馬鹿げたことではないでしょうか。

人が真理を理解し、それを自分のいのちとしていきるとき、これはどういったいのちを指していますか。神の言葉を生き方の基礎にできる能力を指しています。神の言葉に関する本物の認識があり、真理を本当に理解していることを意味しているのです。人が自分の中にこの新しいいのちを持つとき、その人の生き方は神の言葉真理を土台として築かれ、その人は真理の領域で生きています。人のいのちはすべて、真理を認識して経験するようになることに関するものであり、これを基礎として、その範囲を超えることはありません。それこそが、真理生命を得ることを語る際に言及されるいのちなのです。あなたが真理を自分のいのちとして生きるということは、真理のいのちがあなたの中にあるということではありません。また、真理を自分のいのちとして持っていれば、自分が真理になり、自分の内なるいのちが真理のいのちになるということでもありません。まして、あなたが真理生命であるなどとは言えません。最終的に、あなたのいのちはやはり人間のいのちなのです。それは単に、人は神の言葉によって生き、真理を認識し、それを深く理解することができる、ということなのです。この認識があなたから取り去られることはあり得ません。あなたはこれらの事柄を完全に経験し、認識しており、とても貴重でよいものだと感じていて、自分のいのちの基礎として受け入れるようになります。さらに、あなたはこれらの事柄に頼って生き、誰もそれを変えられません。それがあなたのいのちなのです。つまり、あなたのいのちにはこれらの事柄、すなわち真理に関する認識、経験、識見しか含まれておらず、あなたは何をしようとそれらを生き方の土台とし、この範囲から出ることも、これらの境界を越えることもありません。これがまさに、あなたが持つことになる種類のいのちです。神の働きの最終目的は、人がこのようないのちを持つことなのです。人がどれだけ真理をよく理解しても、その本質はなお人間の本質であり、神の本質とは比べものになりません。真理に関する人の経験は継続しているので、人が真理を完全に生きるのは不可能です。真理のうち、人間によって獲得可能なごく限られた部分しか生きられないのです。そうであれば、どうして神になることができるでしょうか。……あなたが神の言葉を多少なりとも体験し、自分なりに理解した真理に従って生きていれば、神の言葉はあなたのいのちとなります。それでも、真理が自分のいのちであるとか、自分が表現しているものは真理であるなどと言うことは決してできません。もしそのように考えているのなら、それは誤りというものです。真理の一側面について何らかの経験を有していれば、それ自体が真理を表わすことはできますか。絶対にできません。あなたは真理を余すところなく説明できますか。神の性質と本質を真理から発見することができますか。あなたにはできません。真理について、各人にはその一側面、一範囲の経験しかありません。自分の限られた範囲の中でそれを経験したところで、真理の無数の側面に触れることはできません。人は真理の本来の意味を生きることができますか。あなたのわずかな経験はどれほどのものですか。砂浜の砂一粒、大海の水一滴に過ぎません。それゆえ、経験から得たあなたのそうした認識や感覚がどれほど貴重なものであろうと、やはり真理とは見なされません。真理の源と意味は非常に広大な範囲を覆っています。それを否定できるものありません。中には、「経験に関するわたしの認識が論破されることはないだろうか」と言う人がいます。もちろん、そのようなことはありません。神の言葉に関するあなたの経験に由来している真の認識は、真理と一致しています。それがどうして論破されるでしょう。どのような環境であっても、真理はあなたのいのちになり得ます。それはあなたに道を与え、生き延びられるようにすることができるのです。しかし、人が持つものや人が得た光は、その本人やある範囲内の他人にしか適しておらず、別の範囲の中ではふさわしくありません。人の経験がどれほど深くても、それはやはりとても限られており、決して真理の範囲に届きません。人間の光や認識は決して真理に匹敵するものではないのです。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 378

真理を実践したいなら、そして真理を理解したいなら、まず自分が直面している困難や身の回りで起こる物事の本質と、そうした物事の何が問題なのか、そしてそれが真理のどの側面に関連しているのかを理解しなければなりません。そうしたことを探求してから、その後で自分の実際の困難に基づいて、真理を求めなければならないのです。そのように徐々に経験を積む中で、自分に降りかかるすべての物事の中に神の手を見ることができるようになるだけでなく、神が何をしようとしているのか、自分の中でどんな成果を挙げたいと思っているのかも理解できるようになります。おそらくあなたは、自分の身に起こることが神への信仰や真理に関係しているとはまったく思わず、このように言うかもしれません。「自分には自分のやり方がある。真理も神の言葉も必要ない。集会に参加したり、神の言葉を読んだり、本分を尽くしたりするときに、真理や神の言葉に照らして自分自身をふり返ろう」と。日常生活の中で起こる出来事、つまり家族や仕事、結婚、将来に関するさまざまな問題が真理とは関係ないと思い、人間的な方法でそれらを解決しているなら、またそれがあなたの経験の方法であるなら、真理を得ることは決してできないでしょう。神があなたの中で何をなそうと望んでいるのか、どのような成果を挙げようと望んでいるのかについても、決して理解することができないでしょう。真理の追求は時間のかかる過程なのです。単純な面もあれば、複雑な面もあります。端的に言うと、わたしたちは身の回りで起こるすべての物事の中で真理を求め、神の言葉を実践して経験しなければならないのです。ひとたびそうしだすと、自分が神への信仰の中でどれだけの真理を求め、自分のものにしなければならないのかということ、そして真理が本当に現実でありいのちであるということに、ますます気づくようになります。何事も真理に沿って行なう必要があるのは神に仕える者と教会の指導者だけで、普通の信者にその必要はない、というのは事実ではありません。それが事実なら、神が発する言葉に大した意義はないことになります。今あなたがたには、真理を追求する道がありますか。真理を追求する際、最初にしなければならないことは何ですか。まず何より、神の言葉を飲み食いすること、説教を聞くことにもっと時間を費やさなければなりません。問題に遭遇したときは、もっと祈り、求めましょう。より多くの真理を身に備え、いのちの入りを成し遂げ、霊的背丈を身につければ、何か本物のことをして、若干の働きに取り組み、それによって多少の試練や誘惑を乗り越えられるようになります。そのときには、自分が本当にいくらかの真理を理解し手に入れたと感じ、神が語る言葉こそ人に必要なもの、そして人が得なければならないものであり、それが人にいのちを与えられる、世界で唯一無二の真理なのだと感じるようになるのです。

『終わりの日のキリスト講話集』「真理を追求する重要性とその追求の道」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 380

教会指導者になるには、真理を用いて問題を解決することだけでなく、才能ある人を見つけて育成することを学ばなければならず、そうした人を押さえつけたり妬んだりしては絶対にいけません。そのような本分の尽くし方は基準を満たしており、そのようにする指導者と働き手も基準を満たしています。何事も原則に沿って行動できるようになれば、自身の忠誠に従って生きていることになります。中には、他人のほうが自分よりも優秀かつ立派で、自分が無視される横で他人が評価されることをいつも恐れている人がいます。そのような人はそれで他人を攻撃して排除します。それは自分よりも有能な人への嫉妬ではありませんか。そのような振る舞いは利己的で下劣ではありませんか。それはどのような性質ですか。悪意に満ちた性質です。自分の利益しか考えず、自分の欲望しか満足させず、他の人や神の家の利益に配慮を示さないような人は悪しき性質をしており、神はそのような人を愛しません。神の旨を真に考慮できれば、人を公平に扱うことができるようになります。あなたが優れた人を推薦し、その人に訓練を受けさせ、本分を尽くさせ、それによって神の家に一人の人材が加わるなら、あなたが働きやすくなるのではないですか。その本分において、自身の忠誠心に従って生きたことになりませんか。これは神の前での善行であり、指導者が有するべき最低限の良心と理知です。真理を実行に移せる人は、物事を行なうときに神の吟味を受け入れることができます。神の吟味を受け入れるとき、あなたの心は正されます。他人に見てもらうためだけに物事を行ない、神の吟味を受け入れないなら、それでもあなたの心に神はいますか。そのような人には神を畏れる心がありません。いつも自分のために物事を行なったり、絶えず自身の利益を考えたりしてはいけません。自分の自尊心、評判、あるいは地位を考えないこと。また、人の利益を考慮してはいけません。まずは神の家の利益を考慮し、それを最優先にしなければなりません。神の旨を想い、自分が本分を尽くす中で不純だったかどうか、忠誠を尽くし、自分の責任を果たし、自分のすべてを捧げたかどうか、そして自分の本分と教会の働きを心から考えてきたかどうかを熟慮することから始めなさい。あなたはこれらのことを考えなければなりません。これらのことを頻繁に考え、はっきりさせなさい。そうすれば、立派に本分を尽くすのがより簡単になります。素質が劣っている、経験が浅い、あるいは自分の業務に熟練していない場合、働きの中に誤りや欠陥があったり、結果が思わしくなかったりするかもしれませんが、それでもあなたは全力を尽くしているでしょう。何をするにせよ、それは自分の利己的な欲求や好みを満足させるのではありません。むしろ、教会の働きと神の家の利益を絶えず考慮するのです。立派に本分を尽くしていないかもしれませんが、心は正されています。そのうえ、真理を求めて本分における問題を解決できれば、あなたの本分は基準に達し、あなたは真理の現実に入れます。これが証しをするということです。

神を信じながら真理を追い求めない人がいます。このような人は絶えず肉体によって生き、肉体の快楽にいつもこだわり、自分の私欲を常に満足させます。このような人は何年神を信じようと、真理の現実に入ることは決してありません。これは神を辱めたしるしです。人の行ないが善か悪かを判断する基準は何ですか。それは、考えや表現や行動において真理を実行に移し、真理の現実を生きる証しを有しているかどうかによります。その現実がなかったり、それを生きていなかったりすれば、疑問の余地なくあなたは悪を行なう者です。神は悪事を行なう人をどのように見ていますか。あなたの考えや外面的行動は神の証しをするものでも、サタンを辱めたり打ち負かしたりするものでもありません。むしろ神を辱めるものであり、神に恥をかかせる印に満ちています。あなたは神への証しをしておらず、神のために自分を費やしておらず、神に対する責任と義務を果たしていません。むしろ自分のために行動しているのです。「自分のために」とは何を意味していますか。正確には、サタンのために、ということを意味しています。ゆえに、神は結局「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言うでしょう。神の目から見ると、あなたは何の善行もしておらず、むしろあなたの振る舞いは邪悪なものに変わってしまったのです。神の承認を得られないだけでなく、断罪されてしまいます。神をこのように信じている人は、何を得ようと求めていますか。このような信仰は結局無に帰してしまうのではないでしょうか。

本分を尽くすすべての人にとって、真理の理解がどれほど深くても、あるいはどれだけ浅くても、真理の現実に入る最も簡単な実践の方法は、何事においても神の家の益を考え、利己的な欲求、個人的な意図、動機、自尊心、地位を捨てることです。神の家の益を第一にしなさい。これが行なうべき最低限のことです。本分を尽くしている人がこの程度のことさえできないのであれば、どうして本分を尽くしていると言えますか。それは本分を尽くしているのではありません。まずは神の家の益を考慮し、神の旨を思いやり、教会の働きを考え、それらの事柄を最優先にしなければなりません。その後で初めて、自分の地位の安定や、他人が自分をどう見るかを考えることができます。このような数段階に分け、妥協をすれば少し簡単になると感じませんか。しばらくそのように実践すれば、神を満足させるのが難しいことではないと感じるようになります。加えて、自分の責任と義務を果たし、本分を尽くし、自分の利己的な欲求や意図や動機を捨て去り、神の旨を考慮し、神の家の益、教会の働き、そして自分が尽くすべき本分を第一にすることができるようにならなければなりません。それをしばらく経験した後、それが行動を律するよい方法だと感じるようになります。それは卑劣で役立たずな人間になることなく、正直かつ誠実に生きること、卑劣で卑しかったりするよりむしろ、公正かつ高潔に生きることです。人はそのように生きて振る舞うべきだと感じるようになります。自分の益を満足させようとする心の欲求も徐々に小さくなります。

『終わりの日のキリスト講話集』「自由と解放は、堕落した性質を捨てなければ得られない」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 381

性質の変化について何を知っていますか。性質の変化と振る舞いの変化の本質は異なり、実践での変化も異なります。これらは全て本質において異なるのです。ほとんどの人が、神を信じるにあたって振る舞いに特別な重点を置いており、その結果、振る舞いにある種の変化が生じます。神を信じ始めた後、そうした人は他者と対立すること、人を侮辱したり争ったりすること、および喫煙や飲酒を止め、釘1本であれ、あるいは板切れ1枚であれ、公共の財産を盗まなくなります。またそれにもまして、自分たちが損害を被ったり不当な扱いを受けたりしても、そのたびに訴訟を起こさなくなります。そうした人たちが振る舞いにおいて何らかの変化を経たことに、疑いの余地はありません。ひとたび神を信じると、真の道を受け入れることで気分がひときわよくなり、また聖霊の働きの恵みを味わったので、彼らの熱意は特に高まり、捨て去れない物事や耐えられないことさえなくなります。それにもかかわらず、3年、5年、10年、30年と信じた後、いのちの性質に変化がないため、結局は以前の状態に戻ります。傲慢さや高慢さがますます深刻になり、権力や利益を求めて競い始め、教会の金銭に目がくらみ、自分の利益に資することなら何でも行い、地位や快楽を切望し、神の家の寄生虫になってしまうのです。特に、指導者として仕える人の大半は、人々に見捨てられます。これらの事実は何を証明していますか。振る舞いの変化だけでは持続できないということです。人のいのちの性質に変化がなければ、遅かれ早かれ、悪意ある側面が自然と表れるでしょう。そうした人たちの振る舞いの変化の根源は情熱であり、そこにその時点における聖霊の何らかの働きが組み合わされるので、いとも簡単に情熱的になったり、つかの間の優しさを示したりします。「善行を1度だけ行うのは容易である。困難なのは、善行を一生涯行うことである」と未信者が言う通りです。人は生涯を通じて善行を行うことができません。人の振る舞いはいのちによって主導され、人のいのちがどのようなものであれ、それがその人の振る舞いとなり、自然と明かされるものだけがそのいのちと、人の本性を表します。虚偽の物事は長続きしません。神が人を救うために働きを行う時、それは人を善行で飾り立てているのではありません。神の働きの目的は、人の性質を変化させ、新しい人として生まれ変わらせることです。したがって、人間に対する神の裁き、刑罰、試練、精錬はどれも、その人の性質を変化させ、そうすることでその人が神に対する完全な服従と献身を成し遂げ、正常に神を崇拝するようにさせるためなのです。これが神の働きのねらいです。良い振る舞いをすることは、神に服従することと同じではなく、ましてやキリストと相容れることに等しいわけではありません。振る舞いの変化は教義に基づき、情熱から生じます。それは神に関する真の認識や真理に基づくものではなく、ましてや聖霊の導きに基づくものではありません。人間の行動には聖霊に導かれているものもありますが、それはいのちの表出ではなく、神を知ることなどではもちろんありません。人の振る舞いがどれほど立派であっても、それは神に服従しているという証明にも、真理を実践しているという証明にもなりません。振る舞いの変化は一瞬の幻想に過ぎず、その人の熱心さの現れに他なりません。いのちの表出として数えられることなどできないのです。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 383

性質の変化は振る舞いの変化ではなく、偽った外面的変化でもなく、情熱から生まれた一時的な変化でもありません。むしろそれは、振る舞いの変化をもたらす真の性質の変化です。このような振る舞いの変化は、人の表面的な振る舞いや行為において現われる変化と同じではありません。性質の変化は、自分が真理を理解し、経験し、真理が自分のいのちになったことを意味します。過去、あなたはそのことにまつわる真理を理解しましたが、それを実践することはできませんでした。真理はあなたにとって、留まることのない教義に過ぎなかったのです。自分の性質が変化したいま、あなたは真理を理解しているだけでなく、それにしたがって実践します。あなたはいま、それまで好んでいた物事、かつて喜んでしていたこと、自分の想像、そして自分の観念を捨て去ることができます。過去に捨て去ることができなかった物事を捨て去ることができるのです。それは性質の変化であり、同時にあなたの性質が変化する過程でもあります。これは極めて単純に聞こえるかもしれませんが、実を言えば、この過程のさなかにある人は多くの苦難を受け、自分の肉体を克服し、自身の本性の一部である肉の側面を捨てなければなりません。またこのような人は、取り扱いと刈り込み、刑罰と裁き、試練と精錬を経る必要があります。そのすべてを経験して初めて、人は自分の本性をいくらか認識できるのです。ただし、それについて何らかの認識があるからといって、その人がすぐに変化できるというわけではありません。その過程で苦難に耐えなければならないのです。同様に、物事を多少理解すれば、それですぐに実践を始めることができますか。すぐにはできません。あなたは理解を得てはいますが、他の人たちがあなたを刈り込んで取り扱うので、環境のせいでやむを得ず、真理原則に従って行動せざるを得なくなっているのです。場合によってはそれを嫌がり、「あのようにやってはなぜいけないのか。このようにしなければいけないのか」などと言う人もいます。また、「神を信じているなら、このようにするべきだ。このようにすることが真理に沿っているのだ」と口にする人もいます。一定の段階に達し、ある程度の試練を経て、神の旨や多少の真理を理解するようになると、人は真理原則に従って行動することが嬉しくなり、進んでそうするようになります。当初、人々は真理を実践することに消極的です。たとえば、献身的に自分の本分を尽くすことを考えてみましょう。あなたは本分を尽くし神に献身することについて多少の理解を得ており、それに関連する真理も理解していますが、いつになったら自分自身を完全に神に捧げられるようになるのでしょうか。いつになったら、名実ともに本分を尽くせるようになるのでしょうか。それには一つの過程が必要であり、その過程では多くの苦難を経験するかもしれません。あなたを取り扱う人もいれば、批判する人もいるでしょう。全員の目があなたに注がれ、そのとき初めて自分が間違っていること、下手なことをしたのが本当に自分であること、本分を尽くす上で献身が欠けていることは許されず、不注意だったりおざなりだったりしてはいけないことに気づき始めます。そして聖霊があなたを内から啓き、間違いを犯すと叱責してくれるようになります。この過程の中で、あなたは自分に関することを多少理解し、本分を尽くす際に自分があまりに不純で、個人的な動機を抱えすぎ、法外な欲望を持ちすぎていることを知るようになります。そういったことの本質に気づいたら、神の前に出て祈り、真に悔い改めることができます。そうすることで、それらの不純が清められるのです。このような形で頻繁に真理を求め、自分の実際的な問題を解決していけば、徐々に正しい信仰の道へと踏み出すことができます。堕落した性質が清められれば清められるほど、その人のいのちの性質は変化するのです。

本質的に、あなたは今どれだけの本分を真剣に尽くしていますか。性質が変わった後、どれだけの本分を真理に沿って尽くしていますか。これを調べることで、自分の性質が実際にはどれほど変わったかがわかります。性質の変化を成し遂げるのは容易なことではありません。それは単に行動がいくらか変わり、真理の認識をいくらか得て、真理のあらゆる側面に関する自分の経験を少し話せるようになるとか、あるいは懲らしめを受けた後でいくらか変わった、または少しばかり従順になった、といったことではないのです。そうしたことはいのちの性質の変化にはなりません。わたしはなぜそう言うのでしょうか。あなたはいくらか変化したかもしれませんが、依然として真に真理を実践しているわけではないのです。適切な環境や好ましい状況に一時的に置かれているため、あるいは現在の状況に強いられて、そのように振る舞っているだけかもしれません。さらに、精神状態が落ち着いていて聖霊が働きを行なっていれば、あなたは実践することができます。今まさに試練を受けていて、ヨブのように苦難を経ているとしたら、あるいは神に死ぬよう求められたペテロのようであれば、あなたもこのように言うことができるでしょうか。「たとえあなたを知った後に死ぬことになっても、それで構いません」と。性質の変化は一夜のうちに起きるものではなく、いったん真理を理解したところで、どんな環境でもそれを実践できるとは限りません。そこには人間の本性が関係しています。真理を実践しているように見えても実際には、あなたがそうしていることをあなたの行動の本質は示していない、ということもあります。家族や仕事を捨てて本分を尽くせるというように、多くの人にはある種の外面的な振る舞いがあり、それゆえ自分は真理を実践していると信じています。しかし神は、その人が真理を実践しているとは認めません。あなたが行なうすべてのことに個人的な動機があって不純なら、あなたは真理を実践しておらず、表面的な行為を示しているだけです。厳しく言えば、あなたの行ないは神に断罪されるでしょうし、神に讃えられたり記憶されたりすることはありません。さらに分析すれば、あなたは悪事を犯しているのであり、その行為は神に反抗するものです。表面的に見れば、あなたは何かを妨害することも混乱させることもなく、実害を与えたり真理に背いたりしているわけでもありません。あなたの行動は論理的かつ合理的に見えますが、その本質は悪事を犯し神に逆らうものです。したがって、自分の行動に潜む動機を神の言葉に照らして見つめ、それによって自分に性質の変化が生じたかどうか、自分が真理を実践しているかどうかを判断しなければなりません。それは、自分の行動が人間の想像や意図と一致しているかどうか、あるいは自分の好みに合っているかどうかという、人間の見方に左右されるものではありません。そうしたことは重要ではないのです。むしろ、あなたが神の旨に従っているかどうか、あなたの行動に真理現実があるかどうか、神の要求と基準を満たしているかどうかについて、神がどのように言うかに左右されます。自分自身を正確に測るには、神の要求に照らすしかありません。性質を変えて真理を実践に移すことは、人が想像するほど単純でも容易でもありません。今それを理解していますか。それについて何か経験したことはありますか。問題の本質について言うと、あなたがたはそのことを理解していないのかもしれません。あなたがたの入りはあまりにも表面的なのです。あなたがたは一日中、早起きしてから夜遅く床につくまで、朝から晩まで走り回っていますが、それでもいのちの性質は変化しておらず、そのような変化には何が関係しているのかも把握できていません。それはあなたがたの入りが浅すぎるということではないでしょうか。どれほど長く神を信じてきたとしても、性質の変化の達成に関わる本質や深い物事を感じ取っていないのかもしれません。これは、あなたの性質が変わったと言えるでしょうか。神が自分を讃えているかどうかは、どうすればわかるでしょうか。少なくとも、あなたは自分のあらゆる行ないについて並外れた着実さを感じるでしょうし、また神の家で本分を尽くして働きを行なっているとき、あるいは普段のとき、聖霊が自分を導いて啓き、自分の中で働きを行なっていると感じます。あなたの行ないは神の言葉に逐一かない、ひとたびある程度の経験を得ると、過去の自分の行動は比較的適切だったと感じます。しかし、一定期間にわたり経験を得た後、過去に行なったことの一部が適切でないと感じ、それに満足せず、自分が行なったことに真理はなかったと感じるのであれば、それは過去の行ないがどれも神に逆らうものだったことを証明しています。あなたの奉仕が反逆と抵抗、そして人間の振る舞い方で満ちていることの証拠なのです。

『終わりの日のキリスト講話集』「性質の変化について知るべきこと」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 384

人が神に従えるかどうかを決めるにあたり、目を向けるべき重要なことは、その人が神から贅沢な何かを欲しがるかどうか、隠された動機があるかどうかです。いつも神に要求をしているなら、それは神に従っていないことを証明します。自分に何が起きようと、それを神から受け取れず、真理を求めることができず、いつも主観的な推論で語り、いつも自分だけが正しいと思い、神を疑うことさえできるなら、必ずや問題に見舞われます。このような人は最も傲慢で、神に最も反抗的な人です。神に要求してばかりいる人は、決して本当に神に従えません。あなたが神に要求をしているなら、それは神と取引していること、自分の考えを選んでいること、そして自分の考えに従って行動していることを証明しています。あなたはその点で神を裏切っており、従順ではありません。神に要求するのは理知に欠けることです。神は神であると心から信じているなら、それが理性的であろうとなかろうと、あえて神に要求をすることはなく、またそうする資格もないはずです。あなたが真の信仰を持ち、神は神であると信じているなら、神を崇拝して神に従うしか選択肢はありません。現在の人には選択肢があるだけでなく、自分の考えに従って神が振る舞うことさえ要求します。彼らは自分の考えを選んだうえで、神がそれらに従って振る舞うことを求め、自分が神の考えに従って振る舞うことは必要としません。ゆえに、人に真の信仰、実質的な信仰はなく、神の称賛を受けることは決してあり得ません。神への要求を少なくできれば真の信仰と従順さが膨らみ、あなたの理知も比較的正常になります。人が弁明にしがみつき、言い訳を並べれば並べるほど、その人を取り扱うのが難しくなる、ということがよくあります。そのような人は数多くの要求をするだけでなく、少し譲歩するとさらに求めます。ある方面で満足しても別の方面で要求し、すべての方面で満足しなければならず、さもなければ不満を述べ始め、望みがないと自分を切り捨てます。その後、借りを感じて後悔し、激しく泣きわめいて死にたいと思います。それが何の役に立ちますか。これが問題を解決できますか。したがって、何かが起きる前に、あなたは自分の本性を分析しなければなりません。自分の本性には何があるのか、自分は何を好むのか、要求することで何を成し遂げたいと思っているのか、分析する必要があるのです。自分にはある程度の素質と天分があると信じ、指導者になって人の上に立ちたいといつも思い、そこで神に自分を用いるよう要求する人がいます。そして神に用いられないと、その人はこう言います。「神よ、なぜわたしに好意を示してくださらないのですか。どうか私を大いにお使いください。そうすれば、あなたのために自分を費やすことをお約束いたします」。このような動機は正しいですか。神のために費やすのはよいことですが、神のために費やしたいという気持ちは二番目に来ています。心の中で好んでいるのは地位であり、それに重点を置いています。本当に服従することができるなら、神があなたを用いようと用いまいと、神に一心に付き従うはずであり、あなたに地位があろうとなかろうと、神のために費やすことができるでしょう。そのとき初めて、あなたは理知を備え、神に服従する人になるのです。

『終わりの日のキリスト講話集』「人はあまりに多くを神に要求する」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 385

被造物が創造主に対して持つべき唯一の態度は服従、無条件の服従です。これは、今日の一部の人には受け入れられないことかもしれません。なぜなら、人の霊的背丈はあまりに小さく、真理現実がないからです。これがあなたの状態を示しているなら、まだまだ神には従えません。人は神の言葉によって糧と潤しを与えられていますが、実際には一つのことに向けて準備をしています。それは最終的に、無条件かつ絶対的に神に服従できるようになるということです。そのとき被造物であるあなたは、求められる標準に達することになります。時として、あなたの観念と一致しないこと、あなたの望みに反すること、さらには原則に反して見えること、人間の感情や人間性、または情緒に反することを神はわざと行ない、あなたがそれを受け入れることも、理解することもできない状態に置きます。それをどのように見ても正しいとは思われず、あなたはまったく受け入れることができず、神がしたことは実に理不尽だと感じます。では、そうしたことを行なう神の目的は何でしょうか。それはあなたを試すことです。神が行なったことについて、その方法や理由を論じる必要はありません。必要なのは、神は真理であるという信念を保ち、神は自分の創造主であり、自分の神であると認識することです。これはどの真理よりも高く、この世のすべての知恵、人間のいわゆる道徳、倫理、知識、教育、哲学、あるいは伝統文化よりも高いものであり、人間同士の愛情、仲間意識、またはいわゆる愛をも上回っています。これは他の何よりも絶対に高いのです。これを理解できなければ、遅かれ速かれ何かが起きたとき、神に逆らってしまい、また最後に悔い改め、神がいかに愛すべき存在かを認識し、神が自分に行なう働きの意義に気づく前に、道に迷ってしまいます。なお悪いことに、つまずいてしまってそのために倒れるかもしれません。……どれだけ長く神を愛してきたか、どれだけ長い道のりを旅してきたか、どれほど多くの働きを行なってきたか、どれほど多くの本分を尽くしてきたかにかかわらず、この期間はあなたに対して一つのことへの準備をさせています。つまり最終的に、神に無条件かつ絶対的に服従できるようになるということです。では、「無条件」とは何を意味していますか。それは、自分の個人的な正当化を無視し、客観的な推論を無視し、何かを巡って争わないということです。あなたは被造物であり、あなたに価値はありません。神と争うならば、あなたは間違った立場にいます。神に向かって自己を正当化しようとするなら、このときもあなたは間違った立場にいます。神と口論したり、理由を尋ねようとしたり、実際に何が起きたか突き止めようとしたりするとき、まず理解できなければ服従できず、すべてが明らかになって初めて従えるなら、あなたはやはり間違った立場にいます。あなたのいる立場が間違ったものであれば、神に対するあなたの服従は絶対的なものですか。あなたは神にしかるべく接していますか。すべての被造物の主として神を崇めていますか。いいえ、そうしていません。その場合、神はあなたのことを認めません。神に絶対的かつ無条件に服従できるようになるには、何が必要ですか、それはどうすれば経験できますか。一つには、正常な人間性の良心と理知が必要であり、他方では、本分を尽くす中で真理の一つひとつの側面を理解し、それによって神の旨を理解できるようになる必要があります。時として、人間は素質が足りず、すべての真理を理解する強さや活力がありません。しかし、一つのことがあります。あなたに降りかかる、あるいは神が采配した環境、人、出来事、および物事に関係なく、あなたはいつも従順な態度をとらなければならず、理由を尋ねてはいけません。この態度さえもあなたには無理で、神のことを警戒したり、神について推測したり、あるいは「神のなさっていることが本当に義なのかどうか、わたしは考える必要がある。神は愛だというが、神がわたしに行なうことの中に愛があるのか、それが本当に愛なのか、確かめてみよう」と内心で考えたりするならば、また神の行なっていることが自分の観念に沿っているかどうか絶えず検証し、神の行なっていることが自分の好み通りであるかどうかいつも調べるならば、または、自分が真理と信じているものに従っているかどうかさえも調べるならば、あなたの立場は間違っており、それによって面倒なことに巻き込まれ、いともたやすく神の性質に背くことになるでしょう。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 386

神の働きを経験する過程において、何度失敗し、倒れ、刈り込まれ、取り扱われ、暴かれようと、これは悪いことではありません。どのように刈り込まれたり取り扱われたりしたのであれ、それを行なったのが指導者であれ働き手であれ、あるいは兄弟か姉妹であれ、それらはどれもよいことです。これを覚えておきなさい。どれほど苦しもうと、実際には恩恵を受けているのです。経験がある人なら、このことを立証できます。何であれ、刈り込まれたり、取り扱われたり、暴かれたりするのは、常によいことです。それは断罪ではありません。それは神の救いであり、自分を知る最高の機会なのです。それはいのちの経験を一段加速させます。それなしには、自分の堕落の真相を認識できるようになる機会も条件も背景も得られません。真理を本当に理解し、心の奥底に隠された堕落したものを掘り出すことができ、それらをはっきりと識別できるなら、それはよいことであり、いのちへ入ることに関わる一件の重要な問題がそれで解決したのであって、性質の変化に大きく役立ちます。自分を真に認識できるようになることは、自分の道を正して新しい人になる最高の機会なのです。それは、あなたが新たないのちを得る最高の機会です。いったん自分を真に認識すれば、真理がいのちとなるのは本当に貴重なことだと分かるようになり、真理を渇望し、真理を実践して、その現実に入るようになります。それはかくも素晴らしいことなのです。失敗し倒れるたびに、その機会を捉えて真剣に自分を反省し、自分を真に認識できれば、消極性と弱さのさなかにあっても再び立ち上がることができます。いったんその敷居を跨げば、大きな一歩を踏み出して真理の現実に入れるのです。

神の統治を信じるなら、日々の出来事はよいことであれ悪いことであれ、偶然に生じるのではないと信じなければなりません。誰かがわざとあなたにつらく当たったり、あなたを標的にしたりしているのではなく、これはすべて神の采配によるものなのです。神はなぜこうしたことをすべて指揮しているのですか。それはあなたの正体を暴くためでも、あなたを露わにするためでもありません。あなたを露わにすることが最終目標ではないのです。目標はあなたを完全にして救うことです。神はどのようにそれを行ないますか。まず、あなたの堕落した性質、本性と本質、短所、そして欠けているものをあなたに気づかせるところから始めます。これらのことを知り、はっきり理解することでのみ、真理を追い求めて堕落した性質を徐々に捨て去ることができます。これは神が機会を与えているのです。あなたはこの機会をどう掴むべきかを知らなければならず、神と角突き合わせてはいけません。とりわけ、神があなたの周りに配した人や物事に向き合うとき、自分の望み通りでないと感じたり、逃れようと思ったり、神を責めて誤解したりするばかりではいけません。絶えずそのようにしているなら、あなたは神の働きを経験しておらず、真理現実に入るのがとても難しくなります。完全には理解できない物事に遭遇しても、困難が生じたときは服従できるようにならなければなりません。まずは神の前に出てもっと祈ることから始めるべきです。そうすれば、知らないうちに自分の内なる状態が変わり、真理を求めて問題を解決できるようになります。このようにして神の働きを経験することができるのです。その間にあなたの中で真理現実が生じ、そのようにしてあなたは前進し、いのちの状態が変化します。ひとたびこの変化を経て、その真理現実を自分のものにしたならば、あなたは霊的背丈も有するようになり、霊的背丈とともにいのちが生じます。いつも堕落したサタン的な性質を基に生きるなら、熱意や活力がどれほどあっても、その人は霊的背丈やいのちを有しているとはやはり考えられません。神は一人ひとりの中で働きを行ないますが、その方法が何であれ、力を尽くす中でどのような人や物事を使うのであれ、言葉の調子がどういったものであれ、神の最終目標は一つしかありません。それはあなたを救うことです。あなたを救うのに先立ち、神はあなたを変える必要があります。そうであれば、あなたはどうして少しばかりの苦しみを受けないでいられるでしょうか。あなたは苦しまなければなりません。この苦しみには多くのことが含まれます。あなたが自分自身を認識できるようになるよう、神はあなたの周囲に人や物事を配することがあります。さもなければ、あなたは直接取り扱われ、刈り込まれ、露わにされます。手術台の上の人と同じく、よい結末を迎えるにはいくらかの苦しみを経験しなければならないのです。あなたが刈り込みと取り扱いを受けるたび、神が人や問題や物事を配するたび、あなたの感情が刺激され、士気が高められるなら、それは正しく、あなたは霊的背丈を得て真理現実に入ってゆきます。あなたが刈り込まれて取り扱われ、神に環境を配されるたび、何の苦痛も不快も覚えず、まったく何も感じないなら、あるいは神の前に出てその心意を求めることも、祈ることも真理を求めることもしないなら、あなたは本当に麻痺しきっています。あまりに麻痺して霊的な感覚がないなら、神にはそのような人に働きを行なう方法がありません。神はこう言うでしょう。「この人はあまりに麻痺していて、あまりに深く堕落させられてきた。わたしが為したすべてのことと、わたしが捧げたすべての努力を見よ。わたしはこの人に多くのことを行なってきた。それなのに、いまだこの人の心を動かすことも、霊を目覚めさせることもできない。この人はきっと問題を抱え、救うのは難しい」神があなたのために特定の環境や人や物事を采配し、あなたを刈り込んで取り扱ったとき、あなたがそこから教訓を学び、神の前に出ることを学び、真理を求めるようになり、知らぬ間に啓かれ照らされ、真理を得たなら、あなたがこれらの環境において変化を経験し、報いを受け取り、進歩を遂げたなら、あるいは神の意図を少し理解し始め、不満を言うことをやめたなら、それはどれも、あなたがこのような環境の試練のなかでしっかり立ち、試練に耐えたことを意味します。このようにして、あなたはこの試練を経るのです。試練に耐える人には真心があり、この種の苦しみに耐え、心の奥で真理を愛し求めます。神にこのように評価されているなら、あなたには霊的背丈といのちがあります。では、そのいのちはどうしたら得られますか。それは神から授けられます。神が自ら一椀の食べ物をもって来て、あなたの口にそれを直接運ぶのです。いったんそれを食べればあなたは満ち足り、強く立つことができます。これらはこのように理解すべきです。すると、神から来るあらゆるものに従順になれるのです。あなたはこのような心構えと態度をもち、真理を求めることを学ばなければなりません。いつも外面的な原因を探し求め、自分の問題を他人のせいにするばかりではいけません。神の意図を知なければなりません。表向き、あなたについて意見があったり、偏見を抱いたりする人もいるでしょう。しかしあなたは、物事をそのように見てはいけません。間違った視点から物事を見ると他人と口論するだけで、何も得ることはできません。物事は客観的かつ公平に見なければなりません。そうすれば真理を求め神の意図を理解することができます。いったん視点と心構えが正されれば真理を得ることができます。

『終わりの日のキリスト講話集』「真理を得るには、近くの人や出来事や物事から学ばなければならない」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 387

働きにおいて、教会指導者と働き手は二つのことに留意しなければなりません。一つは、働きの采配によって定められた原則に厳密に従って働き、それらの原則を決して破らず、自分の想像や考えを基に働かないことです。何をするにも、神の家の働きへの配慮を示し、その益を最優先することです。そしてもうひとつ、最も重要なのは、万事において聖霊の導きに従うことに集中し、何をするにも神の言葉に厳密に従うことです。もしいまだに聖霊の導きに逆らうことができるようであったり、頑なに自分の考えに従って自分の想像どおりに物事を行なったりするようであれば、あなたの行動は神に対する最も深刻な抵抗となります。聖霊の啓きと導きにしばしば背を向けても、行き詰まるだけです。聖霊の働きを失えば、あなたは働くことができなくなり、何とか働いたところで、何ひとつ達成できません。働きを行う際に従うべき二つの主要な原則はこれです。一つは、上からの采配に厳密に従って働き、また上が制定した原則に沿って行動することです。もう一つは、自分の中の聖霊の導きに従うことです。これら二点が把握できたならば、容易に間違いを犯すことはありません。この分野における経験がいまだ限られているあなたがたについて言えば、自身の発想によって働きが少しばかり不純なものになります。時として、自分の中の聖霊に由来する啓きや導きを理解していないこともあるでしょう、また、それを理解しているように見えるものの、無視しがちなこともあります。あなたはいつも人間のやり方で想像したり推理したりしており、自分が正しいと思う通りに行動し、聖霊の意図については一切気にかけていません。自分の考えだけに沿って働きを行ない、聖霊からの啓きはすべて脇にのけてしまいます。このような状況は頻繁に起こります。聖霊からの内なる導きは、超然としたものではまったくなく、実際には極めて正常なものです。つまり、それが適切な振る舞い方で、最善の方法だと、心の奥底でわかるのです。事実、その考えは極めて明快です。それはじっくり考えることで生じたものではなく、奥底から湧き上がった一種の感情なのであって、自分をそのように行動させるものは何であるかを、時として完全に理解していないことがあります。それはしばしば聖霊からの啓き以外の何物でもなく、また大多数の人においても、それが最も頻繁に生じるのはこのような形でなのです。人の意思は思いや考えから生じることがたびたびあり、どれも我意、つまり自分が利益を得られるどのような分野があるか、また何かの中に、自分にとってどのような利点があるかという考えが混ざっています。人間が下すあらゆる決定には、そのような事柄が入っているのです。しかし聖霊からの導きに、そのような不純は一切含まれません。聖霊からの導きや啓きにはじっくり注意を払う必要があり、重要な問題では特に、それを把握することに注意を払わなければなりません。自分の頭脳を使いたがる人、自分の意思に沿って行動したがる人は、そうした導きや啓きを最も見逃しがちです。有能な指導者や働き手は聖霊の働きに注意を払います。聖霊に従う人は神を畏れ、たゆまず真理を追い求めます。神を満足させ、正しく神に証しするには、自分の働きを調べて不純や意図の要素を探し、その働きのうち人間の意思が動機になっているのはどの程度か、聖霊による啓きから生じたのはどの程度か、神の言葉にかなっているのはどの程度かを確かめようと努めなければなりません。あなたは絶えず、いかなる状況でも、自分の言動を検証しなければなりません。このような形で頻繁に実践すれば、神に奉仕する正しい軌道に乗ることができるでしょう。神の旨にかなう形で神への奉仕を成し遂げるには、多くの真理を自分のものにしている必要があります。人は真理を理解して初めて識別する能力を持つようになり、自分の意思から生じる事柄、また自分の意思の動機になっているのは何かを指し示す物事を認識できるようになります。そのような人は人間の不純に加え、真理にしたがって行動するとはどういう意味かを認識できます。そのとき初めて、より純粋に服従するにはどうすればよいかがわかるのです。真理がなければ、人が識別を行なうのは不可能です。頭が混乱した人は、自分の堕落を暴かれるとはどういう意味か、あるいは神に抵抗するとはどういう意味かを知らぬまま、生涯にわたって神を信じるでしょう。なぜなら真理を理解していないからであり、そうした考えはその人の心に存在さえしていません。素質が過度に低い人にとって、真理は手の届かないものです。真理についてどのように交わろうと、やはり彼らは理解しません。そのような人は頭が混乱しているのです。頭が混乱した人は信仰の中で神に証しすることができず、わずかな奉仕ができるだけです。神が託す働きを成し遂げるには、これら二つの原則を理解することが必要です。上層部からの働きの手引きを厳密に遵守するとともに、聖霊からのあらゆる啓きに服従することに注意を払わなければなりません。これら二つの原則を把握して初めて、その人の働きは効果的なものになり、神は満足します。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 388

ペテロが追求したのは、神の言葉の精錬を通じて、また神が彼に与えた様々な試練において、自分自身を知り、自分自身の中で明らかになったことを知ることでした。自分自身を真に理解するにいたったペテロは、人間がどれほどひどく堕落しているか、どれほど無価値で神に仕えるに値しないかを理解し、人間は神の前で生きるにふさわしくないと悟ったのです。その時ペテロは神の前にひれ伏し、最終的にこう考えました。「神を知ることこそ最も尊いことだ。神を知る前に死んでしまえば、それは実に哀れなことだ。神を知ることは最も重要で、最も有意義なことだと、わたしは実感している。もし神を知らなければ、人は生きるに値せず、人生もない」。ペテロの経験がここに到達した段階で、ペテロは自身の本性を認識するようになっており、また比較的よく理解していました。現在の人ほどはっきりとは説明できなかったかもしれませんが、ペテロはその状態にたどり着いたのです。したがって、いのちを追い求め、神によって完全にされるには、神の発する言葉の中から自分自身の本性を認識すること、それに加えて自分の本性の各側面を把握して、言葉でそれを正確に描写し、はっきりと明確に語ることが必要になります。これだけが、自分を真に認識するということであり、あなたは神の求める成果を挙げたことになります。認識がまだそこに達していないのに、自分自身を認識している、いのちを得たなどと主張するなら、それはただ自慢していることになりませんか。自己を認識せず、神の前にいる自分が何であるかも、人間である基準に真に合致しているかどうかも、サタン的要素が自分の中にまだどれほどあるのかも、あなたは知らないのです。自分が誰に属しているのか、あなたはいまだによくわかっておらず、自己認識さえも一切ありません――それでどうして神の前において理知をもち得るでしょうか。ペテロはいのちを追求していたとき、試練を通じて自己認識することと、自分の性質を変えることに専念しました。そして神を知ろうと懸命に努力し、最後にはこう考えました。「人は生きているうちに神を認識しようと努めなければならない。神を知ることは最も決定的なことなのだ。神を知らなければ、死んでもわたしは安らかに眠れない。ひとたび神を知れば、神がわたしを死なせても、わたしは喜んで死ぬ。わたしは一切不平を言わず、わたしの生涯は満たされる」。ペテロは、神を信じるようになってすぐにこのレベルの認識を得られたわけでも、この境地に達せたわけでもありません。初めは幾多の試練に耐えなければなりませんでした。神を知ることの価値を感じられるまでに、彼の経験はある節目まで達しなければならず、完全な自己認識を得なければなりませんでした。ですから、ペテロの辿った道はいのちを得る道であり、完全にされる道だったのです。これが、彼の具体的な実践がおもに集中していた側面でした。

神への信仰において、あなたがたは今どの道を歩んでいますか。ペテロのように、いのち、自己認識、神を知ることを追い求めていなければ、あなたはペテロの道を歩んでいません。現在、ほとんどの人は次のような状態にあります。「祝福を得るには、神のために自分を費やし、代価を払わなければならない。祝福を得るには、神のためにすべてを捨てなければならない。神がわたしに託したことを完成させ、本分をしっかり尽くさなければならない」。これは祝福を得るという意図に支配されており、それは神から報いを受け、冠を手に入れるという目的のためだけに、神のために自身を費やす例の一つです。このような人の心に真理はなく、彼らの理解がわずかな教義の言葉から成っていて、行く先々でそれを見せびらかしているのは確実です。彼らの道はパウロの道です。こうした人の信仰はひたすら苦労することであり、そうすればするほど神への忠誠が証明され、そうすればするほど神が満足するのは確実で、そうすればするほど神の前で冠を授けられるのにふさわしくなり、得られる祝福も大きくなると心の奥で思っています。キリストのために苦しみに耐え、伝道し、キリストのために死ぬなら、自分の生命を犠牲にすることができるなら、そして神に託された本分をすべて完成することができるなら、自分は最大の祝福を得て、必ずや冠を授けられる人になると考えているのです。これはまさにパウロが想像していたこと、パウロが求めていたことです。これはパウロが歩んだ道そのものであり、このような考えに導かれてパウロは神に仕えたのです。この考えと意図は、サタン的な本性に由来しているのではありませんか。この世界では知識を追求しなければならず、それを得ると大衆から傑出し、役人になり、地位を得られると信じている、世俗の人々と何ら変わりません。彼らは、ひとたび地位を得れば自分の野心を実現することができ、自分の家庭や仕事を一定水準の繁栄へと引き上げられると思っています。すべての未信者はこの道を歩んでいるのではないですか。このサタン的本性に支配されている人たちは、信仰においてパウロのようにしかなれません。彼らはこのように考えます。「わたしはすべてを捨てて神のために自分を費やさなければならない。神の前で忠実でいなければならないし、そうすればいずれ、大きな報酬と立派な冠を受けられるだろう」。これは、世俗の物事を追い求める世俗の人と同じ態度です。両者はまったく違わず、同じ本性に支配されています。この種のサタン的な本性を持っていると、この世において知識や学問や地位を手に入れ、大衆から傑出することを求めるようになります。神を信じていれば、立派な冠と大きな祝福を得ることを求めます。神を信じるときに真理を追い求めないと、必ずやこの道を辿ります。これは不変の事実、自然の法則です。真理を追い求めない人が辿る道は、ペテロの道に真っ向から反しています。あなたがたはみな、現在どちらの道を歩んでいますか。パウロの道を歩もうとは考えていなくても、あなたの本性によってその道を歩むよう定められ、知らぬ間にそちらの方向へ進んでいるのです。ペテロの道に足を踏み入れたいと思っても、その方法を理解していなければ、否応なくパウロの道を歩むことになります。これがこの状況の現実です。現在、人はどのようにしてペテロの道を歩むべきですか。ペテロの道とパウロの道を区別できなければ、あるいはそれらをまるで知らなければ、自分はペテロの道を歩んでいるとどれほど言い張っても、それは空虚な言葉に過ぎません。まずは、ペテロの道とは何か、パウロの道とは何かをはっきり理解する必要があります。ペテロの道はいのちの道、完成につながる唯一の道だと真に認識して初めて、彼の道を歩む真理とその具体的な方法を知り、把握することができます。ペテロの道を理解していなければ、あなたが歩む道は間違いなくパウロの道です。あなたにとって他の道はなく、選択肢も存在しないからです。真理を自分のものにしておらず、決意のない人は、ペテロの道を歩むのが困難です。神は今、救いと完成への道をあなたがたに明かしたと言えます。これは神の恵みと高挙であり、あなたをペテロの道に導くのは神なのです。神の導きと啓きがなければ、誰一人ペテロの道を歩めません。パウロの道を歩むより他になく、パウロの足跡に従って滅びへと至ります。当時、その道を歩むのが間違っていると、パウロは感じていませんでした。それが正しいと信じ込んでいたのです。彼は真理を自分のものにしておらず、特に性質の変化は経ていませんでした。自分を過信し、その道を進むことに何の問題もないと思っていました。そうして確信に満ち、最大級の自信を持って前進し続けたのです。最終的に、彼が正気に戻ることはありませんでした。自分にとって、生きるのはキリストだと依然考えていたのです。このように、パウロは最後までその道を歩む続け、最終的に懲罰を受けたときには、すべてが終わっていました。パウロの道に自己認識というものはなく、まして性質の変化を求めることなど含まれません。彼は決して自分の本性を分析せず、自分が何者かを認識することもありませんでした。自分はイエスの迫害の主犯であるとしか認識していなかったのです。パウロは自分の本性をこれっぽっちも認識しておらず、自身の働きを終えたあと、自分はキリストなので報いを受けるべきだと実際に思っていました。パウロが行なった働きは神への奉仕に過ぎません。パウロ個人について言えば、彼は聖霊からの啓示を多少受け取ったものの、真理やいのちはまったくありませんでした。神によって救われず、神から懲罰を受けたのです。ペテロの道が完成への道と言われるのはなぜですか。ペテロは実践において、いのち、神を認識しようと求めること、そして自己を認識することにひときわ重点を置いたからです。神の働きに関する自身の経験を通じ、ペテロは自己を認識するようになり、人間の堕落した状態を把握し、自己の欠点を知り、人が追求すべき最も価値あるものを突き止めたのです。ペテロは心から神を愛することができ、どう神に報いるべきかを学び、いくらかの心理を得て、神が求める現実を自分のものにしました。試練のさなかにペテロが述べたすべてのことから、彼はまさに神を最も認識していた人だということがわかります。神の言葉から数多くの真理を認識するようになったので、ペテロの道はますます明るくなり、神の旨と一致するようになりました。ペテロがこの真理を自分のものにしていなければ、彼の歩んだ道がここまで正しいことはあり得なかったでしょう。

『終わりの日のキリスト講話集』「ペテロの道を歩むには」(『言葉』第3巻)

日々の神の御言葉 抜粋 389

ペテロは長年わたしに忠実であったが、けっして不平を言わず、不満も抱かなかった。ヨブでさえペテロには及ばなかった。また、時代を通じて、聖徒たちもみなペテロには遠く及ばなかった。ペテロはわたしを知ることを求めただけではなく、サタンが欺きに満ちた策略を実行していた時にも、わたしを知るようになった。それにより、ペテロはわたしに長年奉仕し、それは常にわたしの旨にかなっており、そのため、サタンに利用されることがついになかった。ペテロはヨブの信仰から教訓を引き出したが、ヨブの短所もはっきり認識していた。ヨブは深い信仰の持ち主だったが、霊的領域のものごとに関する認識を欠いていた。そのため、現実に沿わないことを数多く言った。このことから、ヨブの認識が浅く、完成することができなかったことがわかる。そこで、ペテロは霊の感覚を得ることに絶えず集中し、霊的領域の動態を観察することにいつも注意を払っていた。その結果、わたしの望みの何かを確信することができただけでなく、サタンの欺きに満ちた策略についてもわずかな認識があった。そのため、わたしに関するペテロの認識はいつの時代の誰よりも大きく育った。

ペテロの経験から、人間がわたしを知りたければ、霊の中で注意深く考察することに集中しなければならないということが、容易にわかるだろう。わたしはあなたに、外面的に一定の量のものをわたしに「ささげる」ことを要求しない。それは二義的な懸念である。わたしを知らないなら、あなたの語る信仰や愛、忠実はすべて幻想にすぎない。それは中身のないものであり、あなたはわたしの前で大いに自慢するが、自分を知らないのは確かである。このように、あなたは再びサタンの罠にかかり、自由になることができない。あなたは地獄の子になり、破滅の対象となる。しかし、わたしの言葉に冷淡で無関心であるなら、あなたは必ずわたしに敵対している。これは事実であり、霊的領域の門の向こう側で、大勢の多様な霊がわたしの刑罰を受けてきたのを見るとよい。彼らの中に、わたしの言葉を前に受動的でなく、冷淡でなく、拒まなかった者がいるだろうか。彼らの誰がわたしの言葉について冷笑的でなかっただろうか。彼らの誰がわたしの言葉に欠点を見つけようとしなかっただろうか。彼らの誰が「自分を守る」ためにわたしの言葉を「防御の武器」として用いなかっただろうか。彼らはわたしの言葉の内容を、わたしを認識する方法として用いず、単に玩具としてもてあそんだに過ぎない。そうすることで、彼らはわたしにじかに逆らっていたのではないか。わたしの言葉とは誰のことなのか。わたしの霊とは誰のことなのか。わたしは何度も、こうした質問をあなたがたに尋ねてきた。しかし、あなたがたがそれらについて、より高度で明瞭な洞察を得たことがあるか。それらを真に経験したことがあるか。もう一度言う。わたしの言葉を知らず、受け入れず、実践しないのなら、必ずわたしの刑罰の対象となる。必ずサタンの餌食になる。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第八章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 390

神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の旨にかなうには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は「神」という言葉や「神の働き」のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々が、神への信仰で混乱しているのも無理はない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。これはひとえに、神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らず、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の旨を満たすことなどできない。「神への信仰」とは神の存在を信じることを意味し、これは神への信仰に関する最も単純な概念である。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、次のことを意味する。神は万物に対する主権を持つという信念に基づいて、神の言葉と働きを経験し、堕落した性質を取り除き、神の旨を満たし、神を知るようになる。このような道程だけが、「神への信仰」と呼ぶことができる。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、単純で取るに足らないことだと考える。このような形で神を信じる人は、神を信じることの意義を失っており、最後の最後まで信じ続けるかもしれないが、神の承認を得ることは決してない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、字句に沿って、空しい教義においてのみ神を信じている人々がいる。彼らは、自分たちには神への信仰の実質がなく、神の承認を受けられないことを知らない。それでも、平安の祝福と十分な恵みを求めて神に祈っている。わたしたちは立ち止まって心を静め、次のように自問しよう。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのか。神を信じることは神から豊富な恵みを受けることでしかないのか。神を知らずに信じている人々、神を信じているが神に反抗している人々は、本当に神の旨を満たすことができるのか。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 391

初めて神を信じたあと、人が得てきたものは何か。あなたは神について何を知るようになったのか。神への信仰により、あなたはどれほど変わったのか。今日、あなたがたはみな、人による神への信仰は単に魂の救いと肉の幸福のためではなく、神の愛を通して自分の人生を豊かにさせるためなどでもないことを知っている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的な快楽のために神を愛するなら、たとえ最後に神に対するあなたの愛が頂点に達し、あなたがそれ以上何も求めないとしても、あなたが求めるこの愛は依然として不純な愛であり、神には喜ばれない。自分のつまらない存在を豊かにし、心の空虚さを埋めるために神を愛する人は、楽な生き方に貪欲な人であって、神を真に愛することを求める人ではない。このような愛は強いられたものであり、精神的満足を追求するものであって、神はそれを必要としない。では、あなたの愛はどのようなものか。あなたは何のために神を愛するのか。まさにいま、あなたの中には神に対する真の愛がどれほどあるのか。あなたがたの圧倒的多数が抱いている愛は先に述べた通りのものである。このような愛は現状を維持することしかできず、不変性を得ることも、人に根づくこともできない。この種の愛は、花が咲いても実をつけず、そのまましおれてしまう花のようでしかない。言い換えると、そのような形で神を愛しても、誰かがその道を導いてくれなければ、あなたは崩れ落ちてしまう。神を愛する時代に神を愛せるだけで、その後もいのちの性質が変わらないままなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、そこから逃れることができず、サタンの束縛とたくらみから自由になることもできないままである。そのような人が完全に神のものとなることはできない。最終的に、その人の霊、魂、体は依然としてサタンに属している。このことに疑いの余地はない。完全に神のものとされることができない人は、残らず自分の本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神による次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄の池に落ちるのである。神のものとされる人は、サタンを捨て去ってその支配下から逃れる人のことである。そのような人は正式に神の国の民として数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいのか。進んで神のものになりたいのか。進んでサタンの支配下から逃れ、神の元に戻りたいのか。あなたはいまサタンに属しているのか、それとも神の国の民として数えられているのか。これらのことはすでに明白であるべきで、これ以上説明する必要はない。

『神の出現と働き』「信者はどのような観点をもつべきか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 392

かつて、多くの人が並外れた野心と観念を胸に、自分の希望のために追い求めた。こうした問題はしばらく脇にのけよう。いま極めて重要なのは、あなたがた一人ひとりが神の前で正常な状態を維持することができ、サタンによる支配の足かせから次第に自由になることができる実践の道を見つけることである。そうすれば、あなたがたは神のものとされ、神があなたがたに求める地上での生き方ができる。そのような形でのみ、あなたは神の旨を満たせるのである。多くの人が神を信じているが、神が望むものは何か、サタンが望むものは何かを知らない。彼らは混乱した信じ方をし、ただ流れに乗るだけなので、クリスチャンとしての正常な生活を送ったことがない。さらに、彼らは正常な人間関係をもったことがなく、ましてや神との正常な関係をもったこともない。このことから、人間の問題と欠点、および神の旨を邪魔し得るその他の要因が数多くあることがわかる。そのことは、人がいまだ神への信仰の正しい軌道に乗っておらず、真の人生経験に入っていないことを証明するのに十分である。では、神への信仰の正しい軌道に乗るとはどういうことか。正しい軌道に乗るとは、あなたが神の前で常に心を静め、神との正常な交わりを享受することができ、人間には何が欠けているかを次第に知るようになり、神に関するさらに深い認識を徐々に得ることである。これにより、あなたの霊は日々新たな洞察と啓きを得るのである。そしてあなたの切望も膨らみ、真理に入ることを求めるとともに、新しい光と認識が日々存在するようになる。この道を通じ、あなたは次第にサタンの支配から自由になり、いのちにおいて成長を遂げる。このような人は正しい軌道に入ったのである。自分の実体験を評価し、信仰において自分が追求した道を検証しなさい。これまでに述べたこととそれらを照らし合わせるとき、あなたは正しい軌道に乗っているか。どのような事柄において、サタンの足かせと支配から自由になったのか。いまだ正しい軌道に乗っていないなら、あなたとサタンのつながりは切れていない。そうであれば、神を愛そうと求めたところで、本物で、純真で、純粋な愛へと導かれるだろうか。神に対する自分の愛はゆるぎなく、心からのものだとあなたは言うが、あなたはまだサタンの足かせから自由になっていない。あなたは神をからかおうとしているのではないか。神に対する自分の愛が不純でない状態へと至り、完全に神のものとされ、神の国の民として数えられたいなら、あなたはまず自分自身を神への信仰の正しい軌道に乗せなければならない。

『神の出現と働き』「信者はどのような観点をもつべきか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 393

すべての人に共通する問題は、真理を理解していても実践しないことである。これは、一方では代償を払う意志がないためであり、他方では、識別が足りなすぎるためである。そうした人は日常生活の困難の多くをあるがままに見ることができず、正しく実践する方法を知らない。人の経験は浅すぎ、素質が不足しすぎ、真理の理解度が限られているため、日常生活で遭遇する困難を解決するすべがない。口先だけで神を信じており、日常生活に神を入れることができない。つまり、神は神であり、生活は生活であり、人は生活の中で神とは関係ないかのようである。誰もがそう考えている。このように神を信じているので、現実には人が神に得られ、完全にされることはない。実のところ、神の言葉が完全に現れなかったということではなく、むしろ人が神の言葉を受け取る人の力が単に足りなすぎるのである。神の本来の意図に従って行動する人はほとんどいないと言える。むしろ、自分自身の意図、過去に持っていた宗教的観念、物事のやり方にしたがって神を信じている。神の言葉を受け入れた後に変容を遂げ、神の心意に従って行動し始める人はほとんどいない。その代わり、誤った信念に固執する。人が神を信じるようになるとき、宗教の慣例に基づいて信じ、自分の処世哲学だけに基づいて生き、他者と関わる。これは十人のうち九人に当てはまると言える。神を信じるようになってから別の計画を立て、改心する人はほとんどいない。人類は神の言葉を真理と見なさず、または真理として受け取り実践しなかった。

たとえば、イエスを信じることを考えてみよう。信じ始めたばかりの人でも、非常に長い間信じてきた人でも、みな自分が持つ何らかの才能を使い、自分が有する何らかの技能を見せただけである。人は単純に「神を信じる」という五文字を自分の通常の生活に加えただけで、自分の性質は変えず、また、神への信仰は少しも増大しなかった。そうした人の追求は熱くも冷たくもない。自分の信仰をあきらめるとは言わなかったが、すべてを神に捧げることもなかった。神を本当に愛したことも、従ったこともなかった。彼らの神への信仰は本物と偽物の混合であり、片目を開き、もう片方を閉じたまま対処し、信仰を実践することに熱心ではなかった。このような困惑した状態を続け、最終的には混乱したまま死んだ。こんなことをして何の意味があるのか。今日、実際的な神を信じるには、正しい道を歩まなければならない。神を信じるなら、祝福を求めるだけでなく、神を愛し、神を知るべきである。神の啓きを通して、自己による追求を通して、神の言葉を飲み食いし、神についての真の認識を育て、心の底から真に神を愛することができる。言い換えれば、神への愛がまことに真実なもので、神への愛を誰も破壊したり邪魔したりすることができないとき、あなたは神を信じる正しい道を進んでいる。これは、あなたが神に属していることを証明する。なぜならあなたの心はすでに神が所有し、それ以外はあなたを所有できないからである。経験を通して、払った代償を通して、神の働きを通して、あなたは神への不断の愛を育てることができる。そうすれば、あなたはサタンの影響から解放され、神の言葉の光の中に生きるようになる。闇の影響から自由になって初めて、あなたは神を得たと言うことができる。あなたは、神の信仰において、この目標を追求しなければならない。これは、あなたがた一人一人の本分である。あなたがたは一人として現状に満足するべきではない。あなたは神の働きに対して迷うことはできないし、それを軽視することもできない。あらゆる点において、常に神を思い、何をするにも神のために行わなければならない。そして、話したり行動したりするときはいつでも、神の家の利益を優先すべきである。そうしてはじめて、神の心に叶うことができる。

『神の出現と働き』「神を信じるなら真理のために生きるべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 394

神の信仰において、人の最大の欠点は、言葉でしか信じないことであり、日常生活に神が完全に不在であることである。実際、人はみな神の存在を信じるが、神は日常生活の一部になっていない。人は口で神に多くの祈りを捧げるが、心に神の居場所はほとんどないので、神は何度も人を試す。人は不純であるため、人がこうした試練の中で恥ずかしく思い、自己を知ることができるように、神は人を試すしかない。そうでなければ、人類は大天使の子孫に姿を変え、ますます堕落するであろう。神の信仰の過程では、神の絶え間ない浄化の下で、人はそれぞれの個人的な意図や目的の多くを捨て去る。そうでなければ、神は誰かを使うことも、神が為すべき働きを人において為すこともない。神はまず人を清め、この過程を通して、人は自身を知るようになり、神が人を変えることがある。そうしてはじめて、神はそのいのちを人に注ぎ入れ、そうすることでのみ、人の心は完全に神に向けられる。だから、神を信じることは人が言うほど単純ではないとわたしは言うのである。神の視点からは、あなたに認識はあっても神の言葉をいのちとしていなければ、そして自分の認識だけに制限され、真理を実践することも神の言葉を生きることもできないなら、それはやはりあなたに神を愛する心がないことの証明であり、あなたの心が神のものではないことを示している。人は神を信じることで神を知ることができる。これが最終的な目標であり、人が追求するべき目標である。あなたの実践において神の言葉が実を結ぶように、神の言葉を生きる努力をしなければならない。教義的な認識しかなければ、あなたの神の信仰は無駄になる。あなたが神の言葉を実践し、神の言葉を生きる場合にのみ、信仰は完全で、神の心意に一致するとみなされる。この道では、多くの認識を語ることができる人は多いが、彼らが死ぬ時、その目は涙で溢れ、人生を無駄にし、高齢まで無用に生きたことを恨む。彼らは単に教義を理解しているだけで、真理を実践することも、神に証しをすることもできない。代わりに、あちこちをハチのように忙しく駆け回るだけで、死の寸前でようやく真の証しがないこと、神を全く知らないことを悟る。これでは手遅れではないか。なぜ今を生き、愛する真理を追い求めないのか。なぜ明日まで待つのか。人生において真理を求めて苦しむことも、真理を手に入れようとすることもないなら、今際の際に後悔したいということではないのか。もしそうなら、なぜ神を信じるのか。実際、ほんのわずかな努力をすれば、真理を実践し、それによって神を満足させることができる事柄は多くある。人の心が悪魔に取りつかれているからこそ、神のために行動することはできず、肉のために絶えず駆け回り、最終的に達成するものは何もない。このため、人は常に苦しみや困難に悩まされる。これはサタンによる責め苦ではないのか。これは肉の堕落ではないのか。あなたは調子のよいことを言って神をだまそうとするべきではない。むしろ、具体的な行動を取らなければならない。自分を欺くな。それに何の意味があるのか。自分の肉のために生き、利益と名声を得るために奮闘することで何を得ることができるのか。

『神の出現と働き』「神を信じるなら真理のために生きるべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 395

現在、あなたがたは神の民になることを追い求め、正しい道への全面的な入りを始めるべきである。神の民になることは、神の国の時代へ入ることを意味する。今日、あなたがたは神の国の訓練へと正式に入り始め、あなたがたの未来の生活は以前のように怠慢でいい加減なものではなくなる。以前のように生きるならば、神が求める基準に達することはできない。緊迫感がないのであれば、それはあなたに自分を改善する願望がなく、あなたの追求はまごつき混乱しており、あなたは神の旨を満足させられないことを示している。神の国の訓練に入ることは、神の民の生活を始めることを意味する。あなたはそうした訓練を受け入れる覚悟があるか。緊迫感をもつ覚悟があるか。神の鍛錬の下で生きる覚悟があるか。神の刑罰の下で生きる覚悟があるか。神の言葉があなたに臨み、あなたを試すとき、あなたはどう行動するのか。あらゆる事実に直面したとき、あなたは何をするのか。過去において、あなたはいのちに重点を置いていなかった。そして今日、あなたはいのち現実への入りに集中し、いのちの性質の変化を追い求めなければならない。それが神の国の民によって達成されなければならないことである。神の民である者はみないのちをもち、神の国の訓練を受け入れ、いのちの性質の変化を追い求めなければならない。それが神の国の民に対して神が求めることである。

神の国の民に対する神の要求は次のとおりである。

1.神が託す任務を受け入れなければならない。つまり、神による終わりの日の働きで語られた言葉をすべて受け入れなければならない。

2.神の国の訓練に入らなければならない。

3.自分の心が神によって感動することを追い求めなければならない。あなたの心が完全に神へと立ち返り、正常な霊的生活があれば、あなたは自由の領域で生きることになり、それは神の愛の配慮と加護のもとで生きることを意味する。神の配慮と加護のもとで生きて初めて、あなたは神のものになる。

4.神によって得られなければならない。

5.地上における神の栄光の顕示とならなければならない。

以上の五点があなたがたに託すわたしの任務である。わたしの言葉は神の民に向けて語られており、もしもあなたにこれらの任務を受け入れる気がないのであれば、わたしは強制しない。しかし、もしも誠実に受け入れるなら、あなたは神の旨を行なうことができる。今日、あなたがたは神が託す任務を受け入れ始め、神の国の民になること、そして神の国の民であるために求められる基準に達することを追い求める。これが入りの第一歩である。神の旨を完全に行なうことを望むなら、これら五つの任務を受け入れなければならず、これらを達成することができれば、あなたは神の心にかない、神は必ずやあなたを大いに用いるだろう。今日重要なことは、神の国の訓練に入ることである。神の国の訓練への入りには、霊的生活が関わっている。これまで、霊的生活について語られたことはなかったが、今日、神の国の訓練に入り始める中、あなたは霊的生活へと正式に入ることになる。

『神の出現と働き』「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 396

霊的生活とはどのような生活なのか。霊的生活とは、あなたの心が神へと完全に立ち返り、神の愛に思いを馳せることができる生活である。それは神の言葉の中で生きる生活であり、心を占めるものは他になく、今日の神の旨を把握することができ、そして自分の本分を尽くすべく、今日の聖霊の光によって導かれる生活である。人と神とのそのような生活こそが霊的生活である。もしも今日の光に従うことができなければ、神との関係において距離が開いたのであり、関係が絶たれたことさえあり得る。そして、あなたには正常な霊的生活がないのである。神との正常な関係は、今日の神の言葉を受け入れるという基盤の上に築かれる。あなたには正常な霊的生活があるのか。神との正常な関係があるのか。あなたは聖霊の働きに従う人なのか。今日の聖霊の光に従うことができ、神の言葉の中にある神の旨を把握し、これらの言葉に入ることができるなら、あなたは聖霊の流れに従う人である。聖霊の流れに従わなければ、あなたは間違いなく真理を追求しない人である。自分を改善する願望がない人の中で聖霊が働く機会はなく、その結果、そうした人たちは決して力を奮い起こせず、常に消極的である。今日、あなたは聖霊の流れに従っているか。聖霊の流れの中にいるか。消極的な状態から脱したか。神の言葉を信じる人、神の働きを基盤とする人、今日の聖霊の光に従う人はみな聖霊の流れの中にいる。神の言葉は疑問の余地なく真実で正しいと信じるなら、そして神が何を言おうとその言葉を信じるなら、あなたは神の働きへの入りを追い求める人であり、このようにして神の旨を成就させる。

聖霊の流れに入るには、神との正常な関係をもたなければならず、まずは消極的な状態から抜け出さなければならない。常に群衆に従い、心が神からあまりに遠く離れた人がいる。そのような人には自分を改善したいという願望がなく、追い求める基準はあまりに低い。神を愛し、神に得られるのを追い求めることだけが神の旨である。自分の良心だけを使って神の愛に報いようとする人もいるが、それでは神の旨を満たせない。追い求める基準が高ければ高いほど、よりいっそう神の旨にかなう。正常な人、神への愛を追い求める人として、神の国に入って神の民の一人になることは、あなたがたの真の未来であり、それはこの上ない価値と意義をもつ人生であって、あなたがた以上に祝福されている人はいない。なぜわたしはそう言うのか。それは、神を信じない人は肉のために生き、サタンのために生きているが、今日あなたがたは神のために生き、神の旨を行なうために生きているからである。あなたがたの人生にはこの上ない意義があるとわたしが言うのはそのためである。神によって選ばれたこの人々の集団だけが、この上なく有意義な人生を生きることができる。地上の誰もそのような価値と意義のある人生を生きることはできない。神に選ばれ、神に引き上げられているために、またそれ以上に、あなたがたに対する神の愛ゆえに、あなたがたは真の人生を把握しており、この上なく有意義な人生をどう生きるかを知っている。これはあなたがたの追求が優れているからではなく、神の恵みのためである。あなたがたの霊の目を開いたのは神であり、あなたがたの心を感動させ、神の前に出るという幸運を与えたのは神の霊だった。神の霊があなたがたを啓いていなければ、あなたがたは神のどこが美しいかがわからず、神を愛することもできないだろう。人々の心が神へと立ち返ったのは、ひとえに神の霊が彼らの心を感動させたからである。神の言葉を享受しているとき、あなたの霊が感動し、自分は神を愛さないわけにはいかない、あるいは自分の中に大きな力があり、自分に捨てられないものは何もないと感じることがある。このように感じるならば、あなたは神の霊によって感動し、心が神へと完全に立ち返ったのである。そしてあなたは神に祈り、このように言うだろう。「神よ。わたしたちは本当にあなたによって予定され、選ばれました。あなたの栄光はわたしに誇りを与え、自分が神の民の一人であることを光栄に感じさせます。わたしはあらゆるものを費やし、あらゆるものを捧げてあなたの御旨を行ない、わたしのすべての年月と一生の努力をあなたに献上します」。このように祈るとき、あなたの心には神への果てしない愛と真の服従がある。あなたはこのような経験をしたことがあるか。神の霊によって頻繁に感動すると、人は祈りの中で特に進んで自分を神に捧げようとする。「神よ、わたしはあなたの栄光の日を見ること、あなたのために生きることを望みます。あなたのために生きること以上に価値や意義のあることはなく、サタンや肉のために生きたいという願望は少しもありません。今日あなたのために生きられるようにしてくださることで、あなたはわたしを引き上げてくださいます」。このように祈るとき、自分は神に心を捧げずにはいられず、神を得なければならず、生きている間に神を得ないまま死ぬのは耐えられないと感じるだろう。そのような祈りを唱えると、あなたの中には尽きせぬ力があり、あなたはその力がどこから来るのかわからない。あなたの心の中には無限の力があり、神はとても美しく、愛する価値があるという感覚をもつ。神によって感動するとこのようになる。こうした経験をした人はみな神によって感動したのである。神によって頻繁に感動する人には、いのちに変化が起こる。彼らは決意することができ、自ら進んで完全に神を得ようとする。心の中で神への愛がさらに強くなり、心は完全に神へと立ち返り、家族、世間、複雑な人間関係、そして自分の未来を顧みることがなくなり、一生の努力を神に捧げようとする。神の霊によって感動した人はみな真理を追い求める人であり、神によって完全にされる希望をもつ人である。

『神の出現と働き』「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 397

神に従う中で最も重要なのは、すべては神の現在の言葉に拠らねばならないということである。いのちへの入りを追い求めているのであれ、神の旨を成就させることを追い求めているのであれ、すべては神の現在の言葉を中心にしなければならない。あなたが交わり、そして追い求めるものが神の現在の言葉を中心にしていなければ、あなたは神の言葉を知らない人であり、聖霊の働きを完全に失っている。神が望むのは神の歩みに従う人である。あなたが以前に理解したことがどれほど素晴らしく、また純粋なものであっても、神はそれを望んでおらず、あなたがそうしたことを脇へのけられないなら、それは将来におけるあなたの入りにとって大きな障害になるだろう。聖霊の現在の光に従える人はみな祝福されている。過去の人々も神の歩みに従ったが、今日まで従うことはできなかった。これは終わりの日の人々の祝福である。神が自分をどこへ導こうともそれに付き従うほど、聖霊の現在の働きと神の歩みに従える人たちは、神に祝福される人である。聖霊の現在の働きに従わない人たちは神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど駆け回ろうとも、そのどれも神には意味がなく、神はそうした人を賞賛しない。今日、神の現在の言葉に従う人はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人は聖霊の流れの外にあり、そのような人は神に賞賛されない。聖霊が現在発する言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、それが神の旨にかなうのは不可能である。宗教的観念の中で生きるなら、その人は神の旨にかなうことを何一つ行なえず、たとえ神に奉仕しても、それは想像や観念の中での奉仕であり、神の旨に従う形で奉仕することはまったくできない。聖霊の働きに従えない人は神の旨を理解せず、神の旨を理解しない人は神に奉仕できない。神は自身の旨にかなう奉仕を望んでおり、観念や肉の奉仕を望まない。聖霊の働きの歩みに従うことができないのであれば、その人は観念の中で生きている。そのような人の奉仕は妨害と混乱を引き起こし、そのような奉仕は神に真っ向から反している。そのため、神の歩みに従えない人は神に奉仕することができない。神の歩みに従えない人は間違いなく神に逆らっており、神と相容れることができない。「聖霊の働きに従う」とは、今日の神の旨を理解し、神の現在の要求に従う形で行動すること、今日の神に服従して付き従うことができ、神が発する最新の言葉に従う形でいのちに入ることを意味する。聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいるのはそうした人だけである。そのような人は神の賞賛を受け、神を目の当たりにできるばかりでなく、神の最新の働きから神の性質を知ることができ、そして人の観念や不従順、人の本性と実質を神の最新の働きから知ることもできる。さらに、奉仕する中で自分の性質を徐々に変えることができる。このような人だけが神を得ることができ、真の道を本当に見つけた人である。聖霊の働きによって淘汰される人は、神の最新の働きに従うことができず、神の最新の働きに反逆する人である。そのような人が公然と神に反対するのは、神がすでに新しい働きを行ない、神の姿が彼らの観念の中にあるものと同じではないからである。その結果、公然と神に反対し、神について判断を下し、そのため神は彼らを嫌悪し、拒絶する。神の最新の働きについて認識をもつのは簡単なことではないが、神の働きに従い、神の働きを求める心構えがあれば、その人は神を見、聖霊の最新の導きを得る機会に恵まれるだろう。神の働きにわざと反対する人は、聖霊の啓きや神の導きを受けられない。そのため、神の最新の働きを受けられるか否かは、神の恵みと、その人の追求と、その人の意図にかかっている。

『神の出現と働き』「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 398

聖霊が現在発する言葉に従える人はみな祝福されている。そのような人が過去どうであったか、聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない。神の最新の働きを得た人は最も祝福され、今日の最新の働きに従えない人は淘汰される。神は新しい光を受け入れられる人を望んでおり、神の最新の働きを受け入れ、それを知る人を求めている。貞節な乙女でなければならないと言われるのはなぜか。貞節な乙女は聖霊の働きを求め、新たな物事を理解することができ、さらには、古い観念を脇へのけて今日の神の働きに従うことができる。今日の最新の働きを受け入れるこの人々の集団は、神によってはるか昔に予定された人たちであり、人々のなかで最も祝福されている。あなたがたは神の声を直接聞き、神の出現を目の当たりにするので、天地を通じて、時代を通じて、あなたがた、つまりこの集団以上に祝福された人はいない。これはすべて神の働きの故であり、神の予定と選択の故であり、また神の恵みの故である。もしも神が語らず、言葉を発しなかったなら、あなたがたの状況は今日のようであり得ただろうか。それゆえ、神にすべての栄光と賛美あれ。これはひとえに神があなたがたを引き上げるからである。これらのことを念頭に置くなら、依然として消極的でいられるだろうか。力を奮い起こすことがいまだにできないだろうか。

神の言葉の裁き、刑罰、打撃、そして精錬を受け入れることができ、またそれ以上に、神が託す任務を受け入れられることは、はるか昔に神が予め定めたことなので、刑罰を受けるときはあまり悲嘆してはならない。あなたがたの中でなされた働き、あなたがたに授けられた祝福、そしてあなたがたに与えられたすべてのものを取り去ることは誰にもできない。宗教の人々はあなたがたとの比較に耐えられない。あなたがたには聖書に関する偉大な専門知識がなく、宗教理論もないが、神があなたがたの中で働いたので、過去の時代の誰よりも多くのものを得た。つまり、これがあなたがたの最大の祝福である。そのため、あなたがたは神に対してさらに献身的でなければならず、よりいっそう神に忠実でなければならない。神があなたを引き上げるので、あなたはますます努力せねばならず、霊的背丈を整えて神が託す任務を受け入れなければならない。神から与えられた場所にしっかり立ち、神の民の一人になることを追い求め、神の国の訓練を受け入れ、神によって得られ、最終的には神への栄光の証しとならねばならない。あなたにその決意があるのか。このような決意があれば、あなたは最後に間違いなく神によって得られ、神への栄光の証しとなるだろう。託されたおもな任務は神によって得られること、そして神への栄光の証しになることだと、あなたは理解しなければならない。それが神の旨である。

『神の出現と働き』「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 399

聖霊の現在の言葉は聖霊の働きの動きであり、この期間に聖霊が絶えず人を啓くことこそ、聖霊の働きの動向である。では、今日における聖霊の働きの動向はどういったものか。それは民を神の現在の働きへと導くこと、正常な霊的生活へと導くことである。正常な霊的生活に入るにはいくつかの段階がある。

1.まず、神の言葉に自分の心を注がねばならない。過去の神の言葉を追い求めてはならず、それを研究したり今日の言葉と比較したりしてはならない。その代わり、神の現在の言葉に心を完全に注がねばならない。過去の神の言葉、霊的書物、あるいは説教の記録を読むことを依然として望み、聖霊の現在の言葉に従わない人がいれば、それは最も愚かな人である。神はそのような人を忌み嫌う。今日の聖霊の光を進んで受け入れようとするなら、神が現在発する言葉に心を完全に注ぐこと。これが最初に成し遂げなければならないことである。

2.神が現在語る言葉を基礎として祈り、神の言葉に入り、神と親しく交わり、神の前で決意し、自分がどのような基準を達成したいのかを定めなければならない。

3.聖霊の現在の働きを基礎として、真理に深く入ることを追求しなければならない。過去の時代遅れの発言や理論に執着してはいけない。

4.聖霊によって感動することを求め、神の言葉に入らなければならない。

5.今日聖霊が歩む道へ入ることを追求しなければならない。

聖霊によって感動することをどのように求めるのか。重要なことは神の現在の言葉の中で生き、神の要求を基に祈ることである。このように祈れば、聖霊は必ずやあなたを感動させる。神が現在語る言葉を基礎として求めないなら、それは無益である。あなたはこう言って祈るべきである。「神よ。わたしはあなたに逆らい、あなたに多くの借りがあります。わたしは大変不従順であり、あなたに満足していただくことがどうしてもできません。神よ。どうかわたしをお救いください。わたしは最後まであなたに奉仕することを願い、あなたのために死ぬことを望みます。あなたはわたしを裁き、罰しますが、わたしに不満はありません。わたしはあなたに逆らっているので、死に値します。そうなれば、すべての人がわたしの死の中にあなたの義なる性質を見ることができるでしょう」。このように心から祈るとき、神はあなたの言葉を聞き、あなたを導く。聖霊の現在の言葉を基に祈らないなら、聖霊があなたを感動させる可能性はない。神の旨に従って祈り、神が今日行おうと望むことに従って祈るなら、あなたはこのように言うだろう。「神よ。わたしはあなたが託される任務を受け入れ、あなたが託される任務に忠実であることを望みます。そして、自分の一生を喜んであなたの栄光に捧げるつもりですが、そうすることで、わたしの行なう一切のことが神の民の基準に到達できます。わたしの心があなたによって感動しますように。あなたの霊がいつまでもわたしを照らし、わたしの行なうすべてのことがサタンに恥をもたらし、わたしが最後にあなたのものとされることを望みます」。あなたがこのように祈れば、つまり神の旨を中心とする形で祈れば、聖霊は必ずやあなたの中で働く。祈りの言葉がどれほど長いかは問題ではない。重要なのは、あなたが神の旨を把握するかどうかである。あなたがたはみな次のような経験をしたことがあるかもしれない。集会で祈っているさなかに聖霊の働きの動きが頂点に達し、すべての人の力を湧き上がらせることがある。祈りながら悲痛な泣き声とともに涙を流し、神の前で良心の呵責に圧倒される人もいれば、自分の決意を示し、誓いを立てる人もいる。これが聖霊の働きによって達成される効果である。今日、すべての人が自分の心を完全に神の言葉に注ぐことが重要である。過去に語られた言葉に集中してはならない。以前来たものに依然としてしがみつくなら、聖霊があなたの中で働くことはないだろう。これがいかに重要か、あなたはわかっているのか。

聖霊が今日歩く道をあなたがたは知っているのか。上に挙げたいくつかの点は、現在と将来において、聖霊によって達成されることである。それらは聖霊が歩く道であり、人が追求すべき入りである。いのちに入るとき、少なくとも神の言葉に心を注ぎ、神の言葉の裁きと刑罰を受け入れることができなければならない。心は神を切望せねばならず、真理への深い入りと神が要求する目標を追い求めなければならない。あなたにその力があるならば、それはあなたが神によって感動し、あなたの心が神に立ち返り始めたことを示している。

いのちへの入りの第一歩は、神の言葉に自分の心を完全に注ぐことである。その次の一歩は、聖霊によって感動することを受け入れることである。聖霊によって感動することを受け入れると、どのような効果が生まれるのか。それは、より深遠な真理を渇望し、求め、探求できるようになること、そして積極的なやり方で神と協力できるようになることである。今日、あなたは神と協力する。それはつまり、あなたの追求と祈り、そして神の言葉の交わりには目的があり、あなたは神の要求に従う形で本分を尽くすということである。神との協力はそれ以外にない。神に行動させることについて語るだけで、何の行動も起こさず、祈りも求めもしないのであれば、これは協力と呼べるだろうか。あなたの中に協力というものが少しもなく、目的をもって入りの訓練をしないなら、あなたは協力していない。「すべては神の予定次第です。すべては神自身によってなされます。神がなさらないのであれば、どうして人にできますか」という人がいる。神の働きは正常であり、まったく超自然的なものではなく、あなたが積極的に求めて初めて、聖霊は働きを行なう。なぜなら、神が人に強制することはないからである。あなたは神に働きを行なう機会を与えなければならない。あなたが追い求めることも入ることもせず、心にほんのわずかな渇望もなければ、神に働きを行なう機会はない。あなたはどの道を通じて、神によって感動することを求められるのか。祈りを通じて、そして神に近づくことを通じてである。しかし憶えておきなさい。最も重要なのは、神の語る言葉を基にしなければならないということである。神によって頻繁に感動するなら、あなたが肉の奴隷になることはない。夫、妻、子供、そして金といったものは、どれもあなたを縛ることができず、あなたはただ真理を追求し、神の前で生きることを望む。その時、あなたは自由の領域で生きる人になるだろう。

『神の出現と働き』「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 400

神は人間を完全にすると決意しており、どの視点から語るにせよ、すべては人々を完全にするためである。霊の視点から語られる言葉は人間には理解し難く、人間は理解能力が限られているため、実践のための道を見つける方法がない。神の働きはさまざまな成果を達成するものであり、神は常に目的を持って働きのそれぞれの段階を行っている。さらに神はさまざまな視点から語ることが不可欠であり、そうすることによってのみ、人間を完全にすることができる。もし神が霊の視点からのみ声を発するなら、働きのこの段階を完了することはできないであろう。神が語る口調から、神がこの人々を完全にすると決めていることがわかる。では、神に完全にされることを望む一人一人にとって、とるべき最初の一歩は何だろうか。まず何よりも、神の働きを知らなければならない。今日では新しい方法が神の働きに導入され、時代は推移し、神の働き方も変わり、神の話し方も異なっている。現在は神の働きの方法が変わっただけでなく、時代も変わっている。今は神の国の時代であり、そして神を愛する時代でもある。これは千年神の国の時代の先駆けであり、千年神の国の時代は言葉の時代でもある。言葉の時代、神は多くの方法で語って人間を完全にし、さまざまな視点から語って人間に施す。時代が千年神の国の時代に移行すると、神は言葉を用いて人間を完全にし始め、人間がいのち現実に入れるようにするとともに、人間を正しい軌道へと導く。人間は神の働きの多くの段階を経験した結果、神の働きが不変ではなく、絶えず発展し深化することを目にしてきた。人々がこれほど長い間経験してきた働きは、繰り返し展開され、何度も変化してきた。しかしどれほど変化しようとも、人間に救いをもたらすという神の目的からその働きが逸れることは一切なく、一万回の変化を経ようとも、元来の目的から外れることは決してない。神の働きの方法がどのように変化しようと、その働きが真理やいのちから離れることは一切ない。働きが行われる方法の変化は、ただ働きの形式や神が語る視点の変化でしかなく、神の働きの中心的目的に変化があるわけではない。神の口調や働きの方法の変化は、特定の効果を得るために行われる。口調の変化は、働きの背後にある目的や原則の変化を意味するものではない。人間が神を信じるおもな目的はいのちを追い求めることであり、もし神を信じていながらいのちを求めもせず、真理や神の認識を追求もしないのなら、それは神への信仰ではない。それでも神の国に入り王になることを望むのは、現実的なことだろうか。いのちの追求を通して神への真の愛を達成する、このことのみが現実である。真理の追求と実践は、すべて現実である。神の言葉を読み、その言葉を経験することで、あなたは現実の経験の中で神の認識を得るようになる。それこそが、真に追求するということの意味なのである。

『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 401

今は神の国の時代である。あなたがこの新たな時代に入っているかどうかは、あなたが神の言葉の現実に入っているかどうか、そして神の言葉があなたのいのち現実となっているかどうかによる。神の言葉がすべての人に知らされているのは、最終的にすべての人が神の言葉の世界に生きるようになり、神の言葉が一人一人を内から啓き、照らすようになるためである。もしこの期間にあなたが不注意に神の言葉を読み、神の言葉にまったく関心を持たなければ、それはあなたの状態が間違っていることを示している。あなたが言葉の時代に入れないなら、聖霊はあなたの中で働きを行わない。もしあなたがこの時代に入っているのなら、聖霊はその働きを行う。言葉の時代が始まる今、聖霊の働きを得るためには何ができるだろうか。この時代、神はあなたがたのもとで次のような事実を実現する。つまり、一人一人が神の言葉を生き、真理を実践できるようになり、誠実に神を愛するようになる。そしてすべての人々が、神の言葉を基盤かつ自身の現実として用い、神を敬い畏れる心を持つようになる。さらに神の言葉の実践をとおして、人間が神とともに王のような力を振るうようになるのである。これが、神によって達成される働きである。あなたは神の言葉を読まずに生きることができるだろうか。現在、神の言葉を読まずには一日や二日も生きられないと感じる人々が大勢いる。彼らは神の言葉を毎日読まずにはいられず、時間がないときには代わりにそれを聴く。これは聖霊が人々に与える感情であり、人々を動かし始めるときのやり方である。つまり神は言葉をとおして人間を統治し、人間が神の言葉の現実に入れるようにするのである。もし、一日だけ神の言葉を飲み食いしなかった後、闇と渇きを感じ、それに耐えられないと感じたなら、それはあなたが聖霊によって動かされており、聖霊があなたから離れていないことを意味する。そうであれば、あなたはこの流れの中にいる。しかし神の言葉を飲み食いせずに一日か二日経った後、何も感じず、渇きもなく、まったく動かされていないなら、それは聖霊があなたから離れてしまったことを意味する。そうであれば、それはあなたの内面状態の何かが間違っているということであり、あなたは言葉の時代に入っておらず、遅れをとったのである。神は言葉を用いて人間を統治する。あなたは神の言葉を飲み食いすれば気分が良くなり、それをしなければ、たどるべき道がなくなる。神の言葉は人間の食物となり、人間を動かす力となる。聖書には「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイによる福音書 4:4)とある。今日、神はこの働きを完成させ、あなたがたの中でこの事実を成就させる。なぜ、過去の人々は神の言葉を何日間も読まなくても普通に食べて働くことができたが、今はそうではないのだろうか。この時代、神はおもに言葉を用いてすべてを統治する。神の言葉を通して人間は裁かれ、完全にされ、そして最終的には神の国へと導かれる。神の言葉だけが人間にいのちをもたらし、神の言葉だけが人間に光と実践の道を与えることができる。これはとりわけ神の国の時代における事実である。あなたが神の言葉の現実から離れず、毎日神の言葉を飲み食いしている限り、神はあなたを完全にすることができるだろう。

『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 402

いのちの探求は焦って成し遂げられることではない。いのちの成長は、一日や二日で起こるものではないのである。神の働きは普通で実際的であり、たどらねばならない過程がある。受肉したイエスが十字架の働きを完了するには、三十三年半を要した。では人間を清め、人間のいのちを変化させるという、最も困難な働きはどうだろうか。これは極めて困難な働きである。神を体現する普通の人間を作るのは、容易な業ではない。これは赤い大きな竜の国で生まれた人々についてはなおさらで、彼らは素質に乏しく、長期間の神の言葉と働きを必要とする。だから、結果を見るのを急いではならない。あなたはただ積極的に神の言葉を飲み食いし、神の言葉にもっと努力を注がなければならない。神の言葉を読み終えたら、それを実践に移し、神の言葉における認識、識見、識別、知恵を増やすことができなければならない。それを通して、あなたは知らぬ間に変わっていく。神の言葉を飲み食いし、それを読み、知り、経験し、実践することを自分の原則として取り入れることができれば、あなたは知らないうちに成熟していく。中には、神の言葉を読んでもそれを実践できないと言う者もいる。何を急いでいるのか。ある程度の霊的背丈に達すれば、神の言葉を実践できるようになる。四、五歳の子供が、両親を養ったり敬ったりできないなどと言うだろうか。あなたは自分の現在の霊的背丈を知るべきだ。実践できることを実践し、神の経営を妨げる者とならないようにしなさい。ただ神の言葉を飲み食いし、それを今後の自分の原則としなさい。当面は、神があなたを完全にしてくれるかどうかと心配してはならない。まだそのことは深く考えず、ただ自分のもとに来た神の言葉を飲み食いしていれば、必ずや神はあなたを完全にしてくれるだろう。ただし神の言葉を飲み食いするときには、従うべき原則がある。それをむやみに行ってはならない。神の言葉を飲み食いするにあたっては、一方で自分が知るべき言葉、つまりビジョンに関連する言葉を探し求め、他方では実際の実践に移すべきこと、つまり自分が入っていくべきことを探し求めなさい。一方の側面は認識に関連しており、もう一つの側面は入りに関連している。ひとたびこの両面を把握すれば、つまり自分が知るべきことと実践すべきことを把握できれば、神の言葉をどのように飲み食いすべきかがわかるようになるだろう。

『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 403

いずれは神の言葉について語ることが、あなたが話すときの原則になる。あなたがたが集まるときは通常、神の言葉についての交わりを持ち、神の言葉を交流の内容とし、それらの言葉について知っていること、それをどのように実践するか、そして聖霊がどのように働くかについて話し合いなさい。神の言葉について交わりを持っている限り、聖霊はあなたを照らすだろう。神の言葉の世界を実現するには、人間の協力が必要になる。あなたがこれに入っていかなければ、神は働くことができない。あなたが口を閉ざしたまま、神の言葉について語らなければ、神はあなたを照らすことができない。他のことに従事していないときはいつでも、神の言葉について話し、無駄なおしゃべりをしないようにしなさい。日々の生活を神の言葉で満たしたとき、初めてあなたは敬虔な信者となる。あなたの交わりが表面的なものであっても、それは問題ではない。表面なしに深みもありえないからだ。過程というものが必要なのだ。あなたは訓練を通して、自分に対する聖霊の照らしを把握し、神の言葉を効果的に飲み食いするにはどうするべきかを知るのである。しばらくの手探りの後、あなたは神の言葉の現実に入ることになる。協力する決意をして初めて、聖霊の働きを受けることができるのだ。

神の言葉を飲み食いする原則の一つは認識に関連し、もう一つは入りに関連している。まず、どのような言葉を知るべきか。それはビジョンに関連する言葉である(神の働きが今どの時代に入ったか、神が今何を成し遂げようとしているか、受肉とは何か、その他のことに関連する言葉は、みなビジョンと関連している)。人間が入るべき道とは何を意味しているのか。それは人間が実践し、入るべき神の言葉を意味している。これが、神の言葉を飲み食いすることの二つの側面である。これからは、このように神の言葉を飲み食いしなさい。ビジョンに関する神の言葉を明確に理解しているなら、絶えずそれを読み返す必要はない。最も重要なのは、どのように心を神に向けるべきか、どのように神の前で心を静めるべきか、どのように肉に背くべきかといった、入りに関する言葉をさらに飲み食いすることである。これらはあなたが実践すべき事柄である。どのように神の言葉を飲み食いするべきかを知らなければ、真の交わりは不可能である。ひとたび神の言葉をいかに飲み食いすべきかを知り、何が鍵なのかを把握できれば、交わりは自由なものとなり、どのような問題が提起されても、それについて話し合い、現実を把握することができるようになる。神の言葉について交わりを持つとき、現実を持っていないのなら、それは何が鍵かを把握していないからであり、あなたが神の言葉をどのように飲み食いすべきかを知らないことを意味している。中には神の言葉を読んでうんざりする人もいるかもしれないが、それは正常な状態ではない。正常な状態とは、神の言葉を決して読み飽きることなく、常に神の言葉を渇望し、常にそれを良いものと感じることである。これが、真に入りを成し遂げた人が神の言葉を飲み食いするやり方である。神の言葉を非常に実際的でまさに人間が入るべきものだと感じ、その言葉を極めて役に立つ人間に有益ないのちの糧であると感じるとき、その感情を与えているのは聖霊であり、聖霊があなたを動かしているのである。これは聖霊があなたの中で働いており、神があなたから離れていないことを証明している。中には神がいつも語っているのを見て、神の言葉に飽き、それを読んでも読まなくても大したことではないと考える人もいるが、それは正常な状態ではない。彼らには現実に入ることを渇望する心がなく、このような人々は完全にされることを渇望も重要視もしていない。自分が神の言葉に渇いていないと気づいたときはいつでも、あなたが正常な状態でないことを示している。昔は神が自分から離れたかどうかは、自分の内面が穏やかであるか、喜びを感じているかどうかで判断することができた。今では、鍵となるのは神の言葉に渇きを覚えるか、神の言葉が自分の現実となっているか、自分が忠実か、そして神のためにできることをすべて行えるかということである。言い換えれば、人間は神の言葉の現実によって判断されるのだ。神はその言葉を全人類に向けている。それを読む気があるなら、神はあなたを啓いてくれるが、そうでないなら神に啓かれることはない。神は義に飢え渇く人々と、自らを探し求める人々に啓きを与える。中には、神の言葉を読んでも神からの啓きが与えられなかったという人々もいる。しかし、その言葉をどのように読んだのか。もし乗馬しながら花に目をやる人のように神の言葉を読み、現実を一切重視しなかったなら、どうやって神があなたを啓けるだろうか。神の言葉を大切にしない者が、どうして神に完全にされることができるだろうか。神の言葉を大切にしないなら、あなたは真理も現実も得ることはない。神の言葉を大切にすれば、真理を実践することができ、そうして初めて現実を得ることになる。そのため、忙しいかどうか、逆境にあるかどうか、試練の最中にあるかどうかにかかわらず、いつも神の言葉を飲み食いしなければならないのである。結局のところ、神の言葉は人間の生存の基盤である。誰一人として神の言葉から離れることはできず、三度の食事のように神の言葉を食べなければならない。神に完全にされ、神のものとされることが、そんなに簡単でありうるだろうか。現在あなたが理解しているかどうか、神の働きを見抜いているかどうかにかかわらず、できるだけ多くの神の言葉を飲み食いしなければならない。それが積極的な入りというものである。神の言葉を読んだら、自分が入っていけることを急いで実践し、入っていけないことはとりあえず脇へ置いておきなさい。当初は神の言葉の多くが理解できないかもしれないが、二、三ヶ月後、あるいは一年後には理解できるようになる。なぜそのようになるのか。それは、神が人間を一日や二日で完全にすることはできないからである。神の言葉を読んでも、多くの場合すぐには理解できないかもしれない。その時点ではただの文章にしか見えないかもしれず、理解できるようになるには、ある程度の期間それを経験する必要がある。神は非常に多くを語っているので、あなたは神の言葉の飲み食いに最大限努めるべきであり、そうすることでいつの間にか理解できるようになり、いつの間にか聖霊があなたを啓くのである。聖霊が人を啓くとき、多くの場合人はそれに気づかない。聖霊があなたを啓き導くのは、あなたが渇き探し求めているときである。聖霊の働きの原則は、あなたが飲み食いする神の言葉を中心としている。神の言葉を一切重視せず、神の言葉に対して常に態度を変え、混乱した考えをもって、神の言葉を読むか読まないかなどどうでもいいと考えている人々は皆、現実を得ていないのである。そのような人の中には、聖霊の働きも聖霊による啓きも見ることができない。そのような人々はただ惰性で生きているのであり、ちょうど寓話の[a]南郭氏のように、真の資格を持たない偽善者なのである。

『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)

脚注

a. 原文に「寓話の」の語句は含まれていない。


日々の神の御言葉 抜粋 404

神の言葉が発せられたら、ただちにそれを受け取って飲み食いしなければならない。どれほど理解しているかにかかわらず、固守すべき一つの観点は、神の言葉を飲み食いし、知り、実践するということである。それが、あなたができなければならないことだ。自分の霊的背丈がどれほど立派になれるかについては気にせず、ただ神の言葉を飲み食いすることに集中しなさい。それが、人間が協力しなければならないことである。霊的生活とはおもに、神の言葉を飲み食いしそれを実践するという現実に入るよう努めることである。それ以外のことに集中する必要はない。教会の指導者はすべての兄弟姉妹を指導して、どのように神の言葉を飲み食いすべきかを伝えることができなければならない。これが一人一人の教会指導者の責任である。老若を問わず全員が神の言葉を飲み食いすることを重視し、神の言葉を心に留めなければならない。この現実に入ることは、神の国の時代に入ることを意味する。最近ではほとんどの人が、神の言葉を飲み食いせずには生きていけないと感じ、神の言葉はいつでも新鮮だと感じている。これは彼らが正しい軌道を歩み始めていることを意味する。神は言葉を使って働きを行い、人間を養う。すべての人が神の言葉を求め渇望するようになったとき、人類は神の言葉の世界に入ることになる。

神はこれまで非常に多くのことを語った。あなたはそれをどれくらい知り、どれくらい入ったのだろうか。教会指導者がその兄弟姉妹たちを神の言葉の現実へと導いていなければ、彼らはその本分をないがしろにし、責任を果たすことができなくなるのだ。あなたの理解が深かろうが浅かろうが、あるいはあなたの理解がどの程度かにかかわらず、神の言葉をどのように飲み食いすべきかは必ず知らなければならず、神の言葉に細心の注意を払い、それを飲み食いすることの重要性と必要性を理解しなければならない。神はすでに非常に多くのことを語っているので、神の言葉を飲み食いしなかったり、それを求めようとしなかったり、実践に移さなかったりするのなら、それは神の信仰とは言えない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を体験し、神の言葉を生きなければならない。それだけが神への信仰と呼べるのだ。口では神を信じると言いながら、神の言葉を一つも実践できていなかったり、何の現実も生み出せていなかったりするのなら、それは神への信仰とは言えない。それは単に、「飢えを満たすためにパンを求めている」だけだ。あなたが取るに足らない証しや役に立たない事柄、表面的な物事について話すだけで、現実を少しも得ていないなら、それは神への信仰ではなく、神を信じる正しい道をまったく把握していないことになる。なぜ神の言葉をできるだけ多く飲み食いしなければならないのか。神の言葉を飲み食いせずに、ただ天に昇ることだけを求めているのなら、それは神への信仰であろうか。神を信じる人が進むべき最初の一歩は何だろうか。神はどのような道によって人間を完全にするのだろうか。神の言葉を飲み食いせずに、人が完全にされることはできるだろうか。神の言葉を現実として持つことなく、神の国の民とみなされることができるだろうか。神への信仰とは、正確には何を意味するのか。神を信じる人々は、最低限として外見上よい振る舞いをしなければならず、何よりも重要なことは、神の言葉を持っていることである。何があろうとも、神の言葉から離れることはできない。神を知ること、神の心を満たすことは、すべて神の言葉を通して達成される。将来的にはすべての国、教派、宗教、領域が神の言葉を通して征服される。神は直接語りかけ、すべての人々は神の言葉をその手に抱き、それによって人類が完全にされる。内にも外にも、神の言葉はあらゆるところに行き渡る。人類は自らの口で神の言葉を語り、神の言葉にそって実践し、神の言葉を心の中に留め、内も外も神の言葉に満たされ続ける。このようにして人は完全にされる。神の心を満たし、神の証しをすることができる人々は、神の言葉を自身の現実としている人々なのである。

言葉の時代、つまり千年神の国の時代に入ることは、今日完了されつつある働きである。これからは、神の言葉についての交わりを持つ訓練をしなさい。神の言葉を飲み食いし、神の言葉を経験することによってのみ、あなたは神の言葉を生きることができる。他の人々を説得するには、いくらかの実践的経験を生み出さねばならない。神の言葉の現実を生きることができなければ、誰も説得することなどできない。神に用いられる者たちは皆、神の言葉の現実を生きることができる。この現実を生み出して神の証しをすることができないのなら、それは聖霊があなたの中で働いておらず、あなたが完全にされていないことを意味する。これが神の言葉の重要性である。あなたには神の言葉を渇望する心があるか。神の言葉を渇望する人々は、真理を渇望しており、そのような人々だけが神に祝福されている。将来的に、神はあらゆる宗教と教派に向けてさらに多くの言葉を語る。神はまずあなたがたの間で語り、声を出し、あなたがたを完全にしてから、次に異邦人の間で語り、声を出し、彼らを征服する。神の言葉を通して、すべての人が心から完全な確信を得る。神の言葉と暴露をとおして、人間の堕落した性質は弱まり、人は人間の姿を呈するようになって、反抗的な性質も弱くなる。言葉は権威をもって人間に働き、神の光の中で人間を征服する。神が現在の時代に行う働きも、またその働きの分岐点も、すべては神の言葉の中にある。神の言葉を読まなければ、何も理解することはできない。あなた自身が神の言葉を飲み食いし、兄弟姉妹との交わりに参加し、そして実際の体験を持つことで、神の言葉についての包括的な認識を得られるようになる。そのとき初めて、あなたは神の言葉の現実を真に生きられるようになるのである。

『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 405

わたしは以前「しるしや不思議を見ることを重視する者は、見捨てられるだろう。彼らは、完全にされる人たちではない」と言った。わたしは非常に多くの言葉を話してきたが、人はこの働きについての認識を微塵も持ち合わせない。そして、ここにいたっても、人は依然として、しるしや奇跡を求めている。あなたの神への信仰はしるしと不思議を見ることの追求でしかないのであろうか。それともいのちを獲得するためなのか。イエスも多くの言葉を話したが、その一部は今日まだ達成されていない。イエスは神ではないと言うことができるであろうか。神は、彼がキリストであり、神の愛する子であることを示した。あなたにこれを否定することができるのか。今日、神は言葉を話すだけである。そしてもし、あなたがこのことを完全に知らないなら、あなたはしっかりと立つことはできない。あなたは神であるという理由で神を信じるのか。あるいは神の言葉が成就されたかどうかにもとづいて、神を信じるのか。あなたは、しるしや奇跡を信じるのか。それとも神を信じるのか。今日、神はしるしや奇跡を示さない。それでもそれは本当に神なのか。もし、神が話す言葉が成就されないなら、それは本当に神なのか。神の実質は、神が話す言葉が成就したかどうかによって決められるのか。神を信じる前に神の言葉の成就をいつも待望している人がいるのは何故なのか。このことは、彼らが神を知らないということを意味しないのであろうか。このような観念をもつ人たちは、神を否定する人たちである。彼らは、神を評価するのに、自らが持つ観念を用いる。もし、神の言葉が成就するなら、彼らは神を信じ、もし言葉が成就しないなら、彼らは神を信じない。さらに、彼らは常にしるしや不思議を見ることを追求する。このような人は現代のパリサイ人ではないであろうか。あなたが堅く立つことができるかどうかは、あなたが真の神を知っているかどうかにかかっている。これは決定的に重要である。あなたの中で神の言葉の実在性が偉大であればあるほど、神の実在性に関するあなたの認識も偉大になり、あなたは試練の中でますます堅く立つことができるようになる。しるしや不思議を見ることを重視すればするほど、堅く立つことができなくなり、試練の中で躓く。しるしや不思議は、基礎ではない。神の実在のみがいのちである。一部の人たちは、神の働きによって達成されるべき効果を知らない。彼らは、神の働きについての認識を追求せず、当惑の中で日々を送っている。彼らが求めるのは、神に彼らの欲望を満たしてもらうことだけである。そうなってはじめて、彼らは自らの信仰において真摯になる。彼らは、もし神の言葉が成就するならいのちを追求するが、神の言葉が成就しないなら、いのちを追求する可能性はないと言う。人は、神への信仰は、しるしや不思議を見ることを追求することであり天国や第三の天まで引き上げられることを追求することであると考えている。神への信仰は、神の実在性に入って行こうとすること、いのちの追求、さらに神のものとされることの追求であると言う者は一人もいない。そのような追求における意味は何であろうか。神についての認識や神の満足を追求しない者は神を信じない者である。彼らは神を冒涜する者である。

今やあなたがたは、神への信仰とは何かを理解したであろうか。神への信仰は、しるしや不思議を見ることを意味するであろうか。それは天国に昇ることを意味するであろうか。神を信じることは簡単なことでは絶対にない。あのような宗教的慣行は、一掃されるべきである。病人の癒しや悪魔の追放を求めること、しるしや不思議を重視すること、神の恵みや平和や喜びをさらに欲しがること、明るい未来や肉の快楽を求めること、これらは宗教的慣行であり、そのような宗教的慣行は、漠然とした信仰の種類である。今日の実際の神への信仰とは何なのか。それは、神の真の愛を達成するために、神の言葉をあなたのいのち現実として受け入れることであり、神の言葉から神を知ることである。明確に言うならば、すなわち神への信仰は、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神の被造物によって為されるべき本分を遂行することに資するものである。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、造ったものの中で、神がいかに救いの働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、神への信仰における最低必要事項である。神への信仰はおもに、肉の生活から神を愛する生活への転換、堕落の中の生活から神の言葉のいのちにおける生活への転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰はおもに、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためのものである。その結果、あなたは、神の旨を行い、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンの前で神への証しとなることができるようになる。神への信仰は、しるしや不思議を見たいという願望を中心とせず、個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死ぬまで神に従うことを追求することでなければならない。これが、神への信仰の主要な目的である。神の言葉を飲み食いするのは、神を知るためであり、神を満足させるためである。神の言葉を飲み食いすることは、神についてのより大きな認識をもたらす。そうなってはじめて、あなたは神に従うことができる。神についての認識があってはじめて、あなたは神を愛することができ、そしてそれが、人が神への信仰において持つべき目標である。もし、神への信仰において、いつも、しるしや不思議を見ようとするなら、そのような神への信仰の考え方は間違っている。神への信仰とは、おもに、いのち現実として神の言葉を受け入れることである。神自身の口から出た言葉を実践し、あなた自身の内部でそれらの言葉を実行することでのみ、神の目的は達成される。神を信じることにおいて、人は神によって完全にされるように、神に服従することができるように、神に完全に従順でいられるように努力すべきである。もし不平もなく神に従うことができ、神の希望を心に留め、ペテロの霊的背丈に達し、そして神が言うところのペテロの流儀を所有するなら、それはあなたが神への信仰に成功したときであり、そしてそれは、あなたが神のものとされたことを意味するのである。

『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)

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